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長篠・設楽原合戦の真実

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A7
近年、多くの新説が提唱されている長篠合戦のスレッドです。
02622542007/09/18(火) 04:33:21ID:WYTKK3j2
皆さん色々とありがとうございます。
平地や追撃戦などの条件が揃えば騎馬戦もありえなくもないかもですね。
少数なら騎馬隊自体の存在もありえそうですし。

>>257
>酒井隊の攻撃は時間的に決戦の動機にならない^^:
>滝沢川を渡った時点で退却は不可能だから、それ以前に決戦を決意したんだよ。
>決戦の理由自体は勝頼が手紙で書いてる^^
川を渡った時点で退却不可能というのが理解できないのですが……
とりあえず小競り合いで様子見るとかそんな感じで対峙したって考えはおかしいですかね?
手紙の真偽については自分にはサッパリわからないので、訳も正確にできませんし、
それについてはすいませんわかりません。
信長公記はある程度読みましたが、長篠の戦い(設楽原の戦い)については
あんまり信用できるものではないと思ってます。あまり信憑性がない気が……

……で、>>26さんが

 ここから想像できる時系列を纏めると、
 20日22時まで
 鷲の巣山に移動・到着〜攻撃開始
 21日朝
 設楽が原で小競り合い
 21日8時
 鷲の巣山周辺の残敵壊滅・長篠城包囲網崩れる
 本格的交戦の開始

と仰られてます。他の方の書き込みからも時系列的にはこれで正しいんでしょう。
21日朝の小競り合いに過ぎず本格的な交戦に入るのはやはり酒井隊の奇襲により、
武田側が持久戦不可能になったから、博打的な攻撃(または被害覚悟の退却)に出るしかなかった、
で辻褄合うと思うんです。これも可能性の話に過ぎませんが。

最初から決戦する気だったとしたら仕掛けるのが遅すぎなのが気になるんですよね。
とは言いましたが、あんまり自信はないです。
唯一自分で所持している本に、仕方なく決戦に踏み切ったとあるのでその説を信じてるだけなんですが。
0263人間七七四年2007/09/18(火) 06:09:23ID:sAy0it2v
>>262
武田軍が滝沢川を渡って陣を構えた所は、山に囲まれ背後は川、前方には織田・徳川連合軍。
つまり背水の陣を敷いたんだよね。この時点で武田軍は戦うしかなくなった。
信長もこの時点で勝利を確信して

長篠との間三里余候、敵之備雖為節所、十八日押詰鉄砲放候、通路も不可合期候、却而擒候、此節根切眼前候

という、 敵は移動に不便な所に陣を敷いたから、勝頼を捕らえるか討ち取るかは目の前だよ〜って手紙を細川藤孝に送ってる。
んで、対する勝頼は同日に

然者長篠之地取詰候之所、信長家康為後詰雖出張候、無指儀及對陣候、敵失行之術、一段逼迫之躰候之条、無二彼陣へ乗り懸、 云々

敵はビビッて対抗の手段が思いつかず、陣に篭って逼迫した状態になってるから、攻撃かけちゃうよ〜って手紙を家臣の長坂光堅に送ってる。

だから鳶の巣攻略は長篠本戦の開戦には関係がないと思うよ^^
0264人間七七四年2007/09/18(火) 07:42:16ID:5AJ1ISrk
>>261
一般論と特別な事例の違いでしょう。
信長公記がわざわざ騎馬で乗り入れてきたと言及しているからには、
それは一般的なことではなく、珍しい例だったからだろうし、
甲陽軍鑑だって一般論を述べているに過ぎず、
騎馬での攻撃が全くなかったと言っているわけではない。

要するに一般的なことではなかっただろうが、
一部の例としては騎馬突撃もあったということでよいかと。
0265人間七七四年2007/09/18(火) 16:46:20ID:sAy0it2v
あったとすると
どう用いられたかが、微妙だよね。
全体の10%少しの騎馬武者を、どう集めてどのように使ったかっていうのが分からない。
ましてや子荷駄隊やらにも結構な数が振り割られてるだろうし。
戦場に立った騎乗の士はもっと減るわけでしょう?
ましてや、指揮官的立場にあった騎馬武者が集団で突撃の為に部隊から抜け出していいのかな??
0266人間七七四年2007/09/18(火) 18:09:42ID:5AJ1ISrk
騎馬突撃と言っても、騎馬の者のみを選抜して騎馬隊で突撃したのではなく、
騎馬の周りに徒歩の従卒が付き従って一緒に突撃したのではないかと思う。
そういう事例も既に一般的にはないようになっていたか、
或いはそういう攻撃の場合の騎馬の割合が特に関東では高かったので、
特筆して騎馬で乗り入れて来たというような表現になっているのではないだろうかと。
0267人間七七四年2007/09/18(火) 18:40:50ID:sAy0it2v
あーなるほど。
歩騎混同での突撃ね。
でも武田家は結構早くから鉄砲を取り入れてるよね。
その武田家が将校が狙撃される可能性の高い歩騎混同での攻撃を仕掛けるのかな。
いまいち納得がいかない^^;

やっぱり馬入れは飾り言葉な気がする。
0268人間七七四年2007/09/18(火) 18:58:18ID:sAy0it2v
あと軍記物での合戦描写は、経験や取材から、その当時の戦がどのような形式で行われていたかに限れば、
結構脚色はあるけど信憑性は高いと思うよ。
上記の近藤氏もそれに着目されて、比較検証してるんだけど明徳の乱以降の戦闘形式を知る書物として「応仁記」がある。
ここでは、みんな下馬戦闘しているね。
鉄砲出現以前にも下馬戦闘が主流となっているのに
100年以上後の武田軍がそんな時代遅れな戦い方するかな??
0269人間七七四年2007/09/18(火) 19:08:09ID:5AJ1ISrk
>>267
飾り言葉といっても、わざわざ信長公記が、
武田軍の中の小幡隊のみを飾り付けてあげる必要もないのだし、
もとより武田のほとんどがそうだとか、
主力がそうだったとか言われているわけでもないのだから、
そんなに気にする必要もないと思うが。

そういうのもいたってだけでは?
0270人間七七四年2007/09/18(火) 20:35:39ID:5rRHruNZ
甲陽軍鑑は近世成立だから、戦術も近世準拠=徒歩突撃主体
と考えるべきかと
ついで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E3%81%88
0271人間七七四年2007/09/18(火) 21:06:43ID:sAy0it2v
>>269
まぁ確かに。
ただ一部で騎馬突撃があったなら
なぜそんな戦い方をしたんだろう??

>>270
明徳記や応仁記などにも下馬戦闘ばかりの記述だよ?
戦国期は馬上突撃自体時代遅れの戦術になってるかと^^;
甲陽軍鑑自体の成立も最近は江戸以前だという説が有力だよね^^;
0272人間七七四年2007/09/18(火) 21:13:50ID:5rRHruNZ
>>271
ありゃ、西国だからと考えてます。馬の産地は東国ですから
その分、馬を大事にするレベルも異なるかと。
甲陽軍鑑は引用した記録は中世だろうけど、テキストとしては
近世成立と考えているので、その点はいじってると思います。
0273人間七七四年2007/09/18(火) 21:30:28ID:sAy0it2v
>>272
西国が100年前には下馬していたのに、東国がそんな事するかな。
あと大久保彦左衛門が『三河物語』で戦いの際は下馬して戦い、追撃の時のみ馬に乗るっていう記述があるしね。
02742542007/09/18(火) 21:38:31ID:nFuTukeD
>>263
>武田軍が滝沢川を渡って陣を構えた所は、山に囲まれ背後は川、前方には織田・徳川連合軍。
>つまり背水の陣を敷いたんだよね。この時点で武田軍は戦うしかなくなった。
わかんないです、これ。
背水の陣がそこまで直結するはずないと思うんですが。
わざわざ背水の陣なんか敷いたら逆に罠っぽくないですか?
それ見越しての時間稼ぎブラフと読み取ってもおかしくないと思うんですが。

>敵は移動に不便な所に陣を敷いたから、勝頼を捕らえるか討ち取るかは目の前だよ〜って手紙を細川藤孝に送ってる。
これは単に細川藤孝をけしかけようとしてるだけじゃないでしょうか。
本当にそう思ってるのだったらさっさと総攻撃した方が道理にかなうように思えます。
これが信忠、光秀、秀吉とかの幹部クラスにあてた手紙なら真実味ありそうですけど……

>敵はビビッて対抗の手段が思いつかず、陣に篭って逼迫した状態になってるから、攻撃かけちゃうよ〜って手紙を家臣の長坂光堅に送ってる。
これも、家臣の動揺防ぐために大口叩いてるだけとも取れます。

なのでこの辺を理由として
> 鳶の巣攻略は長篠本戦の開戦には関係がない
ていうのは無理がありませんか?
可能性は十部なるけれど、決定打にはなりえないかと。
0275人間七七四年2007/09/18(火) 21:45:36ID:5AJ1ISrk
>>271
そりゃあ馬に乗った突撃の方が衝撃力がありますから。
だからこそ騎馬突撃は世界中で近代まで使われていたわけだが、
そのためにはそれなりの数の馬が必要。
東国にはまだそれなりの数を集めることが可能な場合もあったのでは?
0276人間七七四年2007/09/18(火) 21:56:03ID:5rRHruNZ
>>273
雑兵物語でも騎馬突撃の記事がある。但し、今(近世初期)となっては
珍しいと言う位置付け。東国は西国に比べ騎乗レベルが高いと言うのもあり
0277人間七七四年2007/09/18(火) 22:18:00ID:sAy0it2v
>>274
滝沢川は凄い渓谷だよ
三方が塞がれ、前方が敵。兵法で言うところの死地。
敵を前に退却しようとすれば、どうなるかわかるよね〜^^;
そんな状態で罠??
ちょっと考えられないと思います^^;
ましてや背水の陣は本体を囮にして陽動隊で敵拠点を落とす戦法でしょ??

>>これは単に細川藤孝をけしかけようとしてるだけじゃないでしょうか。。。
藤孝に何をけしかけるの??
因みに藤孝には鉄砲隊を借りてるから、戦況報告を送ってる。
それ以前の手紙は鉄砲到着を知らせたり、感謝状のみだったのに
武田軍が滝沢川を越えた途端、このような手紙をだした。

>>本当にそう思ってるのだったらさっさと総攻撃した方が道理にかなうように思えます。

先述したように長篠攻撃は美濃明智 高天神 長篠と一連の軍事行動です。
美濃、駿河にチョッカイを出し続けてきた、武田軍を殲滅する為に
信長が計略を張ったとは考えられないでしょうか??
信長が積極策をとれば、動員力の劣る勝頼方は決戦に慎重にならざる負えません。
その為にも明智、高天神に続いて長篠でも消極策をとったものと思われます。
あと、経済格差の為に織田方は無理して、ここで武田方を潰す必要がないというのも
あると思われますが^^;

>>これも、家臣の動揺防ぐために大口叩いてるだけとも取れます。
それは考えられますね^^長坂光堅が織田との決戦に甲斐国内で不安を感じているという手紙を送ってきたので
それに答えての事から、その可能性はあります。
ただ戦後の手紙には、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間
と勝頼が決戦を望んでいたと本人が書いてます。
これは先述の経済格差からの焦りかと思われますが、そこを信長に上手く乗せられたのかと^^

あと鳶之巣自体は時事的に無理なんだって!
あなたが何故>>26を支持する理由を聞きたいです。

0278人間七七四年2007/09/18(火) 22:25:52ID:sAy0it2v
>>271
>>266であなた自身が歩騎混同の突撃であったと言ってるじゃないですか^^;
その編成で騎馬の衝撃力を期待するのは無理がありますよ。

あと当時の日本の武装を見ると欧州と違って長柄の比率がドンドン下がってますよね。
これこそ、騎馬突撃が無かったと言う証左では??

>>276
ごめんなさい、『雑兵物語』は読んだことが。。。
どのような記述ですか??
教えてください><
0279人間七七四年2007/09/18(火) 22:37:26ID:5rRHruNZ
>>278
大意
「最近は馬乗りを行わなくなったが、この前の合戦で二十騎か三十騎の武士がそれぞれ
弓や槍などを持って、敵陣の乗り入れて崩した」
こんな感じ、岩波は実家に置いてきいてるのですわ

因みに足軽隊と騎馬隊の任務区分と言うについては
wikiの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E3%81%88
を参照してください
0280人間七七四年2007/09/18(火) 22:50:40ID:5AJ1ISrk
>>278
いや、普通に人間だけが走ってくるよりも、騎馬もいたほうが衝撃力があるでしょう。
そりゃあ騎馬隊とは比べ物にならないだろうが。
0281人間七七四年2007/09/18(火) 23:13:36ID:sAy0it2v
>>279
なるほど〜サンクスです^^
稀に行われてたんですね。

ウィキ記述については何ともいえないですね^^;

>>280
デメリットの方が多くないですか??

ただでさえ、雨でぬかるんでる場所で、小幡勢が何故そんな攻撃をしたか謎。
ちょっと納得きかねるんですよ^^;
0282人間七七四年2007/09/18(火) 23:30:39ID:5AJ1ISrk
>>281
気にしすぎ。
0283人間七七四年2007/09/18(火) 23:54:06ID:sAy0it2v
お互い様ということで^^
02842542007/09/19(水) 01:12:04ID:50YBuFdj
>>277
>滝沢川は凄い渓谷だよ
 (中略)
>ましてや背水の陣は本体を囮にして陽動隊で敵拠点を落とす戦法でしょ??
兵法でいうところの死地に武田軍が布陣した。
ならば信長から見れば、何故そんな行動に武田軍が出たのか不気味に思うと思いませんか?
背水の陣というのはそれを行うこと自体が既に罠っぽいと思うんですけど。

>藤孝に何をけしかけるの??
藤孝「に」ではなく、藤孝「を」武田にけしかけるということです。

>あと鳶之巣自体は時事的に無理なんだって!
申し訳ありませんが、わたしには時事的に無理な理由がわかりません。

>あなたが何故>>26を支持する理由を聞きたいです。
他の方の意見も大体こんな感じではないでしょうか?
時事的に無理と言われるからには、そちらには違った見解があるのでしょうけれど、
だとしたら、その考えを伺いたいです。是非教えて下さい。
02852542007/09/19(水) 01:20:22ID:50YBuFdj
すいません。書いてる途中で投稿してしまいました。

>ましてや背水の陣は本体を囮にして陽動隊で敵拠点を落とす戦法でしょ??
それだけしか使い道がないわけではないでしょう?
例えば、三国志演義によると、策も何もなくただ背水の陣を敷いただけで、
相手が何か罠があるはずと思い、安全策を取って後退していたりします。
時間稼ぎのブラフって言ったのは、それと同じことを勝頼が狙ってた可能性も
ありえるんじゃないかということです。

藤孝を武田にけしかける〜〜のくだりはそういう理由で、探りを入れるためにやったんじゃないかと。
想像でしかありませんけど、十分それっぽい話ではあると思うのですが。
0286人間七七四年2007/09/19(水) 02:25:01ID:wDT1DGI8
>>257
信長自体は武田を警戒しながらも畿内の敵を優先して潰してました。
長篠救援にも渋っており、徳川の使者の熱意に渋々ながら出兵した形です。
信長としては、このまま畿内の外線戦力を潰していけば先に上げた経済格差により
時間が遅ければ遅いほど、織田と武田の戦力が開き武田とは組し易くなります。

反対に武田側は、早く織田と決戦をしなければ戦力の差が覆しようがない程開いてしまう為、決戦を焦っていました。
累年の願望云々。。。は勝頼が以前から織田との決戦を望んでいた事が分かりますね〜。

武田四郎滝沢川を越し来たり、あるみ原三十町ばかり踏み出だし、
前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで、だみね、ぶせち衆を相ひ加へ、一万五千ばかり、
十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ候。
今度間近く寄り合わせ候事、天の与ふる所に候間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ

滝沢川を勝頼が渡り対峙した時点で
信長が武田軍が決戦を望んできたのを知り、喜んでる場面です。

>>藤孝「に」ではなく、藤孝「を」武田にけしかけるということです。
細川家はこのとき織田家に鉄砲隊を供出してます。
織田に協力している家を何故けしかける必要は無いと思う〜

>>他の方の意見も大体こんな感じではないでしょうか?
結構反対意見でてますよ。
他の人がこうだからっていうのはちょっと。。。。^^;

勝頼が退却不能の滝沢川を渡った時点で決戦の意を決意したと思っていますので
鳶の巣攻略が決戦の原因というのは無理だと思います。
あと

五月廿一日、辰の刻、取り上り、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄炮を僮と、はなち懸け、責め衆を追ひ払ひ

五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり入れ替はり相戦ひ

二十一日午前八時頃 鳶之巣攻撃開始。

同日、日の出より午前五時に向けて午後二時まで入れ替わり立ち代り武田軍が攻撃をかけてきた。


0287人間七七四年2007/09/19(水) 20:58:28ID:7URISIXb
>>281
雑兵物語の想定時期は関ヶ原〜大坂〜島原の近世初期なので
それ以前は騎馬突撃はそれなりに行われてたと考えてます
0288人間七七四年2007/09/19(水) 21:29:11ID:d0t5TiHk
「御旗楯無しご照覧あれ」
「突撃ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「ズドドーーーーーン!パーーン、パパン!パンパパーン!」(鉄砲の音)
「ひひ〜〜〜〜〜〜〜〜ん」(馬が泣き叫ぶ)
「怯むなーーーーーー!突撃ーーーーーーー!」
「高坂隊壊滅でございます!高坂弾正討ち死にましてございます」(高坂隊兵卒)
「殿!ここは一旦、兵を引き大勢を立て直すが肝要かと!」(馬場)

つづく




0289人間七七四年2007/09/19(水) 21:29:13ID:wDT1DGI8
>>287
想定時期が関ヶ原〜大坂〜島原の近世初期だから
それ以前に騎馬突撃がそれなりにあったという理由は何ですか??
宜しければ教えてください。
私は前述の軍記物の記述による流れから近藤氏の説を支持します。
0290人間七七四年2007/09/19(水) 21:50:23ID:wDT1DGI8
追記
又、前述の竜城神社文書も偽文書の疑いが強い為、信じることもできません。
0291人間七七四年2007/09/19(水) 22:16:47ID:7URISIXb
「武田流」と言う軍書の「上方武士ト合戦ノ事」に

「ナニタリ事ニヤ、上方士ハ馬ヲ入ル事カナキ」

と言う具合に東国武士が騎馬突撃したことを伝えている
(この記述は「雑兵物語」と同一の内容を伝えている)
0292人間七七四年2007/09/19(水) 23:25:10ID:zaPzn91B
話に割り込みスマソ… 数年前、現地を色々巡って来ましたが、一般に言われている長篠合戦の模様に随分疑問が湧きました。有名な両軍の兵力の疑問はもちろんのこと、別働隊の奇襲とかも「?」というカンジでした……

この板で論じるほどの知識のあるかたは、是非現地に行かれる事をお奨めしますよ。新しい疑問や発見があるかもしれません。
0293人間七七四年2007/09/19(水) 23:52:05ID:YXu9oQUi
なかなか良スレだな。

以前、ここで書かせてもらった元傭兵のオッサンだが、「くるるん」なる御仁はもう来られないのか?
「戦国遺文集」というのを紹介してもらって、本当に読みたいのだが、見つからない。

もし入手方法を知っているお方がここにいたらご案内頂けたら有り難い。
何卒、宜しく頼む。
0294人間七七四年2007/09/20(木) 01:22:56ID:3dluYl7x
馬場や山県等はこの戦で戦死して良かったのかもな。
この敗戦のあとの衰退著しい武田の中で、
名を貶めていった(後世の歴史観ではあるが)他の武田家臣を見るとね。
0295人間七七四年2007/09/20(木) 01:35:34ID:5bKKwIfv
>>293
どういう話かわからないけど、「戦国遺文集」は知らないが「戦国遺文」なら知ってる
それの間違いじゃないの?

ここは武田関連スレなんで、「戦国遺文 武田氏編」の事かと思う
図書館で取り寄せて貰うとかするしかないと思う
多分、館外への貸し出し禁止なんで、コピー取るしか(しかも半分まで)なさげだろうけど

一番いいのは購入する事だろうけど・・・高くて無理w
0296人間七七四年2007/09/20(木) 01:35:59ID:DKb8Ail/
>>293
「戦国遺文集」という本は存在しないが「戦国遺文」という本が
東京堂出版なる会社から出ていて、確認する限り15冊
その内武田氏編が6冊あるのでこれらを指して「戦国遺文集」
と言ったのではないかと思われる。値段高いけど比較的最近の出版物
だから図書館に行けば読めるのではないかな(地元の図書館で確認済み)
違ってたらすいません くるるんさん
0297人間七七四年2007/09/20(木) 01:51:45ID:DKb8Ail/
見事にシンクロしちゃってるしw
追加情報しとくと
値段は17850が5冊と15750円のが一冊
地元の図書館だとやっぱり館内利用のみ
長篠関連でいうと四巻(1575〜1578)もしくは三巻(1570〜1574)
あたりを読むのがいいのかなと思う
0298人間七七四年2007/09/20(木) 22:51:36ID:W9w8FlbA
>>286
>細川家はこのとき織田家に鉄砲隊を供出してます。
>織田に協力している家を何故けしかける必要は無いと思う〜
何故そういうことになるのか理解に苦しむのですが・・・
敵の出方見るのに秀吉などの幹部や忠誠心のある旧臣を使いたくなかった。
細川辺りが妥当だったと考えれば説明付くと思いますが。

>勝頼が退却不能の滝沢川を渡った時点で決戦の意を決意したと思っていますので
>鳶の巣攻略が決戦の原因というのは無理だと思います。
こんな言い方はなんですが、貴方がそう思ってるだけでは?
多数の支持を得てる意見ならばもうこれ以上突っ込みませんが、どうもそう思えませんので。
0299人間七七四年2007/09/20(木) 23:39:08ID:mocrNIpJ
>>298
もしかして細川家の諸将が長篠に従軍してると思ってらっしゃるのでしょうか??

あと鳶之巣に関しては、286の最後の部分に書いてあります。時間的に無理です。
0300人間七七四年2007/09/21(金) 00:53:36ID:aL4BL8Av
>>298
私は別人ですが、賛同しています。少なくとも手紙や行動を見る限り、勝頼は
長篠当日以前から決戦を志向していたことが読めます。というか逆に、決戦を
考えていないのなら何故滝沢川を渡ったのかが理解不能になります。対峙して
長期戦を狙うのなら、むしろ川を挟んだほうがはるかに都合がいい。(退却を
考えたとき、川が敵の追撃を阻む壁となる)

そもそも何度も指摘が上がってますが、時間的に無理がある。
五月十八日  織田徳川軍、設楽郷極楽寺山に着陣。(長篠から西方約四km)
  二十日  武田軍、長篠北医王寺から東へ移動。設楽原で両軍向かい合う。
       午後八時、酒井別働隊出発。
  二十一日 日の出とともに武田軍攻撃開始。合戦は午前六時から午後二時まで。
       合戦途中で勝頼本陣に鳶巣山砦陥落が伝えられる。
0301人間七七四年2007/09/21(金) 01:20:36ID:8cR/Q8O9
>>295-297
ご案内、感謝する。水を差して悪かったな。
目下、毎日が日曜日だ。何ヶ月に一回くらい、体験談の小講演に引っ張り出されるくらい。
図書館に当たってみるよ。禁煙ってのが辛いがな。では。
0302人間七七四年2007/09/21(金) 01:25:27ID:Lr8gN6Ob
>>293
>>301
見落としてた^^;
名無しで潜伏してま〜す
所々書状やら何やらは自分のレスです^^;

自分は国会図書館で見てましたよ〜^^
『戦国遺文 武田氏篇』で6冊あります。

あと織田方としては
『織田信長文書の研究』があります^^

また小和田哲夫氏の
『徹底検証 長篠・設楽原の戦い』
は現地調査と、書状から当時の合戦を考察されており
すごいおススメです^^
0303人間七七四年2007/09/21(金) 01:28:44ID:8cR/Q8O9
おう、どうも有難うよ。重ねて礼を言う。
時間はあるし、不精じゃないから巡ってみよう。
0304人間七七四年2007/09/21(金) 15:21:17ID:qKJNXaDJ
>>298
細川も筒井も兵こそ出しているけど本人はこの時畿内にいる、
だから信長は書状で戦場の様子を伝えている。


自分は鳶の巣攻略が決戦の原因にも、
長篠当日以前から決戦を志向していたことにも賛同している。

武田としてはこの機会に決定的な勝利を得ようと、一部を長篠包囲に残して
織田徳川の正面に進出、その上で
正面から挑む積りだったのか長篠が落ちてから戦う積りだったのか、
長篠が落ちて出兵目的が無くなった織田が撤退するところを攻撃する積りだったのか、
そこまでは分からないけど何らかの手段で戦う積りだった。

ところが鳶の巣攻略によって長篠が解囲され、包囲の危険が発生し
武田は今すぐ戦わなければならなくなった
そう言う意味では鳶の巣攻略が決戦の原因も正しいと思う。


こっからは個人的な感想だが武田側も陣城を構築していた跡があるので
武田は本来は長期戦の構えで、長篠を救援しようと進出してくる連合軍を
陣城で防いで、長篠が落ちた後、いずれは撤退する連合軍に攻撃する積りの
後の先を取る積りだったんじゃないかと。
史実じゃ正反対になってしまったが。
0305人間七七四年2007/09/21(金) 21:48:07ID:aL4BL8Av
>>304
だから、記録では鳶巣が攻略されたのは(少なくとも勝頼がその事実を知ったのは)決戦が始まってからですよ?
それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
決戦に切り替えたと?
…自分で言っておいてなんですが、この可能性もたしかにありますな。
だとすれば、決戦に誘引した信長の手腕もたいしたものですが。酒井隊の派遣も、武田軍が川を渡ってから、
つまり鳶巣に緊急事態が発生しても援軍を出すのが困難な状況になってからですし。
0306人間七七四年2007/09/22(土) 00:02:36ID:Zb/tGiK9
>>305
上で言ってるように武田が最初に考えていた決戦と
鳶の巣攻略後の決戦は意味が異なるって言ってるのだが。
前者では上に挙げたような何らかの手段で戦う積りで
後者では包囲を防ぐためにも一刻も早く連合軍を蹴散らすかして
長篠から離脱するための戦いをする決意をしたということ。

>それとも、武田軍は当初は決戦のつもりはなく様子見で小当たりしていた程度だったが、鳶巣陥落を知って急遽
>決戦に切り替えたと?
決戦をする積りではあったがそれは武田に有利な状態での話しで
武田側は21日早朝の時点では正面からぶつかる積りは無く、鳶巣が攻略されて急遽
決戦に切り替えたというか戦わざるを得なくなった、と自分は考える。


話しは変わるが長篠は西から
連合軍の陣地、連吾川、武田陣地、五反田川、有海原、寒狭川、長篠
となっているわけだが
『信長公記』だと18日滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が有海原に進出して寒狭川を
隔てて武田と対陣、で武田も有海原に進出、
その後20日夜となって連子川で対陣していることになっているが、
武田は滝川らを蹴散らしたのかどうか?
ただ20日付けの長坂や三浦への書状だと、連合軍を押し詰めて、
相手はどうすることも出来なくなっている
とかなっていて、織田の先手を打ち破ってこの調子で戦っていれば勝てると考えたのか?

でも織田側は牛一が寒狭川を渡らなきゃ良かったのにとか
20日付け細川宛書状でこの機会に殲滅するようなことを書いているから
上手く誘き出されたと見るべきか
0307人間七七四年2007/09/22(土) 01:15:29ID:FNuHxcVP
>>306
蹴散らしたと思うよ^^
何度も引用して申し訳ないけど
戦後の勝頼の書状に

三州長篠之地取詰候処、織田・徳川為後詰打出候条、累年之願望令満足候間、
即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候

即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処

と緒戦で勝利を収めた事を書いている。

あと、>>304にある長期戦を挑むなら、滝沢川を渡る意味はないと思う。
0308人間七七四年2007/09/22(土) 01:21:31ID:Zb/tGiK9
>>307
長篠落城→織田徳川撤退→武田追撃
の流れを狙うとすれば織田徳川の近距離にいないと追撃で大きな被害を与えられない
ってことになるんじゃ
0309人間七七四年2007/09/22(土) 03:44:55ID:tLEq1Dxh
騎馬隊否定説に関してはもうほとんど論破されてるに近い。
騎乗指揮官と別に、部隊として騎馬隊はあった。
鈴木の本は見てわかるように、荒唐無稽なこじつけだらけ。
騎馬突撃に関しては原則従卒は戦闘に参加しないようだが、
中世欧州の騎士のように従卒が突撃に後続したりしなかったんだろうか?
ここがくわしい

次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 2
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/l50
0310人間七七四年2007/09/22(土) 08:04:56ID:75/2Rs5K
>>308

いくらなんでも長篠城陥落前から追撃戦の話になるのは無理があるだろ?
仮に長篠城の押さえとして残してきた3000人で長篠城落とせるとも?
あと連合軍にとっても長篠城が陥落したとしても、武田の倍以上の兵力があるのですぐに撤退の話にはならずありとあらゆる手をつかって武田軍を引きずり出して撃滅するだろ。信長にとってもこの機を逃すと苦境から脱出できない思いもあっただろうし。
0311人間七七四年2007/09/22(土) 08:21:05ID:KrOhLt7I
物見の報告で行軍中の織田軍が武田軍の倍はいる報告は受けていなかった
のか?
戦術家としては1流の勝頼が2倍の敵との決戦を望んだのはなぜ、以前
はお互いが何度も回避しているのに
0312人間七七四年2007/09/22(土) 12:08:54ID:GIMpAyjg
山県は馬場の両翼隊が敵前線を迂回突破することが出来たら
勝ってた可能性ももあるし
被害減で撤退できたかも知れない
0313人間七七四年2007/09/22(土) 13:19:13ID:+M6pROib
敵戦力の算出は基本的にどんぶり勘定だからな。
遠目じゃ戦闘員と輜重員の識別も難しいし。
そもそもWW2のような現代戦でさえ当時報告された概算敵戦力と
実際の戦力が全然違うというのは良くある話。
制空権を完全に握って存分に航空偵察できた米軍でさえそんなレベル。
当時の武田方も敵が「大軍」であることは認識してただろうが自軍より圧倒的
優位とまで認識していたかどうかは疑わしい。
当時の長期行軍が将兵に強いる体力負荷が馬鹿にならないことを考えれば、
敵に体力を回復する間を与えないことで少々の戦力差なら充分カバーできると
判断しても常識的な戦理の範囲内だろう。
織田方が背後に別の戦線を抱えながら主力をほぼ振り向けてきたというのが
想定外だっただけで。
実際この時の織田方は戦略予備を使い切って西や北から大規模攻勢に出られたら
京を奪われかねない危険な状態だった。
結果的に何も起こらなかったからこの点は無視されてるが。
0314人間七七四年2007/09/22(土) 14:28:04ID:FNuHxcVP
>>308
長篠に付け城と僅かばかりの兵を残しているだけだから、明らかに長篠攻略を後回しにしている。

>>309
論破されてないよ^^;未だに議論してる^^;
鈴木さんのは結構、こじつけやら主観も入ってるけど
色々と調査はしてるから、参考にはなる。

>>311
正確には把握していなかったと思うけど
長坂光堅から甲斐国内では信長が出馬した事に対する不安を伝える書状が勝頼に届いてるから
大軍が来たのは分かっていたと思う。
ただ前年に長篠の一向一揆が鎮圧されて畿内の反信長勢力は石山本願寺のみ。
このまま決戦を先延ばしすれば、いずれ「武田征伐」を受ける事が分かってたから
決戦を決意したんじゃない??

>>313
確かに、あの当時は兵力の算出はテキトーだもんね^^
だから未だに、長篠の兵数展開でも議論が行われる^^;

反信長勢力については天正五年の時点で畿内の反信長勢力は殆ど潰されてる。
長篠合戦後、細川家への戦勝報告で、後は石山本願寺のみだからチョロイという手紙を送ってる。(ゴメン^^;原文をメモってたけど紛失^^;)
当時、石山本願寺を信長はかなり侮ってたからね〜^^;
まさか強敵だとは、認識してなかった模様。
0315人間七七四年2007/09/22(土) 15:04:41ID:tLEq1Dxh
>>314
議論というか、鈴木はアマチュア史家だから学会からは最初から黙殺されてるし
同じアマからも腫れ物扱いでは・・・
プロレタリアイデオロギーに無理やりこじつけたりするのは勘弁して欲しいよw
白兵主義うんぬんも旧日本軍を叩きたいだけなんじゃないかと。
あの人は、既存の説・〜史観をひっくり返しすような、人の目を引く本を出すのが目的になっちゃってるから。
0316人間七七四年2007/09/22(土) 15:53:27ID:FNuHxcVP
>>315
確かに法学部卒だしね〜
ましたや専門家でもない。
旧日本軍云々はよく分からないけど、人の目を引く本を出すのが目的っていうのは納得。
あと好き嫌いや主観が入りすぎてる。

ただ、軍忠状やら何やら、膨大な数の資料を調べて、死傷理由を探ったり
結構参考になることも多いのも事実だと思うよ。
0317人間七七四年2007/09/22(土) 18:02:14ID:GnVqbiMA
織田側は武田に分からないように陣を敷いたという記述がある
主力を反対斜面に隠蔽していれば
連子川を挟んで対陣した時、武田側はそれまでの経験-三方が原・明智・高天神・有海原-
も合わせて21日もいけると勘違いしたのかもしれん
0318人間七七四年2007/09/22(土) 18:36:59ID:yBr3bWMh
当時の織田の敵って東の武田を除いたら本願寺と越前くらいか?
播磨や丹波にはまだ手を出していない。本願寺に対しては荒木細川筒井などを
畿内に残している。越前に関しては羽柴丹羽が長篠に派遣されて敦賀の武藤
しか残されていないが、この頃にはすでに一揆内部での内ゲバが激しく(74年7月
の時点で、すでに諸所の対立は流血をともなう武力闘争に発展している)、また
旧朝倉家臣に対する誘降の手も伸ばされ、とても外に打って出られる状況にはない。
ちなみに長島攻撃のときも羽柴丹羽の本来は越前押さえが任務の武将を連れて
行っているが、越前一揆は敦賀に攻撃もしてこなかった。
結果的に(運良く)なにもおこらなかったのではなく、なにも起こせないと見切った
信長の判断ですね。
0319人間七七四年2007/09/22(土) 20:15:07ID:75/2Rs5K
>主力を反対斜面に隠蔽していれば

だれが指揮をとるの?
いつ反対斜面から表に出てくるんです?

その時を狙って武田軍が攻撃開始すれば連合軍は総崩れになるんですけど。
0320人間七七四年2007/09/22(土) 21:35:58ID:qB0dDCB8
酒井別働隊が武田の哨戒線にかかったはずだけれどもかかった時点で布陣
を終えていて前哨戦が始まっていたのだろうか
0321人間七七四年2007/09/22(土) 21:57:26ID:+M6pROib
>>318
そこまで楽観してないだろうよ。
時間さえあればこの時点で木曾をはじめ南信の諸豪族を寝返らせることも可能だっただろうに
武田主力を敗走させただけでとっとと引き上げたのがその証拠。
中央をガラ空きにするリスクはちゃんと意識していただろうよ。
0322人間七七四年2007/09/22(土) 23:45:43ID:nJqvFEB4
>>304
>細川も筒井も兵こそ出しているけど本人はこの時畿内にいる、
>だから信長は書状で戦場の様子を伝えている。
ありがとうございます。謎がひとつ解決しました。

>>321
とっとと引き上げたのは何よりも残しておいて徳川を押さえさせるためでは?
武田が潰れると徳川急成長の恐れがある。
逆に武田はかなり弱ってるので徳川が潰れることもない。
東国のパワーバランス考えて武田は今潰すべきではないとの判断もあったと思います。
0323人間七七四年2007/09/22(土) 23:54:04ID:yBr3bWMh
>>321
>時間さえあればこの時点で木曾をはじめ南信の諸豪族を寝返らせることも可能だっただろうに
それは無理だろ。岩村だってまだ奪回していないのに。

>中央をガラ空きにするリスク
だから、していないよ。摂津の荒木、山城西岡と丹波二郡の細川、南山城と大和の塙、南河内の
三好笑岩らはそのまま残されている。さらに75年3月の細川宛書状で「秋に本願寺攻撃を予定」とも
記されている。おそらく、秋の本願寺攻撃の前面にたつであろう畿内の軍を残してきたのでしょう。
本願寺の監視と、後の準備のために。
0324人間七七四年2007/09/23(日) 00:03:41ID:XdOngQ3H
>>319
一応通説じゃ
信長は21日までには弾上山に移動したみたいだが
信忠河尻、信雄稲葉、信康は反対斜面どころか更に後方にいたみたいだが?

あと長篠攻め3000あれば十分だと思うけど
この時点で既に兵糧つきて二の郭まで落とされていたんじゃないのか?
出典は忘れたが
0325人間七七四年2007/09/23(日) 00:21:18ID:UOvCEaFO
>>324
>この時点で既に兵糧つきて二の郭まで落とされていたんじゃないのか?

これが事実なら、武田はさっさと城落とせば目的完了なんだよね。
やむおえず決戦説には無理があるかと。
0326人間七七四年2007/09/23(日) 00:24:52ID:XdOngQ3H
上のほう見ていると
やむおえず決戦って言うのは鳶巣陥落の結果
総攻撃せざるを得ない状態のことを言っているのでは?
0327人間七七四年2007/09/23(日) 01:05:21ID:t1Vje8TB
>>324

>あと長篠攻め3000あれば十分だと思うけど

ならば元から全軍にて長篠城を落とし、武田が有利な場所で連合軍を迎え撃つ方がよいのでは?

実際すんなりと陥落すると思ってたのがいざ攻めてみればなかなか落ちず、このままだと挟撃される恐れがあったから武田が動いたと考えた方がいいのでは?
0328人間七七四年2007/09/23(日) 02:24:11ID:XdOngQ3H
当代記で兵糧が尽き&三の丸・弾正郭が落ちた
みたいだ二の丸は落ちていないみたい

>>327
長篠城落としたら
織田徳川がさっさと撤退しちゃうって言ってるんじゃないの?

まあ前年掛川を通過して見付辺りまで行った時も家康は決戦避けたし

>実際すんなりと陥落すると思ってたのがいざ攻めてみればなかなか落ちず、
>このままだと挟撃される恐れがあったから武田が動いたと考えた方がいいのでは?
長篠日記だと5月14日には落ちる寸前、兵糧はあと4日じゃ無かった
落とす時間はあったと思う

他に力攻めで被害が大きかったから兵糧攻めに変えたと言う可能性もあると思うけど
0329人間七七四年2007/09/23(日) 03:02:49ID:ioXGlwE1
最新9.15 リチャード・コシミズ東京講演会 ダイジェスト版
http://video.google.com/videoplay?docid=3889996417451902162&hl=en
    9.15 東京講演会 全編版
http://video.google.com/videoplay?docid=-3859363222910740882&hl=en
0330人間七七四年2007/09/23(日) 17:57:27ID:t1Vje8TB
>>328

長篠城が陥落しても、連合軍は撤退しないでしょ。
織田軍が帰りたがっても、家康が帰らせてくれないと思う。
0331人間七七四年2007/09/23(日) 19:18:33ID:CqetuRrH
救援するのが目的だから帰るでしょう。
普通に考えてわざわざ無理攻めはしない。
0332人間七七四年2007/09/23(日) 20:39:10ID:uFASQ0Pg
明智高天神の時は城が落ちたらさっさと帰ったから
長篠が落ちたら帰るだろうと武田が考えても無理は無い

織田の方はこの一戦で武田を破ってやるぐらいの気構えで
鉄砲かき集めたり資材用意したりとしているから
帰る気無かった気もするけど
0333人間七七四年2007/09/24(月) 16:55:13ID:B3OPCsIJ
>>330
高天神という前例があるからね。
勝頼が決戦目的なら、長篠城は人質みたいなもの。
0334人間七七四年2007/09/24(月) 22:22:23ID:y6A3x5yE

ようは計略にはめられたんだよ〜
明智を始めとする美濃諸城 高天神と織田は援軍だすのを渋ってる。

さすが大身の信長も、わかき勝頼公をふかみ、出かねられたるとハ、合戦過テ後五十日のうちにきこへたり

の記述通り、織田側が武田家との決戦に消極的というのが世間の見方だった。
実際長篠でも距離を置いて陣地に篭って鉄砲を放ってくるだけで、城を救援するとは程遠い状況。
焦る武田方は之を見て千載一遇の好機と決戦を決意。
滝沢川を渡った。ってことだと思う。
0335人間七七四年2007/09/28(金) 21:48:51ID:fwAIGjPC
あの屏風を見る限り鉄砲vs騎馬隊で鉄砲の勝ちみたいに見えますが…
0336人間七七四年2007/09/28(金) 22:07:13ID:CEWrUi1i
そりゃあ、そういう意図で書いた屏風絵だろうからね。
まあ、織田の圧勝だったのは間違いないのだし、
そう見えて当然かと。
0337人間七七四年2007/09/29(土) 00:12:25ID:gDRYbTby
>>334
あれは信長記に影響をうけてるからね。
0338人間七七四年2007/09/29(土) 09:47:52ID:/WF52vqx
鉄砲だけで圧勝って、訳では無さそう〜ですね〜
鉄砲の威力は、武田方もわかっていたはず…
敗因は、ナンだったのですか?
0339人間七七四年2007/09/29(土) 10:39:18ID:V1O02RqU
>>338
人数の多い敵が、陣をしいて待ち構えているところに攻撃すれば、
勝てないと思うが
0340人間七七四年2007/09/29(土) 10:42:09ID:C2g4aPwc
だからこそ、なぜそんな攻撃をしたのかが疑問になるわけですね。
0341人間七七四年2007/09/29(土) 12:40:29ID:jVyTpCAR
>>336
圧勝まではいかないでしょ
織田徳川方もも相当な被害が出てる
0342人間七七四年2007/09/29(土) 14:08:40ID:ZTPFlMqg
死者数はあまり変わらないと言われてるが、武田は武将が死にすぎだわな
その後の武田が攻めに転じられなくなったのも考慮すれば、圧勝だったと思う。
0343人間七七四年2007/09/30(日) 19:07:47ID:UR3FK2i0
武田方の記録キボンヌ〜
0344松平忠吉2007/09/30(日) 22:59:19ID:uqPwD1pX
確か武田は一回突撃して相手が怯んだとこで撤退しようとしたんじゃなかったっけ?
0345人間七七四年2007/09/30(日) 23:00:35ID:d+xEV2Vj
武田側の記録では先手が崩れたがたいしたこと無いって言ってたかな
0346人間七七四年2007/10/01(月) 14:34:29ID:DhFkE32M
>>343
過去ログ読め
0347人間七七四年2007/10/06(土) 10:22:30ID:62rbssn0
騎馬隊より調略?
0348人間七七四年2007/10/15(月) 12:34:45ID:EVbn/Y4/
書き込み少なく無い…?
0349人間七七四年2007/10/21(日) 07:17:19ID:GPthcMLn
>>342 >>341
武田が千で織田・徳川が六百。
あまり変わらないとは言えない。

ただし、武田方は勇将、豪傑が枕を並べて討ち死に。
残ったのは穴山梅雪、小山田信茂のようなのちに裏切る奴や
頼りにならない一門衆ばかり。
織田・徳川の損害など人口比から見て無視できる程。
しかも、名ある人物で死んだのは鳶の巣砦奇襲で
松平ナントカという武将が死んだ程度。
0350人間七七四年2007/10/21(日) 07:18:52ID:GPthcMLn
>>322
>>とっとと引き上げたのは何よりも残しておいて徳川を押さえさせるためでは?
>>武田が潰れると徳川急成長の恐れがある。

おいおい、それは考えすぎwww
0351人間七七四年2007/10/21(日) 08:25:55ID:bihC7lpm
>>350
大久保彦左衛門の『三河物語』によれば
姉川の合戦、長篠の戦いとも、あのまま攻めておれば、征服も可能だったような事を言ってる
が、信長は勝って緒を締めよというタイプなので、そこまでしかやらなかったらしい
0352人間七七四年2007/10/21(日) 12:25:54ID:GPthcMLn
>>351
大久保彦左衛門の私見だろう。
三河物語自体、徳川マンセー本だから。
0353人間七七四年2007/10/21(日) 22:41:44ID:kZ5/Q/Y8
>>349
松平伊忠。意外と活躍した武将なんです・・・
0354人間七七四年2007/10/22(月) 11:48:18ID:IUTFAi6D
>>353
そうだとしても武田の討ち死にした人物とは比べ物にならない。
0355人間七七四年2007/10/24(水) 12:47:53ID:vwy2TxAm
>>354
その通り。

この時点で武田の滅亡は明らかになった。
木曽、穴山、小山田が裏切ろうが裏切らなかろうが後々はなんにも変わらないと思う。
0356人間七七四年2007/10/24(水) 21:57:14ID:dy2gvrCT
設楽が原から退却する時、退路は狭い道しかなかった。
 1秒間に1人が通れるような道。
 1分で60人
 1時間で3600人
 2時間で7200人が限界。

最初は、勝頼とその部隊が退却。次に一門集。
武田の重臣達は、逃げる順番がこないため、その場に残り戦死した。

そんな感じじゃないかな?
0357人間七七四年2007/10/25(木) 01:37:09ID:sEt5ohrc
討ち死にした数だけでなく、武田家の威信低下と勝頼の統率力低下も痛かっただろうな。
0358人間七七四年2007/10/27(土) 13:55:29ID:LEAEyZwG
総大将の勝頼より先に穴山や武田信豊等の一門衆が無断で退却を開始して
戦線の崩壊につながったという話も聞いたような。
0359人間七七四年2007/10/29(月) 10:13:14ID:HTGC8w5m
>>358

その以前に戦線は崩壊してましたが…
0360人間七七四年2007/11/13(火) 06:39:05ID:oiXHyXIZ
>>351
姉川のときは小谷城が強固だから絶対に無理。(まだ後詰めされる
可能性もあるし)

でも武田に関しては困ってるのはむしろ徳川くらいで
織田に関しては(武田領土などに)まったく関心がなく、興味はむしろ西や
本願寺に向いていた。信長にとっての長篠は
世間に織田>>武田を示すためのモノで。
0361人間七七四年2007/11/14(水) 10:32:19ID:rIeQ7v3L
>>351
4万足らずで甲信を征服できるか?
出来たとしても後の統治は泥沼にはまりそう。
朝倉滅亡後の越前しかり、本能寺後の甲斐しかり。
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