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播磨赤松氏について語るスレ

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/20(木) 21:47:20ID:52Sv0tnY
三管四職
0045名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/24(金) 00:57:18ID:uMjIWKs1
>>44
浦上宗景はどうだろう?
0046名無しさん@お腹いっぱい。2006/11/24(金) 04:00:07ID:VU+4L88u
浦上は1569年に赤松義祐と結んで織田と戦ってる。
1572年に毛利の侵攻に耐えきれず織田を頼って毛利と和睦。
1573年にようやく信長から朱印状をもらってるくらいだから
決して早いとは言えない
0047名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/21(木) 14:18:24ID:C6DVSwIZ
赤松則房が織田に従うのは、
天正元年(1573)に浦上が朱印状をもらって以降
浦上が播磨、備前、美作のお墨付きをもらったため、対抗上じゃないかな
0048名無し議論スレにて投票方法審議中2006/12/31(日) 00:37:37ID:Nxyp0mBk
赤松氏って結構以外な所に一族がいるから面白い
上野の小川可遊斎=赤松祐正とか常陸の川尻赤松氏一族とか
0049名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/11(木) 19:54:13ID:uY8aq0X7
晴政−義祐−則房−則英

赤松家代々の諱って何だろ? 最後は「則」の字になってるけど。
0050奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/01/11(木) 21:17:02ID:75GaMVin
則でいいだろうよ。系図眺めてても一番多いし。
0051名無し議論スレにて投票方法審議中2007/01/12(金) 01:30:28ID:xNaiXH2Q
赤松政之
0052名無し議論スレにて投票方法審議中2007/02/10(土) 08:14:46ID:yGbDfRte
家格としては四職筆頭ですかな?
0053奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/10(土) 22:58:07ID:wTAp6ILX
領地の多さでは山名に、家格では京極に敵わないかと。
0054奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/10(土) 23:10:01ID:wTAp6ILX
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170859012/

ついでに投票もよろしく。
0055人間七七四年2007/02/13(火) 11:59:48ID:O9ntWpwm
>>53
下には一色のみですか・・・。
0056奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/21(水) 21:04:14ID:d9/BmDZz
一色氏は足利本家に最も近い庶家だもんね。(斯波は準嫡流、石塔・渋川・一色は庶子)
0057人間七七四年2007/02/22(木) 15:08:06ID:zndSepVD
足利一門でもないし、赤松は四職末席だなw
0058人間七七四年2007/02/22(木) 17:19:45ID:Vg6RNF5u
元から尊氏についたのではなく南朝方を裏切った論功で四職に数えられるようになった赤松氏

嘉吉の変で決定打w
0059人間七七四年2007/02/25(日) 01:28:42ID:cCQkOjDx
赤松則良っていう幕末〜明治の政治家がいるが、彼は子孫か?
0060人間七七四年2007/02/25(日) 02:15:13ID:IMJLaJ7G
実父赤松雄之進(後の吉沢政範)の生家は播磨の名族赤松氏の裔にして円尾を
姓として代々網干新在家で干鰯問屋を営み廻船業を兼ね、龍野藩の廻米御用を
勤め苗字帯刀を許され祖先の赤松姓に復した

ググって見つけたサイトから転載
0061人間七七四年2007/03/30(金) 11:29:58ID:nKCR8KAa
>>58
だけど円心は悪党だから
大出世といえば大出世
0062人間七七四年2007/04/13(金) 23:53:45ID:NkCu7a5T
江戸時代、末裔が交代寄合にもなれてないのか・・・。
0063人間七七四年2007/04/26(木) 21:55:33ID:/twivyEY
>>13の各家の知行地や本拠地ってわかる人いますか?
0064人間七七四年2007/04/30(月) 20:35:46ID:nq+9J2o7
悪党の裔ってどこまでがホントなんですか?
0065人間七七四年2007/05/11(金) 19:51:12ID:0Coe36tq
先祖が悪党であろうがなかろうが
末裔どものやった所業のほうが酷すぎる
0066人間七七四年2007/05/12(土) 10:26:13ID:RYfloEu0
北方の小説の話なんじゃ?
昔読んだが内容は忘れた
0067人間七七四年2007/06/13(水) 12:28:21ID:G1mCwpJs
赤松政範は武勇に優れておったわ。
0068関連スレ2007/07/08(日) 02:49:52ID:gGiGjyYQ
【四職家】一色一族を語る【丹後・若狭】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183829686/
0069人間七七四年2007/07/23(月) 00:48:05ID:9I/ULraE
>>49
則房と則英は親子なのかな? 兄弟とかはなし?
0070人間七七四年2007/08/15(水) 19:04:50ID:7zQgMoqL
美作とかには領地持ってなかったの?
0071人間七七四年2007/08/27(月) 22:16:34ID:5U6SbxxU
>>67
置塩が居城だっけ?
0072人間七七四年2007/09/04(火) 19:39:53ID:q6dvpkFm
関ヶ原で西軍から東軍に寝返った大名で唯一死んだ(自刃)のが
斎村政広(赤松広英)だが、この人が生きていれば近世大名への道
もあったろうな。
有馬家も赤松一族だが、宗家との行動があまりに違ったから赤松家
の生き残りとはまた感覚が違うしなぁ。
0073人間七七四年2007/09/04(火) 19:51:24ID:q6dvpkFm
>>70
美作は尼子氏の台頭により、最も早く失った領地だった。
>>71
正範は毛利方についたかなりの豪傑だったが、たしか上月城だったか。
播磨西部で一大勢力を築いていた。
宗家の置塩はいち早く信長側について先見を見せたが、時期尚早だった。
同じ信長派だったかつての重臣小寺氏との結びつきが薄くなっていたのも
痛かった。播磨は分裂しすぎたなぁ。
0074人間七七四年2007/09/05(水) 23:41:06ID:LqJtCjf3
美作は室町中期は山名と赤松の争奪戦だったんですよね?

赤松領→直義方・山名時氏を義詮方に引き抜き山名領、
しかし義満の時代に明徳の乱で赤松領(山名氏勢力縮小)、
嘉吉の乱で山名領(赤松宗家滅亡)、応仁の乱後赤松領だっけ
そして京極(尼子)が奪ったと・・・
0075人間七七四年2007/09/06(木) 00:20:46ID:QsiqsJdn
小寺も一皮剥きゃ黒田
0076人間七七四年2007/09/06(木) 00:39:35ID:3SSIoZM0
>>70
上野殿の末裔が久米南町の端の方に残ってたみたいだけど
浦上滅亡と同じ頃に宇喜多に攻め取られた。
0077人間七七四年2007/09/07(金) 19:40:36ID:JjBjJMET
則英や斎村政広の身の振り方でなく、
政則の時代まで遡って、どうしていたら
近世大名へと生き残れたか考えてみたいな。
0078人間七七四年2007/10/06(土) 01:02:29ID:mxrcYcRU
>>49
赤松家周辺の武将で「範」の字を付けてる奴は、「則」を憚ったのかな?
0079人間七七四年2007/10/06(土) 01:29:11ID:WpHhF5cT
>>78
赤松宗家でも「範」を用いる人はいるので、当人の好みで則と範を使ったのかもね
0080人間七七四年2007/10/09(火) 02:43:13ID:rh08+7OK
漢字よりも読みが大事らしい
0081人間七七四年2007/10/11(木) 22:26:52ID:CQrUkWQV
このスレの前のほうで出てた旗本の赤松(石野)氏満がウィキに追加されてたよ
0082人間七七四年2007/10/12(金) 00:41:30ID:nyZHFu19
あんまり伸びないねこのスレ。

赤松氏は赤松氏特化サイトがあるからなぁ。
朝倉やってるとこ並に詳しいから、便利だし。
0083人間七七四年2007/10/12(金) 02:35:27ID:+XOTcQIw
>>82
日本史板のほうに同じ名前のスレがある。
あと有馬スレともかぶるからね。
0084人間七七四年2007/10/12(金) 21:37:12ID:PDKBMdsr
別所って赤松さんとこじゃどんな位置づけなんすか?
浦上さんは?
0085人間七七四年2007/10/13(土) 00:38:54ID:r9thNesc
>>84
浦上は重臣筆頭格、別所は新興家臣。
赤松氏を頂点とする構造では、断然、浦上>>>>>>>>>>>別所
0086人間七七四年2007/10/13(土) 02:30:27ID:sB//BwKe
>>84
別所は家系こそ円心の弟から始まってるけど、政則を支えたのは浦上と小寺だった。
別所が東播磨であそこまでの力を持ったのは政則の養子の義村以後じゃないかな。
0087人間七七四年2007/10/13(土) 23:17:24ID:1rQX8Xfg
小寺さんは苦労した割りにあまり報われない。良い人っぽいけど
0088人間七七四年2007/10/14(日) 01:20:24ID:2tKuIs1Y
浦上則宗が傑物だったからなぁ。
それでも姫路、御着に勢力あったし、黒田官兵衛という家臣もいたんだから
信長方に常についてれば、うまく脱皮できたかもなー。
結局小寺家は逆に黒田家の家臣になっちまったんだよな。
ていうか、播磨はそもそも大きく分けて4分裂してたし、これがもっとまとまってたら
かなりの勢力になれたろうに。
0089人間七七四年2007/10/14(日) 11:18:43ID:CdAnO96R
赤松家臣の小寺・浦上・別所・松田がそれぞれ豪族化してたからなー。
こいつらが赤松当主を頂点に結束してたらさぞ威勢を張れたろうに……w
0090人間七七四年2007/10/15(月) 23:22:13ID:wpZmci1H
赤松だけで置塩、龍野、上月の3つに割れたのが痛かったな。
置塩と龍野は和解したからともかく、上月はあれだけの力がありながら
毛利方についちゃったからな。
ゲームにほとんど出ないから知名度は低いけど、力は龍野以上だったかもな。
0091人間七七四年2007/10/21(日) 17:05:37ID:fICwdKut
播州皿屋敷の話に微妙に小寺が絡んでる件について。
0092人間七七四年2007/10/23(火) 20:56:35ID:ct6uRY3X
番町皿屋敷の元ネタだっけ
0093人間七七四年2007/10/23(火) 22:12:04ID:3N4RZ1BF
>>92
皿屋敷ネタは割とポピュラーな怪談。
けっこういろんなところにあったりする。
岩波書店から出てた都道府県別の昔話の全集にそれぞれが載ってるのを図書館で読んだことがある。

と思いながらウィキ見たらやっぱいろんところにあるみたいでちょっとホッしたw
0094人間七七四年2007/11/04(日) 08:34:08ID:WkBYT9yG
>>90
毛利方に付いた上月城を落とした後に入ったのが、尼子勝久・山中鹿之助の一党だっけ?
0095人間七七四年2007/11/06(火) 05:34:36ID:X7Hfh9JT
上月城は血生臭い歴史の連続で幕を閉じた感じだなー。
0096人間七七四年2007/11/26(月) 17:32:10ID:tq04yEGy
毛利はその後上月城に誰も入れなかったのかな?
0097人間七七四年2007/11/26(月) 19:03:48ID:kWwFLZuN
>>90
西播磨における龍野の衰退と上月の成長は、織田方の龍野・別所対置塩本家・浦上・小寺連合の
争いで龍野が官兵衛と浦上宗景に大敗したのが大きく影響したんだろうね。
>>94
上月赤松+宇喜多援軍→尼子勝久→宇喜多家臣(上月氏)→再び尼子→毛利による包囲
>>96
近くの利神城に1583年頃には宇喜多家臣(服部勘助)、関ヶ原合戦後は平福藩池田氏が入り
上月城に代わって佐用郡一帯を治める立場となった。
上月合戦以降の上月城は、幾度の落城でどれだけの損害があったか分からず
そのまま廃城になったのかもしれないけど、支配はおそらく宇喜多家臣の誰か?
0098人間七七四年2007/11/26(月) 19:06:12ID:idmdDhqm
>>96
廃城になったような気がする。
0099人間七七四年2007/12/15(土) 17:22:59ID:PFIifTvU
上月城は対立の最前線じゃなくなったから
宇喜多には不用だったのかもね。
0100人間七七四年2008/01/08(火) 17:55:47ID:1+IkUFas
戦国で赤松と言えば誰だろ?
0101人間七七四年2008/01/09(水) 01:22:37ID:i/YRXihD
龍野の赤松下野守政秀じゃね?
0102人間七七四年2008/01/21(月) 19:11:58ID:37KCkHDJ
勢力で言えば龍野の政秀か上月の政範だろうな。
少なくとも本家よりは遥かに大きい勢力だった。
政範はゲームにほとんど出ないせいで知名度はいまいちだが、
政秀に勝るとも劣らない気骨のある豪将だった。
0103人間七七四年2008/01/27(日) 17:36:51ID:a37XKOii
知謀に長けた晴政はダメですかな?
0104人間七七四年2008/01/28(月) 21:51:31ID:DMIaJM3m
美青年が多い家系だったらしい。
0105人間七七四年2008/02/15(金) 06:50:47ID:kxDUa44q
俺は、赤松家の末裔なんですが、皆さんの方が、詳しいですね

祖父の生前に、もっといろいろ聞いとけば良かったと、今更ながら後悔してます・・・
0106人間七七四年2008/03/02(日) 06:28:06ID:WEN+Wl9p
>>105
菩提寺の過去帳見に行って明治以前の経歴を調べてくるといいぞ。
0107人間七七四年2008/03/04(火) 19:07:31ID:nRZWmwvn
知り合いに赤松範忠の曾孫って人がいた。
家紋とかすごいこだわりがあったなぁ。
01081052008/03/10(月) 18:50:50ID:QYcQ7XH8
>>106
ありがとう

今度、纏まった休みが取れたら、調べてみます
0109人間七七四年2008/03/31(月) 15:50:05ID:BVnqMwBv
範忠は石野の後裔だね。
0110人間七七四年2008/03/31(月) 17:18:50ID:Nw98Q9um
石野は赤松の庶流から始まってるけど、今や唯一系譜がはっきりしている家系だな。
結局関ヶ原の時点での立場や身の振り方でほとんど決まってるね。
西播磨の斎村も亀井に濡れ衣着せられるという不運はあったが、最初から東軍に
属せばよかったわけだしな。一族揃って西軍ってのは利口ではなかった。
0111人間七七四年2008/04/21(月) 16:30:15ID:tGGMeK0u
1987.5.24に男爵に叙せられた赤松則良は 石野だよね。
0112人間七七四年2008/05/10(土) 16:04:11ID:oxmIGnwL
そのころは石野が赤松の主流になったいたのかな
0113人間七七四年2008/05/29(木) 17:45:56ID:5SkFchnt
浦上の台頭を抑える方法はあったかな?
0114人間七七四年@全板トナメ開催中2008/06/07(土) 15:29:28ID:4c60AULr
>>2意味がわからん。
京極は江戸初期、出雲隠岐二ヶ国を領する大大名。
分家も丹後全域を領する国持ち大名。
畠山も河内の戦国大名で頑張った。
一色も丹後の戦国大名で頑張った。
山名も因幡の戦国大名で頑張った。
斯波赤松が守護代等に追われ衰えたのは分かるが、
それならば細川京兆もだろう。
細川幽斉は管領家細川京兆とは別物じゃない。
0115人間七七四年2008/06/25(水) 13:50:34ID:WHv+6n9C
早い時期に浦上に取って替わられたわりに 後まで頑張った方さ赤松。
0116人間七七四年2008/07/02(水) 03:48:58ID:9xMeYvov
早い時期に下剋上されちまったから一般的には話題に上ることもないという…
浦上はもう少し知名度あってもいいと思う
0117人間七七四年2008/07/07(月) 21:02:02ID:/zVfOGDP
>>116
盛り上げてくれよ。

ザ・浦上氏
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154943603/
0118人間七七四年2008/07/08(火) 14:59:53ID:TGgCz+PB
関東で名を上げた赤松常範の話題はここまで出ていませんか。
0119人間七七四年2008/07/11(金) 13:35:27ID:1T26F2ml
川尻赤松氏か。渋いなー
もっと研究の題材になっていいよね。

>>116
たしかに東播磨での勢力は縮小したけど、
西播磨は龍野の赤松政秀、上月の赤松政範の2期に渡って
勢力を確保していた。
それぞれ黒田、秀吉に敗北して没落しちゃったけどね。
0120人間七七四年2008/07/14(月) 22:18:43ID:6awfvRt+
嘉吉の変も含めて、節目節目で「何でそこでそう言う行動するの!?」って疑問が抑えきれない一族ではある。
0121人間七七四年2008/07/14(月) 23:21:31ID:5cLLlhZQ
世の中に多い「何故、あの人があんな犯罪を……」って感じだな。
領国も多くなく、四職でも末席みたいな扱いなのに。
0122人間七七四年2008/07/14(月) 23:25:16ID:6awfvRt+
やってる事無茶苦茶なのに、意外と回りから憎まれていないのも不思議だ。
0123人間七七四年2008/07/31(木) 16:04:34ID:3eHz/h4W
義教のお陰。
0124人間七七四年2008/08/10(日) 16:08:03ID:pknMCE2d
義教の一件はむしろ「よく殺ってくれた!」と当時は皆が心の中で思ったはず。
0125人間七七四年2008/08/12(火) 16:52:06ID:7zjxtrvy
尼崎の上坂部の赤松家出身ですが赤松円心の墓も近くにあるのですがやはり末裔だろうか?母方なのでもう一つ調べられないけどね。あと小寺とか縁を感じる姓が尼崎には多い
0126人間七七四年2008/08/13(水) 00:09:26ID:RzlQpoBw
>>124
光秀みたいなもんか
0127人間七七四年2008/08/14(木) 01:29:18ID:gFKbwSVF
義教と一緒に殺されたり大怪我されたり、義教に取り入って上手い汁吸ってたのにダメになった奴とか
いろいろ貧乏籤ひかされた奴もいるよ
0128人間七七四年2008/08/15(金) 03:27:21ID:4isHlMS5
>>125
家紋は?
0129人間七七四年2008/08/20(水) 14:35:23ID:0IoHeqfl
三巴?ですが代々神社にある赤松円心の墓は大事にするよう言われるてます。江戸時代は庄屋をしていています。本家は二両引を冠婚葬祭では使用してますが過去帳(元禄年間)は農民系の名前でした。
0130人間七七四年2008/08/20(水) 23:41:55ID:DIORBnL2
>>129
江戸時代は帰農してたんですかね?
0131人間七七四年2008/09/09(火) 14:59:57ID:VPmJKf/4
>>124
それだけの存在感はあったんでしょうね
0132人間七七四年2008/09/09(火) 16:44:12ID:oIgI/cTc
そういや応仁の乱のときも、空気読まずに赤松さんが講和に反対して、山名が自殺未遂したり
細川が出家騒動起こしたりで、大変なことになったな。
0133人間七七四年2008/09/12(金) 14:47:42ID:Q+ZLGu+Q
>>124
一門の一人が首とられて一緒にさらされちゃった山名一族は大怒り
0134人間七七四年2008/09/15(月) 14:15:02ID:7wQKPRdg
嘉吉の乱の時に赤松の屋敷に居たのに無傷で逃げ仰せた持豊の悪運には言葉も無い。

取り逃がしたのは痛恨だったな
0135人間七七四年2008/09/19(金) 06:10:36ID:2GmM/EiH
すぐに講和ムードにならなかったのは赤松のほかに畠山もね。
まぁ、この両家は目的があったからな。
0136人間七七四年2008/12/04(木) 21:18:05ID:nW0LDQd5
赤松不人気だな
0137人間七七四年2008/12/04(木) 22:24:52ID:u9R+dOyg
将軍や皇族に害を加えた松永もびっくりの悪党だからな。
0138人間七七四年2008/12/04(木) 23:28:32ID:/DZikV3y
>>134
もともと将軍以外は殺す気なかったらしいけどね
義教怖がってたのはどの守護もそうだろうっていう読みもあったし
山名の一門の守護の首もとって義教と一緒に晒しちゃったから
山名一門大激怒で赤松崩壊
0139人間七七四年2008/12/05(金) 20:51:10ID:SOx9uhom
首が晒されちゃったのは山名熈貴?
0140人間七七四年2008/12/21(日) 07:09:34ID:ElGtKShx
>>138
播磨と但馬は隣国だったし、山名とは不仲だったのかも?
0141人間七七四年2008/12/21(日) 18:58:30ID:HJ84/qNw
>>140
めちゃめちゃ仲悪い
0142人間七七四年2008/12/21(日) 23:38:08ID:O6Xknuur
逆に細川は手加減してたっぽい

畠山は一度家督奪われた持国が弟の持永を殺して強引に家督復帰中
赤松に味方した直冬の孫の誰かが庇護を求めにいったけど
持国にあっさり断られて幕府復帰の手土産にされてる
0143人間七七四年2009/01/08(木) 15:06:20ID:DieASzIH
赤松と細川は比較的いいって事かな
0144人間七七四年2009/01/08(木) 17:41:24ID:zx7zh/8V
>>143
応仁の乱以降は特に、山名への牽制もあるしね。
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