>>221
無論これは武田の弁明書だから言い訳マックスなんだが、あながち責任転嫁とは言い切れないらしい。
天正8年6月11日付佐竹義重宛書状の中で「以旅江甲和与、貴国御策謀之儀ニ悶着」(戦武三三五三号)という文言があるらしく、武田は佐竹の織田との和睦仲介にクレームを入れてる。
つまりおそらく、織田源三郎信房の返還は佐竹からの要請だだった可能性はかなり高い。ところがこれが上杉と悶着は起きるわ信長からは相手にされないわで散々だった。
散々だったけど、天正九年には一応実を結びつつあった。そう見えただけだったんだが…