播磨赤松氏について語るスレ
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 21:47:20ID:52Sv0tnY0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 22:03:49ID:djycgZPs永禄十二(1569)年迄
没落後関ヶ原も出てるし
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 08:45:49ID:AjZD3CPN0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 10:47:03ID:4kZZlJBk播磨を始め摂津・美作・備前あたりに赤松分家の子孫は多いだろ、
赤松三十六家というくらいだからね。
別所・小寺・宇野党などなど・・・。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 11:41:35ID:hqSD1AeB赤松左馬助則繁だな。
当主・赤松満祐の弟で25歳の時(1424年3月14日)に
前管領・細川満元の邸宅での酒宴で将軍の側近(安東某)を要撃して殺害して逃走(殺人事件)
嘉吉元年(1441年)6月には甥である赤松教康と共謀して将軍を殺害(殺人事件)
嘉吉の乱を起こして幕府軍と戦う(国内紛争を起こし、中央軍と戦う)
幕府軍に敗北後、菊池氏を頼って九州にまた逃走。
その後、対馬と朝鮮に拠点を持ち、高麗の官軍を相手に朝鮮半島を荒らしまわり(他国侵略)
嘉吉3年(1443年)6月に来日した高麗の使節団が赤松左馬助則繁を名指しで幕府に
討伐を求める(国際問題に発展)
文安5年(1448年)正月、対馬より九州肥前に上陸開始。
少弐教頼と連合して大内教弘と合戦(国内紛争・対地方軍戦)し
教頼・則繁連合軍は敗北し、三度逃走。
河内の当麻に潜伏中のところを細川持常の命を受けた甥の赤松則尚に討たれて(同族争い)
京都で晒し首。49年の生涯でまさにやりたい放題。
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 12:32:14ID:2ZFF2Zar旗本石野氏(後に赤松氏)
赤松円心の長男範資の後裔で、氏貞の代に石野を称す
その子氏満は別所氏に仕え、後秀吉、その後前田に仕える
氏満の子氏置は家康に仕え、旗本家康御伽衆 二千百五十石(後、三千十五石)
宝永年間に範恭が、赤松姓に復する
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 06:07:24ID:7zKdeA/e0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 06:11:07ID:7zKdeA/e0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 09:20:25ID:qXBv8ewg有馬かと
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/23(日) 20:29:23ID:qXBv8ewg義持の男色相手に惣領家を挿げ替えられそうになったんだっけ?
満祐は怒って、京の屋敷を焼き払い、自領へ・・・
そして、義教にも・・・弟の領地を取り上げて庶流の貞村に与えたんだよな・・・そして惣領家の地位も・・・
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 14:41:52ID:250M6HAG言い方を替えると、それだけ力があったってことかな、
とこのエピソードをみて思った
そういう意味では、満祐が戦国の引き金(遠因かもしれないが)引いたのかなとも
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 00:47:57ID:XmsMv43/七条家、伊豆守家、播磨守家、有馬家、上野守家、在田家、本郷家、
広岡家、永良家
◆御一族衆・・・前者よりはワンランク下扱いの赤松一族
別所家は16世紀後半に台頭したことは周知のとおり。
下野守家、遠江守家、能登守家、宇野家、間島家、上月家、別所家、
佐用家、豊福家、得平家
◆年寄衆・・・赤松一族以外の重臣
御一家衆、御一族衆の分家もある
浦上家、喜多野家、富田家、小寺家、中村家、上原家、堀家、櫛橋家、
依藤家、明石家、薬師寺家、城所家、後藤家、衣笠家
0014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/02(水) 13:41:43ID:CYl+4rJu立よりて影もうつさし流ては 浮世を出る谷川の水
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 22:34:27ID:G+35z3H60016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/04(金) 11:31:01ID:EPr7+mWz通説では豊臣期の大名としては(江戸期には存在しないけど)、
関ヶ原で敗れ自殺した、阿波国板野郡住吉一万石の則英が
最後ですね
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/11(金) 16:17:08ID:nnFNLocG久留米藩ね
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 02:31:45ID:2m3gbni20019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 04:04:52ID:j2cDuCFM0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 15:56:27ID:n7caQM+F晴政は完全に浦上の傀儡だね
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 21:40:41ID:Nt5aAd760022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 21:48:15ID:/nKGfo4+あとは良くも悪くも満祐かな
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 21:52:22ID:Nt5aAd760024中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2006/09/11(月) 22:35:32ID:zDrdQc1C0025奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/09/11(月) 23:07:48ID:X72DBIB20026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 23:30:42ID:Nt5aAd760027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 13:24:12ID:WuFp06o1赤松は村上源氏に非ず
てか
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/13(水) 19:28:42ID:Uj2/Tk5B単なる成り上がりでもないと思う。
0029奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2006/09/13(水) 19:47:26ID:pvh/hP0l名和長年と赤松円心は系図でみるとともに村上天皇の16代目にあたる。
12代前の源雅兼の子の代で分かれる。
久我氏流の北畠親房は自家の系図を貸し出してやり両者を同族扱いにしながらも
久我氏になれなかった庶流として差別化しているわけ。
ようは「お前らは俺の家の子・郎党なんだぞ」と暗に言ってるわけね。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/14(木) 17:26:25ID:8pBxaMMO一族に入れてもらったのが、真相みたい
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 00:56:32ID:sPVHY/B1赤松の子孫の成れの果て→萌え漫画家
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 03:58:05ID:l4TryPdE0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/29(日) 18:53:16ID:rj1JPDuO0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/01(水) 20:59:42ID:n25Gi6sL久留米藩の有馬家に養子を出した石野って
赤松の中ではどこの系統になるの?
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 01:49:17ID:6dppN+ty宇野(山田)則景からなのか?
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 14:06:07ID:Xo+nK52Y0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 16:14:12ID:ZIBqnL/H山田則景=宇野頼景で赤松は宇野氏の庶流に過ぎないとも
この則景と源季房のつながりはあやしい
紀州の石野はちょっとわかりませんが
旗本石野氏と関係あるのかな?
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 20:06:17ID:3t7al/hU紀州というのは勘違いだった模様。
旗本の石野家でしたね。
石野家の系統は
このソースでは則祐の系統みたいですが
↓
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/dy_hata.html
この2つのソースでは、則祐の兄(または従兄弟の父?)の範貞の系統みたいで
↓
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/moto2.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052b.htm#005
003938訂正
2006/11/02(木) 20:08:04ID:3t7al/hU紀州というのは勘違いだった模様。
旗本の石野家でしたね。
石野家の系統は
このソースでは則祐の系統みたいですが
↓
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/dy_hata.html
この2つのソースでは、則祐の兄(または従兄弟の父?)の範資の系統みたいで
↓
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/moto2.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052b.htm#005
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 14:49:27ID:U/t3HkPL0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/16(木) 12:15:34ID:PFkpjPYK1569年の時点では織田軍と戦ってるが
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 23:33:23ID:Per8kM82衆道的意味で
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/21(火) 15:04:04ID:r5Vn8Gdj小寺や浦上の間違いでは?
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 00:49:18ID:9T5ROkAm0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 00:57:18ID:uMjIWKs1浦上宗景はどうだろう?
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/24(金) 04:00:07ID:VU+4L88u1572年に毛利の侵攻に耐えきれず織田を頼って毛利と和睦。
1573年にようやく信長から朱印状をもらってるくらいだから
決して早いとは言えない
0047名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/21(木) 14:18:24ID:C6DVSwIZ天正元年(1573)に浦上が朱印状をもらって以降
浦上が播磨、備前、美作のお墨付きをもらったため、対抗上じゃないかな
0048名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/31(日) 00:37:37ID:Nxyp0mBk上野の小川可遊斎=赤松祐正とか常陸の川尻赤松氏一族とか
0049名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/11(木) 19:54:13ID:uY8aq0X7赤松家代々の諱って何だろ? 最後は「則」の字になってるけど。
0050奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/01/11(木) 21:17:02ID:75GaMVin0051名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/01/12(金) 01:30:28ID:xNaiXH2Q0052名無し議論スレにて投票方法審議中
2007/02/10(土) 08:14:46ID:yGbDfRte0053奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/10(土) 22:58:07ID:wTAp6ILX0054奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/10(土) 23:10:01ID:wTAp6ILXついでに投票もよろしく。
0055人間七七四年
2007/02/13(火) 11:59:48ID:O9ntWpwm下には一色のみですか・・・。
0056奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/02/21(水) 21:04:14ID:d9/BmDZz0057人間七七四年
2007/02/22(木) 15:08:06ID:zndSepVD0058人間七七四年
2007/02/22(木) 17:19:45ID:Vg6RNF5u嘉吉の変で決定打w
0059人間七七四年
2007/02/25(日) 01:28:42ID:cCQkOjDx0060人間七七四年
2007/02/25(日) 02:15:13ID:IMJLaJ7G姓として代々網干新在家で干鰯問屋を営み廻船業を兼ね、龍野藩の廻米御用を
勤め苗字帯刀を許され祖先の赤松姓に復した
ググって見つけたサイトから転載
0062人間七七四年
2007/04/13(金) 23:53:45ID:NkCu7a5T0063人間七七四年
2007/04/26(木) 21:55:33ID:/twivyEY0064人間七七四年
2007/04/30(月) 20:35:46ID:nq+9J2o70065人間七七四年
2007/05/11(金) 19:51:12ID:0Coe36tq末裔どものやった所業のほうが酷すぎる
0066人間七七四年
2007/05/12(土) 10:26:13ID:RYfloEu0昔読んだが内容は忘れた
0067人間七七四年
2007/06/13(水) 12:28:21ID:G1mCwpJs0068関連スレ
2007/07/08(日) 02:49:52ID:gGiGjyYQhttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183829686/
0069人間七七四年
2007/07/23(月) 00:48:05ID:9I/ULraE則房と則英は親子なのかな? 兄弟とかはなし?
0070人間七七四年
2007/08/15(水) 19:04:50ID:7zQgMoqL0071人間七七四年
2007/08/27(月) 22:16:34ID:5U6SbxxU置塩が居城だっけ?
0072人間七七四年
2007/09/04(火) 19:39:53ID:q6dvpkFm斎村政広(赤松広英)だが、この人が生きていれば近世大名への道
もあったろうな。
有馬家も赤松一族だが、宗家との行動があまりに違ったから赤松家
の生き残りとはまた感覚が違うしなぁ。
0073人間七七四年
2007/09/04(火) 19:51:24ID:q6dvpkFm美作は尼子氏の台頭により、最も早く失った領地だった。
>>71
正範は毛利方についたかなりの豪傑だったが、たしか上月城だったか。
播磨西部で一大勢力を築いていた。
宗家の置塩はいち早く信長側について先見を見せたが、時期尚早だった。
同じ信長派だったかつての重臣小寺氏との結びつきが薄くなっていたのも
痛かった。播磨は分裂しすぎたなぁ。
0074人間七七四年
2007/09/05(水) 23:41:06ID:LqJtCjf3赤松領→直義方・山名時氏を義詮方に引き抜き山名領、
しかし義満の時代に明徳の乱で赤松領(山名氏勢力縮小)、
嘉吉の乱で山名領(赤松宗家滅亡)、応仁の乱後赤松領だっけ
そして京極(尼子)が奪ったと・・・
0075人間七七四年
2007/09/06(木) 00:20:46ID:QsiqsJdn0077人間七七四年
2007/09/07(金) 19:40:36ID:JjBjJMET政則の時代まで遡って、どうしていたら
近世大名へと生き残れたか考えてみたいな。
0078人間七七四年
2007/10/06(土) 01:02:29ID:mxrcYcRU赤松家周辺の武将で「範」の字を付けてる奴は、「則」を憚ったのかな?
0080人間七七四年
2007/10/09(火) 02:43:13ID:rh08+7OK0081人間七七四年
2007/10/11(木) 22:26:52ID:CQrUkWQV0082人間七七四年
2007/10/12(金) 00:41:30ID:nyZHFu19赤松氏は赤松氏特化サイトがあるからなぁ。
朝倉やってるとこ並に詳しいから、便利だし。
0083人間七七四年
2007/10/12(金) 02:35:27ID:+XOTcQIw日本史板のほうに同じ名前のスレがある。
あと有馬スレともかぶるからね。
0084人間七七四年
2007/10/12(金) 21:37:12ID:PDKBMdsr浦上さんは?
0086人間七七四年
2007/10/13(土) 02:30:27ID:sB//BwKe別所は家系こそ円心の弟から始まってるけど、政則を支えたのは浦上と小寺だった。
別所が東播磨であそこまでの力を持ったのは政則の養子の義村以後じゃないかな。
0087人間七七四年
2007/10/13(土) 23:17:24ID:1rQX8Xfg0088人間七七四年
2007/10/14(日) 01:20:24ID:2tKuIs1Yそれでも姫路、御着に勢力あったし、黒田官兵衛という家臣もいたんだから
信長方に常についてれば、うまく脱皮できたかもなー。
結局小寺家は逆に黒田家の家臣になっちまったんだよな。
ていうか、播磨はそもそも大きく分けて4分裂してたし、これがもっとまとまってたら
かなりの勢力になれたろうに。
0089人間七七四年
2007/10/14(日) 11:18:43ID:CdAnO96Rこいつらが赤松当主を頂点に結束してたらさぞ威勢を張れたろうに……w
0090人間七七四年
2007/10/15(月) 23:22:13ID:wpZmci1H置塩と龍野は和解したからともかく、上月はあれだけの力がありながら
毛利方についちゃったからな。
ゲームにほとんど出ないから知名度は低いけど、力は龍野以上だったかもな。
0091人間七七四年
2007/10/21(日) 17:05:37ID:fICwdKut0092人間七七四年
2007/10/23(火) 20:56:35ID:ct6uRY3X0093人間七七四年
2007/10/23(火) 22:12:04ID:3N4RZ1BF皿屋敷ネタは割とポピュラーな怪談。
けっこういろんなところにあったりする。
岩波書店から出てた都道府県別の昔話の全集にそれぞれが載ってるのを図書館で読んだことがある。
と思いながらウィキ見たらやっぱいろんところにあるみたいでちょっとホッしたw
0094人間七七四年
2007/11/04(日) 08:34:08ID:WkBYT9yG毛利方に付いた上月城を落とした後に入ったのが、尼子勝久・山中鹿之助の一党だっけ?
0095人間七七四年
2007/11/06(火) 05:34:36ID:X7Hfh9JT0096人間七七四年
2007/11/26(月) 17:32:10ID:tq04yEGy0097人間七七四年
2007/11/26(月) 19:03:48ID:kWwFLZuN西播磨における龍野の衰退と上月の成長は、織田方の龍野・別所対置塩本家・浦上・小寺連合の
争いで龍野が官兵衛と浦上宗景に大敗したのが大きく影響したんだろうね。
>>94
上月赤松+宇喜多援軍→尼子勝久→宇喜多家臣(上月氏)→再び尼子→毛利による包囲
>>96
近くの利神城に1583年頃には宇喜多家臣(服部勘助)、関ヶ原合戦後は平福藩池田氏が入り
上月城に代わって佐用郡一帯を治める立場となった。
上月合戦以降の上月城は、幾度の落城でどれだけの損害があったか分からず
そのまま廃城になったのかもしれないけど、支配はおそらく宇喜多家臣の誰か?
0098人間七七四年
2007/11/26(月) 19:06:12ID:idmdDhqm廃城になったような気がする。
0099人間七七四年
2007/12/15(土) 17:22:59ID:PFIifTvU宇喜多には不用だったのかもね。
0100人間七七四年
2008/01/08(火) 17:55:47ID:1+IkUFas0101人間七七四年
2008/01/09(水) 01:22:37ID:i/YRXihD0102人間七七四年
2008/01/21(月) 19:11:58ID:37KCkHDJ少なくとも本家よりは遥かに大きい勢力だった。
政範はゲームにほとんど出ないせいで知名度はいまいちだが、
政秀に勝るとも劣らない気骨のある豪将だった。
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