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寡兵で大軍を破った戦い

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0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/23(土) 02:13:32ID:E8ad61KX
桶狭間合戦や厳島合戦のような
劣勢を跳ね返し、大軍を破った戦いを語りましょう。
0078名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 01:39:54ID:S0jXtqB6
>>70
いや実際そんなもんだと思うよ。
双眼鏡がある時代なら、もう少し詳細がわかるだろうが戦国時代の物見なんて
おおよその兵力を遠くから眺めてその地域に軍勢を展開するか回避するかを決定するくらいだったと思うな。
もしも戦国時代の斥候が敵の兵力の詳細を調べているならば、長篠の合戦で武田軍は野戦築城していた織田軍に突撃なんかしていないだろうよ。
0079名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 02:32:13ID:rGAJUzJS
赤坂城の戦い

楠木正成×幕府軍  500人 対 20万人 wiki (太平記では300人対30万となっている)

篭城で一ヶ月間防いだが、最後は城から逃げ落ち千早城に篭城した。


千早城の戦い

楠木正成×幕府軍 1000人 対 100万人

篭城及びゲリラ戦を展開、日本中で反幕府軍が決起し楠木軍の粘り勝ち。鎌倉幕府は滅びた。


湊川の戦い 

楠木正成×足利尊氏 700人 対 50万人

6時間で楠木軍は全滅。



0080名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 02:56:11ID:rGAJUzJS
昆陽城の戦い

劉秀(後の光武帝)×王莽軍(新の皇帝) 
3000人 対 100万人(戦闘兵42万、輜重兵58万人)

まさに中国の桶狭間である。劉秀は精鋭3000騎を選りすぐり
敵軍の本拠地に突っ込み総大将が戦死、司令部が消滅した所で
逃げ惑う100人の兵を主力軍数万で殲滅した。
王莽は戦力のほとんどを失い、新は実質上滅亡した。
0081名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 04:47:50ID:UV7l+KYH
第一次月山富田攻めはどう?
籠城から後詰め無しからの逆転、だから珍しくないか?
0082名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 05:10:11ID:H9Wp37kR
>>78
なんでそう思うわけ?>遠くから眺めるだけの戦国斥候
そんなの聞いたことないんだけど。
大名たちが乱波とか草とか呼ばれる情報収集の組織をわざわざ
飼ってたのは遠くから眺めさせるためなのか?
それから長篠の引用はもうちょっと調べてからにして。ひどすぎ
兵力差はわかっていたことだし、今どき突撃信じてるひといないよ?
0083名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 05:47:42ID:8wW3qkpx
いわゆる物見ってのは>>77さんに近いイメージがあるけどな。
情報伝達手段がそれほど発達していない時代だからね。
場合によっては情報収集時間や伝達時間がかかり過ぎるような手段
は用いてられないだろ。
こちらからとある領土を攻めるような場合は入念な情報収集も可能だろうが
攻め込まれたような場合は敵の進軍速度によってはロクに情報もあるまい。
それこそ戦闘フェイズに入る前の歴ゲー状態(何もしなくても相手の情報丸見え
のようなヌルい作品除く)で、攻めてきたってこととおよその兵力ぐらいしか分からん。
実際は戦闘に入ってからの情報収集は厳しいだろうし。
(ゲームではだいたい戦闘になれば分かるが。。)
0084名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 06:56:13ID:EZU9O3++
島津は結構、捏造記述が多いよ。
伏見城の件とか・・・

こんな連中だから、兵数に関しても随分、意図的捏造をしてるフシがある。
0085にゃんこ2007/02/11(日) 08:44:46ID:TOkD5wwW
「2000人ならこれくらい」「1万人ならこれくらい」
という基準を前もって見せてもらって、それを覚え込まねば、目視による
概数の判断はできないよね。

仮に、現代、○○市の青年全員が、広場に集まったとするね。それを目視で
概数を計ることができないよね。

結局、戸籍(検地帳の類)が無いと、兵数の正確な把握は無理だな。
騎馬民族や、近代の傭兵なら、無理矢理、整列させてから、人数を数える
ことは可能だが。
0086名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 09:40:53ID:OWc/bQwB
自分の低脳を基準にするなよ
お前が馬鹿だからってみんなが馬鹿とは限らない
0087にゃんこ2007/02/11(日) 10:34:29ID:TOkD5wwW
84>

むしろ、近代以前は、捏造が普通じゃないかな。(近代も少なくないが)
正確な人数を把握した人が、そもそもいないのが、封建時代というもん
なんだろ。数える方法や機会に乏しいよな。

0088にゃんこ2007/02/11(日) 10:54:38ID:TOkD5wwW
戦国時代は、農民兵中心であって、小説の信長のような傭兵中心は史実としてはあり得ない。
この農民兵は、小隊や中隊に編成されることは無く、各小ボスごとに率いられて
おり、整列することも無いし、また、各小ボスも人数をなかなか正確に申告しない。
(領地の経済力や兵数を秘密にできるのが前近代の私有地のミソ。=不輸・不入の権に類似)
だから、小ボス(地侍クラス)も中ボス(国人クラス)も、それを集計する
大名も、それぞれが、それぞれの政治的目的を持って、数字を発表する。
多く見せて、多数派工作に成功している印象を与えたり、
勝った後は、逆に少数精鋭を宣伝することもある。
この時代の数字は、思惑だらけ数字だらけなので、
我々も、そのつもりで受け止めなければなるまい。
0089にゃんこ2007/02/11(日) 11:02:34ID:TOkD5wwW
ただ、戦国時代も、後になるほど、大名権力も増して、差出検地も、より厳しく
なってきて、数字の信憑性が上がるだろう。
「寡兵で大軍を敗った」伝説が、後になるほど少ないのは、そのせいではないかな。
0090名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 11:27:19ID:OWc/bQwB
現代のイベントのが水増しは酷いんだがな
0091名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 12:56:08ID:rGAJUzJS
>>77
宇梶ってタケシ軍団に入って
態度が生意気だという事で、そのまんま東にヤキをいれられ
散々殴られたんだよな。
彼は弟子生活が長すぎてTVの前ではいつもオドオドしてるよね。
0092名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 13:44:14ID:S0jXtqB6
>>82
ん?なんかずいぶんと感情的に感じるレスだけど何か気に障ったのか?
忍者なんて、それほど活躍できたのかねえ?
陰の存在だから、それこそ誇張されているイメージで現代人は語っているのではないだろうか?
戦場の情報収集は物見の兵の仕事で忍者は平時の戦略的な情報収集が仕事だったのじゃないかな?

長篠合戦が野戦築城している織田軍への突撃戦ではないなら、何だというの?
酷すぎと言うならば、きちんと説明して欲しいですね。
0093名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 13:52:07ID:5TJtOjI7
上杉定正の200騎が上杉顕定1000騎を破った実蒔原の戦いは?
0094名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 16:14:22ID:mmPLOlaS
>>92
あんまりイメージだけでくるから、ついイラッとした。すまん。
図書館の郷土資料コーナーで市町村史や教委の報告書読んでみれば
君のイメージも変わるよ。
忍者というと胡散臭いだろうが、従軍しているのがときおり資料から垣間見られる。
戦場ではいかに相手より正確な情報を早く多く集めるかが勝負の分かれ目になる。
危険かつ重要な任務でそれは今も昔も変わりはない。

長篠の戦いは、というか連吾川の戦闘は、織田別働隊が城を救援して
長篠城を落すのが不可能となった時点で武田は撤退するしか選択肢がなく、
織田はそれができないように柵から出て戦った。
何度も柵へ押し返したが離脱できず、やがて兵力差から疲労して壊走した。
何日も近くで対陣してるからどっちが多いか調べなくてもわかっている。
多勢が陣地へ篭るところへ突撃するなどは基地外沙汰というほかない。
バンザイ突撃は帝国陸軍オリジナル。いや極小規模なら戦国でもあるんだけど。
そういう場合は全滅同様の損害をだす。武田の損害はそこまで酷くはない。

軍記ものはすべからく、筆者のスケベ心からうまれた軽薄なお為ごかしが
ちりばめられている。君もスケベ心をすてれば、奇跡を追ったりはしなくなり、
そんな記事に惑わされなくなるよ。そしたらいまより歴史がおもしろくなる。

0095名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 18:32:28ID:S0jXtqB6
>>94
>忍者というと胡散臭いだろうが、従軍しているのがときおり資料から垣間見られる。
戦場ではいかに相手より正確な情報を早く多く集めるかが勝負の分かれ目になる。
危険かつ重要な任務でそれは今も昔も変わりはない。


それは分かるんだけどさあ、実際に戦場でそんなに使われていなかったと思うんだよ。
例えば、第4次川中島合戦。
これも講談、軍記物に由来しているんだけど、武田信玄が夜中にこっそり抜け出した上杉軍の動きを把握していなかったじゃない。
忍者なる者が戦場で情報収集に役目を担っていたなら、敵軍の情報を逐一収集して報告しているだろうからこんな事はあり得ないでしょ?
軍記物だから真実ではないと言っても、そのような軍記物があるということは実際の戦争もそれほど遠くないわけでしょう?

もしも忍者が戦場においてそれほど詳細に敵軍偵察しているとなると
川中島に限らずに数ある戦で敵の裏をかくような奇襲戦法はほとんど不可能になってしまうと思うんですよね

でも実際には敵の裏をかいた夜襲は数知れずにあるわけでしょう?

忍者や当時の情報収集力を過大評価しているんじゃないですかねえ?
0096名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 19:26:13ID:PBaLo8cS
啄木鳥戦法はフィクションの可能性が指摘されてるよ。
別働隊の機動を現地で再現をこころみたところ、無理らしい。
あれは霧の影響で遭遇戦になったと見ていいだろう。

奇襲となると、敵領内で大きく機動しないといけない。
戦時なら当然支城は警戒してるし道は封鎖されている。
突然の裏切りでもしないとまず不可能。光秀のようにね。
奇襲といわれてるのはほとんどが強襲だね。
夜襲も奇襲じゃなくて強襲。不寝番がいるから奇襲にならない。

とくに油断でもしてない限り、やれることは全部やってるよ。
自分の命と、一族の運命がかかってる。
0097名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 19:54:47ID:BtbsglRz
西の桶狭間、明禅寺合戦はどうでしょー
0098名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 20:55:42ID:S0jXtqB6
>>96
川中島合戦が濃霧の中の遭遇戦だとしても、
それはそれで戦場での忍者の情報収集能力に疑問符がつきますね。
0099名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 21:11:59ID:h1K5Vy22
信玄の川中島合戦の時の書状があるよ
遭遇戦説も決戦説も誤り
北に少しずつ移動しながら何日もかけて戦ったのが第四次川中島の真相
両軍ともに城主クラスの有力者の戦死が続出してるから激戦であったことは確かだが、通説みたいなとんでもない死傷率だったかは疑問
本当にそのレベルなら武田も上杉も領国が崩壊している
0100毒癌竜正宗2007/02/11(日) 22:53:38ID:WeRVERAy
政宗は7000の兵でソウマ、サタケ、アシナの連合30000を追い返しておりまする。
0101名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/11(日) 23:10:09ID:kUKld2jZ
>>99
どういう書状か具体的な文言が見たいんだが。
史料名と転載されてる書籍名を教えてくれ。
0102名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/12(月) 00:33:56ID:c0RGsE4m
>>97
見事な各個撃破だが
三村軍が混乱ばっかりしてるのがきにかかる
0103名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/12(月) 00:54:12ID:iuU2+6YA
>>100
別に戦って追い返したわけじゃないだろ連合軍が勝手にいなくなっただけ

とあえて釣られてみる
0104名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/12(月) 02:07:11ID:hgXwk/3x
負けずに踏みとどまった事は評価出来るけどね。
崩れていれば終わりだった。
0105メガトン ◆xfEWihaR6w 2007/02/12(月) 02:45:37ID:BL9QF+5K
何か凄い複雑に考えてるんだねえ、島津っていうのは、鉄砲を特別
揃えてるって聞いたことあるが、300の寡兵でも全員持って戦っ
てたんならそりゃ脅威だろ、ただでさえ天下無双の島津兵が鉄砲だ
ろ?同じく天下無双の武田兵に馬みたいなもんだ

長篠の戦闘も、数千挺の鉄砲の数を侮った勝頼が騎馬軍団で粉砕で
きると考えたから突撃しただけだろ?重臣達はやめるように留まら
せたというし
0106人間七七四年2007/02/12(月) 10:09:19ID:kHU0hoJh
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の

随分安売りだな
0107人間七七四年2007/02/12(月) 10:13:47ID:ECm8U1rM
>>40
ワロタけどさ
小規模な戦がほとんどだった頃の合戦て案外こんなもんだったのかもな
0108人間七七四年2007/02/12(月) 13:03:02ID:Rm0Ok2yw
>>105
>武田兵に馬
>騎馬軍団
素人さんいらっしゃい
0109人間七七四年2007/02/12(月) 14:54:41ID:LFEyH/3z
>>101
『戦国大名と信濃の合戦』笹本正治著
第三節・自筆書状が伝える信玄と川中島合戦
これを読めば知りたいこと全部わかるはず
0110人間七七四年2007/02/12(月) 14:55:42ID:zOG0Ll3+
>>106
ワロタ
0111メガトン ◆xfEWihaR6w 2007/02/13(火) 21:23:27ID:AtdpU7T+
まあ騎馬の機動力を軽視するアホ共には、陣形のなんたるかも理解
出来ないんだろうねえ
0112人間七七四年2007/02/13(火) 21:36:27ID:GxT4lH/X
        |
     プラプラ|
 ∩___∩  |
 |ノ _, ,_ヽ ((|
`/ ●  ●| (=)
|  (_●_) ミ J ))
彡、  |∪| ノ
/⌒ ヽノ ヽ/⌒つ
ヽ/     ヽ/
ノ     |、ノ
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      ぷちっ|
 ∩___∩  从|
 |ノ    ヽ  |
`/ ●  ●| (=)し
|  (_●_) ミ/`ノ
彡、  |∪| ノ /
 /  ヽノ  / ノノ
`/     /
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 ムシャ      |
  ムシャ  プラプラ|
 ∩___∩  |
 |ノ    ヽ ((|
`/ ●  ●| J ))
|  (_●_) ミ ・
彡、  |∪}=)ノ ∴
`/  ヽ/^ヽ ヽ 。
|   ヽ \ |
|   ヽ__ノ
0113人間七七四年2007/02/14(水) 18:20:32ID:JsyDvPR7
激痛w
0114人間七七四年2007/02/14(水) 19:04:44ID:1JM66MhP
>>94
どうも当時の忍者の能力を過大評価しているっぽい。
当時の戦では直前まで敵の動きに気づかなかった例なんていっぱいあるだろ?
桶狭間合戦なんてどうなの?
どう考えても今川軍は織田軍の動きを察知してなかったよね?
0115人間七七四年2007/02/14(水) 19:16:44ID:3nFbPPHJ
まあ現代人の忍者のイメージなんて人間離れしたジャンプ力や忍術だしな
0116人間七七四年2007/02/15(木) 01:29:02ID:kQKwa2O3
最前線の砦から出撃して突っ込むまで織田勢は丸見え。
だから奇襲じゃなくて強襲。
砦までは織田支配域だから今川の偵察は困難。
しかも織田が一気に行軍してきたのならなおさらだ。
今川は織田の砦から近くの前線に本陣をおいて留まっていたのが命とりになった。
偵察とその情報にもとずく機動の重要性がわかるだろ。
行き当たりばったりの出たとこ勝負な合戦がいっぱいあるって?
聞こうか。
0117人間七七四年2007/02/15(木) 07:27:43ID:7C6399la
>>116
>砦までは織田支配域だから今川の偵察は困難。

だから、ここを問題にしているわけですよ。
他家の支配域だから偵察困難という理由で偵察不可能という認識でOKなら
木崎原での相良が島津軍の軍容詳細の偵察しなかったという事も十分考えられるでしょう?
0118人間七七四年2007/02/15(木) 14:23:06ID:kQKwa2O3
>偵察困難という理由で偵察不可能という認識
まず意味がわからん。
陣はったとこは国境地帯の峠。なんか不可能にする要素あるか?
そもそも峠なんていくつもあるんだよ。
義弘は占でもして絶対ここから来る、しかも偵察はしない。
という御託宣でもあったんだろうね。
0119人間七七四年2007/02/15(木) 19:48:07ID:7C6399la
>>118
信長が軍勢整えて出撃した砦だって、もろ国境地帯じゃん。
今川は国境地帯の砦に入った信長本隊の動きを察知してなかったんだろ?
それとも砦に入った時点で察知していたの?
もしも察知していたなら迎撃態勢を取る時間は充分あるよね?

それなのに今川本隊よりも兵数で劣っている信長にやられるわけ?
しかも山の頂上に布陣していた今川軍は地形的にも有利だったんだよ?
迎撃態勢を取る時間があって、兵数で勝っていて、地形的にも有利だったのに今川は負ける理由は何?

お得意の「強襲」が理由ですかね?

いったい全体「強襲」とはどんな必殺技だよw?

ゲームじゃないんだからさ、強襲なんて必殺技で誤魔化さないでよねw?
0120人間七七四年2007/02/15(木) 22:39:28ID:kQKwa2O3
ゲームの必殺技でも使わないかぎり
ありえないと思うなんて、お前らしい愚かな発想だなw
だが、桶狭間も島津の的中突破も真田の突撃で
家康本陣が崩れたのも全部事実だ。
で、なぜ成功するのか、考えることすらできないんだろ?
できるわけないわな。阿呆なレスばっかりだ。
ルールの単純なゲームでもやってなさいってこった。
答えを教えてやってもいいが、お前の態度も気にいらんw
0121人間七七四年2007/02/15(木) 23:09:32ID:kQKwa2O3
ちょっと煽りすぎたか
ま、120でヒントだしてんだから
あとは考えてみろよ
0122にゃんこ2007/02/15(木) 23:18:49ID:r5ysS7VK
桶狭間の強襲は次の2種の可能性があると思う。

1,兵数の差が、織田方の政治的理由により、誇張されている。
  尾張半国でも今川方の半分くらいの経済力はある。また織田方は、西や南と
  東側の国境間が短く、兵力の分散の必要性も低い。
  だから、実際の桶狭間での兵数の差はそんなに大きく無い。

2,損害を無視した突撃は、自動小銃でも阻止し難い。まして、愛国心も訓練も
  無い当時の軍は、損害を無視した無茶な突撃には弱い。
  ただし、これはかなり君臣の絆が強く無いとできない。関ヶ原の島津は、
  「島津正規軍」ではなく、義弘党とでも言うべき集団だった。

 私は1が桶狭間の実像だと思うが。
0123人間七七四年2007/02/15(木) 23:22:10ID:fufWNE4K
江頭vsその場にいる大勢の人と空気
0124人間七七四年2007/02/15(木) 23:27:13ID:7C6399la
>>121
なんだ?
こじつけでも回答できないようだなw
無様だねwww
0125人間七七四年2007/02/15(木) 23:30:34ID:C+/qgVPa
>>122
今川は尾張の一部を持っていた
尾張抜きの今川で75万石程度、尾張の一部を加えると80〜90万石になる
そして今川が凄かったのは金山と港の両方を持っていたこと 今川の経済力は凄まじく100万石に近い兵力を動員できたと考えられる
三国同盟により国は空っぽにできるし、22000〜25000の軍勢は動かせたと考えることができる
そして織田だが尾張57万石全てを持っていたわけじゃない、地盤は微妙で一部は今川の物になっていた
桶狭間までは今川の怒涛の進撃があったから大分領土も取られた となれば限界の12500〜14000からだいぶ落ちて10000程度になったと考えられる
そして信長は無茶苦茶な早さで移動したから急遽集まった連中ばかり、旗本とか戦闘部隊が中心でその他もろもろ合わせても2000〜5000程度
5000VS25000というのはかなり正しいと思う
0126人間七七四年2007/02/15(木) 23:30:47ID:7C6399la
>>120
ゲームの必殺技=お前お得意の強襲じゃん。
オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。

織田軍攻撃の直前まで今川が気づかずに攻撃を受けた。
これなら迎撃態勢が取れずに織田軍にやすやすと崩される理由になる。

お前の説だと気づかないなんて事はあり得ないのだろ?
やっぱりゲームの必殺技の強襲で一挙に壊滅ですかあ?w
0127にゃんこ2007/02/15(木) 23:47:27ID:r5ysS7VK
検定に合格した教科書に載った定説だが、一般にはしられていないこと。

「日本人は丘陵地や山麓から、戦国時代になって、平野部に降りてきた。」
関東平野の開発は江戸以降だから、尾張こそ、当時の最先端産業地域
だった。つまり、学者の言う「剰余」が非常に多い地域だったと考えられる。
さらに、「寺内」なんてのも多い所。今川方に取られた所は、平野部中央
ではないから、経済的打撃は多くないと思う。

さらに、戦国時代は、遠征の場合、一揆等に備えて全軍を派遣することなど
できないし、まして、補給の問題もある。
 一方、防衛側が、農民兵を動員しやすいのは、後の対豊臣の北条や徳川
でもあったよね。

今川の遠征兵力は20000を割り、その何割かが、桶狭間山にいた。
そこへ、10000から5000程度の兵が襲ったとしたのが、
現実的にあり得る戦いだと思うよ。




0128人間七七四年2007/02/16(金) 00:14:19ID:I1LRVAFe
賢く装ってる真性の馬鹿って感じだよな
0129人間七七四年2007/02/16(金) 01:20:40ID:8Yrhpebk
ちょっと確認したいんだが
義元がいたのは桶狭間じゃなく田楽狭間じゃなかった?
俺の記憶ちがい?
0130メガトン ◆xfEWihaR6w 2007/02/16(金) 01:32:55ID:Yr8Cyibc
>>122ほんとに今川厨ってのは、何もかも都合良く解釈するんだねえ、それ
共真性の単細胞なの?必死なのは分かるけど基本的なことが抜けてるよ。

織田軍の兵力は 美 濃 にも裂かないといけないんだよ!!そもそも尾張
半国でどうやって20000も集められるんだよ。
俺の考えでは(多くの作家なんかも言ってるが)、清洲出た時には2000
人程度で、桶狭間に到着した時には5000人まで膨れ上がったと見ている
そして今川軍も、全軍若干感覚をあけて布陣しておいて、義元本陣の兵力は
10000人以下だったみたいだから、奇襲するのに悪くない兵力差ではあ
るね。
0131大恩教寺 ◆ozOtJW9BFA 2007/02/16(金) 01:50:20ID:8Yrhpebk
書籍によっては
今川本陣にいたのは僅か
200人程度だったと説明されている本もあります。
まだ研究者の間でもバラツキがあるのでしょうね〜
ところで桶狭間と田楽狭間って、義元の本陣があったのは
どちらなのでしょうか?
博学な方はお教えくださいm(__)m
0132人間七七四年2007/02/16(金) 06:27:48ID:A78W09EN
>>126
はい、0点
>オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
恥ずかしげもなく、何言い放っちゃってるの?
そこまで無知ならおとなしくROMってろや、タコスケが



0133人間七七四年2007/02/16(金) 07:55:58ID:y/RcknXx
信長の場合斎藤氏にも備えないといけないからね
0134人間七七四年2007/02/16(金) 11:33:12ID:MV4B29FQ
>>128は誰に言ってるんだ?
0135人間七七四年2007/02/16(金) 11:48:44ID:EidaDHtH
信長公記だと、最後まで義元を守ったのは三百騎ほど
だからそれ以下ということは無いだろう
義元以外にも重臣がかなり討死しているが、当然彼らの手勢も居たはず
一般には五千、ただし織田軍の予想外の出現や天候のせいでバラバラになっていたと言われてるね
小説の世界だと信長の差し金で送られた酒肴に酔ってたとかなるがw
0136人間七七四年2007/02/16(金) 14:17:30ID:8Yrhpebk
>>135
その可能性は十分ある。
特に織田の梁田広正は田楽狭間あたりに影響力をもっていた
梁田が田楽狭間の民と共謀して義元を油断させたということなら
信長が梁田を使って義元を油断させたともいえなくもない。




あくまで推測だけど
0137人間七七四年2007/02/16(金) 14:23:18ID:8Yrhpebk
間違って息子の名前を書いてしまった

広正→×
政綱→〇

0138人間七七四年2007/02/16(金) 15:17:23ID:I1LRVAFe
>>134
安価がない時はすぐ上のレスに決まってんだろ
0139人間七七四年2007/02/16(金) 17:39:23ID:A78W09EN
>>136
梁田が計らなくも大高陥落の阻止が確定した時点で
今川は目的を達したことになり、祝勝ムードだったみる。
0140人間七七四年2007/02/16(金) 19:03:40ID:QiuzAu1t
>>132
今川が織田軍の動きを察知していて、何で負けるんだ?
賢い人の考えはわからないよねえ?
というか、お前は自分の考えを書いてないじゃん。
もしかして強襲ボタン連打したから勝ったのかな?w
お前はこれから強襲厨と名乗れ。
お前にお似合いの名前だろ?w
0141人間七七四年2007/02/16(金) 20:37:51ID:nFGKRYFZ
河越夜戦はなかったと言い切る根拠も無いんだが・・・
関東の勢力図が一変したのは事実だし、小競り合いではない何らかの決戦はあっただろう。
もっともこのスレに相応しい寡兵VS大軍とは限らないが。
0142メガトン ◆xfEWihaR6w 2007/02/16(金) 22:24:39ID:Yr8Cyibc
桶狭間っていう地名の中に田楽狭間っていう場所があるんじゃないの?
桶狭間病院の近くにそんなとこないか?
0143あぼーんNGNG
あぼーん
0144にゃんこ2007/02/16(金) 22:28:52ID:F0wNvsWz
>130

ちゃんと読めよ。どこに織田方20000人なんて書いてある?
「大差ない」を20000と解釈したのなら、読み間違いだよ。
私は、そもそも今川の25000説など支持してないよ。

それに、私のどこが今川厨なのか?ちゃんと

127も読んでね。戦線間の距離が短い場合、兵力を分散する必要の無い
理由も書いてあるから。
0145にゃんこ2007/02/16(金) 22:32:43ID:F0wNvsWz
訂正。

122に書いたように、戦線間の距離が短い場合、主力を分散させなくても良い。
何故なら、内線側の移動時間が短いから。ただし、指揮官の高い力量が必要
だがね。
0146にゃんこ2007/02/16(金) 22:37:58ID:F0wNvsWz
旧・旧説・・・・桶狭間

旧説・・・・・田楽狭間

新説・・・・桶狭間山・・・信長公記による。

桶狭間山が正しいんだろうね。一級資料によるし。しかし、初期の信長公記の
兵数は怪しい。信長の若い頃は、厳しい検地を行って、正確な動員を行える
時代ではなかったから。
0147にゃんこ2007/02/16(金) 22:57:05ID:F0wNvsWz
酒で酔わせたとかの小説ッポイのではなくて、現実的なあり得る例として、

今川・織田国境方面への動員総兵力

今川・・・石高(?)から推定できる兵力から、遠征による補給負担や対一揆防衛軍を
     さし引いて15000くらいか?
織田・・・尾張の半分と、防衛戦による農民兵の動員のしやすさや、内線ゆえの集中の
     しやすさから、8000人くらいか?

桶狭間山での決戦時の兵力

今川・・・・分散したため、本陣は5000人ほどか?

織田・・・・比較的集中しやすいため、6000人ほどか?

これなら、織田が勝っておかしくないな。


0148にゃんこ2007/02/16(金) 23:04:58ID:F0wNvsWz
1万石250人説は、太閤検地の頃の数字からきている。しかし、防衛戦だと、
もっと動員できる。補給の負担が軽く、惣の協力も得やすいからだ。
しかし、厳しい検地のできなかった頃は、もっと動員兵力は少なかったと
見るべきだ。なぜなら、太閤検地の目的が「剰余」を残さないためのものだから。
今川の検地は差し出し検地であって、限界まで収奪・徴兵するためのものでは
ない。まして、遠征であるから、25000人という人数はあまりにも過大
だ。これは、何らかの政治的数字と見るべきだろう。
0149人間七七四年2007/02/16(金) 23:05:56ID:5yOwkRmr
まぁそういう想像しだしたらきりが無いな
0150メガトン ◆xfEWihaR6w 2007/02/16(金) 23:08:37ID:Yr8Cyibc
>>147そう、義元本陣までいけた信長の行動の早さが生んだ結果
の大勝利だね、結局義元の前線は信長軍に気づかなかったのは
事実だし
0151にゃんこ2007/02/16(金) 23:12:04ID:F0wNvsWz
今川本陣数百人説は、数学合理的に、織田方の勝因を説明できるね。

ただ、この説の弱点は、「今川義元油断し過ぎ」
前線に近い所で、「本能寺状態」なわけだ。
そんなに油断するかな?
0152人間七七四年2007/02/16(金) 23:13:39ID:7w4RZdg/
>>1
墨攻
0153人間七七四年2007/02/16(金) 23:38:31ID:GWaK9O+P
>>122
今川が到着すると大高包囲の将2人は玉砕、
撤退した残り2人も、着陣した信長の目の前で突撃して散った。
こういうことは、戦国では異例中の異例。
なぜそうなったのか、詳しくはwebサイト藤井戦国史を参照。目から鱗だよ。
勝利か、しからずんば死か、という状況を演出し
その結果織田軍は韓信の背水の陣と同じ、狂戦士集団と化してしまった。
一方の今川は、その直前まで完勝ペースであり、
大高救援の戦略目的を達成してしまっていた。
常識なら織田方は和議か退却かという、終わってる状況だった。
油断はなかっただろうけど、慢心はあっただろう。
こうなると大軍でも案外もろい。
今山、関ヶ原、大坂にも共通している。探せばもっとでてくるだろう。
0154人間七七四年2007/02/16(金) 23:47:19ID:BxO60sSh
>>147
突撃時の信長の手勢はもっと少ないと思うけどね。
まず桶狭間の前に、信長は鳴海城を築城包囲しているがその軍勢の中身は尾張の
大身である佐久間一族、それに織田一族と信長馬廻衆から編成されている。
さらに信長公記によれば、信長と別れて行動していたやはり尾張の有力豪族である
佐々氏・千秋氏の部隊がある。
さらにこれは推測になるが、大きな動員兵力を持っていただろう柴田・林が参加して
いない(清洲に残されたか、別方面に当てられたか?)。
こういった点を考えると、桶狭間時点での織田家の動員兵力はそれなりに高かった
だろうが、信長が手元で動かせた兵力は通説並の二、三千くらいには落ちるのでは
なかろうか?
0155にゃんこ2007/02/17(土) 00:06:46ID:YIcdocaU
153>

二人を見殺しにした理由?
そんなもん、単に信長本陣への戦力の集中だろ。

背水の陣なんて真に受けてはいかんと思う。そんなのが本当に成功するなら、
相手の退路を断つ包囲作戦なんか誰もしないよ。
そして、みんな、自軍の退路を断つ。
渡った橋を落とすのは、気合い入れの儀式に過ぎないと思うね。勝因は別にある
と思う。
ちなみに、三河物語に「鉄砲をたくさん撃つ」と書かれた武田軍が、長篠で敗れた
のは、織田・徳川に包囲されたからだ。
0156にゃんこ2007/02/17(土) 00:11:13ID:YIcdocaU
154>

にゃるほど。痛い所をつかれた。
しかし、そうなると、織田方の勝因を、説明しにくくなるよね。
0157にゃんこ2007/02/17(土) 00:14:35ID:YIcdocaU
154>

反論を思いついた。当時の国人の領地は、江戸時代の旗本レベルだろう。と、すると
この時期の柴田や林の私兵は数百人に過ぎない。柴田や林以外の無名の国人や地侍が信長主力
に入れられていたら、もっと多い人数を想像できる。
0158人間七七四年2007/02/17(土) 00:42:45ID:daKIuifF
なんて資料からの考察?
0159人間七七四年2007/02/17(土) 03:58:28ID:rM4mdBwf
>>155
背水の陣と包囲殲滅戦を同一視するとはw
0160にゃんこ2007/02/17(土) 07:47:05ID:YIcdocaU
159>

みんな「自軍の退路を断つ」

とも書いたよ。あいまいだが、区別はしてある。

159>

国人とか地侍の件は、教科書的基礎だよね。どの高校受験参考書にも書いてある。
そこから、考えられるね。あくまで、可能性に過ぎないが。



0161人間七七四年2007/02/17(土) 12:57:28ID:ohA7sNuI
>>157
千秋氏は、知多半島で推定五万石の領地をもっていたとされています。
また林氏は稲生合戦で記録では千五百〜七百の兵を動かしてます。

無名の国人や地侍という存在は、普通は信長とか佐久間とか林などの
大身の豪族の寄子となってその軍勢の構成要員となります。
上で挙げた林氏の動員兵力千五百には、無名の国人衆が含まれている
数字なのです。
0162人間七七四年2007/02/17(土) 13:01:36ID:lS9zlgCm
織田軍二千、というのは熱田神宮まで少数の供回りと駆けて来た信長にわざわざ追いついてきた兵力
戦意・機動性とも高い虎の子の精鋭部隊ってことでは?
参集方法の性質上、非戦闘員として軍隊につきものの人夫や軍役夫も少なかったと思われる
つまり、真水の二千対本陣機能のための戦闘に向かない連中も混じった今川本陣五千
意表をついて敵中を突破し、天候にも助けられた織田軍が一方的主導権を握ってもさほど不思議ではないと思うが
0163人間七七四年2007/02/17(土) 14:57:10ID:cBxfM6np
お前らウザイから、もう自分で見てこいよ
0164人間七七四年2007/02/17(土) 19:23:02ID:TopOkgvX
>>163
実は見てきたんだけど多分言っても誰も信じてくれないから黙ってる
0165人間七七四年2007/02/17(土) 19:38:08ID:dhFdnVC8
>>155
戦力を集中したかったら、合流させるんじゃないですか?普通。
突撃して壊滅し疲弊した敗残兵が加わったところで何の足しになるでしょう。
千秋と佐々はそうせざるをえない立場だったことを無視しています。
これは計算とか作戦とかの範疇には入りません。だからこそ、効果的なのです。

>そして、みんな、自軍の退路を断つ。
そういう反論があるだろうと予想していました。
カメ割り柴田、毎回割っていて説得力があると思いますか?
それではただの狂人で、だれも相手にしません。
ヒトラーの死守命令、最初は効果がありました。あとは知ってのとおり。
類例がいくらでもあるのに、背水の陣が事実か問うて意味がありますか?

0166人間七七四年2007/02/17(土) 23:28:43ID:5GWFRunc
要するに、通説の桶狭間の戦いを否定してる連中は、単に「寡兵で大群を打ち
破った信長」の評価を落としたいのと、「寡兵に敗れた義元」という凡将のレ
ッテルを覆したいだけのような気がする、そう思う最大の理由教えてやろうか?

今川軍と同等の兵力を備えた織田軍がどうして、背 水 の 陣 なのですか?
正面から戦って勝つ戦は普通大将の指揮の旨さによるものじゃないの?
はっきりいうが、今川義元なんて自身は軍略に長けた武将じゃないのご存知?
3州併合も雪斎が主に指揮しての領土拡大だったってのご存知?
0167人間七七四年2007/02/17(土) 23:34:37ID:5GWFRunc
なら逆に、織田軍が寡兵で正面から今川軍に打ち勝ったとすれば、更に
義元の凡将ぶりが伺えるよ、そりゃそうだ武将じゃないもんね義元は。
みずから陣頭指揮なんて出来るわけないんだから。
そういったことも知らずに、ひたすら「織田軍は背水の陣で狂気して正
面から突破していった戦略性のない戦」と解釈してるんだか。

結局公家大名と武将との違いってことですよ、雪斎の存在が全ての今川
家なんですよ。
0168人間七七四年2007/02/17(土) 23:51:44ID:tAFgh9Ch
なんで極論から極論に走るんだ?

二万五千〜四万という数字が誇張であるかもしれない、とは俺も思う。
だからといって、信長が桶狭間で非凡な業績をあげた事は否定できない。
するつもりもない。

もちろん、「”天才”」信長がすべての状況を見通し操っていたとも思ってないが。
偶然の要素もかなり絡んでいるし。

神話ではない実際の姿を知りたいと思ってるだけだが。
0169人間七七四年2007/02/18(日) 00:21:03ID:z55wqnIj
極論から極論に走る奴はバ(ry
0170人間七七四年2007/02/18(日) 00:26:59ID:bVr8grlL
極論に逃げるのは論理破綻した証拠。
だいたい同等の兵力なぞ論拠も資料もないものを持ち出だされてもね。
そのうえ背水の陣が比喩と理解できずに拘泥。
あげくに義元の無能を力説しだす始末。
はじめから武将の能力なんて論点にすらなってないんだよ。
そんな曖昧な主観だけで何かがわかると本気で思ってるのか?

0171人間七七四年2007/02/18(日) 00:34:17ID:LqQHX422
二万五千〜四万が誇張かもしれないって言うけどそれを裏付ける資料はあるの?
0172人間七七四年2007/02/18(日) 00:34:59ID:IWJ93Wdy
>>171
石高

とにかく、4万だけは絶対にありえない 25000は結構妥当な数字だったりする 石高だけで考えたら20000〜22000
0173人間七七四年2007/02/18(日) 00:35:27ID:Ns+JJk0c
>>171
太閤検地の石高
0174人間七七四年2007/02/18(日) 00:37:33ID:LqQHX422
まぁ4万は確かにあり得ないだろうが2万5千ならあり得るんじゃないか?
0175人間七七四年2007/02/18(日) 00:49:06ID:vaIFt3UK
石高≒人口だそうだ。

そうすると駿河、遠江、三河で70万人の人口。

そのうち兵役についている人口が5パーセントとすると

3万5000の兵がいる計算になる。

充分ありえるんじゃないの?>2万5000
0176人間七七四年2007/02/18(日) 00:52:50ID:HADoshBs
>>170ばーーーーーか、なら織田軍が狂気しただの背水の陣で真正面
から義元本陣へ突破だの、今川軍と同等の兵力だっただの屁理屈ばか
り言ってるお前らはどうなんだ?織田軍は美濃にも兵力を分散しなけ
ればならないから、今川軍全軍と同等の兵力なんて考えられないんだ
よ。それに北伊勢も義元は抑えてたというしね、信長は完全に尾張の
奥に押し込まれた感じだな、これでどうやって10000以上兵力を
揃えることが出来るんだ?ちなみに3国同盟で今川軍は背後に心配な
く遠慮なく兵力を揃えれたわけだしね。

それから俺の言ってることが極論とか言ってるが間違ったことなんか
一つも言ってないよ、お前らが痛いところつかれて反論出来ないの見
え見えなんだよターーーコ
まさか、義元自身が陣頭指揮に関して未熟なこと知らなかったとか言
うわけじゃあるまい?
0177朝倉渦中feat.パストマスターズ ◆0Uj4ASAQRA 2007/02/18(日) 00:55:21ID:+Eoi27Vz
朝倉宗滴1万2000 vs 加越能一向衆30万
0178人間七七四年2007/02/18(日) 00:56:43ID:Ns+JJk0c
太閤検地と慶長検地で石高が大きく変動した所もあるし、
実高と表高に大きく差がある場合もあるので
桶狭間時にはもっと動員できたかもしれないね。

武田徳川の今川領侵攻、徳川対武田、小牧・長久手などで
で元今川領は太閤検地時には荒れ果てていた可能性もあるし。

2.5人役はあくまで目安で、実際はもっと動員できたようだし。
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