【島国】日本は世界で貧しい国だったの?【辺境】
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0001人間七七四年
2007/05/05(土) 17:42:07ID:YHGSfsuA国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
一般的に言って(日本の)不毛と貧困さは東洋全域で最も甚だしい。
というのは、ポルトガル人が支那から彼等に齎し、彼等が衣類として用いる絹の他には、
殆ど商品らしいものは何もないからです。牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、
彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族も極めて貧困である。
ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられてなく、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして
鄭重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。
日本諸事要録 第二十八章抜粋
全般的に全ての者の収入は乏しく、金銭に不足しているから、真実の武士であり、
自ら武士をもって任じている一般の、或いは特別の武士が、自らは、奉仕する四〜五名の
若者を抱え、妻も同数の召使を抱え、彼等と家中の身分の高い者は全て絹を着て、
しかも百石から百五十石で一家を支える事になる。
これにより、彼等が如何に質素で貧しい生活をしているかが判明する。
夫と妻が辛うじて一年の半ばだけ食べる米があり、残りの半年は大根、果実、及び草や根を
できるだけ食べて(飢えを)しのぎ、他の家人は、米のある時には少量の米を混ぜて、
これらの品を食べて生きている。
日本王国記
この王国では百姓や臣民はひどく圧迫され、ひどく貧困なので、
しばしば彼等に要求される年貢の不足を支払う為に、子供を売るほどである。
百姓は何としても記帳されただけのものは払わなくてはならないし、田畑のもので
十分でなかったら、納税の為に、質にも入れなければならない、子供たちも
売らなければならないのである。
もしそうしなかったら、彼等は殺されるか、税を払わせようと、捕えられ拷問にかけられる。
それに彼等は百姓に対して実に残忍な事をやる。現に私は薩摩の国で1594年に、
籾つまりまだ脱穀や精白しない米ニ俵、当時三マスの値段はしたろうか、それだけの為に、
一人の百姓と女房と二人の子供が殺されたのを目撃したものである。
0082人間七七四年
2007/05/10(木) 21:07:14ID:1RpOmKp4白神に限らない。
東北は一部の沿岸を除き、落葉広葉樹林帯だよ。照葉樹林はほとんどない。
照葉樹林は西日本〜関東までの低地ね。
山地〜北海道南部は落葉広葉樹林で、分布の広さでは照葉樹林よりやや優勢。
道東〜道北は亜寒帯針葉樹林。
それと、朝鮮半島は南部が照葉樹林、あとは大半が落葉広葉樹林。
針葉樹林帯は高地に点在。
0083人間七七四年
2007/05/10(木) 21:15:34ID:1RpOmKp4それと白神山地は広大な原生ブナ林であり、典型的な落葉広葉樹林帯。
0084人間七七四年
2007/05/10(木) 21:15:47ID:baROw6kPん。間違ってたな。
なんかイメージとどっかで聞いた知識がごっちゃになてたようだ。
訂正ありがとうm(__)m
勉強になった。
0085人間七七四年
2007/05/10(木) 22:52:21ID:w8fhppUo間違える事もあるさ
つうか>68と>72
の話が面白そうなんだが。
実際鎌倉の東国武士は辺鄙な所から出ている
てっきり馬産地と関係すると思っていたが、辺鄙な場所の方が農耕に向いていたというほうが適切に思える
0086人間七七四年
2007/05/11(金) 00:25:10ID:Pp3bkuf5>照葉樹林があるところは氾濫すると土地が肥える。
>それ以外のところは氾濫する度に岩ゴツゴツの土地になっていく。
>
>前者の典型例が日本で、後者の典型例が朝鮮。
言えてるねー
0088人間七七四年
2007/05/11(金) 10:54:58ID:NJ7Q9WlS上代からそうだよ
地方の古墳は交易発達後の感覚だと「何でこんな田舎に?」みたいな
盆地や扇状地形にあって平野部ど真ん中にはない。
一番適した所は早々に荘園になってるだろうから、新田開発→一所懸命な東国武士で
当時でも辺鄙といえば辺鄙なんだろうけど。
0089人間七七四年
2007/05/11(金) 11:11:07ID:NJ7Q9WlS雨多すぎ(泥濘化)、流域短か過ぎ(砂地を作るだけ)でナイルや長江の理屈は成り立ちにくい。
新潟平野なんかそれこそ角栄の頃まで深田に悪戦苦闘、砂地はそこかしこに地名が残ってる。
0090人間七七四年
2007/05/11(金) 11:54:01ID:CWSXlWD30091人間七七四年
2007/05/11(金) 12:35:58ID:VjbwSKrJ氾濫原も、排水さえうまくいけば、農業にもっとも
適した土地になるわkで、人間がどう関わるかで
適にも不適にもなるということだね。
0092人間七七四年
2007/05/11(金) 13:27:10ID:NJ7Q9WlS大規模行政可能になった肥後なんか爆発的に耕地面積増やしてるしな
0093人間七七四年
2007/05/11(金) 18:56:41ID:0vqd63tC貧しいからこそ日本人は勤勉な民族になったのだと
0094人間七七四年
2007/05/11(金) 20:36:32ID:dObyCBLL豊かな土地であったから人が増えた。採取可能な食物以上に人が増える。
栽培、育成によって食物を確保する。それ以上に人が増えれば倹約備蓄を覚え貧しさに耐える。
生産力が上がれば人が増える。つまり常に倹約を強いられる。
大陸では他集落、他部族に対する襲撃略奪が恒常化する。少数支配者が富を独占し豊かさを誇示する。
島国日本では収奪の程度が著しく低かったから全体が貧しく見えた。
0095人間七七四年
2007/05/11(金) 21:30:20ID:3nCNKLJO単に枯山水のような日本の文化が理解出来なかっただけという落ちじゃあない?
0096人間七七四年
2007/05/11(金) 22:12:47ID:BfhPDpeW自然に食べ物が出来るということは、自然に畑向けの肥料もできる。
日本が何千年も狩猟・採集生活ができたってのはこういうこと。
一方、朝鮮や中国東北部の針葉樹林では山を放っておいても食べ物なんかできない。
中国や朝鮮では農業が発達しなければならない事情があった。
それでも賄いきれなかったので、日本に渡来してきた。
そのため、日本は人口が増えて狩猟・採集じゃ賄いきれなくなって、農業に移行せざるをえなくなった。
森林が破壊されても、照葉樹林ならば放っておけば自然に再生されるが、針葉樹林だとずっとハゲ山のままになる。
結果、日本人にとって山は生きる場所であり救いの場所であるが、朝鮮では山は基本的に死ぬ場所になっている。
0097人間七七四年
2007/05/11(金) 22:18:11ID:6rKk7Rti0098人間七七四年
2007/05/11(金) 22:32:17ID:p5J/GhNZ0099人間七七四年
2007/05/11(金) 22:34:32ID:BfhPDpeWほぼ同じ緯度と経度と気候帯で、両方とも長い海岸があって、両方とも中華文化という攻撃を受け続けてきた。
だから、朝鮮と日本を比較すると日本の独自性が良く分かる。
比較のの結果、朝鮮と日本とで決定的に違うのが山の自然食と海の魚。
朝鮮は山菜料理ができたのは中世に香辛料が入手できるようになってからだし、中華文化の影響でほんの10年前まで海の魚を食べる人を差別していた。
0101人間七七四年
2007/05/11(金) 22:52:49ID:p5J/GhNZ言葉は厳密に使えよ
間違いだらけじゃねーか
0103人間七七四年
2007/05/11(金) 23:42:29ID:CWSXlWD3何か問題あるのか?
照葉樹林で十分に人を養えないし
実際、縄文人の人口分布は落葉樹林が存在する東日本のほうが多いぞ
0104人間七七四年
2007/05/12(土) 00:41:27ID:YI0TWETiその通りだな。
縄文時代を通じて、関西や四国にはほとんど人が住んでいなかった。
縄文中期の東日本の人口は25万1800人。西日本は9500人しかいない。
100平方キロあたりの人口密度は関東298人、中部240人、近畿9人、四国1人。
照葉樹林帯がもっとも広かった縄文前期でさえ、西日本は人が増えていない。
照葉樹林のシイやカシの実は、落葉広葉樹林のクルミやクリと比べて実りが乏しい。
その上、西日本では鮭の遡上も少ない。
狩猟採集文明では、照葉樹林帯は非常に過酷な環境だったようだ。
稲作が本格的に伝わる弥生時代以降になると、西の人口密度が急増する。
0105人間七七四年
2007/05/12(土) 00:52:49ID:YI0TWETi植生は「南部が照葉樹林、あとは北朝鮮に至るまで東日本と同じ落葉広葉樹林」なんだが。
亜寒帯針葉樹林は少ないよ。
ただ、降水量が日本より少ない。
禿山は植樹せず乱伐したから。
0106人間七七四年
2007/05/12(土) 12:01:12ID:D5VpDHrP縄文時代前期の日本は照葉樹林(常緑照葉樹と落葉照葉樹)。
縄文中期以降の破壊・気候変動により、関東は照葉樹林の森林の中に広葉樹の群生があるという構成になった。
広葉樹林帯は中部内陸から三陸海岸の下端のラインよりも北の地域。
>>105
破壊したときに再生するかどうかが違う。
照葉樹林は破壊して「植樹しないで」放置しておいても照葉樹林として再生するか、広葉樹林に変質して再生する。
しかし、その森林の中にナラ科の割合が多いとどちらの方向にも再生しない。
朝鮮は広葉樹ナラ科の割合が多いので、畑にしたり、戦争で伐採してしまったらもう再生しないでハゲ山のままになる。
これは、ヨーロッパの西半分も同じ。
0107人間七七四年
2007/05/12(土) 17:56:51ID:4NZxI2U7ここに縄文時代の植生の変遷があります
miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/n01-5.htm
縄文時代前期の日本はすべてが照葉樹林と書いてある本は何ですか?
0108人間七七四年
2007/05/12(土) 18:05:07ID:5GRcmoMw\
お そ .い ヽ
か の や |
し り ` ,. -──- 、
い .く / /⌒ i'⌒iヽ、
つ / ,.-'ゝ__,.・・_ノ-、ヽ
は i ‐'''ナ''ー-- ● =''''''リ >照葉樹林は破壊して「植樹しないで」放置しておいても
l -‐i''''~ニ-‐,....!....、ー`ナ >照葉樹林として再生するか、広葉樹林に変質して再生する。
 ̄ \ヽー' !. t´ r''"´、_,::、::::} ノ` > しかし、その森林の中にナラ科の割合が多いと
ヾ、 ゝゝ、,,ニ=====ニ/r'⌒; >どちらの方向にも再生しない。
i`''''y--- (,iテ‐,'i~´,ゝ'´
.| !、,............, i }'´ では、ナラ科の割合が多い照葉樹林は
●、_!,ヽ-r⌒i-、ノ-''‐、 照葉樹林とは呼ばないのではないか?
( `ーイ ゙i 丿
`ー--' --'` ̄
0109人間七七四年
2007/05/12(土) 19:55:18ID:PD3Hp95z0110人間七七四年
2007/05/12(土) 20:53:45ID:x30xr3Ia生命活動に支障無く、本人達が不幸を感じてなければいいじゃない
ジャングルの奥地で狩猟生活してても、大草原で放牧やってても
0111人間七七四年
2007/05/12(土) 21:13:26ID:1z0z0PD50112人間七七四年
2007/05/12(土) 21:27:09ID:YI0TWETiおかげで山は地すべりが多発するわ保水力が低下するわで、
河川も流域の生物ストック量が減り貧栄養化がはなはだしい。
0113人間七七四年
2007/05/12(土) 21:32:46ID:4mYPoCMp0115人間七七四年
2007/05/12(土) 22:42:37ID:D5VpDHrPだから朝鮮を照葉樹林帯と呼ぶのは間違っている。
呼ぶとしてもナラ科の割合の高い照葉樹林と断り書きをするべき。
>>114
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%22%E8%90%BD%E8%91%89%E7%85%A7%E8%91%89%E6%A8%B9%22&lr=
簡単に言うと、
葉っぱが広くて平べったいのが広葉樹。
葉っぱがテカテカしてるのが照葉樹。
分類する人によっては、広葉樹のうち特に葉っぱがテカテカしているモノを照葉樹と呼ぶ。
冬になると葉っぱが落ちるのが落葉樹。
一年中葉っぱがあるのが常緑樹。
落葉照葉樹と常緑照葉樹と落葉広葉樹と常緑広葉樹がある。
0116人間七七四年
2007/05/13(日) 00:14:54ID:ndc8JF1Uこのリンク先、全部誤植だよ。
落葉広葉樹のブナを落葉照葉樹と書いているものが多いから、正しくは落葉広葉樹と書きたかったんだろう。
照葉樹とは温帯広葉樹のなかで常緑のものをさすので、落葉はしないよ。
広葉樹林
. ┃
┏━━━━━━┻━━━━━━━┓
常緑広葉樹林 落葉広葉樹林
┃ ┃
. ┏━━━┻━━━┓ ┏━━━┻━━━┓
熱帯雨林 温帯常緑広葉樹林 雨緑林 温帯落葉広葉樹林
┃
┏━━┻━━┓
硬葉樹林 照葉樹林
0117人間七七四年
2007/05/13(日) 00:51:56ID:ndc8JF1Uいわゆる照葉樹林文化には、朝鮮半島南部と西日本が含まれる。
日本は照葉樹林40%、落葉広葉樹林45%、亜寒帯針葉樹林15%といったところだが、
半島は照葉樹林7〜8%、落葉広葉樹林80%以上、亜寒帯針葉樹林10%といったところか。
大半は落葉広葉樹林、東日本と同じ肥沃なナラ林帯だね。
雨が少ない上伐採しすぎ、表土が侵食され流されてしまったのが
荒廃の原因だそうだ。
日本の照葉樹林も落葉広葉樹林も、スギ・ヒノキの植林で激減したけどね。
0118人間七七四年
2007/05/13(日) 01:41:47ID:P2dLVU1N杉の植林だらけなのに何故山は紅葉するんですか?
周りの山を見ると地滑りが起きている形跡はないのですがこれは何故ですか
河川に流れ込む生活排水によって富栄養化が起きているのは事実ではないのですか?
0119人間七七四年
2007/05/13(日) 01:45:12ID:P2dLVU1N0120人間七七四年
2007/05/13(日) 01:49:48ID:hRdOCWig0121人間七七四年
2007/05/13(日) 02:41:00ID:DDFItzPB>>118-119
君たちは東日本の人。112は西日本の人間。
西日本は、ほとんどが伐採されて、杉が7〜8割近いよ。
ほんとにひどいものだ。
>>113
江戸幕府のせいではないよ。日本オオカミが絶滅したのは明治
九州でくまが絶滅したのは最近だし。江戸期は山は誰の所有でも
なく共有財産であるのが普通で、明治以降とくに”戦後”
西洋的に不明確な所有財産という所有形態はけしからんという
わけのわからない、理由でだれかの個人のものあるいは
国有林となり戦後の住宅需要や、林野庁の独立採算性
というわけのわからない政策、あと、金のない奴らが、勝手に
炭をつくってうって、あとは杉に変わったのさ。
東日本がそうならなかった理由は自分はしらない。
0122人間七七四年
2007/05/13(日) 02:45:27ID:DDFItzPB安定できるというのにはわけがある。
戦後60年で、なにもかも変えてなんの
思想もなく、自らを律することをしらん
現代人に江戸の”文明”をとやかくいう
資格などない。
0123人間七七四年
2007/05/13(日) 03:25:38ID:ndc8JF1U日本の森林面積は67.5%。
うち自然林が18.2%、二次林(再生林)が24.6%、スギなど植林が24.7%。
自然林のうちブナ林は3.9%、照葉樹林はわずか1.0%と危機的状況。
宅地開発・伐採・スギ植樹によって照葉樹林は細切れにされてしまい、まとまった広さを持つ照葉樹林はほとんど残っていない。
伐採後二次林として残しても、落葉広葉樹林に置き換わってしまっている。
スギ林のほうが広葉樹林より地滑りを起こす「確率が高い」のであって、当然何十倍という頻度で増えるわけではない。
豪雨後の山間部や傾斜地では頻繁に起きているよ。
それと、排水汚染による富栄養化とはまったく別の話だよ。
広葉樹林からの落ち葉や実、林を利用する動物・昆虫によって、流域の土壌・河川生物層が豊かになる。
深く広く張る根は水を蓄え、河川流量の安定をもたらす。
それと比べるとスギ林は生物ストック量が少ない。
更には根が深く張らないため土壌が流出しやすく、保水量の減少により雨が降ればすぐ水が流れてしまうため
河川は氾濫しやすく渇水しやすい。
プランクトンや生物ストック量が少ない貧栄養河川になってしまう。
ロックストリームの多い日本の河川では、有機物の供給源が激減するに等しい。
0124人間七七四年
2007/05/13(日) 03:31:30ID:ndc8JF1Uうちの近所のスギ人工林なんて俺が生まれてこの方利用した形跡すらない。
0125人間七七四年
2007/05/13(日) 06:30:48ID:8WT86rgyその利益関係の調整や、安定した供給が求められたんで山の所有権が整理された。
で、爆撃なんかは西日本中心にやられてたので、西日本で特に需要が高まったせいで、西日本は杉ばっかりになった。
最大の誤算は杉の利用が可能になるのは30年以上かかるということと、建材としての大量利用が減ったということ。
戦後杉が足りないもんだから使ってた代用建材や、新建材が結果的に杉の利用を減らしてしまったというのは皮肉な話。
そのため、杉にしたせいで増えた土砂災害を食い止める為に、今は竹なんかが急激に増えてます。
0126人間七七四年
2007/05/13(日) 11:24:31ID:MQv7KR0eスギ林や自然林も地すべりが起きる確率は実は大して変わらない。
そもそもスギも照葉樹も根は1mその上が20mくらいで物理的構造はほとんど同じ。
植林スギの地すべりが多いように感じるのは、植林スギは民家や生活インフラの近くにあって地すべりの度に被害者が出て問題化するから。
自然林の近くは民家やインフラが少ないので地すべりしても大してニュースにならない。
ただ、植林スギが地すべりするとそのままハゲ山になって、自然林が地すべりすると3週間くらいで緑が茂って土色が消えるというところが違う。
>>124-125
杉が成長する頃には、日本のスギを利用するよりもカナダとかの木材を切って持ってくる方が安くなっちゃった。
消費することを前提に杉を植えまくったのに、間伐してもタダで切っても燃やすしかなくなったので放置プレイしまくっている。
0127人間七七四年
2007/05/13(日) 20:42:33ID:OVvW7CX3/. i /ヘ\ヽ\:
;| ! |/__.xト、L,_ ト}: な…
; |!ヘ cモリ lモ!oV なんなんですか?
;| !|.ト" rっ ツ|.|、: ここ、どこですか?
,',ノ 斗ャ fて`Y トミヽ なんであたし
/ {トミトv|'´ゝ } ノノ:l }: 貼られたんですか?
:/イ { ゝィVr-ヘト、 ! ハ
. | !|Y⌒'ミ{ヾ=' | /イ|
ヽ人 |! /\ :
`'┬' トー'´ ヽ :
:,/{、 || ,.|='´ } :
0128人間七七四年
2007/05/14(月) 03:10:27ID:Dr8XZ69Qたしかにブナ林の保水力と水の浄化能力は杉林とは
雲泥の差だよね。いちど原生のブナ林にいったとき
こうも違うかと感動したことがある。あと圧倒的に
虫の数がちがった。
>>125
なるほど爆撃か。たしかにB−29のサイパンからの爆撃圏は
東京がぎりぎりだなぁ。あと硫黄島と沖縄戦の前まで、
九州本土上陸作戦は確定事項だったらしいから、その
前準備ってのもあるかもな。
0129人間七七四年
2007/05/14(月) 07:17:07ID:t2CJ8DCn続きは三戦板でやりましょう。
http://ex21.2ch.net/warhis/
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167304387/554
0130人間七七四年
2007/05/14(月) 12:10:22ID:WsOKtG7V東日本の山岳部の山城はごく普通の山林なんだよね
山城も廃棄される間ではハゲ山だったのに
0131人間七七四年
2007/05/14(月) 12:47:23ID:z+t8YAaQひどいよ。
大抵の山は所々変色(杉とは緑の色が違うので目につく)しているところがポツポツあるくらいで、八割杉。
山に登るとあまりに代わり映えしない風景に、段々と迷いだすほど。
ただ、一部は徐々に入れ替えようとしてるみたいだけど。
まあ、元々は杉より広葉樹に適したとこだし、いつか元に戻ると期待しています。
0132人間七七四年
2007/05/14(月) 22:21:33ID:NCU7+/A5戦国中期に来た西欧人は日本を貧しい国と言う人が多い。
でも、それは戦乱続きだったからしょうがない。
戦国末期や徳川初期に来た人は逆に都市の繁栄や絢爛豪華なことに驚いている。
岐阜城下町を「バビロンの都のごとき繁栄で、ヨーロッパからあらゆる国を経由して
これほど美しい場所は知らない」だの、大坂城を「ロンドン塔以上にすごい」だの、
日本の繁栄を絶賛するのが多くなる。
これは戦国期の貧しさが、決して国の貧しさではなく、戦乱が収束に向かえばかなりの
繁栄を達成できるだけのポテンシャルがあったことを意味する。
0133人間七七四年
2007/05/14(月) 23:55:24ID:mQr+5ka+0134人間七七四年
2007/05/15(火) 04:24:33ID:/rcgppyC戦国中期が戦乱続きだったから貧しかったというのはどうかと
経済構造は基本的に変わっていないのだから
単に戦国末期には権力の集中が進んだ結果、富が一箇所に集まり目立つようになったのと、
西洋人には日本的な詫び寂びの精神が理解できず、
一方で秀吉の成金趣味が西洋人のイメージする繁栄の象徴と一致したのではないかな?
もし信長や秀吉が銀閣寺や龍安寺の枯山水のような日本的な詫び寂びの粋を尽くしたようなものを造ったとしたら
戦国末期にやってきた西洋人も日本は貧しい国だと評価するのではないかな?
0135人間七七四年
2007/05/15(火) 21:03:01ID:5QU6wQZm信長が兵農分離やったから戦争中でもあんまり関係なくなってる。
同時期の欧米、特にイギリスはほとんど陸の孤島。まともな食べモノがなかった。
だから、植民地を獲得したり後に産業革命して産業構造を大転換する必要があった。
日本は小さい島に3000万人もの人口がかなりの文化レベルを維持していながら、
植民地を獲得する必要も、産業革命をする必要もなかったということは、
それだけ食べ物には恵まれていたということになる。
0136132
2007/05/15(火) 21:36:56ID:NA/CyWwo兵の動員力からすればかなりのものだし、城下町や寺内町などの日本初の専属市場が
形成されたのもこの頃だし。
0137人間七七四年
2007/05/16(水) 21:40:16ID:M2cbMAYZ町がその時期に増えていったというのは賛成だが、
細かい突っ込みを入れると、日本初の専属市場が生まれたのはもっと前。
交易都市の博多や十三湊が形成されたのは室町時代初期じゃあなかった?
0138人間七七四年
2007/05/16(水) 22:53:16ID:k5+x/xhD0139132
2007/05/17(木) 23:47:09ID:9o5q0yA40141人間七七四年
2007/05/18(金) 21:00:24ID:w7ZibpACどうだったかは知らないけど。
0142人間七七四年
2007/05/18(金) 23:15:41ID:QfDBDSFC東海道の中継港で川の渡しの町と似たようなものだと思っていたよ。
0143人間七七四年
2007/05/18(金) 23:26:11ID:W8Vx/lMz中継港となっていたとしても、江戸が栄えてからの江戸時代以降でしょう。
0144人間七七四年
2007/05/19(土) 00:34:50ID:u8DZsv5d関東以東に出るには基本的に陸路の東海道だろうね
新田も足利も北畠も下ってるし。北畠は北朝勢力圏を迂回するために伊勢から出て常陸鹿島を目指してる
この辺りが太平洋側の海路の限界じゃないかな
0145人間七七四年
2007/05/19(土) 01:40:04ID:Kr+PXMwV0146人間七七四年
2007/05/20(日) 13:10:54ID:APSXRx8X江戸は、中世の頃から貿易港として栄えていたよ。利根川などの内陸水系と、
江戸湾から太平洋交易路を結ぶ結節点として。
家康が入る前は寂れたのっぱらだったというのは、神君顕彰伝説の一つ。
(もちろん、近世の百万都市・江戸と比べれば規模は小さいが)
0147人間七七四年
2007/05/20(日) 13:36:53ID:oeNsFLuX江戸は片田舎という伝説が未だに横行しているのはさすがにな
中世関東に於ける河川輸送の重要性を理解すれば至極当然の事なのにね
0148人間七七四年
2007/05/22(火) 03:24:37ID:brWHXuox江戸時代に発達していたのは知っているが、
それは江戸という大消費地があり、また幕府や各大名が治水を行ったり船着場を作ったりして
インフラ整備を行ったからでしょ?
中世の関東など特産物も無く人もまばらで、江戸から積み出しどころか域内の河川交通の需要すら
イメージできないのだが、何を運んでいたの?
0149人間七七四年
2007/05/22(火) 11:22:19ID:ldAmhEs4家康顕彰の伝説なんですよ。関東が発展したのは家康の功績、それ以前は人も少ない
片田舎だった、なんてね。
日本の農村、というか中世の荘園では、自給自足を達成できたところはほぼ絶無です。
これは何を意味するかというと、自分の所ではとれない(生産できない)モノは全て
外部から交易で入手しなければならないということです。生活必需品も含めて。
これは日本の東西で変化はありません。そして物資輸送としての水系は非常に重要だった
のです。
貿易、交易を特産品(ぜいたく品)のみと考えるのは間違いですよ。
0150人間七七四年
2007/05/22(火) 20:35:00ID:8SpwB544むしろ、一般的には、陸上の交通よりも河川の交通の方が先に発達する。
インフラ整備がいらないから。
上流で木材を切って、河川を利用して河口に運んでいって、河口付近が都市になる。
0151人間七七四年
2007/05/22(火) 21:30:53ID:ldAmhEs4じっさい、日本では古代から沿岸航路も内陸水系も含めて、陸路よりも水路の方が
発達していたそうですね。
一応、東海道などの整備は行ったけど、それも寂れて、基本的な通行は水系沿いに
行われたとか。陸路が整備され大きくなり始めるのは、軍隊を頻繁に動かす必要が
生じるようになった平安末以降だそうです。
0152人間七七四年
2007/05/23(水) 00:54:21ID:PrDUaIJD>日本の農村、というか中世の荘園では、自給自足を達成できたところはほぼ絶無です。
中世では町も少なく、定期市が開かれる所も限定的で、基本的に自給自足と思い込んでいた。
勉強しなおしてくる。_| ̄|_。_| ̄|_。
>>150
それが以外と河川にもインフラ整備っていうものが有る。
浅瀬をさらい、岩場の爆破、船着場の整備。
まあ必要ない河川も多いし道路の整備に比べれば楽なもんかもしれないな。
0153人間七七四年
2007/05/23(水) 02:52:11ID:UAKaMDxqhttp://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_4shou/k4shou_4/k4shou_4min.html
房総の湊と流通
> 中世の東京湾には関西・東海方面から太平洋を渡って、数多くの
商船がやってきていました。東京湾には品川(品川区)や神奈川(横浜市)・
金沢(横浜市)を中心に港湾都市がいくつもあって、そうした湊で
交易をして、さらに江戸川をさかのぼって利根川流域にも数多くある
湊までいって交易をおこなっていました。常陸と下総のあいだの
利根川沿いにも交易で栄えた町がたくさんありました。海と川を
利用した水上交通が、当時の流通の大動脈として使われたのです。
0154人間七七四年
2007/05/23(水) 03:17:51ID:eukiLhOG城郭大系だかなんだか忘れたが、中世関東の再現地図を見れば、
関東に於ける(関東に限らないけど)水運の重要性ははっきり理解できると思う。
そして関宿・江戸の重要性もな。
河川の多さと湖沼の巨大さは衝撃的、特に霞ヶ浦は内海と言ってもいい位の規模だし。
0155人間七七四年
2007/05/31(木) 00:19:09ID:3TYGtkXf貿易から見ると典型的な発展途上国の貿易タイプでしかない。
0156人間七七四年
2007/05/31(木) 00:46:56ID:FHvSGncFちなみに日本からの輸出品には、日宋貿易の頃から日本刀・扇子などの工芸品も
主要交易品のひとつに挙げられてますよ。
0158人間七七四年
2007/05/31(木) 20:32:08ID:erf942Ja500年前の日本は超先進国だぞ。
メインの輸出品は工芸品。日本刀も中国に輸出するために創造した刀のブランド。
0160人間七七四年
2007/06/01(金) 01:48:08ID:iU1RyShO日本の輸出品の藍染の藍色をフランス人がやたらと好んで
現代では藍色がそのまま「フレンチブルー」というフランスのナショナルカラーになっています
0161人間七七四年
2007/06/01(金) 12:42:41ID:jnQCFvKV>155も極端。
この頃コンスタンティノープル陥落から百数十年。
西欧圏の国がようやく先進国といってもいいかな?
みたいな程度だったと思う。ちょうどバブル期の日本みたいな。
この後急激に進化するわけで、そう日本と差が
あったわけではないことは確か。その頃の日本なら
勢い、モラル、技術、文明レベルなんかを考えれば、
状況次第で50年もかからず追いつける程度
だったと思う。
この頃の超先進国は、どうしょうもなくトルコ。
つーか、まともな文献の残ってる時代の世界史の
ほとんど(1500年ぐらい?)はペルシャとか
トルコだとか、あの辺がずっと最先端地域。
今は、米英の歴史の浅はかさから来る妬みかと
思うような統治のセイもあってひどいもんだが。
ただ、シリアとかイランとかには、まだそういう
ポテンシャルが残ってるようで、米英は敵視し
封じ込めしようとするのかもしれない。
だから、真ん中のイラクなのかな。
ていうか、いい加減、すれ違いか。
0162人間七七四年
2007/06/01(金) 17:33:59ID:/ILLqy8y0163人間七七四年
2007/06/01(金) 19:30:15ID:YcGjZ1Ib上も下も長引く戦乱に戦慣れしている、などを考えればかなりのトップクラス
日本兵士の蛮勇はイギリス・オランダも高く評価している
0164人間七七四年
2007/06/06(水) 04:02:47ID:TTMQfkME日本において独自に貨幣が作られて流通が開始するのは7世紀頃。
ヨーロッパ・東アジア・南アジアではギリシャ・ローマ・秦漢・マガダ国などで
既に貨幣経済が開始された事を考えると日本の貨幣経済の突入は遅い方になる。
また16世紀までの日本は宋銭・元銭・明銭を使用していたから
16世紀に入るまでの日本は経済的に高くはないんじゃないか。
>>162
少なくともそれはない。
鉄砲の使用なんて日本以外でも見られたし防衛力は高い軍隊かも知れないが、
少なくとも13世紀のモンゴルや16世のスペインのような機動力のある
軍隊は持ち合わせていない。
日本の海軍が強化されるのは第二次大戦中に限られているから、
あまり高い方ではなかつたのではないか。
0165人間七七四年
2007/06/06(水) 04:40:29ID:VUNNyvDKまさか「貨幣経済の普及率=経済力」とかw
0166人間七七四年
2007/06/06(水) 07:13:47ID:ZrAB8UqG鉄砲の大量使用はオスマン帝国が先駆者だが、問題は量だ。
日本の鉄砲生産力・鉄砲の性能・鉄砲保有量は世界トップ。
動員力・装甲兵の割合でもいい線いってる。
オスマン帝国も戦闘員10万、輜重等合わせ15〜20万の動員が可能だったらしい。
同時代の西洋のマスケット銃兵は鎧を着てないし、パイク兵もヘルメットと胸甲しかつけてない。
マスケット銃も照星すらついていないものが多く、宣教師は日本の鉄砲の優越を認めている。
ただ日本は欧州とくらべた海軍の貧弱さ・大砲の発展の遅れは問題だな。
0167人間七七四年
2007/06/06(水) 07:15:13ID:ZrAB8UqG1569年女王エリザベス治下のイギリスはフランス侵攻の際動員できる
【イギリス全体の兵隊】と武器の数を総点検しました。
その集計数は、【兵数24000人】【鉄砲6000挺】でした。
(ソースは『Lindsay Boynton著 The Elizabethan Militia』)
その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が
島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】
【鉄砲9000挺】でした。
すなわち、【欧州最強のスペイン(動員兵数27473人、鉄砲8000挺)】や、
【エリザベス治下のイギリス(全体の兵数24000人、鉄砲6000挺)】では、
【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺(兵数25000人、鉄砲9000挺)】
にさえ及ばないことがわかります。
同時代における日本の鉄砲は威力、生産性、保有数において世界トップですが
何か異論はありますか?
0168人間七七四年
2007/06/06(水) 09:29:02ID:TTMQfkME自国で鋳造した貨幣ではなくて他国の貨幣を使用している時点で高くは無いだろ。
もし日本の経済力が高ければわざわざ他国の貨幣を使用する必要性もない
0169人間七七四年
2007/06/06(水) 09:38:02ID:TTMQfkMEイングランドは小国でしかない。
連合王国はまだ成立していない筈だから小国にすぎないイングランドと比較しても意味ないと思うけど。
僕はオスマン帝国、明朝と比較すべきだと思うけど
0170人間七七四年
2007/06/06(水) 10:31:09ID:TTMQfkME大ブリテン王国すら成立してないしイングランドはヨーロッパの一地方小国。
オスマン帝国・明朝・ムガール帝国の方が国力はあった。
0171人間七七四年
2007/06/06(水) 12:24:11ID:w+22GD3dまして貨幣というのは一律の価値が使用者の間で認められなきゃならない
基本的に地方で割拠してる状態の日本じゃ無理だろ
江戸時代だって東西で金と銀に別れてたんだし
0172人間七七四年
2007/06/06(水) 14:41:05ID:K86e3e5i今でも政権が不安定ならドルで決済するでしょ
経済的に後進ではあるが経済的に貧しいかどうかは別問題
0173人間七七四年
2007/06/06(水) 15:24:16ID:31En7Qds0174人間七七四年
2007/06/06(水) 20:09:42ID:Zz9JIYuM0175人間七七四年
2007/06/06(水) 21:04:25ID:/wC7j7YBそもそも貨幣の需要があるからこそ、外国貨幣をわざわざ交易で持ち込んだわけで。
実際、日本では平安末・鎌倉の頃にはすでに貨幣経済というか貨幣による流通がかなり
広まっていたんだが、何故か、自分達で貨幣を造ろうという気は起こさなかった。
0176人間七七四年
2007/06/06(水) 22:36:44ID:ZrAB8UqG動員力なら明だろう。
鉄砲は1営5600人あたり1984丁あるものの、使えるのは明製鳥銃256丁だけであり
残り1728丁は西洋式ではなく威力が弱い手銃や三眼槍で、具足の前には用をなさない。
宣教師も明や朝鮮の鉄砲は音は派手だが、日本の兵士はまったく倒れないと記している。
大砲は大・小滅虜炮かポルトガル式仏朗機で、性能こそ洋式砲に劣るが量は多い。
ただ、日本も秀吉の小田原攻めでは小型仏郎機が多いだろうが1000門以上が集まったそうだ。
洋式砲の導入も行なっており大阪冬の陣で徳川方が
オランダ製カノン砲・カルバリン砲・セーカー砲十数門を含めた305門の砲撃を行なっている。
大半は家康が国友に1,000門近く発注した芝辻砲らしいが。
中国砲兵の発展は1633年の紅夷式鉄炮の完成を待たなくてはならない。
軍制に関しては歩・騎・砲の諸兵科連合で、この点は日本の備と似ている。
この時代のムガールの大きな戦いは、第一次パーニーパットでムガール1万2000〜1万5000・ロディー朝実数3〜4万、
第二次パーニーパットでムガール2万・スール朝10万。後背人口による潜在的動員力は多いとはいえ、
16世紀後半のムガールは一度滅亡し、やっと復興して北印支配の拡大途上だった。
日本に明らかに勝っているのは騎兵の数と運用。
このころはムガールを軍事的に援助し、4万と言われる騎兵を誇ったサファヴィー朝のほうが強い。
そのサファヴィーも動員力は8万がせいぜいでチャルディランでオスマンのイエニチェリと連鎖砲に大敗。
オスマントルコの動員力はウイーン包囲で13万8000、チャルディランが10〜20万、
コンスタンティノープル包囲で8〜20万と言われている。鉄砲と砲兵は世界有数だし。
ちなみに日本の鉄砲の最大の輸出先はオスマン帝国。
ちなみに日本は外征では朝鮮の役が文禄17万・慶長14万。
国内では応仁の乱が東軍8万5000〜16万、西軍8〜11万。 小田原攻めが豊臣方21万5000・北条方8万2000。
関ヶ原が東軍10万・西軍8万。 大阪冬の陣が徳川20万・豊臣11万。
0177人間七七四年
2007/06/06(水) 23:22:34ID:HNCTIxv6朝鮮で貨幣経済が浸透するのは、江戸時代になってから。
そのころから、日本人はエコノミックアニマルと見られていた。
0178人間七七四年
2007/06/07(木) 04:35:48ID:PZvMrcPl国産の銅の採掘量が減少したからですよ。
大和時代から奈良時代にかけては
市場経済の小ささもあり国産の銅で十分間に合いましたが
平安末には日本国内の銅生産量だけでは間に合わなくなりました。
同じ事が中国大陸でも明代に起きて銅銭の輸出を禁止しました。
0180人間七七四年
2007/06/08(金) 00:11:20ID:LjpDpuWp例えば、米自体が通貨として利用できる文化だったから、
そうではない国と比較すると貨幣はそれほど必要ではない、とか
為政者が頻繁に変わるから、
為政者が変わると前の為政者が発行した通貨が使えない、とか
その為政者の勢力の及ばない地域ではその貨幣が使えない、とか
だから永楽銭のほうが安定した価値があるのでそれを利用した、とか
0181人間七七四年
2007/06/08(金) 00:25:33ID:f1LuXHqf楽市楽座とかやってたし
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