長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70771人間七七四年
2008/10/08(水) 19:57:54ID:WxqACmyq大砲による大口径化でなく、銃でいえば、
弾を球形でなく、いわゆる砲弾型にして、銃身にライフリングをきざんで
強制的に回転運動させなければならない。
(てるてる坊主型の弾という案もあるが、さほど命中率がよくない。)
当時の日本の工作技術では難問。なにしろネジ1本でさえも、大まかに
形をととのえた後、ネジの回転溝はヤスリでいちいち仕上げたそうだから。
0772人間七七四年
2008/10/08(水) 20:37:34ID:SY3Gov73まあ、狙って当たる射程50mってのは同意だからいいんだ。
でも、遠くからも撃ってるのは撃ってるようだ。威嚇程度だろうが。
13mってのがどうだろう?って話なだけ。
間近くおつつめたらば、左右へ分て、鑓の勝負を始むべしとあるから、
あんまり近くで撃つと槍を取る暇がないっていう事情もある。
0773人間七七四年
2008/10/08(水) 20:53:46ID:lualHdoh0775人間七七四年
2008/10/08(水) 21:34:55ID:WxqACmyq東大寺の金剛力士像に、火縄銃の弾が当たっていたことが、
分解修理のときに判明して、数年前、新聞記事になったことがある。
本体の木への鉛玉の突き刺さり具合と、穴の角度では、ななめ上方から当たっていることから、
数百メートル先から撃たれたと判明。
金剛力士像は大型とはいえ、威嚇用として寺院内に撃ち込んだのだろう。
13mってのは、何かの誤りだろう。近すぎるな。
0777人間七七四年
2008/10/08(水) 21:59:12ID:XQ3UKTGB最低30メートル射撃でも充分に効果があると思います。
0778人間七七四年
2008/10/10(金) 21:06:20ID:KH4KTkRx近的場
射位(射手)から的までの距離が28m、通常は直径が一尺二寸(36cm)の的を
置く。的場には矢が痛まないよう土が斜めに盛ってあり、これを安土(あづち)
という。中学校〜大学、公設道場から私設道場まで殆どの弓道場がこれで、
通常の稽古は近的道場で行う。
弓の「近的場」でさえ28mなのだから、鉄砲はそれよりも有効射程が長いだろうから、
30メートルということはないだろう。動く対象なら、30メートルでも当たらないかもしれないが。
0779人間七七四年
2008/10/10(金) 23:10:20ID:50368HPFいちお13m以内(4、5歩)くらいで射撃→切り込みは、関ヶ原の島津軍がやってる(>>630)
数十年後のことだけど、”敵の突撃の勢いを銃撃で止めて切り込む”戦況だから、
武田軍が守備体制の織田徳川軍に突撃した長篠と状況は似てるんじゃないかと。
ただ、兜首は武田軍突撃時よりも、その後の追撃戦(銃が使われにくい)であげられてるから、
有効射程(50m程度)の銃撃で突撃を撃ち挫だいた可能性も大きいとは思う。
ただこれは、武田軍の突撃がどうだか、で決まると思うし、そういうのは軍法の問題だと思うけど、
それを引き継いだはずの徳川軍には敵の柵から100m以上もの離れたところからバンザイ突撃した例がないので…
おいら的には、他の戦のようにススキや小山に隠れて柵に接近して、30mくらいから歓声を上げて突撃したんじゃないかなぁ、と勝手に思ってる。
これなら↑の、13mくらいで指揮官狙撃→傷ついた指揮官を担いで退却で、
守備側は一回くらいしか射撃の機会はないけど、一日に20発も使わずに種子島の威力は十分発揮されたと思う。
あと近代でいう”弱装弾”の問題もあって、種子島の威力が今の均一に生産されたガンパウダーほどなかったと思う。
ナポレオン戦争の時代でも、英仏両方で配給される火薬の質は一定でなかったし、
米墨戦争ではメキシコ側の火薬の質が悪くて射程がのびなかったし、
昔の黒色火薬の質はあまり当てにならないのよ。
当時の日本では補給品に硝石硫黄などがあるので、現地調合だとしたら質はもっとひどかったと思うな。
大阪の役では、小田切所左衛門の額に弾が当たったけど、すぐ取り出し、
「この鎧は信玄公のお手にあったもの」といった(常山紀談)なんて普通の鎧兜で銃弾防げた話もあるから、
実際にはかなり威力が低い射撃も多かった、と思えるし。
0780人間七七四年
2008/10/10(金) 23:22:02ID:KH4KTkRx姉川の戦い直前で、浅井軍の追撃を、秀吉は鉄砲隊を順繰りに退却させて
殿をつとめている。
(一隊が射撃したら味方を追いこして退却し弾ごめして待ち、
前線の隊が帰ってきたら、また味方を追いこして、かわりばんこに繰り返す)
でも、こんな走りながらの退却戦は、へとへとに疲れそうだ。
長篠の千挺ずつ入れ代わりながらの3段撃ちは、
実際にやると疲れてしまって実現できないという説(実験結果?)があるそうだが、
退却戦で射撃しているのだから、実際にはできるんじゃねえの?
0781人間七七四年
2008/10/11(土) 00:04:18ID:4V5Rfh5pとにかく間断なく撃っていたというのが真相だと思う。
ガダルカナルの一木支隊みたいに、想像を絶する連続攻撃で武田が兵力を
すり減らし、弱体化したところを柵からでて追撃したのではないか。
0782人間七七四年
2008/10/11(土) 02:44:46ID:1dKBKvirそういや最上義光の兜は銃撃うけてベコってなってたな。当然戦死しなかったし。
鎧はともかく兜はなかなか貫けるもんじゃない。
ただ、実際狙って兜にあてるより体に当てるほうがたやすいから
ケースとしては鎧の方が多いだろうね。
別に100メートル先からバンザイ突撃をしてたと主張するつもりはないさ。
ただ100メートル先から敵に狙われずに身を隠して行軍することができるのか?と思っただけだ。
鉄砲側も100メートル先の敵が近づいてくるのに指をくわえてみているのはありえない。
威力で言えば100メートル程度でも装甲が薄いところや生身なら十分殺傷能力を持つ。
一人の人間相手ならなかなか当たらないだろうが一応敵は大勢だ。命中率は多少ましになる。
(とは言っても低いだろうが)効果はあると思う。
あの重い鎧を着て重い槍をもつ。前に言ってた匍匐前進は無理だ。重すぎてまともに動けない。
今度は行軍が遅くなりすぎて何発も弾を撃たれる。控えめに言っても50メートルでも止まっている的の場合は
それなりの命中率を持つ。何発も撃たれれば当たる者も多いだろう。少し身をかがめるのが精々か。
遮蔽物があればそれを利用するのは当たり前かと思う。武田も利用できたのなら30メートルと言わず、
柵のすぐそこまで利用したかっただろう。だが、戦場の地形がそんなに身を隠すのに適していたのだろうか。
寡聞にしてきかない。陣地も小高い見晴らしのいいところに作るものだし。
竹束を盾にするとかならありかな。
0785人間七七四年
2008/10/11(土) 19:33:17ID:CDEM4BE80786人間七七四年
2008/10/13(月) 01:32:34ID:3J01dwtq結局、信玄が生きてないと無理ってことでしょ
勝頼は家の問題で自滅したと捉えるべき
信玄存命なら家の問題もなく
その力を存分に発揮して上洛を果たしたってことw
長篠も翼包囲の布陣で戦ったのに
中央の穴山武田信廉が敵前逃亡で総崩れ
信玄がいたならこんな醜態は起きないw
っていうか
退路の拠点、鳶ノ巣山砦が織田方に落とされてて
武田が戦闘を起こしたのも織田徳川を攻撃して
後を慕わせないようにするためだけの行動
鳶ノ巣山砦が無事だったら、速やかに撤退できた。
退路を断たれて、仕方なく突撃したって見方もある
まー勝頼の凡ミスw
信玄ならこんな醜態は晒さないw
0787人間七七四年
2008/10/13(月) 01:34:52ID:O6CGKa4f0788人間七七四年
2008/10/14(火) 19:19:53ID:DyNRf4Yr自信を持って、勝てる、と「重臣一同」が一致したうえで、
攻撃したのだ。
勝頼一人だけが独断で決めたことではない。
0789人間七七四年
2008/10/14(火) 21:29:11ID:F/SnSVXh健康が悪かったら無理しない。
やっぱり鉄砲に撃たれて死んだんだと推測する。
病死にすれば家臣も安心(↓に比べればの話ね)
鉄砲で死んだとなるとみんな落ち込むだろう。
たぶん本陣にいたところを忍者によって殺された
特殊部隊はつかまって口封じされた。
3年は黙っていようというのは信玄の遺言ではなく重臣の会合での話し
これで筋がとおる。
そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
0790人間七七四年
2008/10/14(火) 21:48:31ID:h8k/ZRpKが・・鉄砲などでは倒れはせんと いうのは違うかな
0791人間七七四年
2008/10/14(火) 23:11:59ID:n9jx+adz>そして勝つよりは
わしは鉄砲などでは倒れはせんと
意地になったのではないか。
みんなは(鉄砲の恐ろしさを知ってて)撤退したかったけど
勝つよりは聞かなかった。
長篠の時には、重臣の意見を退けて
勝頼の意見が通るほどの権力が
勝頼には無かった。
ただし勝頼が後方の長坂にあてた手紙に
「今回の戦いを危ぶむ者も居るが」
とあるので、全員賛成では無かったのは事実だろう。
そしてそれが馬防柵が完成してから突撃という
自体になったのだと、当方は推定している。
0792人間七七四年
2008/10/14(火) 23:41:17ID:Eoj5ZPh4実際設楽原で対峙する両軍の主力は織田徳川2万余で武田1万余だから、
わざと鷲ノ巣砦を織田徳川別動隊に占拠させてその間本隊に突撃するという戦法なら
第4次川中島を経験した馬場などの重臣がとりそうな戦術
結果は一門衆の敵前逃亡で敗退したけど、もし中央支え切れたら成功の可能性は高かったと思う
あと、当時鉄砲の威力はそれほど高くなく、別動隊への割り振りもあるから両軍の鉄砲の数は2.5〜
3対1程度
設楽原の地形と当時の天候を考えれば鉄砲が勝敗を決するような要素ではなかったと思う
0793人間七七四年
2008/10/15(水) 01:09:11ID:ALYtiIBN自分も織田徳川3万8000と武田勝頼軍1万5000
というのはどうも解せない
貴方が言うように例えば織田徳川2万3000で武田1万3000で
別働隊5000が鷲ノ巣砦から武田軍の後方に回ろうとしていたなら
織田徳川1万8000対武田1万3000
このくらいの兵力差なら例え織田徳川軍が陣城を築こうが勝機を見いだせたかもしれない。
勝算有りと判断し合戦に突入→一門衆等が命令を聞かず形勢不利に→一門衆が勝手に退却→大被害
こういう流れだと思うんだけど
倍以上の兵相手にどうやって勝算有りと判断するんだと
兵力に関する確かな資料はないし
実際はこんなもんじゃなかったのかな
0794人間七七四年
2008/10/15(水) 04:03:23ID:XKsq/MwG実際、長期戦だったんでしょ
織田の兵はいったん国に帰ったりもしてたみたい
結局、武田の退却戦で
攻めてる状態ならさすがに一門衆も敵前逃亡みたいなことはしないでしょ
中央部隊が崩れたから
左右の馬場真田内藤山県隊は取り残されて敗退した感じ
なにげに織田の損害もデカイわけだが
長期に渡り小競り合いをしてた感はあるな
あとからの増援で3万の大軍になったかもね
0795人間七七四年
2008/10/15(水) 19:30:52ID:19FVs4pPそして、長篠城攻めでは大量の鉄砲が使われた痕跡があった。
〜〜ここまで事実〜〜
〜〜以下妄想〜〜
しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。
とか考えてみた。
0796人間七七四年
2008/10/15(水) 19:36:30ID:SN2/BJQ+武田軍は擬似要塞戦を行ったわけで、その場合当時の要塞戦の基本である
「優勢な火力の援護による攻撃」を行うことが出来なかった、ってことでしょ。
0798人間七七四年
2008/10/15(水) 20:30:22ID:nZrgZb9z命中精度の低い火縄の有効射程が13mというのもそう不思議ではない
0799人間七七四年
2008/10/15(水) 20:57:38ID:vY6bKSqQ0800人間七七四年
2008/10/15(水) 21:23:38ID:aiHY28mz島津なんとかって記述ですべてを語ってたみたいだけど実際は3〜50m
ってそこらの火縄のHPとかには載ってるからおかしいとは思ったんだ。
もちろん用法にもよるけど威嚇とか足止めだったら結構離れたところからでも
有効だったんだろな。
いくらなんでも火縄構えてるとこにつっこむ兵隊さんもいないだろうし。
この前初めて実弾撃ったんだが片手でも結構当たったから不思議だった。
もちろん両手でガチガチになって20発ぐらい撃ってからだったけどね。
暴発しちゃった、ではすまんもんね、やっぱり。
0801人間七七四年
2008/10/15(水) 21:29:47ID:SN2/BJQ+0802人間七七四年
2008/10/15(水) 22:02:13ID:QsjQPPCZ>しかし、織田と武田では得られる火薬の量が違いすぎる。
設楽が原では、既に武田の火薬は尽きていて
鉄砲にたいして鉄砲で当たることができず、長距離戦ができなかった。
これは同意だね。
火薬の原料は硝石。その硝石は輸入に頼っていたから
堺を押さえていた信長と、山国の武田では火薬量が
全然違ったと思う。
0803人間七七四年
2008/10/15(水) 22:13:09ID:vY6bKSqQ外国の観光地で撃ったなら火薬半分の弱装弾だから扱いやすいよ
一般愛好家相手や軍管理のとこだったら基本通常弾
拳銃でも弓でも動いてる的に一撃必中目指すなら12m弱とはよく耳にするから
そういう記述を勘違いしたんじゃないかな
有効射程がそんなに短ければ松本城の城壁の銃眼とか飾りにもならん
0804人間七七四年
2008/10/15(水) 22:13:57ID:iaCbZZkR敵国にも売りますよ。
堺〜駿河は、そこそこ舟の往来はあったので(江戸以北はなし)、
駿河をおさえていた武田は、輸入可能。
0805人間七七四年
2008/10/15(水) 22:15:54ID:SN2/BJQ+0806人間七七四年
2008/10/15(水) 22:47:10ID:QsjQPPCZそれはすなわち信長の税収が上がる事を意味する。
勝頼が硝石を買えば買うほど信長が肥える仕組み。
0807人間七七四年
2008/10/15(水) 22:54:01ID:Y1t+MnoW小勢で防御体制に入っている大軍に攻撃を仕掛ける行為がいかに危険か。
お互い攻勢に出てれば勝頼にも勝機はあるかもね
0809人間七七四年
2008/10/15(水) 23:18:48ID:aiHY28mzへ〜、1発7ドル、なんてのにもチャレンジしたが、名前忘れた、あれも火薬
抜いてあるのかな。結構両手でズドンときたわ。
火薬量とか硝煙の話は詳しい輸入ルートとか解明されてるみたいよ。
単純に山国だから量が少ない、というものではなかったろうね。
火縄購入した時点で弾だってちゃんと買ったろうし。
0810人間七七四年
2008/10/16(木) 00:57:11ID:wmeNIXby確かに12mでも狙って当てるには結構距離あるからなー
>>809
軍板いけばその辺は結構詳しい
素人が撃つと肩が外れる拳銃とかあるらしいし
0811人間七七四年
2008/10/16(木) 03:18:25ID:LGcYoEb1「12m」というのは”当時の戦術上使用された距離”の話じゃないかね?
>>808
江戸時代の鉄砲書でも、種子島は弓の代わりに使われただけ、のようだけど、
どこがどう変わったのか、kwsk
>>809
織田方が、多量に弾薬を消費した、って記録はないのよね。
鉄砲部隊も現地編成で、合戦前からそのために弾薬を用意した記録はない。
で、戦闘時間考えると「矢継ぎ早に撃つ」ほどの弾薬量を持ってたようには見えないのよねぇ…
つか、”遠隔兵器で敵を混乱→突撃”という攻撃の仕方だったなら種子島の出番は少なかったはず。
だから攻撃をかけた武田側に鉄砲の活躍がないのは当たり前、な気はするけど…
0812人間七七四年
2008/10/16(木) 18:43:29ID:NrQbvpCtそりゃ火縄でも甲冑着ている相手を致死できる距離なら50mは当然あってしかるべきだが
最大限効果を発揮できる距離は12mほどということ
0813人間七七四年
2008/10/16(木) 19:34:51ID:Gd/J0sNy槍が届かないギリギリの距離でしょ。
弓のがましだな。二回は射れる。
0814人間七七四年
2008/10/16(木) 19:36:02ID:Gd/J0sNy0815人間七七四年
2008/10/16(木) 19:44:08ID:dLDagyRr0817人間七七四年
2008/10/16(木) 22:49:04ID:rdDMY5wc0818人間七七四年
2008/10/16(木) 23:11:35ID:vpBZVlng0819人間七七四年
2008/10/16(木) 23:23:50ID:RIh2zeMA必殺の武器にはならなくても戦闘不能、負傷による戦意喪失効果が上がれば十分。
0820人間七七四年
2008/10/16(木) 23:25:09ID:eLp9kSOi無音の時代にあれだけの音がすれば馬も暴れて実際
制御は難しかったろうな。
0821人間七七四年
2008/10/16(木) 23:31:01ID:rdDMY5wc当時の人も馬鹿じゃ無いんだから。
0824人間七七四年
2008/10/17(金) 00:10:20ID:ZLmxs6dY0825人間七七四年
2008/10/17(金) 00:12:03ID:nTNjyVAR輸入硝石に頼らざるを得ない。
0826人間七七四年
2008/10/17(金) 04:37:27ID:qC197AVh当時の”戦”は首とってなんぼ、の世界だったので、撃退するだけの個人の勲功にならない戦はどーなんだろ?
>>823
硝石の国内生産技術確立は江戸に入ってからだと思ったけど??
>>825
大量消費、つっても、後の欧州のような一斉発射での制圧、って使われ方はしてないから、そう多くはないかと。
0827人間七七四年
2008/10/17(金) 19:50:12ID:tMu7KA1Xこんな隙だらけの武器が展開が絶えず変わる野戦で使い物になるわけがない
結局、対攻城戦、籠城戦で使うのが主流だな
0828人間七七四年
2008/10/17(金) 19:52:30ID:nTNjyVAR0829人間七七四年
2008/10/17(金) 22:10:56ID:4+36FdE7日本の鉄砲に、朝鮮軍が手も足も出ない。
朝鮮側の鉄砲は届かない当たらないと大変だったみたい。
野戦でも鉄砲は有効活用されてるよ。
五箇山に関しては戦国期から生産されてた説があるけど
言われてるやり方だと、時間がかかりすぎる上に少量しかできないので
効率が悪いとか。
0832人間七七四年
2008/10/18(土) 08:52:42ID:LcuY1Oa7話は変わるけど、朝鮮の役といえば初期に日本の鉄砲が大活躍したが、
明の正規軍が到着すると中国のフランキを始め中国の大口径火器に苦戦したそうだ
その経験から朝鮮から帰った大名がこぞって大口径火器を買い漁ってた
0834人間七七四年
2008/10/18(土) 10:20:41ID:fgpTngI3本多忠勝も砲兵隊長みたいなことしていた記録もある。
家康の江戸城には、秀吉の大阪城と違って、すでに大砲対策が施されていそうな。
0835人間七七四年
2008/10/19(日) 18:36:16ID:qy2so+4J城にたてこもっている敵(朝鮮の場合は日本軍)に対しては、
大砲を打ち込めば断然有利。
明軍の大火器に苦戦したのは聞くね。
でもそこらへんは調べてないから詳しくわからないー
0837人間七七四年
2008/10/19(日) 19:57:09ID:qy2so+4J官軍が港から大砲を打ち込んだ。
ろう城している幕府軍は、城内で右往左往。何日か後には降伏。
0838人間七七四年
2008/10/20(月) 11:00:48ID:cGFY7LWK逆に明では城に篭りながら大砲を用いて後金の軍勢を散々に打ちのめした
地上戦であれほど強かったヌルハチも大砲の傷で死んだから
大砲ありとなしでは勝負にならん
同時期の欧州でも大砲の数の性能が勝負を決することになったし
0839人間七七四年
2008/10/20(月) 11:09:49ID:atgcrood0841人間七七四年
2008/10/20(月) 12:18:25ID:atgcrood要塞戦の場合、銃や大砲への対策をなされた、日本で言えば関ヶ原後に建築された名古屋城や熊本城など、
ヨーロッパで言えばイタリア式要塞などでは、それが技術的に克服されるまでは、その限りではない。
要塞と火力はいたちごっこだね。
0842人間七七四年
2008/10/20(月) 13:00:55ID:rAiY9eUcまあ、たしかに要塞戦あるいは攻城戦と限定されれば、攻め手より貧弱な火力でも勝てることはあるわなあ。
しかし、野戦ではそうはいかんのじゃね?
0843人間七七四年
2008/10/20(月) 13:08:29ID:u5h8gvzF日露でも奉天のときの火力はあっちのほうが上じゃなかったっけ
0844人間七七四年
2008/10/20(月) 13:10:53ID:atgcrood野戦でも長大な塹壕を作ることで陣地を擬似要塞化して火力を克服する方法があるね。
戦車や航空機による突破が可能になるまで、これは有効だった。
小牧長久手なんて、あの当時の代表的な塹壕戦といっていいんじゃないかな?
0846人間七七四年
2008/10/20(月) 13:16:33ID:u5h8gvzF0847人間七七四年
2008/10/20(月) 13:22:10ID:ayVQonBJ野戦において機動力で大軍が寡兵に翻弄されるというのは、
戦略的な意味で火力を集中させることはできたが、戦術的な意味では出来なかった、ってとこでいいんでね?
0848人間七七四年
2008/10/20(月) 13:22:54ID:atgcrood確かアメリカ独立戦争でも、銃隊への騎兵突撃があったような。
0849人間七七四年
2008/10/20(月) 15:26:26ID:3aLMVbi4そして当時”銃火力”が戦術上重要な意味を持ったかは、とてもとても疑問だと思う。
つか、野戦で”銃火力の集中”が問題になったのは、銃兵が攻撃をも担う、歩兵が全員銃兵になってからでは?
長篠の時代は、銃兵と槍兵が混在してるし、その後の朝鮮の役でも”銃撃→突撃”が一般的だったけど、
これは、武田軍の”遠距離武器で敵を混乱→突撃”を世襲してるだけだと思うけど。
つまり弓石つぶて投げ槍の代わりに銃が使われてるだけにしか見えないような。
ちなみに朝鮮の役では「銃がすっごく便利だよ、もっと送れ!」なんて手紙が残ってるよ。
ということは長篠以降十数年たっても、”銃の良さ”を使った戦術が日本各地に広まってなかったことになる。
このような状況で、野戦での銃火力がどうのこうの、火力集中がナニだ、とかいう議論は時代に合ってないと思うな。
戦力を”兵数X火力”と規定したのはシュリーフェンだったかと思うけど、
マスケット兵が主力になった30年戦争より昔に銃火力の話は、ちょっと違和感あるな。
あと、歩兵で敵軍正面を拘束し騎兵を迂回して包囲する、てのはカンナエ以来の古典的戦術だし、
もちろんソレは”銃”の存在無くても成立してるよ。
0850人間七七四年
2008/10/20(月) 15:47:29ID:atgcrood攻める時も守る時も、火砲によって敵を牽制する事こそが基本。
家康が長篠城に、城兵500に対し鉄砲200丁という、驚異的な装備率で篭城させたのも
この火力の牽制力を念頭に置いたため。設楽が原の前に、長篠城の攻防においても武田軍は、
火力の前に屈したと言っていい。
0851人間七七四年
2008/10/20(月) 15:59:26ID:ayVQonBJ特に信長は役立てただけじゃなく、本願寺攻めなんかでは自分がその被害を受ける側に回っているし。
信長に格別の先見性を仮定しなくとも、他の武将に先駆けてそういう考えに至ったことはそうおかしくないと思う。
0852人間七七四年
2008/10/20(月) 17:07:35ID:q58QSPjr単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
本気で落とす気なら、あそこまで行ってればあれだけの時間あったんだし落ちてるよ。
織田軍来るのなんか分かってるんだから、腹背に敵受ければ不利なのは常識中の常識だし、
城を落とす気で落とせてないなら、落ちるかどうかはともかくもっと必死な攻撃を仕掛けてる。
懐手で時間潰すような態度はありえないな。
前回高天神城の時は、さっさと落としちゃったもんだから、戦い避けてモタモタ進軍してた織田軍が
これ幸いと途中から帰っちゃったからな。
1回会戦して、敵に痛撃与えたり天下に武田の武勇示して戦略的に有利な流れ作ろうとするのは
至極当然。
あのまま合戦しないでいたら織田はますます膨張するだけだし。
0853人間七七四年
2008/10/20(月) 17:36:11ID:FxBWFkPA調略ができず、戦いが長引いてしまった。
二の丸まで攻めており、また、川の合流点V字状の先端にある城だったから、
城主は和ぼくも逃亡もできない状態になっており、
死に物狂いの抵抗となった模様。
0854人間七七四年
2008/10/20(月) 17:52:11ID:atgcrood外堀、中堀、内堀の三重の堀をそなえ、開けている側も、内堀から主郭まで95メートルほど間を空けた、
なだらかなスロープになっており、侵入者を容易に発見、狙撃できる構造だった。
これは優勢な敵の進入速度を低下させ、要害の側に火力の援護がある限り、容易に
攻略を許さない築城となっている。
少なくとも、「いつでも落とせた」なんて城ではないことは確かだ。
0855人間七七四年
2008/10/20(月) 20:00:35ID:yqTbgFCZ織田・徳川連合軍が設楽原合に付いたときは、
長篠城は本丸のみが残る状態で食料庫も落とされていた。
あと一息で、落とせる状態だった。
0857人間七七四年
2008/10/20(月) 20:11:09ID:3aLMVbi4”野戦”と”攻城戦”を混同してるよ、それ。
当時の銃射撃は移動を伴わなかったことはもちろん、銃兵自体単一で偏されてない上に攻撃兵種じゃなかったのに、
野戦で”火力集中”を重要視するのは無意味じゃ?
0858人間七七四年
2008/10/20(月) 20:41:54ID:FxBWFkPA雨避けのため、わざわざ細長い小屋を作ってもらって、その中で鉄砲構えて
迎撃態勢をとっているくらいだからな。小屋があれば雨天でも撃てるわけだ。
この場合は、火力集中ともいえる。
馬と鉄砲、管理職は小屋をあてがわれ、その他大勢は野良で寝起き。
包囲の軍は、ただ野営していたのではなく、小屋を作って包囲しているわけで、
信長公記に、銃や弓に優れたいる者を集めた迂回別働隊が、
長篠城を救援したときに「武田の小屋々、焼き上げ…」とあるので、。
包囲は長期を予定した本腰のもの。
0860人間七七四年
2008/10/20(月) 20:48:26ID:Ha9rb78t>単に織田軍呼び寄せるためにわざと落とさなかったってだけだろ。
それじゃ降服勧告をはねつけて殺された鳥居は?
そもそも織田の主力をおびき寄せて決戦するのに準備が足りなさすぎる
前の年の高天神攻めでは二万以上の軍を投入したのに
長篠に半分強の一万余しか動員しなかった
長篠を餌に織田本隊をおびき寄せて決戦のつもりなら二万はあってもおかしくない
0861人間七七四年
2008/10/21(火) 01:35:26ID:G52eTRQ7初めて織田軍が岡崎まできていることを知ったりと、対応がおかしい。
0862人間七七四年
2008/10/21(火) 04:21:47ID:XVR8Sqyc0863人間七七四年
2008/10/21(火) 06:11:59ID:sdgu+jXn実際、長篠で負けてからも、大して間をおかずに上野やらに出兵してるしな。
8000程度だったっていう説が事実だと思う。
当然、織田との決戦を狙っていたなんてこたぁないと思われ。
0864人間七七四年
2008/10/22(水) 00:24:22ID:0ulbs/gV徳川が来たら叩くか、戦を避けられたなら長篠城を落として
どっちにしろ徳川の武名を貶めて、遠江や三河攻略を
やりやすくする目的だったのに、予想外の織田本隊まで
来てしまって慌てたとか?
0865人間七七四年
2008/10/22(水) 00:26:33ID:2+5A9/D8後世の視点で当時を見すぎだな。
単純にあのあたりは徳川と武田で取ったり取られたりだったんだから、
その一環以外の何者でもない。
0867人間七七四年
2008/10/22(水) 00:36:13ID:vWZvL7R80868人間七七四年
2008/10/22(水) 00:38:23ID:2+5A9/D80869人間七七四年
2008/10/22(水) 00:51:51ID:Sc5479pAただ勝頼は長篠以前の1574年9月には
家康の居城浜松周辺で放火、略奪をし
久野、掛川といった徳川の主要地の城を押し詰めるなど
徳川軍主力を誘い出す、もしくはその威信を貶めようとする行動はしている。
このことを北条に説明した書状があるが、この中で勝頼は
「こちらが出馬した所、徳川は浜松に立てこもったので、
その周辺の屋敷はひとつも残らず焼き打ちにし、稲も悉く刈り取ってやった。
久野や掛川などの敵城も押し詰め、佐夜群築地に普請を行い、人数も入れて帰陣した。」
と得意げに書いている。これらの戦果は大きな宣伝材料になるという事だ。
実際家康は城を出なかったが威信を傷つけられた事、援軍にこない織田への不信などがあったらしく
長篠では家康や徳川家臣団は「今度助けてもらえなかったら武田に寝返ろう。」と言うくらい追い詰められてる。
勝頼も可能ならば家康を引っ張り出して叩き潰すか、もしだめでもその威信を貶めて
領土拡大につなげようとするプランがあったのは否定できない。
織田が出てきたらどうする気だったのかは知らんが。
0870人間七七四年
2008/10/22(水) 00:52:00ID:0nxEmKcE亀レスだが、長篠城の攻防と高天神城の攻防について調べた方がいいよ
武田が長篠を包囲したのは5月8日、13日信長が岐阜から出発して18日設楽原に着陣
高天神の方は5月13日包囲されて、落城したのは6月17日
高天神がさっさと落とされたじゃなく二万の大軍に対して1か月も粘った上の落城
その経験からか、長篠攻め時も織田本隊は来ないだろうと思ったら
たった10日で信長が来ちゃった(知ったのは5月16日)
それでも決戦に臨んだのだからよほど自信があったんだろうな
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