トップページsengoku
283コメント84KB

伊勢の名門―北畠―

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/22(金) 00:48:07ID:iRcYGxpm
南朝の名門!!
0132人間七七四年2008/04/03(木) 15:56:48ID:CqKpUeA4
浪岡御所の方が本来の宗家なの?
0133人間七七四年2008/04/17(木) 15:34:21ID:gGd03Ms2
顕家の直系は浪岡御所
0134人間七七四年2008/05/01(木) 15:51:12ID:6fk1FnDr
北畠の歴代が
満雅ー教具ー政郷ー材親ー晴具だもんな
親房や顕家はどう思うんだろう
0135人間七七四年2008/05/02(金) 12:27:13ID:XDvb/H9F
宇陀三将とか見向きもされないよね。
北畠の支配は大和南東の彼らにまで及んでたのに、名前が出てくるのが秋山直国ぐらいしか……
0136人間七七四年2008/05/14(水) 01:09:52ID:nBUz4McI
満雅は名前は後南朝の忠臣だから。
0137人間七七四年2008/05/26(月) 08:40:14ID:w9ga6aHd
本能寺直後に、一族の残党が伊勢で蜂起してるんだね。
0138人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/08(日) 02:43:43ID:3qv1cdku
>>44
河内じゃなくって、阿倍野区の北畠は大阪随一の高級住宅街だ
そのお高く留まったお屋敷街であの銀行立てこもりをあえて起こしたことに
犯人、梅川昭美の社会への怨恨感情としては意味があるのだろう

南北朝時代の阿倍野の戦いの舞台であり、北畠顕家の墓とかあるとこの近くだね
近くの阿倍野神社も北畠顕家を祭る神社で、ゆかりのある地なのです。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage425.htm
http://www.city.osaka.jp/abeno/variety/spot.html

若くして死んだ非業の忠臣として人気があったのだろう
0139人間七七四年2008/06/21(土) 15:13:55ID:alzYqbJ5
>>136
そうだよね。
父顕泰は幕府から守護に任ぜられ応永の乱で活躍。
子の教具は幕府の忠誠を誓い 赤松教康を匿わなかった。
満雅は完全に南朝側だけどね。
0140人間七七四年2008/07/08(火) 14:58:52ID:272tmznN
幕府寄りというと何か北畠っぽくない。
0141人間七七四年2008/07/13(日) 19:45:35ID:gLivFDxR
晴具、具教なんか完全に幕臣で、時の将軍を助けて細川・三好と戦ってるじゃん
0142人間七七四年2008/07/21(月) 23:05:29ID:5vcWzvk4
>>141
将軍から偏諱まで受けてるからね、晴具とか。
0143土岐一族2008/07/22(火) 16:50:36ID:zeremvqw
皆様方にお聞きいたします。信長が伊勢志摩への侵略が遅れた理由を忘れてはおられませぬか。
伊勢長島城の伊藤氏、願證寺の一向勢、さらには北方諸家、等々。
関氏などは弱小勢力にすぎないのに、いかにも大勢に影響したかの如く
主張されておられる方がおられますが、もっと視野を拡げて議論される
ことを望みます。
だいたい、赤堀氏、濱田氏、稲生氏、星宮氏などの名前が挙がっていない
のは何故なのですか。もっと詳しく調べたのちに発言されるべきです。
0144土岐一族2008/07/22(火) 17:25:39ID:zeremvqw
追記 異流も多々ありまするが、星宮氏は星合氏(大河内)の傍流でござる。
0145関連スレ2008/07/22(火) 19:36:13ID:dJ1tSS/f
伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0146人間七七四年2008/07/24(木) 20:52:11ID:/D2zFFiT
北畠氏は,室町期においても公卿の官位を貰っているけど,伊勢に在国のまま
もらっていたのでしょうか?
それとも,北畠氏も守護のように,実際は京に屋敷を構えて住んでいたんでし
ょうか?

0147人間七七四年2008/07/25(金) 07:31:04ID:j6fwMsWe
浪岡家の場合は、具永が官職貰うために領地から搾り取りすぎて
孫の代で起きたのが川原御所の反乱
0148人間七七四年2008/07/25(金) 10:28:56ID:yOPJX69/
>>147
浪岡みたいな辺境だと自官でも良いのにねw
0149人間七七四年2008/07/25(金) 17:53:31ID:T75F28Tp
しかし北畠的に考えて伊勢より浪岡の方が縁があるよな
0150人間七七四年2008/07/25(金) 23:54:21ID:fydJSQvn
浪岡にすごく立派な資料館があってビックリした
0151人間七七四年2008/07/26(土) 01:02:02ID:0JUCs59C
北畠が,喜連川や岩松みたいになれなかったのは,関東にいなかったからかな?
それとも,江戸期が来る前に実質消滅してたからかな?

北畠は,交代寄合になれる程度の貴種性はあったと思うし,南北朝以降にはもう,征夷大将軍の権威に対抗する存在ではなかったし。

0152人間七七四年2008/07/26(土) 01:45:04ID:4ZRmVuGL
別に京に行けば他の村上源氏がごろごろいるからな。
本家である久我家も残ってるし。
0153人間七七四年2008/07/26(土) 07:12:37ID:/hhUj/ad
>>151
信雄のせいだろ
0154人間七七四年2008/08/10(日) 21:36:15ID:GYX0pmlv
具教は強いの?上泉信綱の弟子だったようだけど
0155人間七七四年2008/08/11(月) 19:56:07ID:QSgGVP5k
↑釣られまい……釣られまい。。
0156人間七七四年2008/08/11(月) 22:53:21ID:Y7J1aQwN
DIE
0157人間七七四年2008/08/13(水) 07:44:43ID:9nr7E4M3
つっ、塚原だよっ  べ、別にアンタに教えてる訳じゃ、無いんだからね ただ間違えて覚えてしまって、人前で恥をかいても
0158人間七七四年2008/08/28(木) 14:52:02ID:z4oBdoTq
>>152
こがはるこ さんがいらっしゃるね
0159人間七七四年2008/09/11(木) 14:30:03ID:wfiWtsMD
久我建通は一条家からの養子です。
0160人間七七四年2008/09/20(土) 00:32:22ID:meXVq6sb
祝!復活!!どんどん盛り上げちゃってね!
【三重総合裏掲示板】
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/i.cgi/travel/8192/
0161人間七七四年2008/09/23(火) 01:49:00ID:Enyk8xGW
有馬家が末裔ってのはどんだけ信憑性があるんですかね…
0162人間七七四年2008/09/27(土) 03:52:34ID:D68452Mw
結局、江戸時代まで家名を残せなかったのか。
血脈が残ってれば、旗本程度にはなれただろうに。
0163人間七七四年2008/10/11(土) 14:05:20ID:NGmbrce9
交代寄合になれたかも。
0164人間七七四年2008/10/16(木) 23:42:56ID:9yePsyQs
伊勢国司家としては信雄さんのとこが引き継いだってことでいいかな
0165人間七七四年2008/11/01(土) 10:48:21ID:Lh/kK0EJ
天童藩は織田家だけどね。
0166人間七七四年2008/11/11(火) 22:42:23ID:KCwyBqyJ
結城みたく祭祀は天童織田家でやってるみたいなことはないかな
それとも村上源氏にお返ししたのか
0167人間七七四年2008/11/22(土) 14:17:13ID:/HuUjrDj
聞かないけどどうなんだろ。
0168人間七七四年2008/12/03(水) 05:55:17ID:vbNB7PVZ
>>94
1年以上前の話に亀レスだが、浪岡から舘野越に落ち延びる途中、当然大混乱となった。
また、江戸時代に隠棲していた舘野越周辺に津軽藩が色々聞きまわったときに
素性が割れるのではとドタバタがあった。

浪岡城落城後はいつ素性が割れて手入れが入り根絶やしにされるかという恐怖が常に付きまとった。
証拠物である錦の旗を持ってる家は津軽藩に根絶やしにされる危険を蒙るため、
本家が根絶やしにならないように直接本家の手元に持たない方策を取ったとかなんとか。
家系図にしてもそうで、生存戦略のために本家を本家と絶対的に証明できる物は
消失しただけでなく意図的に残していないとか。

親は明言はしなかったが、そうした経緯で明治維新の復姓時に
たまたま旗を持っていたところがこれ幸いと宗家を称していると理解している。
いずれにせようちは明治以降に分家となってるため本家ではありえないが、
どこが本家かなんてもう分からんとさ。そのため「うちの本家筋」とかいう言い方をしてる。

北畠家は、南北朝時代まで公家として和漢の学を持って天皇に仕えた。
その公家の執務に堪える頭脳くらい受け継がれててもいいと思うんだが、
どう見ても名前負けしてる癖に虚しく家柄を誇る奴が多すぎる。

明治維新で復姓し、約270年に渡る滅亡の恐怖からやっと解放されて
世の中に出られたのだから、受け継いだ能力で社会的成功を収めるよう
精進したらいいと思うんだけどねー。
0169人間七七四年2008/12/15(月) 16:04:35ID:vAyVkits
随分難しい話だね。
0170人間七七四年2008/12/26(金) 20:26:22ID:yAp4xitJ
【松阪ショッピングセンターマーム】給水施設の事故対応についてお客さまへお知らせとお詫び
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/owabiplus/1228493994/

松阪マーム受水槽事件騒動まとめ
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php
時系列
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php#time
Q&Aテンプレ
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php#temp
0171人間七七四年2009/01/10(土) 15:01:33ID:B1Fhp10Q
>>166 御先祖に当るんだから普通は祭るでしょうね。
0172人間七七四年2009/01/26(月) 15:58:07ID:CnouMToV
具教の男系子孫っていないのかな?
あと織田家に遣えた事もあるっていう、江戸時代も武家として存続した庶流ってどこのことでしょうか?
0173人間七七四年2009/01/27(火) 02:33:33ID:ih0lk0QJ
>>172
武田並みの根絶やし政策くらってたような
落し胤とかも聞かないし
0174人間七七四年2009/01/27(火) 02:34:15ID:ih0lk0QJ
あ、木造氏系統は残ったんじゃないかな
0175人間七七四年2009/01/28(水) 01:39:56ID:7pEEa5n5
田丸氏とかもじゃね?
0176人間七七四年2009/01/28(水) 16:52:06ID:RVEsGffY
田丸直昌は剣の達人で北畠具教の甥っていわれているけど
北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか
0177人間七七四年2009/01/28(水) 22:07:28ID:eSVhZIpO
具房の遺児が浪岡に逃れたとか

木造の子孫は肥後細川に仕えてたり
0178人間七七四年2009/01/28(水) 22:18:45ID:fl/RaAWk
>>177
1行目はデムパサイトの受け売りwwwww
0179人間七七四年2009/02/09(月) 15:56:28ID:4CLTw1eJ
面白い話ではあるんだけどね。
0180人間七七四年2009/02/11(水) 12:35:32ID:hN+yQi4j
>168
小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ...
01811682009/02/11(水) 17:50:01ID:gNpfDMvd
どうだろ?浪岡の一族なら遠い近いということはあれ、親戚かも。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm
↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。

スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。
01821812009/02/11(水) 21:16:33ID:hN+yQi4j
たぶん遠い親戚だろうw
ウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。

霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。

このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。

長レススマソ。
01831822009/02/11(水) 21:23:47ID:hN+yQi4j
というかウチには家系図が残っているが本家筋には残っていないのか??
浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか?
0184人間七七四年2009/02/12(木) 20:29:26ID:gGAjd4Z1
レスどうもです。
じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。

> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw

本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。


具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。

長文でスマソ
0185人間七七四年2009/02/24(火) 15:09:17ID:yX4CIWwg
顕成〜顕邦って本当に権大納言なの?
0186人間七七四年2009/03/01(日) 23:05:26ID:uFNJJWI7
>>176
田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。

北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
       L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌

となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。
0187人間七七四年2009/03/01(日) 23:41:53ID:f6vWZvE/
家系自慢の自演もここまでやると・・・・・・・・・
0188人間七七四年2009/03/03(火) 15:22:31ID:2M3xVPLs
自分が入り込めないやつは全部自演かよ
もっとやってくれい
0189人間七七四年2009/03/03(火) 16:08:12ID:YSr3Ed6N
つか2ちゃんっていう匿名の板で自分の家系がどうのこうの言ったって真偽を確かめる術はない
だから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな

どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない?
0190人間七七四年2009/03/04(水) 09:37:32ID:xuIcTAyb
浪岡(北畠)氏の系図があるぞ

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm
0191人間七七四年2009/03/04(水) 13:08:12ID:PwM8fSXc
いきなりの上にマイナーだがウチの近所に伊勢北畠の重臣奥山信濃守の子孫が当時と全く同じ場所に住んでる。
城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい
0192人間七七四年2009/03/05(木) 09:51:26ID:q0++1XLU
本田左京佐 清和源氏足利今川末枝 松阪市松江船江城主 侍所家老

だれこれ?
今川庶流に本田?わからん
0193人間七七四年2009/03/05(木) 09:54:43ID:eEEOeFol
伊勢・志摩の小勢力 神戸・長野・関・細野・九鬼他
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0194人間七七四年2009/03/08(日) 09:39:33ID:CXn3SN0t
>>191
そういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
0195人間七七四年2009/03/21(土) 15:22:04ID:YVp+YPnj
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋はかなしき。
0196人間七七四年2009/04/02(木) 16:25:19ID:RQyK0p8j
>>193 こんなスレあるんだ。
0197人間七七四年2009/04/12(日) 19:22:50ID:0BT83a+r
具藤の官位ってわかってないの?

兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
0198人間七七四年2009/04/14(火) 17:33:25ID:jLirlSUB
>>191
すまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。
0199人間七七四年2009/04/20(月) 13:15:25ID:aZLLYBul
城山から坂下ったところにあるバス停北側の細い坂の上やよ。相川見下ろす高台
0200人間七七四年2009/04/20(月) 13:35:01ID:aZLLYBul
>>198
わかりにくいので小森上野城の位置(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.30.46.734N34.40.35.547&ZM=9
子供の頃遊んだ記憶では遺構などはなかったと思う。
場所は伝承というか「城山って言うけど城あったん?」と祖父に聞いたらソコと教えられた。
地勢的にも北から来る敵を迎え撃つにはいい場所かもと地史を知るようになってから思った。
0201人間七七四年2009/04/20(月) 14:08:20ID:8Cmnp9zm
>>199-200
おおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん?
0202人間七七四年2009/04/21(火) 01:38:09ID:/YBhY+Tp
石柱みたいなのって戦没者慰霊碑じゃなかったかな?
よく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。

槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。
0203人間七七四年2009/04/22(水) 13:21:00ID:XwJPM6Bj
現地確認してきた。
石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。

で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな?
0204人間七七四年2009/05/05(火) 17:28:14ID:WivtksbZ
どこの話?
0205人間七七四年2009/05/06(水) 15:16:00ID:HDm3hEZr
伊勢の北畠氏は、国司から戦国大名になったといいます。
守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。

北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
 
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか?
0206人間七七四年2009/05/06(水) 21:49:38ID:fs2/7v1I
そもそも後醍醐天皇の建武の新政において公家と武家をまず平等に扱おうという所から
天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな
0207人間七七四年2009/05/11(月) 00:31:22ID:nd0QtDNZ
>>205 >>206少し調べて見ました。

南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。

応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。
0208人間七七四年2009/05/25(月) 14:50:14ID:6RAsVGil
幕府に従ったからね。
0209人間七七四年2009/05/28(木) 07:56:27ID:Mwxp2QvO
先日、長宗我部氏の本を読んでいたところ
「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?

伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?

情報お願いします。
0210人間七七四年2009/05/28(木) 09:32:45ID:ZUdFN/GV
「忍びの国」で北畠具教の格好良さが描かれてます。
ほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。
0211人間七七四年2009/05/29(金) 19:35:21ID:SmpNXIzL
>>209
>六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。

その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね?
0212人間七七四年2009/06/01(月) 02:12:30ID:+USGwVNF
>>211
読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。
0213人間七七四年2009/06/03(水) 01:33:45ID:f9Gar/FW
>>212
いや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。

文献名しか書いてないのであれば、情報としては>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。
0214バロン曽志崎2009/06/03(水) 02:06:48ID:GV0B97Dh
天正12年比定の朝親署名書状(植松文書)。
本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。
0215人間七七四年2009/06/13(土) 14:29:45ID:JGd6EvXn
朝親とは具親のことか。
0216人間七七四年2009/06/13(土) 15:11:59ID:H/n11ihB
>>215
確か文書上では「朝親」だったと思う。
まぁ当時は本人ですら字にはこだわらないって場合もあるしな。
02172092009/06/16(火) 19:47:01ID:UbTi0Sq+
なるほど。ありがとうございました。
0218人間七七四年2009/06/29(月) 14:26:37ID:JyPLuHXL
具親はどこから?
0219人間七七四年2009/07/01(水) 06:14:04ID:4ppHyzpB
俺の嫁さんの旧姓は田丸です
0220人間七七四年2009/07/12(日) 14:56:14ID:F/7kUZ/T
>>191
大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。
0221人間七七四年2009/07/23(木) 16:08:09ID:EKmActq3
子孫の方が多いですね
0222人間七七四年2009/07/29(水) 05:47:52ID:sfrjALQQ
>>220
高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw
0223人間七七四年2009/07/29(水) 21:17:07ID:7M0zlH01
>>221
日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ?
02242202009/07/31(金) 17:11:41ID:VOOgp/AQ
>>222
おお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい>>222さんは奥山さんですか?

原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。

0225人間七七四年2009/08/12(水) 15:18:34ID:MSMygVqX
過去帳でしょうな。
0226人間七七四年2009/08/21(金) 14:55:46ID:5yrZEQOI
江戸期も伊勢にいたの?
0227人間七七四年2009/08/21(金) 16:14:43ID:MV8VEBD1
その前に滅亡している・・・
おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない

江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家
0228人間七七四年2009/08/22(土) 19:46:38ID:z6TYs1xw
二見に北畠っておったな
ブタみたいな顔の奴
0229人間七七四年2009/08/23(日) 00:53:07ID:0r9EzdIh
>>224
公的には使わなかっただけで、名字は持ってたよ。
家紋とセットみたいな部分もあるし。
0230人間七七四年2009/09/02(水) 15:41:07ID:VPS/InyX
京の公家にも北畠いたんだっけ?
0231人間七七四年2009/09/02(水) 22:11:32ID:VDA5H2X+
そもそも京の公家だったんじゃないの?
0232人間七七四年2009/09/12(土) 14:48:29ID:qCu4Admo
村上源氏だよね。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています