池田大作は第2代会長・戸田城聖がやっていた金貸し業の社員出身である。彼は1949年
(昭和24年)1月、21歳になったばかりのとき、戸田の経営する出版業「日本正学館」
に「小僧から入った」が、同社はその年10月には倒産、同時に、池田は戸田が専務理事を
つとめる小口金融「東京建設信用組合」の社員に移動した。
 「重苦しい中を、仕事のことで、部長と、O学園にゆく。またO第一小学校に回る」
(50年5月10日『若き日の日記』1)
 池田は戦前の創価教育学会員や、個人的な知り合いなど、誰彼問わず訪ねては、カネを
貸すよう頼み回った。信用組合は取り立てにからんで、刑事事件までひき起こしていた。
 50年8月、東京建設信用組合は大蔵省から営業停止を命ぜられ、ここに戸田は事業家と
して致命的に敗れた。組合法違反に問われ、債権者からは告訴されるハメに陥る。そのため
戸田は創価学会理事長の椅子を去り、後任を矢島周平(後に大宮・正因寺住職=故人)に
譲って夏期講習会にも出られず、一時は城聖の名を城外と変え、雲がくれした。
 だが、戸田も一筋縄ではいく男ではない。いつ起訴されるかもしれない身にもかかわらず、
裏では同じく小口金融の「大蔵商事」を用意していた。同社の初代代表役員は矢島周平
(2代は和泉覚)だったが、実権は専務理事の森重紀美子、それに戸田自身が握った。
森重は公然とした戸田の愛人である。池田は直接の上司である奥山和平が責任をとって
去ったため、50年11月に営業部長に昇格した。(『フォーラム21』030101)