戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
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0874人間七七四年
2020/03/02(月) 05:21:02.73ID:Rs2dDG2O流石は頼康さんカッコいい、頼綱の小松明は戦国最後のこの戦いでも活躍したのだろうか?
0875人間七七四年
2020/03/03(火) 00:42:44.47ID:Zrb3PBKC信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。
室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。
ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。
ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。
室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。
室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。
(加澤平次左衛門覺書)
『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。
0876人間七七四年
2020/03/03(火) 06:27:25.79ID:pgqA0lOw0877人間七七四年
2020/03/03(火) 08:57:02.26ID:xH2zkPKl0878人間七七四年
2020/03/03(火) 15:04:15.57ID:YETpin/L0879人間七七四年
2020/03/04(水) 15:10:08.64ID:ip48Zz9x二本松へ御出馬されるべく、その周囲の要害を詰め落とした。
この伊達の急激な動きに、二本松義継は、重臣である二本松四天王の面々に向かって宣うた
「私が小勢を以て大敵と戦った場合、勝負は運に依るだろうか。」
「大勢に一人向かうのは益がありません。小を以て大に敵するといいますが、今当家の力を以て、伊達・田村の
大敵と対峙するのは、頗る以て難しい事です。」
こう言われ、義継はまた宣った
「それならば、私は兜を脱いで降人となり、輝宗の元に出仕して兄弟の交わりを成し、婚姻の義を約して、
先ずは事を無為にするように謀ろう。すると私が帰る時には、輝宗は悦び必ず見送るため座を立つであろう。
その時の輝宗の胸ぐらを無手と取り、縁より引き落として九寸五分の脇差を輝宗に指し当てて舘より引き出せば、
伊達家の者達もどうしてこれを阻もうとするだろうか。」
そう言って、天正十三年十月八日に、二本松義継は降人となって伊達輝宗の元に出仕した。
この態度に輝宗は斜め成らず悦び、義継を饗応する事、限りないほどであった。しばらくして事終わり、
義継は暇乞いをして帰ろうとした所、案の如く輝宗は、御門送りの御礼に立った。
ここで義継は輝宗の体を無手と取って縁の下に引き落とし、輝宗の口先に脇差を脇差を突きかけ、舘より引き出した。
そして鹿子田和泉守を始めとした一人当千の兵二、三人が輝宗を取り囲んで進んだ。
伊達側は数千の軍勢が充満してその後に袖を連ねたが、輝宗を救おうにも方法が無くただその後を追い、輝宗公に対して
逆心が犯せられた事を嘆き悲しんだ。輝宗からは他に言葉もなく、義継に脇差を突きつけられ「申すな申すな!」と
言われており、もし奪い取ろうとすれば輝宗公の御命は無いであろう。
伊達勢は驚周章騒してどうして良いのか進退を失った。その時、嫡子である政宗は御鷹野に他行していたのだが、
御鷹野場に人二人を走らせ急ぎこの事を知らせ奉ると、政宗は御物具をも帯びず、取るものもとりあえず御鷹野より
直に追いかけ、早くも平石の内、アハノスはで十里という所で政宗は一行に追いついた。
政宗はこの時とっさに考えた
『二本松義継が川を渡り二本松に戻ってしまえば、政宗がどれほど心猛くとも、輝宗公が擒となり、二本松の城にて
戒めを蒙り、捕らえて盾の面に当てられれば、伊達と二本松が戦っても、伊達が戦に勝つことは出来ない。
だからといって政宗が降参し、父親の命を請うたとしても、二本松に留め置かれ伊達に帰ることは万に一つも無いだろう。
そして二本松の旗下に成ってしまえば、伊達家の滅亡もその時である。
不孝には三つ有るという。その中でも跡継ぎの無い事が最も大きな不孝であるとされている。
そういう事であるなら、父一人を捨て、子々孫々まで伊達の御家一族繁盛させるのは、却って一家への忠孝である!』
そう思し召したのであろう、正宗公は馬に乗り掛かられると
「親共に討ち取れや者共!」
と下知した。
伊達衆はこの下知に一斉に競り掛かり、義継主従を真ん中に取り囲み、逃さぬ構えをとった。
この時、二本松義継の運命は既に尽きていたのだろう。実は義継は予め迎えの合図を定めており、二本松の兵たちは
この合図によって大勢が出てきていたのであるが、どういう間違いが有ったのか、沼によって道が隔てられた
別の場所に出てしまい、この場に一人も間に合わなかったのである。運の末とはこういう事なのであろう。
こうして二本松義継は滅亡し、そのまま政宗は二本松へ馳せ向かいこれを攻めたが、留守居の新城弾正、同名新庵が
堅固に持ち堪え降参しなかった。十一月十五日に政宗は再び攻めたが落城しなかった。このため塩松に陣を引き、
翌年三月十一日、二本松方の簑輪玄蕃、遊佐源左衛門、本宮の遊佐丹波、伐江新兵衛の四人、この他四、五人が
二本松に対し逆心し、箕輪舘まで片倉小十郎を引き込んで、本町、杉田町に火を掛けて焼き払い攻め上るのを、
城中より出向い、簑輪舘の片桐小十郎勢を散々に切り立て十人ばかりを打ち取った。
二本松は七月十五日まで籠城したが、結局開城し、そこには政宗の伯父にあたる成実が入った。
(藤葉榮衰記)
伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡について。
0880人間七七四年
2020/03/04(水) 18:33:57.72ID:KljVSlqrそういや父系だと成実は一世代上だっけか
0881人間七七四年
2020/03/04(水) 19:58:27.30ID:sqTtV4Sgややこしいな
0882人間七七四年
2020/03/05(木) 00:53:28.09ID:8eN+y0vz成実の父は晴宗の弟(つまり輝宗の叔父)、母は輝宗の妹
0883人間七七四年
2020/03/05(木) 01:39:47.06ID:1pXv6WeJ政宗は年長の父方のいとこ甥かつ母方のいとこ
母親は父方のいとこ
正室は父方のいとこ姪
継室は父方のいとこ姪かつ母方のいとこ
伊達家の家系図は複雑怪奇
0884人間七七四年
2020/03/05(木) 07:49:01.57ID:0wCMUA6t0886人間七七四年
2020/03/05(木) 15:18:45.62ID:9PH4zRefある年、盛隆公が八丁目に出馬され陣を貼り、伊達政宗公と決戦されて、伊達の軍悉く破れて引き退いた。
蘆名勢はこれを急追し、伊達の兵を数多打ち取って勝鬨を作り、そこから戻って御帰陣の時、二本松の宿を
通った。
この宿では貴賤群衆して蘆名勢の凱旋を見物したが、この時、ある町家の内に十四、五歳の容儀勝れた童が、
片手に色有る花を一枝持ち、前に書物を広げていたのを、盛隆公が見つけた。
盛隆公は少しの間、この町家の前に馬を留めると、その主人に、使いを以てその子を御所望された。
彼の父母には否やという言葉はなく、御所望にお任せすると応えると、盛隆公は御悦び斜め成らず、両親に
物の具を給わり、少年を自らの引き替えの御馬に乗せて会津へと共に帰城した。この少年が大庭三左衛門であった。
盛隆公が大庭三左衛門を寵愛し給う事限りなかった。
しかし愛楽の互いに替わることは、紅の栄えから?して落ちる樹に例えられる。まもなく君の寵愛も廃れ、
御志も枯々となった。
これに大庭三左衛門は恨みを含んでいたが、家中の譜代相伝の子たちは、三左衛門に権を取られると
安からぬ事に思い、妬ましいと思っていた所に、これを見て悦び、三左衛門に聞こえぬ所で、彼を
『鴨汁』と渾名を付けて笑っていた。これは「醒めては喰われぬ」という意味であった。
後になって三左衛門はこの事を密かに聞いて、胸塞がり心迷い、跳ね上がったように大息をついて、
昼夜これを思うに骨髄に徹し、忍びがたきこと限りなかった。
このような所に、ある人が三左衛門に向かって「今朝の(盛隆の御前での)御鴨汁の御料理に御参りになるように」
と言ってにっこりと笑った。
三左衛門はこれを聞くと、毒矢を胸に受けたよりも甚だしく堪忍に及ばず、彼を一刀に斬って憤りを休んじ、返す刀で
切腹しようと思いきったが、大汗を流してそこは堪忍した。
「これは他の誰が言ったわけではない、屋形(盛隆)の仰せである。咎なき奴を殺し徒に命を捨てるより、屋形を
一太刀討ち申し恨みを泉下に報ぜん」
と思い定めた。
「明日、盛隆公を討ち奉らん」と考えていたその晩、三左衛門は知音朋輩達を呼び集めて丁寧に振舞った。
彼は交わりを深くして酒を進め、にっこりと笑いながら客に向かってこのように言った
「昨夜の夢に、私の望みが叶う事を見ました。その内容は三日過ぎて各々に語りたいと思いますが、確かな吉夢で
ありましたので、これを喜ぶために、今朝にもと考えましたが、昼間は互いに公用重ければ、座席を急いで
立ててしまうと心残りも多いと思い、大した饗しも出来ませんが、一盃奉る饗応のために、このような夜中に
申し入れました。緩々と過ごして頂ければ辱き次第です。」
そう言って、色々と様々な肴を調え、盃を指しつ指されつ、舞い、謡い、いかにも亭主ぶり、結構華奢に興を催し、
快く酒宴を終え、夜に及んでも明朝死ぬと思う気色は少しも見えなかった。
客人が座席を立って帰る時、彼が「名残惜しい」言った言葉の意味を、客たちは後になって思い知った。
夜も明け十月十日の早朝に、三左衛門は沐浴焚香し、出仕の衣装を美麗に着、袴をつけて御広間へ出た。
丁度その時、盛隆公は御鷹を据えられ椽の柱にもられられていた。御前に近習の者達も居らず、ただ一人御座していた。
三左衛門は椽を一礼して通ったが、普段は刀を抜いて、差さずに通るのだが、この時は刀を指したまま通り、
そして振り返りざまに声を出して、一刀斬りつけ奉った。盛隆公は深手であったが「心得たり!」と御腰の刀を
過半抜かれた所を、三左衛門が二の太刀を継ぎ、斬り伏せ奉った。
そして大手の方へ走り出たが、これを追いかけ討ち留めようとする者も無く、諸人驚き騒ぎ、慌てて屋形の死骸の御傍に
群がり集まった。そのうちに侍一人が三左衛門を追って行くと、跡から人数多続き、三左衛門は二町余り逃げ延びたが
追い詰められ、打ち殺された。
彼の体を見ると、下には白き絹の衣装を着け、六文銭と数珠を首に掛けており、逃げて生き延びようとは思わなかった
ようである。
いかなる因果の報いもて主君を討ち給わったのか。さても余りある次第である。
そしてその後、盛隆公には御子が無く、会津の御家を継ぐ御方が無かったために(実際には嫡子亀王丸が有ったが夭折)、
佐竹屋形の御子に、義宣の御弟義広(蘆名義広)と申す人を御名代に立て申し、御入部ありて義広公の御代となった。
(藤葉榮衰記)
大庭三左衛門による蘆名盛隆殺害事件について
0887人間七七四年
2020/03/05(木) 16:43:30.49ID:vZLgY6tphttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200304-00000627-san-cul
0888人間七七四年
2020/03/05(木) 17:16:21.04ID:Ws5BJgAnすごいな、これ。平蜘蛛かつくもなすまで描いてあるとは…。本当に好きだったんだね。中身、爆薬じゃないよね。
0890人間七七四年
2020/03/06(金) 00:00:05.23ID:gUAe5Rwe0891人間七七四年
2020/03/06(金) 00:18:40.15ID:fRaitGr90893人間七七四年
2020/03/06(金) 10:48:00.99ID:0RBe7trE0894人間七七四年
2020/03/06(金) 22:17:40.32ID:RxaGC4uW痴情のもつれか
武家の子じゃないから家臣としてはうまく使えなかったのかな
美少年だからって適当に手を出したらいかんな
0895人間七七四年
2020/03/07(土) 03:17:50.57ID:AWISg/aYこどおじの阿呆はマスかいて寝とけ
0896人間七七四年
2020/03/07(土) 11:03:05.01ID:4mIamn/1同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。
この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。
信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。
こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。
卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。
こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)
(氏ク記)
0897人間七七四年
2020/03/07(土) 11:24:49.62ID:D3fNQvLLまるでドラマでのノブさんの最後のようだ
0900人間七七四年
2020/03/07(土) 13:08:04.80ID:3FlUNxOP「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする
0903人間七七四年
2020/03/07(土) 23:35:06.84ID:jDbW28ko0905人間七七四年
2020/03/08(日) 11:04:03.83ID:T94EJuRk瀧川左近将監一益に関東八州切り取りにし、それより出羽奥州まで打ち平らげよと遣わした。
その頃、次男北畠中将信雄朝臣は伊勢国ホクスミという所へ、大河内の城を移され松ヶ島と改められた。
また、土佐国守護の長宗我部より、四国の大将を申し乞いければ、三男神戸三七殿に四国を給わって大将に
遣わされた。この時、関安芸守盛信は江州日野に預け置かれていたが、勘当を許され、流石文武を得たる者なればとて、
本領伊勢亀山を給わり三七信孝へ付けられ四国の御供に遣わされた。彼は蒲生賢秀の娘婿であったので、日野よりも
結解十郎兵衛を盛信へ付けられた。
こうして、信孝は一万五千余騎の人数を揃えここに神戸を立って摂津国住吉に下着された。
この時、羽柴筑前守秀吉は近年播磨国に在って中国毛利右馬頭輝元と合戦し数ヵ国を切り取ったが、将軍(信長)が
今度西国に出馬あって、九国二島(九州全域)まで太平に帰せんと宣いて、諸勢に触れさせられ、、京都にて
御勢を待たれるために、先手、手廻ばかりを召し具され、信長公、信忠卿御上洛されて仮に京都に御在されたのだが、
同六月二日、丹波守護明智日向守光秀が謀反を企て、二万余騎にて攻め上がり、先ず信長公を本能寺に取り囲み、
攻め奉った。この時戦うべき士卒も無かったため、将軍も叶わせ給いはて、遂に御年四十九歳にて御腹を召し果てられた。
次に信忠卿を二条の御所に取り囲み、御腹召させ奉る。御年二十六歳にお成りであった。
数度の大事を逃れられてきた将軍(信長)であったが、光秀という御自身が御取り立ての侍によって命を失われたこと、
御果報の程を申すも中々口惜しい事共である。
(氏ク記)
「氏郷記」より天正十年の本能寺の変までの様子。長宗我部が信長に敵対したのではなく、むしろ信長に四国の総大将を
求めて来た、という描写はちょっと面白いと思いました。
0906人間七七四年
2020/03/08(日) 19:08:14.52ID:sPex4AbI信長が将軍というのは大将くらいの意味なのか、はたまた征夷大将軍なのか。いろいろ特殊な史料ですね
0907人間七七四年
2020/03/08(日) 20:15:30.80ID:U+SZeuSt0908人間七七四年
2020/03/08(日) 20:38:14.12ID:gAuGI6S00909人間七七四年
2020/03/08(日) 23:33:22.46ID:sPex4AbI0910人間七七四年
2020/03/09(月) 19:55:32.70ID:9Wi1g3Dz0911人間七七四年
2020/03/10(火) 16:37:09.05ID:B1PPJbD0官位としては右大臣と明記(やめてるはずだけど)しているし、一般名詞として使っているみたい。
0912人間七七四年
2020/03/13(金) 00:50:33.54ID:Iz+5LKKk陸奥南部の一族一戸兵部大輔政連という人は、彦太郎行朝の嫡流にして代々一戸の城主として三千石を領地していた。
天正9年7月18日夜、政連の弟一戸信州(平館の家を継ぎ千石を領地していた)は不意に政連の寝所に乱れ入り、兄政連を斬り殺した。
女房どもは大いに騒ぎ、騒ぎを聞きつけた男たちが信州に斬りかかる。
その中に政連の子出羽もおり、彼も斬り殺されてしまった。これによって代々続く名家・一戸家は断絶してしまった。
事が収まった後、南部家当主の南部信直は凶行に及んだ理由を尋ねると、
一戸信州は「兄兵部は平生暴悪にして百姓たちが困窮のあまり一揆を起こそうかと考える有様で、兄に諫言をしても聞き入れてもらえなかった。
そのため兵部を捨て子の出羽を立てて領内安泰を図ったが、誤って出羽をも斬り殺してしまい、後悔している」と言った。
信直は「兄を殺すこと汝が逆罪は八つ裂きにするとも飽きたらない。だが思うところあり一命は助けよう」
と知行を取り上げ領内から追い払った。
年月を経て、信州は領内に忍び居たが乞食同然の体で病死したという。
伝曰く この話は皆が不審に思ったが、数年後、事の次第があらわになった。
九戸政実が逆心を催し領内の大身の領主たちを誘った際に、政連にもその誘いを密かに入れたが、
政連は忠義を重んじて同意しなかったため、一戸信州をたばかり兵部を討たせたのだという。
奥南旧指録
0913人間七七四年
2020/03/13(金) 21:16:35.42ID:jPTP3wxG0914人間七七四年
2020/03/15(日) 00:54:43.96ID:BEc4Klcpその軍勢は四万余騎となって、既に雲州の月山富田城を囲んだ。
米原平内左衛門尉広綱は、今度、毛利の立花の戦線より馳せ帰って尼子方に帰伏し、その勢三千余騎にて高瀬の城に
立て籠もった。
しかし、毛利方で月山富田城の守将、天野中務大輔隆重は頑強に防衛し、またこの時、殊更に大雪が降り、
数丈の高さに降り積もって陣屋を埋めたため、空しく月を移り日を暮らした。
年が明けて永禄十三年、東風は潤い谷の氷を解かし、春雨は満峯の雪を潰した。
「今は時を得たり、急ぎ城を攻めよ!」
尼子の軍営ではそのような声が高くなった。
ところが、正月七日暮天、備後国より早馬が来て告げた
『大友左衛門入道宗麟、立花の軍で利を失い、継いで耳川にて島津義久に討ち負けた。(筆者注:ここでは永禄十二年(1569)
の多々良浜の戦いと、天正六年(1578)の耳川の戦いを混同している)
また防州においては、舎弟の太郎左衛門尉輝弘が討ち負け(大内輝弘の乱)、その死後は九州も悉く翻えって
大江羽林(毛利元就)に与力し、備後国の一揆も、軍に利無く終に討ち負け、一人も残らず滅し、見方は一騎も
無くなった。敵の軍勢は馳せ集まり、程なく八万余騎となり、近日、雲州に向けて発向すると聞こえる。
内々御用意有るべし。』
尼子勢はこれを聞くと、「なんと事々しい注進であろうか、敵が立花城を落としたその足で、防陽の軍勢が如何
蘇長したとしても、そのように俄に大軍を催せるものだろうか。」と疑義していた。
そんな中、同月十二日、毛利方の吉川、小早川は八万九千騎を率いて雲州津賀庄に侵攻し、多久和の城へ押し寄せ、
四方八方から騒動した。
多久和の守将は秋宅庵介、尤道理介であったが、僅かな小勢で城に立て籠もっても、大軍に囲まれては、ただ
追われた鼠が穴に入って蹲っているのと異ならず、そのような状況下で、どうして城を出て合戦をすることが
出来るだろうかと議して、同日の深夜、城に火を掛けて落ち去った。
この時、何者かが書いた落書が立った
『秋やけて 落は尤道理介 如何に庵を春やけにする』
多久和城の者たちは、富田の陣営をへと落ちていった。この自体に尼子勢は
「当家三軍中より選び出した庵介、道理介の両介が一支えも出来ず敗北した上は、大敵が襲来し、その鋭鋒を防ぐのは
難しい」と群士は固唾をのみ、衆議喧々となった。
この状況に山中鹿介幸盛は「萬衆一和ならぬ合戦をして、古今勝利を得たる例無し。」と、富部の城に引き退き、
月山富田城の囲みを解いた。
(雲州軍話首)
尼子再興軍による月山富田城攻略失敗についてのお話。秋宅庵介、尤道理介は、いわゆる尼子十勇士の一員ともされる
人ですね。
0915人間七七四年
2020/03/15(日) 09:59:35.09ID:yh2KYrWm「雲陽軍実記」より、尼子十勇士っていったい
にはほかに2パターンの狂歌が
「城を明落ち葉の頃は道理なりいかに伊織を春焼にする」
「城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする」
0916人間七七四年
2020/03/15(日) 10:18:10.96ID:rOhCHn6o0917人間七七四年
2020/03/16(月) 15:14:16.06ID:Wk0EwnES滝沢馬琴「燕石雑志」の「苗字」の項に
「正親町院の永禄のころより諸国の武士にて奇異なる名おほかり。
山中鹿ノ介幸盛、秋宅庵ノ介、寺本生死ノ介、尤道理ノ介、藪中荊ノ介、小倉鼠ノ介、山上狼右衛門(以上尼子の家臣)
この餘、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士
枚挙にいとまあらず。
こはみな軍陣に臨みて名告るとき敵にわが名をおぼえさせんため為るとぞ。
戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推しはからる。」
名前だけでもおぼえてもらうためにそういう名前にした、と書かれていた。
しかし尼子九牛士というのも十勇士の他にいたということになるが、
馬琴先生、「雲州尼子九牛伝」ではかっこ悪いと思って「南総里見八犬伝」を書いたのだろうか
0918人間七七四年
2020/03/16(月) 17:32:14.14ID:vH5vpMMxどうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。
山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した
「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。
この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」
そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った
「山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」
そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み
「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。
しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。
鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。
私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」
そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。
鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。
鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。
「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。
(雲州軍話首)
第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話
0919人間七七四年
2020/03/17(火) 11:52:39.52ID:nKpdqadR今でもこの地域には埋蔵金伝説がある
0920人間七七四年
2020/03/17(火) 12:10:13.79ID:DxVeY+n/吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは
「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」
として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。
こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで
「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」
そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。
(雲州軍話首)
尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。
0921人間七七四年
2020/03/17(火) 14:00:05.78ID:uq7TRT/o佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ
0923人間七七四年
2020/03/18(水) 00:45:07.98ID:PnBDOPs80924人間七七四年
2020/03/18(水) 00:51:26.24ID:F8JL/9mO天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。
河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。
猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。
一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。
中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。
かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。
翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。
( 丹州三家物語)
丹後国と一色義定、明智光秀、細川父子について
0926人間七七四年
2020/03/19(木) 02:20:30.21ID:5aU48FEL現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。
であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。
また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。
ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った
「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」
これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。
( 丹州三家物語)
細川父子の丹後入部の際の、地元の人々のあれこれ
0927人間七七四年
2020/03/19(木) 20:45:52.59ID:Zi+2cZjs0928人間七七四年
2020/03/20(金) 03:55:08.86ID:xMBLyZ5bその年の五月に細川藤孝の息女を一色(義定)殿に嫁がされた。
同十年九月八日、五郎(一色義定)殿が宮津の城に聟入りあって、細川父子に対面した。
この時、未だ宮津の城は完成していなかったため、はかばかしい座席も無く、そのため大手の内にあった、家臣・
有由士郎右衛門の宅に於いて五郎殿を饗応し、既に酒宴に及んだ。
細川藤孝が抔を一色殿に差し、五郎が抔を取り上げて、頂こうとしたその時、忠興が一色を討った。
しかし少しかわしたか、弓手の肩を討たれた。
五郎も流石壮士にて、勇猛をふるったものの、大勢が出合い、取り籠めて遂に討たれ給うた。
いたわしき有様であった。
五郎の扈従に蘆屋千八、金川与藤という者たちが有り、彼ら二人は常に一色の身近くに仕えていたため、
この時も召し具され次の間に在ったのだが、彼らについても予め討手を用意し、一色殿と同時にこの二人も
討たせた。蘆屋、金川は勇士であり、即座に抜き合い、討ち手も手負ったが、多勢に無勢であり、叶わずして
二人共討たれた。
その他の一色衆は、予め大手の門外に町家を建て、そこに置かれていたのだが、城内が何やら騒がしく、
一色討たれ給うと聞こえると、「すわ!我先に!」と抜き連れて追手の門へ入り込もうとしたが、細川衆
切って出て、大手の橋を轟かせ追い返して戦った。手負い、死人多く出て、一色方は十三人が枕を並べて討たれた。
生き残った一色衆は皆、弓木に引き取って堅固に城を固めた。
( 丹州三家物語)
細川父子による一色義定謀殺についてのお話
0929人間七七四年
2020/03/21(土) 02:23:17.00ID:7Ug6HP5N細川忠興は予てより米田監物(求政)と密談して、
「一色五郎(義定)を打ち留めた時は、汝は早く義定の居城である弓木城に馳向かい、
(忠興の妹である)五郎の室受取るのだ。もし城内の侍たちで、少しでも擬議する輩があれば、
一々に頸を刎ね城を破却して帰るべし。出馬の合図は狼煙である。」
と伝え、騎馬十四、五騎に足軽を付けて置かれた。
宮津から西に向かって、のろしが嶽よいう高山があった。この山に予め煙の役人を付け置かれ、一色を討つと等しく、
城内に煙を上げると、山上にも狼煙を立てた。かの十余騎の兵ども、その方々の一味の者、この煙を見ると
監物に従って弓木に押し寄せ、城内に言い入った
「御内室の迎えとして、米田監物ここまで来たり候也。この上は仔細無く渡し給え!」
そう申し使わしたが、城内からは返答にも及ばず、夥しい鉄砲を打ち出した。
城内には天下無双の鉄砲の上手、稲富伊賀(祐直)という者が在り、極めて正確に射撃すると、寄せ手は
たちまち死人多く出た。
監物は先ず野田の橋詰まで引き取り、重ねて使者を以て城中に申し使わした
『内室のみを渡し給わば、面々には仔細無い。只今卒爾の働きをし給う故、味方に手負いが少々出来たが、
それは武士の作法であればどうして苦く思うだろうか。これは私が、藤孝の前で宜しく取りなし申す。』
そう懇ろに申し遣わしたが、城内の評議は喧々にして、とやかくという間に、傍の者共が内室を人質に取って
後ろの山より忍び出て、但馬を指して落ちていった。
監物はこれを聞くと即座に諸鐙にて追いかけ、但馬国藤の森にて追いつき、恙無く内室を取り返して、
米田は宮津へ帰った。
(中略)
一色(義定)殿の御内室は、宮津へ帰られた後に五郎殿の打たれ給わった終始をお聞きに成り、最後の時を思い
深く嘆かれ、このように仰られた
「過ぎし八日の卯の刻(午前六時ころ)、殿は私に向かって宣われた。
『今日は細川殿と対面する。我等が家と細川殿、互いの先祖は親しくしていて、代々公方様に仕えつつ、
ここかしこの戦いに、互いに頼み頼まれて力を合わせていたと見え、そういった古き文なども残っている。
その子孫の末と成っても、昔を思えば懐かしいものだ。
それが、このように親子の縁と成ったのも、宿縁の浅からぬ不思議さよ。』
このように宣われ、誠にいつもより睦まじく、馬鞍綺麗に装わせ。弓木を出給うたのだ。
去年の夏の五月の頃に私が一色殿の元に参ってから、このように賑々しい供人で、どこの地にも出かけられた
事はなかった。私も一入嬉しくて、城の窓より見送ると、須津の浜道を過ぎられ山路にかかられた所で、
また朝霧が吹き払われてとても幽玄に見えた。しかしそこから、生い茂る松陰に見失い参らせ、
供人も見えなくなると、心の内に味気なく、そぞろに涙がこぼれるのを、忍んで人に見せなかったが、
殿が城を出られたことに涙を流したのは忌まわしいことだと思い、盃を出させ女房たちをも慰めたのだ。
それなのに、思いの外のことが有って失せさせ給う哀しさよ。このような企てが有るなどとは、私は夢にも
知らなかったが、御最期のその時に、さぞ私を恨まれたであろう。」
そう、明け暮れに嘆かれた。
( 丹州三家物語)
0931人間七七四年
2020/03/21(土) 18:57:41.06ID:cNtRGQG+0932人間七七四年
2020/03/23(月) 06:17:42.39ID:An2HW4k+0933人間七七四年
2020/03/23(月) 17:41:19.37ID:CHPz+jBH長岡の内室は光秀の娘
生き残る選択肢は少なかったと思う
0934人間七七四年
2020/03/23(月) 22:27:15.18ID:aD4lGeCD関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた
「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)
家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。
この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。
忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。
(丹州三家物語)
細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話
0935人間七七四年
2020/03/25(水) 13:20:53.94ID:mj/qOoz9もう一回原爆落とされねえとわかんねえみたいだなw
約束守れよ
0936人間七七四年
2020/03/26(木) 10:09:52.35ID:++oLtex7父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。
こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。
忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した
「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」
そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された
「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。
また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。
こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。
(丹州三家物語)
0937人間七七四年
2020/03/26(木) 12:43:09.56ID:R6yK/SZl0938人間七七四年
2020/03/26(木) 12:52:06.74ID:/s+X6SpC0939人間七七四年
2020/03/26(木) 20:16:46.18ID:MxcE7X8S0940人間七七四年
2020/03/27(金) 08:59:42.36ID:vfGRF0A/0941人間七七四年
2020/04/04(土) 19:49:08.24ID:q+WRfr9i岡山の城主である。
直家が未だ備前一国を手に入れて居ない時、上道郡沼城におられた。しかし備前は既に大方手に入れており、
徐々に美作国所々を切り取った。その頃、美作は雲州尼子家の支配下に有ったが、尼子は安芸の毛利に
押し落とされ、作州も毛利の手下に属した。その隙きを見て宇喜多は所々切り取り、備前に奪い取った。
毛利はこれを聞くと、毛利家より備中松山の城主、三村紀伊守家親に申し付け
『作州へ出勢して、作州を鎮めるように』
として、紀伊守は一万余の人数にて出勢して、宇喜多を討ち果たし作州を取り鎮めようとしている、
との事が備前に聞こえた。宇喜多直家はこれに思った
「今、所々で取り合いをしている最中に、三村は大敵であり、簡単に取りひしぐ事はできない。
である以上、謀を以て討ち取らん。」
そう考えると、遠藤喜三郎(秀清)という侍に密かに申した
「其の方は三村家親が備中成羽に在城していた時、其の方も成羽に在って、良く見知っているという。
今度、三村の元へ密かに忍び入り、討ち取る手立は無いか?一重に頼み入る。」
このように申されると、遠藤は心安く請け合い、喜三郎の弟、修理(俊通)とただ二人で作州へ忍び行った。
三村は作州穂村興禅寺(興善寺)という寺に屯して居たのを、遠藤兄弟は忍び入り、頃は八月十八日の夜、
宵の内に三村は家臣を集め、物語していたのを、障子紙を破りひそかに鉄砲にて三村家親を撃ち殺し、
恙無く退出して、兄弟とも備前に帰った。
直家は大いに喜び、喜三郎には十万石の知行を宛てがい、彼は遠藤河内守と名乗った。
弟の修理には三千石の知行を給わった。
三村勢は主を討たれて、作州より崩れて備中へと帰った。
(妙善寺合戰記)
三村家親暗殺事件について
0942人間七七四年
2020/04/04(土) 21:29:31.17ID:CHhZfdrW0943人間七七四年
2020/04/04(土) 23:52:04.55ID:IKQ5srZX0944人間七七四年
2020/04/05(日) 00:00:10.95ID:nr4P//tZ0945人間七七四年
2020/04/05(日) 00:13:22.74ID:PDO/dKKm0947人間七七四年
2020/04/06(月) 07:50:44.89ID:DaUCVK7y0950人間七七四年
2020/04/06(月) 20:14:25.02ID:QfsZRmfa0951人間七七四年
2020/04/06(月) 20:41:35.34ID:ecJp4yJv0952人間七七四年
2020/04/06(月) 22:44:42.04ID:/jHCpreHだからあったか無かったをお前らアホな頭で断ずる事は到底できないのさw
0953人間七七四年
2020/04/06(月) 22:55:54.42ID:SU3aREEw0954人間七七四年
2020/04/07(火) 01:42:34.40ID:GTsReKHF嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。
弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。
しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)
元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。
(毛利元就記)
いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。
0955人間七七四年
2020/04/08(水) 22:36:47.37ID:7j1OFAgQこの頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。
このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、
『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』
との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。
また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。
宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。
そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。
(毛利元就記)
毛利隆元の死去までについて。
0956人間七七四年
2020/04/09(木) 07:13:19.77ID:FV4Nvjb20957人間七七四年
2020/04/09(木) 07:34:26.86ID:uuQ9h7Na0958人間七七四年
2020/04/09(木) 21:06:33.59ID:6VXTQWG80959人間七七四年
2020/04/09(木) 21:16:14.83ID:sycuQPqf「youtubeに上がってるのは通俗的なものばっか。歴史好きが信長を紹介する」
みたいなこと書いてたからすげー楽しみにしてたんだが
「首巻の内容は当てにならない」としながら首巻の記事は「信勝側の主張が混ざってる」って?
それ「史実を追求する」としながら妄説垂れ流す、歴史クラスタが大嫌いな明智憲三郎とやってること一緒じゃん
戦国大名としては信長は「普通」って?全ての戦国大名がドラマチックとは言えなかったの?
で、あげく、「信長に最も似てる絵」と自分が主張する絵にカッポレ踊らせ、割烹着着せ、頬を染めさせ
「信長のイメージを変える」ではなく、「信長のイメージを壊したい」っていう目論見、浅薄なところからきた意志を感じるわ
初回で、「ホントは東国大名が好きだけど大河に便乗しました」って言っちゃったのもマズかったよね
やっぱり、全編通して冷笑系で、熱がないのが伝わってくる
素直に東国大名の誰かから初めたほうが良かったんじゃない?
これは悪い話だ。管理人の悪い話だ!
ただまぁところどころはっとするところもある。そこはいいぞ
あとツイッターで紹介してたフロイスの本面白かったぞありがとう!
0960まとめ”管理”人
2020/04/09(木) 21:56:18.05ID:JjdzMuKB動画への感想でしたらyoutubeの方か、ツイッターでお願いします。
こちらでは場違いであり、他の方の迷惑です。
あなたは匿名掲示板でなければ怖くて書き込めないのかもしれませんが、
僕はそこまで心は狭くありません。
ただし迷惑行為には厳しく対処します。
本スレの皆様には、失礼致しました。
0961人間七七四年
2020/04/09(木) 22:09:38.39ID:sycuQPqf動画だとずっと残るからよくないなと思ってツイッターもアカウントは持ってないし
どういうスレを見てるのか、他に窓口が分からんから「管理人」って名乗ってるんならまぁいいやと
スレももうすぐ終わるし。実際すぐ見てくれたのでまぁ良かったわw
俺からも謝ったほうがいい?ごめんね他の人
0963人間七七四年
2020/04/10(金) 00:58:54.03ID:Z0cMNdBb搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。
その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。
この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)
(毛利元就記)
0964人間七七四年
2020/04/10(金) 02:07:49.95ID:pF+bUfNdあれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい
0968人間七七四年
2020/04/10(金) 18:06:15.15ID:yWX2hvTc0969人間七七四年
2020/04/11(土) 03:19:39.86ID:ONtCAS+0武田晴信入道信玄は曽我五郎時致の生まれ変わりであるという俗説がある。
その理由は、ある僧が富士野を通った時、曽我十郎祐成の幽霊が現れた。
「私の弟の時致は生前『法華経』を読経するという功により、甲斐国の領主武田大膳大夫晴信入道信玄として生まれ変わったのだ。
しかし私は女色に愛着していたので、今は六道に沈淪している。
どうかこの旨を信玄に告げて彼に私の弔いをさせて頂けないか?」
と頼んできたという。
この俗説を考えてみるとしよう。
まず、そもそも再生輪廻の事は理にない事である。
これだけでなく他の理由も今しばらく俗談から検討したいと思う。
曽我五郎時致は淫奔放蕩の謗りがあるといえど、工藤祐経を討って父の仇に復讐した。
取り所がない者ではない。
武田入道信玄は彼とは異なっている。その罪悪が際立っているものに、父信虎を追放して甲州を領した事が挙げられる。
「不得乎親 不可以為人」という言い伝えもある通り、人に非ざるのなら禽獣である。
ただし虎狼に父子の親しみあり、セキレイに兄弟の情ありという。禽獣にもしかずと言えるだろうか。
ところが物は類を以て集まるというのが世の習いである。
その臣の高坂弾正は主の不孝不義を諫めないだけでなく、信玄が父を追い出したという事実を断りながらも「一生『論語』を手に取られなかった」と『甲陽軍鑑』に記している。
晩年になっても『論語』を手に触れていたら、不孝を悔い旧悪を改める心も有ったのだと思うとひどく恨めしい。
これだけではない。降った諏訪の大祝頼重を誅して所領を奪い、その娘を頂き妾とした。
この妾の讒言により太郎義信飯富兵部を殺害し、欲にふけって親しきを忘れ甥の今川氏真を押し倒して駿州を奪った。
取り所のある人ではない。
(広益俗説弁 続編)
信玄が曽我五郎の生まれ変わりだったという説話があった事も驚きだけど、信玄の人格を否定することで俗説を批判しているのも面白い。
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