【上杉】手取川合戦【織田】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 02:37:37ID:P6BVucuIhttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1149761323/l50
前々スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1141658067/
合戦の真否や規模について、引き続き検証していきましょう。
合戦を伝えるとされる謙信の書状[歴代古案89・越佐史料5-397=抜粋]
当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、
如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ
当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候
長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・
平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、
是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、
是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢
為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略)
天正五年九月二十九日
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 02:41:58ID:P6BVucuIこちらの合戦の状況を知りたいとのことで、内々に使者を寄越されましたが、
こちらは戦が長引いています。先に使わした書状(9月15日付の北条高広父子宛)
のとおり、今月十五日に遊佐美濃守の年来の忠義もあって、わが軍を城内に引き入れる
ことに成功し、わずか一日で七尾城を制圧し、城主の長対馬ら一族百余人を討取り、
本丸を占拠しました。温井備中、三宅備後、内藤ら畠山家臣の命は助けました。七尾城
が手に入りましたので、十七日に末森城を攻めてここも入手しました。末森城は加賀と
能登の国境にある城です。源五殿(山浦国清)と斎藤龍(朝信)をここに置き、能登を
わが分国に変えることを申し付けましたが、信長は一向にこれを知らない様子で、
十八日に加賀湊川(手取川)まで来ました。数万騎の軍勢が陣取っているところに、
越後・越中・能登の諸軍勢を先陣として差し向け、私も馬に乗って出撃したところ、
信長も私の後詰を知ったらしい。二十三日の夜中に敗走しているところを追撃し、
千人余を討取り、残る者たちはことごとく川へ追い込みました。ちょうど洪水で川は
水かさが高く、立っている浅瀬もないので、人馬が押し流され何も残らない有様でした。
(このあと、信長は意外に弱かったよ。この分なら上洛も簡単だよ。二十六日に七尾城の普請を
はじめたが、ここから眺める七尾湾の風景は素晴らしいよ。などとつづく)
天正五年九月二十九日
※文中の9月15日付の書状にも、加賀で織田勢が敗北した記述がある。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 03:46:43ID:BlNgUoa20004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 04:39:20ID:zb2GuJkF0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:37:58ID:P6BVucuI>織田勢の人数は諸説ある。
>「数万騎陣取候」(謙信書状)
>「兵四万八千に」(北越軍記・武田三代軍記・日本外史)
>柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤新五、氏家直通、
>安藤守就、稲葉一鉄、不破光治、前田利家、佐々成政、原長頼、
>金森長近および若狭衆
>こいつらは、何人動員できるのだ?
>そのメンバーで、単独で一万の軍勢を持てたのは柴田と羽柴のみ。丹羽、滝川は
>当時はまだ遊撃軍。前田や佐々はもともと柴田軍としてカウント。
>そしてこの時期の信長と信忠は北陸には軍を出していない。
>最大限見積もっても三万超えるかってところかね。羽柴軍離脱後はさらに激減。
※上杉軍は書状原文(関東衆は不参加)から考えて
>両越・能之諸軍勢
越後・越中・能登の合計で2万5千〜3万程度?
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:46:34ID:uQoYMef+手取川以北と以南で勢力を分け合ったまま
本当にあったか怪しい合戦だけど、あったとしても意義が薄い
謙信が織田軍に勝った!という宣伝効果ぐらいしか(それも信長本人に勝ったわけではない。信長がいたという誤伝があるようだが…)
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:54:59ID:P6BVucuI・織田信長にとっては、(柴田の)加賀侵攻が天正8年まで(3年)遅れる。
・松永久秀が謙信再上洛を見越して信貴山蜂起。
・織田軍では、秀吉が無断離脱(以後の謀反を誘発した説・秋山駿氏)
・越中魚津城陥落は天正10年6月(本能寺の変の翌日)で、結果的に織田軍は越後国境に近づけず。
こんなところか?
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 09:44:51ID:r1AJijJjその後の織田軍の侵攻速度に、大きな差がある。
謙信死亡−本能寺の変までの期間で、
織田軍が越後まで侵攻できなかったので、
手取川合戦は戦略的には大きな意義があったと考えられる。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 11:04:35ID:UODMP0h+0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 16:26:55ID:qbmmhAekなぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています