長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:09:30ID:VG5ZfgSM連合軍は長篠城の包囲
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:16:22ID:VG5ZfgSM明らかに不利なのは武田側だと思いますが?
連合軍は長篠城の包囲を(設楽が原の合戦前日とは言え)解く事に成功しています。
補給に関しても、連合軍側は距離的に優位に立っていると思いますよ。
逆を言えば、鷲の巣の砦を落とした時点で連合軍側が武田軍を包囲下に置きつつあったとも言えます。
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 00:21:19ID:m7i2LcI1偽者さんIDがw
0053某研究者
2006/07/22(土) 00:50:35ID:scEkRxkLこういう戦いが出来れば
長篠の武田軍も勝てたかも知れぬが
織田軍は中央の追撃の為に陣地から出て来たのか
どうかだが
中央が後退しても此れは作戦であると思えば
両翼は崩壊しなかった可能性も
有る訳だろうか
0054公孫参
2006/07/25(火) 16:40:41ID:NZLyEYWC退却できない状況だったとか?
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/25(火) 17:08:54ID:Iln7E32Q落とされてから戦ったわけじゃない。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 17:58:51ID:XmsMv43/1つは建勲神社本、もう1つが池田家文庫本です。前者では問題の部分は「鉄砲千挺ばかり」とあるのに対し、後者では「千挺」の右上脇に小さい字で「三」が付け加えられているのです。このことから、次のようなことが推測できます。
つまり本来太田牛一は、千挺と記したのだが、後世、流布した説(三千挺説)をみた人物がこれに加筆したのではないか、と。上で見たように鉄砲は各地からの寄せ集めであり、その全てを牛一が把握していたとは到底考えられません。
ですからこの千という数字も概数であることは間違いなく、その証拠に「ばかり」と表現しているわけです。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 18:25:13ID:gjLeS4RC0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/28(金) 19:25:12ID:t0gQziV00059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 05:13:01ID:+Il5Xqfbしかし、主力を犠牲にして圧倒的な敵主力を押さえて、敵の弱い所を穴山などの部隊が破って勝頼は逃げられたと考えられる。
山県などが、織田本隊に攻撃仕掛けて無ければ、勝頼も討ち取られていた可能性が高い。
武田からすれば、殲滅からの出来うる限りの見事な撤退だったと考えるよ、兵力差考えるとね。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 05:43:27ID:MkdwNw/f0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/29(土) 07:07:36ID:kzdTMvJB撤退がまず親族衆主体で行われたから、前線部隊が見捨てられたと動揺して崩れたせいで追撃の被害がでかくなったともいえるな
0062あぼーん
NGNG0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 09:14:03ID:oeapCDYE同様に太田牛一の信長公記が第一級史料とされている理由はなんなのでしょうか?
どなたか教えていただけないでしょうか?
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/16(水) 22:32:38ID:7UrJLhGB0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/17(木) 01:46:16ID:ZWqnwBDzwikiですが、このページの一次史料・二次史料とその下のその他あたりをお読みください。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%96%99#.E4.B8.80.E6.AC.A1.E5.8F.B2.E6.96.99.E3.83.BB.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E5.8F.B2.E6.96.99
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/24(木) 07:14:20ID:zzfIDiEr0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 11:44:33ID:GCpKo5RK戦闘の性質を[会戦](敵味方同等)から[攻城戦](味方優位で守りきったら勝ち)
に変えたことでしょうね。
武田方からみると、
・本隊の強固な防衛陣地
・長篠城
・鳶巣山砦(夜間強行軍5000で急襲)
によって盆地状のところに包囲されたことにより、
織田本隊を殲滅しなければならなくなった(支隊を攻撃しようと
すると本隊に後ろを見せることになる)。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/25(金) 12:19:08ID:pfIZZgv7勢力拡大しないとジリ貧になる武田方の差でしょ?
戦闘の性質を変えたとまで言うからには長篠以外の例も挙げてくれw
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 14:05:23ID:Kh5Ta3Z90070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 14:43:45ID:FISpITGk1、長篠城を餌に誘き出す
織田・徳川軍布陣=作戦成功
2、後方に残した部隊で長篠城を落とす
目的1:前年の明智城攻略戦の時、城が落ちたら織田軍は早々に撤退したから、今回もそれを狙った。
目的2:撤退する織田・徳川を前面に押し出した主力部隊で追撃、撃破する。
しかし、織田軍の奇襲部隊により長篠包囲部隊が壊滅=作戦失敗
3、退路の確保
包囲部隊の壊滅により逆に包囲され、退路すら失ってしまった。
そのまま敗走すれば追撃を受ける。なので、無謀な突撃を敢行するしかなくなった。
武田勝頼退却=一応作戦成功
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 18:52:57ID:PNHgr1Zaそんなに死んで残り7年ももった勝頼は無双の名将ですね。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 21:44:30ID:FISpITGk未だ戦力はあった
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 21:45:05ID:FISpITGk0074名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/29(火) 22:41:19ID:p8L1dwqQ信長公記でも甲陽軍鑑でも細川藤孝宛書状でも武田がわざわざ設楽が原に出て来たのが敗因と共通しているのがポイント。
戦後の信長の書状での喜び振りからして会心の勝利だったんだろうね。
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:10:24ID:UXkhmvgH天正三年(1575) 長篠の戦い ダイジェスト
5月12日 甲斐の武田勝頼率いる武田軍が出撃し、すでに
武田軍先発隊が尾張熱田付近まで進撃したことを知る。
──『多聞院日記』
5月13日 織田信長・信忠、三河長篠城の後詰として出陣。
この日は尾張熱田に布陣し、熱田社荒廃に対して岡部又
右衛門に造営の件を命令。──『信長公記』
5月14日 織田信長・信忠、三河岡崎城に到着。徳川軍
と合流する。──『信長公記』
5月16日 織田信長・信忠、三河牛窪城に入り、城の警固
役として丸毛兵庫頭・福田三河守を配備。
──『信長公記』
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:11:22ID:UXkhmvgH5月17日 織田信長・信忠、三河野田原に野陣を設営。
──『信長公記』
5月18日 織田軍「志多羅」郷極楽寺山に布陣し、武田
軍に姿が見えないように、各部隊を配備する。
──『信長公記』
5月18日 三河長篠より三里余りの地点に於いて織田軍と
武田軍とが遭遇。織田軍「鉄炮」で武田軍を撃退する。
──『細川家文書』
5月20日 信長、この日の戌刻に軍勢を「のりもと川」を
渡河し武田勝頼の布陣する鳶巣山へ向かわせる。
──『信長公記』
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:13:29ID:UXkhmvgH5月21日 織田信長、高松山の徳川家康陣所を訪れ、
武田軍の動向を把握。1000挺ばかりの鉄炮部隊を
佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政
らに引率させ、武田軍への攻撃命令を下す。
──『信長公記』
5月21日 織田・徳川軍へ武田軍の山県昌景・武田信繁・
小幡一党・武田信豊・馬場信春ら武田の「赤武者」
「黒武者」が部隊毎に、攻撃を仕掛けるも、織田・徳川
軍の鉄炮部隊と足軽部隊によって武田軍、大損害を被る。
──『信長公記』
5月21日 武田勝頼ら武田軍は鳳来寺山へ向けて
全軍敗走。──『信長公記』
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:17:47ID:UXkhmvgH5月24日 吉田兼見、近江坂本の明智光秀を訪問し、
三河長篠における織田軍の大勝利を祝す。光秀宛
の信長書状を吉田兼見へ披見。──『兼見卿記』
5月24日 多聞院英俊、去5月21日に三河国に於いて
「一戦」があり、武田の甲斐衆が悉く討ち果たされ
たことを知る。──『多聞院日記』
5月25日 織田信長・信忠、美濃国岐阜城に凱旋。
──『信長公記』
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/01(金) 09:35:34ID:HMVUTs8z>1、長篠城を餌に誘き出す
>織田・徳川軍布陣=作戦成功
それは2chしか聞いた事のない説。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/02(土) 08:01:46ID:n0Y3UK/D自分は割と妥当だと思うが。武田軍首脳が正面から戦って勝てると考えていたよりは。
あとは信長が部隊を武田に見えないように配備したせいで
連合軍の兵力を見誤ったとか。
それに加え一部地域からは鉄砲衆だけ集めてるから火力も通常の軍より高いだろうし。
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 13:44:40ID:RwbnmGNB織田勢が6000も死んでいるのは非常に問題がある。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 14:18:13ID:4WCPEHoo0083名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 21:54:18ID:Vxd2u/ibしかも名のある戦死者がいない
>>82
信長公記に記録がないからじゃ
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 23:33:00ID:L15f1A31おいおい「戦死者六千」?
そんな史料はないなあ。
「死傷者六千」という史料ならあるけどね。
あと織田・徳川の損害が多いと記述されてるのは信用度が低い記述で
実際は戦死者で言うと
武田が二千程度、織田・徳川は軽微と考えられます。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 23:36:41ID:L15f1A31そんな事はありえないだろう。
「死傷者」と考えても一万二千はありえない。
妙法寺記では「二千討ち死に」と記述されてるので
実際は死者二千で負傷者三倍の法則から言ってその三倍くらいの負傷者いただろうけど、
それでも一万五千の軍の半分程度が死傷したことになり、ちとありえない。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/03(日) 23:42:54ID:L15f1A310087名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/04(月) 03:27:00ID:pdWyaLQ/ええっ
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 15:05:43ID:m7QP+1Nt○山県昌景
○馬場信春
○土屋昌次
○高坂昌澄
○真田信綱
○小幡信貞
甘利藤蔵・根津甚平・名和無理介・横田備中・杉原日向
和気善兵衛・真田昌輝・高森恵光寺・川窪備後・下曽根源六
浪合胤成・油川宮内・仁科・岡辺・竹雲・奥津
長篠で討ち死にした武田家の重臣は相当大物ですよね。
それとも小物ですか。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 15:27:31ID:67uTS19G0090名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 19:15:03ID:ffQtKXXn0091名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 19:17:23ID:ffQtKXXn句読点を使って欲しいよな
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:00:40ID:67uTS19G特に織田・徳川がそのような大損害を出した形跡が全くない。名のある人物はまるで死んでないしね。
武田の一万二千も多すぎでちょっとありえない。
一万五千の軍勢で一万二千も損害が出たら、
それは戦とすらいえない。単なる虐殺だろう。
たとえそれが死者ではなく死傷者だとしてもありえないだろう。
勝頼、信豊、信廉、穴山、小山田は生き残ってるしさ。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:05:32ID:visVk2Jr他に死んだ重臣といえば原昌胤がいる。
宿将だけではなく三枝、真田兄弟、土屋など若い将校も討ち死にしている。
目も当てられない惨敗で生き残った方から数えた方が早いぐらい。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/07(木) 20:41:48ID:WQ2g+O1H0095名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/08(金) 20:57:12ID:rlXg04Xf0096名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/09(土) 14:17:22ID:Ce3YiprG『多聞院日記』は「甲斐国衆千人余討死」
身贔屓な『妙法寺記』よりは信用できそうな数
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 02:06:43ID:pSc8dRzE・8割方の重臣が討ち死にした
・総大将の勝頼は生き残った
・本拠地の甲斐は無事である
以上の三点から、武田軍のおおよその死傷者数は推測可能である。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 03:01:46ID:DPFK8OWuこのサイト面白いな。
向こうの戦争って、勝因とか部隊の細かい動きを記した記録がきちんと残ってるのか。
それともあんまり鵜呑みにするべきじゃない?
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/11(月) 08:08:16ID://40uG+P真田兄弟は若くないが
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 15:20:15ID:rs6ULOZ1当時の武田兵と戦った者で、傷口にウンコが染み込んだため壊疽を起こし、
手足を切断しなければならない者、高熱をだして悶え死にする者が後を絶たなかった。
現代で言えば、細菌兵器や劣化ウランと言ったところであろうか。
ある日、信長は宣教師らに「日本に来て一番印象に残った事は何か」と訊ねてみた。
「武田殿ノウンコ部隊デス、コノ事ヲ法王様ニ伝エヨウト思イマス」と、宣教師は答えた。
彼らの口から出た言葉に、信長は驚愕した。
このままでは日本が「ウンコ野郎の国」として、世界に広まってしまう。これは恥ずかしい。
それだけは阻止せねばなるまい。なんとしても。──信長は決意した。
そして信長は即座に、武田勝頼及び武田家臣団に、ウンコの使用をやめるよう勧告す。
しかし武田家は武田家で、伝統あるウンコ兵器を捨てるわけには行かない。
ついに決戦へ──、世に言う長篠・設楽原の戦いである。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/12(火) 15:20:49ID:rs6ULOZ1後世の歴史家は、この長篠の戦いを、
「織田・徳川連合軍が、武田家を打ち破った戦い」と、記している。
しかし歴史家は、「人類の叡智が、山賊のウンコに、打ち勝った歴史的な戦い」
と、その認識を、おおきく改めるべきなのである。
ウンコの歴史がまた1ページ。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 07:06:06ID:45ofvjJe0103地形を見ると
2006/09/17(日) 14:27:04ID:C6W1BT49越えてもその先には鳶の巣5砦を陥した別働隊が。
退却戦で大被害は容易に想像はつく。
逆に考えれば勝頼は、この退却できない状況だったから、正面突破を仕掛けたかもしれん。
だが何故勝頼は、自ら逃げ道を塞ぐような行動をとったのか……
何かの理由で、おびき出されたか??
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 14:39:43ID:WsCYE18Z0105名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/17(日) 17:06:24ID:Dff0/5Geあとは三方ヶ原明智城で武田との激突を避けようとした事から
戦意は低いとか勘違いしたとか
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 00:46:18ID:tPkb+RIZ織田軍は膨大な火薬を持っていたのは間違いないので、
武田軍は、織田の鉄砲隊目掛けて火矢による集中的な
火攻めを仕掛けていれば、もしかすると勝っていたかも…?
否、勝てないにしろ、少なくとも大敗はしなかったろう。
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 01:06:15ID:37kEzKm0理由は普通に勝頼が匹夫の勇だったから。
部将時代は先頭に立って鑓を振るっていたらしいからなw
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 03:19:54ID:R5j0UuaT勝頼というか、討ち死した老臣達の希望のように見える。
信玄が織田と戦うことを決意して以来、大規模な決戦を望みながらもそういった機会は巡ってこなかった。
彼らは戦えば必ず勝つという自信を持っていたが故に、織田勢の戦力を一気に減じる好機と捉えたように思う。
たとえ少々の無理をしても。
もちろんこれは甲陽軍艦の記述とは正反対ではあるが・・・・
さて、これだけでは彼らが慢心していた為という結論にしかならない。
彼我の戦力の差が年月を増すごとに開いていくという、危機感が作用した結果だろうか。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 04:57:50ID:pSVv12bi0110名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 07:44:00ID:e81OiRlyで、家康は信玄に敗れている。つまり、信玄時代の武田家は徳川より強いわけだ。
しかし、織田は勝頼に勝ち、徳川は信長の死後、甲斐を侵奪した。
そういう経緯で、勝頼は愚将のレッテルを貼らねばならなくなった。
高坂、山県が何を言ったか、そのものが怪しいのでは?
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 07:52:17ID:e81OiRly徳川は、甲斐を取る名分として川尻の事も悪政として非難しているらしい。
勝頼が史実以上に貶められている可能性は十分にある。
長篠合戦の、重臣達の特攻はもしかしたら
大名家の権力を、諏訪勢から取り戻す為の一世一代の賭けだったのかもしれない。
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 11:44:37ID:MnuTpLGY勝頼の再評価は長篠がある限り無理。
決戦の理由がどうであれ、あれだけの部将と将兵を失っておいて大将としての責任を免れられるわけがない。
長篠で主戦派だったのも、滅亡の際領民にも見限られていたのもすべて事実。
0113名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:21:32ID:Ft0045Ri全て、大将の責任、と言われてもな…。
そういうことなら、織田軍を全く崩せず、長篠で死んだ部将達も皆無能ということでFA?
>>長篠で主戦派だった
ごめん、ソースは?「甲陽軍艦」とかいう冗談はなしで。
>>滅亡の際領民にも見限られていた
所詮は、国人の連合体(とその象徴としての武田家、その当主)。
戦国時代は江戸期以降と違って現金な時代だから。
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 12:29:55ID:pdoQ8WBa0115名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 13:27:27ID:FP2WVQ6X>全て、大将の責任、と言われてもな…。
そういうことなら、織田軍を全く崩せず、長篠で死んだ部将達も皆無能ということでFA?
馬場や内藤は敵方に賞賛されてるし、勝頼が無能だなんて一言も言っていない。
トップが一番批判され、責任を負わされるのは当たり前の話。
甲陽軍鑑を否定するのは勝手だが、史料を示さないで想像で再評価されても困る。
>ごめん、ソースは?「甲陽軍艦」とかいう冗談はなしで。
合戦直前の後方の家臣団に宛てた勝頼の書状。
いくら鼓舞するためとはいえ、「今度こそ信長・家康の首を獲る」なんて
具体的に書いているんだから主戦派だったのは間違いないだろ。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 13:38:42ID:pdoQ8WBa0117108
2006/09/18(月) 14:25:36ID:Rq1HUWxSコピペによる誤植の連鎖反応が起きてしまった。失礼。
で、長篠の敗戦の責任が勝頼に帰することには同意。
これは大将だから逃れられないもの。
だが、家臣・軍勢含めた「武田家のあり方」が織田家には敵わなかった結果と見ている。
信玄ならどうか?という想像をしてはいけないのだろうけど、
もし信玄だったらこういう無茶は回避し、局面で数的或いは地勢的に有利な状況に持ち込めるチャンスを待つだろう。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 15:14:36ID:cyJNacr0ならんだろうと思う。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 16:56:45ID:bbgSpZDl甲陽軍鑑の評価で妥当ってところ。
先頭立って槍振りまわすのが得意であって、当主には荷が重かったんだろ。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/18(月) 17:05:39ID:pdoQ8WBa0121名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 21:53:04ID:SLWD7KCD0122名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/22(金) 22:41:59ID:I5AjR+OMだからといって、有能な老臣たちの足をひっぱったんだ、とされると
それは、ひどいと思う。
結構、その家臣たちが無能だったと思ってる。
若い頃は有能だったかもしれないが。
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2006/09/24(日) 03:35:36ID:fSgEdPJY0124名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 01:25:56ID:MZXl0u1b設楽原って結構狭いんですよね。
山筋が二つあって、南が織田徳川連合軍、北が武田軍。そして設楽原の北には未だ落ちない長篠城と長篠城を見下ろす武田の5砦。
武田勝頼は長篠城攻めに当たって、裏切った奥平の征伐が目的。
徳川も救援に来ないわけにはいけないから、徳川の援軍が来ても勝てる兵力(1万7千)で出兵した。
長篠城は、三輪川、寒狭川に囲まれた野牛郭は防護が硬いが大手門付近は平地で防御力がとても貧弱。
城兵は500、本気で攻めたらすぐ落城すると思うけど、目的は徳川を誘い出し再び完膚なきまでに叩きのめし遠江、三河を武田の勢力下に治めること。
家康が援軍に来なければ遠江や奥三河の豪族は家康を見限り武田になびくだろうし、徳川の勢力を大きく削ぐことができる。
家康が援軍に来たら来たで、三方ヶ原の再現で完膚なきまでに叩きのめし今度こそは家康の首を取る。
と思ってたら予想に反して何と信長自ら大軍引っさげて援軍にやってきた。
ちょっと計算違いだったけど、信長家康を討ち取るチャンスかもしてない。しかも、設楽原に陣取って動かないし、多分うちにビビッテる。
大軍でちょっと手前の設楽原で陣築いてたら、うちがビビッて兵を引くと思ってるな。よし、裏をかいてこっちも設楽原に兵を進めたる!(信長ビビるぞお!)
おいおい、援軍に来て何そんなに厳重に陣構築してるの?マジビビッてるw。
さあ、こっちもまったり陣築いて我慢比べだ。三方ヶ原の恐怖を思い起こさせてやる!
・・・翌早朝、突如背後の武田5砦に火の手が・・・!?!?!?。
敵は、軍を二手に分けて挟み撃つ気だな・・やべえな・・挟撃されたら兵力少ないうち壊滅じゃん。
・・ちょっと待てよ、敵が兵を分けたということは、正面の敵は少ないんじゃ?
このままじゃ、どの道挟撃喰らうし、自軍の兵力と正面の敵の兵力が互角くらいだろうから、突撃したら突き崩せるかも?
うまくいけば信長家康を討ち取れるチャンス到来!川中島の逆再現だ!
で、突撃開始!。
実際は砦攻撃に回ったのは、織田徳川連合軍3万8千のうちの4千で正面には武田軍の倍の3万4千が防護陣地の中で多数の鉄砲構えて待ち構えていた。
そして武田軍惨敗。
てなことを、武田勝頼の本陣跡に立って考えてたんですよ。
設楽原って狭いし殆ど水田だし、殆ど用水路とは言え連吾川もあるし、連合軍の馬防柵もあるし。
こんな状況で寡兵で突撃したら絶対勝てないと思ったんです。
でも、武田軍が突撃したということは、何らかの止むに止まれない理由があると思ったわけで、それで上記のような
妄想にひったったわけです。
長文ごめんなさい。
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 09:23:04ID:2nCmKKNh設楽腹があまりに狭いので少兵説が存在する。
織田徳川連合軍が一万五千で武田は八千程度。
一応、長篠城を攻める目的なら一万五千よりは説得力がある兵力だし、
織田徳川が意外に少ないのは武田が逃げないようにという事。
ただ信長は兵数を少なくする代わりに鉄砲を近畿の武将から借用し装備率を高め、野戦築城をしたりした。
0126名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 09:46:08ID:qekw1gek鳶巣山砦の強襲も上手くいったからいいようなものだが、
長久手の池田軍や賤ヶ岳の佐久間隊並にリスクを伴う攻撃だと思うし。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/02(月) 21:07:24ID:4Qdmyggf合戦前の書状読む限り、勝頼が決戦の決意をしたのは前日以前なのは間違いないよ。
ただし信長は包囲殲滅を狙っていたのは事実。
長篠城は本気で落とすつもりではなかったというのは同意。
勝頼には「雌雄を決するつもりである」や「信長・家康の首を獲る」と言い切る書状が頻繁に見られるから
いわゆる後詰めの常識は当時の武田には当てはまらない。
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/07(土) 20:19:45ID:U4+Umb3z確定した説ではないけど、決戦当日以前にも18,19日の間に長篠城方面に
進出した織田軍を武田軍が蹴散らしてるともいわれてるけどね
それが勝頼を決戦に踏み切らせたともいうし
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 00:45:55ID:Xaz8z0kD闇に葬られた初戦って奴だろ
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/08(日) 18:57:20ID:zb0AwThr0131名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/21(土) 15:32:54ID:Vv+X+6Hz0132名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 00:14:18ID:Mijt30YL0133騎馬隊
2006/10/26(木) 00:50:27ID:hxJPX+gt…詳し過ぎる
◆戦術や思惑、兵の数、武器等いろいろな要因がありますが、信玄公亡き後…勝頼が迎えた一番重要且つ勝たねばならない戦であったという事です。
勝頼はカリスマであった信玄に負けないような采配を振るいたかったのです!
自分の力量を家臣や天下にしらしめて信玄亡くとも武田家最強を全国に示したかった!
勝頼は自信と不安が交差する変な精神状態だったと思います。それでも、不思議と負ける気はしていなかった筈。
勝頼自身、武田騎馬隊は最強無敵を信じて疑わなかった一人…しかし…相手は連合隊で数も多い!
しかも…火縄銃を用意して騎馬戦を避けた!
信玄なら兵を一旦引いたと思います。
しかし…勝頼は勝ちたかった…何としてもこの戦は負けてはならぬと言う気持ちが強すぎた
大局が見えなくなっていた…
兵を引くどころか…強行突破を命じる始末…
家臣も箴言したが聞く耳を持たない!
誰の話も耳に入らなくなってしまっているのだ…
その為に連合隊が描いた図式にキレイにハマッテしまったと…歴史学者の大先生が言っておられました。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 15:26:47ID:v/KSBux+蜀の北伐や第2次大戦の日本のように常に勝たなければならず、あせりがあったと思う。
家臣団にとって勝頼は信玄の正当なる後継者ではなく、信頼を得るためには敗る事は
できなかった。そのため無理な合戦でも戦わなければならなくなった。
一見戦術面では有利に戦っているように感じていたが、落城するたびに守備兵を
配置するために兵力が分散されて、各個撃破されてしまう。戦線が広がりすぎて
救援が間に合わない、そこで決戦を急ぐことになってしまった。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 19:49:07ID:zxoaS729歴史学者というよりは講釈師みたいだな。
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2006/10/26(木) 20:01:34ID:NB111ufmほら。聴衆のレベルに合わせてあえてわかり易く、聴衆が望むであろう話を喋る人っているからさ。
>>133
・・・・・つか大先生なら名前書けば?
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:01:06ID:aaQjwWsh0138名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:07:46ID:ch28aZgZ長篠は鉄砲じゃなくて野戦築城だろ
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 17:56:01ID:OqgiXvVTリスクはたいしてともなってないだろ。
鳶の巣砦は徳川領でかつて知ってる砦だし、
徳川の精兵と織田の援軍の五百の鉄砲隊があれば
かなり勝算はあったろう。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:01:26ID:OqgiXvVTいや、そうともいえない。
信長は長篠の前に近畿の家臣から鉄砲を借用してまわってる。
細川から百丁、筒井から五十丁って具合にね。
それで少々、鉄砲の数を増やして戦に望んでる。
野戦築城の場合は鉄砲や弓矢での抵抗がかなり有利。
当時の史書でも鉄砲の暴威は普通に伝えられてるし、
あながち鉄砲という部分は軽視できない。
野戦築城を生かし、鉄砲、弓、投石で抵抗したというが真相だろう。
あと織田の鉄砲の数が千丁というのは設楽原に投入した分だけで、
他に鳶の巣砦に派兵した五百丁の鉄砲隊の記述もあるし、
信長公記には記されてない徳川の鉄砲の分を含めれば二千丁はあった。
加えて少兵説に従えばなかなかの鉄砲装備率であったわけだ。
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 18:11:36ID:OqgiXvVT>>269-292あたりの議論を読んでみよう。
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1024/10249/1024935089.html
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/18(土) 20:21:01ID:YG4trBBX4年前のスレのくせに俺の知りたいことがだいたい書かれてらぁw
0143名無しさん
2006/11/19(日) 03:45:35ID:E6nsN5qKそれを決行したからやっぱり勝頼は無謀としか言いようがないね
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 11:22:04ID:FfQXNSEP無謀で片付けるには武田軍は歴戦の強者すぎないか?
考えなしに突撃するモヒカンどもとは違うんだぞ。
0145名無しさん
2006/11/19(日) 15:36:36ID:CHKK18v/でも強いといえど1万5千で3万4000に仕掛けるのは
そのモヒカンと変わらん行為だぞ
撤退ができないほど武田が追い込まれていたのなら仕方ないが
0146名無しさん
2006/11/19(日) 15:39:20ID:CHKK18v/害その身にいたるを地でやっているよな
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/19(日) 16:13:25ID:5pV6fYiz0148名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 06:57:44ID:AtRwbOur退いて退けないことはないだろう。
不利を恐れてジリ貧になっただけ。
0149名無しさん@お腹いっぱい。
2006/11/20(月) 23:11:21ID:YVln6Urkまず相手が自軍の倍以上あったかどうかを把握していたかどうかだな。
いくら織田を弱兵と侮っても倍以上となれば話が異なる。信長は兵力を
かなり少なく見せていたか、それとも誰かに寝返りを約束する手紙を書かせて
信用させたか。ちょうど厳島の毛利みたいな感じで。
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