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0001山崎13 ◆Lqo9D6ZCdI
2006/02/04(土) 12:09:210202名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 14:22:37仲間の暴走族連中が集まった際など、ナンパしにいこう、と言い出した者に、Aは
「ナンパなんかすることねえよ。いま、ひとり監禁してるんだ。よかったら来いよ」
と公言していたらしい。
Cもまた、「俺の家に面白いのがいるんだよ。家に来たらやらしてあげる」
と、あちこちで言っていた。
過度の輪姦により被害者は気を失うこともあったが、少年たちは彼女にバケツの冷水を浴びせ、
また犯していたというから異常というより他ない。
そして、最終的には100人近くがこのことを知り、裁判記録に出ているだけで10人近くが強姦等に参加したことになる。
あるときなど暴走族の女が面白がって、「化粧してやる」と言ってE子さんの頬にマジックペンで髭を書いたこともあった。
「なんでもするから家に帰して」と哀願する彼女に、彼らは自慰をさせたり、全裸にして「きちがいの真似をしろ」と強制。
直径3センチほどもある鉄棒を性器に挿入し何度も出し入れしたあげく、その膣を灰皿代わりに使用した。
0203名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 14:23:26同月上旬、E子さんが隙を見て警察に通報しようとしたのを発見し、少年たちは激怒した。
彼女を殴る蹴るし、ライターで足をあぶって火傷させたり、無理にシンナーを吸引させたりして暴行した。
このあたりから、彼女に加えられる暴力はタガがはずれたようになりはじめる。
12月12日、E子さんは部屋にいた監視役のFに「私はどうなるの? 家に帰れるの?」と問うている。
しかしFはそれに対し、「自分はしたっぱだから、わからん」とそっぽを向いた。
これ以降、被害者が受けた暴行は数限りない。全裸でステレオの曲に合わせて踊らせ、全員でいっせいにシャウトの部分で腹を殴る。
痛い、と口にするとまた殴られるので彼女が顔を歪めると、Cは「この顔が面白いんですよね」と笑った。
また、肛門に瓶を挿入したり、酒を一気飲みさせたり、雪のちらつく寒い夜に裸でベランダに追い出したり、
煙草を一度に2本吸わせ、むせる様子を見て愉しんだりした。
火傷のあとにライターのオイルをかけて点火し、彼女が「熱い、熱い」と言って火を消そうとするのを面白がり、
何度も繰りかえしたともいう。
E子さんは「もう殺して」と泣いて哀願した。
0204名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 14:24:37たまに気が向くと食パンを1枚食べさせる程度で、連日の暴行と栄養不良により、
E子さんはどんどん衰弱し、トイレに行くにも階段を這っておりる有様だった。
が、そのうちそれもできなくなり、牛乳パックに排尿するようになった。
連日の殴打に、あるときE子さんが失禁。座布団が汚れたといってまた殴打された。
BはE子さんの別人のように腫れあがった顔を(「頬が鼻の高さまで腫れあがり、
目の位置が判別できないほど」だったという)見て、
「なんだおまえ、でけえ顔になったな」と言って笑った。
翌日、「面白いから、Aにもこの顔を見せてやろう」とその場にいなかったAを呼び出すと、
Aはその変わりように驚いたものの、「なぜか負けまいという気になって」自分も殴打。
火傷あとに幾度もオイルをかけては焼いた。
また「おまえはそろそろ殺そうかな、いや、やっぱりやめた」などと彼女を一喜一憂させたり、
答えられない質問をわざとぶつけて責めたりなどして、精神的にも追いつめている。
この時点から、E子さんの表情から感情の波が消えつつある。肉体的にも精神的にも、もう限界を越えていた。
0205名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 14:26:08一日中寝ているだけで身動きもできないほど衰弱し、顔面は腫れあがり、火傷あとは膿みただれた。
もちろん風呂にも入れていないしトイレにも行けないから、膿と垢と尿の悪臭で、
彼女はもう完全に少年たちの性欲をそそる存在ではなくなった。
ここに至って彼女は完全に「邪魔」になる。そこにもう人間としての尊厳はない。
ただの「モノ」であり、「汚物」であった。
1989年1月4日、Aは賭け麻雀に大負けして不機嫌だった。
このまま家に帰ってもつまらないので、B、C、Dと合流することにした。
なおC宅にはE子さんがいるので、このとき彼らはD宅にたむろしていた。
D宅でちょっとファミコンをして遊んだが、麻雀で負けた鬱憤は晴れない。そこでAは、
「ひさしぶりに、カンキンオンナをいじめてスカっとするか」
と言って、全員を誘ってC宅に向かった。
E子さんはCの部屋で、身動きもできずに仰向けに寝ていた。
少年たちは彼女に「Bを呼びすてにした」と因縁をつけ、殴る蹴るしはじめた。
Aは蝋燭を持ち出すと、彼女の顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、
両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てた。E子さんは最早ほとんど反応を示さず、されるがままであった。
さらにAはE子さんが牛乳パックに排出した尿を無理に飲ませている。
B、Cは彼女の顔面を回し蹴りし、E子さんが倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけた。
E子さんは身を守ろうとする体力もなかったので、そのまま転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こした。
Aはそれを見て「仮病だ」と激昂。
「てめえ、俺の前で仮病使うのか」
そう怒鳴ると、いっそう激しく殴打した。E子さんが鼻血を出し、手足のただれた火傷から血膿がにじみ出たため、
「汚い」と言って、自分たちの拳をビニール袋で覆ってからまた殴った。
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 14:27:09AはこのときになってもまだE子さんの体にオイルをかけて焼いている。
が、彼女はわずかに手を動かして火を消すような仕草をしただけで、そのうちぐったりして動かなくなった。
2時間にもわたる暴行の末、彼らは「飽きて」部屋を出、サウナに行っている。
1月5日、彼らは見張りに残していたFから、E子さんが死んだという連絡を聞いた。
死体の始末はどうしようということになり、Aが以前タイル工として勤めていた会社からセメントを調達し、
ドラム缶に死体を入れてコンクリートを流し固めた。ドラム缶は江東区の工事現場まで運び、そこに投げ捨てた。
そして、この死体は3月29日になるまで、発見されず放置されることとなる。
警察が逮捕状を持ってC宅に捜査に訪れると、Cの両親は最初のうち抵抗したが、
やがて諦めて「弁護士立会いのもとでなら」と中に捜査員を入れた。Cの部屋は壁、床はもちろん、
天井にまで被害者の血が飛び散っていたという。捜査員のひとりは、
「人をただ殴っても天井に血はつかない。
だらだら血を流している人間の顎をさらに殴り上げるようなことをなんべんも繰りかえしたのだろう」と語った。
0207名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 15:03:36Cの両親は共産党党員だったので、当初「赤旗」に両親の談話と擁護記事が載ったが、やがて事件の詳細が知れるや、両親は離党し、同新聞には「この事件は日本共産党とはいっさい関係ありません」という一文が掲載された。
写真週刊誌は被害者の水着写真などを載せ、ひどいときには被害者のことを「不良だった」、「加害者たちにナンパされ、ほいほい付いていった」、「加害者の仲間だったが、いじめがエスカレートしただけ」と報道した。
中山千夏をはじめとするフェミニストがこれに激昂し「報道のセカンドレイプだ」と抗議。『彼女の悔しさがわかりますか』という本を出版した。
マスコミにもっとも責められたのは勿論、監禁場所を「提供した」と言われるCの両親であるが、特にCの母親が裁判で、
「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、
「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、
「認識の違いで、申し訳ありません」
と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子は煙草を吸っていた(被害者が喫煙者であったかどうかは未確認。
本件とはどちらにしろ関係はない。ただ、「煙草を無理に2本吸わせる」ことを少年たちがいじめの手段として使っていたところからみて、
可能性は薄いと思える)」などと言ったりしたことが批判された。のちにCの両親はこの批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 15:06:20「いま思えば、人間だと思っていなかったですけど、そのころは、そういう人間とか、そういうものも考えてなかったです。
死んでいるのを見ても、ああ、やっぱりこれがあいつの運命だったんだなぁと思った」と証言。
同じくDは、
「やってるときは、何も思ってないです。(そして、やり終わったあとも)思ってないです」と証言した。
また弁護士の伊藤芳朗氏は、公判で少年Bを担当した一人だが、
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』と開き直っていました」と述べている
(もちろん、その後改心し自分の罪に気づいた、という描写がつづく)。
E子さんの母親は少年たちの証言を聞いて激しく動揺し、精神科に頻繁に通院して投薬してもらわねばならない精神状態に陥った。
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 15:07:181991年7月、高裁はAに懲役20年、Bに懲役5〜10年、Cに懲役5〜9年、Dに懲役5〜7年を宣告。
また監視役のFを含めた3人を少年院送致とした。
蛇足を承知であえて後日談として記すが、少年法改正について語るという目的で2000年11月28日に放送されたニュースステーションに、
Fと、Dの母親が後ろ姿で出演した。
この時点でFは結婚して娘がおり、Dは出所後、自閉的な引きこもりとなって母と姉(事件当時Aの彼女だった)に生活の面倒をみてもらっていた。
放送後、番組掲示板に書き込まれた意見は、7割近くが番組とF、ならびにDの母親の現態度に対する批判だった。
Fに対する批判の内容は主に、彼が淡々と「反省している」と口にしたそばから
「やれと言われて、こわくてやった。仕方なかった」
と言ったこと、他人事のようになめらかな口調で事件の詳細を語ったことや、
また「よく平気で結婚し子供を作れたものだ」という意見も多く見受けられた。
だが総じて「常識人として極めて正常な反省の言を述べていたようだが、
あまりに正論、奇麗事に過ぎ、正直、彼の本当の気持ちなのかどうか疑わしい」という意見が大多数であったようだ。
Dの母親は、
「息子とはほとんど顔を合わせない。事件のことも話さない。まだあの子は事件と向き合う時期に来ていない」、
「どんな形ででも親は子供に生きていてもらいたいですから、私の死後はお姉ちゃんにあの子の面倒をみさせます」、
「遺族の方には謝りに行こうと思ったんですが、拒否されると聞きましたのでやめました」
などの意見が多く非難され、「子供を更正させようという気がまったく感じられないし、
親としての事件への反省も見られない」という書き込みが多かった。
なお、主犯Aを除いては全員が出所している。Aの釈放は2008年前後であろうと言われているが、確かなことはわからない。
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 15:28:231966年、カリフォルニアのサン・ベルナルディノで、5人の若者がウォッカをラッパ飲みしながら、
あてどもなくドライブしていると、バスを待っている10代のカップルを発見した。
「バスはまだなかなか来ないぜ、乗ってけよ」
そう誘うと、若いカップルは疑う様子もなくそれを受けた。
しかし車は彼らの家の方角ではなく、人気のない町はずれへ向かっていったのである。
5人はそこで車をとめると、カップルの女の子に襲いかかり、服をひきちぎって裸にした。
恋人の男の子は押さえつけられていたが、手をふりほどいて殴りかかってきたので5人は怒り狂い、
「ほんとのレイプってのがどんなもんか、おまえらに教えこんでやる」と言った。
彼らは男の子に「この女をどう思ってる」と訊き、「将来結婚したいと思っている」という答えを引き出すと、
「じゃあ、女がどうなるかちゃんと見てろ」
と言い、その「将来結婚したいと思っている」少女の体に、3人同時に押し入った。
口、肛門、膣を同時に犯され、泣きわめく彼女の姿から、少年は目を背けることを許されなかった。
輪姦が済むと、ふたりはなぶり殺しにされた。死体が発見されたとき、
警察はそのあまりのむごたらしい有様に動揺し、検死結果を待つまでもなく捜査をはじめた。
不眠不休の捜査は何ヶ月にも及び、ようやく5人の若者が逮捕された。
彼らの殺害の動機は金でもなく、快楽のためですらなく、ただ「退屈」の果ての凶行である。
かつてはローマ皇帝にしか成し得なかったような無動機殺人を、
いまや中流の怠惰な若者たちが平気で犯しているというのが現状だ。
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 15:31:31なまぬるい法に業を煮やした「正義の市民たち」の手によるリンチというものも紹介しよう。
トマス・サーモンドとジョン・ホームズは1933年11月、
大手デパートのオーナーの御曹司を誘拐してひとやま当てることを計画し
11月9日にそれを実行した。ただし、人質を生かしておく気は最初からさらさらなかった。
手口は、御曹司――ブルック・ハートを車でさらい、殴打して気絶させる。
さらにその体をコンクリートの塊に針金でぐるぐるに縛りつけ、海に投げ込むというものだ。
やがてハートが意識をとりもどし、悲鳴をあげはじめたので、ふたりは彼を「黙らせる」ために銃で撃ちまくった。
銃声は哀れな被害者が完全に波間に沈んでしまうまで続いた。
サーモンドはその日のうちに、ハートの父親に電話した。
「おまえの息子を誘拐した。身代金4万ドルを用意しろ。警察に連絡したら息子の命はないと思え」。
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 15:33:56逆探知により居場所が割れ、サーモンドとホームズは拍子抜けするほど簡単に捕縛された。
逮捕から3日後、ブルック・ハートの無残な死体が海から引きあげられた。
卑劣な犯行に怒り狂ったサンノゼの市民たちは、大挙して刑務所をとりかこんだ。
約1万5千もの大群集である。警察はホースでの放水と催涙ガスで市民を追い払おうとしたが、人数と熱狂度において差は圧倒的であった。
刑務所の柵がなぎ倒され、人々が所内になだれこんだ。
サーモンドの独房はもぬけのからだった。が、群集のひとりが上を見あげると、サーモンドが水道管にぶら下がっているのが見えた。
彼はひきずり下ろされ、引き据えられた。
ホームズは狂ったように群集と戦い、抵抗した。彼が表に蹴りだされたときには満身創痍で、眼球が眼窩から垂れ下がっていた。
ふたりは公園で市民たちのリンチにかけられ、なぶり殺された。当時の州知事はこの事件に対し、
「リンチに加わった市民は国家に最良の教訓を与えた。わたしは彼らを罰するつもりはない。
いや、起訴中の者が中にいたとしたら、ぜひ名乗りでてほしい。わたしの権限において、ただちに起訴を取り消そう」
とまで公言した。が、それに応えて名乗り出た「正義の市民」はただひとりとしてなかったという。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:13:0210代の少年たちが無軌道なのはどの国でも同じである。これは1974年、オーストリアでの事件だ。
1974年6月28日、オーストリアはウイーンで、50代の男性が死体となって発見された。
顔は血まみれで、歯と肋骨が数本折れており、直接の死因は脾臓破裂。頭部には深い裂傷があった。
警察は「殴り倒されたのち、よってたかって蹴りまくられた」とみて、ここ2週間、
ウイーン市内で暴れまわっている少年3人組の最新の犯行であろうと目星をつけた。
前2件の犯行は、70代の老婦人を殴り、気絶するまで蹴りつづけ、金を奪ったのち衣服をめちゃめちゃに破り裂いたものと、
年配の男性を殴り倒して金と時計を奪ったというものである。そして3件目にして殺人。
あきらかに犯行がエスカレートしており、警察は警戒を強めた。
7月4日。少年3人組は20歳の女性を襲い、茂みに引きずりこんだ。
「服を脱げ」という命令を彼女が拒んだので、ひとりがナイフを出して彼女の耳をそぎ、耳殻の半分がちぎれかけた。
彼女は怯え、衣服を脱いだ。3人は彼女を輪姦したあと、「上になって動け」と命じた。
彼女はこの屈辱を受け入れざるを得なかった。
強姦ののち、彼らは裸のままの彼女をボールのように蹴りまくった。
悲鳴を聞きつけて警官が駆けつけると、少年たちはさっさと逃走した。
被害者の女性は「3人ともちゃんとした服装で、不良という感じじゃありませんでした。
どっちかというと『いい子』『優等生』タイプです。長髪で、子供っぽく見えました」と証言した。
それからも「子供っぽい、いい子」たちは年配者に対する強盗を繰り返した。必ず相手を殴り倒し、3人で蹴りつける。
しかし幸い重傷者は出なかった。
7月13日、ユーゴスラビア人の労働者がナイフで刺されて殺されているのが発見された。
全身血まみれで、鼻は顔からちぎれかけており、27箇所も刺されていた。
金が目的というより、ただの純粋ななぶり殺しであった。
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:13:35少年たちは彼女をナイフで脅し、性交が済んだのちも約1時間にわたっていたぶった。
発見されたときの彼女のあまりの有様に、警察は「もっと人気のないところだったら、間違いなく彼女は殺されていただろう」と断言したという。
3人組の犯行は殺人2件、婦女暴行2件、強盗22件を数えた。
8月30日、68歳の女性が裏通りを歩いていると、
向こうからやってきた三人の少年のひとりが、ものも言わず彼女の頭を殴った。
怒った彼女はハンドバッグを少年の顔に叩きつけ、殴り倒すと、喉笛を蹴りあげた。
あとのふたりが殴りかかってくると、彼女はひとりの股間を膝で蹴りつけ、もうひとりの顔を爪でかきむしった。
反撃を予想していなかった少年たちは意外にもろく、喉を蹴られて動けない少年を残してふたりは逃げ去った。
倒れている少年も起きあがりそうだったので、老婦人は少年の顔面をもう一度蹴っておとなしくさせた。
駆けつけた警官が「例の3人組」の首謀者を捕らえたことに気づき、無線で応援を呼んだため、逃げたふたりもあっけなく捕まった。
首謀者は17歳の少年でマンフレッド・トルーバー。ほかふたりは17歳のピーター・フィリポヴィッツと、
19歳のワルター・ワルナーだった。しかしオーストリアの少年法に基づき、
彼らはほんの数年服役しただけですぐ野に放たれたらしい。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:21:10この団体は、アメリカ南北戦争直後の1866年に発足した。
南部軍の敗北により黒人奴隷の解放が認められ、市民権が与えられたことを不満に思う南部連盟の旧軍人の一部が、
白人優位の社会をもう一度取り戻すべく組織した秘密結社、それがこの悪名高きクー・クラックス・クラン――
一般にはK・K・Kの俗称で知られる――である。
この奇妙な「クー・クラックス・クラン」という名の由来にはいくつか説があり、
一説には「旧式のライフルに弾をこめるときに起こる音の、擬声語」とも言うし、
また「ギリシア語の kuklos(仲間)およびケルト語の clan(氏族)の転用」という説もあるが、
はっきりしたところはわかっていない。
0216名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:22:36無礼な、身分をわきまえない行ない」をこらしめてやることを目的としていたようだ。
当時、奴隷身分から解放されたばかりの黒人たちはほとんどが文盲で、無邪気なほど迷信深かったので、
彼らをだまして震えあがらせるのは簡単だった。目と口にのみ穴のあいた白頭巾、
松明をかかげ異様な装束に身をつつんだ行列を見た黒人たちは、てっきり幽霊だと思い、
怯えて夜の外出をいやがった。
しかし南部の白人たちの多くが、いつか黒人たちに報復されるのではないかという怖れを拭いきれなかった。
彼らは身体能力で勝る黒人に殴り倒されることを怖れ、美しい白人女に黒人男が憧憬を抱いていると思いこみ、
妻や娘を犯される悪夢にうなされた。
疑心暗鬼が肥大するにつれ、クランの活動は、有色人種に対する残忍なリンチや放火、殺人、略奪などに発展するようになる。
彼らは白装束で街を巡察し、彼らの定めた時間以後に外出する黒人を鞭でひっぱたき、投票権を使用した黒人や、
黒人に同情的な白人を脅迫し、はなはだしいときは吊るした。
が、南北戦争後数年たつと、連邦政府は頑固な南部指導者に折れて妥協しはじめるようになった。
選挙法は改正され、ふたたび黒人の手から参政権は奪われた。
ふたたび白人は支配権をとり戻し、そうなればもうクランの活動は必要のないものとなった。
1871年、クランは解散した――いったんは。
0217名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:23:48「クー・クラックス・クランを再建せよ」という神の声を聞いた。
彼はもともと絶対的な白人優越思想の持ち主で、他人種だけでなく他教徒にも厳しい男だった。
シモンズは狂信的な夢想家だったが、幸か不幸か煽動と活動家としての資質にも恵まれていたようだ。
彼の呼びかけにより集まった34人の同志によって、クー・クラックス・クランは復活した。
ただし、新クランは以前のそれとは目的を微妙に異にしていた。旧クランの「こらしめる」
「躾しなおす」などというなまやさしいやり方は論外で、
シモンズたちの目的はより狂熱的な民族主義、全体主義的イデオロギーのための組織だったのである。
彼らは「100%・アメリカニズム」の徹底を目指し、すべての他人種の排斥を唱えたのだった。
第一次大戦後の恐慌と社会不安のさなか、アメリカ中産階級の人々はこの思想に飛びついた。
クランはたった数年のうちに、おびただしい数の支持者を獲得することになる。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:24:351923年にはオクラホマで2300件ものリンチ事件が起こった。
クランは反抗的な黒人や、彼らの同調者の家に「立ち退け」と脅迫状を送り、
もし立ち退かなかった場合にはリンチを加えた。
有名な「タール&フェザー」というリンチ法は、全身に溶けたタールを塗り、
その上を羽毛でくるんで担ぎまわるものである。家に火をつけるなどは日常茶飯事で、
その他、主な手口は酸を用いて体に焼印を押す、手足を切断する、古タイヤを首にかけてタイヤに火をつける、
線路に生きたまま縛り付け列車の通過によって体を切断させる、首に縄をかけて木の枝に吊るす
(ビリー・ホリデイの名曲『奇妙な果実』は、吊るされて枝で揺れる黒人の死体を果実に模した唄である)などだ。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:25:32それに加えてクラン内部での幹部間の抗争があり、1923年にはシモンズが陰謀により最高指導者の立場を追われ、
100万ドル近い資本の横領などが暴かれるにいたって、クランは国民の支持を完全に失った。
だが勿論それでクランの息の根が止まったわけではない。第二次大戦後、
世論の反対やFBIの摘発によって弱体化しつつはあるものの、クランは健在であり、
今でもアラバマやジョージア、ミシシッピなどでは定期的に黒人に対するリンチ事件が起こっている。
1964年、ミシシッピで、3人の労働者がクランによる集団リンチで殺害された。
逮捕された白人容疑者は19人だったが、ただちに「証拠不十分」として釈放になった。
3年後、18人が再審の場に引きずり出されたが、そのうち3人は民間のリンチにあって射殺されダムに埋められた
。残る15人の被告のうち7人が有罪となったが、いずれも保釈金を払って釈放され、
8人は無罪となって社会に戻された。
クー・クラックス・クランとその支持者は21世紀となった今も、絶えてはいない。
0220名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:27:22この事件は1988年、名古屋で起こった。1989年の「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人」と双璧を成す、
少年犯罪史上もっとも残虐な事件として今も知られている。
事件の主犯の少年A(当時19歳6ヶ月)は中学を卒業後、鉄工所の作業員や、土工などで短期間勤めたが、
その後暴力団員と懇意になり、付かず離れずの関係となる。事件当時は鳶職をしており、共犯の少女E子と同棲していた。
彼らは名古屋市中区のTV塔付近にある噴水にたむろしていたので、「噴水族」「TV塔族」などと呼ばれていたようだ。
少年Aは昼間は鳶で働き、夜はE子を連れてふらふらと噴水に集まり、仲間と合流するという毎日を送っていた。
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:28:14噴水まわりでシンナーを吸いながら何ということもなく「金が欲しいな」という話になり、ひどく短絡的に「じゃあ盗ろう」という結論が出た。車で公園や埠頭などを流し、
いちゃついているアベックを脅かして金を巻き上げよう、と誰からともなく言い出し、全員がそれに賛同する。
1度目の襲撃は失敗するものの2度目は成功し、それに味をしめた彼らは「もう1回やろう」と言ってまた車を出した。
そして襲われたのが、本事件被害者となるYさん(19歳・理容師)とZ子さん(20歳・美容師)である。
2人はお互い忙しいながらも、たまの休日や少し時間のあいたときなどにデートし、
「将来ふたりでお店をもとう」と誓ってせっせと貯金していたという。
Z子さんは敬愛の意をこめてYさんを「お兄ちゃん」と呼び、両親公認の非常に仲のいい恋人同士だったようだ。
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 16:29:43バックして逃げられないよう前後に車をぴたりと止めた。そしてウインドウを開け、
「いちゃついてんじゃねえ」などと威嚇、挑発を繰り返した。
Yさんは身の危険を感じ、車をぶつけてスペースを確保し、逃げようとした。だがそれが火に油をそそぐ結果となった。
犯行に使われた車のうち一台はAの車だが、どうやら新車だったらしい。
加えてもう一台は暴力団員の「兄貴格」から借りた車だった。
この大事な二台を損傷され、Aたちは逆上した。
激昂した彼らは最早金を奪うことは二の次となり、Yさんの車のフロントガラスを鉄パイプで割り、YさんとZ子さんを引きずり出した。
「この車、どうしてくれるんだ。ふざけやがって」
怒鳴りながら鉄パイプや木刀でYさんを殴るうち、怒りはますます高まってきた。典型的な集団ヒステリーである。
Yさんは抵抗したがやがて完全に叩きのめされた。それでもおさまらず、
少年3人はZ子さんを押さえつけると、輪姦すると宣言した。
ラリった少女ふたりは「やっちゃえやっちゃえ」と手を叩いたという。
少年はZ子さんを輪姦し、殴打した。殴打があまりに長くつづいたので、
Z子さんの顔がみるみる変形していくのを目の当たりにしたYさんは、命の危険を感じ、
「お願いです。彼女だけは助けてやって下さい」
と泣いて懇願したという。しかし少年たちはYさんの腹を蹴りあげ、黙らせた。
Z子さんへの暴行には少女2人も荷担し、体に煙草の火を押しつけたりライターで髪を焼くなどしたようだ。
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 17:40:32発覚すればきっと逮捕されるだろうし、かといってこのまま2人を帰すわけにもいかない。
仕方なく少年たちは瀕死のYさんと放心状態のZ子さんを車に乗せ、あちこち連れまわしながら、
「これからどうしよう」と車内で相談した。
「車の修理代、どうしょう」
「俺、金ないよ。どうやって弁償すんの」
話題は主に2人のことではなく、車のことだったという。車を借りた暴力団員に連絡をとろうと事務所に電話したが、なかなか連絡がつかない。やっと電話が通じたと思ったら、「面倒はてめえらで始末しろ」と投げだされてしまった。
結局、なにひとつ具体案は浮かばない。持て余したAはついに、
「男はもうだいぶ怪我もしてるし、やっちまおう。女は売り飛ばせばいいや。その金で車を修理しよう、それでいいだろ」
と言い出した。反対する者はなかった。
彼らはYさんを車からおろし、両手をロープで縛ると、Yさんが哀願するにもかかわらず、
Aがロープを二重にその首に巻きつけて首の後ろで交差させ、一方の端をBにわたした。
そして、ロープの両端をそれぞれ2人ずつで持ち、綱引きの要領で両方から力一杯ひっぱって絞殺した。
Z子さんはその間ずっと「ここどこですか、お兄ちゃんはどこに行ったんですか」と言いつづけていたという。
Yさんの死体は車のトランクに積み込まれた。
Z子さんは目隠しされていたのでそれを見ることはできなかったが、なんとなく全てを察知したらしく、車内ではずっとすすり泣いていた。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 17:43:01そこでまたZ子さんは輪姦されている。
6人の少年たちはふたたび「これからどうしよう」と相談した。
売り飛ばすことにしたはいいが、暴力団員に見放されてしまった今となってはもうあてがない。
かっとなって犯行に及んだものの、ふと気がついたときには取り返しがつかない状況で、
知恵も出てこなければ頼れる先もない。
また、抑制する者もないからずるずると悪い方へ流れていくばかりである。
「女も殺そう」
その結論にたどりつくまでに時間はかからなかった。
25日深夜、少年たちはZ子さんを連れて三重県の森に車を走らせた。
そこで少年らは交代で死体を埋めるための穴を掘り、Z子さんに「最後になにかして欲しいことはあるか」と訊いた。
「せめて、お兄ちゃんと一緒の穴に埋めて下さい。……最後にお兄ちゃんの顔をみせて」
Yさんの死体から目隠しをはずし、顔を見せてやると、
Z子さんは泣きながらいまだに死体の手首を縛ったままのロープを解いた。
少年たちはZ子さんを穴の近くまで連れていくと、Yさんの殺害方法と同じく、
ロープを首に巻きつけて両側から力まかせに引っぱりあった。
「綱引きだ」「この煙草、吸い終わるまでにやっちゃえよ」
などと笑いながら殺した、というのは事件発覚当時、かなり有名になった話である。
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/25(日) 17:44:13死体は自供どおり三重県山中から発見された。
一審でAは「未成年だから死刑になるはずない」とうそぶいていたが、
裁判長は「一片の情状酌量の余地もない」として求刑どおりの死刑を言い渡した。
Bは無期懲役となり、高志被告は懲役17年。
C以下3人はそれぞれ5年から10年の判決となり、AとBのみが控訴。
その後、名古屋高裁は一審判決を破棄し、Aを無期懲役、Bを懲役13年とした。
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