福島の戦国大名について
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/26(月) 22:55:19ID:F73GKVU8白河結城、二階堂、猪苗代、二本松畠山、芦名……。
こいつらについて語ってみませんか?
あと久保に萌えるのもOK。
0521人間七七四年
2009/02/10(火) 10:48:43ID:NiwxS0z7浪岡北畠氏:1578年頃滅亡
寒河江氏:1584年滅亡
二本松畠山氏:1586年滅亡
奥州斯波氏:1588年滅亡
蘆名氏:1589年滅亡
二階堂氏:1589年滅亡
葛西氏:1590年改易
大崎氏:1590年改易
白河結城氏:1590年改易
石川氏:1590年改易
大宝寺氏:1591年改易
岩城氏:1600年改易(その後一応大名として復活)
小野寺氏:1600年改易
最上氏:1622年改易
どこから名門なのかはさておき、相当潰れてるね
もう少しなんとかすれば生き残れたんじゃねーのかってのが多い
0522人間七七四年
2009/02/11(水) 23:05:30ID:uVN94+qA戦争は仕方ないにしろ、小田原関連のは勿体無い。
一応自分の領地で食わせたからまだ許されているけどな。
それでも恨み節もあろうな。
0523人間七七四年
2009/02/12(木) 00:06:17ID:AKQwGBPL葛西や大崎もそうだったのかな?
0524人間七七四年
2009/02/13(金) 11:22:33ID:8x3iVA1p葛西は伊達の影響もないわけではなかろうが、それ以前のところで当主が動けなかったのが実際
下手に離れりゃ、すぐ反抗的な一部勢力が蜂起するのが目に見えてたのが当時の葛西家中
元々主力家臣団が独立性が高く、自立的な性質を強く持っていたことが災いして
末期には主家と有力家臣の間で度々内紛が繰り返されてた
なんで、当主が動けば即領内で誰か蜂起するのが出てもおかしくない状況だったため
小田原に行きたくても行けない状態ではあった
0526525
2009/02/18(水) 11:28:09ID:IavpeQth白河結城もな!
既出だが、不説斎、秀吉への献上品を政宗に託すも…改易
政宗、その献上品を猫ババして自分からの献上品とした…
石川や白河結城は親豊臣の佐竹を裏切ったから仕方ないけどな…
しかし妻の実家田村を改易に追い込んだ政宗の政治手腕は流石です
0529人間七七四年
2009/02/26(木) 11:23:53ID:HvVKymfN蒲生→上杉→最上→加藤と流転の挙げ句消息不明となった大崎カワイソス
0530人間七七四年
2009/02/26(木) 11:49:32ID:vNEDMTpp0531人間七七四年
2009/02/26(木) 13:11:59ID:BqxQFbnc一致団結するのが遅すぎた
0532人間七七四年
2009/02/26(木) 20:37:11ID:VkJWUfv/0533人間七七四年
2009/02/27(金) 02:33:11ID:PLw8gHMV仕官してるケースが大半だな。
0534人間七七四年
2009/02/27(金) 09:32:50ID:PRvK8PYp0535人間七七四年
2009/02/28(土) 01:35:33ID:dydYZe/Y250年後を末路ってw
0536人間七七四年
2009/03/07(土) 01:20:19ID:b7hP/ZZk0537人間七七四年
2009/03/14(土) 14:59:57ID:kexJ4q6m0538人間七七四年
2009/03/15(日) 20:23:05ID:GF4a86nR白石家という家があるな。
0539人間七七四年
2009/03/16(月) 12:56:23ID:xo3dM6Vs須賀川戦の前に女子供を遠縁に逃したらしいんだお。
おいらは実家いわき市なんだお。
二階堂を名乗ると伊達にボコられるから苗字も遠縁の渡辺性にした
らしんらお。
ゆるさねーぞ伊達えええ! ってことで信長の野望で二階堂さんを
大名にして復讐を試みたんだけど…
0540仙台藩百姓
2009/03/16(月) 14:39:55ID:Uc4IFouJ0542人間七七四年
2009/04/06(月) 16:01:50ID:1cl5h2XW0543人間七七四年
2009/04/08(水) 08:30:47ID:nO9MGkw2多くはないですが、珍しくもないですね。
0544人間七七四年
2009/04/08(水) 09:35:49ID:E7CZpZX80545人間七七四年
2009/04/08(水) 11:27:21ID:0xtAv7780546人間七七四年
2009/04/08(水) 12:03:49ID:nNZFlXXo0547人間七七四年
2009/04/08(水) 23:12:31ID:j7Lu25PA0548人間七七四年
2009/04/09(木) 19:39:16ID:FAG7AO8e0549人間七七四年
2009/04/09(木) 19:49:13ID:UGXMBIdmバカタレ
0550人間七七四年
2009/04/10(金) 08:04:37ID:FCKjbk/z家は300年から続く家柄だそうだけど、三芦城から実家の距離を考えると
半農半士の郷士程度だったんだろうな。
0551人間七七四年
2009/04/10(金) 11:19:45ID:3X855fxpいやお前は蝦夷の奴隷
0552人間七七四年
2009/04/10(金) 11:36:11ID:FCKjbk/z0553人間七七四年
2009/04/11(土) 15:19:35ID:qk4WQ0Ma0554人間七七四年
2009/04/11(土) 20:07:48ID:/T9bdHnW0555人間七七四年
2009/04/20(月) 16:12:28ID:Xav7C0jp0556人間七七四年
2009/04/21(火) 17:21:12ID:6TMN6ntT0557人間七七四年
2009/04/21(火) 21:31:22ID:NSusizVm源氏名。
0558人間七七四年
2009/04/22(水) 20:30:35ID:oYXlIiml改め
源正美
0559人間七七四年
2009/04/23(木) 13:56:39ID:/QAv+1s60560人間七七四年
2009/04/25(土) 12:44:15ID:iuSNw2Kk0561人間七七四年
2009/05/06(水) 21:29:50ID:gVWGTL03伊東重信。工藤祐経次男・祐長の子孫。
侵略されたのではなく元々伊達方。
「郡山合戦」で政宗公を庇って壮烈な戦死を遂げた。
市内富久山町に追悼碑(郡山市指定文化財)がある。
なお、伊東家は伊達騒動に関連し、伊達兵部を除こうと画策するも失敗、
兵部によって処刑され、断絶するも、兵部失脚後再興された。
0562人間七七四年
2009/05/06(水) 22:27:32ID:BFlw7MB3おぉ!よく知ってるな。
できれば伊東重信について少しでも書かれてる本あったら紹介してください。
0563人間七七四年
2009/05/07(木) 22:52:17ID:Fhf7ecu7娘に婿を取って(伊東新左衛門)3代目とした。この夫婦には子が出来なかったので、国分盛重の孫に当る采女重門を養子とした。
伊達騒動の時、重門と重孝は兵部の専横を憎み、これを除こうとしたが家臣の裏切りで失敗し、
重門は伊達式部宗倫にお預けののち自害、七十郎とその両親は斬罪、兄は切腹、その子は追放となってしまった。
しかし、兵部が失脚すると、七十郎こそ忠臣だ、ということになり、顕彰碑が立てられ、伊達安房宗実(成実養嗣子)3男を持って再興したが、その人物は後に伊東家を離れて亘理に戻り、現在の新地町に住み、
七十郎の甥が改めて当主となり現代に続いている。太白区に郡山さんが多かったり仙台市に片平があるのも、伊東家と関係があるらしい。
菩提寺の最寄は仙石線陸前小野。
0564人間七七四年
2009/05/10(日) 13:59:55ID:Ls9HmUnC資料によれば、「芦名の侵略で片平中村城を追われ、政宗公の元に身を寄せ奪回を志していた」とある。
0565人間七七四年
2009/05/10(日) 15:12:42ID:0GO+oSGL片平中村城は伊東大和守が蘆名に帰属してたが、田村に帰属してた大内備前定綱が攻略し弟の親綱(葦名に避難した大和守はのち娘を親綱に娶らせ養子にした)が片平中村城にいたんだぜ。
一時、政宗に追われたが石川弾正討伐の時に大内側が伊達成実に圧勝し片平中村城を大内側に奪還され、政宗は石川弾正攻略を頓挫させられた上に定綱の要求に屈して、大内兄弟側の条件を政宗はすべて飲んだ。
田村騎属の郡山城は郡山太郎左衛門尉の居城。のちに田村侵略した政宗にそのまま帰属。
伊東肥前重信は郡山合戦で敗北した政宗が追撃されるのを避けるため身代わりになり討ち死に。
ちなみに伊東重信=郡山左衛門尉で確定したの?
0566人間七七四年
2009/05/10(日) 16:16:48ID:Ls9HmUnCまた伊東家の系図に重信の父・祐重の代に姓を郡山から伊東に戻したような記述がある。
重信以降、通字が「祐」から「重」に代わった。(祐重ー重信ー重綱=重義(重綱娘婿)=重門(古内氏より)=重定(伊達宗実三男)=重直(伊東重綱孫・七十郎重孝甥・・・・)
なお、伊東重信については、「郡山」に居城していたが、後世「伊東家本拠=片平」ということから片平城主とされてしまったらしく伊達家の資料では郡山城主である。
しかし多くの郷土史資料では片平城(中には碑のある久保田山王舘が居城と言っている人もいる)主とされてしまたらしい。
0567人間七七四年
2009/05/18(月) 21:07:15ID:CMNQv7br0568人間七七四年
2009/05/19(火) 23:22:16ID:OFEEn+eW0569人間七七四年
2009/05/20(水) 07:15:19ID:8BYx6EFN0570人間七七四年
2009/05/20(水) 12:39:47ID:Hm4pm9Ut0571人間七七四年
2009/05/20(水) 14:02:17ID:KZ01EWsG簡単に死んじゃうオヤカタ様も嫌だよな
0572人間七七四年
2009/05/21(木) 12:25:35ID:j/l3j9Nl0573人間七七四年
2009/05/21(木) 12:32:14ID:LjmG0Lmeお前はそうやって、既に死んだ人間の悪口を繰り返す卑怯者なわけだ。
政宗が100万石以上を築いた年齢の時、お前は何を成し遂げた?
0574人間七七四年
2009/05/21(木) 13:10:26ID:j/l3j9Nlまだ生まれてませんが何か?
0576人間七七四年
2009/05/21(木) 15:02:53ID:Rvz7Rd6kこの掛け合い最高。
0577人間七七四年
2009/05/22(金) 11:52:07ID:h00hZ7I0岩城市史や近辺市町村史、茨城県史や太田市史には存在すら記載されていません
白川市史は手に入らなかった
奥羽永慶軍記には記載があったと思いますが、他に信頼に足る資料がないだろうか…
0578人間七七四年
2009/05/22(金) 12:44:54ID:h00hZ7I00579人間七七四年
2009/05/22(金) 16:54:20ID:n//FpKJ6古くは、義経の家来・佐藤兄弟の壮烈な死があった。
佐藤兄弟、伊東重信、鬼庭左月は郷土の誇りである。
即ち、ふくしまのもののふは主君に殉じて散る忠誠心の塊だということを世に示したからである。
茂庭家、伊東家がその後、いかに重用されたかが全てを物語っている。
それを政宗公が卑怯者とは片腹痛い。
0581人間七七四年
2009/05/22(金) 18:01:15ID:IRrhffGj政宗の歓心を買うために妊娠した息子を殺そうしたり、
その息子が成長するや保身のために政宗の男色相手に差し出したしキモ過ぎ。
そういや息子は小早川秀秋にも尻を狙われたんだよな。
政宗も秀秋の相手をしてやれよって父から息子に言えって言ってるしw
0582人間七七四年
2009/05/22(金) 18:36:34ID:n//FpKJ6>>580盛重。
石川氏の血統・・石川家、涌谷伊達(亘理)家、田村家が石川昭光の子孫。
一門11家+田村の12家のうち、田村・石川・涌谷が石川昭光、亘理伊達・岩出山伊達・水沢伊達(留守)・川崎伊達が亘理重宗の子孫、
その他が伊達政宗の子孫になってしまった。伊達本家も含め、一旦田手家に養子に行った宗房の子孫が最も繁栄したようだ。
直系でずっと存続したのは石川だけで、昭光の息子・義宗の母が石川晴光の娘であることを考えると、石川家の血統は実に息の長い存在だったことがわかる。
0583人間七七四年
2009/05/22(金) 19:29:28ID:IRrhffGjしかも江戸では伊達藩とは別に幕府から割り当てられた屋敷を持ち、一国一城令の例外として白石城を許され政宗監視役を任された徳川内通者と言う一面もあるので、
政宗も危険視して片倉氏を一門に取り立てなかったな。
0584人間七七四年
2009/05/22(金) 19:50:45ID:fupvA8ds片倉景綱が糖尿病で肥満であったと記されている史料の名前は?
主君の為と言っても色々なやり方がある。
ただ単に死ねば良いなどと言うのは暴論以外の何物でもなく、別に晩節を汚してもいない。
忠義を悪い方にとれば歓心を買うや保身というとり方になる訳か。
当時は男色なんて珍しくもなく普通なのに、現在の価値観で語っている時点で話にならん。
ただ貶したいが為に歴史を弄ぶお前だが、その名前が後世に伝わる事もないだろうな。
0585人間七七四年
2009/05/22(金) 22:32:20ID:kGrJSH/I>妊娠した息子
変な意味に取られるぞw
0586人間七七四年
2009/05/23(土) 07:56:28ID:k4qbCV2/元和八年関山の地主より出せる書に、天正十一年に佐竹義宣出馬これあるみぎり、
那須の薄葉備中守人数二千計にて攻めそうらへども、旗宿中野内松において
佐竹勢手痛く戦ひそうろうゆえ、那須勢敗北す備中守も那須へ帰る
按、那須記を考えるに、天正十一年の頃は佐竹那須不和、戦争不絶ときなり
と『白河古事考』にある。
0587人間七七四年
2009/05/23(土) 14:17:47ID:RyOIs4qj監視といえばむしろ、白石(片倉)と亘理(成実)で角田(石川)を挟んで監視していた気がする。
0588人間七七四年
2009/05/23(土) 17:39:45ID:FuDcJMXw0589小高
2009/05/27(水) 20:35:04ID:nRvhlg9s0590人間七七四年
2009/06/03(水) 13:07:03ID:ItQywLuD0591人間七七四年
2009/06/09(火) 15:49:39ID:DptuwKc60592人間七七四年
2009/06/13(土) 14:42:16ID:JGd6EvXn0593人間七七四年
2009/06/14(日) 01:40:38ID:gKGWu6XM0594人間七七四年
2009/06/19(金) 15:34:36ID:JoLXny/50595人間七七四年
2009/06/19(金) 17:16:42ID:IqtlrT4S全部伊達に臣属するか滅ぼされた。相馬以外は
やっぱ伊達ってグレイトだわ
福島市もいっそ伊達市に併合されて県庁所在地は伊達市になるべき
0596人間七七四年
2009/06/21(日) 19:57:26ID:r9XqTxil0597人間七七四年
2009/06/27(土) 13:17:23ID:MZ0zhMvD0598人間七七四年
2009/06/29(月) 22:22:08ID:gk6lOVrZ石川町で矢沢、近内なら石川氏と足利氏の血筋だな。
伊達正宗公の命を救ったのは石川氏だ。
正宗が秀吉に謙譲した名馬は石川昭光が託した。
0599人間七七四年
2009/07/01(水) 23:08:13ID:yEovlexj岩城もその兄弟だったような?
0600人間七七四年
2009/07/02(木) 22:15:16ID:cMPw+WmW矢沢は分家で近内は元々宮古の閉伊氏では?
0601奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2009/07/03(金) 08:12:49ID:175cAmd20602人間七七四年
2009/07/03(金) 23:09:43ID:kRs0qJgRいつの間にか伊達家一門の上席で優遇されてんのな
よほどの世渡り上手かな
0604人間七七四年
2009/07/04(土) 02:36:50ID:hzQ++Wtmを差し置いて一門筆頭なんだよね。
でも、石川の家名保持の為、伊達姓を名乗るのを辞退したとか。
留守家も石川家も奥州仕置で改易され、伊達家臣になるものの、
留守氏は伊達傘下の大名になって久しく、伊達から郡宗、景宗が入嗣
した「伊達の分家」と言ってもいい状態なのに比べ、服属して日が浅い
昭光が政宗に行動を制限された結果、小田原に参陣出来ずに改易
された事を政宗が後ろめたく思っていたのかも知れない。
敵対勢力だった昭光が優遇された事が成実出奔の理由の一つと
言われるし、弟の国分盛重の出奔も同様の説(個人的には違うと思う)
がある。(昭光は佐竹→伊達。盛重は伊達→佐竹なところが真逆)
昭光は高齢に関わらず、大坂夏の陣で首級をあげたり、角田で阿武隈川
の治水事業を行ったりと優秀な人物だったかもしれない。
景綱の白石、成実の亘理と共に仙台藩防衛の要所である角田を
任されている訳だし。
でも、伊達家臣になるまでの昭光は、白河義親と同レベルの
「佐竹に実権を奪われている小領主」というイメージなんだよな。
0605人間七七四年
2009/07/04(土) 17:44:51ID:XBFHGJuB石川があの位置で佐竹と敵対していたら、間違いなく潰される
昭光が継いだ頃にはすでに周囲の勢力は佐竹に傾いており、
その中で反佐竹を標榜するのは家を潰す行為に等しい
田村以上に伊達からは遠く、まず援軍は見込めないのに、
(田村ですら半孤立状態だったんだから、石川がその立場になればどうなるかは火を見るよりも明らか)
そこで自分は伊達の味方だなんて言えるわけがない
当時の昭光にとっては佐竹に屈服するということ自体
石川の家名を残すための最善の判断だったということでしょう
0606人間七七四年
2009/07/04(土) 20:41:30ID:FKcqPkCNあと、佐竹軍に身を置きながら積極的に戦わなかったり、講和を整えたりと陰ながら政宗を支えていた。
それと、小田原に行けなかったのは「政宗が邪魔した」「病気だった」という説のほか、「須賀川残党の掃討を行なっていた」という説もある。
0607人間七七四年
2009/07/04(土) 20:48:44ID:nSGPujoM1572だか73ごろの戦いでは、佐竹石川連合軍は蘆名にド敗北して、
特に石川は麾下の兵に大損害を出した。
その上やがて蘆名と佐竹が仲良くなりはじめたので、
石川(白川も)は、このふたつの間で蔑ろ的状態になり始め、
仕方なく伊達に寄っていったのだよ。
0608人間七七四年
2009/07/05(日) 05:38:51ID:z8MZvRqU伊達の後ろ盾で旧領に戻ろうと策して昭光が養子に迎えられたが、まったく戻れず
佐竹が旧石川領へ進出してきた際に佐竹の後ろ盾で昭光が旧領に復帰できた。
また伊達の養子は須賀川二階堂未亡人や葦名未亡人や佐竹正妻や岩城氏などにも及んでいたので、
石川昭光が彼ら兄弟と共同歩調をとって旧秩序を守り父殺しの甥政宗と敵対するのもおかしい事ではない。
0609人間七七四年
2009/07/05(日) 10:37:20ID:MqrXjL+l石川庄から伊達に亡命するまでの昭光の足取りは?
多分、内部は相当荒れたのでは?
石川庄に身内、家臣は残ったのか?
そこら辺のエピソード知ってる方?
0610604
2009/07/05(日) 19:48:53ID:l62nD9rVがある事が楽しくて仕方がないw
石川は白河や岩城、田村に領地を侵食されていた状態に加え、
佐竹勢力圏の北進に伴い、佐竹に付かざるを得なかった事は
当然の結果だったろうね。
そして葦名vs佐竹の争いになり、佐竹としては石川に肩入れする事が
石川郡進出の大義名分になったのかな。
三芦城を抑えて後方拠点として更に北進…という感じ。
石川晴光が、佐竹の影響が強くなっている情勢で、わざわざ伊達から
親宗(昭光)を養子に迎えたのが謎だったのだけど、旧領回復を
狙っていたのか…。根拠はないけど、佐竹の勢力にただ呑まれる事を
嫌って牽制として伊達に接近したのかな?と考えていた。
それは「石川は伊達とも太い交渉ルートをもっている」という
自らの影響力の誇示、みたいな。
佐竹も伊達と婚姻関係だし、佐竹勢力下になっても反佐竹勢力との
和睦や交渉の窓口になり得る事は有効だったかもしれないし。
>609
従う家臣も殆どいない状態で亡命した様な事を読んだ記憶があるけど、
出典は判らず(申し訳ない)
政宗から須賀川城の抑えを任されているので、手勢はいたのかも。
それとも保土原氏等の二階堂旧臣が与力に付けられたか?
後に昭光が大身の重臣として封じられるの理由の1つが、
精強な家臣団を持っていた…なら自然なのだけど。
0611人間七七四年
2009/07/05(日) 22:34:07ID:pjE74r4R元々先代晴光の息女を妻にしていたのに佐竹が離縁させて自分の娘を宛がった。
元のフビライが高麗王にしたのと似た仕打ち。
だが跡は前妻の子、義宗に継がせている。
石川昭光は要領よく泳ぎ回ったような感じもするが要所要所で存在感を出している。
それにしても二階堂滅亡で一番得をしたのは昭光であろう。佐竹勢力が一掃され、新たに交通に便利な須賀川が与えられた上に本領とは地続き。
政宗も降将ではあるが叔父としてそれなりに扱ったようだし。(それにしても盛重は気の毒・・・)
兄弟の中でも昭光は優秀な方だったのではないだろうか。
0612人間七七四年
2009/07/06(月) 11:45:50ID:V1/B6qPfでは伊達はなにを石川にしてあげたのかね?伊達は石川のために何もやってないに等しい。
もともと晴光は晴宗の父を支持して晴宗と敵対していた経緯があり、
当時、田村、葦名、二階堂、白河に石川は攻められ続けており、唯一佐竹が石川を支えていた。
石川存続を支えていた佐竹義重の正妻は昭光の妹である縁もある。
永禄11年の養子の件は最低限、伊達が敵に回らないようにするための方便で昭光を養子に迎えざるおえなくなっただけ。
(永禄9年に葦名盛興と晴宗の娘で輝宗の養女が婚姻し、葦名伊達の間が親密になった)
だいたいこの養子の件でも晴光は恥をかかされている。本来、石川へ送り込まれる予定だった政景が永禄10年に留守氏へ送り込まれメンツを伊達に潰され、石川には弟の昭光が行くことにされた。
これにより伊達によって廃嫡に追い込まれた晴光の嫡男を佐竹が保護して晴光(道堅)を安心させてあげたりしてる。
0613人間七七四年
2009/07/06(月) 14:13:38ID:V1/B6qPf石川家臣と言えば一門でもある浅川氏なども佐竹に協力的だった(もちろん一時的に佐竹に敵対する場合もあったが)
昭光が小田原へ行けれなかったのは白河と同様な政宗の仕打ち。
そもそも須賀川反乱鎮圧だって昭光にやらせずに他人に任せればよいはずなのに、わざわざ政宗が指名して足止めしてる。そのくせ矢野田が政宗と小田原へ行くのは許可してる。
もっとも昭光も積極的に鎮圧したとは言い難いし、のちに政宗と小田原へ向かった矢野田城の矢野田義正が佐竹陣へ逃げたと同時に大里城の矢野田善六郎が大反乱を起こし秀吉の会津行きまでに鎮圧できず、政宗は全国にメンツ丸つぶれの恥をかいたが。
白河については、
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1224510510/351
0614仙台藩百姓
2009/07/06(月) 14:40:02ID:feKaeWwT葦名、二階堂、田村、白川に攻められ続けたとかさりげなく嘘言ってるし
周辺国が石川氏や白川氏を飛び越えて直接この地域の国人達と誓紙を取り交わしていた事でも分かるように
石川庄や高野郡はもはや石川氏や白川氏の手から半ば離れ
佐竹と葦名(+田村等)の覇権争いの場と化していたお( ^ω^)
言わば、佐竹や葦名等は自領に取り込もうと争い
石川氏や白川氏は復権を図り
それぞれの利害によって当主を立てんとして錯綜していたのだお( ^ω^)
0615人間七七四年
2009/07/06(月) 15:29:35ID:yvCzW+gl0616仙台藩百姓
2009/07/06(月) 16:19:10ID:feKaeWwT煽って欲しいからわざと変な事言っているのでしょお( ^ω^)
0617人間七七四年
2009/07/06(月) 16:59:05ID:q4BjM4/pあなたが、もしかして俺に煽ってほしいのかな?と思ったとしてもしなくていいし、
そして誰かが「百姓さん、煽ってください」とレスしたわけではないでしょう?
平穏無事に、ポッキーでも食いながらromってりゃいいの。
0618人間七七四年
2009/07/06(月) 17:10:18ID:q4BjM4/pもちろんクリームコロン。
0619人間七七四年
2009/07/06(月) 17:14:42ID:yvCzW+glなのになぁ…。
0620人間七七四年
2009/07/06(月) 20:53:24ID:tIEQUokxその栄光の基礎固めをした石川昭光公は名君である、と。
(ちなみに伊達一門中最後まで他家に血統を乗っ取られなかったのも石川家。亘理伊達は岩出山伊達家、岩出山伊達家と水沢伊達家は涌谷伊達家、涌谷伊達家と田村家は石川家の血統にすりかわっている。
登米と川崎と宮床は伊達宗家(伊達宗家もこれら出身の藩主あり)
石川も一時宗家に乗っ取られそうになったが宇和島を継いだので、元の血筋に戻ることが出来た。)
>>621
政景が継いでいたら、兄弟で最も優秀で誠実だったから石川家はもっと栄えたかもしれないが、「留守親宗」になったであろう昭光はどんなふうになるのか見当もつかないなぁ・・・
0621人間七七四年
2009/07/06(月) 22:47:06ID:V1/B6qPf昭光は政宗に騙されたのが発覚したのだから田村や白河同様に石川も政宗に陥れられ詐術に怒り屈辱を感じはげしく後悔したろう。
小田原参陣しなかった安東が上杉の斡旋で、同じく相馬が佐竹の斡旋で許されたんだから明らかに政宗がわざと石川を潰してる。
同じ改易された大名でも水戸などへ行った者の方がはるかに賢い。
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