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毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2007/05/14(月) 06:19:06ID:jnNXqIUx
過去スレ
武田信玄>>毛利元就は定説です
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1159020720/
毛利元就>>武田信玄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/
0011人間七七四年2007/05/14(月) 14:36:13ID:kJXIvQP0
よりによってなぜ武田などと比較されんとならんのかorz
0012人間七七四年2007/05/14(月) 14:43:24ID:ALO9ylMR
武田厨の器の小ささは異常
0013人間七七四年2007/05/14(月) 15:53:30ID:ndCGag0w
他人のサイトから無断コピペする武田厨の手抜きぶりは異常
0014人間七七四年2007/05/14(月) 18:26:48ID:2dw7E+/a
信玄は無駄にあちこち荒らしまわっただけで何も残せなかった文字通り「甲斐の山猿」
無駄な人生だったね
0015仙台藩百姓2007/05/14(月) 18:33:55ID:5An23Mw7
信玄と元就は同程度の領土だし
同じ貧しい山岳部族
世継ぎはボンクラ 
似た者同士だおね( ^ω^)
0016人間七七四年2007/05/14(月) 18:36:31ID:jnNXqIUx
>>10
その場合
「信虎は最終的に息子(実際は家臣団の力だろうけれど)に追放された」
「信玄は最初に、親父が残した業績のお陰で恵まれたスタートを切れた」
という重大ポイントが曖昧になってしまいそうな懸念はある。

もっとも、道三だって親子二代説が、ほぼ確定した昨今
武田親子二代併せての業績と比較するのも面白いとは思うけど。
元就長生きだかんねー、70で子供作ってるしw

んでもって、実は信虎も、息子の信玄より長生きしてたりするんだよね。
自分を追放した息子に生活費を工面してもらっていた心境とは如何なるものか。
勝頼と対面して、自分が甲斐に戻れるよう願ったが受け入れられなかった話など
信虎の人生には、粗暴な性格ゆえに落ちぶれた英雄、という一言では片付けられない悲哀があって、なんとなく好きだ。
0017人間七七四年2007/05/14(月) 18:39:08ID:auBI0JiB
武田は甲斐源氏の名族だぞ。毛利も大江氏、古い家系…まあ>>15よりは名家だな。

源氏と大江氏の優劣を語る気はないからここで失礼
0018人間七七四年2007/05/14(月) 19:33:08ID:qKGUmz/7
信虎って、戦国武将のなかでは比較的に幸せな人生だったのだろうと思う。
自由気ままに?生きて。
武田の衰退を見ることもなかったわけで。
0019人間七七四年2007/05/14(月) 19:36:23ID:qyVkxlJK
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173969986/358
>358 名前: 人間七七四年 投稿日: 2007/04/02(月) 23:23:31 ID:zbV7RIL4
>「孫子の兵法」を国内で最も実践させた人物として後世まで伝えられる

誰もつっこまなかったんで俺が言うが、
毛利元就は「孫子」を読んでいたし、
信玄より深いレベルで実践してるんだが…
元就が「孫子」を読んでいたっていうのは、
奴の書状に「孫子」からの引用があるのでほぼ確実。
その引用した言葉こそが、かの有名な

 「謀多きは勝ち、少なきは負ける」

で、この言葉は「孫子」のキモ「戦わずして勝つ」に非常に近い。
元就が謀将と化したのは孫子を実践しまくった所為とも言える。

翻って、信玄が引用した言葉って「風林火山」だろ。
「記録より、記憶に残る」を念頭に置いたスローガンだな。

 
まぁかく言う俺は、尼子晴久派なんだが(w
0020人間七七四年2007/05/14(月) 19:38:29ID:IvoZIdoZ
>>この言葉は「孫子」のキモ「戦わずして勝つ」に非常に近い。
でも実際は生涯戦歴226戦で多分戦国時代最多の戦闘回数。
0021人間七七四年2007/05/14(月) 19:47:51ID:i0nJ9Cr1
>>19
算多きは勝ち・少なきは負けるじゃなかったけ?

晩年はどうかしらんが、若い頃は孫子は家に置いてない確率のが高いと思うけどな。
0022人間七七四年2007/05/14(月) 19:56:01ID:4uPg787C
>>20
226戦ってマジ?すげえなおい・・
0023192007/05/14(月) 20:07:58ID:qyVkxlJK
>>20
確かに。
まぁ、初期の弱小勢力ぶりと年齢の長さを考えると仕方ないかもしれんが。

>>21
>算多きは勝ち、少なきは負け
あー、そうだったような…
ま、いいか。オレ晴久派だしw

確かその書状の続きの内容が
「算多きは勝ち、少なきは負けと中国の兵書にもあるんだが、
 ウチの隆元はバカ正直で困っている。
 信心深い親孝行者で本当に良い奴なんだが…。」
だったかでけっこう感慨深かった。
んで、隆元が死んだあと、
「親父に比べて自分は無能で…」
とか、知り合いの僧侶に悩み相談してた手紙が出てきて
元就は号泣したらしい。人間くさいなぁ…

 
んで色々細部が間違っているかもしれんが、全体として>>19の論旨はどうかしら?
間違ってたら撤回する
0024人間七七四年2007/05/14(月) 20:10:54ID:tT2nUm5C
メガ豚は憤死したかwww
0025人間七七四年2007/05/14(月) 20:31:37ID:3fsasXL/
>>22
元就の初陣は21歳と遅かったけどその後
毎年の如く戦に明け暮れておりますからね
1年以上戦わなかった年はないからw
0026人間七七四年2007/05/14(月) 20:33:55ID:qKGUmz/7
毛利元就の226戦ってまとめサイトみたいなのないの?
信長や謙信を抑えて戦闘最強になるんじゃない?
ゲームの話になるけど。
226戦って、追随する武将いないんじゃないの。
0027人間七七四年2007/05/14(月) 20:37:00ID:aTz/EdL1
十両と幕下相手じゃ、そりゃ226戦にもなるわなw
相手が家康なら、瞬殺されてるだろうし。
0028人間七七四年2007/05/14(月) 20:46:56ID:jnNXqIUx
つーか元就の出発点が数百石でしかない国人で、ゴールが百万石だから
必然的に戦の回数が多くなるんだと思う。
元から大名として(ないしは、それに近い位置から)スタートした英傑達と比べれば、単純な戦歴で差があるのは当然な事かと。
勝たなきゃ領土増えない境遇だったんだから。

俺は勝率云々より「大事な局面で勝つ、大事な局面で負けない」事が肝だと思ってるんで
元就が200勝云々とかはあんま興味ないなぁ。
凄いのは有田中井出や厳島で勝ってる事だと思う。
信長の凄いとこも、例えば美濃攻めなんかでは負けていても、桶狭間で勝ってるとこだろうから。

基本的に、大名としての能力では「信玄>勝頼」だと思ってるんだけど
その理由の一つとして、勝頼は一番大事といってもいい長篠で大敗しちゃったからね。
翻ってみるに、信玄が負けた相手って豪族連中でしかない訳。
だから、大敗しても国力でカバー出来、最終的には領土併呑できてるんだし。
「重要な局面で負けていない。負けをカバー出来る」というのは、信玄の一番凄いところだと思うよ。
0029人間七七四年2007/05/14(月) 20:50:04ID:s+uOqcW1
信玄の場合は軍旗に合う言葉ということで風林火山を掲げたんじゃないかな?
戦場における部隊の運用の心得としては適してると思うよ
本人は調略重視で、かならず相手より大軍で戦場に臨んだりと
戦略面でも孫子を実践しようとしてるしね
0030人間七七四年2007/05/14(月) 20:52:23ID:CbghpL8z
メガ豚IPとキャラ変えた?w
0031人間七七四年2007/05/14(月) 20:56:52ID:ng939ZbB
いいからこんなクソ板で議論なんてしてんじゃねーよ。カスども。
お前らが三戦板に移住すればいいんだよ屑。
屑らしく三戦板に移住しろ雑魚WWWWWWWWWWWWWWWWWW
0032人間七七四年2007/05/14(月) 20:59:07ID:/3W8BNil
まぁ孫子と違って負けまくりだけどな
0033人間七七四年2007/05/14(月) 21:00:54ID:ng939ZbB
お前らが孫子とかわかるわけないだろ。
IDあっても意味がいないんだから三戦板の慈悲に縋ってブヒブヒ言っておけよ。
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ははははははああああああああああああああああああああああああああああああ
0034人間七七四年2007/05/14(月) 21:05:35ID:jnNXqIUx
>>18
孫の勝頼に警戒されて、甲斐の地で往生出来なかったのは哀れだと思ってたんだけど
見方を変えれば、確かに幸せだったのかもね。
道三なんか、同じように息子に反乱されて、討ち取られちゃってるんだし。

>>23
元就と隆元の父子関係は泣ける。
尼子攻めの最中で死んだっていうんだから、元就の半生ってドラマチックだよねぇ。
大河物語に一番肝心な「滅びの美学」が無いのが困り物だけど。

>>30
インパクト強すぎだかんね>風林火山
そういったイメージ戦略でも信玄は優れていたんじゃないかな。
前スレは変な流れのせいで、やたら戦術レベルでの強さの比較が多かったけど
もっと戦略や調略についてもスポットを当てて
両雄の凄さを再発見、再認識、といきたい所。
0035人間七七四年2007/05/14(月) 21:08:13ID:ng939ZbB
何がドラマティックだ。ドラマティックなのはこれからおきる三戦復興だ!
0036人間七七四年2007/05/14(月) 21:15:39ID:t4NQd8je
難民のくせに偉そうだな
0037奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/14(月) 21:29:15ID:77RxM8IC
朝からか。ある意味感心するわ。
0038人間七七四年2007/05/14(月) 22:10:21ID:IvoZIdoZ
>>34
>>もっと戦略や調略についてもスポットを当てて
両雄の凄さを再発見、再認識、といきたい所。

このような事をいってくれる人がいるとは(感涙)
ちょっとうれしくなったので前スレでも話題だった箕輪を主要とする
西上野制圧のダイジェストをちょいと貼ってみたい。話のネタにでもしてくれい
0039人間七七四年2007/05/14(月) 22:12:08ID:IvoZIdoZ
1561年6月     長野業正死去。
1561年8月から9月 第4次川中島の戦い。
1561年11月    武田軍高田城・和田城を攻略。その余勢を駆って西上野の主要な城の一つである
倉賀野を攻めるも攻略にはいたらず撤退。
1562年5月     武田が上野の浦野(大戸)・高山氏・和田氏を服属させる。
1562年9月     武田軍、箕輪・惣社・倉賀野城を攻めるが本格的には戦わず刈り働きして放火して兵を引く。
1562年10月    追放されていた元国峰城主小幡信実を立てて武田軍が国峰城を攻撃し攻略。
1563年2月     武田軍、北条軍に協力して武蔵松山城を攻略。
1563年10月    武田方に属していた上野衆と呼応して城主斉藤越前を追放し、
武田軍岩櫃城を攻略。西上野攻略の重要拠点とする。
1564年夏      武田軍安中・松井田の2城を攻略。
(しかしこれには1566年説もあり。いづれにせよ箕輪攻略前。)
1564年8月     第5次川中島の戦い。上杉謙信は決戦を望むが信玄は応じず。
            結局10月に上杉軍撤退。
1565年5月     武田軍、倉賀野城を攻略。これにより箕輪城追い詰められる。
1565年7月     長野業盛を始めとする上野の上杉方、謙信に信濃への出兵を要請。
特に業盛は何度も使者を送り武田の矛先をそらしてくれるように懇請する。
1566年9月29日  武田軍、箕輪城を攻略し長野業盛を自刃させる。
1567年10月    武田軍、惣社城を北条軍と共に攻めて攻略。武田の西上野経略がひとまず終了する。
0040人間七七四年2007/05/14(月) 22:15:57ID:IvoZIdoZ
やばい・・・ずれたスマソ。

1561年6月     長野業正死去。
1561年8月から9月 第4次川中島の戦い。
1561年11月    武田軍高田城・和田城を攻略。
その余勢を駆って西上野の主要な城の一つである
倉賀野を攻めるも攻略にはいたらず撤退。
1562年5月     武田が上野の浦野(大戸)・高山氏・和田氏を服属させる。
1562年9月     武田軍、箕輪・惣社・倉賀野城を攻めるが
本格的には戦わず刈り働きして放火して兵を引く。
1562年10月    追放されていた元国峰城主小幡信実を立てて武田軍が国峰城を攻撃し攻略。
1563年2月     武田軍、北条軍に協力して武蔵松山城を攻略。
1563年10月    武田方に属していた上野衆と呼応して城主斉藤越前を追放し、
武田軍岩櫃城を攻略。西上野攻略の重要拠点とする。
1564年夏      武田軍安中・松井田の2城を攻略。
(しかしこれには1566年説もあり。いづれにせよ箕輪攻略前。)
1564年8月     第5次川中島の戦い。上杉謙信は決戦を望むが信玄は応じず。
            結局10月に上杉軍撤退。
1565年5月     武田軍、倉賀野城を攻略。これにより箕輪城追い詰められる。
1565年7月     長野業盛を始めとする上野の上杉方、謙信に信濃への出兵を要請。
特に業盛は何度も使者を送り武田の矛先をそらしてくれるように懇請する。
1566年9月29日  武田軍、箕輪城を攻略し長野業盛を自刃させる。
1567年10月    武田軍、惣社城を北条軍と共に攻めて攻略。武田の西上野経略がひとまず終了
0041人間七七四年2007/05/14(月) 22:28:04ID:IvoZIdoZ
長野氏について
長野氏は上野国衆の中でも最大規模の勢力を誇っていた。
惣社・臼井長尾氏と同盟し、上野国碓氷・甘楽・多野郡を勢力下に収め、
長野・高井郷をはじめ、八幡・碓氷荘など多数の荘園と国衙領を掌握。
長野氏の勢力は交通の要所に位置し、経済力も有していた。
それに加えて長野業正は12人の娘を近隣の国人にとつがせて
強力な勢力をつくりあげた。
0042人間七七四年2007/05/14(月) 22:31:42ID:lQiPK3i1
長野氏の攻略は、謙信が関東への拠点を失ったことが大きいと思う。
0043人間七七四年2007/05/14(月) 22:32:33ID:IvoZIdoZ
信玄は業政死後も箕輪を一気に攻略しようとはせず、
各地の箕輪の味方勢力を各個撃破してその力をそぐ事に勤めている。
そして最終的に味方があらかたいなくなった箕輪城を2万の大軍で攻めて
攻略している。5年の歳月はあらかたこれに費やされている。
0044人間七七四年2007/05/14(月) 22:34:53ID:IvoZIdoZ
業政死去前の動きについては明確な情報をもっていなかったので
とりあえず業政死去からまとめました。
0045人間七七四年2007/05/14(月) 22:36:51ID:IvoZIdoZ
こんな所です。話題の種にでもしてください。
0046人間七七四年2007/05/15(火) 00:27:09ID:+JpN0Vro
>>45

信玄の慎重な攻め方が窺い知れてオモロイわ。

ところで「長野業正」が正しい表記だよな?
なんか、ちょくちょく「業政」って書かれてるのを見かけるんだけど
もしかして「業政」説もある?
0047人間七七四年2007/05/15(火) 09:29:27ID:gPLJ6YdT
>>30元就厨ってほんとどうしようもない反応ばっかするんだね。
少しでも信玄の有能性を証明されれば、まともに反論出来ずメガトン
のせいにするこの小心さは笑えるよw
ところで元就の戦って地の利が生かせるような領内での戦いや篭城戦なんか多くない?
信玄の戦の8割以上は戦で最も複雑な城攻めなんだが、篭城戦もなければ
地の利を生かせるような領内で戦うこともほとんどといっていいほど皆無。
これは謙信にも言えることだが、やはり最強は信玄と謙信だろう。
0048人間七七四年2007/05/15(火) 09:35:57ID:4BuRJDGJ
>証明されれば
笑わせようとする部分が露骨過ぎる
偽メガトンとしては20点弱
0049人間七七四年2007/05/15(火) 09:48:01ID:gPLJ6YdT
>>8  何でこういちいち信玄の戦いじゃない戦を信玄の
負け戦と思い込みたがるんだ?
0050人間七七四年2007/05/15(火) 09:56:12ID:4BuRJDGJ
さらに減点、15点
メガブタは「そりゃ信玄の勝ちに信玄が直接戦ってないものまで含めている以上、負けもそうしないと単なるダブスタだろw」
とまっとうな突っ込みが入るようなボケはかまさない
もっと電波出して!
0051人間七七四年2007/05/15(火) 10:03:41ID:gPLJ6YdT
信玄が直接戦ってないのまで勝ちに含めてるって、例えばどんな?
砥石城攻めのことかな?大将として真田幸隆の策を用いて城を落とした
わけなんだがそれがどうかしました?全軍を指揮するのは信玄なんだよ。
とまあ、いつまでもこういう下衆なアンチを相手にしてても仕方ないが
信玄の戦いに記録されてるものとされてないものとをちゃんと区別しなきゃな。
しかし元就ってしょぼいねえ、200戦もしておきながらたったあれだけしか
領土拡大出来なかったの?
0052人間七七四年2007/05/15(火) 10:20:01ID:4BuRJDGJ
再度減点、モウダメポ..._φ(゚∀゚ )アヒャ
「じゃあ部下の負けも全軍を指揮した信玄の責任じゃんw」の一言で終わるような弱い電波でアホコテの振りは務まらんよ
出直して来い
0053人間七七四年2007/05/15(火) 10:25:27ID:gPLJ6YdT
>>52 
やっぱメガトンに普段から遊ばれてるアンチだけのことはあるね
頭が悪いよ、信玄が大将として出陣した戦ならば部下の不手際が
その戦全体の負けに繋がれば必然的に信玄の負けになる、しかし
信玄が出陣しない戦はどう考えても部下の負けだ。



それから「砥石城は真田一人で落としただろうがーーー!!!」
みたいな反応はどうした?俺はそれを楽しみにしてたんだが(笑)
毎度毎度信玄の負け戦だけ持ち出してやいのやいのと子供っぷりな
ところを見せてみろよ。
0054人間七七四年2007/05/15(火) 10:54:25ID:gPLJ6YdT
何も答えられなくなっちゃった?アンチ武田の元就厨さんw
それにしても元就の200戦も元就自身が戦ったのってどれだけあるんだろうねえ
常識で考えて200戦全勝なんてありえないからまあ捏造されてるのは見え見え
だけどね、そもそも元就の戦歴なんて江戸時代に作られたっていうし。
0055人間七七四年2007/05/15(火) 11:09:21ID:T0kVLeE9
メガトンのフリしているだけなら面白くもなんともないし。
本人だったら大間抜けだな、「普段から遊ばれてる」とか意識過剰丸出しw
0056人間七七四年2007/05/15(火) 11:46:03ID:Kh2dxAt8
検証スレでアンチ呼ばわりして批判する行為は相応しくないな
場違いだよおまいら
0057人間七七四年2007/05/15(火) 12:54:44ID:+bM4RqxA
甲斐の山猿(爆笑)
0058人間七七四年2007/05/15(火) 13:27:18ID:xp+IpInI
元就が「西国の項羽」といわれた武田元繁を破った有田中井手の戦いなんだけども
具体的にどうやって1700対5000の劣勢を覆したんでしょう?
大河だと元就自身が囮になって元繁を引き寄せて弓を浴びせたことになってたけど、これは創作ですよね?
村上義清が上田原でやったように伏兵を敷いたんですか?
0059人間七七四年2007/05/15(火) 13:41:00ID:Dy3xqBVe
>>59
安西軍策によれば正面からぶつかって討ちとったっぽいな。
まあ安西軍策は森脇覚書が下敷きだから絶対間違いないとは言い切れないけど。
0060592007/05/15(火) 13:53:11ID:Dy3xqBVe
59は>>58ね。
0061人間七七四年2007/05/15(火) 19:11:27ID:0TdBIafd
元繁が流れ矢にあたってさっさと討死→士気阻喪ってかんじかね
0062人間七七四年2007/05/15(火) 19:13:46ID:+JpN0Vro
「元就 有田合戦」でググれば詳細な経緯が分かるよ。
0063人間七七四年2007/05/15(火) 20:43:38ID:7vppWste
>>46
レスが遅れてすいません。
長野業政というのは確かにあちこちで書かれていますね。
ですがやはり業正のほうが正しいそうです。「政」の字は上杉憲政の字であり、
それを下におくのは考えにくいそうです。
0064人間七七四年2007/05/15(火) 20:55:04ID:yCECI+bP
優勢でも覆されて討ち取られそうになるのが得意な武田信玄
劣勢でも相手を討ち取るのが得意な毛利元就

この二人が戦ったどうなっていたのだろうか?
0065人間七七四年2007/05/15(火) 20:58:11ID:7vppWste
>>優勢でも覆されて討ち取られそうになるのが得意な武田信玄

得意っていうほど多くはないんだが。精々上田原でしょ。
川中島第4回も講談含めるならそうか?あとは討ち取られそうになった事は
確か無かったと思う。
0066人間七七四年2007/05/15(火) 21:08:08ID:dNdgyk8K
刀を軍配でかわしたという謙信との一騎打ち(?)はかなりヤバい状況だと思うけどな。
まあさすがにフィクションだろうけど。
0067人間七七四年2007/05/15(火) 21:55:01ID:+JpN0Vro
第四次川中島に関しては副将の弟信繁まで討ち取られてるから
おそらく信玄が戦場で接した危機の中では最大級だろうね。
運であれ何であれ、ここでも何とか生き延びてるのは信玄の凄さ。
川中島も、結局は防衛に成功して、謙信に奪われる事も無かった訳だから。

それから、戦術レベルでの優劣に拘り過ぎるのは止めとこうよ。
戦術って、元就という英雄にとっては最大の得意分野の一つだけど
信玄という英雄にとっては、どちらかといえば苦手な分野の一つなんだから。
軍人と政治家を、戦場での働きでばかり比較しても不公平な気がする。

元就の戦術が、本当に異常な程に凄い戦果を残してるから
どうしても元就の凄さを語る際に戦術能力は外せないけど
対して、信玄の真価って>>40にもあるような戦の前準備にこそあるでしょ。
「大軍で寡兵に負けた」というの戦術レベルでは失策の部類だが
「大軍で寡兵に挑んだ」というのは戦略レベルでの成功を意味する物。
実際、信玄からすれば「大軍で寡兵に負けても大丈夫」な事を承知の上で敵を選んだのだろうから
そこで「信玄は戦術で失敗してる」というのを過剰に掘り下げるのって有り得ないと思う。
むしろ「戦術で失敗しても大丈夫」な戦略をこそ評価すべき。
0068人間七七四年2007/05/15(火) 22:07:26ID:+JpN0Vro
>>63
そーなのか。回答トン
いや、主君が「上杉憲政」だからこそ
もしかしたら長野も「業政」だった(あるいは改名した)?
と気になっていたんだけどね。
「下に置くのは考えにくい」というのは実にもっとも。
上杉輝虎(足利義輝から一字拝領)や松平信康(織田信長から一字拝領)の例に比べてみればね。
むしろ輝虎の前の「上杉政虎」が「憲政」から一字拝領してるくらいだし。

なんにせよ、長野に関する胸の痞えが取れたよ。
0069人間七七四年2007/05/15(火) 22:52:52ID:ZLJXBq/f
元就が戦の前準備に行う謀略・調略戦も凄いと思うけど・・・。
0070人間七七四年2007/05/16(水) 00:53:33ID:xYsGs+ia
戦略はどっちも凄いから比較できるって話だろ。
元就と信玄の戦術の差は、出発点(国人と大名)と敵の強さ(大大名と豪族)の差。
0071長門 ◆q8GdomS4XA 2007/05/16(水) 02:56:42ID:Tlvj/7y0
昔なんかの本でみたが攻城中に笛の音が聴こえてきて
その音を聴きに来て銃撃された信玄ってのがあったんだが
これって何がソースなのか誰かしらない?
0072人間七七四年2007/05/16(水) 03:03:01ID:+TvpfNrW
尼子政久にもそんな話があったような・・・
0073人間七七四年2007/05/16(水) 08:22:55ID:5ZevClkL
謙信が強いっていうのが話によく出るけど
その謙信の留守を狙っても駄目だった以上、やはり武田信玄の軍勢には戦術的に何か欠陥があったんじゃ
格下と有利な布陣で対峙しながら、しばしば敗れているのも何か原因があるのでは?
0074人間七七四年2007/05/16(水) 09:23:26ID:AHaQYd3J
謙信は立ち回りが非常にうまいからなあ。芦名が謙信の留守を狙って
越後に乱入して一部を占拠したら、すぐさま反転してきて芦名勢を
痛めつけて越後からたたきだしているしな。なんだかんだいって強い。
駿河攻めのときの事をいっているなら、あれは駿河攻めの為の陽動という説もある。
信玄もそんな簡単に越後攻めがうまくいくとは思っていなかったとは思う。
0075人間七七四年2007/05/16(水) 09:28:14ID:AHaQYd3J
>>71
孫引きだけど「松平記」や野田城主だった菅沼の子孫が書いた「貞亨書上」に
あるらしい。どちらも確証がなく、徳川を痛めつけた信玄を徳川の手で
討ち取ったという事にしたいという意思の産物だと書いてあったな。
0076人間七七四年2007/05/16(水) 10:04:56ID:bGeVftdN
それより元就厨ってほんとわざとらしくいつまでも元就の弱点というか
経験の少ない「大軍を動員しての戦闘」について触れないね。
寡兵で大群を倒すのが得意だから元就の方が凄いっていうけど、なら信玄
が得意にしている大軍同士での戦闘であれば信玄に勝てるの?
いっておくけど長野業正も2万を率いて信玄に負けたんだよ。
それと元就のお家芸の内部工作が武田家にどこまで通用したでしょうね、
まあ完全失敗に終わると思うけど、逆に毛利家は武田程結束強くはあるまい。
0077人間七七四年2007/05/16(水) 10:17:18ID:8+Ponw/m
上野は太閤検地時でだいたい49万石強
全土を支配していたわけでもない長野氏が、諸豪族を糾合したとして2万いくとは思えん
1万石辺り500人役という無茶苦茶な軍役設定をすれば可能だが……?
0078人間七七四年2007/05/16(水) 10:19:52ID:bGeVftdN
長野氏について
長野氏は上野国衆の中でも最大規模の勢力を誇っていた。
惣社・臼井長尾氏と同盟し、上野国碓氷・甘楽・多野郡を勢力下に収め、
長野・高井郷をはじめ、八幡・碓氷荘など多数の荘園と国衙領を掌握。
長野氏の勢力は交通の要所に位置し、経済力も有していた。
それに加えて長野業正は12人の娘を近隣の国人にとつがせて
強力な勢力をつくりあげた。
0079人間七七四年2007/05/16(水) 10:20:46ID:bGeVftdN
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm

関東武者の醜い姿が伺えますね、武田>>>>>>北条 は史実通り。
そういえば上州も関東に入るんだっけ?箕輪軍記や上州治乱記もこの
分なら捏造大だと思われますね。
0080人間七七四年2007/05/16(水) 10:29:10ID:8+Ponw/m
>>78
だからそれを最大限評価しても250人役や350人役程度じゃ到底2万なんて揃えられないの
0081人間七七四年2007/05/16(水) 13:14:08ID:wMatMOs+
同時代・同文化圏の軍隊同士で、戦闘力に差が開くというのは考えづらい
普通に稼動戦力の問題じゃないの?
総数が多くても、実際に戦う兵が少なければ何の意味も無い
0082人間七七四年2007/05/16(水) 17:19:43ID:bGeVftdN
2万とはいかなくても1万〜1万5000千くらいは集まるだろう、
大軍同士で信玄VS業正があったのは事実
いずれにせよ関東の軍記物が信玄VS長野戦を捏造しているのがいけない。

>>81何だその言い訳は?(笑)
元就が寡兵で勝つからどうだとか、信玄は大軍で勝ったからどうだとか言って
おきながら、少しでも弱みを見せられればそういう言い訳がましいことしか言えない
のが元就厨www
意味がなくて大軍なんか揃えるわけないだろ、大軍での戦闘兵と寡兵での戦闘兵
の数が同じぐらいだとか思ってるんなら相当な馬鹿だね
0083人間七七四年2007/05/16(水) 17:34:31ID:cLkMf9XM
太閤検地の石高で上野が約50万。
このうち長野の勢力を上野半分として25万。
1万石あたり400人という無理目な設定をしてやっと1万人集められるかってところだが。

それとしつこいくらい書いてるが箕輪軍記や上州治乱記は推測だってのに都合よく決定事項にするな。
コピペの元ネタが上記2つと断言できるなら該当部分を両記から引用して示せ。
またはコピペが捏造やデタラメである証拠を示せ。

お前はコピペの元ネタが何だか知っているから捏造だデタラメだと断言して言っているんだろ。
お前がその証拠をとっとと出せば解決する話だ。
0084尼子フラッグ甲斐に立つ2007/05/16(水) 17:35:39ID:XUEcvPz7
山梨で史跡探訪の旅行した時、
行く先々の神社や寺に武田菱が満載されてて爆笑した覚えがある。

あと、要害山に登ったら、仲間が次々疲労で脱落した苦い思い出も…
とりあえず友人と二人で
「ひゃーはっはっは、小便鉄砲喰らえ〜」
とか前田慶次郎ごっこして帰りました。
0085人間七七四年2007/05/16(水) 17:39:41ID:6nxMm3dv
>>83
長野「だけ」で武田と戦ってたわけじゃないだろう。
上杉も、村上も、小笠原もその他の残党も当時は十分に居るだろうに。
0086人間七七四年2007/05/16(水) 17:49:50ID:cLkMf9XM
それらを「あえて」省いて長野だけをとりあげたんだよ。
0087人間七七四年2007/05/16(水) 18:01:04ID:bGeVftdN
>>83 憶測で記されているような戦いをさも史実と思い込んでるアンチ
がマジで笑えると言ってるんだよww
今も昔も信玄が業正に散々に負けたなんて史料はどこにも無いんでしょ?
村上戦だけが唯一の敗退と通説されてる以上は、いくら業正がどうたらこうたら
言っても意味ないこと。
0088人間七七四年2007/05/16(水) 18:09:36ID:cLkMf9XM
話をすりかえるな。
憶測なのはコピペの元ネタになった史料についてでコピペの内容そのものについてではない。
お前は要求している史料や証拠が出せないから勝手に箕輪軍記だと決め付けて強弁しているだけだ。

>今も昔も信玄が業正に散々に負けたなんて史料はどこにも無いんでしょ?
ないかどうかはお前の方が良く知っているだろう。
なにせコピペを「確信を持って」デタラメ・捏造である証拠があると言っているのだから。
0089人間七七四年2007/05/16(水) 18:29:52ID:bGeVftdN
>>88 ほんといつまでもお前みたいなのって何が言いたいの?
業正が信玄を散々に打ちのめしたっていう証拠を早く提示しろよ、そして
それが歴史家や一般に対してどういう認識を持たれてるか説明したら?

>無いかどうかはお前自身が良く知っているだろう
何この言い方(笑)、誰かさんの過去の発言をいつまで引きずってるの?
0090人間七七四年2007/05/16(水) 18:41:12ID:cLkMf9XM
>ほんといつまでもお前みたいなのって何が言いたいの?
>業正が信玄を散々に打ちのめしたっていう証拠を早く提示しろよ、そして
>それが歴史家や一般に対してどういう認識を持たれてるか説明したら?
話をそらすなよ。
お前がことさらに箕輪軍記・上州治乱記だと決め付けて取り上げるから書いてるんだろ。
それにお前が言うようにコピペが両記を元ネタとしたものならそれこそ他に証拠なんて出す
必要もないだろ。
コピペの元ネタは箕輪軍記・上州治乱記でこれらはデタラメです、で話は終わりだ。

>何この言い方(笑)、誰かさんの過去の発言をいつまで引きずってるの
自分はメガトンではないとはいわないわけだ。
0091人間七七四年2007/05/16(水) 18:59:25ID:bGeVftdN
>>90
何でそんなデタラメな記録を持ち出して、アンチの連中は業正を
過大評価してるわけ?
少しでも信玄を酷評することが出来ればとか考えてる連中ならでは
の醜い姿そのものだな。
0092人間七七四年2007/05/16(水) 19:05:02ID:cLkMf9XM
>何でそんなデタラメな記録を持ち出して、アンチの連中は業正を
>過大評価してるわけ?
お前が勝手に「コピペの元ネタは箕輪軍記・上州治乱記」と決め付けてるんだが。

0093長門 ◆q8GdomS4XA 2007/05/16(水) 19:14:14ID:Tlvj/7y0
>>91
ピンチになったら人格攻撃とは恐れ入るわ( ^ω^)
0094人間七七四年2007/05/16(水) 19:23:53ID:bGeVftdN
>>92  アホ?自分でさっきそう言ってたのは>>90何なの?(笑
0095人間七七四年2007/05/16(水) 19:39:06ID:cLkMf9XM
まだわかってないようだな。

コピペの元ネタが箕輪軍記・上州治乱記である根拠を提示し、かつ両記が信用できない代物だとの根拠を示せる
または群馬県民の捏造という証拠が出せる
    ↓
コピペはデタラメ

という話だが。
お前はコピペが両記を元にしたもの(かつそれらが捏造されたもの)、または群馬県民の捏造だとわかってるんだろ?
だからデタラメだと言っているわけだ。
ならコピペが両記を元にしているなら該当部分を両記より引用できる、群馬県民のでっち上げと言う証拠をだせる
という話になるだけだ。

何度も言うが俺はコピペの元ネタは両記かもしれないとの推測しかしていない。
0096人間七七四年2007/05/16(水) 19:44:21ID:bGeVftdN
何だそりゃ?結局散々メガトンの発言に執着しておきながら、自分で調べて
なかったんだね、群馬県史をどうぞ

http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/nagano_z.html
0097人間七七四年2007/05/16(水) 19:57:48ID:cLkMf9XM
そこに書いてある話が正しいとするならコピペの正しさが増すだけだが?
以下抜粋。

業政は侍六百二十一騎、精兵一万を擁して箕輪城を守っていた。信玄は業政にまともに当たる愚を避けるため懐柔策を講じた。
信玄は業政に書状を送り、武田の上野侵攻の先導役を努めてくれるよう依頼した。天文十五年、憲政が上州の諸将を率いて
信玄に戦いを挑んだとき、一人業政のみは兵を出さず箕輪城から動かなかった。このことに成算を感じた信玄からの依頼で
あったが、業政はにべもなくその申し入れを断わった。
懐柔に失敗した信玄は、武力による上野侵攻を決行することになる。弘治三年(1557)四月、信玄の嫡子義信を大将とする
一万三千の武田軍は、余地峠をこえ上州に攻め込んだ。これを迎え撃った業政は、先陣を叩くと箕輪城に籠城し武田軍の矛先を
かわした。翌永禄元年、信玄みずからが武田軍団を率いて上州に侵攻した。このとき、たまたま吾妻方面に出向いていた業政は、
信玄の来攻を知るやただちに兵を帰し、夜営中の武田勢を急襲して散々に打ち破った。翌日には折りからの強風を利して武田勢の
風上にまわると火を放った。武田軍は食糧を焼き、弾薬を爆発させるという有様になり、命からがら甲斐に逃げ帰った。
やがて、憲政を庇護していた越後の長尾景虎(のち上杉謙信)が、永禄三年から翌年にかけて関東に出兵してくると、長野氏は
箕輪衆、厩橋衆を率いてこれに参陣した。このとき謙信は「関東幕注文」を作成したが、そのなかに箕輪衆、厩橋衆も名をつらね、
当時の長野氏の勢力のほどがうかがえる
一方、度重なる敗戦に意地となった信玄は、永禄四年五月、二万の軍勢をもって鷹留城を攻撃し、さらに箕輪城へ攻め寄せた。
しかし、箕輪城を抜くことはできず、またもや信玄は無残な敗退を味わわされた。しかし、信玄は長野方の戦術の変化に気付き、
業政の死を直感したという。流石に信玄で、業政は永禄三年(永禄四年説もある)六月に病没していて、長野勢はそれを秘して
武田軍を迎え撃っていたのであった。


でもコピペはデタラメなんだよな?
このサイトの内容はコピペを打ち消すようなことかいてないぞ。
0098人間七七四年2007/05/16(水) 20:17:33ID:xYsGs+ia
「またもや無残な敗退を味わった」が「業正の死を直感した」あたりは流石と言うべきなのか信玄。
にしても、いくら戦術レベルでの勝利を重ねても、一敗してしまえば
それで長野は終わりだったんだよな…国力の差という奴は残酷だ。
0099人間七七四年2007/05/16(水) 20:18:46ID:AHaQYd3J
まあ、下に箕輪軍記を参考にしている箇所もあるしな。
肝心のその部分が何を元にしているのかわからないのは問題だな。
0100人間七七四年2007/05/16(水) 20:27:05ID:3fvuYO5x
メガ豚が他人に成りすまして必死なスレはここですか?
0101人間七七四年2007/05/16(水) 21:05:55ID:5n9L7OEh
そもそも1万余騎のこもる城を1万3千の兵で攻めとろうなんて信玄は業政をなめ過ぎw
…と戦争経験の全くない漏れが信玄を叩いても笑われるだけか。
0102人間七七四年2007/05/16(水) 21:24:41ID:GF80W2Pf
>>76
>いっておくけど長野業正も2万を率いて信玄に負けたんだよ。

だからこれは一体何て史料に記述してあるんだ?
0103人間七七四年2007/05/16(水) 21:44:41ID:bGeVftdN
>>97 お前相当頭悪いね、コピペの内容が捏造であればこのサイトに書かれている
内容も捏造になるんじゃないの?似たようなこと書いてるんだから。
そもそも過去のメガトンの発言にアホのように執着しておいて、一体どうしたいわけ?
結局メガトンに遊ばれてるんだよお前は、「史実が知りたければ自分で探せ」ってな。
自分でコピペがデタラメとか言っておいてほんと理解に苦しむ発言ばかりするね。
メガトンの発言なんて支離滅裂だってのはみんな理解してるのにお前一人執着してて馬鹿
みたいだぞwwww
0104人間七七四年2007/05/16(水) 21:48:33ID:bGeVftdN
案外>>79のサイトなんかも見て悔しがってたりしてなwwwww
0105人間七七四年2007/05/16(水) 21:54:10ID:qHVu6dzQ
w連発はやめろよな。ザ掲示板を思い出すから。
0106人間七七四年2007/05/16(水) 22:07:58ID:N4zY4iIT
>>103
>お前相当頭悪いね、コピペの内容が捏造であればこのサイトに書かれている
>内容も捏造になるんじゃないの?似たようなこと書いてるんだから。
ならなぜこのサイトを出したんだ?
コピペを打ち消す内容出すならともかく似たような内容出して何になる。
ただ似たような内容が書いてありますって示しただけだぞ。
結局、
コピペの元ネタが箕輪軍記・上州治乱記である根拠を提示し、かつ両記が信用できない代物だとの根拠を示せる
または群馬県民の捏造という証拠が出せる
    ↓
コピペはデタラメ

という話に戻るだけだ。


>自分でコピペがデタラメとか言っておいてほんと理解に苦しむ発言ばかりするね
いつ俺がコピペの内容はデタラメなんて言ったんだ?
お前がコピペは両記が元ネタでだからでたらめであると言ってるんだろうが。


>結局メガトンに遊ばれてるんだよお前は、「史実が知りたければ自分で探せ」ってな
だれが史実が知りたいと書いたんだ?
コピペがデタラメならそれを証明せよって書いてるのに。

>メガトンの発言なんて支離滅裂だってのはみんな理解してるのにお前一人執着してて馬鹿
>みたいだぞwwww
つまりメガトンが言っていたことはまったく根拠がないということか。
なら同じような内容のことを言ってるお前の発言も同様となる。

79 :人間七七四年:2007/05/16(水) 10:20:46 ID:bGeVftdN
http://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm

関東武者の醜い姿が伺えますね、武田>>>>>>北条 は史実通り。
そういえば上州も関東に入るんだっけ?箕輪軍記や上州治乱記もこの
分なら捏造大だと思われますね。

ついでに>>79のサイトは仙台藩百姓が言ってる様に
「北条が書いたものは北条贔屓だから嘘で武田が書いたものは武田贔屓だけど正しいと思いたい」
「書状なんて当てにならないと言って北条の書状を否定してるのに武田の書状にこう書いてあるから
甲陽軍鑑は正しいと言う辺りの理屈がトリッキー過ぎて訳分からん」
と言わざるをえない。


0107人間七七四年2007/05/16(水) 22:10:12ID:QHK8D2P1
長野氏だけど
上洛スレの郡別石高を基にするなら
群馬郡9.3万石-厩橋などと甘楽5.2万石 多古1.0万石 禄野2.4万石 碓氷3.2万石
で20万石ほどだから長野氏が万を越える軍勢というのは不可能じゃないかと思う。

>>85
最初に攻めたとされるのが1557年4月
上杉はともかく村上小笠原はとうに駆逐されて居ると思う。
0108人間七七四年2007/05/16(水) 22:18:16ID:QHK8D2P1
1557年4月に最初の西上野攻めがあったと『甲陽軍鑑』にもあったと思うけど
4月の終りには謙信が北信濃飯山に入りそれから川中島となるので、それを考えると実際には・・・
1558年1559年は戦いも無く、1559年は謙信は上洛しているので武田が大軍で攻めることも
可能だろうけど。

>>106
>「北条が書いたものは北条贔屓だから嘘で武田が書いたものは武田贔屓だけど正しいと思いたい」
>「書状なんて当てにならないと言って北条の書状を否定してるのに武田の書状にこう書いてあるから
>甲陽軍鑑は正しいと言う辺りの理屈がトリッキー過ぎて訳分からん」
確かにそんな印象を受ける・・・
0109人間七七四年2007/05/16(水) 22:28:41ID:bGeVftdN
>>102

ほれ、今度は群馬町提供だ、逆のことが書かれている、まあ2万というのは過大かも知れない

http://www9.wind.ne.jp/fujin/gunma/kokudo/minowa/minowa.htm
0110人間七七四年2007/05/16(水) 22:35:46ID:bGeVftdN
>>108ちゃんと文章読んでないね、もしくは苦し紛れにそう言ってるかだな。
以上、武田、北条双方の文書をざっと見てきたが、それらから想像される合戦
の実像は、細かい装飾的な部分をのぞけば「甲陽軍鑑」と較べてもあまり矛盾
はないようである。北条方の書状では、いかにも負けていないように書いてい
るが、実際の敗北についてはわざととぼけた表現をしているのだと考えると符
合するところが多い。
 1つ大きな違いは、「甲陽軍鑑」では、あらかじめ三増峠で待ちかまえてい
た北条勢が、信玄の到着とともに、陣を移していったと言うところである。北
条の文書からでは、もともと信玄が陣取っていたところに、北条勢が攻め寄せ
ていったと読める。「甲陽軍鑑」のように北条が陣を移していったとすると、
それが何のためなのか理解に苦しむ面もある。最初から武田勢が陣取っていっ
たところに攻め寄せたというように解釈する方が自然のようである。後で紹介
する北条系の軍記物も、そのように書いている。
 「甲陽軍鑑」では「北条氏照・北条安房守・忍衆・深谷衆・江戸川越衆・
碓井衆(臼井衆)・佐倉衆・小金衆・岩槻衆・玉縄の北条上総守ら二万余騎」
が待ちかまえていたことになっていた。しかし、この事も疑問である。北条系
の文書で見たとおりに、北条氏は武田氏に対して「手を出すな、城に籠もって
いろ」という指令を出している。本気で決戦をしようとしていたのかどうか怪
しい面があるのである。「甲陽軍鑑」であげられている面々は、北条軍団の主
要な衆ほとんどであり、「甲陽軍鑑」の作者が単に名前を羅列しただけとも取
れる。もっともこの辺りのことは、実際に動員が行われていることを示す文書
が存在しているかどうかを調べてみないと結論は下せない。
 もう1つ、「甲陽軍鑑」では「御獄・鉢形攻め」については触れられていな
い。武田・北条双方の文書に見られるので、この2城での戦闘は間違いなくあ
ったはずである。単純に忘れてしまったものだろうか。ただ「甲陽軍鑑」では
、武田勢が八王子に向かう途中、氏照が戸取と言うところに陣取って、そこで
戦闘になったという記事があった。この戦闘については文書からは確認できな
いが、あるいは先の戦いと関係があるのかどうか。
 しかし、大まかなところでは、「甲陽軍鑑」に矛盾はない。ということは
「甲陽軍鑑」に見られる合戦の内容が、だいたいあっていると見てよいうこと
になるであろう
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