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武田勝頼 part19

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0001人間七七四年2019/06/05(水) 15:51:51.10ID:z2iG/d+P
http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1557227300

前スレ18

ねえが出没しています。
皆さん、相手にしないようにして下さい。
0341人間七七四年2019/06/08(土) 00:00:52.95ID:GMIHgzFH
>>340
尾張守護代の重臣の家柄の織田弾正忠家の信長が
右大臣になっていた時代ですし、
格式の高い左京太夫の位を金さえ渡せば豪族の大宝寺とかにもあげていた時代ですのに、
そんな事を言っても、とも思いますし、
この上記二つと比して考慮していけば、甲斐源氏武田家は名門ですよ。
0342人間七七四年2019/06/08(土) 00:11:14.13ID:mIx0C8H7
信長は朝廷を立て直した大恩人だから別格よ
0343人間七七四年2019/06/08(土) 00:20:47.14ID:ap3T1Xft
>>341
信長が、公卿「従三位相当以上」の位貰ったのは近畿の覇者に成ってからですよ。

朝廷を株式会社に例えるなら、従五位で正社員、従三位で取締役ぐらい格が違う。

幾らあの時代でも、従三位以上の官位は簡単に出してない。

>>339
外孫なり、従兄弟なりが粛清されて恨むなって無理でしょうに?
0344人間七七四年2019/06/08(土) 00:26:56.09ID:uhUA3W5e
三条夫人の父親って確か息子いなかったよね。
細川晴元と顕如と信玄に嫁いだ3人の娘だけ。
父親は大内の大寧寺の変で死んでるし。
父親の死後は養子が継いだのかな?
0345人間七七四年2019/06/08(土) 00:34:19.91ID:GMIHgzFH
>>342 >>343
ですから、その朝廷が豪族の大宝寺に、
普通に左京太夫という格式高い官位も金さえ渡せば普通に任官させてて、
信長も結局は勢力さえあったなら、信長の家柄でも普通に高い官位につける、
という一例にしかなってないと思いますが。
この二つに比して考慮していけば、甲斐源氏武田氏は普通に名門ですしね。

言っちゃなんですけど、三条の方はその後も普通に正室ですし、
そもそも義信は病死とも自害とも、で殺されたかどうかも微妙で、
その原因は義信が謀反をしようとした事で、信玄が幽閉をした、という話で、
自力救済のあの時代に、しかもおそらく一度もあった事がなかったであろう義信の為に、
そこまで三条家が激怒したと思うのでしょうか、と思うのですけどね。
0346人間七七四年2019/06/08(土) 00:36:55.58ID:mIx0C8H7
>>345
つまり勝頼は金も勢力も無い落ちぶれた名門だってことだな
0347人間七七四年2019/06/08(土) 00:46:06.60ID:uhUA3W5e
>>346
金が無いのは確かだな。
だから武田は重税地獄。
0348人間七七四年2019/06/08(土) 00:48:09.49ID:GMIHgzFH
>>346
単に勝頼の時代には信長が京都を制圧していて、
足利義昭も京都にいなかったので、官位の獲得ができなかっただけかと思うのですが。
信玄時代には義昭に対して、勝頼の為の官位獲得の要請をおこなっていたわけで。
0349人間七七四年2019/06/08(土) 00:49:50.20ID:GMIHgzFH
>>347
別にそこまでないわけでもないと思いますし、
武田は重税とかいいますが、単に武田は棟別銭でまとめて徴収していただけで、
北条とかは棟別の他に複数の税で徴収していて、その総合額は武田と比しても多いですしね。
0350人間七七四年2019/06/08(土) 00:52:08.32ID:mIx0C8H7
>>348
勝頼は朝廷に繋がりが無い
義信を切腹させたせいで誰にも頼れなくなった
0351人間七七四年2019/06/08(土) 01:01:50.85ID:GMIHgzFH
>>350
いや、そういう事じゃなくて、単に勝頼の時代には信長が京都を制圧していて、
足利義昭も京都にいなかったので、
官位の獲得ができなかっただけかと思うのですが。
信玄時代には義信が死亡した後でも普通に義昭に対して、
勝頼の為の官位獲得の要請をおこなっていたわけで。
0352人間七七四年2019/06/08(土) 01:03:40.41ID:PPiUo5FX
実際、三条家の娘の子で足利将軍家の通名まで貰っている
義信を殺したら誰にも信用されなくなるだろう
あれで完全に武田は中央へのパイプが無くなった
0353人間七七四年2019/06/08(土) 01:05:04.35ID:dtk3sUbx
勝頼は秋山が死んだ時点で何としてでも織田とのパイプを築くべきだったよなあ
具体的には信忠かその重臣の川尻金森斉藤辺りに接触すべきだった
0354人間七七四年2019/06/08(土) 01:07:26.27ID:mIx0C8H7
>>350
朝廷に繋がりが無いから官位をもらえなかった
合ってるじゃないか
0355人間七七四年2019/06/08(土) 01:07:45.25ID:mIx0C8H7
>>351だった
0356人間七七四年2019/06/08(土) 01:16:01.84ID:GMIHgzFH
>>352
何度も書いてますが、言っちゃなんですけど、三条の方はその後も普通に正室ですし、
そもそも義信は病死とも自害とも、で殺されたかどうかも微妙で、
その原因は義信が謀反をしようとした事で、信玄が幽閉をした、という話で、
自力救済のあの時代に、しかもおそらく一度もあった事がなかったであろう義信の為に、
そこまで三条家が激怒したと思うのでしょうか、と思うのですけどね。
お家騒動なんか普通にあった時代ですしね。
しかも、何度も書いてますように、信玄はその後で普通に勝頼の為に足利義昭に官位の要請をしてますしね。
>>354 >>355
勝頼の為の義昭に対しての官位要請がうまくいかなかったのは、信長と義昭の主導権争いの中で、
うやむやになってしまったのではないか、という感じで、特に朝廷の繋がりどうとかいう話でもないと思うのですが。
0357人間七七四年2019/06/08(土) 01:23:54.20ID:mIx0C8H7
>>356
>うやむやになってしまったのではないか、という感じで、
一次資料を出して
0358人間七七四年2019/06/08(土) 01:28:59.17ID:y/+Q+LjY
>>353
散々暴れて仲良くしましょうなんて通用せんわw
長篠前に岩村城の返上を交換ぐらいしないと
もっと言えば、勝頼が当主になった時点で、これをやって織田と同盟を結ばないといけなかった
0359人間七七四年2019/06/08(土) 01:34:54.88ID:0ggrOmeP
>>358
そんなことできるわけないだろ。
そんなことしてみろ。
重臣どもが勝頼降ろしのクーデター起こして他の奴当主にするわ。
0360人間七七四年2019/06/08(土) 01:53:39.44ID:GMIHgzFH
>>357
信長公記の記述とかで、将軍義昭の御内書は信長がチェックして
添え状とか付ける事に信長はしたかったようですが、
義昭はその事をしないようにしたがって、という事で
信長と対立してたそうなので、
信玄が義昭に要請をしても、こんな感じで主導権争いをしてたので、
うまく対応できなかった、という感じかと思うのですが。

で、貴方の言っている事が正しい、という資料提示の方を
よろしくお願いいたしますかね。
0361人間七七四年2019/06/08(土) 03:07:58.18ID:y/+Q+LjY
>>359
クーデターの分裂覚悟でやらないと織田との関係修復は不可能。それぐらい織田との同盟は難しい
むしろクーデターを起こしてくれた方が国内の反乱分子を排除出来て中央集権を可能にできたでしょう
当主交代でいままでの行いを先代の悪行としてチャラにしてもらえるチャンスなのね
新武田氏は国内の信玄派を弾圧排除して親織田路線に舵をきる
諏訪の人間の勝頼なら、この大義名分がある。寧ろ敵は国外より国内にあった
勝頼に従わないのなら、親類衆でも排除すべきね
だから勝頼は売国奴になって織田の手先として、武田を浄化した方がよかったw
むしろ勝頼がなぜそこまで武田家に殉じたのか。勝頼の立場なら武田に尽くす必要はなかっただろう
これが出来ないってことは信玄の立場もかなり弱かったんだろうね
信玄も国人の言いなりで寄り合い体制の議長程度の存在
0362人間七七四年2019/06/08(土) 05:02:20.37ID:83+p7DRB
信玄晩年の上方工作と言えば、信長に焼き討ちされた比叡山からの亡命者庇護と
甲斐での山門復興検討くらいかな?本願寺との連携は別として。

でも比叡山が世俗権力化して、京都の武家政権や他寺から攻撃されるなんてのは、
室町に何度もあったこと。朝廷もそれで信長に激怒したわけじゃないし(内心は知らんが)
信玄がもう少し長生きして実現しても、覚えめでたくなったとも思えんけど。
0363人間七七四年2019/06/08(土) 07:28:51.32ID:bVqf2wkn
信長は絶対和睦しないだろうしなぁ
1回蹴った上に裏切ったのは武田で国力も兵の質も完全に織田側が高いんだから
織田に敵対しなかった長宗我部あたりも攻めらる直前だった
0364人間七七四年2019/06/08(土) 07:44:11.91ID:PPiUo5FX
元親はその辺上手い事やってたよなぁ
信長秀吉の方から仕掛けさせて
攻められたらとりあえず一戦して相手と味方の納得を得たうえで秀吉に臣従した
まぁ最後は自慢の息子を秀吉に任せたら戦死しちまって気が触れちまった気の毒な人だけどさ
0365人間七七四年2019/06/08(土) 07:53:23.96ID:z7uZucKI
>>361
守護大名出自の武田家を国人の寄り合い世帯というがね、足利幕府でさえ守護大名の寄り合い世帯で、足利将軍は寄り合い世帯の盟主、座長に過ぎない
中世の常識的な支配体制よな
逆に中央集権を試みた大名は既得権代表と争いになる
0366人間七七四年2019/06/08(土) 07:57:00.54ID:uFSKCAas
武田は中央集権してる方でしょうよ
0367人間七七四年2019/06/08(土) 08:05:30.09ID:h2WKqXCp
武田は中央集権?
笑わせないで。
穴山や小山田は甲斐本国で独自の権益・統治機構を持ってる。
本国がこれでどこが中央集権なの?
0368人間七七四年2019/06/08(土) 08:06:36.58ID:h2WKqXCp
ID:GMIHgzFH。
NGして下さい。
0369人間七七四年2019/06/08(土) 08:06:51.95ID:q7pEjHN2
>>364
やっぱ嫡男が消えると急にに家が傾くよなぁ
その点、元就や謙信は嫡男ではないけど才能が別格だったって事か
0370人間七七四年2019/06/08(土) 08:08:38.59ID:htcHyHmy
>>363-364
信長の了解の下に自力でもぎ取った北・東四国を諦めろと言われて、拒否したら討伐対象になった
長宗我部の例を見ると、信玄が対織田開戦を避けても、信長が西国を席捲したら、因縁つけられて
武田も攻撃されたんだろうなとは思う。それが、武田スレの繰り返し主張される「川中島や駿河より
美濃攻めを優先すべきだった」論の背景なんだろうし。

九州に到達した信長が海外進出を優先するとか、心身が衰えるか死ぬかして名実ともに信忠が
政権当主になって「嫁実家が大大名過ぎる」とは思いつつ所領は安堵するとかする可能性もあるけど。
0371人間七七四年2019/06/08(土) 08:12:28.72ID:h2WKqXCp
信長の了解の下に自力でもぎ取った北・東四国を諦めろと言われて、拒否したら討伐対象になった
長宗我部の例を見ると、信玄が対織田開戦を避けても、信長が西国を席捲したら、因縁つけられて
武田も攻撃されたんだろうなとは思う。

それはあくまで想像だし。そもそも信玄のほうが信長との約束破ってる。おまけに信玄は約束を破る前科が多すぎるから、
何言っても信用されない。
0372人間七七四年2019/06/08(土) 08:14:27.46ID:h2WKqXCp
>>369
元就の場合は嫡孫だし、補佐役として2人の有能な叔父がいたからまだOK。
謙信の場合は景勝の悪運の良さ(関ヶ原、織田との戦い)としか思えない。
0373人間七七四年2019/06/08(土) 08:18:06.09ID:h2WKqXCp
川中島や駿河より、美濃攻めを優先すべきだった。

そのチャンスを義信事件とかで遊んで潰したのが信玄。
また仮に、義信事件が無くてもそのチャンスがあるとするなら1561年の第4回川中島の後になるだろうが、
1564年に謙信にちょっかいだして5回目で遊んでる信玄ではやはり無理だと思う。
とにかく、信玄には長期的な戦略性が無い。
4回目で懲りずにまた謙信に手を出してるし。
0374人間七七四年2019/06/08(土) 08:22:57.01ID:PPiUo5FX
だから美濃は遠すぎるしアクセスも悪すぎるから無理だと何度も
史実でも瑞浪辺りまで突っ込んだが補給が続かなくて
結局美濃をノブサマに譲って引き上げてるやん
0375人間七七四年2019/06/08(土) 08:26:29.02ID:oeVZqmuk
信玄って軽いアスペだったのかもな。
何度失敗しても懲りずに永久に同じ事を続ける常道性というのが
それを裏付ける。
0376人間七七四年2019/06/08(土) 08:27:30.24ID:oeVZqmuk
もう何度も話に出てるが
美濃が無理なら木曽も無理だし飛騨の方が絶対に無理だ。
美濃が無理とか言ってる奴はアスペだから相手にしないように。
0377人間七七四年2019/06/08(土) 08:42:18.39ID:htcHyHmy
「美濃を攻めるべきだったし、成功の可能性が高かった」と主張するつもりはないけど、
地形が険しいとはいえ、中小の豪族・国人を屈服させれば済む木曽谷や飛騨と、
美濃では遠征に必要な兵力・兵糧と時間が段違い。

遠山氏や遠藤氏だけなら、何とかなる。だが、郡上や恵那を武田領化したら、いずれは
中西濃を支配する大名と対立・対決することになる。それが斎藤氏か織田氏かは、
時期によって違うが。
0378人間七七四年2019/06/08(土) 08:43:02.99ID:1kUsBvRv
飛騨は上杉派と武田派の土豪が争ってて武田が圧力かけたら服従したが
裏では上杉と織田にも通じてた風見鶏だったのに
それでドヤ顔するのをアスペって言うんだな
0379人間七七四年2019/06/08(土) 08:56:12.68ID:oeVZqmuk
木曽→飛騨→恵那と順調に侵略してたわけで
信玄が死んでなかったらそのまま侵略の手は止まらなかったろ
0380人間七七四年2019/06/08(土) 08:58:17.69ID:1kUsBvRv
>>379
前スレにいた池沼か

780: 人間七七四年 [] 2019/06/01(土) 02:37:52 ID:qmkOryOI
普通に考えたら東海道より中山道(当時は東山道と呼んだ)の方がはるかに昔からあるわけで
主要街道なのだから通る事はできたんだよ。
なんでアホが「信玄は通る事はできなかった」と言い始めたんだろ?
通れたに決まってんだろ。だから木曽にも飛騨にも侵攻して武田領にできたわけだし。

800: 人間七七四年 [] 2019/06/01(土) 15:06:28 ID:qmkOryOI
ルート確認してみた。
武田領からの美濃入りは
・旧中山道(木曽路)
・飛騨街道(益田街道) 馬場が攻めるとしたらこのルート
・越前美濃街道(白川街道から侵入)
の3ルートがあるな。
仮に木曽路の場合は伊那から大平街道を経由した方が兵糧はスムーズに運べるように思える

801: 人間七七四年 [] 2019/06/01(土) 15:12:12 ID:qmkOryOI
飛騨が馬場の土地なのでそこから高山、下呂、太田と南下するのがスムーズなコースに見えるが
0381人間七七四年2019/06/08(土) 09:00:16.38ID:oeVZqmuk
>>380
おまえ信長と秀吉が中山道を大整備したとか言ってたよな。
その証拠はよ持ってこい。
いつまで逃げ回ってんだよ糞野郎
0382人間七七四年2019/06/08(土) 09:02:02.08ID:dtk3sUbx
>>358
同盟じゃなくて三好や宇喜多のように人質差し出して全力土下座
息子返して松姫と嫡男を差し出せばさすがに許してくれるだろう
0383人間七七四年2019/06/08(土) 09:02:03.53ID:oeVZqmuk
実際は18世紀間近になってやっと中山道整備計画が終わったというのに・・・
超時空太閤秀吉さんなら中山道も整備したニダとしつこくいつまでも言い張ってたよな
0384人間七七四年2019/06/08(土) 09:05:36.79ID:1kUsBvRv
>>381
>仮に木曽路の場合は伊那から大平街道を経由した方が兵糧はスムーズに運べるように思える

大平街道が整備されたのはいつかを知らずに信玄時代に大平街道を挙げる奴が整備を語るw
0385人間七七四年2019/06/08(土) 09:05:44.17ID:oeVZqmuk
ID:1kUsBvRvの主張

信玄の時代は中山道が整備されてなかったから美濃攻めは不可能!!!

関ヶ原の時は信長・秀吉様が中山道を整備してたから通れたニダ!!!


いや、それ嘘だからw 18世紀間近になって極めて中途半端な形で一応中山道整備事業終えただけだしw
0386人間七七四年2019/06/08(土) 09:08:36.53ID:PPiUo5FX
>>378
飛騨の郷土史家によると武田は飛騨に攻め込んだ時は
あまりの地勢の険しさに進退窮まったらしいぞ
んで北飛騨の江馬を懐柔して道案内させ屈服させたらしい
その江馬も信玄が死ぬとさっさと上杉に信玄が死んだみたいですよとチクる有様
0387人間七七四年2019/06/08(土) 09:13:14.58ID:1kUsBvRv
中山道
信長が甲州征伐時に街道を整備しながら進軍させた
その後、秀吉が木曽の木材に目を付け木曽義昌を追い出し秀吉直轄地にする
番所を設けて材木運びしやすいように整備
1599年3月から犬山城主石川備前守に豊臣秀頼の命で難所の木曽のかけはしや伊那川橋及び波計桟道を整備


ID:oeVZqmuk
木曽路の場合は伊那から大平街道を経由した方が兵糧はスムーズに運べるように思える!

大平街道が信玄時代に整備されていて大軍がいけたというソースを出す番ですよw
0388人間七七四年2019/06/08(土) 09:14:08.02ID:h2WKqXCp
関ヶ原のときをなぜ比較するのかね?
関ヶ原の秀忠軍はあくまで行軍に過ぎない。
それを比較対象にするとか酷すぎる。

実際、中山道通って美濃を目指した事例ってあった?
木曾義仲は越後から北陸道を使った。
承久の乱で幕府軍は東海道と北陸道を使った(中山道使っていない)。
元弘の乱で幕府軍は東海道から上洛した。
足利尊氏や北畠顕家も東海道を使った。

中山道から美濃はやはり難しいとどの時代も思われていたんじゃないんですかね?
0389人間七七四年2019/06/08(土) 09:14:52.22ID:z8bhVtft
中山道よりは出た先がどうなってるかだろ

信玄の時代は尾張も美濃も織田がガッチリ固めてたから不利だった
関ヶ原の時は美濃も尾張も既に東軍が落としていたので余裕で進むことができた
美濃←→信濃なんて現代でもまともな交通網整備されてないからお察しだわな
ちなみにガッチリ固めてる三河に信濃から悪路を越えてやってきて、前後を塞がれて大惨事になったのが長篠
まともな橋頭堡確保できないと結局どうしようもないんだよな・・・
0390人間七七四年2019/06/08(土) 09:29:01.13ID:1kUsBvRv
関ヶ原時の秀忠軍
美濃では東軍先鋒が美濃に展開して既に清洲城から岐阜城を経て兵站を構築していて、
秀忠はそこに移動合流するだけのいわゆる増援

信玄が美濃に侵攻する場合
美濃は敵国だから城を落としながら制圧するのにどれくらい掛かるか、
どれくらい兵糧を要するか、
大軍を維持するための兵站を新規に構築しながら敵と戦わなければならない


ID:oeVZqmukは戦況の区別できない残念な頭なんだろう
0391人間七七四年2019/06/08(土) 09:29:15.43ID:h2WKqXCp
関ヶ原の時は美濃も尾張も既に東軍が落としていたので余裕で進むことができた

それでも強行軍して1週間もかかってる。
やはりあのあたりは悪路なんですね。
0392人間七七四年2019/06/08(土) 09:30:45.82ID:h2WKqXCp
そもそも信玄が信濃から美濃に攻め入る場合、どれくらいで美濃を落とせる設定ですか?
信長は足掛け10年かかっています。
信玄は1ヶ月ですか?
0393人間七七四年2019/06/08(土) 09:31:58.79ID:BygsWvMM
臭いのがいるなあ
0394人間七七四年2019/06/08(土) 09:41:42.21ID:a+wtvotd
>>380
美濃 54万石
飛騨 3.8万石
あんなに広いのにこの石高だと山奥だと容易に想像できる
信濃からそこを経由して54万石の敵に挑むのと
信濃から直接3.8万石を相手するのと同じに考えてるとは・・・
0395人間七七四年2019/06/08(土) 09:50:08.66ID:h2WKqXCp
飛騨って5、6万石じゃなかった?
4万石未満だったか?

1564年に山県昌景が飛騨に侵攻してるけど、あのときの武田軍ってどれくらいの兵力だったんだろ? 5000くらいかな?
0396人間七七四年2019/06/08(土) 09:58:56.02ID:BygsWvMM
>>392
373で自分で美濃攻めの話を持ち出しといて何でそんなこと聞くの?
0397人間七七四年2019/06/08(土) 10:04:17.28ID:a+wtvotd
>>395
秀吉が金森に飛騨一国3万8千7百余石を与えるという書状か伝聞があったような
0398人間七七四年2019/06/08(土) 10:10:34.65ID:1kUsBvRv
菅沼レベルの池沼が二人いるとは思いたくないなぁ

http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1538471906/363
>信玄が東美濃から侵攻をするのを不可能、などという論拠は特に存在しないようには思われますし、
>後の時代の徳川秀忠も普通に信濃側から美濃に侵攻するルートで移動しておりますし、


http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1538471906/113
>これまでにも私やら、前スレ492の人やらが指摘などしてきましたように、
>江戸時代のデータなどから考慮しましても、一万石余かと思われます、当時の木曽氏の領土で
>織田勢5万近くを養う事は非常に困難なようには思われます次第なのではございますが、
>これらの事柄などなどに関しましての、資料やら史実やらを基になさられましての御回答の方などを
>なにとぞ御早めによろしくお願いいたしますかねえ。


甲州征伐の織田軍が全員木曽路を通ってきたと思ってたのは間違いだと学習したみたいだけど
0399人間七七四年2019/06/08(土) 10:43:16.32ID:a+wtvotd
>>395
甲陽軍鑑だと1564年山県昌景・甘利昌忠を飛騨派遣した
しかし、謙信が川中島に来たから飛騨出兵中止、だった気がする
大規模な動員した三方ヶ原で山家三方衆も率いた山県が5000
くらいだったからそれ未満でしょう
0400人間七七四年2019/06/08(土) 11:07:00.50ID:W72NXbI7
>>388
木曽路ではなないけど承久の乱じゃ武田小笠原は東山道使ってる。

15世紀後半松尾小笠原が斎藤攻めた時も伊那からだろうし。
0401人間七七四年2019/06/08(土) 11:17:32.70ID:h2WKqXCp
武田小笠原って幕府軍本隊(泰時)に合流したんじゃなかった?
小笠原の斎藤攻め……あああったね。でもあの頃の美濃ってそんなに強大な勢力だったかな?
0402人間七七四年2019/06/08(土) 11:21:12.82ID:GMIHgzFH
>>398
んん?そのスレの内容とかを読みましても、
元々策源地どうとかを言い出しているのは、貴方こと織田ファンさんでは?
貴方の言いだした策源地どうとか論に基づく場合、
武田側の領土に織田側が橋頭保として存在していたのは木曽領だと思いますし、
そもそも、信長公記の記述で考慮をしていけば、普通に
織田側は主力を岩村・伊那で侵攻させてますし、この事は
勝頼が東美濃攻防の時に美濃に侵攻した時、
あるいは、信玄が西上の時に
岩村城を橋頭保とした事、などと同様ですので、
武田が美濃に侵攻ができない、
という理由は存在しないように思いますが、
この事についてはどうでしょうかね。
0403人間七七四年2019/06/08(土) 11:29:43.54ID:GMIHgzFH
>>361 >>365
中央集権がどうとか書いてますが、
普通に信玄時代の武田は織田と比して詳細な軍役命令とか、
領国に対しての命令などを行っている事が、書状などに残ってますし、
信長は1580年の佐久間折檻状の内容を考慮しましても、
軍役の為の軍勢を如何程養い、戦いの時に如何程招集していくか、は
各武将達の任意によっていた、というシステムでしたのに、
武田と比して中央集権とか書いてもしょうがないと思うのですが、どうなのでしょうかね。

>>317にも書きましたが、
武田は勝頼時代になっても、長篠までは東部戦線において圧倒的に優位に勝利をしていきますし、
長篠で信長公記でさえ「勝頼が動かなかったらどうしようもなかった。」的に書いた戦略的な状況で、
勝頼は重臣達の反対意見を拒否して設楽の方に移動して、織田徳川の陣城を攻めて敗北したわけで、
このような状況で信玄が悪いといってもしょうがないと思うのですが。
しかも、長篠の後も普通に勝頼は織田徳川と戦っていくつもりで軍勢の再構築とかをしてましたし、
その事を領国において喧伝とかもしてましたが、その後で御館で外交失敗して北条が敵になった事で
三方向が敵となって、織田徳川との和睦を求めていく、という感じですので、
信玄が死亡した時に勝頼が織田徳川と同盟を求めていく理由が存在してないと思うのですが。

そもそも、徳川が上杉と同盟を結び、その同盟に織田も参加させて武田包囲網を構築しようとしていたのを、
武田が織田に抗議しても織田は放置して、さらに武田と織田の両属だった岩村遠山を軍勢を派遣して制圧して、
という事によって、武田は織田と敵対をしていく事になったように思えますしね。
0404人間七七四年2019/06/08(土) 11:39:02.92ID:lnmf4x4S
恵那郡や郡上郡なら獲れるけど、中西濃を支配する実質的な国持ち大名を
武田が征服するのは困難ってこと。
0405人間七七四年2019/06/08(土) 11:41:39.79ID:GMIHgzFH
>>402
そもそも、織田が比叡山の領土を強引に制圧して、
比叡山がその事を朝廷に訴えて、朝廷が織田に抗議をしても、
織田は放置してましたので、朝廷の覚えがどうとか言いましても。

言っちゃなんですけど、三条の方はその後も普通に正室ですし、
そもそも義信は病死とも自害とも、で殺されたかどうかも微妙で、
その原因は義信が謀反をしようとした事で、信玄が幽閉をした、という話で、
自力救済のあの時代に、しかもおそらく一度もあった事がなかったであろう義信の為に、
そこまで三条家が激怒したと思うのでしょうか、と思うのですけどね。
0406人間七七四年2019/06/08(土) 11:41:56.51ID:6SC3yyYV
ID:GMIHgzFH
NG推奨
0407人間七七四年2019/06/08(土) 11:44:23.28ID:GMIHgzFH
>>404
そんな事もないでしょうに。織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。
0408人間七七四年2019/06/08(土) 11:53:14.51ID:W72NXbI7
>>401
合流というか、木曽川挟んで京都勢と
上流は東山道組5万騎が下流の方は東海道組10万騎が対峙している、
なので合流といえば合流だし合流していないと言えばしていない。
で東山道組が後の金山城の辺りで大内破って渡河に成功と。
東海道勢主力はその頃は尾張西部墨俣対岸辺りにいたはず。

小笠原の美濃攻め時は斎藤氏の最盛期、朝倉と並んで当時の強大勢力の一つ。
0409人間七七四年2019/06/08(土) 11:55:54.75ID:GMIHgzFH
>>367
中央集権がどうとか書いてますが、
普通に信玄時代の武田は織田と比して詳細な軍役命令とか、
領国に対しての命令などを行っている事が、書状などに残ってますし、
信長は1580年の佐久間折檻状の内容を考慮しましても、
軍役の為の軍勢を如何程養い、戦いの時に如何程招集していくか、は
各武将達の任意によっていた、というシステムでしたのに、
武田と比して中央集権とか書いてもしょうがないと思うのですが、どうなのでしょうかね。

小山田とか穴山とか書いてますが、小山田も普通に武田家家臣として、その命令を受けてますし、
武田家においては、武田家宗家どころか、その一族の勝沼一族の指揮を受けていた、という主張もある程ですし、
訴訟においての武田家の上級裁判権も普通に小山田は認めてます。
穴山は普通に署名に「武田信君」と書く程に武田一族としての自覚が強いですし、
普通に信玄の命令を受けて、さまざまな活動を行ってますしね。
0410人間七七四年2019/06/08(土) 11:58:59.53ID:GMIHgzFH
>>371
いつも通りに都合の悪い事は認めないようにしておられますようですが、
そもそも、徳川が上杉と同盟を結び、その同盟に織田も参加させて武田包囲網を構築しようとしていたのを、
武田が織田に抗議しても織田は放置して、さらに武田と織田の両属だった岩村遠山を軍勢を派遣して制圧して、
という事によって、武田は織田と敵対をしていく事になったように思えますしね。
武田の裏切りっていうのはどうかと思うのですが。

そもそも、>>317にも書きましたが、
武田は勝頼時代になっても、長篠までは東部戦線において圧倒的に優位に勝利をしていきますし、
長篠で信長公記でさえ「勝頼が動かなかったらどうしようもなかった。」的に書いた戦略的な状況で、
勝頼は重臣達の反対意見を拒否して設楽の方に移動して、織田徳川の陣城を攻めて敗北したわけで、
このような状況で信玄が悪いといってもしょうがないと思うのですが。
しかも、長篠の後も普通に勝頼は織田徳川と戦っていくつもりで軍勢の再構築とかをしてましたし、
その事を領国において喧伝とかもしてましたが、その後で御館で外交失敗して北条が敵になった事で
三方向が敵となって、織田徳川との和睦を求めていく、という感じですので、
この状況で信玄が悪いというのはどうなのでしょうかね。
0411人間七七四年2019/06/08(土) 12:04:22.66ID:a+wtvotd
>>400
松尾小笠原が攻めた話って応仁の乱で美濃守護の土岐成頼を
攻めた小笠原家長の話?
いつの時代かイマイチわからない・・・
0412人間七七四年2019/06/08(土) 12:08:52.04ID:GMIHgzFH
>>373
普通に歴史的な経緯としては、第4次川中島の後には、
長尾上杉+関東諸侯の大勢力の勢力減少の為に、北条と連携をしての、
西上野攻略戦争が行われていきますので、1561年から美濃に攻め込んで、
とかしてたら、普通に長尾上杉が攻めてきて、という事になっただけかと
思うのですが。
>>374 >>377 >>380
そんな事もないでしょうに。織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。
>>375
普通に戦略的に成功した戦いが多かった事で、最終的に120万石余の勢力になったと思うのですが。
0413人間七七四年2019/06/08(土) 12:12:34.19ID:GMIHgzFH
>>378
信玄が死亡した後で、飛騨豪族のいくつかの敵対が起きたわけで、普通に信玄が生きてた時は、
武田家に従ってたのですけどね。
>>382
>>410にも書きましたように、そもそも、御館の時までは、勝頼自身もその必要性を感じてないと思うのですが。
>>387 >>388 >>389 >>390
そんな事もないでしょうに。織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。
0414人間七七四年2019/06/08(土) 12:14:56.98ID:W72NXbI7
>>411
小笠原家長の話だが、
自分が知らないだけで他にも松尾小笠原が斎藤攻めたことあるのか?
0415人間七七四年2019/06/08(土) 12:15:41.68ID:GMIHgzFH
>>391 >>392 >>394
そんな事もないでしょうに。織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。

そもそも、信長公記の記述で考慮をしていけば、普通に
織田側は主力を岩村・伊那で侵攻させてますし、この事は
勝頼が東美濃攻防の時に美濃に侵攻した時、
あるいは、信玄が西上の時に
岩村城を橋頭保とした事、などと同様ですので、
武田が美濃に侵攻ができない、
という理由は存在しないように思いますが、
この事についてはどうでしょうかね。
0416人間七七四年2019/06/08(土) 12:20:27.39ID:vrqLRy3T
ねえ
ねえ
ねえ
ねえ
0417人間七七四年2019/06/08(土) 12:24:36.33ID:a+wtvotd
>>414
1467年、応仁の乱が起こると土岐成頼は西軍に属し、
 成頼は8,000余騎を率いて京都に在陣して戦った
 美濃本国は守護代の斎藤妙椿が守った
1473年、小笠原家長は将軍足利義政の命により、東美濃に出兵し
 恵那郡の中部と土岐郡の一部を制圧
1477年、応仁の乱の講和がなると土岐成頼は美濃へ帰国した

それって主力が京に行って留守を狙ったが美濃制圧できなかった
情けない話の例じゃ・・・
0418人間七七四年2019/06/08(土) 12:30:55.85ID:GMIHgzFH
>>416
んん?どうしたんですか?突如としてそんな単語を連呼してますが。
>>417
勝利かどうかはその時の戦略的な状況もあったわけですし、
その後の歴史で普通に織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、
信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。
0419人間七七四年2019/06/08(土) 12:35:17.36ID:W72NXbI7
>>417
>主力が京に行って留守を狙った
まあそうでもあるな。その上で斎藤妙椿に撃退されたと言うし。
更に言うと妙椿は尾張伊勢近江に出兵して東軍側撃退したり美濃内の東軍勢力滅ぼしたりしてるし。
0420人間七七四年2019/06/08(土) 12:41:19.07ID:a+wtvotd
>>419
美濃の東から美濃侵攻して失敗した良い例だね
0421人間七七四年2019/06/08(土) 12:41:57.89ID:W72NXbI7
あと小笠原が恵那郡一部を制圧しては細川の書状から確認できるけど、
1550年頃まで信濃勢が支配していたと言われたりするのは、どこまで信用していいかわからない。
0422人間七七四年2019/06/08(土) 12:46:25.77ID:GMIHgzFH
>>420
勝利かどうかはその時の戦略的な状況もあったわけですし、
その後の歴史で普通に織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、
信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。
0423人間七七四年2019/06/08(土) 13:20:27.70ID:uhUA3W5e
GMIHgzFH

地理の知識が皆無の基地外。
0424人間七七四年2019/06/08(土) 13:23:35.03ID:uhUA3W5e
>>409
GMIHgzFH

織田の話出してないのに、織田と比較する基地外。
0425人間七七四年2019/06/08(土) 13:24:17.11ID:uhUA3W5e
>>422
地理の知識が皆無の基地外は黙っとれ。
0426人間七七四年2019/06/08(土) 13:26:09.53ID:uhUA3W5e
>>422
美濃から信濃へ侵攻
信濃から美濃へ侵攻

これが同じことと考えている基地外がいるね。
NG推奨。
0427人間七七四年2019/06/08(土) 13:29:47.95ID:GMIHgzFH
>>423
地理の知識といいますが、織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。

そもそも、信長公記の記述で考慮をしていけば、普通に
織田側は主力を岩村・伊那で侵攻させてますし、この事は
勝頼が東美濃攻防の時に美濃に侵攻した時、
あるいは、信玄が西上の時に
岩村城を橋頭保とした事、などと同様ですので、
武田が美濃に侵攻ができない、
という理由は存在しないように思いますが、
この事についてはどうでしょうかね。

このようにいくつもの歴史的な事実が存在していて、
当事者達も普通に信濃・美濃で侵攻は可能、という想定で動いてますのに、
貴方がそのように書いてもしょうがないと思うのですが。
信長に都合の悪い時や、信長が戦略的に不利な状況においてのみ、
貴方の祈りが時空を超越して信濃・美濃においての地理や地形が断崖絶壁に変化していく、
という事でもない場合、普通に信濃・美濃での侵攻は可能、という事でしかないと思うのですが、
どうなのでしょうかね。
0428人間七七四年2019/06/08(土) 13:30:25.85ID:uhUA3W5e
>>422
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても。

信長、1572年11.月まで近江在陣。12月帰還。
1573年3月、京都出陣、4月帰還。

冬に関ヶ原が雪で通行困難になるとか、多分知らないんだろうなこいつ。まさか冬まで動いてないのを武田にビビっていたとか見ていたとか驚いた。

GMIHgzFH
NG推奨。
0429人間七七四年2019/06/08(土) 13:30:51.81ID:GMIHgzFH
>>425 >>426
地理の知識といいますが、織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。

そもそも、信長公記の記述で考慮をしていけば、普通に
織田側は主力を岩村・伊那で侵攻させてますし、この事は
勝頼が東美濃攻防の時に美濃に侵攻した時、
あるいは、信玄が西上の時に
岩村城を橋頭保とした事、などと同様ですので、
武田が美濃に侵攻ができない、
という理由は存在しないように思いますが、
この事についてはどうでしょうかね。

このようにいくつもの歴史的な事実が存在していて、
当事者達も普通に信濃・美濃で侵攻は可能、という想定で動いてますのに、
貴方がそのように書いてもしょうがないと思うのですが。
信長に都合の悪い時や、信長が戦略的に不利な状況においてのみ、
貴方の祈りが時空を超越して信濃・美濃においての地理や地形が断崖絶壁に変化していく、
という事でもない場合、普通に信濃・美濃での侵攻は可能、という事でしかないと思うのですが、
どうなのでしょうかね。
0430人間七七四年2019/06/08(土) 13:33:12.47ID:uhUA3W5e
>>427
織田が美濃から信濃へ侵攻した時期を考えて物を言え。既に畿内に敵が皆無で気にする必要もなければ、国力も武田信玄の全盛期なんか比較にならない大勢力だぞ。
0431人間七七四年2019/06/08(土) 13:34:38.11ID:GMIHgzFH
>>428
貴方の書いている1573年3月4月の信長の京都遠征は、
足利義昭とダッシュで和睦してダッシュで美濃に戻っていて、
普通に武田を警戒しまくってますが。
そもそも、信長自身が書状で、
「謙信が武田領土に攻め込めば、武田の織田側に対しての圧力が減少していくので、
自身は畿内に遠征して存分にしたい。」的に書いてて、
必死に謙信を武田領土に攻め込ませようと躍起になってたわけで。
信玄率いる武田西上軍の矛先が他の方向に向かない場合は、迂闊に美濃から動けない的に
信長自身が思っていたわけで。
0432人間七七四年2019/06/08(土) 13:34:50.17ID:uhUA3W5e
>>429
織田が慌てて同盟求めた。

そんなソースどこにあった?
慌てて同盟求めたなんて初めて聞いたわ。
0433人間七七四年2019/06/08(土) 13:36:19.65ID:uhUA3W5e
>>431
よほどお前信長嫌いなんだな。
捉え方が凄すぎる。
信玄は何も悪くない。
悪いのは全て信長。

話にならんからスレから出て行ってくれや。
迷惑や。
0434人間七七四年2019/06/08(土) 13:39:06.70ID:GMIHgzFH
>>430
そのようにいう場合は、信玄も北条と同盟し、長尾上杉は関東と北陸に敵が存在して
1574年末まで東西奔走を続けていくので、特に問題はない、という事でFAですし、
そもそも国力云々は普通に西上の時の武田、だけでなく、
1565年の段階で織田が武田側の美濃侵攻を警戒して同盟を求めていたわけで、
普通に当事者達同士で美濃侵攻は可能、と想定していただけの話と思いますが。

>>424
比較とは相対的なものだと思うのですが。
武田側の敵対相手の織田と比して、
武田側の方が中央集権的なのに、
武田が中央集権的でない、という場合、
織田はなんなのでしょうか。
0435人間七七四年2019/06/08(土) 13:40:16.28ID:PPiUo5FX
>>428
岐阜羽島なんて田舎に新幹線の駅があるのも
関ケ原が積雪で運行できなくなるから除雪されるまでの待機駅が必要で作られたそうだからな
まともな頭なら現代の高速鉄道ですら通行に支障を来す関ケ原を
戦国時代に悠々移動できる訳がない事くらい察しがつきそうなものだ
0436人間七七四年2019/06/08(土) 13:42:31.75ID:GMIHgzFH
>>433
信玄が信長と戦った事の道義問題については、別に>>431には書いてなくて、
信長自身が書状で、
「謙信が武田領土に攻め込めば、武田の織田側に対しての圧力が減少していくので、
自身は畿内に遠征して存分にしたい。」的に書いてて、
必死に謙信を武田領土に攻め込ませようと躍起になってたわけで。
信玄率いる武田西上軍の矛先が他の方向に向かない場合は、迂闊に美濃から動けない的に
信長自身が思っていたわけで、という事を説明していただけなのですが。
>>432
織田側が武田側の城を攻めて、武田側が撃退し、その後で織田側が同盟を求めて、
武田側に娘を嫁がせて同盟をしてますので、普通に織田側が武田側の侵攻を警戒して
武田側に対して丁重に同盟を求めたとしか考慮できないと思うのですが。
0437人間七七四年2019/06/08(土) 13:43:38.32ID:GMIHgzFH
>>435
貴方が必死にそのように書きましても、織田も普通に美濃・信濃で侵攻して
その戦いで武田が滅亡してますし、1565年の戦いで織田側を武田側が撃退し、
織田側が慌てて同盟を求めた事を考慮しましても、
信玄西上の時に、信長が警戒しまくって美濃に留まり続けていた事を考慮しましても、
他ならぬ織田側が信濃・美濃で侵攻が可能、と想定していたとしか思えないのですが。

そもそも、信長公記の記述で考慮をしていけば、普通に
織田側は主力を岩村・伊那で侵攻させてますし、この事は
勝頼が東美濃攻防の時に美濃に侵攻した時、
あるいは、信玄が西上の時に
岩村城を橋頭保とした事、などと同様ですので、
武田が美濃に侵攻ができない、
という理由は存在しないように思いますが、
この事についてはどうでしょうかね。

このようにいくつもの歴史的な事実が存在していて、
当事者達も普通に信濃・美濃で侵攻は可能、という想定で動いてますのに、
貴方がそのように書いてもしょうがないと思うのですが。
信長に都合の悪い時や、信長が戦略的に不利な状況においてのみ、
貴方の祈りが時空を超越して信濃・美濃においての地理や地形が断崖絶壁に変化していく、
という事でもない場合、普通に信濃・美濃での侵攻は可能、という事でしかないと思うのですが、
どうなのでしょうかね。
0438人間七七四年2019/06/08(土) 13:51:12.05ID:sb/DxOjb
GMIHgzFH

相手にしないように。
触れないように。
無視して議論しましょう。
返レスしてきても無視しましょう。
返レスしないように。
0439人間七七四年2019/06/08(土) 13:53:26.83ID:PPiUo5FX
そもそもあんな屁理屈と偏見に満ちた読むのが苦痛でしかないこいつのレスを
読んでる奴居るの?
0440人間七七四年2019/06/08(土) 13:54:41.90ID:+UVzZ/rj
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)   
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪
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