毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
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0001人間七七四年
2007/02/22(木) 14:14:40ID:DFbOxH4O戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。
それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。
0773人間七七四年
2011/06/19(日) 00:44:17.78ID:wAExx/Ch0774人間七七四年
2011/06/24(金) 16:05:37.34ID:kItyo8g5間違った知識が入るだけで読む価値すらない。
0775人間七七四年
2011/06/26(日) 17:11:33.95ID:XZMKwyXqちなみに宇喜多秀家の悪口も書いていて
岩国吉川の歴史捏造学者の香川正矩は陰徳記において
「直家死後に人質として送られた秀家の母が絶世の美女で
秀吉にムチャクチャ寵愛されたから、美作・備前・備中・播磨の一部を引き継げて秀吉の養子になれただけ」などと女好き秀吉の売女になった母のおかげだと根拠なしの中傷してる。
0776人間七七四年
2011/06/26(日) 19:57:16.62ID:985muy5S宗麟を女好きに捏造しただけでなく
宇喜多の悪口で秀吉に寝取られたとか書くなんて
さすが性悪捏造において東の伊達か西の毛利か!と並び称される歪曲横綱毛利様。
0777人間七七四年
2011/06/27(月) 09:06:11.86ID:TUmWfydk黒人みたいに黒くてブサイクと記述するキチガイ力が毛利系史料のワンダフルな点だよ。
さらに中国故事を盗用し無理やりねじ込む逸話製造マシーンが毛利系史料。
0778人間七七四年
2011/06/27(月) 10:56:38.07ID:mN1k90tP0779人間七七四年
2011/06/28(火) 05:00:54.73ID:HhwRnb72一進一退くらにで維持できたろ。
0780人間七七四年
2011/06/28(火) 05:39:00.65ID:Hj27mFpE0781人間七七四年
2011/06/28(火) 12:46:34.87ID:cGFVMJ0c門司の毛利方の策動を知り国東半島から小倉に急行することもたびたびで
豊前方面の責任者やって負けてないよ。
対島津戦では島津との和睦交渉しつつ
軍議内容は角隈石宗などとどうやってキリスト教を潰せるかの策動をしていた。
そしたら最前線で衝突が起こり気付いてみたら自分が知らないうちに大敗してた。
0782人間七七四年
2011/06/29(水) 09:26:34.38ID:pptktEE3ただ大領を持ってて
野心家過ぎる濃いメンバーなだけで。
守護大名だったから大友宗家の直轄地が少ないのがきつかった。
もはやこれ以上の加増は無理レベルだけど戦争やらせるにも
言うこときかせるにも恩賞必要だし。
仕方がないから寺社破壊で荘園没収しか手がなかった。
政治統治システムも面白い。
中央で政治参加する場合は有事以外では軍団統御できない。
最前線で軍団指揮するためには地方へ赴任転出して政治参加できない。
0783人間七七四年
2011/06/30(木) 14:29:26.53ID:G0BNfFVG毛利を撃退した道雪も存外大したことないね
0784人間七七四年
2011/06/30(木) 20:55:52.86ID:j++DnQycむしろ小早川らから大友攻めするから
島津も兵を出してって頼んでる書状があるから
耳川で伊東復帰を狙った日向戦で島津と大友が戦っている最中にも
毛利は北九州を襲撃している可能性があるわけで、
そうだとしたら道雪に毛利は記録に残らない早さで瞬殺されてるわけなんだが。
0785人間七七四年
2011/07/02(土) 14:25:16.71ID:Wx2sJ4+P大友軍の一部が大きく西に回る迂回路を使って南下し耳川に着くのが遅れてたり(途中で筑前筑後へ行ける道だった)
田原紹忍が島津との和睦交渉をしようとしたり(おそらく宗麟の意向だろう)
毛利が北九州を攻撃した可能性はあるんだよね。
まあ筑前や筑後の兵力を率いた道雪が軽く毛利軍を粉砕したから問題なかったんだろうけど。
むしろ道雪が毛利軍に苦戦していたら耳川合戦前に大友軍は北九州へ呼び戻されてたかもね。
0786人間七七四年
2011/07/11(月) 23:00:30.45ID:a+iSm9do0787人間七七四年
2011/07/12(火) 08:03:29.92ID:i/IYVuuNにわか素人乙
0788月孔雀
2011/07/12(火) 21:32:45.49ID:UYldFE/L0789人間七七四年
2011/07/13(水) 00:00:58.16ID:i+QpW1k50790人間七七四年
2011/07/13(水) 01:05:01.23ID:jAP7DA500794人間七七四年
2011/07/13(水) 23:24:13.11ID:PRK9JoYb宗麟だけじゃなく三大切支丹大名はどれも波乱に満ちていておもしろかった。
0796人間七七四年
2011/07/15(金) 15:06:15.42ID:P/Yl3HFk有馬なんて龍造寺や島津にイジメられまくって可哀想すぐるよな…
0797人間七七四年
2011/07/15(金) 21:27:49.80ID:pMq6CN6o有馬なんて詐欺師に道連れにされるとか、諸行無常感が半端ない
0798人間七七四年
2011/07/16(土) 14:01:21.43ID:bCZgQhtdこれ道雪のいる北から攻めるのはリスク大きいから南から島津に大友を切り崩してもらおうって
隆景の調略なんじゃないの?
最終的には毛利が一番得してるしさ。
0799人間七七四年
2011/07/16(土) 14:16:06.19ID:1mhhLTIdいやそもそも隆景がどうこう関係なく
日向の土持氏が島津化するのを防ぐ為に大友は出兵するわけだが。
しかも毛利はまったく得してないどころか最悪の結果を招いた。
なぜなら織田が大友と島津の和睦を斡旋した為に
大友は南の国境をまったく心配する必要性が無くなり
織田と大友による毛利挟撃体制が構築されただけだから。
本能寺が無ければ毛利完全滅亡フラグを建てただけに過ぎない。
0800人間七七四年
2011/07/16(土) 15:00:24.76ID:bCZgQhtd耳川の戦いで敗北したあとは各所で反乱起こされまくりで大友にはそんな余裕ないんですが
実際に滅亡フラグ立っちゃったのは大友の方でしたね
そもそも大友は織田と同盟したと仮定しても口先だけでしょ
中国方面に興味がない
0801人間七七四年
2011/07/16(土) 16:19:16.37ID:whnG6D2qしかもその間に国東半島沖で毛利水軍撃破して周防まで追撃してるしw
そもそも毛利厨が無知でまったく前後の話を知らずに語ってるのがモロバレ。
相変わらずの恥さらしっぷりw
あのね、隆景の調略じゃなくてね、上洛したい義昭が主導してんだよアホwww
義昭は他にも島津と竜造寺の和睦も纏めようとしている。
しかし一方で織田からの要望で大友の調略があり
周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が
天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
この状況下で義昭の外交とは関係なく、すでに大友軍は日向を南下してるわけで、
毛利の謀略とか何寝ぼけたこと言ってんだよwww
この頃の隆景や元春は播磨戦線にいて三木表にいる信忠軍にビビってる状況ですw
元春は播磨での織田との決戦を嫌がって但馬へ行きたくて仕方が無く、
義昭が「但馬なんて行かずに隆景と協力して別所や本願寺を救ってくれ!
そうすれば但馬なんてほっといても毛利に帰属する」って説得工作をされてる。
よって毛利軍が筑前豊前に出陣したとしても大規模なものでは無い。
0802人間七七四年
2011/07/16(土) 16:59:37.45ID:bCZgQhtdそれこそ即座に収拾されている
つーかなんで耳川の戦い以前の話してんの?
それになんで毛利が九州に即座に攻め入る話になってんの?
大友が弱体化するまで本気で九州に手を出すはずない
実際大友が瀕死になってから豊臣と共同で九州を一気に制圧してるんだし
偏見と妄想が激しすぎて意味不になってるよw
0803人間七七四年
2011/07/16(土) 18:21:27.09ID:whnG6D2qお前アホなの?手を出すはずがないも何も
天正6年11月の耳川の戦いと同時期に毛利は第二次木津川口の戦いで大敗してんだけどwww
オマケに2年後には田原親貫に呼応して国東半島沖に出陣した毛利水軍は
若林鎮興率いる大友水軍にまで大敗www
>>耳川の戦い以前の話してんの
分かりやすく状況説明してんだろ。そもそも隆景の調略とかお前が言うから
その時期の話をしてやってたんだがwお前完全に時系列が理解できてないね。
ついでに言うと天正6年3月に謙信や元春に兄弟揃って贈り物攻勢してた丹波の赤井直正が
死去したために義昭の東西挟撃策が完全に崩壊。
しかも天正7年に輝元は武田勝頼に出兵依頼してて武田軍が
織田を牽制すべく遠江へ出兵することになり信長は安土へ引き返すことになるんだが
毛利出陣寸前1/16にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して
大友軍の田原宗亀(親貫の養父)が援助に来援してきたために出兵中止。
本願寺や荒木から今がチャンスと輝元は言われるが
大友の動きが気になり出兵できずその間に淡路岩屋城も織田に取られてしまい
本願寺どころか荒木まで見捨てることにw
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。
すると美作の草荊景継や南条元続も続々と毛利を見切り
光秀や幽斎により赤井が滅ぼされ丹波丹後の制圧にほぼメドがつき
天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、
南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
毛利にはまったく余裕なんてねーからw
それに豊臣と共同ではなく豊臣に従属しての間違い。
しかも毛利は豊前で秋月・高橋・長野兄弟に苦戦しまくりで
秀吉からお前らじゃとても無理だから進軍ストップして
豊臣秀長らの豊臣軍先鋒が九州に来るまで待ってろと言われたほどの弱軍じゃねぇかw
0804人間七七四年
2011/07/16(土) 23:35:44.92ID:NVJ8/obfだいたい海戦で大敗したら武将が死にまくってるわw
第一次木津川口の戦いがいい例だ
大敗や苦戦はお前の中だけの話誰も信用せんよw
長ったらしい自説年表まで持ち出してご苦労さん
杉重良って九州で高橋鑑種に負けてるし毛利の足すら引っ張れていないのには笑ったよ
九州征伐は豊臣軍のお膳立てするために動いてるからゆるゆる攻めてるのは当たり前
戦でのリスク回避もできて秀吉から友軍として絶大な信用も得ている
ほんと毛利はうまく立ち回ってるよ
しかしそんなに詳しいなら自分で本でも出版すればいいのにw
絶対売れると思うよw
0805人間七七四年
2011/07/17(日) 01:16:18.41ID:39kboqp6杉重良が高橋鑑種に討たれたなんて話はwikiでしか見たことないが
その一次資料を教えて欲しいんだが。
0806人間七七四年
2011/07/17(日) 02:15:14.80ID:39kboqp6秋月から高橋への養子ネタも秋月の自称で鑑種生前に養子を貰っていたかも不明。
さらに1/16に毛利は出陣予定で、杉が挙兵したのはそれを阻止するためであり
杉を毛利が鎮圧したのは3月。
そのため毛利の出陣は無期延期に追い込まれてしまった。
そして毛利が出陣にむけた再軍議を吉川らを安芸吉田に呼んで改めて作戦を立て直すのは8月。
完全に毛利は足を引っ張られているのは明白なわけだが。
この天正7年前半はミッドウェーのようなターニングポイントで
この期間に荒木は完全に弱体化させられてしまい毛利の勝利の芽が完全に失われてしまった。
つうか第二次木津川口の戦いで毛利は完璧に制海権を喪失したのに
毛利の戦略的勝利なんて主張するキチガイ始めて見たわワロタw
0807人間七七四年
2011/07/17(日) 10:28:42.13ID:tAsBMOV+第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
このことはアンチくんも別スレで指摘されて知ってると思うんですがねw
このようにキミの言うことは全然信用できないから必ずソース添付で頼むよ
0808人間七七四年
2011/07/17(日) 12:44:04.26ID:Lw7gVm/Zそもそも832下間頼廉書状十一月八日って宇喜多宛てじゃん。
「木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」のドコにも兵糧搬入成功なんて書いてない。
敗走した毛利の軍船のごく一部が着岸して逃げてきただけだろ。
その書状の目的は荒木から人質取ったとかそういう内容だし。
833隆景書状でもその内容に対応していて
味方になった荒木一党への進物指示が詳しく書かれている十一月十四日書状だし。
続く834小早川隆景書状でも宇喜多が龍野へ出陣の話が触れられていて
明らかに木津川で毛利が優勢なのを宇喜多にアピってつなぎ留めるのに必死なだけにも見える。
しかも833と同一人物に同日付けで出しているのに隆景は霜月十四日と書いていておかしい。
それもそのはずで、この書状は案文と言われているもので出してない可能性が高い。
毛利にはこの手の案文と言う後世作成の捏造が疑われる文書が多い。
しかも文書中でわざわざ夜前に岡山から下間頼廉書状が届いたと言い訳まで書いてるw
しかし833書状の時点において荒木の話で832に対応した内容の書状を書いているのに。
そして下間頼廉書状には書いてもいない「舟軍で勝利」などと書く始末。
その後も833で書いておけば良いはずの内容が長文で書かれる謎。
しかも信長の動きを含め大和・河内・和泉・摂津・播磨の異常に精密な情勢判断が書かれる。
実際は毛利水軍は大敗したし、兵糧が搬入された事実はありません。
0809人間七七四年
2011/07/17(日) 13:29:31.10ID:39kboqp6そんなすごい戦果を上げてるならのちに淡路島が織田に奪われるような状況まで悪化しないよな〜。
0810人間七七四年
2011/07/17(日) 16:02:58.64ID:aaWGVy14毛利家日記より
まあ相手は動けないみたいだったから大規模な直接戦闘を避けて兵糧を搬入したと見るべきだろうね
兵糧の搬入の有無を問わなければ追い返したとも言えるわけだし。
しかし討ち取られた武将もいないのに大敗とはこれ如何に?
>>809
有岡、三木落城、宇喜多反旗で十分悪化
0811人間七七四年
2011/07/17(日) 17:08:59.71ID:ydq715gX相変わらず史料の内容は一切知らない書けないで、どこかの雑誌の話の鵜呑み垂れ流しだなw
んで、反証示さないで史料否定www
0812人間七七四年
2011/07/17(日) 18:12:03.71ID:Lw7gVm/Zデタラメ吐いてたネタを盲信して該当部分をコピペしてるだけじゃんw
どこかの雑誌wwwつうかお前は毛利家文書を見たことないのがバレバレだなw
ちゃんと該当書状に案文と記されてるわけだが。
だいたい11月6日の第二次木津川口での織田の勝利が
11月4日の輝元&本願寺への正親町天皇の織田との和睦命令の勅命を毛利が破棄してのものだし
織田側はこの勝利を経て11月9日からの荒木攻略戦開始の発端となった。
それまでの信長は本願寺への北方からの包囲責任者で摂津の旗頭の荒木の叛旗に
必死に考え直せと説得工作しつつ朝廷には本願寺との和睦依頼をしていた。
しかし木津川口の勝利で深刻な状況を脱したので信長は一転して強気に方針転換してる。
毛利が勝っているなら信長はさらなる譲歩をしているはずだ。
それどころか12月に入ると秀吉を播磨へ、光秀を丹波に再派遣し戦線の建て直しに成功してる。
そもそも6月に九鬼が率いる水軍が雑賀党の舟を撃破しておりその水軍は健在のままなんだがw
そして天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入っており
三木城の別所への補給を任されていたはずにも関わらずだ。
毛利水軍が勝っているならそんな依頼をする必要性はない。
0813人間七七四年
2011/07/17(日) 19:31:40.83ID:qEGBRp5S歴史において諸説があるのはしかたない
他人を貶めて自説の正当性を主張するのは見苦しいぞよ
0814人間七七四年
2011/07/17(日) 21:55:29.44ID:39kboqp6まさか毛利水軍が織田水軍に勝ったから明石海峡の制海権が織田水軍に握られたと主張するとは新鮮すぐる。
0815人間七七四年
2011/07/18(月) 07:27:51.03ID:YYZUEpRZ>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
>すでに明石海峡すら毛利は失っていた
Subちゃん相変わらずだなあw
0816人間七七四年
2011/07/18(月) 10:46:22.44ID:247PXhTP本当にコイツは分かりやすいバカっぷりだな。
0817人間七七四年
2011/07/18(月) 21:57:43.99ID:NUpMfxUnま、subのは論破にもなってないけどなw
信用出来ない!と捏造・歪曲の連呼しかしないからなwww
0818人間七七四年
2011/07/19(火) 16:40:00.32ID:WUyC8HS8だからこいつが書く内容は意図的に解釈を捩曲げてる。
というか、よく古文板に聞きに行って晒されてたしな。
0819人間七七四年
2011/07/19(火) 18:08:40.34ID:aBggM2ID>>818
はいはい「鈴木・藤本スレ4の落書きを盗用してコピペ」しただけの無知負け犬乙www
荒木謀反摂津失陥で播磨の織田軍の連絡線が絶たれ孤立
対本願寺戦略も根底から崩壊。
完璧に一方的劣勢に転じた信長が一転大攻勢に出ることが可能となったのが第二次木津川口の勝利であり
明白なターニングポイントなのにwww
0820人間七七四年
2011/07/20(水) 10:40:20.30ID:DySY15Kb淡路島岩屋と対岸の明石の間の幅はわずか4キロしかない海峡だから
岩屋城が織田に奪われたら明石海峡の制海権を
毛利が奪われたと判断するのは当たり前だろう。
また第二次木津川口の織田勝利に応じての
秀吉の姫路再進出は加古川からの三木別所氏支援ルートの封鎖であり
本願寺が毛利に確保を要請し、もっとも懸念していた情勢悪化であるも
明石海峡を封鎖され雑賀水軍と毛利水軍は二度と合流できなくなったため
水軍による組織的軍事行動は見れなくなった。
0821人間七七四年
2011/07/20(水) 21:14:34.81ID:n8Gr2DC/さすがsub、厳島の戦いで毛利は戦っていなかったと主張するだけのことはあるなw
sub史観では第一次木津川口の戦いも毛利は戦っていなかったんだろうなw
0822人間七七四年
2011/07/21(木) 02:27:46.72ID:Qz8PsMVg相変わらずネット検索で調べただけの無知ぶりを晒してるね。
別に毛利から岩屋城を奪ったわけでもなんでもないわけだがw
織田に属して淡路水軍を指揮していた安宅清康が毛利に内応するのではないかと
疑われたために信長が淡路に秀吉と池田元助を派遣して天正9年11月に捕縛しただけ。
もっと言うと木津川口の敗戦が元で毛利が一瞬で劣勢に転じ、
備前の宇喜多と美作の草苅と伯耆の南条が背き、丹波・丹後が光秀に平定され
岩屋城が失われ明石海峡の戦線が破綻した為に補給が断たれた
荒木村重の有岡城が落城しただけでなく
ついに天正8年1/17に三木城も落城し別所が自刃し
秀吉による播磨平定がなり、秀長の但馬遠征が準備されている頃の
天正8年4/7義昭→輝元書状において
摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。
岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。
反対意見の義昭はまだ上洛を諦めてないようだが、本願寺と別所まで脱落し、
宇喜多・秀吉を相手に備中まで戦線を後退させて戦うことになる毛利としては
岩屋表の監視に衆を配置するのは無駄と考えたんだろうな。
0823人間七七四年
2011/07/21(木) 13:08:28.16ID:BGkgbtWo本願寺も荒木も別所も織田に屈することは無かっただろうし。
0824人間七七四年
2011/07/21(木) 13:28:18.08ID:BGkgbtWo明智や細川が但馬方面からの丹波丹後攻略に対して
波多野・赤井を支援する動きだから
荒木勢力の減退は丹波丹後への圧力増大になるわけだし。
そのせいで赤井兄弟と親交ある元春は但馬方面へ行きたがって
織田軍と姫路決戦して別所を救援したい義昭や隆景と対立し戦力分散の愚を犯すことになる。
だから義昭は元春に別所を救えればそっち方面なんてホッといても後から毛利帰属になると説得してる。
もともと第一次木津川の戦い後に義昭と毛利は勢いに乗って
瀬戸内海を東進し本願寺と共同して和泉から侵攻する水軍ルート
宇喜多を先鋒に山陽道を東進し摂津へ侵攻するルート
元春が山陰道を併合して丹波へ進出するルートの
三路同時侵攻を狙っていたのに
第二次木津川口の敗戦はそれを不可能にした。
0825人間七七四年
2011/07/21(木) 13:37:55.93ID:BGkgbtWo織田化した三好軍を毛利軍が讃岐で討ったりしてるから讃岐領のどこかに毛利の拠点があったと思われる。
0826人間七七四年
2011/07/21(木) 23:05:53.68ID:2Z6yucHd顔洗って出直しておいで
あと岩屋城城主は菅平右衛門だね
で毛利の在番が香川広景と冷泉大輔(『安西軍策』巻五「淡路国岩屋城の事」より)
安宅清康は由良城の城主
つーか常識的に考えたら本願寺が完全包囲されて兵糧補給が途絶えたら
遅くても1年で干殺し状態になってなければおかしいんだよね。
三木や有岡は陸上での補給路を断たれたから苦境に陥ってるわけで
本願寺みたいに海に直面した所だと補給の防ぎようがなかったんだろうね。
0827人間七七四年
2011/07/22(金) 00:06:04.25ID:42kW20pu今まで安西軍策をソースにした程のアホはいなかったがついに最強バカが現れたかw
でさ、その安西軍策からの流用部分の該当部分は何年何月から何年何月までの期間の城主や在番の話を書いてるのかね?
年も月も書いてないからどの部分への反論なのかすらわからないんだが。
ちなみに天正九年の話を君が持ち出したから
やむなく信長公記をソースに天正九年の内容を書いたわけだが、
君も当然、天正九年の話は信長公記をソースにしてるはずだろ?
そうなると同じ信長公記にはやはり第二次木津川口の戦いは織田の圧勝と書かれてる以上は
毛利敗北を君は認めざる負えないわけなんだがw
0828人間七七四年
2011/07/22(金) 00:33:53.84ID:IlkibD+msubやだがみたいなマジキチが喚いてるだけなんだよなあ。
帰って、どうぞ(迫真)
0830人間七七四年
2011/07/22(金) 13:50:22.46ID:9PiLNETg天正4年11月に本願寺が元春に岩屋城を確保しろと要求してるし
手取川の戦いや松永久秀謀反といった事件が相次いでいる天正五年を経て
天正6年2月に岩屋城へ毛利水軍の将として児玉就英が入って三木城別所への補給を任される。
6/26に九鬼水軍の大船からの大筒により雑賀水軍が撃破され(宣教師も驚く大船)
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川がり、その上流には三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
陸路では7/3に毛利の大軍が秀吉が見捨てた山中鹿介の上月城を落としてる。
10月には荒木も義昭や本願寺に組して織田から叛旗。
摂津国有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城が
一斉に織田から離反し丹波国や播磨国戦線に重大な支障が生じ織田の戦線は山城国まで大幅後退。
同時に御着城の小寺政職など播磨国人達まで一斉離反し秀吉や光秀も荒木説得へ向かうが説得ならず。
11/4追い詰められた信長は朝廷を動かし本願寺との和睦を結ぶ。
和睦を無視した毛利水軍の行動により11/6第二次木津川口の戦い勃発。
九鬼の大船からの大筒により毛利敗戦と織田軍の大反抗作戦開始のターニングポイント。
天正7年5月27日の村重から隆景への書状において
「淡路の岩屋城を攻撃するよう」に頼んでおり、すでに明石海峡すら毛利は失っていたのがわかる。
これによる船舶による大量物資輸送路が各地で途切れ
天正8年1/17別所・7/2荒木・8/2本願寺と相次いで織田に屈服することになる。
>>825
天正五年閏7月に織田化した三好配下の讃岐国人の長尾・羽床が毛利に服属した三好遠江
(三好氏に破れ毛利領の島に逃げていた讃岐香川氏の讃岐復帰が関わっている)
の讃岐元吉城を攻めてる。しかし隆景が撃退したのを義昭が29日書状で褒めているね。
0831人間七七四年
2011/07/22(金) 14:55:12.36ID:42kW20puすでに織田と本願寺が和睦するって話が登場してるから
実際には荒木村重が岩屋城を落とすように依頼して間もなくの天正7年10月に有岡城が落ちたのを手始めに
年内には尼崎城も落ち、花隈城へと次々と荒木村重が逃げ回ってる姿を見て本願寺も絶望してたんだろうね。
謙信や丹波の赤井直正の寿命があと1年あれば信長は死んでたな。
0832人間七七四年
2011/07/23(土) 22:44:23.26ID:JyZWgOr2>天正8年4/7義昭→輝元書状において
>摂津本願寺が織田との和睦をすることになったと報せると共に
>宇喜多を退治をして上洛するために策するのが肝心。
>毛利が岩屋表警護から撤収するの反対!って話がでてくる。
>岩屋城警護と書くわけでもなく、それ以前に岩屋城を毛利が手に入れた記述も
>出てきてないから岩屋城の近くで(小豆島とか家島諸島とか小島はいろいろあるし)
>淡路水軍の動きを警戒監視していた衆がいたんだろう。
さすがにこの解釈はないわー
ふつう岩屋表警護っていったら岩屋城周辺の警護ってことで明石海峡付近のことだよ
こういう恣意的な解釈してたらそりゃ誰からも信用されないはずですわ
史料の読み方が全く真摯的でない
0833人間七七四年
2011/07/23(土) 23:31:08.29ID:nN3LquzL毛利は〜表に出陣する予定とか書いてるし
〜表と言う表現にはその地を支配してると言う意味では使ってないだろ。
〜表と書いてて、その地を支配していたとする書状のソース提示してみろよ。
0834人間七七四年
2011/07/24(日) 01:01:55.06ID:Xd8Y+4g3アホか。わざわざ恣意的な解釈するくらいなら
最初からここに該当文章を書かないわ。
どうせ無知だからそんな文章もお前は存在自体知らなかっただろうしな。
もし反論するなら、それ以前に毛利が岩屋城を奪取済みとするソースを出してくださいね。
0835人間七七四年
2011/07/27(水) 16:30:19.47ID:+9HmjCP20836人間七七四年
2011/07/27(水) 16:53:07.61ID:ti07AVoX質問を黙殺しソースを一切出さないどころか他人の出したソースを盗用し
その内容を歪曲解釈して反対意見を吐く常套手段を使ってくる
毛利厨が相変わらず気持ち悪い。
0837人間七七四年
2011/08/10(水) 18:22:30.24ID:iuiiTAk2こんな感じ。
>おも‐て【表】
>[接尾]方角・場所などを示す名詞に付く。
>1 その方角に向かっていること、その側に面していることを表す。「南―」
>2 その方向の土地・地方を表す。「江戸―」「国―」
これに所有の概念が関わるなら、防衛戦に出陣するときは別の表現をしてたということだろうか。
0839人間七七四年
2011/08/11(木) 09:36:10.02ID:FDJT/oGt別にその地を所有していたと言う意味を内包して無いな。
0840人間七七四年
2011/08/11(木) 15:11:28.68ID:zK4EmHe8所有してる地を守ると言う解釈にはならない。
どちらかと言うと敵がその地に進出してるので〜へ出張ると言う意味。
0841人間七七四年
2011/08/11(木) 15:13:46.98ID:zK4EmHe8×豊後表
○豊前表
0842人間七七四年
2011/08/12(金) 16:00:54.23ID:TAHmYrFP広義の意味では〜方面。
狭義の意味では〜城の周囲、〜の周辺。
例:江戸表諸門番所御法令書(江戸城周囲の各門番所の法令書)
岩屋表警護と書いてあるなら岩屋城の警護と読むのが普通。
岩屋表は岩屋城を含まないってのは歪曲にもほどがある。
0843人間七七四年
2011/08/12(金) 17:01:06.79ID:TAHmYrFPつか村重の書状だけでは岩屋城が織田方についたとは断定できない。
児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるものでこれが村重のところにも
伝わって勘違いしてる可能性もある。
事実、毛利側はほとんど混乱してないし、織田側も淡路島や本州湾岸線沿いへの攻勢が見受けられない。
織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである。
尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったりしてるところをみても
とても大阪湾を完全制圧できていたとは思えない。
木津川口で活躍した大船は何やってたんだか・・・
0844人間七七四年
2011/08/14(日) 18:55:42.07ID:p7pjEErP>>838
下記のヤフー知恵袋からパクってきてバカじゃないのか?
質問「大坂表とか江戸表の「表」ってなんですか?ただの「大坂」とか「江戸」とどう違う」
回答「「江戸表」は狭義には江戸城あるいは江戸幕府を指したものと推測されます。
江戸表諸門番所御法令書 内容説明 江戸城各門の警備人数、交替および各門通行者の格式等を記す。
城門の話なんてしてないだろ?用途がまるで違う話を持ち出して何がやりたいんだ?
江戸表諸門番所御法令書って北海道大学所有の日本北辺関係旧記目録だからぜんぜん時代も違うんだが?
>>児玉就英帰国の件は岩屋城主菅達長の謀反の誤報によるもので
上記が起きた日付とソースを要求。毛利家文書もしくは小早川文書の何番の記述かね?
>>これが村重のところにも伝わって勘違いしてる可能性もある。
妄想かよ・・・まぁいい。誤報の日付とソースを出してくれ。
>>織田の戦略は海そっちのけで内陸での城包囲補給路寸断ばかりである
秀吉救援の信忠軍による三木城包囲が開始され、これを受けて7月本願寺が紀伊門徒に
別所氏を後援するために高砂を増強するように命じてる。
(瀬戸内海に面した高砂には加古川があり、その上流には美嚢川経由で三木城が存在し別所支援ルート防衛である)
三木城が落城したと言うことは高砂が織田側になってると言うこと。
そもそも叛乱したのが内陸であって丹波や摂津戦線にも影響を与えているのだから内陸鎮圧が優先されるのは当たり前
海側と言えば秀吉が押さえている姫路城と淡路島の中間に当るのが高砂。
毛利が淡路を奪われたから高砂の維持も不可能になり三木城も落城したと考えるのが自然。
さらに宇喜多が毛利を裏切ったら海運と補給を心配することなく備前を越えて備中へ侵攻してるのが秀吉。
当然に海側も押さえていると思うが?
>>尼崎城にいた毛利の在番が有岡城落城後に本願寺に行ったり
日付と誰のことだかソースを要求。
それと尼崎から本願寺なんて別に海路を使う必要性はまるで皆無なんだが
地理とか理解してないんじゃないかね?
0845人間七七四年
2011/08/14(日) 20:56:35.03ID:/PgKs6h1いやそんな噛み付き方されても……
ただ表の解釈の仕方が気になっただけで。
個人的には>>840みたいな解釈でいいのかなと思っているが。
0846人間七七四年
2011/08/15(月) 08:46:53.51ID:p9qSTrsV従って播磨の別所氏の三木城も落ちず、摂津の荒木も落ちないし本願寺も織田に降伏的和睦をしない。
よって荒木に隣接する丹波の赤井氏・波多野氏の戦線を明智と細川は攻略できず苦戦を続けているはず。
岩屋城を毛利が維持してることで明石海峡の制海権を保持し
従って船舶による兵糧の大量補給を毛利が可能であるのに本願寺も荒木も別所も織田に破れると言うのは理解し難い。
0847人間七七四年
2011/08/15(月) 10:22:28.49ID:yjsBa3lZ由良・足利が籠城した際に
北条も足利表へ出陣したが
足利は北条の領地じゃないしな。
〜表というのは予定戦場と言う感覚で使われてるよな。
自領の防衛戦で〜表を守るという表現は無い。
0848人間七七四年
2011/08/15(月) 15:57:08.78ID:JE/4VbHw0849人間七七四年
2011/08/15(月) 16:02:01.74ID:JE/4VbHw表を自領に適用しないとすると、自領が予定戦場の場合はどう表現したんだろうか?
たとえば、備中高松城の救援に行ったときのような。
0850人間七七四年
2011/08/15(月) 21:16:10.67ID:ckvZnbdM高松城に後巻きしたときので
0851人間七七四年
2011/08/16(火) 05:20:09.59ID:lA/giBkB御出張之御催御支度可被仰付
被張合、御防可被成御覚悟
普請堅固申付
備前之儀
とかじゃないかな。
地名が入らない場合は其表や此表と書く場合もあるね。
例えば義昭側近の頼英→元春宛 天正3年5月13日では
其表→元春のいる場所のことを指していて「そっちの方では」って表現。
此表とは「こっちの方では」紀州三ヶ寺で騒擾があったと言ってる。
信長が「義昭は熊野あたりに流れている」と言っており
実際に義昭は20人ほど連れて紀州の興国寺の居候となっている。
0852人間七七四年
2011/08/16(火) 10:22:48.75ID:aZlCHDd0道雪に同心し敵中を凌ぎ
黒木表に至り着陣以来在々所々軍労。
殊に分取り高名由。忠義比類無候
黒木氏の猫尾城を落として滅亡させた際にこんな風に書いてるね。
黒木氏の方とか黒木氏との戦線って意味かな。
>>850
ん?天正10年6月2日の今田宛て元春書状のこと???
それだと内容が全然わからないので書状内容の文章を書き込んで欲しい。
0853人間七七四年
2011/08/16(火) 16:22:45.50ID:DA/GBJhb残念ですが天正7年5月末に明要寺砦と淡河城が落ちるまで
神戸花隈城で陸揚げされた兵糧が堂々と三木城に搬入されてます。
さらに9月9日に岩屋城の目と鼻の先の魚住城で毛利水軍によって大規模な兵糧の陸揚げがされてます。
(ちなみにこのときの三木城兵糧搬入作戦は陸路で邪魔され失敗。)
いずれも岩屋城が無事でなければありえない出来事です。
織田側に岩屋城を奪取したという史料がないのであたりまえですがね。
これらのことも考慮しないで良識的とは笑止千万。
あと高砂城は天正6年の4月初めに真っ先に落城して破却されたからね。
>>849
〜表に自領、他領の区別なんてないですから。
そんな論文あったら見せてもらいたいくらいですよ。
0854人間七七四年
2011/08/16(火) 19:14:49.57ID:lA/giBkBなに堂々と捏造軍記講談の陰徳太平記の
播州丹生山夜討併淡河合戦之事や播州大村合戦を史実のように
持ち出してんだよ・・・
0855人間七七四年
2011/08/17(水) 07:11:55.30ID:ACzFGzA/subとの議論は不毛だからやめとけって
自分に都合が悪い史料は反証もなしに全て捏造で済ませるのだから
そのくせ自論は妄想全開という完全キチ
0856人間七七四年
2011/08/17(水) 09:07:19.06ID:1Yt09h4a0857人間七七四年
2011/08/17(水) 13:18:11.08ID:0VNfLQaD毛利の軍記内容を史実だと主張するのに
信長公記の第二次木津川口の戦い記述は
絶対に認めないとか矛盾しまくりじゃねーの?
明らかに毛利の軍記内容の方が極端に
信憑性が劣悪なんだけど。
戦闘の推移とかもうデタラメレベルじゃん。
0858人間七七四年
2011/08/18(木) 06:07:33.60ID:iI2sK1nr元就・隆元・元春・隆景は常勝無敗の天才になっちゃうしなw
淡河合戦にしたって毛利側の淡河氏が羽柴秀長に勝っちゃうのに
なぜか淡河の地を手放して撤退する謎www
鳥取城が落ちた後にかけつけた元春が背水の陣で羽柴秀吉を威圧してビビらせたから秀吉は逃げたとか
尼子残党の山中鹿介の上月城を救援に来た羽柴秀吉を追撃して勝ったとか捏造だらけw
とにかく毛利側が史料では一切証明できない、
他家史料にも全く出てこない戦で勝った話を挿入する気持ち悪さが毛利軍記の特徴。
0859人間七七四年
2011/08/18(木) 09:52:13.98ID:NbwgiJ+h0860人間七七四年
2011/08/18(木) 10:49:44.16ID:teQVVnBm0861人間七七四年
2011/08/19(金) 09:39:04.08ID:0R8q54gQだから陰徳太平記に書かれている内容だったなんて夢にも思ってない無知が毛利厨。
0862人間七七四年
2011/08/20(土) 00:00:51.55ID:y33TsyCV毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
0864人間七七四年
2011/10/11(火) 12:57:12.14ID:HrRDQDqK元就が生きてれば元春と隆景の戦略外交の対立を表面化させないで
指揮命令系統を元就に一本化できるし元就がいる限りは大友織田同盟があっても背後の安芸本国に不安はなく
元春も出雲に戻らず京へ行けるだろう。
大友が耳川で敗北してもその後に龍造寺と島津が肥後で対立し始め、
織田が島津と大友の和睦を斡旋してるし
筑後では道雪が龍造寺を柳川城へ追い込み圧倒してる。
441:人間七七四年 04/27(水) 10:32 15+20429 [sage]
>>436
それは同意。
実際、織田→大友→周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
これに困った元春は8月に義昭に頼んで京を奪回するために島津は大友を牽制し、毛利が東上する援軍を出すように使者を出してもらってる。
この天正6年正月は輝元が栗屋元種を摂津に派遣し、高野山金剛峯寺も出兵し、
義昭の先鋒として阿波・淡路の三好軍を率いて六角義堯も堺へ上陸し大和多武峰の衆徒も動員してる。
さらに淡路の岩屋城に水軍を率いて児玉就英が入り、三木の別所支援を開始と毛利方が圧倒的に有利。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる情報が入る。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
三木城攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
信長は荒木を説得する時間を稼ぐために11月に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えるほど危機的状況に追い込まれていた。
すぐに義昭が元春に大出兵を勧めたが隆景との対立からかダラダラして時間を浪費しているうちに
信長は荒木配下の高山右近と中川清秀を降伏させて摂津を奪回して荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
元就が安芸にいて息子達に全指令を出してればうまくいっていた話だろう。
あと6/26に九鬼水軍が大筒で雑賀衆の船を撃破しているんだがこれ鉄鋼船の実戦試験だったっぽい。
毛利はこれの研究を怠って11/6に鉄鋼船の前に大敗し海路での本願寺支援ルートが途絶えてしまう。
天正7年に輝元は謙信に代わって武田勝頼に家康を攻撃して織田兵力を引き付けてくれるに要求するも
その毛利は1/16の出陣寸前に正月早々にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して田原宗亀が援助に来援してきたために出兵中止。
武田軍は遠江の国安へ出撃してきたので信長は摂津から安土へ急いで戻ったので、
本願寺や荒木や義昭が播磨へ侵攻するチャンスと毛利へ言ってきたが、大友の動きが気になり、動かないうちに淡路岩屋も織田に取られてしまった。
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。すると美作の草荊景継や南条元続も毛利を見切り
光秀や幽斎により丹波丹後の制圧にほぼメドがつき天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
すると3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に
秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
天正6年中まで元就が生きてたら余裕で上洛できてたよ。
0865人間七七四年
2011/10/19(水) 09:33:29.97ID:0xb46DuS正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、
正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、
朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、
武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので、
鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し
始皇帝死後の趙高のようだと書いたり
真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないから
そんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、
長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
0866人間七七四年
2011/10/26(水) 13:25:43.68ID:+ViNphed大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を
毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
0867人間七七四年
2011/10/26(水) 18:44:05.54ID:xsMFpwuL0868人間七七四年
2011/11/04(金) 09:43:26.26ID:ULnQVOGu代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね。
0869人間七七四年
2011/11/26(土) 02:09:32.92ID:QzWi+jj80870人間七七四年
2011/11/26(土) 02:41:20.37ID:9H7omMNS黒田家の公式記録にあたる『黒田家譜』でも、吉川広家とは親交が
あったと書かれてるので、仲良かったのは確か
もっとも、広家は、長政よりも孝高の方がもともと交流は長いし深い
ちなみに、黒田家から見た吉川広家は「義理堅くて律儀」という評価
0871人間七七四年
2011/11/26(土) 03:28:17.65ID:BPMbae4M豊臣政権における毛利の取り次ぎをやってたのが如水だから
親交あるのは当たり前だろ。
だが広家は輝元すら
「いい歳して分別もない馬鹿」と嫌ってたくらいの除け者で
毛利家中ですら元康、安国寺、秀元らが
ことごとく広家を嫌ってた。
黒田とは対豊臣、対徳川が延長線にあるから
損得勘定ありの政治的な付き合いで義理堅いのと
本質的な部分で仲が良いかは別物だろ。
それが関ヶ原において露骨に現れたと言うこと。
0872人間七七四年
2011/11/26(土) 14:12:17.58ID:RucQ6cii具体的な話がいろいろ記載されてるので、実際に読んでみたら?
他にも広家と黒田家の間の書簡は、長い期間のやりとりが
多く現存してるわけだし
全般的に、黒田家譜では両川(具体的には隆景と広家)の評価は高く
逆に毛利宗家の輝元がどうしようもない馬鹿だったという評価なわけ
まあ、黒田家が東軍なんだから当然といえば当然だが
0873人間七七四年
2011/11/26(土) 14:38:38.22ID:9pAhxekh黒田家譜は後世の編纂物ですので史実ではありません。
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