本能寺の変
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0557名無しさん@お腹いっぱい。
2008/03/09(日) 01:36:55ID:nDgLC+PQ「本能寺の変」(1582年)は、日本史の中でも最大の謎といえる事件のひとつです。本能寺の旧境内地は京都の中心街
(中京区蛸薬師通西洞院付近)の地下に眠っているのですが、今回初めて発掘調査のメスが入りました。織田信長の時代の
石垣や、「能」が浮き彫りされた瓦を目にしたときは、さすがに興奮しました。
これを機に、改めて当時の文献を調べ直し、発掘成果がもつ意味を考えてみました。産経新聞の3日夕刊付1面に載った
「信長の本能寺御殿は、意外と簡素だった」というのが結論。本能寺の本堂に立ち、槍(やり)や刀で奮戦し、やがて火中に
消えてゆくというドラマの情景は間違いだとわかりました。
御殿の規模は、およそ40メートル四方。園城寺(三井寺、大津市)に現存する勧学院客殿か光浄院客殿(いずれも国宝)と
似たような規模の建物だと想定できました。彼の跡を継いだ豊臣秀吉の聚楽第(じゆらくだい)や徳川家康の二条城などの
城郭に比べると、意外なほどの貧弱さです。
こんな施設に、わずか20〜30人の小姓を連れ泊まっていたのですから、明智光秀の1万を超える大軍に攻められては、
防ぎようもなかった。彼ほどの権力者がなぜ、こんな油断をしてしまったか。考えられないことですね。
* *
逆に、光秀の動機は、はっきりしていました。「今なら、天下が取れる」という判断でしょう。柴田勝家は遠い北陸で上杉景勝と
戦っていたし、羽柴秀吉は備中(岡山県)で毛利氏と対陣、滝川一益は上野(群馬)…と、織田軍団の主戦力は各地に散っており、
畿内で大軍を動かせるのは自分だけという、絶好の状況でした。
自分に対する信長の仕打ちをうらんだとか、背後に黒幕がいたとか、珍説・奇説まで含めいろいろな説があります。でもやっぱり、
戦国武将らしく、転がり込んできたチャンスに食らいついたんだと思いますね。
信長は、裏切られるとはつゆほども思ってなかったのです。ここが不思議なところで、それまでにも松永久秀や荒木村重に叛(そむ)かれ、
大変な目に遭っているにもかかわらずです。彼ほどの人物であっても、人を見る目がなかったというしかないですね。
歴史に「if(もしも)」は禁句ですが、信長があのまま生きていたなら、日本の歴史はどうなっていたでしょう。私は、信長は安土から大坂に
拠点を移し、毛利攻めが一段落したあと、征夷大将軍となって幕府を開いたと推測しています。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080308/acd0803082208013-n1.htm
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