放任型というか、所帯が小さかった頃は信長個人が直接命令してて、領国が大きくなったら
いわゆる方面軍司令官クラスは、信長が期待してそうなタスクを察して、普通の大名並みの
知行を与えられているんだから兵員・兵站をそれで賄って、結果を出して当然みたいな気風の
統治だったのかもね。

佐久間追放は、昔の恨みを急に思い出して腹が立ったとか、信忠に政権を譲る前に大身の
古参を減らしておきたいとか以外に、叱責の書状からすると「俺の期待を汲み取って、本願寺を
さっさと下すべきだったのに、やってねーじゃん!」てな文面だし。