【上杉】手取川合戦【織田】
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 02:37:37ID:P6BVucuIhttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149761323/l50
前々スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1141658067/
合戦の真否や規模について、引き続き検証していきましょう。
合戦を伝えるとされる謙信の書状[歴代古案89・越佐史料5-397=抜粋]
当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、
如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ
当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候
長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・
平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、
是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、
是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢
為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略)
天正五年九月二十九日
0763人間七七四年
2008/05/25(日) 14:54:12ID:cgl7mVB9戦がド下手なら今川・武田・北条の三国同盟と揚北衆と謙信の祖父が殺された加賀越中一向衆のフルボッコで速攻滅亡してたと思うが…
0764人間七七四年
2008/05/25(日) 16:48:43ID:JtO5aIZatp://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/25
0765人間七七四年
2008/05/25(日) 17:57:11ID:kvc81bbV敵は毒蛙と思って逃げる
謙信の余りのど派手なパフォーマンスで
他大名は強いと錯覚しただけ
0766人間七七四年
2008/05/25(日) 18:00:33ID:JtO5aIZa0767人間七七四年
2008/05/26(月) 06:50:21ID:CnP6Whgp戦も政の一つだしね
戦の中でも取り返しがつかない失策という物がある
敵地深く攻め込むのは良いが、そこで討ち取られてしまったり
自国の足許を鑑みず、戦に次ぐ戦で大赤字
結果として豪族達から見離されてしまったり
あと絶対に失ってはならない重臣を討ち取られてしまうのも駄目
例えば武田信玄における典厩信繁の重要さは
伊達政宗にとっての伊達成実 北条氏康にとっての北条綱成
上杉謙信にとっての直江実綱 毛利元就にとっての小早川隆景、吉川元長
豊臣秀吉にとっての豊臣秀長 島津義久にとっての島津義弘らに相当する
その戦国大名にとって一国以上にも値する人物を討死にさせてしまう・・・
これほどド下手な戦は無い
0768人間七七四年
2008/05/26(月) 18:45:17ID:YCI8cEiF0769人間七七四年
2008/05/27(火) 00:47:07ID:xA6vJt1x0770人間七七四年
2008/05/27(火) 01:22:02ID:tC3WmC6w新発田は諸角を討ち取ってるし・・・偶然じゃないよな
他にも信玄の側に居そうな一門がゴロゴロ討ち取られてる
望月とか油川とか初鹿野とか
諸角だって信虎時代から奮戦してきた武田の生き字引
武田にとっては今川の雪斎、北条の幻庵にも匹敵する重鎮
0771人間七七四年
2008/05/27(火) 01:29:25ID:uMhKXJusこれにひきかえ織田は逃げることばかり考えていたのか。
金ヶ崎でも手取川でも誰も死んでない。
情けないが、賢い。
だからあんだけ敗戦を繰り返しても、がっちり拡張路線を貫けたんだね。
こんな恥ずかしい政権は早々に潰れてよかったよ。
もし日本統一できても、国民は道徳も勇気もない小狡い民族になっていただろうから。
0772人間七七四年
2008/05/27(火) 02:10:40ID:IPSBSxG90773人間七七四年
2008/05/27(火) 02:58:42ID:xA6vJt1xこれ
金ヶ崎
情けない
だからあん
こんな恥ずか
もし日本統一で
0774人間七七四年
2008/05/27(火) 10:15:47ID:u6/OO1Riなかった合戦をネタにどうこう言えんし
0775人間七七四年
2008/05/27(火) 11:31:55ID:2OAVoPssじゃあ上杉も断固戦闘姿勢崩さずに豊臣と運命共にすれば良かったのにね
しかしあれだな
上杉厨も武田にゴマするようになったらお終いだな
落ちるとこまで落ちたな
0776人間七七四年
2008/05/27(火) 13:02:47ID:G2n8qCyG勝てる可能性がない時に戦わない勇気
蛮勇や匹夫の勇は上杉家にはありません。
0777人間七七四年
2008/05/27(火) 14:02:50ID:RGvuCj6P0778人間七七四年
2008/05/27(火) 15:03:55ID:2OAVoPssまぁ…長いもんには巻かれろって事だよ
大坂じゃ随分と頑張ってくれたもんな
な?
0779人間七七四年
2008/05/27(火) 15:10:31ID:G2n8qCyGこれは義将として名高い立花宗茂なんかも同じ。
0780人間七七四年
2008/05/27(火) 15:37:02ID:2OAVoPssそぅそぅ同じ
上杉もみんなと同じ
上杉は何も特別なんかじゃないってこと
0781人間七七四年
2008/05/27(火) 15:54:44ID:G2n8qCyGそして家康も「この義理堅さはいざとなったら信用できる。味方にしたい」と一目置いて伊達牽制の任を与えて米沢に残したわけだ。
味方なのに100万石のお墨付きの詐術に騙され利用されたあげくにたった2万石の隠居料の捨てぶちしか貰えなかった信用ゼロの伊達とは違うな。
0782人間七七四年
2008/05/27(火) 16:05:42ID:2OAVoPss小学校の時のクラスメートを思い出した
太ってる事を指摘されると「○○のほうがデブだもん」
勉強ができない事を指摘されると「△△のほうがバカだもん」
そんな彼の自慢は親戚の叔父さんが社長との事
0783人間七七四年
2008/05/27(火) 16:17:04ID:G2n8qCyGお前が低脳なのはわかったよ
0784人間七七四年
2008/05/27(火) 16:26:11ID:2OAVoPss分かってくれてありがとう
0785人間七七四年
2008/05/27(火) 16:26:30ID:IPSBSxG90786人間七七四年
2008/05/27(火) 19:44:35ID:877n48Vf<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレへ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
0787人間七七四年
2008/06/10(火) 20:32:18ID:8aAh7Twd儒教精神を説くの?江戸期の朱子学を持ち出して伊達厨って最強のバカなの?最大のアホなの?最悪の低脳なの?
0788人間七七四年
2008/06/11(水) 09:01:07ID:it9GZRT40789人間七七四年
2008/06/11(水) 18:52:11ID:nMSf9oQM0790人間七七四年
2008/06/11(水) 20:05:04ID:IsUEIMCr@七尾城の攻略。
A加賀の民衆が織田軍の進軍を妨害し上杉軍に協力。
B織田軍の内部抗争。(柴田と羽柴の確執)
0791人間七七四年
2008/06/11(水) 22:57:24ID:t/WZD6YNって話どっかで聞いた、両者の反りが合わなかったの道理。
0792人間七七四年
2008/06/12(木) 07:00:18ID:dBYXF2ey> 手取川合戦で上杉軍が勝利した理由
手取川だけに絞れば織田軍は退却中で戦闘意欲がなかったのが一番大きな理由だろ。
0793人間七七四年
2008/06/12(木) 08:30:10ID:Dau0HmbO0795人間七七四年
2008/06/12(木) 17:37:48ID:rdxSqt12隠密性と機動力が、織田のそれを凌駕していたということだな。
0796人間七七四年
2008/06/12(木) 19:21:45ID:Kga432+f0797人間七七四年
2008/06/13(金) 23:28:41ID:Xp80ZBza0798人間七七四年
2008/06/15(日) 14:00:14ID:Mf8ykyPU0799人間七七四年
2008/06/15(日) 14:12:05ID:hVImLT7w勝敗の分かれ目はどちらがより謀略に長けているかどうかかな。
0801人間七七四年
2008/06/15(日) 15:51:37ID:VOmd02/Z自軍を指揮すら出来ない無様さ
勝家がこんなザマなので、陣代を急に押し付けられた氏家ト全とその部下達は虐殺された
柴田軍はほうほうの体で大壊走
越前一向一揆でも一門の柴田義宣を討ち取られてる
加賀&越中一向一揆と戦った謙信は終始敵を圧倒
関東から謙信が新庄城に着陣すると、一向宗の戦線は半年で崩壊
加賀一向宗が派遣した大将・杉浦壱岐を富山城から遁走させ
それを追った上杉軍はさらに神通川以西へと侵攻開始
この間、上杉家の重臣・豪族は誰一人討ち取られてない
0802人間七七四年
2008/06/15(日) 16:11:07ID:hVImLT7w偏った主観はやめておいた方がいいよ。
謙信が都合の悪いことは隠蔽し、
勝家だけ卑下するのはいかがなものかと?
もっと公平に書いた方が議論もできるがその内容では無理だ。
0803人間七七四年
2008/06/15(日) 16:17:26ID:snqfAHyk一向衆との戦いは概ね間違ってないように思うけど…
0804人間七七四年
2008/06/15(日) 16:31:19ID:hVImLT7wじゃあこう書けば分かるかな?
合戦の内容ではなく謙信の良いところばかりしか書かないのは何故?
謙信の良いところを書くなら勝家の良いところも書け。
勝家の悪いところを書くなら謙信の悪いところも書け。
公平さを欠いたレスには何の魅力を感じないということ。
0805人間七七四年
2008/06/15(日) 16:37:21ID:snqfAHyk反論があるなら
お前が書けばいいじゃないか。
おかしくないからおかしくないと書いたんだ。
何も具体的内容を書かずにおかしいと主張する方がおかしい。
0806人間七七四年
2008/06/15(日) 16:49:29ID:hVImLT7w具体的も何も公平さに欠けると言っているだけですが。
大勝した謙信の合戦と敗退した勝家の合戦を比べるのは偏っていないとでも君は言うのかい?
何を熱くなっている?
レス>>801は君ではないでしょう?
不毛な戦いはやめてくれ。
0807人間七七四年
2008/06/15(日) 16:57:56ID:snqfAHykつまり越中戦線について無知で具体例もあげられないが
織田厨だから感情で不公平だと言ってるだけなんだろ?
0808人間七七四年
2008/06/15(日) 17:04:20ID:hVImLT7w君と議論する気は無いよ。
勿論、荒らしの仲間になるつもりもない。
別に織田厨でも上杉厨でもないしな。
荒らしたいなら一人で荒れて下さい。
0809人間七七四年
2008/06/15(日) 17:08:18ID:zFrx5hdT結局はひいき合戦になって荒れるから。
どちらも強さの実態や戦術戦略への思想など、完全にわからないんだから、
比較などできるはずがない。
あえて勝家を擁護するなら、信長の犬として言われるままに動かなければいけないし、
与力は彼の家来ではなく、その行動選択肢や動員能力は狭められるため、謙信と戦うには圧倒的に不利だろう。
0810人間七七四年
2008/06/15(日) 17:30:05ID:Y/mcTta0越前はともかく長島は勝家というより織田軍全体の問題の気もするがな
0811人間七七四年
2008/06/15(日) 18:11:26ID:mF2LFvVX逃げやがった後か。ツマンネ
0813人間七七四年
2008/06/15(日) 19:10:08ID:XSnauA8J0814人間七七四年
2008/06/15(日) 21:36:41ID:VOmd02/Zそれじゃ
>>801に匹敵する「謙信が都合の悪いこと」を挙げてみたら?
まず
@ 御大将である謙信自身 or 筆頭家老が重傷を負う
A そのせいで采配を振るえない
B 部下に采を投げ出した結果、その部下は戦死
C だけに留まらず、兵も多く殺され、全軍崩壊
D 一揆衆に一門を討ち取られる
きちんと史料名も提示してくれ
ちなみに>>801は信長公記と大野郡誌
0815人間七七四年
2008/06/15(日) 23:38:26ID:hVImLT7w何か勘違いしているみたいだが合戦の内容について否定しているつもりはないよ。
むしろその通りだろう。
私が言っていることは勝家の功績を無視して謙信の勝ち戦だけ書いても無意味ということ。
そこに不公正さを感じただけ。
勝家の勝ち戦を知らないわけでもないだろうに。(本気で知らないというならその時は謝るよ)
君が書いた謙信のことは既に知っていますから別に書かなくてもいいよ。
0816人間七七四年
2008/06/16(月) 01:02:33ID:06NTIZ3Bそれが織田にとっては帰ってる最中にちょっとやられた、程度のもので、
謙信にとっては大勝・戦のつもりだった、というお互いやや都合よく誇張、解釈した、というのが一番ありそうだ
しかし陰謀論をとるなら後に天下人となった秀吉が、自分の敗戦、もしくは内輪もめのみっともなさを隠すために
あえて信長公記に詳しく書かなかった、とも考えられるかもね
信長にとっては遠くでなにやってんだあいつら・・という感じだったろう
0817人間七七四年
2008/06/16(月) 02:53:50ID:MeRaPcrP上杉だけでなく、本願寺が加賀の国人へ宛てた感状まで残ってるから
両軍の衝突は疑いようが無いと思うけどね
死者数も歴代古案の書状内容が示す通り、相当多かったように感じる
手取川の後、柴田の縁戚が越前一向宗に討たれるが、
これは供の者を手取川で数多く失い、柴田軍そのものが損耗していた結果では
一族を討たれるにしては、あまりにもタイミングが合い過ぎてるし
それまでの柴田軍にしてはあっけない
信長があれだけの陣容を七尾城へ派遣したという意図は
能登における織田勢力(長一族)の保持
出来れば能登で謙信を食い止めたい、最悪加賀へは入国させたくない、って証拠だよね
その防衛ラインは大きく後退して
しかも手取川の合戦によって、謙信に加賀一向宗を取り込まれ、これを被官化され、
加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった
それに播磨戦線で活躍するメンバーと手取川のメンバーは相当被ってる
再び謙信が加賀に現れる事を思えば「遠くでなにやってんだあいつら」どころじゃない
中国征伐が崩壊しかねない状況に信長は負い込まれてる
0818人間七七四年
2008/06/16(月) 05:52:21ID:ymLn/Tsbきた油断の結果だと思うがね。
おそらく柴田の縁戚が死んだのは事実なんだろうが、それをもって越前が荒れたとも言えない。
それほど大規模な蜂起だったのならもっと記録に残るだろうし、当然、そんな規模の一揆を
鎮圧するのならやはりその軍事活動は記録に残るだろう。それがないってのは、それこそ
一城の問題でしかないってことだろう。呼応して蜂起して他の城を攻撃したなんて記録もない
しな。
>能登における織田勢力(長一族)の保持
能登における織田勢力なんて当時はない。長一族から救援を請われるまでは。
>加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった
これも一次資料では確認できない。
そりゃ一部が背いたとかいう記録はあるが、それだけで全体がそうだったなんて看做すことも
できない。
ついでにいうと手取川の織田軍は当時としては主力でもなんでもない。参加者がのちみな一国
以上を差配する大大名に成長するので後世から見ると誤解してしまうが、当時はみな精々数郡
程度の所領しかもたない。勝家ですら越前八郡。
その勝家も、軍団序列で言ったら信長、信忠、佐久間に次ぐ四番手。
「織田のオールスターを破った軍神謙信!」なんて、後世の誤認と誤解から生じた講談の話。
そもそも播磨戦線に入った信忠軍には、たしかに手取川参加者も入っているが、それは信忠軍の
一部の話で。これも、一部だけを取り上げてさも全体がそうなように言っているよな。
0819人間七七四年
2008/06/16(月) 08:46:19ID:2s7aFOHT勝家や秀吉以上の精鋭なのかい。
0820人間七七四年
2008/06/16(月) 13:06:19ID:dHFkq6vz0821人間七七四年
2008/06/16(月) 13:50:41ID:hpkQh2eS特に稲葉一鉄
美濃三人衆は信忠付きだったそうだけど
同時に信長の直臣でもあったらしい
一鉄が挙げた戦果を考慮すると、
稲葉自身の兵プラス、信長=信忠の兵も与えられてたんじゃないかなぁ
信長は謙信死去を知ると、すぐさま飛騨口から越中へ斎藤新五を送ってる
斎藤新五の石高じゃこれほどの軍事行動は不可能
やっぱ信長=信忠直属の兵を分け与えられていたとしか思えない
0822人間七七四年
2008/06/16(月) 22:50:14ID:ih9e/gYj壊滅していからそんな大規模の反抗は出来なかったのかもね。
でも 残党が蠢動できるくらい織田はやられたんじゃないかな?
0823人間七七四年
2008/06/16(月) 23:44:30ID:3GMBuyJR0824人間七七四年
2008/06/17(火) 02:37:10ID:WJx76FWx>加賀南部も大荒れ、越前北庄にまで迫る勢いを謙信に与えてしまった
そんな好条件でも加賀南部に手をつけない謙信って愚将ですね。
君の説明ではこういう解釈になりますがこれでいいの?
0826人間七七四年
2008/06/17(火) 03:30:57ID:WJx76FWx少しは捻って欲しかったな。
0827人間七七四年
2008/06/17(火) 04:42:53ID:TGKTrFJZ能登の仕置きが終わったら12月で雪が心配だから。
0828人間七七四年
2008/06/17(火) 05:44:07ID:rlXS4XLa「柴田義宣が敗死したのは油断していたからだ」
なんて主張は、あまりにも根拠が無さ過ぎる
前後に傍証出来そうな事実関係すらない
一次にも二次にも軍記物からも参考に出来る物が無い、ただの作り話
「油断」の理由に挙げられているのが
「越前一向一揆はすでに壊滅しているという認識」を窺わせる史料なんてどこにある?
ただ単に空想に空想を重ねてるだけ
手取川合戦の約一月後に展開された、この上野郡の反抗は
翌天正6年の春まで柴田軍は鎮圧できない
本庄繁長の乱を髣髴とさせる大きな抵抗だよね(繁長は一門衆など討ち取ってないけど)
仮に同年3月に謙信が死なず、末森城〜松任城に置かれた上杉勢力の動き次第では
さらに長引いていた可能性だって充分、考えられる
まして越前九頭龍川一帯には依然として一向一揆衆が蟠踞していた
これを柴田が制圧出来たのは天正七年(手取川合戦は天正5年九月)
>軍事活動は記録に残るだろう。それがないってのは
柴田にとって都合が悪いって事だよ
それに大きな事柄であっても、記録や史料が残されて無いなんて、この時代山ほど有る
残された史料が全てだとは思われて無い
0829人間七七四年
2008/06/17(火) 05:46:16ID:rlXS4XLa>能登における織田勢力なんて当時はない。長一族から救援を請われるまでは。
謙信が再び七尾攻めに来襲し、長連竜が城を脱け出して安土へ救援要請に赴くが、
それ以前から長綱連は弟・連竜に信長への言上を勤めさせている
この時点で間違いなく織田勢力
七尾城攻防戦を説明してる本も大抵は、この頃の長氏を親信長派・織田派と表現してる
これが織田勢力でないなら永禄〜元亀年間の簗田・太田らも上杉勢力とは呼べないのか?
んなバカな
この長氏が何の後ろ盾も無く、いきなり強大な上杉氏に反抗するのは不自然過ぎるので
以前から長氏と織田家は連絡を取り合っていたのではないか
と考える歴史家まで居る
>これも一次資料では確認できない。
信長公記は二次史料だけど、それには加賀南部に放火する柴田軍が書かれてる
天正五年の手取川合戦時には加賀南部を中心に〜加賀北部にかけて放火
天正七年にも加賀南部を広範囲(本折〜小松〜安宅)に放火、さらに刈田狼藉
天正八年も相変わらず加賀南部の同地域に放火
自領に放火しまくる柴田は、この加賀南部を掌握出来てない
領主と一揆衆とが反目し合う一帯を、大荒れと言わずして、何だと言うのか
刈田狼藉という行為が持つ意味からも
それを行わねばならない対象が、加賀南部一帯に広く存在していたという証拠
その対象〜つまり織田軍にとっての敵対勢力だが、彼らが手取川合戦と無縁だとは思えない
0830人間七七四年
2008/06/17(火) 05:48:02ID:rlXS4XLa>当時はみな精々数郡程度の所領しかもたない。
国は数郡で構成されてるから
北近江三郡、北勢五郡、越前、若狭、佐和山周辺これだけでも100万石
実高は100万石を越えてる
さらに西美濃三人衆が居る事からも、信長の決意の程が知れるだろう
この七尾城後詰めに派遣された諸将〜柴田、丹羽、滝川、羽柴、稲葉、安藤らだが
彼らを超える武功を挙げた武将は極一部だし、
重要な戦歴を経た武将も、織田家臣団では非常に限られてくる
中でも丹羽は、前年天正四年には安土城総奉行を任されている人物
それまでも織田家の重鎮として限られた出来事に、殆ど登場している(蘭奢待切り取りなど)
柴田・佐久間と共に織田家の中枢を担っていた存在
信長が彼らを主力として扱っているのは紛れも無い事実
>>827
そうかね
加賀南部〜越前が天正7〜8年まで不安定&荒れてる状態だから、兵を休ませる余裕は有っただろ
越後を発してから七尾城&その支城群>末森城>手取川と長期間戦が続いて、将兵も疲れていた筈
攻略して間も無い能登支配の確立(分国法の制定、家臣の配置)や
手取川合戦の結果、新たに得た家臣団〜所謂加賀衆らの掌握など
地元の協力が得られる加賀南部の制圧以前に
謙信が果たすべき政務は幾らでも有ったという、それだけの話
0831人間七七四年
2008/06/17(火) 06:19:50ID:ba7tlqjl0832人間七七四年
2008/06/17(火) 12:41:10ID:uyrbcNC/>柴田にとって都合が悪いって事だよ
それも都合のいい空想じゃないの?織田家関連の史料だけが世に残るわけでもないのに。
>>829
現状に残されている史料を見ると、長氏は武田家と誼を通じている。つまり長氏は、武田
および本願寺の後ろ盾をもって、能登国内で上杉およびその与党と抗争していた。
それが長篠の敗戦によって武田の勢力が北陸でも後退し、結果武田の援助がなくなった長氏の
支配力が衰えて能登国内に騒乱が始まる。ここに天正四年から上杉による能登侵攻が開始。
さらに本願寺が上杉と結んだことで、加賀能登の一向一揆も上杉よりになり、すべての後ろ
盾を失ったが長氏がようやく天正五年八月になってから、初めて信長に使者をだし、服属の
替わりの援軍を要請することになった。
>>830
信長の決意がどうこうといっているんじゃない。参加者のメンバーとその所領から推測される
軍勢の規模を考えると、当時の織田家のオールスターなんてとてもいえない、といっている。
>北近江三郡、北勢五郡、越前、若狭、佐和山周辺これだけでも100万石
ところで当時の織田家の領土が、これ以外にどれほどあったかご存知ですか?
領域でいったら精々が五分の一。それが織田家主力軍、オールスターなんですか?
ついでに、丹羽は織田家の重要人物ですが、軍事的にはほとんど中枢に関わったことのない
人物です。政権の重要人物必ずしも軍事でも重要とはなりませんよ。
0833人間七七四年
2008/06/17(火) 13:41:41ID:ssujtoUYhttp://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/i
0834人間七七四年
2008/06/17(火) 15:49:03ID:ba7tlqjl> >北近江三郡、北勢五郡、越前、若狭、佐和山周辺これだけでも100万石
> ところで当時の織田家の領土が、これ以外にどれほどあったかご存知ですか?
すると織田の主力だけじゃなくて全軍を投入すべきだったと?
それとも四面楚歌の織田家にはあれ以上投入する余裕があったということですか?
北陸方面の柴田に、別方面長官となる羽柴や丹羽がついてて主力じゃないなら何なのかと。
丹羽は軍事的に中枢にないといっても後に四国担当となってないです?
政治的に重要ならなおのこと与力に加える意気込みが感じられません?
柴田羽柴に至っては織田が他国を切り取る頃から、織田家が崩壊してもその勢力を分け合って抗争したトップでしょう。
> さらに本願寺が上杉と結んだことで、加賀能登の一向一揆も上杉よりになり、すべての後ろ
> 盾を失ったが長氏がようやく天正五年八月になってから、初めて信長に使者をだし、服属の
> 替わりの援軍を要請することになった。
それまで上杉が近づくことを指を加えてみていたほど行き当たりばったりだったら、七尾も安土も無能揃い。
両者とも戦う前から上杉に負けている。手取川合戦が追撃戦からはじまったのも納得となりますね。
逃げ足の早い織田さんですから、金ヶ崎の時みたいに将は死ななかったようですが。
0835人間七七四年
2008/06/17(火) 15:50:11ID:ba7tlqjl訂正。
> 柴田羽柴に至っては織田が他国を切り取る頃から、
柴田羽柴に至っては織田が他国を切り取る頃から活躍し続けて、
0836人間七七四年
2008/06/17(火) 17:43:14ID:ssujtoUY初めて信長に使者をだし←こういうのって違和感あるのよ。
絶対的に無理がある。
長氏はボンクラ揃いか?w
0837人間七七四年
2008/06/17(火) 20:40:23ID:uyrbcNC/後の地位、で説明されてもまったく意味がない。その当時の地位で論じてくれ。
羽柴も丹羽も後には方面軍へと成長するが、手取川当時の所領と軍規模は一武将
レベル。たしかに数ある武将達の中ではトップクラスなものたちではあるが、それ
でも最高を独占ってわけでもない。
柴田も同じ。当時の信長家臣のトップは佐久間。その他にも短期間だが三カ国の
差配を委ねられた原田や所領面ではもっとも早く一国一識支配を信長から任された
荒木など、柴田を一時期でも抜いた武将はいる。柴田が家臣トップと看做される
ようになるのは、佐久間追放以降。
>それまで上杉が近づくことを指を加えてみていたほど行き当たりばったりだったら、七尾も安土も無能揃い
& >>836
当時織田は上杉とはなるべく敵対しないよう気を配っていた。同盟も正式にはまだ
破られていなかった。そして北陸軍の敵はあくまで加賀一向一揆だった。
まあ謙信もすでに本願寺や武田と結んでいるので、あとはいつどこで開戦するかの
秒読み状態だったが。
そして、能登の長氏はあくまで長年武田と結んできた勢力だった。言い換えれば織田
とは直接敵対しなくとも、敵対する陣営の勢力だった。
こういった背景を無視して語られても。
0838人間七七四年
2008/06/17(火) 20:56:47ID:uyrbcNC/当時の織田家の領域
三河の一部、尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、大和、摂津の大部分、河内、和泉、
山城、越前、若狭。(丹波の国境沿い、加賀南部、播磨は扱いが不明なので除く)
太閤検地での石高、約450万1千
手取川参加武将と所領(羽柴を除く)
柴田勝家、府中三人衆(前田、佐々、不破)、武藤舜秀:越前一国
丹羽長秀:若狭一国(近江の所領は不明。柴田の前例に鑑みれば、収公済みか?)
滝川一益:伊勢五郡
西美濃三人衆:西美濃数郡
滝川や美濃三人衆がどれほどか不明だが、それぞれを四割、二割で計算すると、
合計石高94万石ほど。
0839人間七七四年
2008/06/17(火) 21:49:49ID:AH3vYHB3信長は信玄戦の援軍に出した時の失態を忘れていなかったし。
肝心なときに逃げ崩れを招きかねない二軍選手が、
惰性で家中最高位にいたとしか判断できない。
丹羽は政治担当と言うが地位だけの佐久間もさして変わらないだろ。
後の序列は参考にならないと言うが、
ではなぜ彼らは手取で失態を見せたのに、
佐久間と違って追放もされず、方面軍を担当出来るようになったのか。
普通に考えれば長年その実力を認められて来たわけだろ。
それとも信長はボンクラばかり集めて、
勇名高い謙信に更なる伝説を与えたかったとか、
三文小説や蒼天航路みたいな話になるのか?
0840人間七七四年
2008/06/17(火) 22:10:11ID:ZTcCuTBy佐久間は原田亡き後の本願寺相手の総指揮官だぞ、おい
信玄戦の援軍云々は折檻状の事だと思うが言いがかりだろ。同じ立場の滝川はどうなる
他の十八箇条もかなり難癖付けてると思われる部分が多いぞ
逃げ崩れとか言ってるが「退き佐久間」の異名をどう考える
丹羽は近江以降の軍事行動では四国攻めの副官まで方面軍は持たずに援軍で出てるだけ
馬揃えや安土築城などに手腕を発揮してる
荒木や原田が去った後、一種の方面軍とも言える本願寺攻めを担当した事実を無視しておいて
佐久間を地位だけの盆暗などとはよく言えた物だな
明智だって丹波で敗退してるし、羽柴は戦線放棄してる
普通に考えれば羽柴は手取で負けた柴田その他の連中より罪が重いが方面軍を指揮してる
これについてはどう考えるのだ?
0841人間七七四年
2008/06/17(火) 22:31:00ID:dd+P79ib史料名わすれたけど信盛追放直前の序列は一番勝家で信盛五番目くらいだったと記憶。
七副将とか八画九爪とか名称があって書かれている順番が身分順らしい
本能寺前の書だす
0842人間七七四年
2008/06/17(火) 22:58:55ID:AH3vYHB3後世から見る客観的な佐久間の評価じゃなくて、
当時の信長の評価ね。
折檻状にある通り、実力を買われていなかったと目され、
そういう人物が一人いないだけで、
手取川部隊は主力じゃないと主張するのはムリがあると言いたいんだよ。
0843人間七七四年
2008/06/17(火) 23:06:37ID:AH3vYHB3手取川で大きな被害があったとする以外に適当な理由がない。
それを、信長は本気じゃなかったとか主力じゃないなどとする理由に、
佐久間や信忠が不在と言うんじゃ話にならない。
織田がどれだけの石高を持っていたか詳細に書いてくれているが、
それで何が言いたいのかもわからない。
0844人間七七四年
2008/06/17(火) 23:20:00ID:ZTcCuTByいや、だから・・・
信玄相手で失態を犯したと本気で思ってるのなら、何でそのまま本願寺攻めを任せたのかと
五年後に塙(原田)直正が死亡した時に総指揮官にするはずがなかろうと思うがな
結局解任されるわけだけど手取川の三年後の話だしな
さすがに佐久間が居ないから主力じゃないってのは俺もどうかと思うが
それはむしろ佐久間が畿内で一向宗の本拠を相手していたからだろうに
そこから主力じゃない〜と持って行くのは違うだろ、と
>>834の言う「動員可能な主力」って表現が正しいんだろうと思う
方々に睨みの効くそれなりの人物を派遣して、その上朝廷との折衝や政治にも人員を割いてるわけだから
柴田や西美濃衆、羽柴を派遣してるってのは相当頑張って集めた兵力じゃないかな
0845人間七七四年
2008/06/17(火) 23:26:30ID:uyrbcNC/言っていませんよ。
ただ、「織田軍のオールスター」などでは決して無い、と言っているんです。
手取川の勝利で謙信は信長をこてんぱんにした、とか謙信からしたら織田なんて
たいしたことない、なんて主張に対しての反論としてあげました。
0846人間七七四年
2008/06/17(火) 23:30:04ID:AH3vYHB3少し佐久間を馬鹿にし過ぎた。
反省はしてる。
せっかく集めた兵なのに羽柴は離脱して、
それでもお咎めなく中国筋を任せられるんだから、
信長の人事方針はわからんけどw
0847人間七七四年
2008/06/17(火) 23:37:57ID:ZTcCuTBy俺もちょっと熱くなった。スマンかった
反省する
それにしても、あれだけ兵力集めて何故あっさり後退したんだろうか
小競り合い程度なら被害が大きかったとも思えないんだがな
どこかで夜襲があったとか聞いた記憶もあるんだがイマイチはっきりしない
0848人間七七四年
2008/06/18(水) 02:19:45ID:WHj9IHp0柴田勝家、佐々、前田、不破、原、金森、丹羽、滝川、西美濃衆、武藤、斎藤など
信貴山合戦従軍リスト
織田信忠、佐久間信盛、丹羽、滝川、羽柴、明智、細川、筒井など
蜂屋、河尻、池田、荒木、若江衆、三好らの従軍は不明。
0849人間七七四年
2008/06/18(水) 06:44:02ID:B7oYZA9i> それにしても、あれだけ兵力集めて何故あっさり後退したんだろうか
・七尾城が開城したこと。
・北上はしたものの加賀は相変わらず敵地。
この状況であえて戦うのはあまり得策とは思えない。
0850人間七七四年
2008/06/18(水) 09:09:16ID:kYVSipFu0851人間七七四年
2008/06/18(水) 09:56:53ID:dSxww367信貴山に羽柴は参加してたっけ?
>>850
七尾城を救うために戦うつもりだったが、救援が間に合わなかったのなら、戦う意味がない。
七尾城が健在なら上杉軍と戦って撃退すればいいだけの話だが、七尾城が陥落して敵のもの
になってしまっていては、上杉軍を撃退するだけではすまされない。まず城を攻撃して落とし、
さらに周辺地域を平定し、畠山氏だから長氏だかによる再支配が安定するまで活動を続ける
必要が生じる。
ただ戦うためだけの作戦と、平定まで考えた作戦では軍からして異なってくる。
柴田軍にそれをやれっていうほうがよほど無茶で、国費と時間と兵の無駄だ。
0852人間七七四年
2008/06/18(水) 12:38:38ID:ZXez6TPX気合い入れて買い物行ったら売り切れでした
折角来たんだしって言って欲しくもない物買いますか?
時間と交通費無駄になったけど変なの買って後悔したくないから他所行くわ
が合理的な思考だから何らおかしくない
0853人間七七四年
2008/06/18(水) 12:55:27ID:6Kw3OuE+負けてないなら戦線を維持するべきで過度に大幅な後退は有り得ない。
これは天下布武路線の他の織田戦線に前例がない後退劇で異例としか思えない。
しかも編成を考えたら決戦志向の軍だよね。これでうまくいったら信長もやってくるような編成。
信長の戦争感でも不利であっても負けてもいいから一度は戦えってかねがね発言してるし。
0854人間七七四年
2008/06/18(水) 17:02:15ID:z3mEX5vZ後にも先にもなかったね。
0855人間七七四年
2008/06/18(水) 18:14:50ID:fu8mvJ6t長氏だっていろいろな方面に外交チャンネルが昔からあっただろうし
信長との外交チャンネルは奥羽の大名だってあったんだから
河内畠山氏に連なる外交として七尾城が落城寸前になるまで
織田との外交がなかったなんて常識的におかしい。
0857人間七七四年
2008/06/18(水) 19:00:19ID:fu8mvJ6t今まで挨拶もしてなかったのに一方的に要求するのは
不躾で失礼だと思うが落城寸前になったから
謙信にやられそうだからすぐ援軍出せ→信長「はい!わかりました。柴田や丹羽や秀吉を出します」の方がおかしい。
0858人間七七四年
2008/06/18(水) 19:15:46ID:BFYLfC/3各地から集め加賀まで引っ張って来た兵力をそのまま帰すのはあまりにも無駄が大きすぎると思うが
七尾が落ちた事で後詰めの意味こそ失ったが、それと戦線の維持とはまた別問題
むしろ落ちたからこそ国境の守備を整えてから退くべきではないのか
理想は加賀北部の制圧だろうが、最低でも大聖寺周辺で軍事行動が在るべきだと思うんだが
>>852
大規模な兵力を集めそのまま後退する事と莫大な戦費や物資の無駄が生じる
合理性で言ったらそのまま帰るという選択はかなり厳しい
おまけに下手すれば「上杉と戦うのが怖く、臆病風に吹かれた」という風聞まで起きかねない
実際のとこ夜襲で輜重隊でも襲われたか何かで後退せざるを得なくなったんじゃないかと思う
いくらなんでも不自然すぎる
0859人間七七四年
2008/06/18(水) 19:25:39ID:fu8mvJ6t引かないと面目に関わるだろ。
評判とかあるし
それを一目散に逃げたように見える行軍するかねぇ?
0860人間七七四年
2008/06/18(水) 19:30:59ID:WHj9IHp0>それにしても、あれだけ兵力集めて何故あっさり後退したんだろうか
信長の指示が最初から出ていたのでは?
七尾城救援が間に合わない場合は撤収とか。
この軍事行動は七尾城の後詰が目的ですからね。
それにいつまでも加賀に丹羽、滝川、西美濃衆、武藤、斎藤を置いておくわけにもいかないし。
0861人間七七四年
2008/06/18(水) 19:51:37ID:fu8mvJ6t0863人間七七四年
2008/06/18(水) 20:59:05ID:ZXez6TPX歴史が証明しているように、どっかの龍虎みたいに泥沼で駒と時間を無駄にすることこそ非合理的
財政面でいうなら動員の無駄で済ませるか動員+維持の無駄まで支払うか
どっちが損が少ないかなんて馬鹿でも解る
先物で破産する人間の思考だな
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