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伊勢の名門―北畠―

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0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/22(金) 00:48:07ID:iRcYGxpm
南朝の名門!!
0233人間七七四年2009/09/22(火) 17:15:19ID:9zgYd1sp
源氏長者も出したよね。
0234人間七七四年2009/10/02(金) 15:38:42ID:9MeGXcbe
親房本人だけはね。
0235人間七七四年2009/10/11(日) 11:40:22ID:8NyG2c31
後醍醐天皇あってでしょ。
0236人間七七四年2009/10/15(木) 15:29:58ID:AzXLi9Ec
元青森県住人だが、高校の時クラスメートに北畠家の坊ちゃまがいたよ。
当時小柄でメガネの理系男子、名前に顕の字が入ってた。
ウチの祖先は北畠家に従って陸奥まで下ったときいてたんで、殿!なんて言ってふざけた記憶がある。
今までピンときてなかったんだけど、このスレ読んで興味がでてきた。
ちなみにウチは苗字について聞かれたら「館野越の○○」と答えろといわれてたな。
本家にボロイ鎧兜と刀があったけど本物かね。
0237人間七七四年2009/10/22(木) 21:47:03ID:KoeYMXor
同窓会とかやったときに偉くなってたりして
0238人間七七四年2009/10/23(金) 01:58:24ID:uXI/5g0i
>>236
家紋はどんな奴?
0239人間七七四年2009/10/23(金) 11:40:44ID:X1e9hd/v
北畠が伊勢の支配権認められたの南朝の遺臣の世話押し付けられたからって本当?
0240人間七七四年2009/10/29(木) 01:28:22ID:Eej7Gw2G
「忍びの国」に出てきた日置大膳って
史実ではどんな人なんですかね?
0241人間七七四年2009/10/29(木) 21:17:37ID:UaWxKYjc
>>238
鶴丸
0242人間七七四年2009/11/09(月) 16:26:27ID:L4mHAZn7
よく生き延びた。
0243人間七七四年2009/11/16(月) 16:03:35ID:PARhunip
幕府に日和ったから。
0244人間七七四年2009/12/09(水) 13:46:14ID:Oy+qE2wQ
日和ったわけではない。
0245人間七七四年2009/12/17(木) 12:58:26ID:jBgUXNEr
安濃津を居城とせずに山奥のほうに引きこもってたわけは何?
0246人間七七四年2009/12/27(日) 01:13:12ID:0FPp7IdX
三重県民にとっての武将イメージ
服部半蔵→超有名(住んでないのに)
藤堂高虎→津市のみ有名
蒲生氏郷→松阪のみ有名
九鬼嘉隆→志摩のみ有名
北畠具教→誰一人知らない
0247中院2009/12/28(月) 19:25:26ID:/S6fsjrH
うちは中院家の子孫なんですけど、家系図に北畠へ子供を養子に出したと言う記述があったような。中院通勝という先祖の頃です。養子に出した子供に家督を継がせたが、滅亡したとか聞いたような気がします。歴史に詳しくないので、違うかもですけど…
0248人間七七四年2009/12/28(月) 19:41:48ID:pynQVbJl
>>247
明治新姓乙
0249人間七七四年2009/12/29(火) 23:25:44ID:GSDnDKH0
>>245
室町・戦国時代までは都市に居城構える例は無いよ。
土木技術が未発達で要塞が貧弱なのしかできないから、都市部に城造るのはリスキー。
郊外の防御しやすい山にこもった方が安全だ罠w
0250人間七七四年2010/01/07(木) 00:27:38ID:wGodgJFs
>>247
滅亡してないぞ
中院通勝の次男が継いだというか復興させて(江戸時代になってから)、
地下家として幕末まで存続したよ
確か男爵になったはず
その家系図の記述は史実に合致している
0251人間七七四年2010/02/14(日) 10:47:58ID:fDOudjlp
北畠はないって事?
0252人間七七四年2010/02/18(木) 22:33:29ID:isTHG1p4
滝川雄利の子孫は本姓何?
0253月孔雀2010/02/19(金) 00:35:48ID:cnRvP6TV
室町の南北朝時代は、形式上は、北の勝ちだが、
実質は、南の勝ちかもしれない。男系は、わからんしね。
0254人間七七四年2010/04/18(日) 07:22:03ID:SD22qkXJ
幕府の勝ち
以前と比べて朝廷の権威が著しく下がった
0255人間七七四年2010/06/11(金) 18:25:12ID:ZePzzd/m
戊辰戦争の幕府軍司令官は北畠なんだよな
0256人間七七四年2010/06/11(金) 18:29:50ID:ZBTuEA+S
浪岡北畠氏ってマイナーかと思ってたけど知ってる人多いんだな
0257人間七七四年2010/06/13(日) 17:53:41ID:p3igICo8
>>255
北畠って木造家庶流の滝川かよ。
反主流派の木造て時点で論外だな
0258人間七七四年2010/06/15(火) 20:27:49ID:dRGOx5S3
>>256
先祖の七光りでは?
北畠顕家といえば日本史に輝く悲劇のヒーロー(ただしイケメンに限る)じゃん
0259人間七七四年2010/06/20(日) 08:55:55ID:vsxXtTCw
武田スレで北畠の話題盛り上がり。
詳しい人きてー

【武田】2万5千で上洛【信玄】その64
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1276600624/l50

45 :人間七七四年:2010/06/20(日) 00:51:49 ID:xopliY1Z
信玄秋田。北畠を語れ
0260人間七七四年2010/09/27(月) 20:43:05ID:XPsf/lMf
こづくり
0261人間七七四年2010/11/19(金) 17:29:40ID:qdJPrqLT
>>209
>>211
その具親って、江戸時代に旗本とかになってないの?
0262人間七七四年2010/11/19(金) 23:40:31ID:7c5nNQmK
ageんなクズ
0263人間七七四年2010/12/03(金) 19:59:18ID:OjqHCVN4
あげ
0264人間七七四年2010/12/05(日) 18:51:21ID:533qgprH
木造
田丸
星合
滝川
藤方

以外に旗本になれた一族ている?
0265人間七七四年2010/12/05(日) 19:07:27ID:533qgprH
木造
田丸
星合
滝川
藤方


以外に生き残って旗本などになれた一族ている?
0266人間七七四年2011/04/07(木) 21:19:52.39ID:dwsIqdhk
名門
0267人間七七四年2011/04/20(水) 21:31:10.80ID:I0AbNDK3
>>265
んー、と、、、
0268人間七七四年2011/04/29(金) 00:26:48.25ID:S+l7X/Wp
具教の愛刀とかって伝承されてるんかね?
0269人間七七四年2011/05/11(水) 03:03:48.71ID:8QtAfriA
北畠といえば顕家様
0270人間七七四年2011/06/06(月) 03:51:43.45ID:2vnKmAsa
顕家の直系は奥州じゃね。多分伊勢は弟の方の血筋だと思う
0271人間七七四年2011/06/06(月) 03:53:06.45ID:2vnKmAsa
あと顕家が好きな人は是非とも破軍の星を読んで欲しい。
0272人間七七四年2011/07/20(水) 19:53:57.26ID:tnaTvlOP
はい、
0273人間七七四年2011/08/14(日) 03:04:09.18ID:M5RDWn+B
木造長政の長って信長の偏偉?
0274人間七七四年2011/10/24(月) 17:50:39.34ID:b/P8JToh
北畠って江戸時代には既に滅亡してしまってたの?
0275人間七七四年2011/10/24(月) 17:53:45.41ID:HVaK2yjG
大名家としての滅亡なら信長がやった暗殺事件の時滅亡した。
0276人間七七四年2011/10/26(水) 01:08:42.46ID:pnpZMyo1
家名としての北畠なら残ってる

親房や顕家の子孫という意味だといわくつきの子孫ぐらいしかいない
0277人間七七四年2011/10/26(水) 12:01:23.90ID:l8KVImoK
木造氏の系統は残ってないのかな?
0278人間七七四年2011/10/26(水) 19:04:53.51ID:YGNOz8N6
>>277
木造長政の子孫が清正→細川家って感じで残ってるっぽい。
地元が津で仕事上ゼンリンの地図とか良く見るんだが木造城周辺に木造って家は無いな。
ちなみに同級生に細野(ホソヤ)、分部(ワケベ)、家城、川北、奥山って苗字は結構いた。
0279人間七七四年2011/10/29(土) 10:27:45.59ID:l+VVgSuv
なるほど。田丸も似た感じなんでしょうね。
0280人間七七四年2011/11/21(月) 02:29:13.01ID:GtvTFvH9
>>277
具政次男の子孫が500石の旗本
具政入る前に親子喧嘩起こして廃嫡された本来の血筋の子孫がご存じ木造流滝川家
0281人間七七四年2011/11/30(水) 20:18:17.79ID:d6WWGRD/
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を六角氏の斡旋で浅井に嫁がせ協力を取り付けて
やっと近江浅井からの挟撃の軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は西美濃の調略に成功し
10年近くかけてやっと永禄10年に美濃を奪うことができたくらい信長は戦の下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)に滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが
仁木氏勢力圏の楠城の山路弾正の籠城&神戸氏への支援として
白子からの伊勢水軍・鳥羽からの志摩水軍&鈴鹿の関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反の噂が流れ。
さらに支流支援として北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも
協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝と信包を与えて縁戚化させるしかなかった。
(情勢的には10/18義昭征夷大将軍になったり10/28松永久秀が幕府に降伏するなど
続々と幕府に帰順降伏していて六角義秀や仁木義政らの影響も受けている神戸氏は義昭への協調姿勢に転じた)
織田軍は永禄12年春には安濃津城前面まで来ながら抵抗が激しく信長は逃走してる。
この頃、長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏らが家中で内紛を起しており、
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
それに乗じて織田軍はやっと進出し長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると滝川の子を信長養子にし
細野へ人質として渡し味方になってもらった。 関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡。
永禄12年5月北畠四御所木造氏が北畠内での序列に不満があり織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとする
織田も伊勢神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍派兵し滝川三郎兵衛が
九鬼を買収し一部の志摩水軍が北伊勢反北畠連合に寝返る。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし
彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある
紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと
織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)

0282人間七七四年2011/11/30(水) 20:19:45.30ID:d6WWGRD/
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成籑堂古文書)
たった織田軍が1万だけなのは年代記抄節にキッチリ書いてあるし
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように(小石暢太郎文書)
兵力不足から朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
0283人間七七四年2011/11/30(水) 20:20:07.63ID:d6WWGRD/
朝倉滅亡後の9/29には小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成
佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7  六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4  柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。
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