>>103
>>101にも書きましたように、普通に信玄も戦略的に必然性があった事をしていった、という感じであって、
増長という話ではないと思うのですが。
>信長に上杉謙信との和平仲介依頼しながら裏切り、信長激おこさせるし。
第一次甲越和与と第二次甲越和与を同じとしてませんかね。
第一次の時は信長の擁する足利将軍家の仲介で上杉謙信と和睦をして、
そのお礼に信玄も本願寺と信長の和睦を仲介してます。
第二次の時は西上の前に行われていた事で、当時の上杉謙信が北陸一向宗・武田・北条と戦っていた事から、
信長が仲介を申し出たこの和睦に謙信は喜びましたが、信玄は難色を示していたわけで。
>>110
普通に当時から信長の敗北数が多かった事などが原因ではないでしょうかね。
軍鑑では、武田の周辺の諸大名の戦いなどを評した記述において、
信長を「一回崩れると盛り返せない」的に評してまして、
実際に史実の織田勢も勢いに乗って攻めて、そのまま勝てた場合は勝ち、
その攻めを相手側が防いだ、あるいは、防いで反撃した、という場合は敗北、という場合が多くて、
当時の織田勢はそんな感じだったのかとも思えますかね。
>>112
姉川に関しましては、朝倉側の朝倉始末記でも、「味方側が有利だったけど、家康が堅固に守ったので、信長は助かった。」
的に書いてますので、家康は相応に奮戦していたのではないかと。