伊勢の名門―北畠―
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0001名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/22(金) 00:48:07ID:iRcYGxpm0174人間七七四年
2009/01/27(火) 02:34:15ID:ih0lk0QJ0175人間七七四年
2009/01/28(水) 01:39:56ID:7pEEa5n50176人間七七四年
2009/01/28(水) 16:52:06ID:RVEsGffY北畠具教に田丸具忠という兄弟がいたという系図が見当たらない。実際のところどうなのか
0177人間七七四年
2009/01/28(水) 22:07:28ID:eSVhZIpO木造の子孫は肥後細川に仕えてたり
0178人間七七四年
2009/01/28(水) 22:18:45ID:fl/RaAWk1行目はデムパサイトの受け売りwwwww
0179人間七七四年
2009/02/09(月) 15:56:28ID:4CLTw1eJ0180人間七七四年
2009/02/11(水) 12:35:32ID:hN+yQi4j小さい頃に盆に錦旗を見に行った事があるがもしや親戚か??
ウチでもあっちだのこっちだの親が話してた記憶があるがウチは館野越の系統ではないと言ってた希ガス。ウチのじーちゃんも94のばーちゃんの如く凛としていた記憶がある。
伊勢の人達ってどこにいるんだろ...
0181168
2009/02/11(水) 17:50:01ID:gNpfDMvdttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/meizoku/namioka.htm
↑どこまで本当かはよく分かりませんが、うちはとりあえず
館野越に落ち延びた一族でつ。その後親に聞いたら旗は
どうなっても痛くも痒くもないところに身代わりに預けたそうで、
館野越ではあそこがほんとの本家ではないというのは通説だ、とゆうてた。
スレ違いばかり続けるのも何なんで、ちなみに顕家との関係ってどう聞いてます?
(これでもスレ違いといえばスレ違いだけど)。ネット上の通説と伝承とがずいぶん違うのでおやっと思ってる。
うちは霊山落城かなんかのときに娘の姫君が浪岡に逃げてきたって聞いてるんだけど。
浪岡落城のときも男共は皆殺しにあって、かろうじて姫君と側近の女たちだけ
逃げてきたと聞いてて、家臣と結婚したとは聞いてるが、顕佐が本家を継いだとか言う話は聞いたこと茄子。
村上天皇から数えて書類上、対世間上はともかく計2回女系になってるという認識。
0182181
2009/02/11(水) 21:16:33ID:hN+yQi4jウチは恥ずかしながら具信の系統で明治時代に復姓した家系です。
具信があんなことしなかったら北畠家はもう少し良い終わり方をしてたような気がするのですが...。
旗についてはよくわかりませんが近代までの他の系統の名前がウチの家系図にのってる(謀反を起こした系統でありながら)ので交流はあったんだと思います。
霊山から顕成が浪岡に来た(家系図に記載)という話。
浪岡落城の時の話しは全く一緒なので本家筋(?)は一回女系になったという認識。
伝承どころかウチに代々ある家系図とネット上の家系図とも違う箇所があったりしてアレレな感じ。
ウチは津軽藩に身を寄せていたので助かったと聞いてます。(これもこれでおかしい話しだが)
弘前出身で東京在住で大鰐と札幌に一族がいます。
このスレはもう浪岡も伊勢もごっちゃでイイ希ガス。
ちなみにたまたまウチの山を管理してたオッちゃんが伝説の伊勢の昌教を秋田に連れてきた家臣の子孫だとか言ってました。
長レススマソ。
0183182
2009/02/11(水) 21:23:47ID:hN+yQi4j浪岡の資料館にも貸し出したことがある。
名字を変えていたから残せたのだろうか?
0184人間七七四年
2009/02/12(木) 20:29:26ID:gGAjd4Z1じゃあ顕成の系が昔からの言い伝えで、うちで聞いた話はどこかで劣化したんですね。
しかし、よそで聞く顕成が吉野にずっといた説の1次資料は何なんでしょ。
> 系図
なぜか親が系図を持ってきていません。私自身マジで信じられません。
近い親戚間で仲悪くごたごたが絶えず、親が嫌がってるので系図とか北畠関係の由緒あるものは見たこと茄子。
ボケる前に近い親戚から系図の写しをもらってきて伝承の類も全部電子文書化してくれと言ってるところでつw
本家筋からはそれなりに離れてるようなので、情報が劣化してるかもしれませんが
浪岡落城のときには持ってこれなかったような。ただ、明治の復姓時には使ったはずなので、
全く無いはずも無く、いつ頃作ったものかはともかく、系図は本家筋にはあるはずです。
ちなみに前の循環器学会会長が新聞に載ったときに、館野越のうちの本家筋の人だと聞いたことはありまつ。
どのくらい離れてるのかというのはよう分かりませんが。
具信の末裔と交流が江戸時代にあったという話は初耳ですが、あの目と鼻の先で見逃されたこと、
京徳寺の禅林街移転とその後の処遇を考えると具信の末裔に匿われたのだろうなと納得がいきまつ。
すべてを失ったところから始まり、明治の復姓時に庄屋・地主としてそれなりの力を持ってたのは
やはり津軽の目の光ってる中で自力では無理ぽ。普通に考えると。
長文でスマソ
0185人間七七四年
2009/02/24(火) 15:09:17ID:yX4CIWwg0186人間七七四年
2009/03/01(日) 23:05:26ID:uFNJJWI7田丸具忠というのは、北畠具教の祖父材親の弟、田丸顕晴の子。
だから、田丸直昌が具教の甥というのはまったくの誤り。
年齢は離れてると思うが世代的には同じ。
北畠政郷 − 北畠材親 − 北畠晴具 − 北畠具教
L 田丸顕晴 − 田丸具忠 − 田丸直昌
となる。直昌が剣の達人というのも初耳だが。。。
0187人間七七四年
2009/03/01(日) 23:41:53ID:f6vWZvE/0188人間七七四年
2009/03/03(火) 15:22:31ID:2M3xVPLsもっとやってくれい
0189人間七七四年
2009/03/03(火) 16:08:12ID:YSr3Ed6Nだから本物であれ偽物であれ、家系自慢は嫌がられるってだけ
傍流さんで新しい事が聞けるわけでもないしな
どうせこのスレ過疎ってるから放っておこうとは思ってたけど
流石に正論吐いた>>187に対してもっとやれって自演してまで自分の家系話しを続けたいのは目に余るわ
自分達で掲示板でも作って存分に語ればいいじゃない?
0190人間七七四年
2009/03/04(水) 09:37:32ID:xuIcTAybhttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm
0191人間七七四年
2009/03/04(水) 13:08:12ID:PwM8fSXc城山って地名残ってて小森上野城って木造城の支城あとらしき場所もある。
忠臣奥山常陸介とは別系
ちなみに江戸時代は一郡に匹敵する土地をもつ豪農だったみたい
0192人間七七四年
2009/03/05(木) 09:51:26ID:q0++1XLUだれこれ?
今川庶流に本田?わからん
0193人間七七四年
2009/03/05(木) 09:54:43ID:eEEOeFolhttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216650434/
0194人間七七四年
2009/03/08(日) 09:39:33ID:CXn3SN0tそういえば中学、高校の同級生に奥山君っていたけどその辺だった覚えが。
現代にもつながってることが実感できると、歴史は面白いね。
0195人間七七四年
2009/03/21(土) 15:22:04ID:YVp+YPnj0197人間七七四年
2009/04/12(日) 19:22:50ID:0BT83a+r兄の具房が左近衛中将、弟の親成が式部少輔とわかっているけど、
具藤の官位は調べてみてもわからない・・・。
0198人間七七四年
2009/04/14(火) 17:33:25ID:jLirlSUBすまぬ、正にその小森上野の住人なのだが、
城のあった場所を教えてくれないか?
地元だけど全然知らんのだわ。
0199人間七七四年
2009/04/20(月) 13:15:25ID:aZLLYBul0200人間七七四年
2009/04/20(月) 13:35:01ID:aZLLYBulわかりにくいので小森上野城の位置(goo地図)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.30.46.734N34.40.35.547&ZM=9
子供の頃遊んだ記憶では遺構などはなかったと思う。
場所は伝承というか「城山って言うけど城あったん?」と祖父に聞いたらソコと教えられた。
地勢的にも北から来る敵を迎え撃つにはいい場所かもと地史を知るようになってから思った。
0201人間七七四年
2009/04/20(月) 14:08:20ID:8Cmnp9zmおおお、サンクス!
あそこにあったのか〜!
全然知らんかったわ。
そういや石柱みたいなの建ってるけど、何か関係あるのかしらん?
0202人間七七四年
2009/04/21(火) 01:38:09ID:/YBhY+Tpよく覚えてない。
あと里の上に小森城っていうのもあったらしいけど、コッチは場所がわからない。
昭和18年に土塁跡破壊ってなってる。
今の小学校か中学校あたりにあったのかもしれん。
槍主水の家城城跡には、この間行ってきました。
0203人間七七四年
2009/04/22(水) 13:21:00ID:XwJPM6Bj石柱は大正に立てられた氏子中だった。
で、宇氣比神社なるものが出来ていて驚いた。
ガキの頃はあんな神社の体裁なかったんだけどなあ。
で、坂上っていったけど、城跡はよく分からなかったw
民家になってるところ辺りなのかな?
0204人間七七四年
2009/05/05(火) 17:28:14ID:WivtksbZ0205人間七七四年
2009/05/06(水) 15:16:00ID:HDm3hEZr守護から戦国大名になったとは、よく聞きます。例えば甲斐の武田氏、駿河の今川氏など。
北畠氏は、伊勢の国司でもあり、南伊勢半国守護だったとも聞きます。
国司から戦国大名とは珍しいです!
そこで素朴な疑問ですが、朝廷の律令制度の国司は南北朝期には、
幕府の任命した守護にその地位を奪われ形骸化したといわれています。
北畠氏の国司は、実権を伴った地位だったのでしょうか?
0206人間七七四年
2009/05/06(水) 21:49:38ID:fs2/7v1I天皇が打ち出した方針が国司・守護を並列させて任命するという方針だ
もちろん官位上では国司が守護を包括するけど、それぞれ独立し、各地に配置した
当然、その後の南北朝の混乱では国司側が南朝に、守護側が幕府にスライドした
北畠氏は南朝の大身であり、北朝に降伏した後もその位置を保った存在だからな
0207人間七七四年
2009/05/11(月) 00:31:22ID:nd0QtDNZ南朝の国司は、南伊勢に限っては、実権を伴った地位のようですね!
南北朝合一(1392)後は、その既得権が幕府にも認められ、
北畠顕泰が、先ず南伊勢半国守護に補任されています。
応仁の乱後の文明期には、北畠政郷が、北も含めた伊勢一国守護にも
補任され(1484)、その後戦国大名としての地位を固めた。
の時系列のようです。
0208人間七七四年
2009/05/25(月) 14:50:14ID:6RAsVGil0209人間七七四年
2009/05/28(木) 07:56:27ID:Mwxp2QvO「伊勢の北畠朝親」なる人物が登場し、小牧長久手の戦いの際に
家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された・・とあったのですが
この北畠朝親って誰なんでしょうか?
伊勢北畠氏の一門?信雄の一門?
検索すると六角承禎の娘が妻で・・・とかいう記述もあるんですが
同一人物だろうか?
情報お願いします。
0210人間七七四年
2009/05/28(木) 09:32:45ID:ZUdFN/GVほんの少しだけど。
ああいう注目される本(ベストセラーの「のぼうの城」の著者の2作目)
にのって知名度かなりUP?
名門といっても戦国期での認知度ひくいからよかったね。
0211人間七七四年
2009/05/29(金) 19:35:21ID:SmpNXIzL>六角承禎の娘が妻
これが正しいなら北畠具教の弟の北畠具親だな。
但し具親は小牧の役において秀吉方の蒲生氏郷の客臣なので、
>家康の命令を受けて四国・紀伊方面へ動くように使者として派遣された
とは矛盾する。
その長宗我部氏の本の末尾にあるだろう参考文献一覧にそれらしいものがないかね?
0212人間七七四年
2009/06/01(月) 02:12:30ID:+USGwVNF読んでいた長宗我部氏の本の参考文献欄には
長宗我部氏関連と、土佐関連の資料しか載っていませんでした。
0213人間七七四年
2009/06/03(水) 01:33:45ID:f9Gar/FWいや、その長宗我部氏関連の史料に記載されてるはず。
「香宗我部家文書」や「土佐国蠧簡集」の細かい内訳([-Bなどの文書記号や書状名)も無い?
小牧の役の際信雄や家康との交渉を担っていたのは親泰なんで、
香宗我部関係の史料を当たったほうが早い。
文献名しか書いてないのであれば、情報としては>>211ぐらいしかわからんなぁ。
お役に立てずすまん。
0214バロン曽志崎
2009/06/03(水) 02:06:48ID:GV0B97Dh本多重次に宛てて、紀伊・四国方面の取りなしをしたので、
家康に伊勢国内の旧領回復を取りなしてほしいと依頼している。
「伊勢国内の旧領回復」から北畠氏を当てたんだと思う。
0215人間七七四年
2009/06/13(土) 14:29:45ID:JGd6EvXn0217209
2009/06/16(火) 19:47:01ID:UbTi0Sq+0218人間七七四年
2009/06/29(月) 14:26:37ID:JyPLuHXL0219人間七七四年
2009/07/01(水) 06:14:04ID:4ppHyzpB0220人間七七四年
2009/07/12(日) 14:56:14ID:F/7kUZ/T大正二年まで高茶屋村小森に住んでいたらしい奥山姓のものです。
家系図をわかりやすくまとめようと思い、いろいろ調べたりネットで検索していたらこのスレを発見しました。
そんな城があったなんて初めて知りました。一度城跡らしき所にも行ってみようと思います。
他になんか知ってることがあったら何でもいいので教えてください〜。
0221人間七七四年
2009/07/23(木) 16:08:09ID:EKmActq30222人間七七四年
2009/07/29(水) 05:47:52ID:sfrjALQQ高茶屋小森は奥山姓だらけで分家や元小作の家とかも明治以降は奥山名乗ってる。
正直にいって、どの家出身か探るのは難しい。
ただ血縁関係入り組んでるので小森出身奥山家なら多少の血は入ってると思われる。
屋号など分れば今でも系統は分るかも
こんな地元民しか知り得ない情報ばらして良いのかw
0223人間七七四年
2009/07/29(水) 21:17:07ID:7M0zlH01日本は武士の帰農が15世紀から17世紀にかけて盛んに行われたから、
自分たちが思っているよりも武士の血を引く家は多いぞ?
0224220
2009/07/31(金) 17:11:41ID:VOOgp/AQおお!貴重な情報ありがとうございます〜。
商売しているので、文字を組み合わせたような屋号はあります。(マルダイとかヤマサみたいな)
家紋とかはどうなんでしょう。あまり当てにはならないですかね?
高茶屋の奥山姓に一人知り合いがいるので聞いてみようかな。
ところで、えらく詳しい>>222さんは奥山さんですか?
原戸籍謄本やら除籍謄本で天保10年に亡くなった先祖まではたどれたのですが、
たしか明治維新までは武家公家以外に苗字は認めらていなかったんですよね?
農民or商人だったであろうウチの除籍謄本の
明治以前の人物に苗字が付いてるのは、たぶん後から加えられたということなんですかね。
0225人間七七四年
2009/08/12(水) 15:18:34ID:MSMygVqX0226人間七七四年
2009/08/21(金) 14:55:46ID:5yrZEQOI0227人間七七四年
2009/08/21(金) 16:14:43ID:MV8VEBD1おとしだねが逃亡したという説もあるが、同時代史料もなく眉唾の域を出ない
江戸時代以降で「北畠」を名乗っているのは公家久我家の分家
0228人間七七四年
2009/08/22(土) 19:46:38ID:z6TYs1xwブタみたいな顔の奴
0230人間七七四年
2009/09/02(水) 15:41:07ID:VPS/InyX0231人間七七四年
2009/09/02(水) 22:11:32ID:VDA5H2X+0232人間七七四年
2009/09/12(土) 14:48:29ID:qCu4Admo0233人間七七四年
2009/09/22(火) 17:15:19ID:9zgYd1sp0234人間七七四年
2009/10/02(金) 15:38:42ID:9MeGXcbe0235人間七七四年
2009/10/11(日) 11:40:22ID:8NyG2c310236人間七七四年
2009/10/15(木) 15:29:58ID:AzXLi9Ec当時小柄でメガネの理系男子、名前に顕の字が入ってた。
ウチの祖先は北畠家に従って陸奥まで下ったときいてたんで、殿!なんて言ってふざけた記憶がある。
今までピンときてなかったんだけど、このスレ読んで興味がでてきた。
ちなみにウチは苗字について聞かれたら「館野越の○○」と答えろといわれてたな。
本家にボロイ鎧兜と刀があったけど本物かね。
0237人間七七四年
2009/10/22(木) 21:47:03ID:KoeYMXor0239人間七七四年
2009/10/23(金) 11:40:44ID:X1e9hd/v0240人間七七四年
2009/10/29(木) 01:28:22ID:Eej7Gw2G史実ではどんな人なんですかね?
0242人間七七四年
2009/11/09(月) 16:26:27ID:L4mHAZn70243人間七七四年
2009/11/16(月) 16:03:35ID:PARhunip0244人間七七四年
2009/12/09(水) 13:46:14ID:Oy+qE2wQ0245人間七七四年
2009/12/17(木) 12:58:26ID:jBgUXNEr0246人間七七四年
2009/12/27(日) 01:13:12ID:0FPp7IdX服部半蔵→超有名(住んでないのに)
藤堂高虎→津市のみ有名
蒲生氏郷→松阪のみ有名
九鬼嘉隆→志摩のみ有名
北畠具教→誰一人知らない
0247中院
2009/12/28(月) 19:25:26ID:/S6fsjrH0248人間七七四年
2009/12/28(月) 19:41:48ID:pynQVbJl明治新姓乙
0249人間七七四年
2009/12/29(火) 23:25:44ID:GSDnDKH0室町・戦国時代までは都市に居城構える例は無いよ。
土木技術が未発達で要塞が貧弱なのしかできないから、都市部に城造るのはリスキー。
郊外の防御しやすい山にこもった方が安全だ罠w
0250人間七七四年
2010/01/07(木) 00:27:38ID:wGodgJFs滅亡してないぞ
中院通勝の次男が継いだというか復興させて(江戸時代になってから)、
地下家として幕末まで存続したよ
確か男爵になったはず
その家系図の記述は史実に合致している
0251人間七七四年
2010/02/14(日) 10:47:58ID:fDOudjlp0252人間七七四年
2010/02/18(木) 22:33:29ID:isTHG1p40253月孔雀
2010/02/19(金) 00:35:48ID:cnRvP6TV実質は、南の勝ちかもしれない。男系は、わからんしね。
0254人間七七四年
2010/04/18(日) 07:22:03ID:SD22qkXJ以前と比べて朝廷の権威が著しく下がった
0255人間七七四年
2010/06/11(金) 18:25:12ID:ZePzzd/m0256人間七七四年
2010/06/11(金) 18:29:50ID:ZBTuEA+S0257人間七七四年
2010/06/13(日) 17:53:41ID:p3igICo8北畠って木造家庶流の滝川かよ。
反主流派の木造て時点で論外だな
0258人間七七四年
2010/06/15(火) 20:27:49ID:dRGOx5S3先祖の七光りでは?
北畠顕家といえば日本史に輝く悲劇のヒーロー(ただしイケメンに限る)じゃん
0259人間七七四年
2010/06/20(日) 08:55:55ID:vsxXtTCw詳しい人きてー
【武田】2万5千で上洛【信玄】その64
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1276600624/l50
45 :人間七七四年:2010/06/20(日) 00:51:49 ID:xopliY1Z
信玄秋田。北畠を語れ
0260人間七七四年
2010/09/27(月) 20:43:05ID:XPsf/lMf0262人間七七四年
2010/11/19(金) 23:40:31ID:7c5nNQmK0263人間七七四年
2010/12/03(金) 19:59:18ID:OjqHCVN40264人間七七四年
2010/12/05(日) 18:51:21ID:533qgprH田丸
星合
滝川
藤方
以外に旗本になれた一族ている?
0265人間七七四年
2010/12/05(日) 19:07:27ID:533qgprH田丸
星合
滝川
藤方
以外に生き残って旗本などになれた一族ている?
0266人間七七四年
2011/04/07(木) 21:19:52.39ID:dwsIqdhk0268人間七七四年
2011/04/29(金) 00:26:48.25ID:S+l7X/Wp0269人間七七四年
2011/05/11(水) 03:03:48.71ID:8QtAfriA0270人間七七四年
2011/06/06(月) 03:51:43.45ID:2vnKmAsa0271人間七七四年
2011/06/06(月) 03:53:06.45ID:2vnKmAsa0272人間七七四年
2011/07/20(水) 19:53:57.26ID:tnaTvlOP■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています