【軍師】戦国最強の策士は?【謀臣】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 23:36:39ID:gQBpHvT8竹中半兵衛、黒田如水、蜂須賀正勝、石田三成、島左近、山本勘助
真田親子、直江兼続、本多正信、片倉景綱、太原道斎、立花道雪
などなど多くの策士達について語ろう
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 05:37:06ID:6kBbi+6F平蜘蛛と三人分の食料を与えて一年経過したらどうなる?
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 07:33:06ID:bEYRdkg80074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 07:38:45ID:c87kLocs案外仲良くやっているかもよ?
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 10:21:12ID:DZ0kNT5r0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 10:49:20ID:OlLdNTvT確かに
それが答えかもしれん
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 11:18:29ID:szkg2pfo0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 14:27:51ID:+VzWZAfC0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 14:46:50ID:DZ0kNT5rそんでそれは秘密裏になされるわけだが
全員、文化人でもあるから、表向きは普通に茶会を楽しんでるだけ。
この4人を閉じ込めたぐらいだから、そいつも相当な人物だと思うがねw
>>78
閉じ込めたのがか?
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 16:07:03ID:MUElnH/n0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 16:29:43ID:Mg7dfXZQ0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 16:43:03ID:x5uctKrN時代は遡るが源義経と楠木正成も。
0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/29(金) 19:33:29ID:0HpiTMFB0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/30(土) 00:43:28ID:5hmTKXwy0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/30(土) 01:41:57ID:rG7a2+Ix0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 15:04:37ID:33E8FLFe0087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 18:16:11ID:0mtDxuvT0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/04(水) 20:35:07ID:Nfq2vxhI0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 01:17:19ID:abUF68VV0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:44:19ID:NypY95M7やはり策士たる者、策に溺れなくちゃネ!
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/05(木) 16:46:52ID:ahhMGlG90092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 00:00:04ID:/MsdCWp60093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 15:07:51ID:8meN8HSc最強の策士たる者、やっぱ全国を股間にかけた働きをしてもらわんと
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 15:24:52ID:8s8PbNPZなんせ関東がいち早く戦国期に叩き込まれた決定的な戦乱。
この乱で漁夫の利の得た北条早雲はただ単に時勢がよかっただけ。
太田道灌も暗殺されてるから周りは良く見えても自分の鼻の下は見えなかったってこった。
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 15:39:40ID:tdPIA8Tnそれどころか最後は禅譲され長尾家が上杉家を乗っ取って名目上は関東支配者補佐になっちゃったしな。
謙信が越山したら上野国は沼田→白井→前橋と言うコースにいる長尾家や長野家の支配圏は速攻で騎下に参じて厩橋城に集結して小田原包囲や鶴岡八幡宮に進出したくらいの勢威はあったからね。下野国も足利長尾家を筆頭に長尾上杉に集ったからな。
長尾一門は意外とすごいな。
考えてみれば長尾家は会津や米沢にもついて行ったから生き残り組だしね。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 15:57:09ID:8s8PbNPZおもしろい小説や本あったら教えてください。どうしても北条早雲視点の小説ばかりでつまんないので。
川越や前橋あたりに行けば資料館充実してるかな?
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 16:13:27ID:tdPIA8Tn義昭も秀吉を足利養子にするの拒否したくらいだから
やっぱり面子もあって難しいんだな。
うまく成功したのは…白井長尾が越後長尾に上杉憲政が越後へ逃亡する交渉をしたくらいだから、
最初から上杉家門を奪い取るべく上野国平井城にいた憲政に危機を煽り陥れるべく言葉巧みに誘導してたんだろう。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 16:46:12ID:Eg4tfD9Fいらないと拒否した佐竹義昭みたいなのもいるしな
なかなか難しいものだ
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 17:01:40ID:4F4pIB7l道灌が死んだ後も再び反乱を活発化して北条早雲と結ぶ一方で上杉顕定を越後に誘い込み敗死させるなど関東の謀略レベルは足利公方などの暗躍も合わせてハイレベルだったろうね!
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 17:19:12ID:tdPIA8Tn従来の簡単な説ではないかも試練。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/06(金) 23:38:33ID:tdPIA8Tnのちに上杉謙信が関東管領として越山して号令をかけた時に
源氏の佐竹義重は、元々はわが父に上杉家門譲渡の話があったのを断ったのに…長尾などは平家ではないか!と不満だったらしいが宇都宮家や太田家、里見家と共同歩調を取ったらしいね。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:06:34ID:dRp7qgRg従来の説だと、道灌がどうも甘すぎる気がするしね、
それまでの凄まじい経歴を見るに、そんな甘い人物だとは到底思えない。
なんか根回しが色々ありそうではある、早雲辺りも怪しい。
とは言え道灌って策士でもあるけど、戦国時代に坂東武者を
初めて統制して従えた猛将としてのイメージの方が強いかも。
合戦でははっきり言って同時代の中で無敵だし。
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 00:17:00ID:XxGeGj3x地侍や地頭、荘園、国司に従って下向してきた豪族、守護や守護代に従う者達から婚姻関係や外戚や昔からの協調関係や父祖の時代からの増悪。
鎌倉・室町の権力者の変遷など詳しくないと関東の支配は難しそう。
太田道灌はこの点を詳細に知っていて、うまく操れたんだと思う。
ただ操れたのもだんだん時が経つにつれて破綻してきたんだと思う。
愚鈍な主を討つ下克上しかもう他に手がなかったんだろうが忠義の人ゆえに破滅したんだろう。
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:06:17ID:SUBkHZ8U俺もそう思う。
私見を述べさせていただければ、下克上の先駆者となること自体に
不快感と恐怖を持っていたとも考えられる。貴種尊重の風潮は道灌の
時代においてもまるで衰えていない。というより、統治者として君臨
する為の大義名分として「貴種である」こと以外に重要視されるべき
と考え得る代替案が無かったことも、道灌の一連の行動の一要因には
なっているのではないのかな。
応仁の乱においても、細川・山名が争った目的は将軍職を目指してい
たからではなかったんだから。
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 01:32:28ID:dRp7qgRg太田道灌はもう少し後まで生きていることが出来たならば・・・、
それこそ早雲らが下克上を行った後なら、その智略から考えても、当然の如く下克上をしてのし上がり、
周辺諸国を従えて、関東の王者としていち早く名乗りをあげる事ができた気がする。
そうなったら敵う者等いただろうか?
築城技術や足軽を統制した野戦技術、この時代の合戦において頭一つ抜けた存在と言う気がする。
まぁ定正は愚かな主だとは思うが、一方で恐れたのも無理も無いという気はする。
城は山城中心で、武士同士の合戦が多かった時代に、
足軽なんていう得体の知れないものを編成し、集団戦術で野戦を行ったり、
堀を作ることで平地に堅固な城を築き上げて、どんどん戦局を有利にしていく姿は
優秀で忠義者の猛将と言うだけでくくるにはあまりに異質すぎる。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 02:56:00ID:SUBkHZ8U今我々が時代の先駆者足るべく行動を起こせと言われても不可能なように、
当時定正が取り得るべき方策も同族上杉を統一し関東を統べるという当たり
前の図式に乗っかっただけだしなぁ。
で、道灌が化け物。>>105さんが指摘してるような点にも顕著だが
上杉という名族の代理という立場を考慮しても、当時の道灌の戦略はありえ
ない。足軽という枠組みを古来因循とした関東に持ち込む、組織化する、統
率する、戦へと駆り立てるということはその一事をもってしても大事件。当
時の関東農民からしてみれば百害あって一利なしの戦争で職として纏め上げ
、当時のどの地域よりも「武士が全てを決しなければならない」場所であった
関東で、それまでの「武士」という概念をぶち壊した事も当時の彼の立場から
してみれば気狂いとしか見れないよねぇ・・・。合理的といえばそれまでなん
だが、彼は異常だよ。
戦・将という観点で見るよりも、指導者として包括的に見るべき人物だと
思う。
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 09:17:10ID:XxGeGj3x出家したけど幕府のたびたびの要請で仕方が無く結城合戦時に復帰するも終わるとまた引退しちゃうし。
この時代あたりから長尾家も力が徐々に蓄えられていったんだろうね。
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 15:28:52ID:x7IhloZM北条・上杉・武田の三大勢力時代はすでに大消耗戦の末期だったのだろう。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 22:17:57ID:XxGeGj3x0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 09:58:28ID:/Ii9H2jj補佐たる関東管領の上杉家自体が鎌倉公方の足利家を凌駕してる。
下克上の可能な状況は関東でいち早く作られているね。
足利公方が信濃国での小笠原家と村上家の争いに介入しようとすれば「信濃は関東管領の管轄外」と関東管領の上杉が軍隊まで出して道を閉鎖し公方の軍を止めてる。
幕府との交戦になるのを恐れての事とは言え、バカ公方を諫めたりと叛意はなかったね。太田道灌なども叛意なし。
関東はそれなりに秩序が守られようと努力してたとも言える。
基本的にはバカ公方が秩序崩壊への災いの種をばらまいてる。
上杉家は山内の長尾家の執事職任命失敗や扇谷の道灌暗殺で権威失墜。
これらが下克上への決定的な引き金になったのかもね。
結城合戦に見られる関東の西と東に別れる勢力図も争い激化に拍車をかけてるね。上杉の影響が強い鎌倉よりも公方が古河に逃げた時の方が頑強なのもうなづける。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 18:13:19ID:kZCoHOH3それに比べ鎌倉公方〜古河公方と変遷しながらしぶとく生き残ってきたね。
旧勢力が生き残るにはそれ相当の才覚がなければ難しかっただろう。
女城主足利氏姫になってから秀吉の斡旋で小弓公方系と政略結婚し喜連川家を立て足利義親を生んでるし。
もっとも実際には氏姫も義親も古河に住み続け下野国には出向いてないようだが・・・。
関が原後に戦勝を祝う使者を派遣して1000石の御加増し4500石。
1万石にも満たず藩になる資格はないのだが家康はかっての将軍家でもあった伝統を重んじ、
10万石の大名並家格と御所と称するのを許したそうな。
ただ家臣も100人に満たず、10万石の格式を保つ出費が重いために藩財政は窮乏。
財政を救うため東北大名、特に伊達藩が参勤交代で通ると宿場前にはいつも御所さまが待っていて通り過ぎたくても宿泊させられたそうな。
費用節約のために一度喜連川を迂回して参勤交代しにいったら御所さまが追ってきて江戸で伊達の殿に嫌味をタラタラと言いにきたとか。
なかなかの営業力で生き残りを果たしたといえよう。まぁ軍師ではないが処世術のうまさでは足利一門随一。
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 18:20:02ID:+uVTd8rn0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 19:10:28ID:p7lxj0Kq0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 20:29:41ID:crpRvp9P上杉主導権争いの関東管領山内上杉と執事長尾(上野守護代・武蔵守護代)と扇谷上杉と執事太田の果てなき争い。
結果的に得したのは
関東の僻地にあたる場所にいた謙信の実父で越後守護代長尾と今川軍を使い沼津より伊豆の足利堀越公方を滅ぼした北条早雲の2人。
関東内乱で権威の失墜に比例して下が上を凌ぐ力を蓄え次第に混迷化。ついには消耗疲弊し周囲の侵略を招き北に南に敵を作る。
鎌倉公方→関東管領→管領執事→伊豆や上越を拠点に関東侵攻をはかる長尾や伊勢に加えて甲州の武田まで真田の先兵で西上野侵攻。
北条→織田(関東管領滝川一益)→北条→豊臣(小田原の役)→徳川
こうしてみると長尾景春は危機的状況になると扇谷の太田道灌が暗殺されたり越後長尾が活発化して山内上杉顕定が越後で戦死したり北条早雲が扇谷上杉の相模国を奪いさらに北に進出する為の重臣離間策などが発覚したりする。
上野・武蔵・相模での長尾景春の謀略による暗躍や遠交近攻策は凄まじいものがある。
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/09(月) 21:33:16ID:X1guzcll0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 02:44:11ID:LgTts6GD長尾景春の反乱に呼応した武蔵の名族豊島一族
練馬城(東京都練馬区)江古田古戦場で敗北(平塚城が道灌に攻められ救援の為に赴き、引き上げ中の道灌と接触して大敗)
→石神井城(東京都練馬区)→平塚城(東京都北区)→小机城(横浜市港北区)と次々に太田道灌により落城。
道灌暗殺の謀略の成功!
上杉禅秀の乱の功績で大森氏が小田原(元々は毛利両川の小早川氏が築城したとか)に封じられていた地を早雲が奪い鎌倉へ進出
してきたあたりで扇谷上杉配下の立場から早雲も反旗を翻しますね(それまでは伊豆守護の山内上杉との対抗上扇谷に属していた)
権現山城 (横浜市神奈川区) 扇谷上杉氏の家臣上田蔵人政盛(相模守護代?上杉禅秀の乱で松山城主として討ち死の一族?小川・東秩父が本領地)が
越後での山内上杉顕定の敗死後に北条早雲に唆され反旗を翻し10日の包囲で落城。太田氏に次ぐナンバー2の上田氏も道灌暗殺に不信感があっての反旗でしょう。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 03:28:10ID:zFdYGJPE結局幕府の追討を受け持氏は死ぬが結城氏朝が遺児を擁立し結城合戦を行い滅亡。結城家を再興した後も古河公方とともに上杉と抗争し衰退。
何で元々鎌倉公方と対立してる京都扶持衆の結城氏が永享の乱などから一環してずっと鎌倉公方支持なんだろう。上杉に対する対抗心からだろうか?
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/10(火) 09:11:39ID:ZIJqTUDg公方監視と将軍への報告を目的とした京都扶持衆でも結城氏は一貫して公方支持だったのかもね。
かつては白河結城(北畠家に従い南朝側)や結城(北朝側)は名門で関東や東北の争乱鎮無に重要な役割を果たしてる。
足利尊氏の母の家系の上杉に対抗心もあったかも。関東管領上杉は将軍と公方の間を調停する役割で公方を諫めてばかりで公方は反発するばかり。
永享の乱後は公方不在で関東管領上杉氏の支配が面白くないだろうし、将軍の兄弟の関東下向にでもなったら上杉の支配がより強化されるので公方の忘れ形見を担ぎ結城合戦になり、各地の本家筋や長男以外の不満分子の糾合となったと思う。
その後は成り上がり北条の北進に対して利根川以北の京都扶持衆は常に古河公方支持で上杉謙信の南下に共同歩調を取ってる(佐竹・宇都宮・里見は小弓公方に共同歩調をとった事もある)。
小田家は佐竹・太田連合との敵対で北条側だな。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/19(木) 23:20:23ID:6f1HunLY信長の時代から耐えて耐えて耐え続けて、ついに天下をとった。
なにより関ヶ原での勝利にもってゆく調略の数々が凄すぎる。
そのせいで関ヶ原の戦いはまさに芸術だったな
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/19(木) 23:25:45ID:J4HB902V0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/01(水) 15:48:08ID:h1MJtyMWもう少し若くて長生きしていれば桶狭間で休息なぞ馬鹿なことをせずに済んだものの
0122上田
2006/11/01(水) 19:39:01ID:0FqDioSs真田昌幸
真田信繁
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/02(木) 15:33:55ID:P4oDjOio十分に策士と呼べるが、信繁はちょっと疑問だ。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/03(金) 07:15:05ID:z2LoZ2ec0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/11(土) 20:12:16ID:Ley3yLVZ0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 09:00:36ID:5HQXZSHT不勉強な俺の為に詳しく
0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 12:16:19ID:2ZFeueqc0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 13:55:31ID:q7k6lJ4A0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/12(日) 14:08:58ID:mIyY8b8c0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 21:51:07ID:MzK8DNew息子達の仲を取り持つグダグダ親父の毛利元就。
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/13(月) 22:34:17ID:tfMZer6k0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/17(金) 21:57:13ID:j2JbglIx小弐家臣。竜造寺家兼の存在に危険を感じて、神代勝利達と談合して一計を案じる。
それによって家兼の一族の大半を註する事に成功したんだが、詰めが甘く肝心の家兼を取り逃がしてしまい、後に居城を攻められて斬首。
主人公をギリギリのところまで追い詰めながらも逆転されて負けちゃった、ていう。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 01:57:40ID:2HbDGddA0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 01:56:20ID:4CbNrLpa0135片倉小十郎
2006/11/22(水) 12:56:47ID:Hxco9OBUttp://shop.gakken.co.jp/shop/order/k_ok/bookdisp.asp?isbn=4056043981
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 15:03:16ID:ktLbbaaa0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 15:13:37ID:0+pWSeqMIDがすげえ
0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 21:16:05ID:JBSh7kP80139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/22(水) 22:36:47ID:U5Ey95vhマジレスすると織田信長が最強の策士
0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/25(土) 17:25:17ID:BXG1pZFv0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/25(土) 20:35:23ID:BXG1pZFv0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/25(土) 21:58:40ID:BXG1pZFv0143名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/25(土) 22:10:09ID:0i76Nfta0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 07:42:43ID:7Xc7fx740145名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 13:25:53ID:7Xc7fx740146名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 13:33:46ID:FTr1kAqY0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 16:18:58ID:7Xc7fx740148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 17:13:28ID:EyerwxPU0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 19:48:11ID:7Xc7fx740150名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/26(日) 21:46:02ID:DauuBzly0151名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/27(月) 21:00:59ID:Gs2LUkYJ0152名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 21:01:32ID:u//AMiF20153名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 21:53:29ID:biiqeR4H0154名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/29(水) 22:03:05ID:aYke/xP3裏の裏を掻いたつもりが、
裏の裏の裏を掻いきそうw
0155名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/30(木) 01:02:27ID:Gq+2xjwoこのスレによく出てくる大物の俺のなんとなくのイメージ
元就→札の裏の裏に飽き足らず横や斜めや中身もしっかり吟味した上でズバリな点をついてきそう。
道三→裏など必要ない表だけで十分な何かを編み出しそう。
如水→表には表裏には裏という筋道を機械のように正確についてきそう。
経久→札ごとあげてしまうがいつの間にか逆らえなくされてそう。
早雲→基本的なルールから変えてきそう。
雪斎→いつのまにか札の出し方まで教わる立場にされてそう。
宗滴→負けただけでなく説教もされそう。
久秀→興味なさそう。
道灌→札とは呼べないような何かを取り出してきそう。
家康→はぐらかされて勝負する前に帰されそう。
為景→負けた場合のリスクがとてつもない賭けをさせられそう。
昌幸→最初勝ってたつもりがいつのまにか負けになってそう。
直家→やる前に刺客に、うわなにsr(ry
0156名無しさん@お腹いっぱい。
2006/12/01(金) 20:23:20ID:D3bsaJHfテムジンのように非情に徹するけどな
弓矢はすべて毒矢
城攻めでは毒や水銀を混入させる
一族郎党女子供はすべて皆殺し
とか
0157名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/01(金) 21:05:47ID:sSXd9nnk誰も付いてこないだろうなw
0158名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/01(金) 21:33:28ID:xGeZLH6u0159名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/01(金) 21:38:25ID:QDPhnYJ5信玄が信濃攻略に手間取った理由も知らんのか。
0161名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/02(土) 02:58:42ID:eVPNnCuz札??
0162名無しさん
2006/12/02(土) 04:35:31ID:+wdLI3Mp0163名無しパート2
2006/12/02(土) 05:10:29ID:+wdLI3Mp0164名無しパート3
2006/12/02(土) 20:07:55ID:+wdLI3Mp0165名無しさん
2006/12/03(日) 03:34:48ID:6Z/W9Ost0166名無しパート2
2006/12/03(日) 16:07:12ID:6Z/W9Ost0167名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/03(日) 17:38:00ID:wusTPb7s本能寺の変は光秀と家康の策略で
光秀が死を装って天海になり徳川と豊臣を討って天下統一
なんてことだったら凄い。
0168名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 00:00:22ID:8IQP9Kqp煽りじゃなく、そういう小説書けば?
トンデモだけど中々面白い説だと思う。
0169名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 00:28:42ID:PMKXjcMX彼がいなかったら秀吉は天下統一できなかった
秀吉の業績のほとんどすべては黒田官兵衛のもの
0170名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 00:37:25ID:EXmZ1XShむしろ秀吉にとっては半兵衛の方が功績は大きい。
0171名無し議論スレにて投票方法審議中
2006/12/04(月) 01:14:00ID:jF38ajoB二人を古代支那の軍師になぞらえた講談逸話のせいで
秀吉自身の指揮能力が過小評価されとる。
両者は美濃、中国経略における水先案内人として招かれ功績を挙げただけ
無論、その後に他の地方攻略でも活躍した有能な武将だったのは確かだが
秀吉の業績はほとんどすべて彼らのおかげだなんてのは言い過ぎ
むしろ講談逸話ではスルーされがちな秀長や
粗野な野盗紛いの描写をされる蜂須賀の方がよほど秀吉にとって重要
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