本能寺の変
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0818人間七七四年
2009/09/29(火) 09:48:19ID:AE/sVmhr君の疑問に答えてあげよう。
まず信長への殺人教唆の主犯たる帝自身、公然と信長追討の綸旨を出すわけにはいかない。
そんな愚行を犯せば、帝は足利義昭の「二の舞」になるだけ。
曲がりなりにも信長は朝廷を経済的に支援してくれた「大恩人」であり、強大な軍事力を有する大実力者。
信長が無官を貫き、無理難題を吹っかけ、執拗に譲位を迫ろうとも忍の一字を貫くしかない。
が、三職推任を拒否されて、もはやこれ以上信長を放置しておく事ができなくなった。
このまま信長を生かしておけば、朝廷(天皇家)の将来が危ういからだ。
帝が信長に反旗を翻しても、それに応じる織田諸将は一人もいない筈。
応じれば、浅井、松永、荒木の轍を踏み、自滅は明白。自殺行為だ。
それに信長は次期天皇たる皇太子の誠仁親王を自家薬籠に取り込んでおり、彼を擁立しさえすれば賊軍にはならない。
結局、正親町帝は殺されはしないが帝位は追われ、流罪刑に。
そして信長の望んだ通り、傀儡の誠仁親王が新帝に即位し、朝廷の運命は風前の灯。
よって事は極秘に為されなければならなかった。かつて足利義満を毒殺したように。
朝廷側としては、あらゆる甘言(征夷大将軍叙任)を用いて光秀を唆したであろう。
光秀としても、日本の国家元首たる帝がバックについてるからこそ、主殺しに踏み切ったのだ。
かつて信長が越前朝倉攻めを強行した時、浅井が(たぶん)足利義昭の密命で離反したように。
光秀としても、錦の御旗を掲げての信長襲撃で無い以上、織田諸将への誘降工作において帝の名を出す訳にもいかない。
そこが朝廷の上手い(狡賢い)ところで、決して自ら手を汚さない、いざという時の逃げ道はしっかり確保しておく、
これが悠久の昔から永続してきた朝廷の処世術だ。
だが、光秀を討った秀吉には信長謀殺の弱みを握られ、朝廷は唯々諾々と秀吉の意向に応じざるを得なくなっていく。
その客観的証拠が、秀吉の関白任官前の近衛家入りだ。秀吉は近衛前久の猶子となって、まんまと関白に就任した。
この近衛前久、光秀が滅んだと同時に慌てて出奔し、徳川家康までも頼って落ち延びた人物。
その前久、息子の信輔が断固拒否したにも関わらず、あっさりと秀吉の求めに応じ己の猶子に。
つまり秀吉に信長暗殺の罪の不問を条件に、秀吉の近衛家入りを承諾した訳だ。
加えて巨視的な歴史観からも、本能寺の変は朝廷の策謀だと説明できる。
中世は武家、公家、寺家ら権門が共存する「権門体制」だったのが、信長の出現で、そのパワーバランスは大きく変わった。
武家を統一する勢いの信長は厄介な寺社勢力を完全に膝下に置き、残る公家への圧伏を本格化させたとたんに「本能寺の変」だ。
偶然で片付けるには、あまりに出来すぎている。
天正十年当時、信長の最大の懸案事項は朝廷(帝)の扱いであり、朝廷としても座して死を待つわけにはいかなかった。
上杉と毛利が滅べば、信長は前代未聞のとんでもない権力を手にする事になる。
そうなったら、もはや帝とて信長の絶大な権勢には逆らいきれない。朝廷は崖っぷちだった。
だが朝廷には武力がない。だから誰かを唆して信長を討ってもらうしかない。
その二度と巡ってこない好機が、織田軍が四方に遠征しているあの時期だった。
よって信長を帝退位の決意固めるの虚報で京におびき寄せた。
信長の入京は馬揃え以来一年と数ヶ月ぶりであり、明確な目的があっての在京だったのは自明。
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