長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:17:24ID:XrDqkzEf武田軍の兵力が、三方ヶ原の時より減っているのは何故だろう。
勢力は信玄存命時より伸びているはずなのに。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:24:04ID:yCFjqnSyだから1千しか生還できなくてもすぐには滅ぼされなかった
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:26:50ID:XrDqkzEf0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:49:37ID:+axJQ5jM状況が違ってくるだろうけど。
信越国境って冬は雪で封鎖される地域だっけ?
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 04:36:03ID:zb2GuJkF0007某研究者
2006/07/18(火) 05:10:50ID:358Q52WJ>もともと数で劣る武田軍の犠牲者の多くは、鉄砲によって
>ではなく、敗走時に討ち取られたものである。竹束柵を防
>御に幾度となく突撃を繰り返していく内に疲労困ぱいし、
>指揮命令系統が崩壊、まさにこの時織田・徳川連合軍の反
>撃を受けて、たまらず敗走したと思われる。
雨が降った後の泥の上を移動して疲労したのが
軍が崩壊した最大の原因と言う
事だっただろうが
雨が降って居なかったら
勝敗はどう成って居ただろうか
無論雨が降らなければ
織田軍も勝算は無いと見て
戦わなかった可能性も
有るだろうが
何時迄も戦いを避ければ
領土が制圧される危険も
有る訳だろうか
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 05:18:10ID:5pS1qhFq0009某研究者
2006/07/18(火) 05:21:29ID:358Q52WJとは言え
泥の中を無理に突入する必要は
有ったのかだろうし
泥等が無い状態で決戦を挑むと言う
方向も有ったのかも知れぬし
城は少数兵力で包囲して迂回すると言う
方向は無かったのかだが
0010某研究者
2006/07/18(火) 05:28:15ID:358Q52WJまあ泥の無い状態で信長と
直ぐに再戦出来る目処が
無かったと
考えたのかどうかだが
0011某研究者
2006/07/18(火) 05:31:16ID:358Q52WJ両翼は敵陣を迂回したから
疲労が増大して壊滅したと言う
可能性も有るのかも知れぬが
0012某研究者
2006/07/18(火) 05:39:18ID:358Q52WJ>この軍役率を参考にすると、長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従い三万五千とすれば、鉄砲は約五千挺ほど用意出来た計算になる。
鉄砲は5000だったと言う
意見も有る様だが
此れだけの数の銃を用意出来たのか
どうかだが
0013某研究者
2006/07/18(火) 05:45:26ID:358Q52WJ土塁の上に槍兵が立って
敵兵の陣地内への進入を防ぎ
更に土塁内部の銃眼から射撃をしたと言う
可能性も有る訳だろうか
0014某研究者
2006/07/18(火) 05:49:38ID:358Q52WJ且つ敵が泥の中を行軍して来た割には
信長軍は可也やられている訳だろうし
泥が無ければ下手をすると
負けていた可能性は有る訳だろうか
(陣地も無ければ恐らく
完敗だろうか)
0015某研究者
2006/07/18(火) 05:55:59ID:358Q52WJ戦国時代の鉄砲の総数は15万丁と有るから
5000程度は十分用意出来た可能性は
有る訳だろうか
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:09:25ID:FcgzsmUQ石高(太閤検地による算出)だけでも、織田家は約400万石、武田家は100万石弱、徳川家が55万石
織田・徳川と武田の比率は9:1(但し、織田家は武田との方面に投入できる戦力を考えると、兵力差は縮まりますが)
信玄上洛時とは違い、織田家が投入できる戦力は確実に上がっています。
>11
両翼部隊は中央部隊の早期退却による士気の壊滅から退却〜追撃による損害でしょう。
>13-14
倍以上の兵力がある場合でも、無理をせずに相手が攻め疲れるのを狙うために持久戦を選んだとも考えられます。
信長は慎重な性格と思いますので、あれほどの大戦力を持ってきたのは位攻めの効果を狙っていたかも?
防衛線を築かせたのは武田軍との決戦の為ではなく、武田軍が攻撃をしてくる可能性を考えていたの考えも面白いかもしれませんが。
極論を言えば、長篠城を守り切れば良いだけの話です。
0017某研究者
2006/07/18(火) 06:22:03ID:358Q52WJ信長がこれを狙って中央に銃や精鋭を集中配備していた可能性も
有るのかどうかだが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
>16世紀後半には2:1(=槍:銃)となり、16世紀末には1.5:1(=槍:銃)、17世紀初頭には1:1(=槍:銃)となっていた。
同時期のテルシオの銃兵の比率の方が
信長軍より遥かに多い訳だろうが
マスケット銃は精度が低い訳だろうし
火縄銃と異なり至近距離からの銃撃しか
意味は無かった訳だろうか
マスケット銃で至近距離からの銃撃をやったのは
カール12世辺りだけだったかも知れぬが
オランダ式大隊や3兵戦術で使用された様な
大量の軽量砲での攻撃と言うのは
強力かも知れぬが
テルシオの様な密集隊形相手以外は
役に立たぬかも知れぬが
0018某研究者
2006/07/18(火) 06:27:15ID:358Q52WJ有るだろうが
日本の騎兵や
16世紀後半のピストル騎兵は歩兵に突撃は
しなかった訳だろうが
グスタフ・アドルフのサーベル騎兵は
突撃をした訳だろうか
0019某研究者
2006/07/18(火) 06:36:09ID:358Q52WJ>パイク兵(Pikeman) - パイク(長槍)を持ち、鎧は一部か、あるいはまったく装備しない槍兵。
>コルスレット(Corselet) - パイクを持ち、鎧兜で完全武装した槍兵。
>アルケブス銃兵(Arquebusier) - アルケブス(火縄銃)を持つ銃兵。
>マスケット銃兵(Musketeer) - マスケット銃を持つ銃兵。なお、この当時のマスケットは、アルケブスより大型の銃の呼称である。マスケットが縮小され、先込め銃全般を指す呼称になったのは17世紀のことである。
コルスレットと言うのは
火縄銃を完全に防御出来る鎧を
着て居る兵なのかだが
マスケット銃(重小銃)では
やられていた訳だろうか
>テルシオ1部隊は、A中隊10個、B中隊2個の12個中隊で構成された(兵300名の場合は、A中隊8個、B中隊2個の10個中隊)。総数は3,000名となり、その内訳は、士官と事務員132名、パイク兵1080名、コルスレット1110名、アルケブス銃兵448名、マスケット銃兵230名である。
>全体の指揮は大佐(コロネル)が司り、彼を補佐する将校団(テルシオ全体の本部要員)は30名前後だった。
鎧を着たパイク兵(コルスレット)も可也居るが
マスケット銃兵も可也居る訳だろうが
至近距離からの銃撃以外は
当たらなかったと言う事かも知れぬが
後で銃兵の比率が多く成ったと言う事は
鎧を着た兵も減ったと言う事かも知れぬし
至近距離しか当たらないマスケット銃は
脅威では無いなら
日本の軍と白兵戦をしたら
負けたと言う事は無いのかだろうし
白兵戦前にも火縄銃の精密射撃で
可也ダメージを受けた可能性は有る訳だろうし
騎兵はピストル騎兵なので歩兵に突撃は
しなかったと言う可能性も有るだろうが
オランダ式大隊の軽量砲も
散開隊形の日本と戦う場合は
余り役には立たなかったと言う
可能性も有るだろうし
逆に日本側の大量の火縄銃の精密狙撃で
可也の被害を出し
騎兵はピストル騎兵なので歩兵に突撃は
しなかったと言う事は無いのかだが
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:37:32ID:FcgzsmUQある程度統制された射撃(with轟音)に及び柵外の妨害により安全圏から相手の戦力・士気を削る。
槍衾を形成できる密集隊形に対して、統制された射撃は効果があったでしょう。
若しくは矢合わせ・投石の遠距離の交戦の段階で中央部隊の士気が減っていた可能性もあります。
(何しろ、武田方は遮蔽物が皆無な状態に近いですし、野戦用とは言え完成された陣地を攻める方ですから)
それと、wikiに記載されている武田家の損害に対する疑問がある程度の真実かどうかが鍵でしょうね。
(当然、織田・徳川連合軍の損害も遥かに低下する訳ですから)
0021某研究者
2006/07/18(火) 06:38:29ID:358Q52WJ壊滅した可能性も高いのかも知れぬし
仏軍もサーベルチャージと言うのが
有っただろうか
0022某研究者
2006/07/18(火) 06:40:35ID:358Q52WJチェリニョーラのスペイン軍や
信長軍の様に障害物を
築けば
火縄銃の精密射撃で殲滅出来た可能性も
有るのかも知れぬが
陣地への重砲の攻撃でやられた可能性は
有るのかどうかだが
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 06:41:06ID:uQoYMef+鳶ノ巣山を固められてたらどうにもならなかった、みたいなことを太田牛一も書き残している
そして徳川軍酒井勢と、織田軍馬廻選抜隊の奇襲によりこの鳶ノ巣山が落ちたことで武田軍は包囲される破目になった
0024某研究者
2006/07/18(火) 06:56:52ID:358Q52WJ>それとやはり武田軍は戦うべきではなかった。鳶ノ須山を攻略されて背後を取られたとしても、何とか撤退
>を試み、織田・徳川軍を山岳地帯へ引きずり込み、ゲリラ戦で殲滅することも不可能ではなかったと思う。
と有るが
此れは可能だったのかどうかだが
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 07:13:04ID:FcgzsmUQ五月廿日戌の刻、のりもと川を打ち越し、南の深山を廻り、長篠の上、鳶の巣山へ、
五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄炮を僮と、はなち懸け、
責め衆を追ひ払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々を焼き上ぐ。
籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて候間、癈忘致し、鳳来寺さして敗北なり。
鷲の巣山へは20日22時移動開始、攻撃は21日8時。設楽が原の戦闘は21日朝
これを考えると、最初は小競り合いだったのが鷲の巣山へ別動隊が攻め入るのを見て、
ある程度手薄になったと勝頼が錯覚して本格的に戦闘を命じたのかも。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 07:17:50ID:FcgzsmUQ20日22時まで
鷲の巣山に移動・到着〜攻撃開始
21日朝
設楽が原で小競り合い
21日8時
鷲の巣山周辺の残敵壊滅・長篠城包囲網崩れる
本格的交戦の開始
>25に解釈の間違えがありましたことお詫びいたします。
0027某研究者
2006/07/18(火) 07:22:11ID:358Q52WJ信長軍が銃を中央に集中した為に
中央が早期に崩壊した事が
原因かも知れぬが
武田軍が早期に退却したと言うなら
信長軍の損害が妙に多いが
信長軍が無理な追撃をした所為と言う事は
無いのかどうかだが
0028某研究者
2006/07/18(火) 07:41:01ID:358Q52WJ失礼17世紀後半迄は
西欧でも火縄銃が主流と言う事だっただろうが
日本の様に狙撃はして居たのかだろうし
オランダ式大隊等を見ると一斉射撃をして居た様に見えるが
テルシオではどうだったのだろうか
0029某研究者
2006/07/18(火) 08:25:24ID:mXnYUZaD>ホイールロック銃を主力火器として採用したのは、グスタフアドルフのスエーデン軍が有名です。
>30年戦争で、グスタフアドルフ軍が活躍したのは、ホイールロック式銃のおかげとも言われています。
>ホイールロック式銃の欠点として、高価で故障が多かったため、採用しなかった国が多い事は事実ですが。
発射速度は火縄銃より早いのかも知れぬが
狙撃はして居なかったと言う
事だろうか
0030某研究者
2006/07/18(火) 08:34:58ID:mXnYUZaD陣地や城内からは一斉射撃では無く
一人毎狙撃していたかも知れぬし
此れを正面から攻略すれば
可也ダメージを受けたと言う可能性は
有る訳だろうか
0031某研究者
2006/07/18(火) 08:35:54ID:mXnYUZaDハンマーの反動と言うのは
有るのかだろうし
無いとすれば精度は
フリントロックよりは
良かった訳だろうか
0032某研究者
2006/07/18(火) 10:11:16ID:mXnYUZaD明らかかも知れぬし
制海権が無ければレパント後のトルコの様な状況に
陥る訳だろうか
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 15:58:15ID:qbmmhAek「三段撃ち」の言葉は、この想定の一つとして使用されてきたと思われるが、二つの解釈がある。
・「三千挺の三列交代射撃」はありえない。
目の前に敵がいる、いないにかかわらず「千挺ずつ絶え間なしに発砲を続ける事になる。
・鉄砲を三段に分けて交互に撃つ形で、たとえば「三人一組で順次に撃てる体制をとることだ」
小瀬甫庵の『信長記』はこの「千挺ずつ」を下知として記すが、鉄砲使用場面とは区別している。
二つの解釈は実際の撃ち方では大きな隔たりがない。
ただ「鉄砲計を相加」がどんな撃ち方で有効なのかについては議論がかみ合ってない。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 15:59:16ID:qbmmhAek0035某研究者
2006/07/18(火) 16:20:30ID:mXnYUZaD前後に入れ替わって放ったと言うのが
妥当なのかも知れぬし
1000−5000もの銃眼が
土塁に有ったのかどうかだが
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 19:06:44ID:eEoVUw2W長篠合戦 武田の敗因
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1046/1046579990.html
長篠合戦 武田の敗因 U
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1047/1047832129.html
「長篠・設楽ヶ原の戦い」ー武田軍の敗因は?その3
ttp://makimo.to/2ch/hobby_warhis/1070/1070044365.html
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 19:07:16ID:eEoVUw2Whttp://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1013088044/
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:20:39ID:08lN5u2Y0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 22:32:35ID:BlNgUoa2弱体化していく武田を見るのは耐え難い辛さだったろうな
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 23:51:33ID:jAK9Gs7R0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/19(水) 10:34:34ID:QQtFGndq〜真説・長篠合戦〜
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~b_stone/nobunaga/rekishi/nagasino_1/nagashino1_1.htm
0042某研究者
2006/07/20(木) 15:14:02ID:vMkVs8lo中央を早期に崩壊させて
勝利したと言うなら
矢張り鉄砲の集中運用で
勝利したと言う
事かも知れぬが
アジャンクール同様に泥が無かったらどう成って
居ただろうか
0043某研究者
2006/07/21(金) 11:33:29ID:h2bDD/ps全軍を撃破と言うのは
良く有る事なのかだが
本隊は襲撃を受けぬ様な後方に置いて
外線作戦をやられれば
兵力が劣勢なら大概は負けると言う
事かも知れぬが
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 19:52:55ID:E9x6GI8Hずっと読みやすくなるし、文章の格も上がりまするよ。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 20:23:26ID:+Up0F6nj「〜し」「だろうか」「だが」とかも、その後に続く言葉に繋がってなかったり、それで言い切りの形になってたり。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 20:56:58ID:St/YxcuD0047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 21:00:40ID:NuJsHYTHそういう人ですから。
忠告するなんて無粋ですよ。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/21(金) 21:09:02ID:St/YxcuD無駄なのかもしれないのは
自分でも分かってるだろうか
しかし忠告したくなるのも
仕方ないのではなろうか
自分でも書いてて頭痛くなるのではないだろうか
0049某研究者
2006/07/21(金) 23:14:52ID:+Up0F6njそもそも歴史に深くない諸君らには
そんなことしか言う事はないのだろうか
私は私なりに調査したことを書いたまでだが
ともあれ長篠戦で長期戦になり不利になるのは
連合軍の方なわけであるし
合戦が武田軍占領地域の中で行われていることから
明らかであるが勝頼は本当に焦燥していたのだろうかだが
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