戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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戦国ちょっといい話46
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0924人間七七四年
2020/03/18(水) 00:51:26.24ID:F8JL/9mO天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。
河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。
猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。
一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。
中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。
かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。
翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。
( 丹州三家物語)
丹後国と一色義定、明智光秀、細川父子について
0926人間七七四年
2020/03/19(木) 02:20:30.21ID:5aU48FEL現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。
であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。
また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。
ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った
「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」
これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。
( 丹州三家物語)
細川父子の丹後入部の際の、地元の人々のあれこれ
0927人間七七四年
2020/03/19(木) 20:45:52.59ID:Zi+2cZjs0928人間七七四年
2020/03/20(金) 03:55:08.86ID:xMBLyZ5bその年の五月に細川藤孝の息女を一色(義定)殿に嫁がされた。
同十年九月八日、五郎(一色義定)殿が宮津の城に聟入りあって、細川父子に対面した。
この時、未だ宮津の城は完成していなかったため、はかばかしい座席も無く、そのため大手の内にあった、家臣・
有由士郎右衛門の宅に於いて五郎殿を饗応し、既に酒宴に及んだ。
細川藤孝が抔を一色殿に差し、五郎が抔を取り上げて、頂こうとしたその時、忠興が一色を討った。
しかし少しかわしたか、弓手の肩を討たれた。
五郎も流石壮士にて、勇猛をふるったものの、大勢が出合い、取り籠めて遂に討たれ給うた。
いたわしき有様であった。
五郎の扈従に蘆屋千八、金川与藤という者たちが有り、彼ら二人は常に一色の身近くに仕えていたため、
この時も召し具され次の間に在ったのだが、彼らについても予め討手を用意し、一色殿と同時にこの二人も
討たせた。蘆屋、金川は勇士であり、即座に抜き合い、討ち手も手負ったが、多勢に無勢であり、叶わずして
二人共討たれた。
その他の一色衆は、予め大手の門外に町家を建て、そこに置かれていたのだが、城内が何やら騒がしく、
一色討たれ給うと聞こえると、「すわ!我先に!」と抜き連れて追手の門へ入り込もうとしたが、細川衆
切って出て、大手の橋を轟かせ追い返して戦った。手負い、死人多く出て、一色方は十三人が枕を並べて討たれた。
生き残った一色衆は皆、弓木に引き取って堅固に城を固めた。
( 丹州三家物語)
細川父子による一色義定謀殺についてのお話
0929人間七七四年
2020/03/21(土) 02:23:17.00ID:7Ug6HP5N細川忠興は予てより米田監物(求政)と密談して、
「一色五郎(義定)を打ち留めた時は、汝は早く義定の居城である弓木城に馳向かい、
(忠興の妹である)五郎の室受取るのだ。もし城内の侍たちで、少しでも擬議する輩があれば、
一々に頸を刎ね城を破却して帰るべし。出馬の合図は狼煙である。」
と伝え、騎馬十四、五騎に足軽を付けて置かれた。
宮津から西に向かって、のろしが嶽よいう高山があった。この山に予め煙の役人を付け置かれ、一色を討つと等しく、
城内に煙を上げると、山上にも狼煙を立てた。かの十余騎の兵ども、その方々の一味の者、この煙を見ると
監物に従って弓木に押し寄せ、城内に言い入った
「御内室の迎えとして、米田監物ここまで来たり候也。この上は仔細無く渡し給え!」
そう申し使わしたが、城内からは返答にも及ばず、夥しい鉄砲を打ち出した。
城内には天下無双の鉄砲の上手、稲富伊賀(祐直)という者が在り、極めて正確に射撃すると、寄せ手は
たちまち死人多く出た。
監物は先ず野田の橋詰まで引き取り、重ねて使者を以て城中に申し使わした
『内室のみを渡し給わば、面々には仔細無い。只今卒爾の働きをし給う故、味方に手負いが少々出来たが、
それは武士の作法であればどうして苦く思うだろうか。これは私が、藤孝の前で宜しく取りなし申す。』
そう懇ろに申し遣わしたが、城内の評議は喧々にして、とやかくという間に、傍の者共が内室を人質に取って
後ろの山より忍び出て、但馬を指して落ちていった。
監物はこれを聞くと即座に諸鐙にて追いかけ、但馬国藤の森にて追いつき、恙無く内室を取り返して、
米田は宮津へ帰った。
(中略)
一色(義定)殿の御内室は、宮津へ帰られた後に五郎殿の打たれ給わった終始をお聞きに成り、最後の時を思い
深く嘆かれ、このように仰られた
「過ぎし八日の卯の刻(午前六時ころ)、殿は私に向かって宣われた。
『今日は細川殿と対面する。我等が家と細川殿、互いの先祖は親しくしていて、代々公方様に仕えつつ、
ここかしこの戦いに、互いに頼み頼まれて力を合わせていたと見え、そういった古き文なども残っている。
その子孫の末と成っても、昔を思えば懐かしいものだ。
それが、このように親子の縁と成ったのも、宿縁の浅からぬ不思議さよ。』
このように宣われ、誠にいつもより睦まじく、馬鞍綺麗に装わせ。弓木を出給うたのだ。
去年の夏の五月の頃に私が一色殿の元に参ってから、このように賑々しい供人で、どこの地にも出かけられた
事はなかった。私も一入嬉しくて、城の窓より見送ると、須津の浜道を過ぎられ山路にかかられた所で、
また朝霧が吹き払われてとても幽玄に見えた。しかしそこから、生い茂る松陰に見失い参らせ、
供人も見えなくなると、心の内に味気なく、そぞろに涙がこぼれるのを、忍んで人に見せなかったが、
殿が城を出られたことに涙を流したのは忌まわしいことだと思い、盃を出させ女房たちをも慰めたのだ。
それなのに、思いの外のことが有って失せさせ給う哀しさよ。このような企てが有るなどとは、私は夢にも
知らなかったが、御最期のその時に、さぞ私を恨まれたであろう。」
そう、明け暮れに嘆かれた。
( 丹州三家物語)
0931人間七七四年
2020/03/21(土) 18:57:41.06ID:cNtRGQG+0932人間七七四年
2020/03/23(月) 06:17:42.39ID:An2HW4k+0933人間七七四年
2020/03/23(月) 17:41:19.37ID:CHPz+jBH長岡の内室は光秀の娘
生き残る選択肢は少なかったと思う
0934人間七七四年
2020/03/23(月) 22:27:15.18ID:aD4lGeCD関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた
「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)
家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。
この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。
忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。
(丹州三家物語)
細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話
0935人間七七四年
2020/03/25(水) 13:20:53.94ID:mj/qOoz9もう一回原爆落とされねえとわかんねえみたいだなw
約束守れよ
0936人間七七四年
2020/03/26(木) 10:09:52.35ID:++oLtex7父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。
こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。
忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した
「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」
そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された
「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。
また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。
こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。
(丹州三家物語)
0937人間七七四年
2020/03/26(木) 12:43:09.56ID:R6yK/SZl0938人間七七四年
2020/03/26(木) 12:52:06.74ID:/s+X6SpC0939人間七七四年
2020/03/26(木) 20:16:46.18ID:MxcE7X8S0940人間七七四年
2020/03/27(金) 08:59:42.36ID:vfGRF0A/0941人間七七四年
2020/04/04(土) 19:49:08.24ID:q+WRfr9i岡山の城主である。
直家が未だ備前一国を手に入れて居ない時、上道郡沼城におられた。しかし備前は既に大方手に入れており、
徐々に美作国所々を切り取った。その頃、美作は雲州尼子家の支配下に有ったが、尼子は安芸の毛利に
押し落とされ、作州も毛利の手下に属した。その隙きを見て宇喜多は所々切り取り、備前に奪い取った。
毛利はこれを聞くと、毛利家より備中松山の城主、三村紀伊守家親に申し付け
『作州へ出勢して、作州を鎮めるように』
として、紀伊守は一万余の人数にて出勢して、宇喜多を討ち果たし作州を取り鎮めようとしている、
との事が備前に聞こえた。宇喜多直家はこれに思った
「今、所々で取り合いをしている最中に、三村は大敵であり、簡単に取りひしぐ事はできない。
である以上、謀を以て討ち取らん。」
そう考えると、遠藤喜三郎(秀清)という侍に密かに申した
「其の方は三村家親が備中成羽に在城していた時、其の方も成羽に在って、良く見知っているという。
今度、三村の元へ密かに忍び入り、討ち取る手立は無いか?一重に頼み入る。」
このように申されると、遠藤は心安く請け合い、喜三郎の弟、修理(俊通)とただ二人で作州へ忍び行った。
三村は作州穂村興禅寺(興善寺)という寺に屯して居たのを、遠藤兄弟は忍び入り、頃は八月十八日の夜、
宵の内に三村は家臣を集め、物語していたのを、障子紙を破りひそかに鉄砲にて三村家親を撃ち殺し、
恙無く退出して、兄弟とも備前に帰った。
直家は大いに喜び、喜三郎には十万石の知行を宛てがい、彼は遠藤河内守と名乗った。
弟の修理には三千石の知行を給わった。
三村勢は主を討たれて、作州より崩れて備中へと帰った。
(妙善寺合戰記)
三村家親暗殺事件について
0942人間七七四年
2020/04/04(土) 21:29:31.17ID:CHhZfdrW0943人間七七四年
2020/04/04(土) 23:52:04.55ID:IKQ5srZX0944人間七七四年
2020/04/05(日) 00:00:10.95ID:nr4P//tZ0945人間七七四年
2020/04/05(日) 00:13:22.74ID:PDO/dKKm0947人間七七四年
2020/04/06(月) 07:50:44.89ID:DaUCVK7y0950人間七七四年
2020/04/06(月) 20:14:25.02ID:QfsZRmfa0951人間七七四年
2020/04/06(月) 20:41:35.34ID:ecJp4yJv0952人間七七四年
2020/04/06(月) 22:44:42.04ID:/jHCpreHだからあったか無かったをお前らアホな頭で断ずる事は到底できないのさw
0953人間七七四年
2020/04/06(月) 22:55:54.42ID:SU3aREEw0954人間七七四年
2020/04/07(火) 01:42:34.40ID:GTsReKHF嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。
弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。
しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)
元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。
(毛利元就記)
いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。
0955人間七七四年
2020/04/08(水) 22:36:47.37ID:7j1OFAgQこの頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。
このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、
『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』
との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。
また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。
宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。
そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。
(毛利元就記)
毛利隆元の死去までについて。
0956人間七七四年
2020/04/09(木) 07:13:19.77ID:FV4Nvjb20957人間七七四年
2020/04/09(木) 07:34:26.86ID:uuQ9h7Na0958人間七七四年
2020/04/09(木) 21:06:33.59ID:6VXTQWG80959人間七七四年
2020/04/09(木) 21:16:14.83ID:sycuQPqf「youtubeに上がってるのは通俗的なものばっか。歴史好きが信長を紹介する」
みたいなこと書いてたからすげー楽しみにしてたんだが
「首巻の内容は当てにならない」としながら首巻の記事は「信勝側の主張が混ざってる」って?
それ「史実を追求する」としながら妄説垂れ流す、歴史クラスタが大嫌いな明智憲三郎とやってること一緒じゃん
戦国大名としては信長は「普通」って?全ての戦国大名がドラマチックとは言えなかったの?
で、あげく、「信長に最も似てる絵」と自分が主張する絵にカッポレ踊らせ、割烹着着せ、頬を染めさせ
「信長のイメージを変える」ではなく、「信長のイメージを壊したい」っていう目論見、浅薄なところからきた意志を感じるわ
初回で、「ホントは東国大名が好きだけど大河に便乗しました」って言っちゃったのもマズかったよね
やっぱり、全編通して冷笑系で、熱がないのが伝わってくる
素直に東国大名の誰かから初めたほうが良かったんじゃない?
これは悪い話だ。管理人の悪い話だ!
ただまぁところどころはっとするところもある。そこはいいぞ
あとツイッターで紹介してたフロイスの本面白かったぞありがとう!
0960まとめ”管理”人
2020/04/09(木) 21:56:18.05ID:JjdzMuKB動画への感想でしたらyoutubeの方か、ツイッターでお願いします。
こちらでは場違いであり、他の方の迷惑です。
あなたは匿名掲示板でなければ怖くて書き込めないのかもしれませんが、
僕はそこまで心は狭くありません。
ただし迷惑行為には厳しく対処します。
本スレの皆様には、失礼致しました。
0961人間七七四年
2020/04/09(木) 22:09:38.39ID:sycuQPqf動画だとずっと残るからよくないなと思ってツイッターもアカウントは持ってないし
どういうスレを見てるのか、他に窓口が分からんから「管理人」って名乗ってるんならまぁいいやと
スレももうすぐ終わるし。実際すぐ見てくれたのでまぁ良かったわw
俺からも謝ったほうがいい?ごめんね他の人
0963人間七七四年
2020/04/10(金) 00:58:54.03ID:Z0cMNdBb搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。
その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。
この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)
(毛利元就記)
0964人間七七四年
2020/04/10(金) 02:07:49.95ID:pF+bUfNdあれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい
0968人間七七四年
2020/04/10(金) 18:06:15.15ID:yWX2hvTc0969人間七七四年
2020/04/11(土) 03:19:39.86ID:ONtCAS+0武田晴信入道信玄は曽我五郎時致の生まれ変わりであるという俗説がある。
その理由は、ある僧が富士野を通った時、曽我十郎祐成の幽霊が現れた。
「私の弟の時致は生前『法華経』を読経するという功により、甲斐国の領主武田大膳大夫晴信入道信玄として生まれ変わったのだ。
しかし私は女色に愛着していたので、今は六道に沈淪している。
どうかこの旨を信玄に告げて彼に私の弔いをさせて頂けないか?」
と頼んできたという。
この俗説を考えてみるとしよう。
まず、そもそも再生輪廻の事は理にない事である。
これだけでなく他の理由も今しばらく俗談から検討したいと思う。
曽我五郎時致は淫奔放蕩の謗りがあるといえど、工藤祐経を討って父の仇に復讐した。
取り所がない者ではない。
武田入道信玄は彼とは異なっている。その罪悪が際立っているものに、父信虎を追放して甲州を領した事が挙げられる。
「不得乎親 不可以為人」という言い伝えもある通り、人に非ざるのなら禽獣である。
ただし虎狼に父子の親しみあり、セキレイに兄弟の情ありという。禽獣にもしかずと言えるだろうか。
ところが物は類を以て集まるというのが世の習いである。
その臣の高坂弾正は主の不孝不義を諫めないだけでなく、信玄が父を追い出したという事実を断りながらも「一生『論語』を手に取られなかった」と『甲陽軍鑑』に記している。
晩年になっても『論語』を手に触れていたら、不孝を悔い旧悪を改める心も有ったのだと思うとひどく恨めしい。
これだけではない。降った諏訪の大祝頼重を誅して所領を奪い、その娘を頂き妾とした。
この妾の讒言により太郎義信飯富兵部を殺害し、欲にふけって親しきを忘れ甥の今川氏真を押し倒して駿州を奪った。
取り所のある人ではない。
(広益俗説弁 続編)
信玄が曽我五郎の生まれ変わりだったという説話があった事も驚きだけど、信玄の人格を否定することで俗説を批判しているのも面白い。
0974人間七七四年
2020/04/11(土) 21:34:55.97ID:BaNKVLgT島津義久と茅葺の門(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.html)
の話しを無視している大変立派な門です。コロナのおかげで影がすごく薄くなりましたが
何でわざわざ門だけ復元と思うかもしれませんが島津忠恒が鶴丸城を建築した時期は
鹿児島城ができるまで・悪い話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-566.html)
↑に書かれてる通り関が原後の微妙な時期に建てられたので天守閣等の目立った物はなく、
館のみという城だったので正門が一番目立つ存在だったそうです。
(鶴丸上跡地自体は美術・歴史館、図書館、博物館、医療センターとなっているので
現在のほうが防御力高そう)
というわけで開通記念に鶴丸城の話をひとつ
鶴丸城はすぐ裏手が山となっていますがそこの防備はどうなっていたのかの話しです。
0975人間七七四年
2020/04/11(土) 21:35:21.32ID:BaNKVLgT現城山展望台の裏手に位置するここは昔は大きな楠がたくさん茂り、暑さ知らずの高涼地だったので
夏蔭と呼ばれていました。
城山は山自体が城の一部とされていましたが(実際戦になったら城山全体に陣を張る見込みだった)
裏手からの攻撃には無防備でした。そこで裏手から攻められた際の要であるこの地を守る為、
武士が配置されていました。
特に城や砦は設けられず、日光から守ってくれる楠のあるこの地は夏蔭城と呼ばれるようになりました。
・・・せめて番所位は作ってあげようよ忠恒さん
補足すると元々城山には上山城という城の遺構がのこっていたのでそれを利用する目論見もあったみたいですが
平和裏に徳川へ帰順できたので作られず、変わりに島津歳久の孫の常久が陣を張っていたのですが、
常久が早世した後は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止となったその後の警備の話となります。
結局、島津家が城山を使った防衛システムを活用することはありませんでしたが、
(薩英戦争の時は大砲の射程内だったため別の場所に避難してますし)
西南戦争最後の舞台に西郷軍が防衛システムを使用、そして最後の日に夏蔭城が陥落し裏手から官軍が
雪崩れ込み西郷さん達の最後の突撃が行われることになりました。
御楼門自体は観光の目玉とはなりませんが上の通り周辺は西南戦争関連や歴史館など歴史好きな人向けの
観光スポットとなっていますので是非お越しください。コロナ終わったら
0976人間七七四年
2020/04/11(土) 21:35:49.86ID:BaNKVLgT鶴丸城の前の本拠地の内城(現鹿児島市立大龍小学校)(おそらく↑↑の島津義久と茅葺の門の城)
ゲームとかだと立派な城ですが実態はただの館でした。(堀とかもなく塀があるだけだった模様)
近くに前本拠地・前々本拠地(清水城・東福寺城)が後詰の城としてあるとはいえ防衛力は無いに
等しかったんじゃないかと。
決戦指向だったせいかそれとも守りやすい本拠地の現日置市や鹿児島に入る前の
姶良市の城々で止めるつもりだったかはあるかもしれませんが、他の大名よりと比べ本拠地の防備に
無頓着な所は面白いです。
0977人間七七四年
2020/04/13(月) 03:10:15.56ID:XFrFh1IY享禄四年、細川晴元と浦上掃部介が摂州尼崎で合戦した。
浦上が敗北しそうになった時、浦上の家臣島村弾正左衛門貴則は敵二人を左右の脇に挟み河に入って死んだ。
その魂はたちまち蟹となった。
島村蟹として甲に人が怒った顔がある蟹がいる、という俗説がある。
〔平家蟹・清経がに・武文がにともいう〕
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6601.html
しかし、これは違う。
傅肱『蟹譜』によると、
“背穀鬼ノ状ノ若キハ、眉目口鼻分布明白、常ニ宝トシテ之ヲ玩ブ”
〔『百川学海』で見た〕
この類であろう。どうして人が死んで蟹となる事があるだろうか。
(広益俗説弁)
0978人間七七四年
2020/04/15(水) 12:08:46.30ID:DKMCvcRx戦国ちょっといい話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1586920019/
0979人間七七四年
2020/04/16(木) 00:12:26.93ID:FJJW3kJbこの城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。
家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った
「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」
久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。
しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛は筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。
十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。
(佐久間軍記)
0980人間七七四年
2020/04/16(木) 11:49:48.22ID:O4ZY5yYd0981人間七七四年
2020/04/16(木) 21:34:47.03ID:SRx78Wxe0982人間七七四年
2020/04/16(木) 22:01:43.47ID:nEUH2pgM0983人間七七四年
2020/04/18(土) 17:35:20.90ID:25IT3XhX0984人間七七四年
2020/04/18(土) 23:30:44.65ID:tlLr7j1U0985人間七七四年
2020/04/19(日) 15:49:05.80ID:/eXYOJJ00986人間七七四年
2020/04/19(日) 16:20:43.65ID:gBTz30L40987人間七七四年
2020/04/20(月) 03:29:16.96ID:9QHsESdp秀吉公が北条氏政・氏直を攻められた時のことである。秀吉公は北条の家臣松田尾張守(憲秀)の方へ書を遣わして説得を試みられた。
尾張守はこれに同心し、嫡子新六郎(笠原政晴)・次男左馬介(直秀)・三男弾三郎を呼んでこのことを語った。
しかし、左馬介はこれに与せず氏政・氏直に告げたので尾張守を殺されたという。
その後氏政・氏照・氏直が降参すると、氏政・氏照は切腹させられたが氏直は命を助けられ高野山に入り、松田左馬介も彼の供となった。
世ではこの事を挙げて左馬介の忠義を称美している。
今このことを考えてみるために、『通鑑綱目』の話を引用する。
昔朱という者が唐の徳宗を囲んだ時、徳宗の臣であった李懐光に朱を防がせた。しかし、懐光は反逆の心があり軍を進ませなかった。李懐光の子の李?はこれを徳宗に告げた。懐光は死ぬこととなり?もまた自殺した。
また楚の康王が臣の子南を殺そうと思っていた。当時子南の子の棄疾という者は王の御士であった。
康王は棄疾を見るごとに涙を流した。棄疾が「どうして泣かれるのか?」と尋ねると、王は「お前の父、子南は無道なので討とうと思っている。討った後でもお前は留まって居てくるだろうか?」と返した。
棄疾は「死刑にされた父を持つ子を君はどうして用いなさるでしょうか。ただし、王の命令を洩らして自分の刑を重くするようなことは臣であります私は行いません。」と答えた。
王はついに子南を殺した。棄疾は父の屍を請うて葬り、
「父を棄てて、仇に仕えることに私は忍ばない」と言って首をくくって死んだ。
これらの話を受けて思うと、左馬介は父の逆意を君に告げる事は李?に同じといえども、李?は父が死んだ時に自殺し、左馬介は父が殺された時に死ななかった。
棄疾は父を棄てて仇に仕えるのを忌みて死んだが、左馬介は父を棄てて仇に仕えても恥じるところなかった。
古語に”忠臣を求むるは必ず孝子の門においてす”、
とあるように左馬介を忠臣とするのは義にかなわない。この事を考え知るべきだ。
(広益俗説弁)
なんか“忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず”のような話だ
0988人間七七四年
2020/04/21(火) 09:33:58.62ID:t1z05XzMhttps://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f405264408
このスレに男色ファンいると思うけど..何が書いてあるか興味あるな
0989人間七七四年
2020/04/21(火) 10:35:14.76ID:Enw8zNYT有名だからググればいくらでも翻字と訳文が見つかる
0990人間七七四年
2020/04/23(木) 01:19:38.08ID:a5yXEBU0色々御詮議あり、その議論し難かったが、水野日向守殿(勝成)御前に罷り出て申し上げた
「上総殿には、毛頭御逆心などありません。ただ少し御不覚であったのです。」
これによって、上意に「不覚者、兵家に用無し」とて、信州へ御改易と成ったのである。
これを世上に、上総様は伊達政宗の御聟たるによって、内談して御謀叛と云うが、それは全て推量である。
何故なら、御謀叛であるなら、御不憫の御子を御流しになり、他人の政宗をどうして許すだろうか。
ただ不覚は、兵家の大悪なのである。
(松永道齋聞書)
0991人間七七四年
2020/04/23(木) 16:12:04.67ID:KCxkdMlS北条軍に攻められていた羽生城を救援するべく向かったが、利根川が増水しており、足止めをくらっていた。
せめて物資だけでも羽生城に運び入れようと、家臣佐藤筑前の言を受け入れ、船を30艘用意した。
この作戦に先立ち、謙信は筑前に「北条軍の攻撃を受けたらどうするんだ」と聞いたが、
筑前が「ここは敵が攻撃してくるような地形ではない」と断言していた。
しかしこの作戦は北条軍の攻撃によって失敗してしまった。
後日、謙信は羽生城の守将に対して事の顛末を記した書状(現存)を送り、その中で「佐藤ばかもの(に)候」と書いている。
なお、その書状の中では「信玄や氏康でもよくわからない地形では失敗しただろうから、自分が失敗したことも仕方ないことだ」と自らをフォローしている。
0992人間七七四年
2020/04/23(木) 17:14:34.59ID:VBDOvezt0993人間七七四年
2020/04/23(木) 20:24:37.93ID:GyP5Sdtg0994人間七七四年
2020/04/23(木) 20:53:10.48ID:P+13HH7+その割に書状の口悪い、なんなら自分のことまでばかって言っちゃうし
0995人間七七四年
2020/04/23(木) 20:54:17.78ID:sleCFADP0996人間七七四年
2020/04/23(木) 21:20:48.24ID:5cHSIyKI0997人間七七四年
2020/04/23(木) 22:02:11.81ID:f9T78GAV0998人間七七四年
2020/04/23(木) 22:05:57.97ID:gr3PAozX0999人間七七四年
2020/04/24(金) 00:08:34.57ID:qNH2KfF41000人間七七四年
2020/04/24(金) 01:07:34.33ID:6nyGY0u0戦国ちょっと悪い話48
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1587658011/
10011001
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