【島国】日本は世界で貧しい国だったの?【辺境】
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0001人間七七四年
2007/05/05(土) 17:42:07ID:YHGSfsuA国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
一般的に言って(日本の)不毛と貧困さは東洋全域で最も甚だしい。
というのは、ポルトガル人が支那から彼等に齎し、彼等が衣類として用いる絹の他には、
殆ど商品らしいものは何もないからです。牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、
彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族も極めて貧困である。
ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられてなく、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして
鄭重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。
日本諸事要録 第二十八章抜粋
全般的に全ての者の収入は乏しく、金銭に不足しているから、真実の武士であり、
自ら武士をもって任じている一般の、或いは特別の武士が、自らは、奉仕する四〜五名の
若者を抱え、妻も同数の召使を抱え、彼等と家中の身分の高い者は全て絹を着て、
しかも百石から百五十石で一家を支える事になる。
これにより、彼等が如何に質素で貧しい生活をしているかが判明する。
夫と妻が辛うじて一年の半ばだけ食べる米があり、残りの半年は大根、果実、及び草や根を
できるだけ食べて(飢えを)しのぎ、他の家人は、米のある時には少量の米を混ぜて、
これらの品を食べて生きている。
日本王国記
この王国では百姓や臣民はひどく圧迫され、ひどく貧困なので、
しばしば彼等に要求される年貢の不足を支払う為に、子供を売るほどである。
百姓は何としても記帳されただけのものは払わなくてはならないし、田畑のもので
十分でなかったら、納税の為に、質にも入れなければならない、子供たちも
売らなければならないのである。
もしそうしなかったら、彼等は殺されるか、税を払わせようと、捕えられ拷問にかけられる。
それに彼等は百姓に対して実に残忍な事をやる。現に私は薩摩の国で1594年に、
籾つまりまだ脱穀や精白しない米ニ俵、当時三マスの値段はしたろうか、それだけの為に、
一人の百姓と女房と二人の子供が殺されたのを目撃したものである。
0133人間七七四年
2007/05/14(月) 23:55:24ID:mQr+5ka+0134人間七七四年
2007/05/15(火) 04:24:33ID:/rcgppyC戦国中期が戦乱続きだったから貧しかったというのはどうかと
経済構造は基本的に変わっていないのだから
単に戦国末期には権力の集中が進んだ結果、富が一箇所に集まり目立つようになったのと、
西洋人には日本的な詫び寂びの精神が理解できず、
一方で秀吉の成金趣味が西洋人のイメージする繁栄の象徴と一致したのではないかな?
もし信長や秀吉が銀閣寺や龍安寺の枯山水のような日本的な詫び寂びの粋を尽くしたようなものを造ったとしたら
戦国末期にやってきた西洋人も日本は貧しい国だと評価するのではないかな?
0135人間七七四年
2007/05/15(火) 21:03:01ID:5QU6wQZm信長が兵農分離やったから戦争中でもあんまり関係なくなってる。
同時期の欧米、特にイギリスはほとんど陸の孤島。まともな食べモノがなかった。
だから、植民地を獲得したり後に産業革命して産業構造を大転換する必要があった。
日本は小さい島に3000万人もの人口がかなりの文化レベルを維持していながら、
植民地を獲得する必要も、産業革命をする必要もなかったということは、
それだけ食べ物には恵まれていたということになる。
0136132
2007/05/15(火) 21:36:56ID:NA/CyWwo兵の動員力からすればかなりのものだし、城下町や寺内町などの日本初の専属市場が
形成されたのもこの頃だし。
0137人間七七四年
2007/05/16(水) 21:40:16ID:M2cbMAYZ町がその時期に増えていったというのは賛成だが、
細かい突っ込みを入れると、日本初の専属市場が生まれたのはもっと前。
交易都市の博多や十三湊が形成されたのは室町時代初期じゃあなかった?
0138人間七七四年
2007/05/16(水) 22:53:16ID:k5+x/xhD0139132
2007/05/17(木) 23:47:09ID:9o5q0yA40141人間七七四年
2007/05/18(金) 21:00:24ID:w7ZibpACどうだったかは知らないけど。
0142人間七七四年
2007/05/18(金) 23:15:41ID:QfDBDSFC東海道の中継港で川の渡しの町と似たようなものだと思っていたよ。
0143人間七七四年
2007/05/18(金) 23:26:11ID:W8Vx/lMz中継港となっていたとしても、江戸が栄えてからの江戸時代以降でしょう。
0144人間七七四年
2007/05/19(土) 00:34:50ID:u8DZsv5d関東以東に出るには基本的に陸路の東海道だろうね
新田も足利も北畠も下ってるし。北畠は北朝勢力圏を迂回するために伊勢から出て常陸鹿島を目指してる
この辺りが太平洋側の海路の限界じゃないかな
0145人間七七四年
2007/05/19(土) 01:40:04ID:Kr+PXMwV0146人間七七四年
2007/05/20(日) 13:10:54ID:APSXRx8X江戸は、中世の頃から貿易港として栄えていたよ。利根川などの内陸水系と、
江戸湾から太平洋交易路を結ぶ結節点として。
家康が入る前は寂れたのっぱらだったというのは、神君顕彰伝説の一つ。
(もちろん、近世の百万都市・江戸と比べれば規模は小さいが)
0147人間七七四年
2007/05/20(日) 13:36:53ID:oeNsFLuX江戸は片田舎という伝説が未だに横行しているのはさすがにな
中世関東に於ける河川輸送の重要性を理解すれば至極当然の事なのにね
0148人間七七四年
2007/05/22(火) 03:24:37ID:brWHXuox江戸時代に発達していたのは知っているが、
それは江戸という大消費地があり、また幕府や各大名が治水を行ったり船着場を作ったりして
インフラ整備を行ったからでしょ?
中世の関東など特産物も無く人もまばらで、江戸から積み出しどころか域内の河川交通の需要すら
イメージできないのだが、何を運んでいたの?
0149人間七七四年
2007/05/22(火) 11:22:19ID:ldAmhEs4家康顕彰の伝説なんですよ。関東が発展したのは家康の功績、それ以前は人も少ない
片田舎だった、なんてね。
日本の農村、というか中世の荘園では、自給自足を達成できたところはほぼ絶無です。
これは何を意味するかというと、自分の所ではとれない(生産できない)モノは全て
外部から交易で入手しなければならないということです。生活必需品も含めて。
これは日本の東西で変化はありません。そして物資輸送としての水系は非常に重要だった
のです。
貿易、交易を特産品(ぜいたく品)のみと考えるのは間違いですよ。
0150人間七七四年
2007/05/22(火) 20:35:00ID:8SpwB544むしろ、一般的には、陸上の交通よりも河川の交通の方が先に発達する。
インフラ整備がいらないから。
上流で木材を切って、河川を利用して河口に運んでいって、河口付近が都市になる。
0151人間七七四年
2007/05/22(火) 21:30:53ID:ldAmhEs4じっさい、日本では古代から沿岸航路も内陸水系も含めて、陸路よりも水路の方が
発達していたそうですね。
一応、東海道などの整備は行ったけど、それも寂れて、基本的な通行は水系沿いに
行われたとか。陸路が整備され大きくなり始めるのは、軍隊を頻繁に動かす必要が
生じるようになった平安末以降だそうです。
0152人間七七四年
2007/05/23(水) 00:54:21ID:PrDUaIJD>日本の農村、というか中世の荘園では、自給自足を達成できたところはほぼ絶無です。
中世では町も少なく、定期市が開かれる所も限定的で、基本的に自給自足と思い込んでいた。
勉強しなおしてくる。_| ̄|_。_| ̄|_。
>>150
それが以外と河川にもインフラ整備っていうものが有る。
浅瀬をさらい、岩場の爆破、船着場の整備。
まあ必要ない河川も多いし道路の整備に比べれば楽なもんかもしれないな。
0153人間七七四年
2007/05/23(水) 02:52:11ID:UAKaMDxqhttp://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_4shou/k4shou_4/k4shou_4min.html
房総の湊と流通
> 中世の東京湾には関西・東海方面から太平洋を渡って、数多くの
商船がやってきていました。東京湾には品川(品川区)や神奈川(横浜市)・
金沢(横浜市)を中心に港湾都市がいくつもあって、そうした湊で
交易をして、さらに江戸川をさかのぼって利根川流域にも数多くある
湊までいって交易をおこなっていました。常陸と下総のあいだの
利根川沿いにも交易で栄えた町がたくさんありました。海と川を
利用した水上交通が、当時の流通の大動脈として使われたのです。
0154人間七七四年
2007/05/23(水) 03:17:51ID:eukiLhOG城郭大系だかなんだか忘れたが、中世関東の再現地図を見れば、
関東に於ける(関東に限らないけど)水運の重要性ははっきり理解できると思う。
そして関宿・江戸の重要性もな。
河川の多さと湖沼の巨大さは衝撃的、特に霞ヶ浦は内海と言ってもいい位の規模だし。
0155人間七七四年
2007/05/31(木) 00:19:09ID:3TYGtkXf貿易から見ると典型的な発展途上国の貿易タイプでしかない。
0156人間七七四年
2007/05/31(木) 00:46:56ID:FHvSGncFちなみに日本からの輸出品には、日宋貿易の頃から日本刀・扇子などの工芸品も
主要交易品のひとつに挙げられてますよ。
0158人間七七四年
2007/05/31(木) 20:32:08ID:erf942Ja500年前の日本は超先進国だぞ。
メインの輸出品は工芸品。日本刀も中国に輸出するために創造した刀のブランド。
0160人間七七四年
2007/06/01(金) 01:48:08ID:iU1RyShO日本の輸出品の藍染の藍色をフランス人がやたらと好んで
現代では藍色がそのまま「フレンチブルー」というフランスのナショナルカラーになっています
0161人間七七四年
2007/06/01(金) 12:42:41ID:jnQCFvKV>155も極端。
この頃コンスタンティノープル陥落から百数十年。
西欧圏の国がようやく先進国といってもいいかな?
みたいな程度だったと思う。ちょうどバブル期の日本みたいな。
この後急激に進化するわけで、そう日本と差が
あったわけではないことは確か。その頃の日本なら
勢い、モラル、技術、文明レベルなんかを考えれば、
状況次第で50年もかからず追いつける程度
だったと思う。
この頃の超先進国は、どうしょうもなくトルコ。
つーか、まともな文献の残ってる時代の世界史の
ほとんど(1500年ぐらい?)はペルシャとか
トルコだとか、あの辺がずっと最先端地域。
今は、米英の歴史の浅はかさから来る妬みかと
思うような統治のセイもあってひどいもんだが。
ただ、シリアとかイランとかには、まだそういう
ポテンシャルが残ってるようで、米英は敵視し
封じ込めしようとするのかもしれない。
だから、真ん中のイラクなのかな。
ていうか、いい加減、すれ違いか。
0162人間七七四年
2007/06/01(金) 17:33:59ID:/ILLqy8y0163人間七七四年
2007/06/01(金) 19:30:15ID:YcGjZ1Ib上も下も長引く戦乱に戦慣れしている、などを考えればかなりのトップクラス
日本兵士の蛮勇はイギリス・オランダも高く評価している
0164人間七七四年
2007/06/06(水) 04:02:47ID:TTMQfkME日本において独自に貨幣が作られて流通が開始するのは7世紀頃。
ヨーロッパ・東アジア・南アジアではギリシャ・ローマ・秦漢・マガダ国などで
既に貨幣経済が開始された事を考えると日本の貨幣経済の突入は遅い方になる。
また16世紀までの日本は宋銭・元銭・明銭を使用していたから
16世紀に入るまでの日本は経済的に高くはないんじゃないか。
>>162
少なくともそれはない。
鉄砲の使用なんて日本以外でも見られたし防衛力は高い軍隊かも知れないが、
少なくとも13世紀のモンゴルや16世のスペインのような機動力のある
軍隊は持ち合わせていない。
日本の海軍が強化されるのは第二次大戦中に限られているから、
あまり高い方ではなかつたのではないか。
0165人間七七四年
2007/06/06(水) 04:40:29ID:VUNNyvDKまさか「貨幣経済の普及率=経済力」とかw
0166人間七七四年
2007/06/06(水) 07:13:47ID:ZrAB8UqG鉄砲の大量使用はオスマン帝国が先駆者だが、問題は量だ。
日本の鉄砲生産力・鉄砲の性能・鉄砲保有量は世界トップ。
動員力・装甲兵の割合でもいい線いってる。
オスマン帝国も戦闘員10万、輜重等合わせ15〜20万の動員が可能だったらしい。
同時代の西洋のマスケット銃兵は鎧を着てないし、パイク兵もヘルメットと胸甲しかつけてない。
マスケット銃も照星すらついていないものが多く、宣教師は日本の鉄砲の優越を認めている。
ただ日本は欧州とくらべた海軍の貧弱さ・大砲の発展の遅れは問題だな。
0167人間七七四年
2007/06/06(水) 07:15:13ID:ZrAB8UqG1569年女王エリザベス治下のイギリスはフランス侵攻の際動員できる
【イギリス全体の兵隊】と武器の数を総点検しました。
その集計数は、【兵数24000人】【鉄砲6000挺】でした。
(ソースは『Lindsay Boynton著 The Elizabethan Militia』)
その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が
島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】
【鉄砲9000挺】でした。
すなわち、【欧州最強のスペイン(動員兵数27473人、鉄砲8000挺)】や、
【エリザベス治下のイギリス(全体の兵数24000人、鉄砲6000挺)】では、
【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺(兵数25000人、鉄砲9000挺)】
にさえ及ばないことがわかります。
同時代における日本の鉄砲は威力、生産性、保有数において世界トップですが
何か異論はありますか?
0168人間七七四年
2007/06/06(水) 09:29:02ID:TTMQfkME自国で鋳造した貨幣ではなくて他国の貨幣を使用している時点で高くは無いだろ。
もし日本の経済力が高ければわざわざ他国の貨幣を使用する必要性もない
0169人間七七四年
2007/06/06(水) 09:38:02ID:TTMQfkMEイングランドは小国でしかない。
連合王国はまだ成立していない筈だから小国にすぎないイングランドと比較しても意味ないと思うけど。
僕はオスマン帝国、明朝と比較すべきだと思うけど
0170人間七七四年
2007/06/06(水) 10:31:09ID:TTMQfkME大ブリテン王国すら成立してないしイングランドはヨーロッパの一地方小国。
オスマン帝国・明朝・ムガール帝国の方が国力はあった。
0171人間七七四年
2007/06/06(水) 12:24:11ID:w+22GD3dまして貨幣というのは一律の価値が使用者の間で認められなきゃならない
基本的に地方で割拠してる状態の日本じゃ無理だろ
江戸時代だって東西で金と銀に別れてたんだし
0172人間七七四年
2007/06/06(水) 14:41:05ID:K86e3e5i今でも政権が不安定ならドルで決済するでしょ
経済的に後進ではあるが経済的に貧しいかどうかは別問題
0173人間七七四年
2007/06/06(水) 15:24:16ID:31En7Qds0174人間七七四年
2007/06/06(水) 20:09:42ID:Zz9JIYuM0175人間七七四年
2007/06/06(水) 21:04:25ID:/wC7j7YBそもそも貨幣の需要があるからこそ、外国貨幣をわざわざ交易で持ち込んだわけで。
実際、日本では平安末・鎌倉の頃にはすでに貨幣経済というか貨幣による流通がかなり
広まっていたんだが、何故か、自分達で貨幣を造ろうという気は起こさなかった。
0176人間七七四年
2007/06/06(水) 22:36:44ID:ZrAB8UqG動員力なら明だろう。
鉄砲は1営5600人あたり1984丁あるものの、使えるのは明製鳥銃256丁だけであり
残り1728丁は西洋式ではなく威力が弱い手銃や三眼槍で、具足の前には用をなさない。
宣教師も明や朝鮮の鉄砲は音は派手だが、日本の兵士はまったく倒れないと記している。
大砲は大・小滅虜炮かポルトガル式仏朗機で、性能こそ洋式砲に劣るが量は多い。
ただ、日本も秀吉の小田原攻めでは小型仏郎機が多いだろうが1000門以上が集まったそうだ。
洋式砲の導入も行なっており大阪冬の陣で徳川方が
オランダ製カノン砲・カルバリン砲・セーカー砲十数門を含めた305門の砲撃を行なっている。
大半は家康が国友に1,000門近く発注した芝辻砲らしいが。
中国砲兵の発展は1633年の紅夷式鉄炮の完成を待たなくてはならない。
軍制に関しては歩・騎・砲の諸兵科連合で、この点は日本の備と似ている。
この時代のムガールの大きな戦いは、第一次パーニーパットでムガール1万2000〜1万5000・ロディー朝実数3〜4万、
第二次パーニーパットでムガール2万・スール朝10万。後背人口による潜在的動員力は多いとはいえ、
16世紀後半のムガールは一度滅亡し、やっと復興して北印支配の拡大途上だった。
日本に明らかに勝っているのは騎兵の数と運用。
このころはムガールを軍事的に援助し、4万と言われる騎兵を誇ったサファヴィー朝のほうが強い。
そのサファヴィーも動員力は8万がせいぜいでチャルディランでオスマンのイエニチェリと連鎖砲に大敗。
オスマントルコの動員力はウイーン包囲で13万8000、チャルディランが10〜20万、
コンスタンティノープル包囲で8〜20万と言われている。鉄砲と砲兵は世界有数だし。
ちなみに日本の鉄砲の最大の輸出先はオスマン帝国。
ちなみに日本は外征では朝鮮の役が文禄17万・慶長14万。
国内では応仁の乱が東軍8万5000〜16万、西軍8〜11万。 小田原攻めが豊臣方21万5000・北条方8万2000。
関ヶ原が東軍10万・西軍8万。 大阪冬の陣が徳川20万・豊臣11万。
0177人間七七四年
2007/06/06(水) 23:22:34ID:HNCTIxv6朝鮮で貨幣経済が浸透するのは、江戸時代になってから。
そのころから、日本人はエコノミックアニマルと見られていた。
0178人間七七四年
2007/06/07(木) 04:35:48ID:PZvMrcPl国産の銅の採掘量が減少したからですよ。
大和時代から奈良時代にかけては
市場経済の小ささもあり国産の銅で十分間に合いましたが
平安末には日本国内の銅生産量だけでは間に合わなくなりました。
同じ事が中国大陸でも明代に起きて銅銭の輸出を禁止しました。
0180人間七七四年
2007/06/08(金) 00:11:20ID:LjpDpuWp例えば、米自体が通貨として利用できる文化だったから、
そうではない国と比較すると貨幣はそれほど必要ではない、とか
為政者が頻繁に変わるから、
為政者が変わると前の為政者が発行した通貨が使えない、とか
その為政者の勢力の及ばない地域ではその貨幣が使えない、とか
だから永楽銭のほうが安定した価値があるのでそれを利用した、とか
0181人間七七四年
2007/06/08(金) 00:25:33ID:f1LuXHqf楽市楽座とかやってたし
0183人間七七四年
2007/06/08(金) 05:52:47ID:20Bf9xyq金貨と銀貨の流通量が激しく増えたからですよ。
信玄・秀吉時代のゴールドラッシュによって小判もかなり流通するようになった。
細々とした買い物は銅銭を使うが、ある程度まとまったものを買うには一分金銀、一朱金銀を使うようになり
旅行も両替商の普及で銅銭など持ち歩く人はなくなり金・銀・為替を持ち歩き
小銭は宿場を巡回する両替商と両替していつでも交換できるようになった。
つまり室町時代と比べたら江戸時代は莫大な銅銭を必要としなくなった。
これは現在、カード化が進み白銅銭(50円、100円)黄銅銭(10円)の需要が小さくなった現在と酷似している。
0184人間七七四年
2007/06/08(金) 18:08:25ID:20Bf9xyq布が貨幣の代わりだった、ソウル付近では銅貨が流通していたが
ちょっとした買い物にいくのにも驢馬に大量の銅貨を負わせて出かけなくてはならないので
非常に買い物が不便だった。また貿易商人は銀を外国との決済通貨として使ったが
それは好んでそうしたわけじゃなく清が朝鮮に銀で決済するよう命じたためで
足りない分は妓生(慰安婦)で支払わされた。少しでも銀を集めるために
日本には朝鮮人参などを売って銀で決済してもらい日本から受け取った銀を
清にそのまま奪われ続けた(代わりに清は塩を朝鮮へ押し売りしていた)
金貨や銀貨が国内で流通してなかった朝鮮と比べると日本では樽廻船・菱垣廻船行路の港町や
五街道、三都、各藩の城下町では金銀が流通しており、貨幣経済がかなりの田舎にまで浸透していた。
0185人間七七四年
2007/06/09(土) 19:14:43ID:QSMZ0s/h東寺の土地が平安末期に宋銭で売買されたのをはじめに、土地売買が横行していく
鎌倉末期には御家人の土地売買が社会問題化
農民も銭納するものが現れ、貨幣経済が大浸透、中国が銅銭輸出を規制するほどだった
0186人間七七四年
2007/06/09(土) 19:25:05ID:QSMZ0s/hその不足を銀目手形や藩札などの有価証書が補った
両替商金融に預けた預金証書は第三者に支払手段として広く用いられたし、
藩札も地元の豪商や大坂両替商が信用元となって発行され、藩経済の発展に
寄与した
0187仙台藩百姓
2007/06/09(土) 19:39:03ID:3hnLZ4690188人間七七四年
2007/06/09(土) 21:03:09ID:4him/Ezw時々まともなこと言うなw
0189人間七七四年
2007/06/10(日) 00:59:34ID:xs0a8XWA0191人間七七四年
2007/06/10(日) 23:19:04ID:xs0a8XWA少し前の時代の南宋の民よりもかなり貧しかったろうな
でもアジアの平均やアフリカの平均と比べれば図抜けて豊かだったろうと思われる。
だって隣国の朝鮮やフィリピンを見るだけでも推して知るべしだし。
0192人間七七四年
2007/06/11(月) 18:04:06ID:WqdfGidA0193人間七七四年
2007/06/11(月) 20:46:53ID:5Ovb2je2それは中世までのアジアとアフリカを随分となめくさってない?
東南アジア諸国の交易による豊かさ、文明の中心というべき中東の繁栄、
また植民地化される以前のアフリカの富をあなたが知らないだけでは?
0194人間七七四年
2007/06/11(月) 21:31:15ID:WqdfGidAイスファハーンは「世界の半分」だもんね。
0195人間七七四年
2007/06/11(月) 23:38:32ID:wwkupuQq0196人間七七四年
2007/06/11(月) 23:43:27ID:5ojWVHOkアジアやアフリカは、 確かに紀元前から現在に至るまで世界最高峰の文明が存在してはいるが、 平 均 す る と 平安末期の飢饉の日本よりも貧しいよ
0197人間七七四年
2007/06/11(月) 23:56:22ID:5Ovb2je20198人間七七四年
2007/06/12(火) 00:45:49ID:6kWc9U9p0199人間七七四年
2007/06/12(火) 01:06:30ID:KK/L85kk0200人間七七四年
2007/06/12(火) 02:16:21ID:Pdt0SDCG裕福な時期があったといえる。もちろん日本でもヨーロッパでも。
0201人間七七四年
2007/06/12(火) 02:18:36ID:Pdt0SDCG「平均」を言い出して貧しかったと言い出したり、限られた時間・空間を切り出して
裕福だと言ったり、いったい何を主張したいんだ?
0202人間七七四年
2007/06/12(火) 23:36:25ID:gGqurNeU0203人間七七四年
2007/06/13(水) 00:36:35ID:GLmVoCPT西欧は偏西風の影響で緯度の割には暖かいが日本ほど草木が生い茂って清流が流れてるような所はあまりない。
0204人間七七四年
2007/06/13(水) 01:03:50ID:pm+BWj/q例えば8月の平均気温はシンガポールより大阪のほうが高いw
高温多湿、日本の夏は地獄だよ。
ロンドンやパリなんて夏は平均気温20℃以下だし、あの緯度で冬の温度は名古屋並。
台風もない、地震もない・・・・
ドイツも寒いイメージがあるが気温は北陸〜東北程度
雪の多い南ドイツでも降雪量は日本の日本海側の数分の一
北陸〜北海道は世界で最も降雪の多い地帯の一つだから
0205人間七七四年
2007/06/13(水) 01:35:02ID:YwWTltOCつ小氷期
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B0%B7%E6%9C%9F
0207人間七七四年
2007/06/13(水) 07:39:26ID:uSjvBAJ+札幌の親戚も昔と比べたら最近は雪が降らなくなったと言ってる。
0208人間七七四年
2007/06/13(水) 10:09:44ID:I6hYJGV9興味深かった。
1位新潟、2位愛知、3位兵庫、4位広島、5位東京…。
今とは随分違う。
地方の多様性、力の分布の均等性。
あれが近代日本を作ったエネルギーの源だね。
今は東京と大阪に集中しすぎ。新しい発想力が生まれにくい。
ある意味今より昔のほうが豊かだったかもね。
0209人間七七四年
2007/06/13(水) 13:17:01ID:uSjvBAJ+(上野の方が拓けてたらしい)
0210人間七七四年
2007/06/14(木) 13:11:57ID:qWDYAM5U絶対暑かったって
0211人間七七四年
2007/06/14(木) 21:02:31ID:D6UoNAZE冬は雪景色に朱塗りの建物が映えるとかそういう描写が多いもんな。
絵から想像すると夏は今より暑く、冬は今より寒かったんじゃないか?
0212人間七七四年
2007/06/14(木) 21:45:13ID:UVqWlmAJ江戸時代といっても長いしね。
基本は気温低かったみたい。
0213人間七七四年
2007/06/15(金) 00:13:28ID:QI//XcxJ温暖化が進んでもだいじょーぶ?
0215人間七七四年
2007/06/15(金) 02:13:53ID:5mtf8hF2冬暖かく夏は涼しくなるらしい(全体としての平均気温は上がる)
逆に寒冷化が進むと暑さ寒さが両極端になる
0216人間七七四年
2007/06/15(金) 03:22:20ID:qR8k2XbX0217山形百姓
2007/06/15(金) 10:55:43ID:TEpZlzNcしかし山形はジメジメしているため、体感温度はさらに上がる
沖縄人も山形は暑いといっていた
0218人間七七四年
2007/06/16(土) 00:28:09ID:DKn8snR7人口も多くて大都市もあって食料事情もめぐまれていたりするが、その割には平均寿命が低い。
上手く説明できないけど、邪気が停滞してる感じ。
日本も盆地はそんな感じ。
0219人間七七四年
2007/06/16(土) 00:49:12ID:kpjGDfEeでも長野県は平均寿命日本一だよ(男性日本一、女性もトップクラス;沖縄は大きく後退した)
0220人間七七四年
2007/06/16(土) 01:42:17ID:WQo1Gv1m陸地の気温が上がると、海陸風が吹き出し気温上昇に歯止めがかかる
冬も海水の影響で気温がさがりにくい
内陸気候は寒暖の差が激しい
0221人間七七四年
2007/06/16(土) 11:36:24ID:WEjziTCUフェーン現象と移流が起きにくい盆地地形のダブル効果だな。
冬は逆フェーンでドカ雪だし。
日本海側は似たようなもんだ。
0222人間七七四年
2007/06/16(土) 13:06:45ID:Ae8zhkzN0223人間七七四年
2007/06/16(土) 16:07:28ID:2XChdjDs全く問題の無いことなんだろうけどな。
0224人間七七四年
2007/06/16(土) 16:59:25ID:WQo1Gv1m日本の都市の平均年間降雪量(cm)
名寄 856
旭川 756 同規模以上の都市で世界一
深川. 1114
滝川 964
岩見沢 794 同規模以上の都市で世界一
美唄 863
夕張 955
札幌 630 同規模以上の都市で世界一
小樽 722
青森 774 同規模以上の都市で世界一
横手 826
新庄 878
尾花沢 919
山形 491
長井 774
東京. 13
魚沼(小出)1098
十日町 1262 同規模以上の都市で世界一
上越(高田). 756
飯山 831
飛騨高山. 511
豊岡 372
大阪 3
鳥取 263
参考
ミュンヘン 87
オスロ(ノルウェー) 142
サンクトペテルブルグ 約270
キエフ(ウクライナ) 355
バッファロー 約510 日本以外では最も雪の積もる都市の一つと思われる
0225人間七七四年
2007/06/16(土) 18:18:51ID:OWS1H6eH漏れは道民だけど初めて知ったw
どうりで雪が多いと思ってた
ちなみに北海道は食料的に豊かか貧しいかと聞かれると稲作農業では現在でも非常に貧しい地域です。
本来稲作をやる事自体が大間違いの土壌で現在の稲作の地位を確立するまでに戦後30年に渡る美瑛市にある研究所での品種改良研究と現在も続いている泥炭土壌改良土木工事と水幹線工事などなど「本州に負けてたまるか」の異常な開拓者執念と精神による物ですなw
大正時代以前にもなりますと稲作が可能だったのは一部の限られた地域で取れる米も非常に少なかったと聞いてます。
アイヌの資料を見ますと江戸時代の北海道の主食は魚類とドングリ他は狩猟による物だったとありますね。
明治時代までは北海道は触れてはならぬ「死の大地」
北海道は何でも作れる豊かで広大な大地と思ってる人も多いですが
実は日本で一番貧しい土地の一つなのですね
0226人間七七四年
2007/06/16(土) 22:13:22ID:kpjGDfEeでも現在の北海道の食料自給率は200%を優に超えると聞いてるが・・・
県別米生産量でも日本一だし・・・
0227人間七七四年
2007/06/16(土) 22:20:40ID:DKn8snR7イモとコメの品種改良が成功したから。
こう考えると、遺伝子改良にヤッキになる理由も分からんでもない。
0228人間七七四年
2007/06/16(土) 23:47:09ID:1F8TY3It0229人間七七四年
2007/06/17(日) 00:17:25ID:aGT+U5u31980年代に心ある日本人の篤農家が罪滅ぼしに中国で広めてきた。
でも当然にように感謝もされず逆恨みされてるわけだがw
(旧満州は大日本帝国時代を知る老人の方が親日家だったりする)
0230人間七七四年
2007/06/17(日) 00:19:12ID:aGT+U5u3きららとかあきたこまちも食いなれると全然不味くはないな。
0231人間七七四年
2007/06/17(日) 02:07:56ID:4hLaaeciというか、板違いだが、満州は歴史的に見て中国じゃないわなぁ
0232人間七七四年
2007/06/17(日) 07:21:32ID:GsJoO2mUその他の中国内陸部、韓国も同じだ(った)よ。
その後のキチガイ反日運動で糊塗ないし潰されてしまった。
時間と共に消滅。
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