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【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/08/21(月) 02:02:05ID:DVvJduHN
大国に囲まれながら中小勢力がしぶとく割拠し続けた
常陸・下野の戦国時代を語りましょう
0295人間七七四年2008/08/08(金) 15:08:11ID:6K85a0xY
文化圏は一緒だもんな
0296人間七七四年2008/08/13(水) 04:38:44ID:3HKSZ3Ip
大田原の図々しさは異常
0297人間七七四年2008/08/19(火) 01:20:54ID:XZYd3F4u
資清の復帰に隠居の那須資房の意向ってのがどの程度反映してたんだろ
0298千本資政ってどお?2008/08/27(水) 10:16:45ID:5+shKJrK
>>270さんへ。大変お待たせしました。
芳賀高定は忠臣?
結論
忠臣かどうかの評価は悩むけど…
主家をもり立て、かつ自分の役割を自己認識でき、筋目を通す誠実な人だったらしい。

1,高定登場までを簡潔に…。
芳賀氏は宇都宮氏の一族でもあり、かつ重臣筆頭でもあるという特殊な家系。
芳賀氏と宇都宮氏の関係が始まったのは平安末期から。
奥州征伐の時にはその働きを源頼朝から称された。
あの『太平記』には「宇都宮は関東一の弓取りなり。【紀清両党】の兵は、命を捨てる事を惜しまない」というような文章がある。
紀は益子氏、清は「清原氏=芳賀氏」の事で、両氏は宇都宮氏の軍事部門を司っていた。

この頃、宇都宮氏綱が越後・上野守護になると、芳賀高名(入道禅可)は、その補佐役として同守護代を務めた。
以降、芳賀氏は代々主家と婚姻・養子縁組を通じて、密接な関係を築き、絶大な権力をふるうようになった。
つまり「宇都宮ー芳賀権力体制」(一心同体的な権力)

2,対立、そして高定登場。
戦国時代に入り、宇都宮氏は家中統制を強めようと、度々芳賀氏の相続に介入し、その権力の弱体化を図る。
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(3).天文八年(1539) 宇都宮俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)

(4).天文十八年(1549) 芳賀高経の子、高照が那須高資・壬生綱雄・氏康・白河結城晴綱と組んで、 宇都宮尚綱(俊綱)を討ち、宇都宮城を乗っ取った。 (芳賀氏謀反。)

それに対し高定は、幼主広綱を擁して宇都宮城に復帰させようと奔走し、足利義氏(プラス氏康)・佐竹義昭・那須資胤(高資の弟)・江戸忠通を味方に付け…
天文二十年(1551) 那須高資を討ち、
天文二十四年(弘治元年・1555)頃 芳賀高照をそれぞれ討ち取って尚綱の仇を取る。
弘治三年(1557) 壬生綱雄より宇都宮城を奪い、広綱を帰還させた。

3,その後の高定
佐竹の軍事援助を受けて宇都宮城に復帰した広綱と高定だが、未だ内憂外患を抱える状態にあった。
内は、半独立状態の壬生・皆川がスキあらば宇都宮城を…
外は、北は那須・南は結城・小山連合が虎視眈々と宇都宮領を狙っていた。

この状況で高定は「主家と争わず以前のような“宇都宮ー芳賀体制”を守る事こそ、ひいては芳賀氏自体を守る事になる」と考えて、主家をもり立てたのでしょうね。(佐竹との縁組を進め同盟を強固にするなど)

それだけでなく実子を差し置いて、(4).の自分が殺害した芳賀高照次男の高継(高規)に家督を継がしている。
(自分はあくまでも益子氏であり、代理で芳賀氏を継いでいると考えたのでしょうか?)恐々謹言。
0299人間七七四年2008/08/28(木) 03:13:11ID:7jq1dKK4
芳賀高照の次男高継?

芳賀高経の三男高継…高照の弟じゃなかった?

と、言ってみる

0300千本資政ってどお?2008/09/01(月) 10:40:42ID:Q/++35j2
>>299さんへ。リポート読んでいただき誠に有難うございます。
そうですね、間違えてました。

>>298を後で読み返してみたら、第2章が大分間違っていたので、追記訂正します。
2,対立、そして高定登場。
(中略)
(1).永正九年(1512) 宇都宮成綱は芳賀高勝を生害する。(宇都宮錯乱始まる。宇都宮家中、二手に分かれて相争う。)
(2).永正十三年(1516) 成綱、弟の興綱に芳賀氏を継がせる。(内乱終息する。)
(3).大永六年(1526) 芳賀興綱、甥の宇都宮当主忠綱を追放し、宇都宮家を相続する。(芳賀氏復権。)
(4).天文五年(1536) 芳賀高経(高勝の弟)は宇都宮興綱を生害する。(芳賀氏の権力強まる。)
(5).天文八年(1539) 興綱の子俊綱(のち尚綱)は、芳賀高孝・高経を蟄居させたのち高経を殺害し「益子高定」に芳賀氏を継がせる。(宇都宮氏の統制強化。)
(以下、中略)
0301人間七七四年2008/09/02(火) 08:43:22ID:ECqTNNUD
一時は武茂氏が有力だった時期もなかったっけ
0302人間七七四年2008/09/02(火) 19:53:46ID:gYxMzwUC
那須、宇都宮方面は、何がなんやらで、那須氏は同族で争っているし、
わかりづらい。
0303人間七七四年2008/09/02(火) 21:34:25ID:LntJAnUT
>>302
那須は基本的な対立構図が下那須系vs上那須系だから案外はっきりしてるぞ。
0304人間七七四年2008/09/03(水) 05:18:58ID:RGznkm6T
那須・宇都宮方面は半立半属の家が結構多いからかな
あまり詳しくない俺にはカオスに見える
0305人間七七四年2008/09/06(土) 09:35:52ID:9IU7l/iE
北関東あたりは実際カオスだったよ
配下と言っても独自の印判でもって年貢取ったり禁制出したりしてるからね
独立国と全く変わらん
0306人間七七四年2008/09/17(水) 17:45:05ID:sI2P/mfJ
>>294
歴史の話じゃなくて申し訳ないが、結城と小山って市民同士も仲良くない?w
自分中学は宇都宮で、小山の高校行ったんだけど、凄くそー感じた、
逆に宇都宮とかには、対抗心持ってる感じ、小山の人って
まー3年も通ってりゃ仲良くなったし、いいやつだったけどねorz
0307人間七七四年2008/09/25(木) 12:35:59ID:UzIUWmSl
宇都宮氏族の麻生が天下取ったぞ
0308人間七七四年2008/09/26(金) 15:05:39ID:hIHr+h7f
>>306
小山、古河、結城あたりは他県同士と言う感覚がない
県境はどこでもそうだと思うけどね
小山辺りからすると宇都宮人の方がよそ者に感じる
古河、結城からしても水戸人の方がよそ者に感じる
0309人間七七四年2008/09/27(土) 15:05:42ID:0NQ82MoH
水戸と古河や結城は藩どころか国まで違うからね
0310人間七七四年2008/09/28(日) 03:18:06ID:ZTvUO9v0
結城の人達にとって筑西(旧下館)の人はお隣さんだろ。國は違うけど…。
その筑西の人達にしてみても水戸の人は同県同國にもかかわらずよそ者って感じでしょ?けど同じ選挙区なんだよなぁ〜、筑西と水戸。
0311人間七七四年2008/10/07(火) 10:37:11ID:KSqmJChP
筑西なんかは小山とくっついてるもんね
水戸線が小山まで通じてるけどローカル感は否めない
0312人間七七四年2008/10/14(火) 04:59:25ID:ChlxBYbR
けど水戸線の方が常磐線よりはやく出来た。
昔の水戸近辺の人々は小山回りで上京してた。
だから常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?
0313人間七七四年2008/10/14(火) 15:45:08ID:QV/etZmz
>常磐線は石岡から水戸へ直通せず友部に繋いで工費削減?

今の茨城町(長岡だか小鶴だか奥谷だか知らないが)の住人が鉄道建設に強硬に反対したとか。
宿場が寂れるとか 今となっては意味不明だが。
0314人間七七四年2008/10/15(水) 03:41:24ID:myH7Yy1k
昔、水戸石岡電気鉄道(うろ覚え)なる会社が有った…
計画では水戸から今の国道6号線と同じルートだった…
しかし実際は水戸(柵町)から茨城町の長岡辺りまでの開業路線で蒸気機関車だった…orz
電気鉄道って…

昔、長岡には鉄道が走ってたんだよ
0315人間七七四年2008/10/17(金) 17:48:58ID:4C0LBCCN
>>313
東京から宮城が新幹線で直通で県の大部分がスルー対象と化したからな
0316歴史好き2008/10/19(日) 16:24:35ID:vkU1UhA7
天正年間(武田家滅亡までの10年)の佐竹と甲斐武田の軍事関係は
どうだったのでしょうか?
どなたかご存知の方教えてください、推測でもかまいませんが、
0317人間七七四年2008/10/19(日) 18:15:06ID:HYErbIs2
>>316
越相同盟への対抗から佐竹と武田は一時的に交流があったが、
越相同盟の消滅とともに目立った動きもなく互いに疎遠。
上杉の御館の乱で再び武田と北条が疎遠になると、
それに乗じて佐竹と武田も対北条協調路線をとるようになり、
1580年前後には共同で何度か上野近辺へ侵攻。
織田と武田の不和に義重が和睦の斡旋をしたが、
案の定信長は無視で武田滅亡。
0318人間七七四年2008/10/19(日) 20:00:05ID:qy2so+4J
上杉謙信が佐竹に手紙を出していて、
「しばらくぶりですが…」という文面を書いてて、現物が残っているらしい。
0319人間七七四年2008/10/19(日) 23:24:34ID:pgiLaEjL
武家藤原氏嫡流小山氏
0320人間七七四年2008/10/20(月) 01:09:39ID:0jjliioF
>>316

>>317の「共同」して上野近辺へ侵攻…の「共同」は共謀して同時期って事な

一緒に一つの城を攻めた訳では無いから注意
同陣して無いから
0321人間七七四年2008/10/20(月) 04:27:05ID:CjRsTsDb
>>319
秀郷やその子孫に詳しい野口実氏によると、秀郷流の嫡流は佐藤氏らしいよ。
0322人間七七四年2008/10/20(月) 05:09:15ID:7AGVM/S7
佐藤氏は戦国時代もう没落してて、系図も怪しげなもんだろ
0323人間七七四年2008/10/21(火) 19:23:59ID:U3G51Kwm
>>320
通りすがりに補足
  佐竹軍は七月下旬に上野に出陣。
  武田軍は八月下旬に上野に出陣。

微妙にずれている。


0324歴史好き2008/10/24(金) 11:12:51ID:kiJ2aT6P
ありがとうございました。
この頃佐竹家に武田家にゆかりある姫が嫁入りすることがあったとしても
決して不思議ではないわけですね。
佐竹家に嫁いだ女性が不縁になって生後まもない娘を残し甲斐へ帰ったが
後年その母を訪ねて北条の領地を大きく迂回して山中を歩き甲斐へ向かう
娘の伝説がありますが歴史的な背景はあっているみたいですね。

0325人間七七四年2008/10/24(金) 11:45:06ID:5j3zVTYY
>>324
ちょっと待て。そんな話しはじめて聞いたぞ(´ω`;)
詳細plz
0326人間七七四年2008/10/24(金) 12:35:22ID:zgQorh38
明王峠で亡くなったと言われる白百合姫伝説でしょ
武田と佐竹の婚姻関係と言うのも十分有り得る事だけど
そのような歴史的事実は全くないので
何かの話しがごっちゃになっているのだと思う
0327歴史好き2008/10/24(金) 19:41:12ID:kiJ2aT6P
武田勝頼の異母妹の松姫(実在)の甲斐から武州へと逃避する
話があります、天正10年に織田の軍勢から逃れるため山中を踏
破して恩方(八王子)へ向かうのですが、記録では幼い姫も多
数同行していたようです。このあたりの話が形を変えて相模湖
方面で残っているのかも知れませんね。
歴史は分からないことが多いだけに奥が深いです。
0328人間七七四年2008/10/24(金) 21:23:50ID:QMY4MUJd
武家藤原氏嫡流小山氏
0329人間七七四年2008/10/24(金) 21:34:12ID:5j3zVTYY
http://www.rekishi.sagami.in/shira.html
なるほど。そういう伝説があったのか。全く知らなかった。
でもこれは伝説といえども、割と信憑性のありそうな話だ。
まずコレは武田方面の伝説だということ。
武田は大きい大名だし、他の大名家とも親交が多かったはずなのに、
態々佐竹家に嫁いだと捏造する理由が薄い。
それに武田と佐竹の縁は、戦国時代に関してはそれほど深くない。
同盟期間も短いし、お互いにあまり疎通もなかったにも関わらず、
こういった伝説が醸成されてくるというのは不可解だ。
というわけでこれが本当の話だと仮定すると、真相は下のようになる、かも。

越相同盟への対策から武田と佐竹も同盟することになり、武田から女が送られる。
信玄や義信の娘でないとしたら義重の側室、あるいは佐竹の重臣の正室になったはず。
越相同盟は早々に破綻し、武田と北条が再び同盟。北条と仲良く出来ない佐竹は
武田とも仲良くは出来ないので、甲常同盟も破綻する。
つまりここで武田からの女が佐竹から離縁される理由が出来ることになる。
というか離縁される理由はどう考えてもこれしかない。
天正中期武田勝頼の時代、武田と佐竹は再び同盟し、
なんらかの理由で残された娘が返される。
(武田と佐竹の娘である彼女が江甲和与へ至る過程で、
織田へ嫁ぐとしたのだったら面白い。もっとも織田に嫁ぐ相手はいなさそうだけど)。
ただよく分からないのは通った道が何で相模原なんだということだ。
上野→佐久→甲斐ルートのほうが当時ポピュラーだし、相模原を通ると言うことは、
武田佐竹双方の敵である北条領を突っ切らなければならないので、
最短距離だがあまりいいルートではないはず。娘が幼かったせいからか。
0330歴史好き2008/10/27(月) 17:33:59ID:yrkaMm4y
この話とは別物でしょうが、佐竹一門の娘で照手姫という美しい姫が
いて横山太郎という武士?が戦乱に乗じてさらい、相模まで逃げた、
小栗判官が横山太郎の屋敷に逗留することになり照手姫に出会う・・・
という伝説が常陸にはあるそうですね。
http://www.rekishi.sagami.in/terute.html

0331人間七七四年2008/11/05(水) 15:18:25ID:ODERcfc0
>照手姫
モデルは誰なんだろう?
0332人間七七四年2008/11/17(月) 15:48:59ID:q0Gz5wnc
小栗助重は上野介のご先祖さま。
0333人間七七四年2008/11/27(木) 14:57:02ID:kBPOLal9
小山や宇都宮より那須の方が強そう
0334人間七七四年2008/11/28(金) 02:17:56ID:DRQTZHEx
那須は外に打って出ることが絶対にできないような作りの家だからなぁ
宇都宮俊綱(尚綱)が頓死しなければ宇都宮が下野の台風の目になれたかもしれないのに
0335人間七七四年2008/12/08(月) 15:38:42ID:q2ZBxYph
宇都宮の場合宇都宮錯乱で長期間争っていたのが痛かった。
0336人間七七四年2008/12/08(月) 21:31:24ID:nBfa/uVe
佐竹ね
0337人間七七四年2008/12/11(木) 02:25:45ID:VnsYxMrk
スレタイの4大名家で大名として残ったのは佐竹のみか…
0338人間七七四年2008/12/11(木) 12:40:01ID:PnJFwnx6
でも転封されていなくなってしまった
この地域は那須七騎が上手く生き抜いたな
とくに大関系は2家も大名として存続したし
大関氏は幕府の奉行もやったはず
0339人間七七四年2008/12/16(火) 18:02:06ID:CsgnwB5x
筑西市(下妻・つくばと境も近い)に住んでるんですがこの辺は誰の領地だったんでしょうか?
やはり真壁氏なんでしょうか?
知ってる方お願いします
0340人間七七四年2008/12/16(火) 19:06:50ID:BQI4xll3
旧真壁郡近辺ならそうだと思われます。
下館近辺なら水谷氏。
03413392008/12/16(火) 21:03:33ID:a1kmVt/9
>>340
素早い返答ありがとうございます
筑西と言っても広いんでわかり辛いですよね すいません

家は↓のページで紹介されている海老ヶ島城から南西に4qぐらいのところです
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/akeno.htm
地図で言うと↓でこの地図は小田城と真壁城跡地がありますのでわかりやすいかと思います
ttp://up2.viploader.net/pic2/src/viploaderf145852.jpg

たびたびすいませんがお願いします
0342人間七七四年2008/12/17(水) 01:15:01ID:Jqg+DP1b
>>339
宇都宮はともかく、小山は実質北条の一支城主にような状況になって
るからなあ
0343人間七七四年2008/12/18(木) 05:45:43ID:nYUY6Rrh
>>339>>341
この辺り(旧明野町)は争奪戦が繰り広げられた所だから、一概に誰の所領と断言するのは難しいかな…

小田原征伐前と後では大して変わらないと思うが、それ以前となると…

時期を特定して呉れれば良いのだが…
0344(´ω`)2008/12/18(木) 06:58:31ID:etPz4Nvi
>>341
ちょうど結城系、小田系の所領の境目付近だな。

海老ケ島は、もともと結城系の所領であり、室町中期に小田によって攻略され、
その後1595に佐竹家臣で旧小田家臣の宍戸氏が入るまで、ずっと小田系だった。
というわけで、戦国時代はほぼずっと小田に年貢を支払っていた地域だったことは間違いない。

ついでにこの西のほうには鳥羽の淡海(騰波ノ江)という湖沼があって、
今小貝川の流域はほぼ水の下だった。
あなたの住んでいる場所は戦国時代は島のようになっていた場所で、
高道祖で下妻の台地と狭まっていた。。
この湖沼地帯はうんちくせい市の北のほうまで繋がっていて、
今は陸地のくせに、やたらと「島」とか「谷」という文字のつく地名が多いな。
また近世以降に水面上になってあらたに名前のつけられた地名も非常にわかりやすい。
0345人間七七四年2008/12/18(木) 22:52:09ID:2u7egJzG
小田天庵ほど領民に慕われた小田氏当主はない
0346人間七七四年2008/12/20(土) 10:08:19ID:kLxJqssg
>>344
龍ケ崎やら江戸崎も今じゃ内陸だが昔は遥か県西まで内海が入り込んでいたから崎なんだよな
県西のあたりで海道を目にするのもその名残りのようだ
常陸南部や下総は水だらけだ
03473392008/12/20(土) 15:09:06ID:nHFhvQyv
>>342-346
皆様反応ありがとう御座いました
たしかに浜とか島とか付く地形はめちゃくちゃ多いですね
当時の地形ががどんなだったかから調べていきたいとおもいます
とりあえず家のあたりの領主様は結城系→小田系→佐竹系→天領
って流れみたいですね

争奪戦が結構あったって話ですが小田や結城の動員兵力ってどんなもんだったんでしょうね
0348人間七七四年2008/12/29(月) 15:40:51ID:rUJdqvyX
牛久沼も名残の一部だね。
0349人間七七四年2008/12/30(火) 04:58:05ID:9qLpe5Yz
>>347
ずーっと天領?
旗本の知行地とか大名の属領(飛び地)とかになってないの?
0350人間七七四年2009/01/07(水) 14:40:28ID:WY4JvlVC
常陸の特に西部や南部は入り組んでますから。
0351人間七七四年2009/01/16(金) 05:07:15ID:i0BHMLZT
小田政治って本当に堀越公方政知の子供なの?
0352人間七七四年2009/01/16(金) 12:06:42ID:Czt3HAV7
政治実父は足利義澄、足利義稙、足利政知、小田成治など諸説あるが確証を得ない
0353人間七七四年2009/01/18(日) 04:01:04ID:mPbbeYTi
政治は堀越サイドからの関東への楔の一つとして打ち込まれたのかなぁとか
いろいろ想像しちゃうけどなぁ

北条顕家は騎西城城の小田顕家とは別人なんだよね?
0354人間七七四年2009/01/18(日) 17:25:36ID:p8PuRYwc
気になって図書館で町史読んできたんだが
小田さんの海老ヶ島城には『海老ヶ島七騎』なる武者が居たらしい
やばい 地元民からすると全く強そうに聞こえないwww
しかも小田の海老ヶ島城失落時にうちの村に落ちてきて地侍化とかある
たしかに七騎と同じ名字の家メチャクチャ多い
しかし海老ヶ島から5キロぐらいしか離れてないのにそんなところで地侍化して大丈夫なのか?
0355人間七七四年2009/01/18(日) 19:01:08ID:rPodWE7M
>>354
当時は大丈夫だったんじゃなかろうか。
うちの近所にも落城した城の話があるんだけど、そこから逃げ出した
家臣がちょっと離れた場所に住み着いたという砦の伝承がある。
0356人間七七四年2009/01/27(火) 08:04:27ID:UMQdjwLn
小田政治が堀越公方の息子かどうかという話だが、多分仮冒。
小田が藤原姓から源姓に変わったこととも関係があるだろうな。

多分長尾が管領を継ぎ、北条も管領を私称し、
里見も公方の奉行だか政所管理者から副将軍を名乗り、
佐竹も東国の右京大夫だと言い出したので、
小田も対抗するためにそういう話を作ったんだと思う。
態々公方を担ぎ出したのだから、
恐らく何か小さな縁でもあって、そういうことにしたんじゃないかな。
0357人間七七四年2009/02/06(金) 15:43:49ID:wqa724dQ
宇都宮・小山・佐竹スレなので質問させて下さい。
今家系図を調べていて、氏綱さんを探しています。

小山家の末裔で家紋が佐竹の扇から来ていて
先祖が宇都宮の綱が入ったと思われる「氏綱(天文十九年享年)@お墓記載」なんですが、
困った事に紀州の小山家なんです。
小山高朝の子供の実隆・経幸が紀州にいるのは調べました(本:紀州小山家文書)が記載はありません。
それでもうひとりの結城家より養子できたもう一人の高朝の関連とややこしくなっていて
もうどうしていいやら解らず詰まっています。

あと小山広綱・宇都宮広綱 は別人ですか?


0358人間七七四年2009/02/06(金) 16:04:00ID:/3madPJT
>>357
ヒント:氏綱じゃなくて氏朝。と言ってみる。

宇都宮広綱は元亀天正の頃の人で、
他の広綱とは間違えようのないくらいしっかりした人。
小山と宇都宮は、系図がごっちゃになるほど血縁的に繋がっていない。
0359人間七七四年2009/02/06(金) 16:19:44ID:wqa724dQ
>>358
早速ありがとうございます。残念ながら氏綱なんです。
もう書いてしまいますが

安居初代1世
小山四郎左衛門氏綱
天文19年10月24日享年

この人を探しております。

宇都宮家とは綱位しか関係ないなーとしか見てないのですが
家紋が佐竹の扇から来ているものなので佐竹と関係があるのかなと思ってます
あとお墓が和歌山なので余計に解らなく・・・
歴史オンチなせいで宇都宮広綱さんが有名な人だと知らずに質問してすいません。
0360人間七七四年2009/02/06(金) 19:29:43ID:kJfcIS8w
>>359
その氏綱の前後の人はどんな名前と字で、誰に仕えてたの?
そんでどんな資料に書いてあったんだ?
宇都宮広綱のことと同様に、下野の高朝と紀伊の実隆父の高朝では
活躍した時代も場所も全く違うので混同されるはずがない。

>これら小山氏の活動は『紀伊続風土記』に散見しているが、
>文書に年号や名字がないため、その足跡を編年的にたどることは容易でない。

播磨屋のページにもこう書かれているし、信頼されたる可能性が非常に低いな。
0361人間七七四年2009/02/06(金) 20:39:44ID:kJfcIS8w
暇なのでもうちょっと書いておく。
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/oyama.html
>ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/ks_koyam.html
播磨屋のページで見ると、南北朝期の高朝から下野と紀伊の系図が全く違う。
下野小山の高朝の子は朝郷・氏朝だが、紀伊小山は経幸・実隆だ。
これから判断すると、下野小山の系図に、紀州小山の系図を経幸・実隆の
部分から無理矢理繋げた可能性が非常に高い。
しかもurlを見ると紀伊小山氏は「おやま」でなく「こやま」じゃないかい?
東国では「小」を「お」と読み、西国では「こ」と読むことが多い。

また実隆以降、「隆」の字が必ず上について継承されてるのが気に入らないw
土豪クラスでこれがあるのは、相当名門の場合に限ると思うのだが如何なものか。
その上信長に仕える前の人の名前に「左京」「帯刀」と、
かなり江戸臭を感じる百官名が入っている。
経幸系はまだマシで、あざなのみの記載と割と信用できる部類か。
大体土豪クラスは実名が代を通じて定まらないことが多く、
多くの場合あざなや官途のみしか書かれていなかったりする。
「氏綱」という名から判断するに、経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。

>家紋が佐竹の扇から来ているものなので
扇の家紋といってもいろいろあるからなあ。佐竹は「月扇五本骨」なんだが。
なんの根拠もない私見だが、たぶん佐竹とは関係がないと思う。
紀州で佐竹といったら、雑賀衆の佐武義昌しか知らんし、
これが月扇五本骨を使用していたかも、「氏綱」と関係あるかも全く不明。

全体から見ると、紀伊小山氏は紀伊の土豪で、下野小山とは全く関係がなく、
経幸・実隆と呼ばれる人から家が勃興したんだろう。
子孫は彼らを先祖とする伝承を持っていたが、確実な文書史料等はほとんどなく、
江戸期に系図を再構成した可能性が非常に高い。これはよくあること。
その際、中途の名前を想像で入れるとともに、下野小山に繋げた。
03623592009/02/06(金) 22:21:48ID:ezrb5XUl
沢山情報ありがとうございます。
>>36
資料元は義父の調べた結果の家系図です。それを調べていて不自然だったので
調べると繋がらなかったという事で質問させて頂きました。

ただ上記に書かれてある氏綱からの情報はお墓の情報からのもので
享年だけは記載されています。
元々はちゃんとした家系図があったそうですが昔和歌山の台風?洪水?で流されてしまったとの事です。
その氏綱の親にあたる所が義父も解らず適当に高朝(実隆の父)とくっつけたという無責任な状態orz
氏綱の続きは四郎左衛門の名前だけ繋がってるのです。
ただ、大円寺創興祭神主と書かれた四郎左衛門がいます。これもどこの大円寺だよって感じで信憑性が・・・
そこに藤原則重という名前も書かれています@享年元和九年十二月二十九日

あと「小」は「こ」と呼びます。実際は屋号がついてちょっと違う名前なんです。
その辺はばれてしまうので伏せさせて頂きます。

あと経幸の子孫に「小山肆成」がいます。日本初の天然痘ワクチンをつくった方なんですが
その人の資料より
”正平二十一年(1366)三月田辺口合戦には、多くの負傷者と小山三郎吾郎、同四郎左衛門、周弥三郎、同重左衛門
同兵部丞、−−−割愛−−−−其の子左衛門少尉兼光は、畠山家に属して吉野に奉仕し・・・”
と書かれていて、義父曰くその四郎左衛門が先祖のはずと。
>経幸子の「氏朝」あたりと符合するのでこの系統か。
だからこれだと嬉しいですね。ちょっとこの辺を調べてみます。
ただ、家紋が気になってしまって。家紋は調べると毎回佐竹家が登場するので
関係があるのかと思い私の思いこみで下野国小山を調べていました。

どうも下野国とは違うルートのほうがよさそうですね。
結果スレ違いになってしまって申し訳ないです。歴史の詳しい方の意見が聞けて良かったです。
ありがとうございました。
0363人間七七四年2009/02/16(月) 16:05:14ID:F4Zc+Sji
ここは詳しいですよね。
0364人間七七四年2009/02/26(木) 15:19:52ID:zdJhEDfU
下野は力が拮抗していて面白い
0365人間七七四年2009/02/27(金) 13:51:54ID:Ab0we9CO
拮抗というか
ドングリ'ryというか

あのウチゲバ大好き体質はなんとかならんか
0366人間七七四年2009/03/05(木) 15:15:29ID:+/IGTlbD
本来力があるはずの小山が 結城とともに叩かれたから。
0367人間七七四年2009/03/06(金) 08:33:28ID:EO5s3j1O
赤松がとっとと義教暗殺してれば・・・
0368人間七七四年2009/03/16(月) 15:47:16ID:Kfzj+SlZ
持氏に近づき過ぎたんだ
0369人間七七四年2009/03/17(火) 14:18:57ID:0IypERhu
バーブ佐竹
0370人間七七四年2009/03/17(火) 14:21:30ID:0IypERhu
烏山300万石
0371人間七七四年2009/03/20(金) 19:36:40ID:rzUgm7i9
伊王野の朝鮮出兵時の働きについて
0372人間七七四年2009/03/25(水) 21:42:55ID:esGIwyB6
age
0373人間七七四年2009/03/27(金) 13:18:00ID:0J5VyluI
2009 秋田知事選
http://www.sakigake.jp/p/special/09/chijisen/

秋田県角館市、佐竹北家の当主、佐竹のりひさ氏。
【略歴】
1947年、秋田県角館町(現仙北市)生まれ。東北大学工学部卒。
72年、秋田県庁に入庁。工業振興課長、地方課長、総務部次長などを歴任、
97年、県庁を退職。2001年7月、第17代秋田市長に就任、
同年8月、秋田県市長会会長。03年、全国市長会副会長、政府税制調査会委員。
07年6月、全国市長会会長、同7月、地方制度調査会委員。
09年3月、秋田市長を退職し、4月12日の秋田県知事選へ向けて始動。

ちなみに、30年にわたり、姉妹都市交流が続けられているんだとか。
0374人間七七四年2009/03/27(金) 13:19:11ID:0J5VyluI
姉妹都市交流=秋田市と常陸太田市ですた
0375おっぱすぴんく2009/04/05(日) 22:30:07ID:CQiXZ+cD
関東の覇者は益子だろwww
0376人間七七四年2009/04/08(水) 23:44:54ID:84d5NWsf
ましこやきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいい
0377人間七七四年2009/04/12(日) 22:03:04ID:hZmWTw0G
よし、こうなったら…

栃木県知事に宇都宮氏の子孫を…
茨城県は…、誰が良いのやら。


まあ、何はともあれ、佐竹氏の藩主復帰って事で記念上げ。
0378人間七七四年2009/04/12(日) 23:08:07ID:z9PXLuwE
佐竹のりひさ氏は、メディアに出るとか言ってるそうだ。そのまんま佐竹とか。
いや、殿様の格好して、さたけ軍団のほうがいいと思うんだけど。ダメ?
0379人間七七四年2009/04/15(水) 04:47:04ID:1hIdongF
足利の西の端っこ、小俣城主渋川氏は、渋川義勝だけが名前出てきますが、
その先祖・子孫の情報についてご存知の方いらっしゃいますか?
0380人間七七四年2009/04/15(水) 09:29:37ID:+HSEjNpb
群馬県渋川市にいた渋川一族の傍流なんじゃね〜の?
九州に派遣され失敗して今川了俊と交代させられ、次に関東執事として堀越公方と一緒に関東へ派遣されたが鎌倉へ入れず、扇谷上杉を義政に讒言した罪で失脚したはず、
(本人は確か武蔵国の北のどこだったかに領地もあったはず)
しかも渋川氏の息子が斯波氏の養子になって相続したことが応仁大乱の元凶になったはず。
この足利一門最大の役立たず一族だろ。
0381仙台藩百姓2009/04/23(木) 18:27:55ID:DP0DtqbP
>>371
蔚山での活躍
早乙女坂で大名(宇都宮尚綱)討ち取る
関山で上杉軍を撃破
地味だけど案外つおいお( ^ω^)
0382人間七七四年2009/04/25(土) 12:25:05ID:iuSNw2Kk
宇都宮動物園にあった宇都宮城はどうなった?
0383人間七七四年2009/04/25(土) 16:28:28ID:941IN3qj
>>381
興味が湧いたんでググッてみたけど
鮎瀬豊前てのがいい味出してるな
0384人間七七四年2009/05/02(土) 17:03:40ID:khwt/WyW
>>377
江戸氏はどうよ
0385人間七七四年2009/05/14(木) 16:07:08ID:2xtTCKom
江戸は越前で水戸を名乗ったんだよね。
0386人間七七四年2009/05/15(金) 20:48:01ID:ArMBFBIA
烏山三万石
0387人間七七四年2009/05/16(土) 09:37:27ID:dI4GO6iB
一郡と何ヶ村か支配してただけの江戸氏が知事とかありえね〜
水戸市長が適任でしょ
茨城は大掾氏、栃木は小山氏
これで決まり
0388人間七七四年2009/05/25(月) 15:05:57ID:6RAsVGil
大掾さんとかいないな。馬場さんならいるが。
0389人間七七四年2009/05/26(火) 11:54:00ID:5mCH4vOx
戦国期の守護は小山じゃねーだろ
0390人間七七四年2009/06/03(水) 14:21:52ID:6LkdwGiD
誰が知事に適任かって話しだから別に戦国時代の守護とか関係ないのでは
大掾氏とか一度も守護職に就いた事ないし
0391人間七七四年2009/06/03(水) 16:39:03ID:2QhZHfwa
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
※ここは戦国時代板です。
0392人間七七四年2009/06/03(水) 23:28:17ID:+Ku3+WoP
うるせえハゲ
0393栃木くおりてぃー2009/06/06(土) 11:12:47ID:xij4d+Kg

栃木リンチ殺人事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E6%9C%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【強姦】 警部補強姦逮捕 栃木県警「心から深くおわび」 [06/18]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/owabiplus/1213958526/

【栃木】連続強盗強姦の2人 懲役30年と28年を求刑
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20090519/CK2009051902000109.html

【父親が実娘を強姦し続けた】栃木実父殺し事件
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/baby/1096037070/

栃木県立今市高校教師、卒業生も強姦されたと被害届を提出
http://sagool.tv/detail/3880201651115013861/

取り調べ女性への性的行為否定 元栃木県警警部補が無罪主張
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/auto/5043/1190871900/66

【社会】「強姦が好きで、彼女や風俗店では満足できない」 33歳無職の男を再逮捕…栃木
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1240961004/

【栃木】強姦被害者望まなかったのに 宇都宮地検勇み足? 起訴”強行”[01/25]
http://gimpo.2ch.net/test/read.html/wildplus/1232861243/

【栃木/教師】女子生徒への連続淫行高校教諭、3度目の起訴
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1234921971/

【栃木】先生とラブホ女子中学生「ベロチューしまくった」「乳首触りすぎい…まあいっか」お口の中たかゆき★11
http://s03.megalodon.jp/2009-0417-1923-18/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1239940813/
0394人間七七四年2009/06/06(土) 13:56:39ID:juMJDnfK
栃木は宗教とアニヲタの王国
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