関東の被差別部落 その2
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/15(木) 14:50:15ID:IkmS2YvQ0かなり近世以前にも、いわゆる部落とされている地域というのに時宗の
つながりが出てくるように思うんですけれども、だいたい神奈川の場合には、
日蓮宗の部落と時宗の部落というふうに分けられると思うんですね。
そうしますと、先程の一遍上人云々という話も、荒唐無稽ではないんじゃないかと
こう思えるんですけれども、いったい現在神奈川で部落とされている地域というのが、
いつごろからそういう集落を形成してきたのかということについては、
宗教的な背景というのはあるんでしょうか。
A:差別される集団の形成につきましては、
宗教の教団ないしは信仰が背景にあると思われてきますところの
もろもろの伝承があったとしましても、
それらがすべて信用できるかどうかにつきまして、
十分にこれを吟味してよいのではないでしょうか。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 01:49:18ID:kEjnCExe0これを見る限り、街道も関西と違って現実的なんだなと思う
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 02:51:59ID:0ki5P+lrO関宿の話は少なからず4〜5年前から書き込まれている内容だからねぇ…。
引用=コピペ認定は仕方無いと思う。
もっと具体的に調べた内容を書き込めば?
N部落(N木)に直接行ってみるとか?
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 04:16:12ID:jQtCRKd70Bの歴史とか展示してるんですかね?
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 07:13:31ID:XJEii7DYO>>36
Nミキ1と2の区別は、地図帳では無理なんですね。
区別の仕方のヒントは、中央センターの近くに、車一台分くらいのクネクネした道、その脇には小さな川が流れています。
あとは、、、B研究者ならわかると思うので、、、これ以上具体的にここでは話せないです。
>>39
F川村とK瀬村の詳細がみあたらないと聞いたことがあります。
多分、B絡みなのではと思うのですが、、、。
大名行列のときにでも、関宿城博物館にきてみてはどうですか?
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 11:59:13ID:Vqjh1g2lO>>40
N木の詳細をありがとう。
S宿はN木も含め4-5回行っているので、今度はそのあたりを考慮してボラッてきます。
>>38
同じ内容のコピペがあったとしたら、紛らわししいレスで御免なさいです。
あと「silent」姓はその白山の氏子の姓です。
0042あぼーん
NGNG0043名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 17:11:28ID:aqsFZAQI00044名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 19:13:39ID:b5KcDB00Oおにぎり型のエリアだけじゃなくて
下の方のバス通りのあたりまでの全域だと思う
真ん中あたりにハイブリッジハイツってのがあるw
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 20:08:27ID:XJEii7DYOそんなに広いんだ、、、。
一年前くらいにできた葬儀場辺りまでそうなのかな?
かなりの人数いそうだね。
地図帳見てみます。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 23:12:40ID:zt5Jj6Zz0「長吏頭」は浅草の弾左衛門、その配下として各地方の部落ごとに「長吏小頭」が地域を支配していました。
長吏の生業は基本的に農業で、かなり多くの田畑を所有していたうえに斃牛馬処理権を併せ持っていました。
関東では百姓が斃牛馬を捨場に捨て、非人がこれを解体し、長吏がこれを取得し加工して販売するというのが実態だったのです。
かつての戦国大名らは、鎧や鞍などの武器としての皮革調達のために長吏を大事に保護するために「徳政」をしていました。
たとえば納入する皮の値段を高く買ってやるとか、年貢を負けてやるとか、とにかく皮の確保のための優遇処置をしたわけです。
この戦国時代からの役目から生じた一種の特権が、その後も引き続き江戸時代の全期を通じて幕府によって公認されていたのです。
そして、この斃牛馬取得権は、この慣習法によって受け継がれた長吏の権利ですが、後には一種の「株」のようなものと考えられ、
長吏の間で質に入れたりすることができました。
さらに長吏は、斃牛馬取得権とは別に、もう一つの権利をもっていました。これを勧進権といいます。
旦那場(縄張り)村内百姓各戸からの夏麦・秋籾の買いうけ、吉凶(正月・五節句・婚礼・葬式など)及び月並み(朔・望日など)の
呪術的勧進廻りによる百姓各戸からの米麦銭の貰い受け(布施・祝儀)、野辺へ出し候物の取得、祭礼の際の場銭、市役銭などの徴収などです。
この勧進の権利の一部を非人に譲渡し、これによって非人は長吏の縄張り内で生活ができたのだそうです。
この長吏と非人の関係、つまり長吏によって非人が支配されていたということは、浅草の弾左衛門による東日本支配地においてのみの特長で、
西日本ではこのような関係はありませんでした。
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 23:16:22ID:zt5Jj6Zz0これは非人の最も大事な役目で、これを場役といい、また非人の表役ともいわれました。
とくに、この日の場主は誰であるかを確かめて、その日の場物(斃牛馬)を的確に場主に通報し届けるということは、
職場日割帳を読んで理解しないかぎり納得した行動はできないし、まして、小頭に提出する斃牛馬出方帳面への記入などはできるものではないわけで、
このように見てきますと、非人は結構文字の読み書きができたことがわかります。
現に、地方に残っている江戸時代の史料からは、明らかに非人身分のものが自筆したと見られるものが多数出ているとのことです。
一般的に非人というのは人に非ずと書き、浮浪者・乞食と思いがちですが、そうではなく幕府によって「身分の者」として公認された者のことです。
つまり、人別帳といって今日の戸籍簿のような幕府に提出する書類にも記載され、一定の保護を受けている者ということです。
身分の者というのは、今日でいえば海外旅行などに行くときに、パスポートを受ける資格のある者とでもいえるかと言われています。
また、非人のことを番太(ばんた)ともいいます。
長吏によって各村々に派遣され、長吏の命令を受けて捨場の見回り・斃牛馬の解体などの役と
村方に入ってくる野非人(浮浪者)の排除や犯罪者の探索・逮捕・仕置などの任務についていたりもしました。
野非人(浮浪者)には戸籍はありません、野非人(浮浪者)は生きるためにはどんなことでもしました。
ことに幕府は、この野非人(浮浪者)の対策に頭を痛めました。
そして、これら野非人(浮浪者)を取り締まっていたのが、長吏の手足となって働いた非人だったわけです。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 23:22:57ID:zt5Jj6Zz0関東のとある部落の長吏が持っていた田畑は、一部の部落報告書にあったような零細で痩せた、等級の低い田畑ではなく、
例えば、田の場合を見ますと、全部で一五町六反余のうち、実に上田と中田が十二町二反歩もあったことが判っています。
また、畑にしましても下畑以下の反歩は、全体の二十町三反余の五%しかありませんでした。
ですから、一般の部落関係の解説書などに長吏は等級の低い田畑しか持つことができなかったと書かれているようですが、
史料的には明らかに間違いであることがわかってきたようです。
そして、長吏たちはかなり勤勉であったようで、ある地方の田合計十五町六反余のうち、
百姓から質地として買い取った田は四町七反余ほどもあり、実に田の三割に達していることもあったと記録されていたりします。
そしてさらには、長吏が管理していた草展ー竹皮草履や藁草履・草畦などの生産・販売を見過ごすわけにはいかないですね。
特に竹皮草履の製造・販売は長吏の特権専売でした。
つまり、長吏は地域においてかなりの有力者であり小金持ちだったということがわかってきているわけです。
ある地方の名主家の史料によると、明治三年の記録ですが、当時三十五軒の長吏たちが年に三百五十両もの収入があったと報告があります。
当時の侍でも一番下の給料は、一年に三両一人扶持でした。
俗にこれをサンピンといって馬鹿にする言葉となっていましたが、このサンピン侍から見れば、年に十両という収入が如何にたいへんな金額で
あったかが判ります。
長吏は専有専売権によるかなりの収入を有していたということで、単純に士農工商穢多非人という階級を鵜呑みにすることはできないでしょう。
そういった近世社会の身分制の中での実生活の『実態解明』が近年どんどんすすめられているようです。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 23:55:44ID:zt5Jj6Zz0その財力は、巷間旗本や大名と比較され、格式は一万石、しかしその財力は大名並の五万石であると言われていました。
浅草の弾左衛門の屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であり、
周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていました。
屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、300から400人の役人家族が暮らす住宅もあったそうです。
弾左衛門は配下の被差別民の裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられました。
明治維新後にいわゆる「解放令」が太政官布告として発令され、「穢多・非人という賤称を廃止する」ことになりましたが、
それと同時に斃牛馬処理権により皮革を集約して加工し独占販売する権利も失ってしまいました。
そこで、最後の弾左衛門・弾直樹は、中世以来自分たちの生業であった皮革産業を、『近代工業』として育てあげようと考え、
個人で外国人技師を招聘し、皮革技術の伝習所を作り、靴工場を設立したそうです。
そのために彼は膨大な私財を投資しました。
江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産は、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどだったそうです。
結局は、皮を集約できるという権限を奪われたことが決めてとなって、最後の弾左衛門・弾直樹の靴工場は経営的に破綻してしまったそうです。
しかし、弾直樹が近代日本皮革産業の創設者の一人であったことは間違いのない事実です。
そして、彼ら先人たちの下で培われた技術が、その後も浅草周辺を中心として引き継がれ、
日本の近代産業の一翼を担うかたちで、靴や鞄の産業、皮革産業が発展してきたということだそうです。
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/27(火) 00:23:39ID:1yRAt3Lc0ID:zt5Jj6Zz0
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/27(火) 06:28:28ID:xiF+o03w0http://www.google.co.jp/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fwww.bll.gr.jp%2Fnews2007%2Fnews20071126-6.html&hl=ja&mrestrict=chtml&safe=on&client=ms-docomo-jp&q=%E8%A7%A3%E6%94%BE%E6%96%B0%E8%81%9E&source=m&output=chtml&site=search
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/27(火) 11:01:02ID:RK1+JsxH0部落民がしてきてくれたことは、俺らの生活を支えられてたわけだからな。
ただ、差別はしていないが、嫌ってはいる。
理由は、利権と嫌がらせだ。
そういうことするから嫌われるってわかんねーのかな?
逆差別だ。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/27(火) 22:38:07ID:GBF0HY580あのへんってどうなんですか?
心霊スポットとして有名で、自殺者が多いのは知ってますが
黒い歴史のある土地なんでしょうか???
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 00:24:57ID:5xBROgiPO栃木・茨城は全域がガチらしいよ。
栃木・茨城スレで指摘されて彼女と別れたよ。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 00:30:27ID:dwS40e2ZO弾直樹の子孫達は、今何をやっているんですか?
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 01:57:37ID:BgIhgHMaO0057名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 19:55:33ID:dwS40e2ZO0058名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 20:29:36ID:T74L0YaS00059名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 23:01:04ID:/Fjb7smy0また、アメリカ人の製靴技師チャールス・ヘンニンゲルを雇用して、滝ノ川に皮革・靴伝習所を開いた。
ヘンニンゲルの指導の下に製造された造靴用の革はチャールスにちなみ「茶利皮」と名づけられた。
1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると
製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中した。
こうしたことのために弾は膨大な私財を投資した。
しかし、この十ヵ年納入契約は一年を待たずに破棄されてしまい、弾の事業は決定的な打撃をこうむった。
この突然の契約破棄の理由については、
・戊申戦争の時に甲陽鎮撫隊に協力した弾直樹に対する明治新政府の意趣返し説
・皮革を扱うことの自由化に伴う士族ら資本家たちの部落産業への進出→弾直樹潰し工作説
の二説が有力である。
その後、三井の北岡文平が監督に入り、名称も「弾北岡組」と呼ばれるようになった。
事業は製革と製靴に二分され、製靴部門は明治5年12月浅草亀岡町にある弾の邸内に移された。
が、結局、皮を集約する権限を奪われたことが決め手となって、1874年(明治7)、弾直樹の皮革会社は倒産した。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/28(水) 23:30:13ID:dwS40e2ZO0061名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/29(木) 00:14:42ID:Uuhf0rJw0弾家の墓は現在も無縁仏にはなっておらず、きちんと永代管理料が払われている。
つまり誰かが、もしくはしかるべき団体がその料金を支払い続けているわけだが
研究者が訪ねていっても、寺側はその件に関して硬く口を閉ざしており
弾家の末裔の方々の現在に関しては表立って公表されていない。
かつて地元で権勢を誇った弾家に敬意を表して寺側が自主的に
弾家の墓の永代管理を受け持っているのかもしれない。
あるいは、弾家は明治期に三井財閥系に吸収されたので、
三井グループが永代管理料を支払っていることも考えられる。
そうであっても三井グループは絶対に公表をしないであろう。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/29(木) 02:21:40ID:XOeAecL1Oそれは、この板での共通した認識なんですか?
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/29(木) 05:10:32ID:VYPZCxSZ0何も無い。もともと松林ばっかりだし。
それっぽい低層住宅は大抵、学生のボロアパート。
TKB市にBがあるのかは知らんけど、一応、市役所に人権を扱う部局はある。
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/29(木) 06:25:21ID:d2XabpQ5O合併ばかりしているから同和団体の支部が多数あるよ。
以前に役所と団体の癒着が話題になったよ。
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/29(木) 20:41:36ID:/Dtxkien0現在は弾ではなく矢野姓でどこかに暮らしているんでしょうね。
直樹は私と同郷の出身ですが現在そこにも旧名の寺田家はありません。
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/29(木) 23:53:11ID:zq0lRUJX00067名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 00:29:42ID:Wy853ipC0生まれ故郷の神戸市兵庫区の専念寺に葬られました。
ところで、野田の話題が出たところで、「福田村事件」。
先日、野田市(福田村)三ツ堀の香取神社と渡し場跡付近をボラリました。
現柏市の田中村の自警団も関与してるのですね。
襲撃現場にたたずみ、香川県三豊郡の被差別部落出身の、
売薬行商人の方々のご冥福を祈りました。
何の罪もない2歳から6歳の子ども三人までもが犠牲になっています。
また、コピペとかいわないで下さい。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 00:37:41ID:XStH1XeoO0069名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 00:48:18ID:TyA3HY3Q00070名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 04:14:09ID:rlCwgIXkOそこBじゃないし福田村事件ってのは被害者が香川県の被差別部落出身の事件だよな
ボラるとは言わないだろ
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 08:09:00ID:q2E8TsA700072名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 08:18:56ID:UBpx9JKg0専念寺は兵庫区ではない。東灘区です!!
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 09:44:13ID:IREH5h9jOって俺は聞いたけどなぁ??
どれが本当なのかな?
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 11:27:27ID:4fCJ9nhT0LOOOOOOOP
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/30(金) 22:51:52ID:D+VbYLRm0弾直樹は神戸市東灘区住吉の産まれです。
ちなみに私もそうです。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/01(土) 00:36:25ID:9Lfs33Ei0意味不明。
千葉からは撤収します、ここは議論できませんね。
0077武陽陰士 ◆ATDF4vFZys
2007/12/01(土) 02:50:17ID:odEmZLbHO被差別部落について、しつこく書いてるけど
学問的関心なんかじゃないんだろ?
「下」(むろんこれはレスのクズ2ちゃんねらーどもの価値観)を見て安心したいんだろ?
笑わせるぜw
ネオナチなんかになる階層レベルだなw
さあて夜更かしはお肌の敵。寝よっと
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/01(土) 02:53:37ID:k4Yc6xbY00079あぼーん
NGNG0080名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/02(日) 12:24:58ID:CdUT3jyi00081あぼーん
NGNG0082あぼーん
NGNG0083名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/02(日) 21:06:28ID:7wltbqKr00084あぼーん
NGNG0085名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/03(月) 00:36:46ID:Q8655z9s0部落解放同盟千葉県連上本佐倉支部は、千葉県酒々井町にある。
古くから宿場として栄えた。
「あれは九月七日ごろだよ。京成大和田駅の喫茶店で、長男が友だちとコーヒーをのんでいてマスターに聞かれた。
”兄ちゃんどこだ?””本佐倉だ””あすこはカー坊だぞ”と友だちの前でいわれて、長男は逃げ出しちゃった。
私たちは、待てど暮らせど長男が帰ってこない。そこで友人に電話したら、事情がわかってきた。三晩も探した」
四日の夜ようやく電話があった。
事件そのものは大和田の喫茶店のマスターをよび、謝罪して解決した。
だが、長男と家族の衝撃は大きく尾を引いた。長男は家に帰りたくない、といいつづけた。
そして家に帰るけれども、その条件として「スーパーで肉を売らないでくれ」。
息子の号泣に負けて藤田さんはスーパーをたたんだ。そのスーパーは、現在の県連になっている。
四〇代以上の人の中には、東京の皮革業者へ通っている人がいる。東京墨田の木子川(ママ)、荒川の三河島に通う。
酒々井を南に約二二キロ下り、東京湾に面した市原市八幡の観音寺部落は未組織。
どぶ川沿いのこの部落は、文字通り密集した少数部落。
そして同和対策事業は唯一、そのどぶ川のふちにたてられた白い手すりだけであった。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/03(月) 00:37:39ID:Q8655z9s0東京から群馬を訪ねるときは気合が入ります。朝早めに発ちます。
太田、旧世良田、新田(村田・小金井は文献によれば群馬最大だとか)、
尾島、大泉、千代田など利根川沿い、桐生、粕川など。
館林の醤油工場内の白山様もお参りしました。
高崎・前橋といった大都市の情報、是非お願いします。
ジラード事件。
群馬県箕郷町柏木沢部落は、榛名山南部山麓の相馬ヶ原自衛隊演習場の南端にぴったりと密着していた。
この相馬ヶ原の柏木沢部落の件についても情報お願いします。
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2007/12/03(月) 03:21:03ID:5YG1DO2I0http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=Shift_JIS&q=%83J%81%5B%96V
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