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豊臣政権崩壊の要因となった事柄、事件等を考える2

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0001人間七七四年2021/07/31(土) 00:27:08.92ID:v00z/gHO
豊臣(羽柴)秀吉が一代で築き上げた豊臣政権は秀長や利休などの
身内や側近の死、秀次事件や唐入り、 子飼い連中の仲違い、
大名達の家中騷動、大老や奉行の派閥争いなどなど
様々な事柄、騷動、事件等が重なった事で早々に崩壊してしまったわけですが
その要因となった事、逆に豊臣政権存続には何が足りなかったなどを
みんなで論理的に色々と考えていきましょう

次スレの提案はスレタイ案も含めて>>980くらいでお願いします

前スレ
豊臣政権崩壊の要因となった事柄、事件等を考える
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1619770869/

過去スレ
石田三成は本当に忠臣なの?
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1595407773/
秀吉死後の騷動・事件等を考察する
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1615889406/
0110人間七七四年2021/08/19(木) 00:31:04.36ID:e1J9zeci
>>107
浅いなあ。
>>1への答えとして「石田の台頭」を挙げるなら、
何故それは起きたのか?
石田は「豊臣」権力体の中で如何なる機能を担う装置だったのか?
それを必要とした権力体の構造とは?
その構造は何に根差すのか?
−−と考察を進めなければ原因を論じたことにはならないだろうに。
0111人間七七四年2021/08/19(木) 00:32:56.83ID:NjE6uhHz
でも秀吉死後の諸大名の行動とかみても
その辺りの危機感が余り感じられないような
0112人間七七四年2021/08/19(木) 05:03:17.11ID:iib3BFZP
>>43
これが難しいね。
秀次自身が諦めても、秀次が率いるこういった連中が諦めない

木村重これ、前野長康、池田輝政、田中吉政、前野景定、白江成定、
熊谷直澄、粟野秀用、一柳可遊、一柳直盛、服部一忠らが引退を許さない。

だから、内紛になる可能性は高いと言わざるを得ない。
0113人間七七四年2021/08/19(木) 05:50:42.39ID:1ygGxTBw
秀頼が元服の年齢まで無事成長したとしても秀次まだ40くらいやしな・・・
0114人間七七四年2021/08/19(木) 05:52:02.38ID:VHXQDnCz
>>112
ただ、結果論になってしまうが宗家内紛の御家騒動の方が
史実の御家滅亡よりは豊臣宗家存続の可能性はかったように思えるな
政権自体は室町と化すかもしれんが、それでも崩壊よりはマシだ
まあ我が子がかわいいってのはわかる、わかるんだが…やっぱ生まれるタイミングが
あまりにも悪すぎるよ、秀頼は
なんでよりにもよって秀次に一旦家督継承した後に誕生しちゃうかな
0115人間七七四年2021/08/19(木) 05:54:53.55ID:1ygGxTBw
>>114
明らかに高いと思うわ
なんせ秀次は跡継ぎ量産マシーンだから秀次がどうこうなっても代わりがいるから
0116人間七七四年2021/08/19(木) 06:00:33.57ID:0Ypt9aiu
>>108
ヌルハチが蜂起していたら嵩にかかった交渉も出来たんだろうけど、目立った反乱が無いと中々ね…
下手すると国内のガス抜きに日本攻撃なんてする危険性もあったし(相手が暴君ほどやる可能性高い)
0117人間七七四年2021/08/19(木) 06:33:49.33ID:2WCZeZQI
>>116
皇帝自体は政治に全く関心がない万暦帝だから
日本征服なんて考えないだろうけど
政権争い次第かな
0118人間七七四年2021/08/19(木) 11:30:01.58ID:llzufEzd
こんな感じの流れだっけ

秀吉が朝鮮侵攻

明が主力を出して助ける

満州族に勝てなくなる

明滅亡
0119人間七七四年2021/08/19(木) 15:02:43.38ID:SXOoxviZ
>>118
単純化しすぎ。明滅亡の直接的な原因は崇禎帝の時代の全国的な飢饉によって国内に多くの反乱が
起こったことであり、明を亡ぼしたのは李自成。秀吉の朝鮮出兵も清の勃興も明にとっては基本的には
辺境の出来事でしか無かった。
0120人間七七四年2021/08/19(木) 15:32:47.26ID:llzufEzd
>>119
そうか
うろ覚えだったわ
0121人間七七四年2021/08/19(木) 16:42:55.31ID:CJyd3eS/
秀次が生きていたら、秀頼成人後に権力争いが起こる、と思い込んでたけど、
関白を秀頼に譲って太閤になった後で、いわゆる大御所政治を続ける選択肢もあるな。
秀頼が秀次を誅しようとしない限り、何も起こらないだろうし、秀頼が決起しようとしたところで、
秀頼付きの老臣がいない状況ではなにもできないだろう。
それとも、秀次グループとは別の秀頼家臣団を秀吉が準備するかな?
でも、豊臣家の直臣で残っているメンバーがいない。
前田をお守り役にして宇喜多とか小早川とかを側近につけて置く?
そうしたら秀次家臣団と勝負になるだろうか
0122人間七七四年2021/08/19(木) 22:15:41.57ID:UBAiOFdO
秀次政権だと、いわゆる5奉行が参加出来ないから‥
関ヶ原と同じことが起きるかもね。

関ヶ原見てもわかるけど、忠義とかよりも自分たちの都合で動いてるわけだし。
0123人間七七四年2021/08/19(木) 22:23:08.51ID:vGBxL1aV
徳川幕府でも大御所の側近と将軍の側近で溝ができたし
揉め事はあるだろうね
0124人間七七四年2021/08/19(木) 22:26:22.45ID:ppWkzTaC
>>119
明の滅亡の淵源は所謂「北虜南倭」による疲弊にあるとも云われている。
大清グルンの勃興は正に北虜そのものだし、
豊臣権力の朝鮮侵攻は亜細亜史的には「倭寇的状況」と呼称される運動の文脈で捉えられている。
明の権力中枢の主観は措くとしても、最後までこの二つの要素に祟られたことは客観的に否めない。
しかもこれらの外寇自体もまた各々の本国における飢餓貧困に起因する。
中世に於ける地球寒冷化の影響の深さ広さはまことに測り知れない。
0125人間七七四年2021/08/19(木) 22:31:52.19ID:ppWkzTaC
因みに史上最大の倭寇を発動した羽柴秀吉の晩年に於ける災害飢饉状況。
https://i.imgur.com/v3QEAJL.jpg

豊臣権力の崩壊を語るスレでこれに触れる書込が見当たらないのは如何なものか。
0126人間七七四年2021/08/19(木) 23:22:26.98ID:ulTXLrQG
>>125
武田氏滅亡は浅間山噴火のせい、と同じ着眼点、
それなら江戸初期元和の頃の東北大地震など災害多発を徳川はなぜ乗り切れたか、と論議したい
0127人間七七四年2021/08/19(木) 23:39:52.55ID:ppWkzTaC
>>126
正にそういう比較議論からこそ豊臣権力崩壊の要因が見えて来るんじゃないかな。
0128人間七七四年2021/08/20(金) 00:45:30.29ID:R9Sq4sPr
>>124
だからといって秀吉や清を過大評価しすぎるのもどうかと思うぞ。彼らの拡大は決して明の滅亡の主因ではない

>>126
> それなら江戸初期元和の頃の東北大地震など災害多発を徳川はなぜ乗り切れたか

全国的な合戦の停止による耕地の大拡大はやはり大きいだろうな。中世の慢性的飢餓状態の解消。
0129人間七七四年2021/08/20(金) 04:28:07.10ID:8v7Fwg6e
そう言えば豊臣政権の内政では江戸時代でよく聞く新田開発ってあまり聞いたことないな
検地とか石高制とか一地一作人とかは既にあるものからいかに効率よく収奪するかの施策で
農地を拡げて食糧生産を増やそうという発想が見られない
そこまでいくには統治期間が短かったのかも知れないが総じて唐入りの軍役算定のための内政って感じ
0130人間七七四年2021/08/20(金) 08:47:51.93ID:ql3GSEe6
>>122
加藤清正とかw
0131人間七七四年2021/08/20(金) 13:58:00.36ID:J+E5aDXd
>>110
浅くはないよ
石田三成の台頭と我儘のせいで豊臣の軍勢の数多くが加藤清正側についたのだからね
その加藤清正が頼りにしたのが徳川家康
西軍の多くは加藤清正側についた
だから毛利軍は動かなかったし島津義久は関ケ原でほとんど義弘に兵を送らなかった
関ケ原の敗北は多くは石田三成の行動に起因している
特に加藤清正を巻き込んでの争いは致命的だった
ここで豊臣の家臣の清正などが離れて西軍の過半数が清正側についた
その加藤清正を取り入れたのが家康だった
0132人間七七四年2021/08/20(金) 14:52:16.82ID:hmWhc95O
まずここと、この前スレで話されてたことくらいはせめて読もうか
0133人間七七四年2021/08/20(金) 15:18:19.24ID:y9Ax2x9d
>>132
やだよ
暇なニートじゃあるまいし
0134人間七七四年2021/08/20(金) 15:23:06.97ID:hmWhc95O
研究読まなそうだからせめて話がどう進んでるのか程度は掴んで欲しいけど、それすら億劫がる様子じゃなぁ
0135人間七七四年2021/08/20(金) 15:49:32.32ID:J+E5aDXd
石田三成の一番の罪は加藤清正らを敵に回したことだと思うけど
秀次の処分でも石田三成讒言説があるくらいだからね
豊臣家臣の武断派の七将の三成邸襲撃は致命的だった

この前に加藤清正に土下座して許しを請うていれば豊臣家崩壊はなかった
石田三成も関ケ原の戦いで死ぬことはなかった
0136人間七七四年2021/08/20(金) 16:35:16.24ID:myWL8OZc
加藤清正が石田三成を殺したい程憎んでいた事はあると思うが、
問題は一体何に腹立てたんだろう。
一番あり得るのは朝鮮出兵だけど、石田三成が出たのは文禄の役だけ。
偽装和睦等あり得そうな案件は多いけど恨まれるべきは小西行長で、三成は…証拠が無いからなぁ
0137人間七七四年2021/08/20(金) 18:12:25.35ID:sDERYnPm
三成の姻族で軍監だった福原と熊谷の存在とかいろいろとあったんだろうな
01381102021/08/20(金) 20:18:14.35ID:SMnS9ehA
>>131
何を「浅い」と云われたのかも解らなかったか…。

貴公が手間を掛けて並べてくれたのは全て表層の具象だけ。
「豊臣」の如き大規模統治権力体の崩壊を語るのにその構造や統治原理を考察せずに済むわけも無いし、
ましてや史料に名前が残るような特定少数のヒト個体の営為だけを眺めていても何も見えては来ない。
そういうことを云っている。
0139人間七七四年2021/08/20(金) 20:19:03.47ID:PVB6tacf
>>131
いや浅すぎてジャブジャブ池のレベル
真田太平記を読んで、得意げに戦国を語る小学生の甥っ子レベル
0140人間七七四年2021/08/20(金) 21:58:14.56ID:kzv27Jlb
織田がつき豊臣がこねた餅とか言うけど結局徳川が自力で生き残っただけだよな
三成も秀頼も何で徳川相手に戦起こして勝てると思ったのか謎なレベルの実力差
0141人間七七四年2021/08/20(金) 21:59:40.15ID:rX9Shp/u
>>138
はぁ?何言ってんの?
浅いのはお前だろうよ?

>ましてや史料に名前が残るような特定少数のヒト個体の営為だけを眺めていても何も見えては来ない。

石田三成襲撃事件の七将は秀吉の子飼いとされる城主と言うか大名で
福島正則(尾張清洲城主)
加藤清正(肥後熊本城主)
池田輝政(三河吉田城主)
細川忠興(丹後宮津城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
加藤嘉明(伊予松山城主)
黒田長政(豊前中津城主)
だからな
みんな名のある武将だぞ

それプラス(七将+脇坂安治、蜂須賀家政、藤堂高虎)
の説もある
何処をどう見れば特定少数なんだよ

実際に石田三成はあちこちに逃げ回っていた
最後には家康に助けてもらう始末

どこが浅い事件なんだよ

>>139
マジでお前の方が浅いわ
逆に呆れるわ
0142人間七七四年2021/08/20(金) 22:01:31.96ID:rX9Shp/u
>>138
しかしお前は何を偉そうに人さまに意見しているのやら
マジで浅いのはお前自身なのにな
0143人間七七四年2021/08/20(金) 22:08:51.34ID:rX9Shp/u
>>1
まあ三成が豊臣方の将を敵に回さなければ家康にも負けなかったものを
豊臣方の有力武将を分断させた三成
加藤清正らを特定少数武将とか言う小学生並みのバカが現代もいるからどうしようもないけどな
01441102021/08/20(金) 22:16:09.94ID:SMnS9ehA
>>141
真性の脳味噌鏡面仕上げだったか。
たださえ浅い池を自分で干拓までしてやがる。

一言だけ忠告しとく。
歴史系の板じゃなくてゲーム板か文学板に行った方が幸せになれるぞ。
0145人間七七四年2021/08/20(金) 22:40:25.62ID:ryfgzzs+
>>140
関ヶ原は三成の発案では無い、って話もあるが兎にも角にも上杉討伐と関係しとる。
徳川はこの時点で前田も勢力下に組み込んで圧倒的な勢力になってる。この上上杉までやられたらもう反徳川勢力に勝ち目は無い。
つまり、勝算があるギリギリのラインで戦争して負けた、って話なのだ。
0146人間七七四年2021/08/20(金) 23:05:33.32ID:SMnS9ehA
>>140 >>145
もう少し鳥瞰的な視座から見たい。

関ヶ原も両度の大坂陣もそこに集った兵たちの内実や彼等がそこで何をしたかを見れば、
必ずしも石田や「豊臣」の(或いは徳川の)自由意志や勝算勘定で起こした戦争ではないと考えることができる。
秀吉期の「豊臣」権力体が封鎖した下位権力体群の暴力を解放費消する筈だった朝鮮の戦場もまた封鎖されてしまった時、
戦国状況を生んだ与件(恒常的飢餓)が変化していない以上は再び国内にその代替が求められるのは謂わば社会の「生理的」必然だった。

そこに於ける個人の資質や意志などは無視し得るノイズでしかない。
石田三成にせよ「豊臣」秀頼にせよ、ただその歴史段階に居合わせてしまった人、というだけのことだろう。
0147人間七七四年2021/08/20(金) 23:20:43.72ID:BZW0OCL2
>>146
はぁ?人をさんざんバカにした癖に
そんな曖昧な意見しか述べる事ができないとはな
アホ相手にして損したわ
0148人間七七四年2021/08/20(金) 23:23:32.14ID:BZW0OCL2
>>144
ろくな反論もなく相手を罵るだけのお前に言われたくないわ
投稿も極めてあいまいなアホのような意見しかねーし
0149人間七七四年2021/08/20(金) 23:24:31.14ID:BZW0OCL2
>>146
お前はもう少し具体的な投稿をしろよ
マジでくだらんのな
0150人間七七四年2021/08/20(金) 23:39:49.82ID:hmWhc95O
少なくとも、西軍は豊臣ではないよね
本家の信任すら受けてないし
どこまで行ってもクーデターの軍だよね
0151人間七七四年2021/08/21(土) 00:16:35.23ID:8mS8AXOc
>>141
キミの七将襲撃の話が、既に小説じゃん
元史料を教えてよ?
三成が逃げまわってたって、何に記載されてんの?
0152人間七七四年2021/08/21(土) 00:28:56.29ID:uyAtJqO3
>>151
もう>>141くんのことは放っといてさしあげなさい。
まだ中学校は夏休み、要するにそういうことだ。
0153人間七七四年2021/08/21(土) 00:33:30.40ID:gNNU6BpG
>>151 >>152
なんでこんな事も知らないバカがここにいるのかな?
小学生以下のアホが一々日本の歴史に口出すなよ
0154人間七七四年2021/08/21(土) 00:35:22.97ID:gNNU6BpG
>>146
俯瞰的とか、お前何様
なーんも知らんただの恥知らずのバカの癖に
0155人間七七四年2021/08/21(土) 00:46:18.58ID:mss2zzg3
>>146
難しい言葉を使いたいだけの馬鹿
0156人間七七四年2021/08/21(土) 00:52:23.37ID:O+nMxdpt
特に戦国時代は虚構と脚色入りまくった話が通りまくってるから、どの史料?とかどの研究?って聞かれたらこれだよって答えられる状態でいた方がいいかな
ほんとえっ、それ創作だったのかみたいなの多いから
0157人間七七四年2021/08/21(土) 01:04:31.94ID:cQDwS0uU
まあ「ストーリー」になっているものはほぼ全部創作と考えたほうが良い。
0158人間七七四年2021/08/21(土) 01:07:17.86ID:8mS8AXOc
>>153
回答になってないよ?
そういう煽りは回答してからでないとみっともないよ。
では2回目ね。
元史料を教えてよ?
三成が逃げまわってたって、何に記載されてんの?
0159人間七七四年2021/08/21(土) 01:22:17.84ID:gNNU6BpG
>>158
お前な、人様の投稿にさんざんケチつけてその口のきき方はないぞ
まずは謝罪して教えを請えよ
0160人間七七四年2021/08/21(土) 01:25:27.88ID:cQDwS0uU
>>159
お前が聞かれたことをちゃんと書き込めば相手も尊敬してくれるよ。
出来なきゃただただ馬鹿にされるだけだ。
0161人間七七四年2021/08/21(土) 01:31:35.79ID:8mS8AXOc
>>159
結局、回答できないんだろ?
予言しよう。
キミは次のレスでも回答しない(笑
0162人間七七四年2021/08/21(土) 11:50:12.45ID:JzuhhxA+
>>159
でたらめばっか言って謝罪しろってチョンか?
0163人間七七四年2021/08/21(土) 12:26:25.82ID:05Skcs02
>>158
横からだけど、
慶長四年閏三月四日に石田三成は大坂から伏見に移動していることが、言経卿記・卜斎記に記されてる。
この時、三成には伏見に公務があった形跡は無いしまた移動する理由もない。
この理由を慶長著聞集では「三成を襲撃しようという計画を知って伏見に逃げた」と記してる。
おそらくこれは真実だろう、というのが笠谷氏の主張だけど
三成には伏見に来た後立て篭もり事件を起こしてる。大坂から逃げたというのは間違いなかろう。
0164人間七七四年2021/08/21(土) 12:28:12.76ID:KPD2SlhH
>>162
石田三成邸襲撃事件も知らないバカのお前がチョンだろうが
アホは黙っていろ
0165人間七七四年2021/08/21(土) 12:46:07.61ID:KPD2SlhH
>>1 七将の三成襲撃事件なんて基本的な事を知らないとはマジで呆れる
それでよく関ケ原の戦いの勝敗の原因とか語れるよな
バカの書いた投稿なんてアホ丸出しだし 例えばこれ → >>146
0166人間七七四年2021/08/21(土) 12:50:46.86ID:UapbzAUE
おっ、久しぶりに来てみたら新キャラが登場してるじゃん
0167人間七七四年2021/08/21(土) 12:56:43.57ID:O+nMxdpt
で、その言経卿記や卜斎記、慶長著聞集らが噂を集めただけのもので信憑性に疑問があるよねって話をずっとされてた訳だけど、そこに何か進展はあったの?
0168人間七七四年2021/08/21(土) 13:18:21.42ID:KPD2SlhH
三成襲撃事件で、三成が家康の屋敷に逃げ込んだと言うのが怪しいと言うのなら理解できるが襲撃事件そのものが怪しいとか言うのはここの連中だけだろうな
0169人間七七四年2021/08/21(土) 13:23:15.97ID:O+nMxdpt
怪しいっていうか否定されてるじゃろ家康屋敷に入ったなんてのは
0170人間七七四年2021/08/21(土) 13:26:00.86ID:O+nMxdpt
世間的に常識として語られてる戦国時代の話は研究ではまるで違うことが本当に多いので
誰それの研究を基にしてますあるいはこの史料を基にしてて史料の信憑性はこう担保されてます、程度は出せないと
0171人間七七四年2021/08/21(土) 18:31:06.74ID:05Skcs02
>>167
そんなの言い出す奴は歴史が好きっていうより降霊術とかのオカルト好きだと思った方が良いよ。
この史料にはこう書いてある、っていうのを他の史料を提示して説を擦り合わせるのが歴史好き。
写真も無い時代の史料が噂話だろとか言い出したら歴史を語ることは不可能になる。
例えば三成が逃げ込んだのは伏見の自分の屋敷だった話だけどこれも「噂話」として本当は家康のところに逃げ込んだんだ!って言えるようになる
そうしたらもうメチャクチャよ。
0172人間七七四年2021/08/21(土) 18:37:04.82ID:O+nMxdpt
そのすり合わせが不十分だって話も散々されてたんでしょ?
どうして一度指摘されたことをろくに直しもしないでもう一度言い出したの?
0173人間七七四年2021/08/21(土) 18:39:29.27ID:2oZ3rl14
>>171
> この史料にはこう書いてある、っていうのを他の史料を提示して説を擦り合わせる

最近はそれに理工系の学術成果も、かな。
1990年代以降、気象学、地質学、生物学、材料工学などの御蔭で戦国時代を考えるパラダイムは劇的に変わった。
0174人間七七四年2021/08/21(土) 20:00:26.79ID:05Skcs02
>>172
史料提示してるならもうそこで主張側の仕事はお終いだし。
批判する方が史料を持ってきて初めて擦り合わせる事になる。
研究家はおろか小説家だってそうするさ。
0175人間七七四年2021/08/21(土) 20:24:58.73ID:PTPrXFGK

自分で出した史料の信頼性は検証しないのかよ
0176人間七七四年2021/08/21(土) 20:34:33.23ID:O+nMxdpt
提示する際に自分でも史料の信憑性の検証しなきゃいけないのは当たり前だし、批判してた人も襲撃側に摂州が入ってるほど噂としての信憑性の低いものを用いるなって、これまたさんざっぱら言ってたよね
それらをずっと無視してる時点で批判もろくに聞く気がない、自分の主張に酔ってるだけって言われて然るべきじゃないか?
0177人間七七四年2021/08/21(土) 21:05:45.07ID:m4n2F3SX
七将の三成襲撃事件と言うけど実際には加藤清正らは三成を捕縛しようとしただけの事
つまり実際の戦闘はないからな
日記などには書かれていないケースもあるのは仕方ないよな

まあでもいろいろなものにこの件は記述されているからな

七将の三成襲撃事件はあったとして問題なのはその七将が誰かであろうよ
七将は『関ヶ原始末記』を典拠とした説で、『徳川実紀』などでも同様の構成である。
『慶長年中卜斎記』では池田輝政が消えて脇坂安治が加えられている。
1599年(慶長4年)閏3月5日付徳川家康書状の宛所と比べてみると池田輝政と加藤嘉明が除かれ、新たに蜂須賀家政(阿波徳島城主)、藤堂高虎(伊予宇和島城主)が加えられている。

『義演准后日記』の慶長4年閏3月10日条には、石田三成の佐和山城隠居にかけて、「大名十人とやらん、申し合わせて訴訟すと云々」と記されている。

この事件は西軍のやる気のなさと中途半端な態度を取った大名らの理由つけにもなる
0178人間七七四年2021/08/21(土) 21:12:34.25ID:m4n2F3SX
『村井勘十郎覚書』
殿様逝去三日の七時より世上騒出

『言経卿記』
「一昨日ヨリ大坂ニ雑説有云」「大野伊兵衛尉大坂ヘ下向也トテイトマコイニ來了、雑説ニ付テ下也云 」(3月29日)
「石田治卩少輔入道、去四日ニ大坂ヨリ伏見へ被行也云 、今日も騒動了」

石田三成は伏見に逃げて家康により和談が成立。
三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。
0179人間七七四年2021/08/21(土) 21:22:08.32ID:m4n2F3SX
この事件は家康により仕組まれた部分がある
細川忠興はこの事件前に家康より豊後国内に6万石を加増されていた
また事件の前の年
徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問した
また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。
0180人間七七四年2021/08/21(土) 21:22:18.55ID:PTPrXFGK
石田治卩少輔入道って石田は入道してたのか
大徳寺と信仰あったみたいだしそこかな
0181人間七七四年2021/08/21(土) 21:30:03.18ID:O+nMxdpt
また書かれてないことを勝手に妄想で埋めてくやつ出てくるし、なんなんだよ今日は
0182人間七七四年2021/08/21(土) 22:24:04.92ID:Wj60DTnp
>>181
黙れよ。お前みたいな臭い爺さんは糞して寝ろ
0183人間七七四年2021/08/21(土) 22:49:10.51ID:Vev2XlFr
>>179
研究と史料の関係は裁判と証拠の関係に近いんだわ
関係あるように見える事例「だけ」引っ張ってきてほら、疑惑あるでしょは通らんのよ
直接仕組んだとわかるものもないのにその手のことするのは、いわゆる陰謀論でしかないの、わかる?
0184人間七七四年2021/08/22(日) 00:04:19.61ID:lMbOne4C
>>175
提示されてる史料が現代、若しくは戦前の陸軍研究所とかが作ったものとか、幕末期なら兎も角
言経卿記にしろ卜斎記にしろ同時代の史料だから疑う事が難しい。
確かに、それらは伝聞情報かもしらんがこの時代の史料は当事者(徳川や毛利、七将らの史料)を除くと伝聞なのは当たり前。「伝聞だから」で排除してたら研究の余地は無くなる。小説家は喜ぶかな?
最近は小さなところをつついていかにも史料批判してます、みたいななんちゃって研究書が多いけどそのレベルにはなりたくないね。
0185人間七七四年2021/08/22(日) 00:19:02.17ID:eE9x7ffd
>>183
実にくだらん言い訳
反論するなら物証を持ち出すなり、矛盾点を指摘するなりで反論しろよ
関係あるように見える事例を否定できるだけのものでも引っ張って来いよ
0186人間七七四年2021/08/22(日) 00:24:34.13ID:fS71jaS9
>>185


>細川忠興はこの事件前に家康より豊後国内に6万石を加増されていた

>また事件の前の年
>徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問した

>また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。

それとこの事件とどう関係があるのか、お前の脳内ソース以外の理由を述べよ
0187人間七七四年2021/08/22(日) 00:37:41.09ID:4C/tKuem
むしろ因果関係の証明をせにゃならんのは主張者側なんだわ、これをくだらないとか言い出す時点で、正直ろくに論理思考を指導教員なりから学ばなかったのかと疑う

そして伝聞情報に明らかに事実と異なる情報が混じってるレベルの情報を、信用できるとするなら補強史料なりが必要だろうが、それを持ってこない時点でやっぱり牽強付会に過ぎる
伝聞だから駄目なんじゃなく伝聞な上に正確な情報じゃないのがわかってるものをゴリ押ししてるからだめって言ってんの
0188人間七七四年2021/08/22(日) 01:40:20.48ID:eE9x7ffd
>>187
だからお前の抽象論なんざどうでもいいんだわ
何処がどうデタラメなのか指摘してみろよ
0189人間七七四年2021/08/22(日) 01:51:56.74ID:4C/tKuem
前年細川らが加増されたことや諸侯を訪問したことなどを家康が事件に加担した理由に述べてたけどそれらは全く因果関係の認められてないものだろって他の人にもツッコまれてるでしょ
これが関係するんですと言い張るならそれを証明する史料を出さなければならない、少しはものを考えてから喋りなさい
0190人間七七四年2021/08/22(日) 01:54:45.12ID:4C/tKuem
コーヒー飲んだ後車運転して事故ったからコーヒーは飲んだ人の判断能力を鈍らせるとか言い出す間抜けがいたら、判断能力の低下とコーヒーの因果関係の証明しろとしか言えないだろ
そのレベルの話をお前はわからんと喚いてるんだよ、クソガキ
0191人間七七四年2021/08/22(日) 02:20:00.36ID:6YaV1PoD
実際というか結局、三成が逃げまわってたっていう史料はないわけだよね?
三成が大阪から伏見に移動したことを、『逃げた』と小説よろしく解釈しただけの話だわな
0192人間七七四年2021/08/22(日) 02:34:12.44ID:eE9x7ffd
>>189
まあ代表的な事件だけ出しておいたけどわからなかったようだね

しかしお前はマジでなーんも知らないのな
屁理屈だけは御大層なものだが

ただ代表的な4人と家康との交流だけ書いておくな
その他の3人も似たり寄ったりだけどな

加藤清正
慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。
慶長4年(1599年)3月28日、前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。

福島正則
正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。
この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。
また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだった。

細川忠興
文禄4年(1595年)の秀次事件では、秀吉の甥・豊臣秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられたが松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納した。この時に金子用立てに力を貸したのが徳川家康である(『細川家記』『松井家譜』)。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599年)には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。
同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、城代として重臣の松井康之・有吉立行を置いた。これにより、都合18万石の大名となった。
徳川家康からの「味方につけば丹後の隣国である但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言を受け慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

黒田長政
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老の徳川家康に接近し、先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女の栄姫(保科正直の娘)を新たに正室に迎えた。
慶長4年(1599年)閏3月、前田利家が死去すると、長政は福島正則や加藤清正ら武断派(いわゆる七将)と共に三成を襲撃した。この頃、根岸兎角ら優秀な鉄砲の遣い手を多数召抱えている。
0193人間七七四年2021/08/22(日) 02:36:29.54ID:eE9x7ffd
しかしここの三成襲撃事件なかった派のアホってマジで話にならんよな
ただのバカだろうよ
話すだけ時間の無駄だと理解したわ
0194人間七七四年2021/08/22(日) 02:56:20.57ID:4C/tKuem
交流があるから事件と関わったっていうバカな主張繰り出すばっかりで肝心要の因果関係も出さないし、ほんとに脳タリンなんだな君

歴史僕こんなに知ってるよって浅い知識でイキる前にまず、論理的思考くらい培ってから人と喋ろうとしな
ここの人間はお前が言ってる程度のことは知った上で、それらはよく言われるが本当に正しいか、史料の信憑性や研究の動向を追って喋ってるんだわ
んで、その程度のことを知ってるのもスレ遡って読んでりゃわかる程度のことなんだわ
研究読まないスレがどういう流れを踏まえてるのかも知らないでバカ晒してるの、みっともないよ?
0195人間七七四年2021/08/22(日) 03:37:31.67ID:eE9x7ffd
>>194
だからな、交流とかいうレベルじゃねーんだよ
マジでアホだよな、お前は
家康は文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を行っているんだよ

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。
また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を行う。婚約した娘は、全て家康の養女とし、その内容は次の通りである。
伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。
0196人間七七四年2021/08/22(日) 03:44:25.19ID:4C/tKuem
あー、その私婚事件についても散々ここで話されてるし、合議も秀吉の遺言じゃねーよねって話もしてあるの
こんだけ言われてるんだから少しはスレ遡ってどんな話あったのか確認する程度のオツムもないの自分で証明してくれてありがとね
そもそも政務任された家康がその補強のために行う婚姻はおかしくないって主張する本多隆成氏などの研究者もいるんだわ

その上で、三成襲撃に直接関わったと確認できる史料なんかねーだろって話もしてんの
0197人間七七四年2021/08/22(日) 03:48:56.96ID:4C/tKuem
この研究者からの主張ですとかこの史料から引っ張ってきたとか一切出ないで、ウィキペディアやら参考文献も書かないyoutubeの歴史まとめレベルの情報しか出てこないんだが、お前ろくに研究1つ読んでねーだろ
性根叩き直してから出直してこいクソガキ
0198人間七七四年2021/08/22(日) 09:21:32.70ID:lMbOne4C
三成襲撃事件があったか無かったかと言うと
無かった事は間違いない。
何故なら三成は閏三月四日に伏見に逃げており
大坂の襲撃は失敗してるから。
存在しない人間は襲撃できない。
三成が伏見に逃げ込んだ理由は襲撃計画を知ったからという逸話以外存在しない以上、これを前提にするしかない(また、それ以上説得力のある説が存在しない)
またこれは単純な訴訟沙汰でも無い。
伏見で三成は毛利に挙兵依頼、立て篭もり、小規模な軍事行動とかなり危険な活動に立てる。
そして京・大坂は武装兵が溢れて危険な空気になっていた。
0199人間七七四年2021/08/22(日) 11:02:19.21ID:q4hZyets
挙兵を依頼したってのも、別の時期に書かれた書状だろって指摘を研究者の研究付でされてるよね?
なぜその辺りに明確な反論をしないで自分の願望だけを垂れ流すの?
議論をしたいんじゃなく思い込み垂れ流したいだけなら荒らしと変わらなくね?
0200人間七七四年2021/08/22(日) 11:16:41.37ID:QXXDf3d+
>>198
キミって、前スレで散々嘘ついて、史料・論文を一つも出さないで独り言を繰り返してる人だよね?
使ってるフレーズですぐわかる
0201人間七七四年2021/08/22(日) 12:59:30.75ID:EoK20DaX
>>199
この書状(46号書状か)を慶長五年とするのは白峰氏なんだろうが、無理がある。
一つ目は、この書状が西軍蹶起の挙兵だとすると毛利が主導者だった証になる。そんな危険な書状を毛利が残すだろうか。
二つ目に、当該書状では三成が小西と寺澤を輝元に送っている。佐和山で謹慎していた三成がどうしてこの二人を送れたのか。
仮に友情が三成を助けたとしても、問題がある。
ここにある寺澤は寺沢正成の事だろうが、彼は確かに小西の友人ではあるが慶長四年四月から徳川派に転向してる(関ヶ原では東軍に与する)
そんな男を急使に立てるだろうか。三成らが見抜けてなかったとすると要は西軍の挙兵は徳川の周知だった事の証拠にはなるので確かに小説の題材にはなるが…
三つ目は、この書状では「増田長盛が昨日、徳川と上杉の縁辺が整ったと言ってきた」とある。
慶長五年六月だとすると上杉討伐が決定されていた筈でこんな話がくる筈が無い。長盛が嘘を言ったとしてもそんな嘘を言う理由は相当難しい(敢えて考えると、西軍蹶起を止めようとしたのだろうか)
この様な点から、慶長五年ではなく慶長四年に書かれたものであろう。
伏見に逃げた三成からの挙兵要請を受諾していてもそこまで問題は無いからである。何しろ敵の七将は武力行使をしてるんだからね。
0202人間七七四年2021/08/22(日) 13:20:08.34ID:lMbOne4C
白峰氏は三成を贔屓にしとる節があるしね。
彼がこの書状を1600年とするのには、
一つは関ヶ原は毛利が主体となってるという主張。
それよりも大きいのは、関ヶ原の西軍挙兵は徳川の策謀の結果であるって言うことか。
何しろ東軍の寺沢が三成らと行動してたんだ。
だから上杉討伐は家康の陰謀だと。
このスレでもそういう主張の人が多いってことなんかなぁ。
0203人間七七四年2021/08/22(日) 13:28:52.86ID:3vnVdW6B
>>201

> >>199
> この書状(46号書状か)を慶長五年とするのは白峰氏なんだろうが、無理がある。
> 一つ目は、この書状が西軍蹶起の挙兵だとすると毛利が主導者だった証になる。そんな危険な書状を毛利が残すだろうか。
> 二つ目に、当該書状では三成が小西と寺澤を輝元に送っている。佐和山で謹慎していた三成がどうしてこの二人を送れたのか。
> 仮に友情が三成を助けたとしても、問題がある。
> ここにある寺澤は寺沢正成の事だろうが、彼は確かに小西の友人ではあるが慶長四年四月から徳川派に転向してる(関ヶ原では東軍に与する)
> そんな男を急使に立てるだろうか。三成らが見抜けてなかったとすると要は西軍の挙兵は徳川の周知だった事の証拠にはなるので確かに小説の題材にはなるが…
> 三つ目は、この書状では「増田長盛が昨日、徳川と上杉の縁辺が整ったと言ってきた」とある。
> 慶長五年六月だとすると上杉討伐が決定されていた筈でこんな話がくる筈が無い。長盛が嘘を言ったとしてもそんな嘘を言う理由は相当難しい(敢えて考えると、西軍蹶起を止めようとしたのだろうか)
> この様な点から、慶長五年ではなく慶長四年に書かれたものであろう。
> 伏見に逃げた三成からの挙兵要請を受諾していてもそこまで問題は無いからである。何しろ敵の七将は武力行使をしてるんだからね。

こういう反論を本来は>>202が自分で出さないから揉めた訳でしょ
0204人間七七四年2021/08/22(日) 13:57:07.96ID:2OqX2u1h
>>201>>202は自演
...の人ね
0205人間七七四年2021/08/22(日) 14:44:52.00ID:Vv0N6yKH
>>198
一連の事件それを含めて三成襲撃事件だろうよ
だからあったと主張する意見も通るだろうよ
0206人間七七四年2021/08/22(日) 15:05:35.22ID:Vv0N6yKH
>>196
伊達政宗除いて残りは7将候補だからな
十分に間接的な関与はあるだろうな
頭に血が上るとまともな判断ができなくなるよ
0207人間七七四年2021/08/22(日) 15:23:32.00ID:4C/tKuem
間接的に指示しましたなんてわかる史料もなければ、七将以外とも普通に交流もしてるな
それをわざわざ七将のみ書き立ててほら関係してるでしょは通らないと言っている
頭に血が登るではなく、ろくな証拠にもならないもので断言するアホに憤ってるだけ
0208人間七七四年2021/08/22(日) 15:28:56.48ID:4C/tKuem
七将に指示してたなり言いたいならまさに七将に三成襲撃指示出してる史料なりを出さなきゃだめだろ
それも出さないで自分の主張に都合の宜しい部分だけ書き出してるののどこが客観的な書き方なの?
それとも都合の悪い文書は全部家康が消したんだ!だから証拠ないけど俺ならわかるとか例え話みたいなこと言い出す気か?
0209人間七七四年2021/08/22(日) 15:37:57.51ID:Vv0N6yKH
ダメだこりゃ(いかりや風)
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