長篠・設楽原合戦の真実
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 18:10:27ID:C+plg2A70363人間七七四年
2007/12/11(火) 18:54:59ID:+GntF8L8勝頼に、兵力を過小に錯覚させる謀略でも用いたのかな?
0364人間七七四年
2007/12/18(火) 14:54:36ID:4lZtrdlL後から同じような話を創作したんでしょう
0365人間七七四年
2008/01/20(日) 07:31:02ID:21xCx7Zm正直、戦場の感想としては縦にせまく横に長く感じた。
あと今まで武田騎馬隊と鉄砲の三段打ちを定説として
信じてたので気にならなかったのだが。連吾川の存在だな。
屏風からわかるように織田の鉄砲隊のターゲットが
騎馬兵と鉄砲隊であるように
大半の武田軍は竹束を持ってゆっくり前進したと考えてみる
でも連吾川で(今とちがっては当時の形状は違うだろうが)
騎馬隊ならなんのためらいもなく突破できるだおろうけど
歩兵ならもたつくだろうな。(竹束を持ってるから)
で、あの距離なら弓もとんでくるだろうし
もうちょっと近づけば織田名物槍ぶすまも有効だろうし
0366人間七七四年
2008/01/20(日) 21:14:38ID:MloAFSh6やがて、戦が動いた。織田・徳川勢の動きに反応し
武田勢が突撃を開始したのである。一番に攻め寄せたのは
山県三郎兵衛昌景の率いる精兵だった。山県勢は押し太鼓を鳴らして
猛然と攻めかかってきたが、織田勢の鉄砲の前に散々に
打ち立てられて引き退いた。かわって武田逍遥軒信廉が
突撃してきたが、織田・徳川勢は敵がかかれば引き、
退けば食い下がって密着し、下知通りの鉄砲射撃によって
過半を討ち取った。三番手に寄せてきた西上野小幡党の赤武者も、
馬上巧者として名高い関東衆の名にかけて騎馬で突撃を
しかけてきたが、身隠しの胸壁の間から射撃を加える
織田・徳川勢の前に兵の大半を討たれて退いた。
四番手には黒一色の軍装に身を包んだ武田典厩信豊勢がつづいたが、
これも同様にして討ち果たされた。
このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、
織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。
そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、
そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が
押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、結果は上と同様であった。
5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦った
この戦は未刻まで続いた。その間武田勢は諸卒を突入させたが、
そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となって
いった。それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、
敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。
信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、
これを追撃した。
これを読む限り武田軍は車掛りの陣を使った可能性も否定できないな。
(あくまで推測)この文章の前にも書いてあるのだが織田軍は軍勢を
山の裏側に何人か隠していて、陣容としては三方ヶ原に毛の生えたわ形
(前哨戦で勝ってる事から勝頼が錯覚しても仕方がない)
徳川軍+織田の援軍数千みたいな。事実、信長の陣ややや後方。
息子の信忠に関してはかなり後方。家康だけが前線の一番後方
(現中学校)にある。織田軍の全陣容をアレしたらかなり広大な絵となる。
(追撃の直前に信長らは前線に張り出してきて。武田軍が
次第に浮き足立った事が想像できる)
0367人間七七四年
2008/01/20(日) 21:23:39ID:MloAFSh6騎馬でなく徒歩で逃げた事を考えれば・・・。
以下信長公記の武田軍の掃討戦
この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、
討死した者の数は一万にも達した。その中には山に逃げ入って
飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も
多く含まれていた。
また近くの農村は三方ヶ原を含む信玄の西上作戦での
略奪・乱暴をされた事から、これみよがしに報復行動にでただろうし。
あんな山の中を脚で信濃・甲斐へ戻るなんて想像しただけで
大変な運動量が要求される。武田軍の死亡者が1万というのは
あながち嘘とも思えない数字に思える。また馬場信春の
墓のある場所が絵になるとこにあって。もしここで討ち取られたと
したならば、かなりドラマチックな場所といえるよ。
0368人間七七四年
2008/01/20(日) 22:15:02ID:n4XUab7g0369人間七七四年
2008/01/21(月) 04:38:51ID:3IvEuqvYいま気付いたんだけど、
>山県勢は押し太鼓を鳴らして
>馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが
妙にこの「押し太鼓」ってのを特筆してるような気がするんだけどこれはなんでだろう。
当時は武田軍の押し太鼓ってのは有名だったのかな?
ひょっとすると、武田騎馬軍団最強というイメージが形勢された要因の一つにこの押し太鼓というのが
なんらかの形で絡んでるんじゃないかと思うんだがどうだろう。
0370人間七七四年
2008/01/24(木) 21:41:58ID:ApzFcdtzどこの家でも太鼓・鐘・銅鑼などで前進・後退の合図をする。
何にも特別ではないですね。
でも表現として、その方が勢い・強さが出せる。
で、それを倒した織田家スゲーという自慢。
>>307
>即時ニ乗懸逐一戦、宗者数多打捕、乗其利信長至陣前押寄候処、構陣城籠居候間、入人数之砌、當手之先衆聊失利候
『信長公記』には信長が21日に、「足軽を懸けられ」たところ、
「御敵“も”人数を出だし候」とあるわけで、信長から先に手を
出して、陣城まで追い込まれる形で、開戦してる。
18日に戦いがあったという解釈でなくても?
出てきた敵に一撃を加え、そのまま陣前に押し寄せたら逆襲を
受けたという戦の展開そのまんまの手紙かと。
ちなみに、今でこそ決戦の地は「設楽原」で、「有海原」は
信玄台地の東側という扱いだけど、設楽原という命名は
近代の話。かの場所は長篠であり、強いて言えば設楽郷だが、
現在の設楽原も含めて一帯を「有海原」と呼んだ。
明治時代に書かれた「大日本地名辞書」では「有海原の古戦場」
と紹介しています。
「ころみつ坂の上」の「有海原」の指す範囲は非常に広い。
「有海原」の指す範囲が広いので、最初にどこに布陣したかは
どうとでも取れるのです・・・
0371人間七七四年
2008/01/27(日) 11:21:36ID:ib10EwbV0372人間七七四年
2008/01/27(日) 15:56:56ID:+sF9K3EW屏風を詳しく見てみるとわかるのだが
山県隊をじっくりみると(山県の首が狩られて
家臣が奪われないように逃げるとこね)
騎馬兵の横に足軽隊がいてその横に太鼓を
背負ってる兵と叩いてる兵がいる。
信憑性はないかもしれないがその山県隊は甲陽軍監に
おいて織田の柵を3重まで突破したとある。
(おそらく死兵となって多く討死にした事が想像されるが)
この押し太鼓が特に山県隊には多かったとオモワレ。
0373人間七七四年
2008/02/08(金) 19:40:56ID:DM0Ix3as1473年 バシュケントの戦い 中近東
1525年 パヴィアの戦い 欧州
オスマン帝国は長篠の戦の100年前に、スペインは50年前にすでに火力で
騎兵を蹴散らしていた。極東の島国は遅れているよなぁ
0374人間七七四年
2008/02/08(金) 22:41:59ID:EJfwi7dc野戦工事だからドゥラキウムの戦いみたいなものじゃない?
倍以上の敵がこもる野戦工事に対して少数精鋭の兵で突撃して敗北したのも全く同じ。
0375人間七七四年
2008/02/09(土) 00:51:13ID:UiTgIbLf懐かしいわー^^
0376人間七七四年
2008/02/10(日) 17:50:07ID:Bw+LR3FIくらいなら面白かったのにな。
0377人間七七四年
2008/02/10(日) 21:11:03ID:VIBl+v4z北条も巻き込まれて損害拡大という間抜けな構図が目に浮かぶ。
0378人間七七四年
2008/02/10(日) 23:29:34ID:XDbv9Kl6武田軍の猛将達は次々と織田・徳川軍に襲い掛かるが
鉄砲でこれをうちはらった。続いて猛将のなにがしがつっこむが
これも鉄砲で打ち払い連吾川は血の海、死体の山で染まった。
勝頼のまわりに兵は次第に少なくなって撤退を開始。
そして織田・徳川軍は追撃を開始。武田軍への追撃は執拗を極め、
川に落ちて溺死するもの、山に篭って餓死するもの。(おそらく農民に撲殺される者も)
数日のうちに信長公は岐阜城へ凱旋した。
甲陽軍監
佐久間の調略や、織田軍内の内部分裂、武田軍の指揮の高まりから
連合軍との決戦を勝頼は決意。朝、織田軍と対峙、武田軍は
織田陣内へ切り込むと、織田軍は鉄砲で応戦。これに武田軍は
竹束で応戦。そんな中勇猛果敢な山県隊は、織田の柵を三重まで
突破。しかし、内応に応じたはずの佐久間が依然こちらに応じず。
それどころか穴山隊が戦線を離脱(鳶ヶ巣山を奪取されて退路を断たれた為)
そして前線で孤立した山県三郎兵衛討死し。穴山離脱により親類衆が
つぎつぎと戦場を離脱。勝頼自身も撤退を決意。撤退の途中
武田の有力武将が数多く討死した。
0379人間七七四年
2008/02/29(金) 00:09:04ID:8hbyHf790380人間七七四年
2008/02/29(金) 06:15:49ID:p0sfHYtN雨で鉄砲が使えなければ、ここまでの大勝にはならなかっただろうね。数を見てわかるように、織田、徳川は、決戦の心構え。用意周到に。あり地獄にはまった感じ。引くもできず、進むもできなかった。
0381人間七七四年
2008/03/04(火) 03:17:34ID:YUqonZYu酒井の別働隊が失敗する可能性も出てくるから武田の突撃そのものが無くなる可能性も出てくるけど
0382人間七七四年
2008/03/08(土) 23:42:27ID:Me1oMP+C0383人間七七四年
2008/03/10(月) 22:17:08ID:Omi28LZL写真見ると関ヶ原に比べて、演出がしょぼそうな気がするのだが・・
馬の柵とか本陣跡とかいろいろあるようだけど、観光客はそこそこいる?
俺は戦国オタで史跡とか旅行好きの女の子と初デートするのだが、行き場所に
長篠古戦場が案として出てるのだが・・大丈夫?
0384人間七七四年
2008/03/10(月) 23:29:46ID:ijTtWIpp真性の歴史オタは「その場」にいるだけでかなり盛り上がる。
近くには長篠で死んだ武将の塚や、資料館もあるはずだし
0386人間七七四年
2008/04/02(水) 00:45:38ID:m3g3IZCF0387人間七七四年
2008/04/07(月) 23:08:10ID:T2a05/BA0388人間七七四年
2008/04/29(火) 19:39:22ID:kWt2LXFLてんきゅうや穴山が討ちとられたほうがよほどお家てきにやばいんじゃないの?
先に離脱するには当然だよ
0389人間七七四年
2008/04/29(火) 20:30:00ID:8CbJMztQ武田をある程度消耗させることができれば、それで十分に価値がある。
一方の武田は、痛み分けすら許されず、最低でも勝つしかなかった。
信長の首を取るしか絶対的な勝利にならないくらい、追いつめられていた状態だ。
兵力の差よりも、求められる結果の差がシビアすぎる。
0390人間七七四年
2008/05/16(金) 00:20:35ID:mdmdrvQd信長直率軍にしては遅滞ともいえる行軍速度で進んだ結果、高天神城を見捨てた
形となり遠江国人衆は徳川頼りなしと離れはじめ、徳川は織田からお詫び金を
もらったものの織田頼りなしと家臣団の不満が高まる
長篠城も同様になっていれば遠江国人衆はほぼ完全に武田になびいただろうし
徳川そのものも浜松城からまた岡崎城に本拠を移さざるを得ない
0391人間七七四年
2008/05/16(金) 00:32:47ID:j8tyftpZ見捨てるのと、決戦の末で敗北じゃ、えらい違いだぞ。
長篠城は、元々が武田方に属してた城で、篭もるのも将兵であり、徳川としても被害甚大というわけでもない。
失ったところで大したダメージではないし、包囲を解いている以上、兵糧の補充が行われている可能性もある。
決戦を終え、勝ったとしても甚大な被害が出たあと、決戦前すらなかなか落とせなかった長篠城を落とせるかすら疑問。
完勝ははっきり言ってあり得ない状況だし、辛勝では撤退に至る可能性の方が高い。
0392人間七七四年
2008/05/16(金) 00:44:27ID:j8tyftpZ兵力の説はまちまちながら、2〜3倍の兵力差があり、武田側が持久戦にできないため、攻城戦に近い形で攻撃、
徳川の動員兵力はフル動員ではなく、信長や家康が討ち取られでもしないかぎり、少しの間で再決戦すら可能な状態。
この兵力差で殲滅なんて無理だし、勝てても速やかに撤退するしかなかったのでは。
決戦に勝っても撤退となれば、「織田に勝利した」と鼓舞もしがたいし、撤退戦での将兵の甚大な被害はなくなるにせよ、
決戦後に長篠城を落とす、さらにその後の確保は、かなり困難と思われ。
0393人間七七四年
2008/05/28(水) 14:14:41ID:ZrTq9OgF武田の最善の選択は撤退しかなかった。
0394人間七七四年
2008/05/28(水) 23:55:01ID:q5Ms8Rkx<<戦国時代>>板は6/4日出陣
http://2ch.gepper.net/tour/t2/a9.html
詳しくは選対スレへ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211037643/
公式サイト
http://2ch.gepper.net/2ch.html
0395人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 02:51:20ID:wuX9ZxSR>信長直率軍にしては遅滞ともいえる行軍速度で進んだ結果、高天神城を見捨てた
>形となり遠江国人衆は徳川頼りなしと離れはじめ
具体的には?
0396人間七七四年
2008/07/08(火) 16:02:13ID:sVJZZd8J元々は松平側だ。祖父の清康時代からの盟友だぞ。
信玄の攻勢の際、当時の宗家が降伏したから、已む無く武田に一時的に属しただけ。
長篠合戦に至る頃の長篠城主は、家康とは兵法の兄弟弟子で、親しい友人でもある。
武田勢から徳川勢に帰ったことで勝頼の怒りを買っていて、既に実弟は勝頼によって殺されている。
長篠城が陥落したら、現当主貞昌の命も無い。
家康にとって、見捨てる選択肢は有り得ない。
0397人間七七四年
2008/07/09(水) 12:50:30ID:3Auo3sF/何度も言われてることだけど
そこで撤退してその後勝ち目はあったのかい?
もうあの時点で戦力差はかなりあり
戦力差が高いだけに時間がたてばたつほど武田が不利になっていくわけで
0398人間七七四年
2008/07/10(木) 18:48:52ID:+xZfqN6m史実より悪くなることは無いだろ。
勝てない以上、撤退もベターな選択肢かと。
撤退を否定するなら、勝つ方法を提示すべきだ。
武田を粉砕したことによる名声と東の脅威の除去で信長がより優位になったのは事実だし。
0399人間七七四年
2008/07/11(金) 13:08:04ID:yTFHkDW2勝ち目が少しでもあるなら完全なミスとはいえないと思うけど
0400人間七七四年
2008/07/11(金) 13:48:16ID:YZ9lL+Oeなるんじゃね?
0401人間七七四年
2008/07/12(土) 21:08:51ID:m4S9D3uu兵力が半分以下という段階で、完全に勝ち目はないと言ってほぼ間違いないよ。
2倍以上の兵力差を覆すのは極めて難しい、少なくとも信玄以降の武田家にはそんな例は存在しないし。
特に、相手が攻め込んで来ている状況で、地の利を生かしたり相手の隙をついたりして、
劣勢を覆すという例はそれなりにあっても、劣勢な側が敵地に攻め込んで勝つというのはさらに稀。
長篠の戦の時の状況では、もしも退却が可能だったなら迷わず退却すべきだったと言える。
0402人間七七四年
2008/07/13(日) 04:00:27ID:IjNXd5X5事前に斥候出しても所詮目勘レベルの話。そもそも後年伝わってる数字だって怪しいもんだよ。
お互いの国力差だって現代ほど正確な認識なく出陣してんだから。
戦国時代の合戦はチンドンチンドンお祭り合戦。勢いで負けたほうは死にたくないからあっという間に離散する。じゃないと生産性が維持できませんって話だよ。
舐めてかかったら意外と数居たし、強かったってことでしょ。
0403人間七七四年
2008/07/13(日) 08:48:07ID:uX0TDWnS戦国大名をそこまでアホだと仮定しては、何の話も出来ないよ。
微妙な差ならともかく、2倍を越えるような戦力差が分からないなんてありえない。
そもそも>>397からして戦力差が高いという認識を前提にした話なのに、
今更認識していないなんてことにするなら、まるで話にならないでしょうが。
0404人間七七四年
2008/07/13(日) 23:56:56ID:IjNXd5X5だから二倍居たって誰か見たんかい?(笑)
確かに日本の史料は大陸ほど数字的誇張は少ないかも知らんけど、要するに国力差から見た推量が根拠になっとるわけでしょ。現代のそろばんで。
戦国時代の合戦でね。例えば三万とか五万とか軍勢が出陣したとするわな。そして敵勢の位置確認して接近。さぁさぁ大会戦の始まり始まり。ってなって、大将が点呼とりました。例えばね(笑)そん時に三万とか五万がそのまんま居るわけないのよ。残念ながら。
半分以上は中間さん。兵糧や武器弾薬、馬の餌やら、あと陣屋作るにも大量の資材が要る。それの兵站。運送屋っすよ。
消費材はほとんど引っ切り無しに補給しないとやばい。なにしろ雑兵一人にも日に四〜六合も支給してたんだからね。計算得意な人はしてみて下さい。ありえない物量だから(笑)
まぁ浜松からなら近いけど必然陣形は長ーくなるんですよ。浜松に集めるだけで人足要るし。
数なんか正確にわからんつったのは戦場に到着して間もない状態で戦闘に専念できる兵力がどんだけあるか?ってことなのよ。そういう意味では勝算がなくもない状況だったんちゃうん?て話。
俺が言いたいのは合戦はゲームとちゃうんよ。ってことだけだけどね。勝頼なんか擁護する義理ねぇし(笑)
0405人間七七四年
2008/07/14(月) 00:05:18ID:NKSGu0Ua完全に勝ち目がないというわりにはもっと寡兵での勝ち戦がいくつも日本史にはあると思うよ
確率が低いのは確かだが勝つ可能性が少しでもあったならいくのは明らかな間違いではないのでは?
まあ最善の手ではなかっただろうけどここで戦しないとそれこそ完全勝ち目がなくなるし
0406人間七七四年
2008/07/15(火) 18:44:30ID:8HjBYaBI寡兵で勝つ場合には、陣形や地形を利用するか奇襲するかだろ。
武田は正面攻撃したし、陣形(馬防柵)と地形(川と地面のぬかるみ)も織田優位。
さらに酒井が後方に奇襲かけている。
本来武田が勝つためにやるべきことを全部織田にやられてるうえに約3倍の兵力差。
兵数以外の条件が五分なら、甲州兵の強さ3倍理論wでここまでの惨敗は無かったろうが。
0407人間七七四年
2008/07/15(火) 21:19:52ID:PPX3cc+Pそれだけ確証のない仮定を積み重ねれば、勝算のない戦なんて世の中からなくなるわな。
まあ、事実0.000何%くらいの勝算ならいかなる戦にもあるだろうが、そんな事まで語っても意味ないでしょう。
ようはあの場面では、僅かな勝利の可能性に賭けるよりも、もし可能なら退却した方が良い手だったということ。
>>405
あなたが言うように劣勢な側が勝利した戦も存在する。
だからこそ、あの場で戦をしないとそれこそ勝ち目がなくなるなんて事にはならない。
劣勢な側が勝った戦は大体が相手の隙をついたり、地の利を生かしたりといった、何らかの工夫を凝らしている。
ところが、長篠の戦の時の武田軍は、武田側から敵地に攻め込んでいる上に、
城攻めの真っ最中で、そういう劣勢の側が勝つような工夫を凝らすことが極めて困難だった。
そして、実際に正面から戦って壊滅している。
確かにあの場面で退いたなら国力的な劣勢はさらに大きくなっただろうが、
劣勢な側でも戦術戦略を練れば、勝てる可能性もゼロではないのだから、
そういう戦術戦略を練れないようなあの場面では、あえて退却した方が良かったと言える。
もちろん、それが可能だったならの話だけど。
0408人間七七四年
2008/07/15(火) 23:24:20ID:5T01yr8v確証のない仮定って?(笑)俺何も仮定してないよ。長篠はどーでもいいって。
一日米5合×五万人で何トンある?トラックなんかない時代だよ。
俺もびっくりしたけど、そんくらい配らないといざ戦闘って時逃げちゃう(笑)数日は直属の上司である家臣たちが手弁当で面倒見るけど(よく戦時携帯食として言われる干し飯とかはこれなんだよね)それ以降は大規模な補給活動が必要になるわけ。大名の負担と指揮で。
そういう戦場のリアリティをまず前提に話をしようじゃないか(笑)
戦争っていうよりほとんど食うために運び続け、運びながらたまに戦う。運ぶものが無くなったら乱盗りで現地調達。戦国時代なんてそんなもん。
だから簡単に二倍居たとか言うなよって話。
0409人間七七四年
2008/07/16(水) 00:16:49ID:WJW37hATそういう条件はどっちも同じ、むしろ自国及び同盟国内を動く織田徳川の方がはるかに有利。
そして圧倒的な国力差。加えて文献等で述べられ、石高等から考えても妥当な兵力差。
それなのになぜ、その結論が武田軍に勝機があったかもしれないって事になるの?
確かに仮定という言い方は間違いだった、正直それは一方的過ぎて仮定にすらなっていない。
結局あくまで0でないという意味では勝機もあると言えるかもしれないが、敵軍圧倒的有利に違いはなく、
結論は可能ならば撤退すべきだったとしか言いようがない。
ちなみに戦はゲームではないからこそ、兵力国力といったものが、極めて重要になる。絶対ではないにしろね。
0410人間七七四年
2008/07/16(水) 00:31:54ID:WJW37hATまた同じ輸送でも、敵領内まで運ぶよりは自領内の方がまだしも簡単。
そして本拠地からの距離、行軍等の全体を見ても、甲斐信濃から山越えで来る武田より、
濃尾平野を主に動ける織田のほうが有利。
リアリティを考えれば考えるほど、武田の勝機は少なくなっていく。
まあ、国力のある方が必ず勝つとは言わないが、長篠の戦の状況ではまず無理。
0412人間七七四年
2008/08/05(火) 20:53:25ID:QvFaR0HR0413人間七七四年
2008/08/06(水) 16:29:44ID:llZseB/oどうでも良いことなんだが、人間一日に5合も米食うのか?
いや、無粋な揚げ足取りじゃなくて自分の食ってる量を考えると、3食食っても3合くらいなもんで・・
0414人間七七四年
2008/08/07(木) 01:37:55ID:ejuZWJbF5合だと2850kcal
現代の歩兵の1日の必要カロリー3000kcalよりちょっと少ないな。
俺kが聞いた話だと6合は喰らしい。
0415人間七七四年
2008/08/07(木) 02:08:01ID:xKMXcZXq国力がどうのこうのいってるが
長篠の戦って
通説は連合軍3万強vs武田1万5千だよな
織田軍の総兵は当時既に10万超えるはずだぜ
それがごたごたあって3万も来てない
でも信長は来てる
やるしかなくね?
0416人間七七四年
2008/08/07(木) 02:13:33ID:hWZmnnHaこれは織田徳川連合軍にしてもそうだが。
あの戦は、例えば桶狭間と同じく、「結果的に」武田に大損害を与えたに過ぎない。
無論その「結果的」を得るために織田徳川が全力を尽くしたのも確かだが、だからと言って
最初からそう言う戦果を想定なんてしていない。戦略目的としては、あくまで長篠城の救援が
第一だったはず。
0417人間七七四年
2008/08/07(木) 21:09:07ID:zW6sbkpD信長が迂回攻撃してるんだよね。桶狭間の迂回攻撃は否定されつつあるが、
意外なことに、長篠の戦いではやってたわけで。
武田軍による騎馬突撃はあったらしい。
一番、山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退。
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数
うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。関東衆馬上の功者にて、
是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候 身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され
無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。かくのごとく、御敵入替へ侯へども、
御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、
人数をうたせ引入るなり。
三番に「是又馬入るべき」とあって、是又(これまた)というのだから、
他の部隊も馬で突入をはかった、と見るべきだろうね。
ただ、馬だけの騎馬隊でなく、鉄砲や弓で援護射撃(これは竹柵で防護)の
中で、騎馬と徒歩の兵が一緒になって突撃、という戦法だったろう。
0418人間七七四年
2008/08/07(木) 21:39:43ID:xKMXcZXqttp://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/nagashino/07.htm
一番、山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。
220 :日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:36:28
>>219
太田牛一『信長公記』、長篠(設楽原)合戦部分。
騎馬武者の記述があるのは三番のみ。
一番と二番と四番と五番に騎馬は出てこない。
0419人間七七四年
2008/08/07(木) 21:53:37ID:zW6sbkpD少なくとも、一番と二番でも馬入るべき行、がなされたと解釈するべきじゃん。
0420人間七七四年
2008/08/08(金) 22:41:48ID:rL3cTuYl二番に正用軒、馬入るべき行にて、入替、かゝればのき、退ば引付、
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
というのが、本来の意味か?
0421人間七七四年
2008/08/08(金) 23:54:20ID:WPcP9m8Cなぜ小幡のところで初めて馬に触れるんだって話
馬上の功者でまた山県、信廉と同様に・・・・
って意味での 是又馬入るべき行 ってとるのが妥当
0422人間七七四年
2008/08/09(土) 18:16:35ID:sHgdrO/Jちょっと文章がわかりづらいでな。
0423人間七七四年
2008/08/11(月) 05:00:17ID:0NarKvAm本陣近くに陣取ってる印象が強いんだけど
何でこの時は二番手で突っ込んできたの?
0424人間七七四年
2008/08/11(月) 17:33:57ID:iJqR500oによると、
「内藤修理は武田信廉等の中央隊約3千人の中に属し」
とのこと。
超・有名な長篠屏風図では、中央に鉄砲隊が並んで、
ぶったおれ続ける(叉は伏せている?)武田軍が描かれている。
その中に山県三郎兵衛の死体が描かれているとのことで、←よくわからん
その左下に、旗が赤白のものがある。これが内藤修理。重臣だが討ち死にしている。
二番に正用軒といっても、実際に最前線で攻めたのは内藤だったようだ。
0425人間七七四年
2008/08/11(月) 17:36:21ID:iJqR500o長篠合戦の屏風 その場面
ttp://image.blog.livedoor.jp/nobunaga_1534/imgs/9/5/95f902c5.jpg
もっと、アップの写真はないかな〜。
0426人間七七四年
2008/08/11(月) 21:39:16ID:8IfHSQzP米一合は約150グラム。
つまり六合支給だと一日900グラム(米だけで)栄養を摂取するには米から取るしかない。
これを三万人に支給すると一日の兵糧米は27トン(笑)トラックも舗装道路も無い時代の話。
つまりもう引っ切りなしに補給し続けるしかない。食うために運ぶのか?、運ぶために食うのか?、戦闘はいつなんだ?って話だよね(笑)
一日27トンの米を想像してみようよ。現代人がイメージしてる合戦ってのを変える必要があると思う。
0427人間七七四年
2008/08/11(月) 22:29:58ID:ewA72rmAあまり大きくはないが全体図
ttp://www13.plala.or.jp/naito/nagasinokassennbyoubu.jpeg
0428人間七七四年
2008/08/11(月) 22:47:10ID:bLc6eZQ4ありがと。
でも内藤って四天王だの信玄の副将だのいわれてるのに
地味な信廉の与力扱いで、やっぱり単独の将として名前がでてこないのかい。
ただそのサイトいまだに勝頼が重臣の意見を無視して無謀な突撃命令を出したとか書いてるのが・・・
0429人間七七四年
2008/08/12(火) 10:36:42ID:OfOtI8Cmわしもよくそういうこと考える。
兵糧はどうやって運んだのだろう、とか。
ま、前触れがいて、その街道で準備させたのだろうけどそれにしても
寝るところ、米たく鍋、そういうのも含めて大変だったろうな。
で、1日に六合支給って聞いたことあるけど、ちょっと多すぎる気がする。
ほんであまりたくさん配ると、酒にしてしまう、とかあってまとめては
配れなかったらしい。
これは秀吉の大返しあたりの史料だったかな。
0430人間七七四年
2008/08/12(火) 17:10:31ID:Bt9Mzm65うん。俺たちに刷り込まれてる戦国時代のイメージは映画やドラマ、漫画や小説、ゲームなんかがベースになってて、なかなかそこから抜け出せないところがあると思う。
もっとリアルにいろんな検証が必要だよね。
大量に用意出来て、尚且つ水を含まない状態なら質量が小さいという点でも、この時代には米以外に無かった。ほかにも最低限度の塩分が必要だから塩や味噌などの支給はあった。
現代人の感覚だと六合は多いけど、それ以外に無い時代だからね。
信長の兵農分離なんて言うけど、実際は戦闘を専門とする者の数が多少多かった程度の話。
その内実は他の大名と同じで農家の長男以下だとか流れ者、要するに食いつめ者の集まりですよ。米くらいたらふく配らないと実戦では逃げてしまう(笑)
それにしても三万で一日27トン。馬は高価で曳かせるにも限界があるよね。そうするとほとんど人力ですよ。大八車みたいなのを曳いても歩きでは一日に進める距離なんかたかが知れてるし。
対陣が何日も続けば野宿って訳にもいかない。雨風を防ぐ陣屋も作らないと。実際それ専門の大工も大量に参陣している。
そうすると、三万の兵が活動するには同じ数ぐらいの後方支援がないと無理だし、その三万の内訳も大半が物流を仕事とする「中間さん」じゃないと外征なんて成り立たない。
0431人間七七四年
2008/08/12(火) 18:31:00ID:/prcwaau日清戦争や日露戦争の輜重隊がどういったシステムで動いていたか、
という部分がヒントになると思う。
確かに興味のあることだから手を付けよう付けようと重いながら結局なにもしてない情けなさ。
ちなみに日清戦争では、輜重に朝鮮人を雇って逃げ出されたという記録があるw
0432人間七七四年
2008/08/12(火) 19:57:27ID:kKXnBpI5田んぼの中のコンバインから、袋に入れた30kgの籾を農道の軽トラックまで
運ぶだけでも、すんごい疲れる。
ちなみに、日清戦争や大平洋戦争などで歩兵がかついだ荷物は30kgくらい。
それ以上重いと、ぶっ倒れる兵士が多くなる。というか、人間の体重は60kgくらい
あるから、倒れた兵士は運ぶことができず、その場に放置みたいになってしまう。
(後で回復すれば、追い付くこともできるかもしれないが…)
さて、米俵は馬で運べば、馬の背に左右に一俵ずつ下げて、一度に二俵運ぶことができた。
その馬の図が何かに載ってた。背が折れんばかりにUの字になってたけどな。
馬一頭で、約100kg運ぶことができたと計算すると、10頭で1トン。
100頭で10トン。1000頭なら100トンで3日分くらいの兵糧が運べる。
街道に大量の馬が延々と進む様子は、「これが武田の騎馬隊」と印象付けるだろう。
馬以外では、米みたいな重いものは、舟で運ぶのが一般的だが、
武田の領土には海がなかったし。(あとで駿河を獲得したが)
甲斐や、諏訪から出発するとなると、馬で荷物運びがメインだったろう。
と、たぶん、武田の騎馬隊は実在して、たぶん兵糧運びがメインだったんじゃないかと
推測中。
0433人間七七四年
2008/08/12(火) 20:09:21ID:kKXnBpI5大八車みたいなのは、でてこない。少しはあったとは思うが、メインは
人力で運んでいる。
さすがに米俵は運んでいないが、木箱みたいなのに入れて運んでる。
佐川急便の会社マークみたいに、棒に箱をつけて背中で運んでたり、
長持(ながもち)といって、長い箱に長い棒が付いていて、前後の2人でかついでたり。
(これは駕篭に少し似てるが、荷物専用箱)
兜入れというランドセルみたいなのもあって、兜を入れるだけでなく、お土産とかも
入れたりしたそうだ(江戸時代の話)。
0434人間七七四年
2008/08/12(火) 20:14:51ID:Bt9Mzm65当時の馬はとても高価。侍格のみが乗馬して移動手段に使用したぐらいだから、兵站にそれだけ使えたかは微妙だよね。
どちらにしても馬の餌も必要になるから、27トン+α。
調達に関しては経済スレで前に話が出たが、現地商人から調達するケースも多かったようだ。当時の商人は想像以上に中立・独立性があった。
それにしても米価は鰻昇りだっただろう。もはや一大イベントだよな。
0435人間七七四年
2008/08/12(火) 20:49:42ID:MAB6wsLa従軍している侍たちは非常に困ったそうな。
良くあの戦を、秀吉の輸送力と物量の勝利などと言う事があるが、実態は秀吉軍ですら、兵糧も含めて
かなり苦しかったらしい。
0436人間七七四年
2008/08/12(火) 21:31:19ID:kKXnBpI5今でいえば、一千万円ぐらいもしたようだ。超高級外車なみ。
でも、駄馬とよばれる荷物運び用の馬は、そんなに高価ではない。
ふだんは農耕用の馬として使う。
大平洋戦争中でも、大量の農耕馬が、軍馬用として農家から徴兵(徴馬?)された。
このような馬は騎兵用には使っていないんじゃないかと思う。単なる物資輸送用。
0437人間七七四年
2008/08/14(木) 05:03:06ID:tEEj1QUtttp://www5.ocn.ne.jp/%7Ekurodaaf/sub3.htm
もっとも、戦国時代では、
農閑期で銀シャリ毎日支給&旅行のお祭り騒ぎの一大イベントで
出かけたのかもしれないが。
0438人間七七四年
2008/08/15(金) 20:54:45ID:cEyZeH9s呪術師らしい。
0439人間七七四年
2008/08/15(金) 21:43:53ID:RncaQwV5食い物はジャンジャン届くわ、大工がカンカン陣屋を組んでるわ、坊主や宣教師までうろうろしてるわでお祭り騒ぎだな。イメージとしては(笑)
0440人間七七四年
2008/08/17(日) 05:43:40ID:rDsbTN2Nhttp://www3.ocn.ne.jp/~zeon/sengoku/nagasino.htm
・信長は柵外へ一キロほど前進、「大筒」を撃たせて挑発
・馬場隊700は、佐久間隊6000に殺到し、叫び声をあげた
・佐久間は柵前まで戻る
・山県隊1500は徳川隊6000に攻勢、徳川隊は柵内へ(山県隊が一番乗り)
・山県は柵の迂回突破を図るが大久保忠世、忠佐兄弟に阻止され銃撃で戦死
・武田信廉は記載なし、地味に動いたらしい
・小幡隊は馬で柵前まで駆けつけて下馬し、柵の引き倒しを狙う。銃撃で失敗
・馬場隊700は2手に別れゆっくり前進、佐久間隊は柵内に逃げて射撃
・馬場隊の先陣死亡、真田兄弟が入れ替わりに攻めて柵を破るが討ち死に
・佐久間隊が劣勢と見た信長が、滝川隊と羽柴隊に横槍を命じ、武田軍崩れる
・ここまでで織田と徳川の連合も大きな損害
真偽はともかく細かくて面白い
0441人間七七四年
2008/08/17(日) 06:27:02ID:wb/jczIY昨今の史学の特徴として歴史の平坦化、
(大勝だった戦は僅勝に、凡将だった武将は並将に、意義のあった事業はそうでもなく)
のようなものが行われてる中で、長篠の合戦なんかも、
「3段撃ちはなかった」をはじめとして「接戦だった」だの色々な説が生まれてきて、
この文章もある意味でそれを目的としているんだけど、これを読む限り、
・合戦前に前線で細かく指示を飛ばす信長
・的確な判断で横槍を入れさせ敵を敗走させる信長
・過去の失敗や損害を新たに活かす信長
俺の中で逆に信長の評価が上がってしまったんだけどこれは筆者の意図することなんだろうか。
0442通説には疑問がある
2008/08/17(日) 14:06:06ID:xg7tBg5c織田徳川軍の来援に対して長篠城の攻囲から、主力を割いたのか。割いて対峙しながら、すぐさま攻撃をしかけなかったのか。
そのあげくに長篠城は酒井忠次の別働隊によって解放されてしまう。
又、鉄砲の効く梅雨明けまで決戦を待ったのか。陣地を作られるまえに夜襲をしかけなかったのか。
通説によると、織田来援に不利を悟った部将が撤退を求めたのに、武田勝頼が決戦を強いた結果、あの大敗を喫したと。
しかし、この通説には疑問がある。
信玄死後も武田軍の脅威は去っておらず、前年には直接織田領を侵犯され明智城を失っている。高天神城では織田が決戦を避けて手放した。
徳川に侘びを入れて金を送ったことからも織田が武田を避けていたことは証明される。
この段階で武田側に織田を恐れる理由はなかった。武田としては織田に戦う気があるか否かがむしろ問題だった。
織田がかけつけても、ただ陣を構えるだけで、陥落まで、見捨てるかもしれなかった。
武田としては両面構えで主力が対峙し決戦となれば望むところ。長篠城が落ちれば後詰が役に立たないことで、
三河、遠江の徳川支配が瓦解し、織田の威信も地に落ちる。それでも良かった。
0443通説には疑問がある
2008/08/17(日) 14:10:18ID:xg7tBg5c敵を隊列を崩し、その崩れたところを槍でけちらすといったあくまで補助兵器にすぎなかった。
信長公記には鉄砲千丁を選抜して備えたとある。織田徳川軍はおそらく二、三千丁の鉄砲があったと想定されるがそれを各部隊に漫然とおかず、
特別に千丁抜き出して武田軍の攻勢点に集中的に活用したと思われる。
武田側からみて予想に反して、一方では陣作りに励みながらも長篠城解放に織田徳川は動いた。
また、信長公記によると織田側から足軽が盛んに挑発をして戦いを求めた。
織田徳川の戦意ははっきりしており、それは武田には望むところだった。急ごしらえとは言え、陣地を突破するには手間がかかる。
しかし、両翼の陣地を崩してしまえば、織田徳川を包囲殲滅するまたとない機会が与えられた。
長篠城解放に兵を割いてくれたことは織田徳川側で兵を分散してくれたまたとない機会だった。
通説とは違い、長篠の合戦とは、織田徳川を撃破する為に武田が望んだ決戦である。その為には梅雨が明けることが必要だった。
又、それを打ち破る為に鉄砲を決戦兵器として集団的に集中使用する史上初の(決戦兵器という意味での)銃撃戦である。
0444人間七七四年
2008/08/18(月) 14:20:32ID:l1O5M577> 昨今の史学の特徴として歴史の平坦化、
> (大勝だった戦は僅勝に、凡将だった武将は並将に、意義のあった事業はそうでもなく)
それは手法や目的じゃなくて単なる結果だろ。
勝者敗者の区別無く公平に歴史を叙述することが目的で、その手段として科学的分析や詳細な資料批判が行われている。
そしてその結果として、今まで大げさになりがちだった歴史観が修正されているだけ。
0446人間七七四年
2008/08/19(火) 01:56:38ID:zqsrw3Fp戦前は秀吉の朝鮮行きが過剰に賛美されたのに戦後は過剰に貶されるみたいに。
そういう政治的な偏りを是正しようってのが今の流れだろ。
0447人間七七四年
2008/08/19(火) 11:54:19ID:OiOqgQ0eこれには、出るくいは打つ、という目的や、日本人の偉業や英雄は認めたくない、またはもっとすごくて
「個人の努力は認めたくない」つまり「法隆寺を作ったのは大工さん」的な「思想」を
ものすご〜く感じるぞ。
わしら爺はそのあたりの戦後60年の流れを感じるから、政治的な偏りに加えて
単に史学会のいやらしさをも感じる。
そういう中にいる人は絶対に認めないだろうけど、外にいるとよくわかることもある。
0448人間七七四年
2008/08/19(火) 13:48:38ID:zqsrw3Fp歴史と言うのは様々な事象が互いに影響しあって生まれるもの。
より詳細に資料を読み解いていけばその事象にかかわる人間の数が増えていき、
相対的に一人一人の比重が軽くなるってだけの話だろ。
いわば野球を監督だけで語るのが今までの歴史観で、
選手一人一人からフロントの動きまで網羅的に語るおかげで監督の役割が相対的に小さくなるのが今の歴史観だ。
0449人間七七四年
2008/08/19(火) 16:01:25ID:6r2jlXd9つまり、イチローがヒット打ったのは、裏方さん、トレーナー、広報、用具係
果てはバット、スパイク、そういうのものまで研究して、個人の能力、努力が
おざなりになっていくんだよね。
こういうのは、縦割り学会の弊害、細分化しすぎた研究の弊害、でいわば
「盲人象に触る」になっていく。
いくらフロントの動きをさぐっても、現実にその場でサイン出すのは監督だし
行動するのは選手。
あくまで、視点、の話であって、是非、善悪、じゃないから
そこはよろしくな。
いろんな裏方さんががんばってのはすごいと思うし、イチローだって
感謝してる。ただそれを、視点の中心にまで持ってきたり、裏方さんの力で
ヒット打てた、みたいな解釈すると全体の理解がいかしくなる、という話な。
0450人間七七四年
2008/08/19(火) 18:03:08ID:GoGiYtV0単純に”神格化”されていたものが、”人間”信長になってきただけで。それゆえ凄みもましてると思うよ。
戦術的(戦死者の数etc..)にどうであれ、戦略的に見たら、
武田軍の野戦軍を壊滅し、徳川領にかかってた軍事的圧力をなくして、
以後逆に徳川軍だけで侵攻できる状況にしたことこそが長篠合戦の最大の結果だと思う。
0451人間七七四年
2008/08/19(火) 18:37:02ID:6XW+0XXhもちろん公記なんかは徳川は助勢、みたいな感じなんだけどね。
再検証とまでは言わないけど、信長が戦の達人みたいな言い方にもちょっと
疑問があるので、徳川の言い分もよく理解できる気がする。
0452人間七七四年
2008/08/19(火) 21:35:52ID:IzxYphxU織田軍がすでに経験してるよ。
それは、大阪の石山本願寺への攻撃。
1万の軍勢と、「数千丁の鉄砲」で武装された本願寺に総攻撃をかけたのだが、
棒で柵を作っただけの防衛線が、どうしても突破できない。
突撃を繰り返し、馬防柵の前で死体の山を築く織田軍。
ついには攻めの総大将まで鉄砲に撃たれて死んでしまう。
0453人間七七四年
2008/08/19(火) 21:40:38ID:IzxYphxU大須賀記というのがあるよ。
藤本正行氏の文庫本に、その要点が載ってる。
長篠屏風の解説なども詳しく載っていて、内容的にも一級。
0454人間七七四年
2008/08/19(火) 21:57:28ID:zqsrw3Fp戦略的な行動で勝ちを得たってことだしな。
>>449
でもイチローがいくら打ってもマリナーズは勝てないし。
0455人間七七四年
2008/08/19(火) 22:00:11ID:VrReevNiさんきゅ。
藤本の文庫本ってなんだろ、さがしてみるね。
確か戦闘自体は織田徳川軍の勝ちだけど、勝頼の首は取れなかったのだよね。
このあたりも、徳川側は批評してなかったかな。
姉川もだけど、信長はどうもこういう勝ち方が甘いと言うか、言われてるほど
きっちり勝ちきってない戦いが多い感じもする。
スレチになっちゃうかな。
0456人間七七四年
2008/08/19(火) 22:12:06ID:IzxYphxU講談社学術文庫藤本正行(著者)文庫
定価 ¥1,050
>>440
そのサイト、読んでみたけど、長篠日記も含めて
かなり怪しげ。
0457人間七七四年
2008/08/19(火) 22:19:20ID:o3KKjd72何いっているんだ、十分大きな、きっちり勝ちきった戦いだよ。
あなたは敵の総大将(大名レベル)を討ち取らないと勝利と看做さないんですか?
そんな基準で言ったら戦国時代でも片手の指で数えるくらいしかなくなるし、
信長だけでなく信玄謙信含めてみんな「きっちり勝ちきってない、勝ち方が甘い」
となるよ。
0458人間七七四年
2008/08/19(火) 22:28:23ID:x33jcvmS大名自らが戦のさなかに討たれるなんてそうめったにあることじゃないからな。
今川義元や竜造寺隆信など、数えるほどしかないのに、でないと勝ちでないという定義は
無茶ですよね
0459人間七七四年
2008/08/19(火) 23:22:28ID:VrReevNiあ、新書と間違えてた。ありがと。
>>457
ちゅうか、どちらも追撃すれば敵将の首が取れるぐらいだったでしょう。
実際に家康は、追撃を主張、したのに、信長がもういい、みたいな感じじゃなかったかな。
戦国と言うぐらいで、大将の首逃したらそっから逆転されるかもしれない、家康なんかは
それを知ってたから豊家を完全に滅ぼした。
そういう意味からの、勝ち方が甘い、勝ちきってない、という表現であって
別に信長の評価を下げようとしてる意味合いはまったくない。
>>458
勝ちじゃない、とは言ってませんよ。
勝ちは勝ち、圧勝なんだけど、そこから敵を完全に滅ぼすまでに
さらに何年もかかってるでしょう。
「実質首取らなくても無力化してるからいい」という論もよくきくけど、
やっぱり先に言ったように、そういうところから何が起きるのかわからないのが
戦国時代。
信玄や謙信たちと違って、家康との連合軍で圧勝、なのに追撃を中途半端に
すませ敵将の首を取らなかった、こういうのを表現したわけね。
家康なんか関が原できっちり追撃して三成やエケイやらつかまえてるからね。
こういうとこも家康は、先人から学んでるな、と思うし。
繰り返すけど、信長の悪口とか評価を下げる、という意味ではないからね。
他の武将からみたら、はるかに強力な武将、なんだけど、秀吉、家康ほどの
エグさが薄いというかね。
ま、やる時は長島とか叡山攻撃とかやってるだけに余計に気になったりして。
0460人間七七四年
2008/08/19(火) 23:25:48ID:ynfdUvki義に厚く争いを憎む上杉謙信→戦いが大好きな欲深い男
計算済みだった桶狭間の戦い→偶然の産物
無能の北条氏政、武田勝頼→名将
確かにずいぶん変わってきたよな
0461人間七七四年
2008/08/19(火) 23:49:15ID:o3KKjd72長篠における武田側の使者は、ほとんどが追撃戦で討ち取られている。
信長は「これ以上の追撃は無用」と切り上げたのであって、実際勝頼は安全圏まで
逃げ切って、深追いした織田徳川の側では逆撃をくらった部隊もあった。
別に信長は追撃を控えたわけでも、勝頼を故意に逃がしたわけでもない。
この場合は追撃を振り切った勝頼と、抑えた武田の殿を褒めるべき。
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