伊勢の名門―北畠―
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0001名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 00:48:07ID:iRcYGxpm0132人間七七四年
2008/04/03(木) 15:56:48ID:CqKpUeA40133人間七七四年
2008/04/17(木) 15:34:21ID:gGd03Ms20134人間七七四年
2008/05/01(木) 15:51:12ID:6fk1FnDr満雅ー教具ー政郷ー材親ー晴具だもんな
親房や顕家はどう思うんだろう
0135人間七七四年
2008/05/02(金) 12:27:13ID:XDvb/H9F北畠の支配は大和南東の彼らにまで及んでたのに、名前が出てくるのが秋山直国ぐらいしか……
0136人間七七四年
2008/05/14(水) 01:09:52ID:nBUz4McI0137人間七七四年
2008/05/26(月) 08:40:14ID:w9ga6aHd0138人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/08(日) 02:43:43ID:3qv1cdku河内じゃなくって、阿倍野区の北畠は大阪随一の高級住宅街だ
そのお高く留まったお屋敷街であの銀行立てこもりをあえて起こしたことに
犯人、梅川昭美の社会への怨恨感情としては意味があるのだろう
南北朝時代の阿倍野の戦いの舞台であり、北畠顕家の墓とかあるとこの近くだね
近くの阿倍野神社も北畠顕家を祭る神社で、ゆかりのある地なのです。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage425.htm
http://www.city.osaka.jp/abeno/variety/spot.html
若くして死んだ非業の忠臣として人気があったのだろう
0139人間七七四年
2008/06/21(土) 15:13:55ID:alzYqbJ5そうだよね。
父顕泰は幕府から守護に任ぜられ応永の乱で活躍。
子の教具は幕府の忠誠を誓い 赤松教康を匿わなかった。
満雅は完全に南朝側だけどね。
0140人間七七四年
2008/07/08(火) 14:58:52ID:272tmznN0141人間七七四年
2008/07/13(日) 19:45:35ID:gLivFDxR0143土岐一族
2008/07/22(火) 16:50:36ID:zeremvqw伊勢長島城の伊藤氏、願證寺の一向勢、さらには北方諸家、等々。
関氏などは弱小勢力にすぎないのに、いかにも大勢に影響したかの如く
主張されておられる方がおられますが、もっと視野を拡げて議論される
ことを望みます。
だいたい、赤堀氏、濱田氏、稲生氏、星宮氏などの名前が挙がっていない
のは何故なのですか。もっと詳しく調べたのちに発言されるべきです。
0144土岐一族
2008/07/22(火) 17:25:39ID:zeremvqw0145関連スレ
2008/07/22(火) 19:36:13ID:dJ1tSS/fhttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0146人間七七四年
2008/07/24(木) 20:52:11ID:/D2zFFiTもらっていたのでしょうか?
それとも,北畠氏も守護のように,実際は京に屋敷を構えて住んでいたんでし
ょうか?
0147人間七七四年
2008/07/25(金) 07:31:04ID:j6fwMsWe孫の代で起きたのが川原御所の反乱
0148人間七七四年
2008/07/25(金) 10:28:56ID:yOPJX69/浪岡みたいな辺境だと自官でも良いのにねw
0149人間七七四年
2008/07/25(金) 17:53:31ID:T75F28Tp0150人間七七四年
2008/07/25(金) 23:54:21ID:fydJSQvn0151人間七七四年
2008/07/26(土) 01:02:02ID:0JUCs59Cそれとも,江戸期が来る前に実質消滅してたからかな?
北畠は,交代寄合になれる程度の貴種性はあったと思うし,南北朝以降にはもう,征夷大将軍の権威に対抗する存在ではなかったし。
0152人間七七四年
2008/07/26(土) 01:45:04ID:4ZRmVuGL本家である久我家も残ってるし。
0154人間七七四年
2008/08/10(日) 21:36:15ID:GYX0pmlv0155人間七七四年
2008/08/11(月) 19:56:07ID:QSgGVP5k0156人間七七四年
2008/08/11(月) 22:53:21ID:Y7J1aQwN0157人間七七四年
2008/08/13(水) 07:44:43ID:9nr7E4M30159人間七七四年
2008/09/11(木) 14:30:03ID:wfiWtsMD0160人間七七四年
2008/09/20(土) 00:32:22ID:meXVq6sb【三重総合裏掲示板】
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/i.cgi/travel/8192/
0161人間七七四年
2008/09/23(火) 01:49:00ID:Enyk8xGW0162人間七七四年
2008/09/27(土) 03:52:34ID:D68452Mw血脈が残ってれば、旗本程度にはなれただろうに。
0163人間七七四年
2008/10/11(土) 14:05:20ID:NGmbrce90164人間七七四年
2008/10/16(木) 23:42:56ID:9yePsyQs0165人間七七四年
2008/11/01(土) 10:48:21ID:Lh/kK0EJ0166人間七七四年
2008/11/11(火) 22:42:23ID:KCwyBqyJそれとも村上源氏にお返ししたのか
0167人間七七四年
2008/11/22(土) 14:17:13ID:/HuUjrDj0168人間七七四年
2008/12/03(水) 05:55:17ID:vbNB7PVZ1年以上前の話に亀レスだが、浪岡から舘野越に落ち延びる途中、当然大混乱となった。
また、江戸時代に隠棲していた舘野越周辺に津軽藩が色々聞きまわったときに
素性が割れるのではとドタバタがあった。
浪岡城落城後はいつ素性が割れて手入れが入り根絶やしにされるかという恐怖が常に付きまとった。
証拠物である錦の旗を持ってる家は津軽藩に根絶やしにされる危険を蒙るため、
本家が根絶やしにならないように直接本家の手元に持たない方策を取ったとかなんとか。
家系図にしてもそうで、生存戦略のために本家を本家と絶対的に証明できる物は
消失しただけでなく意図的に残していないとか。
親は明言はしなかったが、そうした経緯で明治維新の復姓時に
たまたま旗を持っていたところがこれ幸いと宗家を称していると理解している。
いずれにせようちは明治以降に分家となってるため本家ではありえないが、
どこが本家かなんてもう分からんとさ。そのため「うちの本家筋」とかいう言い方をしてる。
北畠家は、南北朝時代まで公家として和漢の学を持って天皇に仕えた。
その公家の執務に堪える頭脳くらい受け継がれててもいいと思うんだが、
どう見ても名前負けしてる癖に虚しく家柄を誇る奴が多すぎる。
明治維新で復姓し、約270年に渡る滅亡の恐怖からやっと解放されて
世の中に出られたのだから、受け継いだ能力で社会的成功を収めるよう
精進したらいいと思うんだけどねー。
0169人間七七四年
2008/12/15(月) 16:04:35ID:vAyVkits0170人間七七四年
2008/12/26(金) 20:26:22ID:yAp4xitJhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/owabiplus/1228493994/
松阪マーム受水槽事件騒動まとめ
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php
時系列
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php#time
Q&Aテンプレ
http://www.saira.jp/society/SOCIE20081202001.php#temp
0172人間七七四年
2009/01/26(月) 15:58:07ID:CnouMToVあと織田家に遣えた事もあるっていう、江戸時代も武家として存続した庶流ってどこのことでしょうか?
0174人間七七四年
2009/01/27(火) 02:34:15ID:ih0lk0QJ0175人間七七四年
2009/01/28(水) 01:39:56ID:7pEEa5n50176人間七七四年
2009/01/28(水) 16:52:06ID:RVEsGffY北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか
0177人間七七四年
2009/01/28(水) 22:07:28ID:eSVhZIpO木造の子孫は肥後細川に仕えてたり
0178人間七七四年
2009/01/28(水) 22:18:45ID:fl/RaAWk1行目はデムパサイトの受け売りwwwww
0179人間七七四年
2009/02/09(月) 15:56:28ID:4CLTw1eJ0180人間七七四年
2009/02/11(水) 12:35:32ID:hN+yQi4j小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ...
0181168
2009/02/11(水) 17:50:01ID:gNpfDMvdttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm
↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。
スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。
0182181
2009/02/11(水) 21:16:33ID:hN+yQi4jウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。
霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。
このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。
長レススマソ。
0183182
2009/02/11(水) 21:23:47ID:hN+yQi4j浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか?
0184人間七七四年
2009/02/12(木) 20:29:26ID:gGAjd4Z1じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。
> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw
本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。
具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。
長文でスマソ
0185人間七七四年
2009/02/24(火) 15:09:17ID:yX4CIWwg0186人間七七四年
2009/03/01(日) 23:05:26ID:uFNJJWI7田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。
北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌
となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。
0187人間七七四年
2009/03/01(日) 23:41:53ID:f6vWZvE/0188人間七七四年
2009/03/03(火) 15:22:31ID:2M3xVPLsもっとやってくれい
0189人間七七四年
2009/03/03(火) 16:08:12ID:YSr3Ed6Nだから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな
どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない?
0190人間七七四年
2009/03/04(水) 09:37:32ID:xuIcTAybhttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm
0191人間七七四年
2009/03/04(水) 13:08:12ID:PwM8fSXc城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい
0192人間七七四年
2009/03/05(木) 09:51:26ID:q0++1XLUだれこれ?
今川庶流に本田?わからん
0193人間七七四年
2009/03/05(木) 09:54:43ID:eEEOeFolhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0194人間七七四年
2009/03/08(日) 09:39:33ID:CXn3SN0tそういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
0195人間七七四年
2009/03/21(土) 15:22:04ID:YVp+YPnj0197人間七七四年
2009/04/12(日) 19:22:50ID:0BT83a+r兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
0198人間七七四年
2009/04/14(火) 17:33:25ID:jLirlSUBすまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。
0199人間七七四年
2009/04/20(月) 13:15:25ID:aZLLYBul0200人間七七四年
2009/04/20(月) 13:35:01ID:aZLLYBulわかりにくいので小森上野城の位置(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.30.46.734N34.40.35.547&ZM=9
子供の頃遊んだ記憶では遺構などはなかったと思う。
場所は伝承というか「城山って言うけど城あったん?」と祖父に聞いたらソコと教えられた。
地勢的にも北から来る敵を迎え撃つにはいい場所かもと地史を知るようになってから思った。
0201人間七七四年
2009/04/20(月) 14:08:20ID:8Cmnp9zmおおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん?
0202人間七七四年
2009/04/21(火) 01:38:09ID:/YBhY+Tpよく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。
槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。
0203人間七七四年
2009/04/22(水) 13:21:00ID:XwJPM6Bj石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。
で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな?
0204人間七七四年
2009/05/05(火) 17:28:14ID:WivtksbZ0205人間七七四年
2009/05/06(水) 15:16:00ID:HDm3hEZr守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。
北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか?
0206人間七七四年
2009/05/06(水) 21:49:38ID:fs2/7v1I天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな
0207人間七七四年
2009/05/11(月) 00:31:22ID:nd0QtDNZ南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。
応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。
0208人間七七四年
2009/05/25(月) 14:50:14ID:6RAsVGil0209人間七七四年
2009/05/28(木) 07:56:27ID:Mwxp2QvO「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?
伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?
情報お願いします。
0210人間七七四年
2009/05/28(木) 09:32:45ID:ZUdFN/GVほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。
0211人間七七四年
2009/05/29(金) 19:35:21ID:SmpNXIzL>六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。
その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね?
0212人間七七四年
2009/06/01(月) 02:12:30ID:+USGwVNF読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。
0213人間七七四年
2009/06/03(水) 01:33:45ID:f9Gar/FWいや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。
文献名しか書いてないのであれば、情報としては>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。
0214バロン曽志崎
2009/06/03(水) 02:06:48ID:GV0B97Dh本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。
0215人間七七四年
2009/06/13(土) 14:29:45ID:JGd6EvXn0217209
2009/06/16(火) 19:47:01ID:UbTi0Sq+0218人間七七四年
2009/06/29(月) 14:26:37ID:JyPLuHXL0219人間七七四年
2009/07/01(水) 06:14:04ID:4ppHyzpB0220人間七七四年
2009/07/12(日) 14:56:14ID:F/7kUZ/T大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。
0221人間七七四年
2009/07/23(木) 16:08:09ID:EKmActq30222人間七七四年
2009/07/29(水) 05:47:52ID:sfrjALQQ高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw
0223人間七七四年
2009/07/29(水) 21:17:07ID:7M0zlH01日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ?
0224220
2009/07/31(金) 17:11:41ID:VOOgp/AQおお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい>>222さんは奥山さんですか?
原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。
0225人間七七四年
2009/08/12(水) 15:18:34ID:MSMygVqX0226人間七七四年
2009/08/21(金) 14:55:46ID:5yrZEQOI0227人間七七四年
2009/08/21(金) 16:14:43ID:MV8VEBD1おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない
江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家
0228人間七七四年
2009/08/22(土) 19:46:38ID:z6TYs1xwブタみたいな顔の奴
0230人間七七四年
2009/09/02(水) 15:41:07ID:VPS/InyX0231人間七七四年
2009/09/02(水) 22:11:32ID:VDA5H2X+0232人間七七四年
2009/09/12(土) 14:48:29ID:qCu4Admo■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています