戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
0830人間七七四年
2020/02/06(木) 23:29:58.29ID:PE7MHHeN武士の口上は戦闘力と同等に大事
0831人間七七四年
2020/02/07(金) 00:58:18.23ID:ho3rY9kO仕留めるために充分に準備してた稲葉正休って例があんのにだっさいわー
みたいなこと言われてたはずなんで、やっぱ口上よか本懐遂げるのが重要かも?
0832人間七七四年
2020/02/07(金) 06:33:08.17ID:uaynckgV0834人間七七四年
2020/02/07(金) 09:49:33.76ID:knDHv29+0835人間七七四年
2020/02/07(金) 10:06:27.59ID:rWSfBsWj0836人間七七四年
2020/02/07(金) 13:14:39.06ID:xFe63+7P0837人間七七四年
2020/02/07(金) 14:31:37.94ID:zDEfqtYsその彼女がある時、故郷の見廻りのためとして御暇を申し上げ罷り帰った。この時謙信公は取次の
女房に、「三月二十日の前後、日限を違わず故郷より戻り出仕すること。」と、堅く申し聞かせた。
彼女はいつも故郷を懐かしみ、また謙信の申し付けを聞かない事があったという。取次の女房はこれを承ると、
くどくどしいほど申し付けた上で帰郷させた。
しかし、三月二十日が過ぎてもこの娘は出仕せず、四月上旬になっても故郷に逗留していた。取次の女房は
気遣いの余り飛脚を仕立て指し寄こし、彼女を呼び出した。
四、五日経て後、謙信公は彼女が戻ったことをお聞きに成ると、御不斷所に召し出し「人や候」と
仰せに成ると、御小々姓の荒尾助九郎という者が罷り出た。謙信公は彼にこう仰せになった
「この女、去る仔細あり。只今ここで成敗仕れ。女なる故に私が直にはせぬ。」
荒尾はこれを承ると『少しでも遅々仕るにおいては、我が身が全う出来ない。』と思い、御声が下されたと
同時に脇差を抜き、彼女が小首を傾ける前に討ち落とした。
総じて謙信公御家中にては、死罪の者は他を十とすると二、三のみであった。
ただし死罪に及んだ者は、事によって侍であれば、半分は御前に召し出され、御坪の内などにて
三十五人衆(謙信に仕えた主な武将の総称)に仰せ付けて処刑させ、稀には自身で遊ばされた。
太田三楽はこの事を後日承ると、北條丹後にこのように語った
「貴方の主人である謙信公は、御武勇の義はさて置き、それ以外の御気質を総じて見奉る所、
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人であろう。つまり生まれつき、怒りやすくその感情のまま
致す事が多いという癖がある。それ以外は、或いは猛く勇み、無欲清浄にて器量大きく、廉直にして
隠すことはなく、明敏にして下を察し士を憐憫して慈しみ、忠諫を好んで容れられる。
このように、末世の現代に於いて有難き名将であり、故に八つは賢人と訓し申したのだ。」
そう談笑して去った。
(松隣夜話)
女色を絶ったと言われる上杉謙信にも、こんな側女(?)についての逸話があるのですね。
0838人間七七四年
2020/02/07(金) 16:05:08.31ID:hMqyTt4h0839人間七七四年
2020/02/07(金) 16:22:35.91ID:ho3rY9kOあと謙信の場合は侍相手なら召しだしてからそれなりにえらいやつとか自分で切るって書いてあるけど
他の家中だとこれも異質ってことかね?
0840人間七七四年
2020/02/07(金) 20:19:23.39ID:mdwM2iW9取次の女房さん、荒尾さん、良かったね
0841人間七七四年
2020/02/07(金) 20:29:32.95ID:G1IjvwLA0842人間七七四年
2020/02/07(金) 21:34:34.53ID:b2xkCiqJ0844人間七七四年
2020/02/08(土) 12:00:46.21ID:BWjBwiP7「楠氏は正成以来十代に渡り朝敵となり無礼を働いていましたが、勅許により河内守に任じられたこと、喜ばしいですね、云々」
自称、楠正成の子孫だったのが正親町天皇の綸旨により正式に楠氏と認められたようだけど
戦前の人が見たら激怒しそうな内容
ところで三好氏関連の研究を読んでたら三好長慶の部下で摂津渡辺党の渡辺稙という人物が出てきたけど、
「稙」が偏諱だとしたら、一字名の嵯峨源氏の場合は偏諱がそのまま名前になるということだろうか
0845人間七七四年
2020/02/08(土) 12:10:07.73ID:BWjBwiP7ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」
によれば上杉謙信は経済的争いではなく剣を持って戦うという、遊びへの規律に忠実な人間だとか
0846人間七七四年
2020/02/10(月) 11:20:50.70ID:a2Lko6Se本多忠信は本多百助信俊(忠政)の弟。九鬼氏の娘を母として誕生しており、内藤正成の息子を養子としていた。
さて忠信は家康に仕える旗本であったが、関ヶ原の合戦の際、親族にあたる縁から九鬼嘉隆への御使として派遣された。ところが嘉隆はすでに石田三成方に心寄せており伊勢国朝熊において忠信を殺害したという。
忠信の横死後は正盛が跡を継いだ。時は流れて家康の死後、この正盛は東宮社造営の副奉行という大任を賜った。
ところが同輩の山城宮内と口論となり、挙げ句の果てに激昂した正盛は山城を刀の鞘で打ち据えるという暴行を働いたと言う。山城はこの狼藉が原因で切腹してしまった。
正盛は重要な時期に騒動を起こした責任を追及され、東宮社完成と同じ月に松平成重にお預けの上、自刃を命じられた。日光市の福生寺に現在も墓が残っている。
0847人間七七四年
2020/02/10(月) 20:43:43.20ID:cqjS9g5V偏諱をもらえるような身分じゃなくね?世代も違うし
仮に偏諱なら肥前松浦党の弘定、興信、隆信、鎮信のように2文字にしてるんじゃないかな
0848人間七七四年
2020/02/12(水) 01:56:21.40ID:4qsmf9PP上杉謙信公と無事(和睦)を成し、御末子三郎殿を越後へなりとも前橋になりとも、差し越す旨を、
北條丹後(高広)、同伊豆守方まで仰せになった。
北條は直ぐに越後へ戻り、諸老方と相談の上、謙信公へ申し上げると、無事和睦は整った。
この時謙信は
「さしもの氏康の御息この方に申し請けるのに、人質というのは然るべからず。」と有り、養子と
される事に定まった。
先ず前橋まで罷り越し、彼の地に於いて対面をなされた。両家の侍各々会集し、慇懃の儀式であった。
この時北条家側は、氏康が病中であり、嫡子の氏政、および源蔵(氏照)が罷り越して在った。
北条三郎殿が養子になった事について、上田の長尾政景とその家門の者達は悦ばなかった。
この政景という人物は、上杉景勝公の実父であり、去々年以来その景勝が謙信の養子になっている故であった。
景勝は若年と言えども謙信の気持ちをよく察し、三郎との関係も好かった。
しかし謙信公は、政景が内々随わない事について奇怪に思われ、殿中に召し出すと長尾小四郎(景直)に命じて
成敗させた。そして政景の親族家臣、上下二百余人が政景の館に立て籠もって戦い、死んだ。
この討ち手もまた長尾小四郎であった。
(松隣夜話)
ここでは長尾政景が謙信に誅殺されているのですね。一族ごと。
0850人間七七四年
2020/02/12(水) 17:01:33.36ID:ilfBcm73>>847
波多親は元服したとき大友義鎮の偏諱を受け鎮と名乗っている
その後龍造寺に降り隆信の偏諱を受け信時と名乗った
1文字の名はある
0851人間七七四年
2020/02/12(水) 19:29:48.76ID:0rbCMIDw0852人間七七四年
2020/02/13(木) 20:36:06.84ID:UALFhqby元和七年に毛利輝元が嫡男・秀就に宛てた二十一箇条の訓戒状の中で
改易された福島正則について触れているので抜粋&意訳。
一、福島左衛門(正則)などは、その身利根才覚に優れ上様の御前から漏れることが
ないような方でしたが、国での行儀が悪いことを、内々に(上様が)お聞きに
なってしまいましたので、かくのごとく(改易に)なりました。
――『毛利家文書 一一五三号』
0853人間七七四年
2020/02/14(金) 20:48:37.35ID:HXa/yUPB/,シ/ィ /lj !ヽヽヽヽ\
// / ///l|ハl | ヽ丶ヽヽヽ
,.'// 川 | | |l-ゝ! 、 ! | l l | l ヽ
!イ //!j !l | l、ゝ==、` lj y'jヾjノ
| !/,.- 、!|ヾ!` ヽヾ;;シ ィ;}'´
l ハ rソミ、 `''" 丶ヽ
ヽ!j,ヘ、ヽ,! "" _ j
ゞ彡ゝ、 u /
| rヽ`フヽ _____/
! lハYゝ,l !
j /∠ミヽ ヽ、_ ゝ- 、
l/ l ヽミΞ=-ニヽ_!lト、
御前賀 夕菜(1991〜 日本)
0854人間七七四年
2020/02/14(金) 22:18:31.52ID:5WMuj2xH(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。
明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。
そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。
「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。
――『寛政重修諸家譜』
後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。
0855人間七七四年
2020/02/14(金) 22:32:38.01ID:do7+uUyC0856人間七七四年
2020/02/15(土) 00:52:53.38ID:7kNkFxgR北条に与していた大村伊賀守は徳川軍を相手に大野の砦に籠もっていた
しかし、奮戦の甲斐無く砦を落とされ、大村伊賀守は自分が着ていた鎧を笛吹川に投げ捨て自刃した
後日、大村伊賀守が自刃した場所に家康自ら巡検に来たところ、その大村伊賀守が捨てた鎧は沈んでおらず、不思議と川に浮いて留まっているのを見つけ、家康はそこの淵を「鎧淵」と名付けた
0857人間七七四年
2020/02/15(土) 00:55:46.41ID:7kNkFxgR0858人間七七四年
2020/02/16(日) 00:24:08.49ID:mq716C2iいい話の大蔵って盗賊切ったからその刀大蔵って名前でどうとかもそうだけど
名付け方そのまんますぎるやろ家康
0859人間七七四年
2020/02/16(日) 16:56:11.46ID:ePEqh7qg0860人間七七四年
2020/02/20(木) 12:06:22.09ID:Cr1Ny+sS0861人間七七四年
2020/02/21(金) 11:58:53.50ID:MhfiBKEZ天正18年に発生した葛西大崎一揆のあと、葛西・大崎13郡は伊達政宗に与えられたが、地元民による伊達氏への怨恨はあまりにも強かった。
そこで政宗は伊達氏の領下で盛んに演じられていた御国浄瑠璃(奥浄瑠璃)を利用することを思い付く。
当時の葛西・大崎13郡となる陸奥国中部では安倍氏の時代以来、坂上田村麻呂の本地仏を毘沙門天とする田村信仰が盛んであったこと。
また正室の愛姫が坂上田村麻呂の子孫を称していたことから、室町物語『田村の草子』を伊達氏に結びつける形で改編、御国浄瑠璃『田村三代記』を陸奥国中部で演じさせた。
例えば『田村の草子』では悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた藤原俊仁(=藤原利仁)が陸奥国田村郷の賤女と契りを交わして田村丸俊宗(=田村麻呂)が誕生する場面がある。
これを悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた田村利光が陸奥国三春の悪玉姫と契りを交わして田村丸利仁(=田村麻呂と利仁)が誕生すると改編した。
理由は演じられた地域の神社やお寺の縁起を『田村三代記』に合わせて書き換えるため。
他にも鈴鹿山の大嶽丸を陸奥霧山の大嶽丸へと変更し、清水寺の建立を陸奥国に田村大明神として現れる(=田村信仰へと結びつける)物語にすることで、プロパガンダを通じて伊達氏が支配の正統性を植え付けた。
この政宗によるプロパガンダの影響は甚大で、戦国時代中期に仙台藩の社寺の縁起を調査した仙台藩士・佐藤信要が『封内名跡志』で「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」と匙を投げるほど50を超える寺社の縁起が上書きされていた。
プロパガンダが効きすぎて、地域の歴史を遡れなくなったのである。
東北地方で田村麻呂を利用したプロパガンダは有効であったようで、慶長4年に盛岡城へと移った南部信直と南部利直親子も行っている。
こちらは鎌倉御家人・工藤氏から続く岩手山祭祀を南部氏による支配に合わせて改編した。
0862人間七七四年
2020/02/21(金) 12:05:26.80ID:MhfiBKEZ北上川流域の毘沙門天信仰の地域では田村麻呂で上書きしつつ
そこから離れた領内では田村麻呂の母親で上書きしてる
子安地蔵は田村麻呂と立烏帽子の娘にしてたり
地域全体を使ってのプロパガンダを行えたのが凄いとかなんとか
0863人間七七四年
2020/02/21(金) 12:09:19.65ID:MhfiBKEZ平泉雑記を書いた相原友直が「田村麻呂しかでてこねーじゃねーか」って本を残しまくる事態に陥ってる
大半の神社や仏閣の本来の歴史が「政宗から3代くらいの間に書き換えられた」しか判明しなくて残念だと
0864人間七七四年
2020/02/22(土) 03:07:15.27ID:r7zQrgd2関東小田原の北条家家老衆は各々協議した
「越後の上杉謙信が来春上洛の為、武田勝頼を旗下とすると言います。両旗の人数おおよそ六万騎、勝頼は
三州濃州に働き、越後勢は越前より江州へ直に押し通り、都を志して上洛するという話が聞こえる事大です。
この話の通りであれば、信長家康に謙信勝頼の鑓を支えることは難しく、彼らは謙信の旗下と成るか
そうでなければ切腹すること疑い無い。近年、謙信公はいよいよ軍の鍛錬を重ね、軍を上手にされており、
その威勢強き事言葉にも及ばない。必ず天下の主となるでしょう。その果報でしょうか、去年より謙信の
敵と成るものは疫病を受けて死ぬと聞きます。
勝頼も信玄ほどの工夫が無いため、長篠にて不慮の遅れを取り、信玄取り立ての名人が悉く討ち死にしたため
威勢衰えると言いながらも、猶以て能き者数多残り、鑓向の強きことは前代に劣らず、それを謙信が指図して
備を出すのであれば、この両旗に対し敵する者は、首を切られないと言うことは無いでしょう。
氏政公は謙信に対しても勝頼に対しても、現在は御縁者であります。それに、信長が滅亡した後になって
祝儀を仰せに成っても宜しくないでしょう。来春、謙信と同様に、此の方からも御馬を出し、武田と牒を
合わせ、家康を追い立て尾州江州までも御発向無くては叶わぬ道理であります。
長きものには巻かれよと申す諺に相任せ、謙信に兎にも角にも異見を任せ給えば、行末目出度いでしょう。
武田も高坂弾正という家老が勝頼に能く異見をして、謙信幕下に属すると言います、油断すべきではありません。」
このように北条氏政へ異見した所、氏政は同意し、北条幻庵、多馬左近両人が先ず前橋へ行き、氏政は
三郎殿(上杉景虎)へ合力のため、来春三月十六日に三万五千にて遠三尾濃へ働き、謙信公御下知を
相待つという事を北條伊豆守を以てこれを申し、甲州にもまた使者を送った所、武田の諸勢は長篠の遺恨を
この時に至って一時に散らさんと、各々大変に勇み喜んだのである。
(松隣夜話)
上杉謙信の「上洛」についてのお話。この中に出てくる高坂弾正は、甲陽軍鑑の中では勝頼に、北条家の
旗下に成るよう諫言しているわけですが、ここでは謙信の旗下になるよう諫言しているのですね。
0865人間七七四年
2020/02/23(日) 13:39:09.80ID:sdz3uCRa甘糟近江、長尾小四郎、本庄清七、以下数人料理の参会があった。饗膳事終わり茶話の時、直江がこのように
申した
「各々も定めて同志でありましょうが、今日、日本国に於いて大身小身、名将劣将、これ数多あり、
その内選んで主人に仕るという時には、東国の太田三楽と、我が君たる謙信公に如くは無しと、他家よりも
そのように沙汰されるそうだ。惜しきかな太田三楽は、翻胃という悪病に罹り、今日明日を知れぬと
承っており、あなた方も、は非常に無念に存じられ、痛ましいことだと思われるでしょうが、これについて
私はこの頃、寝食も快からぬほど、思っていることがあります。それが何かと言えば、謙信公の御在世が、
長久有るまじきように了見しているからです。
勿論私は凡夫でありますから、どうして未来を知ることが出来ようかと思っていますが、近頃不祥に見える
ものが一方成りません。一つには、謙信公は去年より御病気にも成られていないのに、日を追って体のお肉が
落ちてきています。二つには、御自身が、御自世を短く思し召されています。三つには、我が君である
謙信公が持たれている善悪を鑑みるに、勇鋭であり、無欲であり、聡明であり、正直であり、義理が有り、
慈悲が有り、智恵が有り、明敏であり、小国である日本は言うに及ばず、おおよそ大唐天竺までこのような
大将はおられません。
その悪を申す時は只一つ、お怒りが常々強く、不仁を憎み給う事が甚だしい、という事計りです。これについて
各々も私も、御前において聊か申しました。ところがこの一両年、お怒りに成るということが殆ど無く、不祥の
者であっても猶以て御恵を加えられます。そのようであれば、誠にいわゆる円満徳の名将とも、この人を
申さずしては古往今来誰を申すべきでしょうか。
しかし承り及んでいる所では、天地造化の理は、完全というものを与えず、完全に成ろうと欲する時は、
天必ずこれを欠くという、聖人の言葉があるそうですが、恐れても余りあるのはこの一言です。
甲斐の信玄が末期の時、このように言われました。「信長家康には果報が有る。彼らが必ず天下の主と
成るためには、法性院(信玄)が先に死んで、謙信も死ぬ必要がある。この二人のうち、もし一人残って、
あと五年生存すれば、信長家康は滅びるだろう。しかし謙信も五年以内に必ず死ぬだろう。」
この事も思い合わし、心に掛かっております。
各々の存念、もしこの意見と違い、そうではないという道理が有るという事ならば、その一言を頂いて
私の所存を晴らしたいのです。」
こう語った所、甘糟近江、河田豊前、長尾小四郎は同音に申したことには
「これは如何なる凶事であろうか、我々も大和守の御所存と相違わず、かねてより考えていたところで、
参会するたびに三人で世を危ぶんでおりました。しかし大和守殿も同じご了見であるとは。これについて、
丹州、豆州はいかに思し召すか?」
こう問われ、北條丹後、同伊豆、本庄清七、以下四、五人の諸将は一言の反論にも及ばず、ただ今にも
そのように成るかのように、愁傷されたことこそ不思議である。
(松隣夜話)
「謙信公、最近怒らなく成ったからもう長くないんじゃないか。」というのもある意味生々しいと言うか。
0866人間七七四年
2020/02/23(日) 13:56:57.46ID:n44l1s/h0867人間七七四年
2020/02/28(金) 12:52:49.78ID:W47loJzA山城持ち上げたいばかりにエピソード創作したんだろう
0868人間七七四年
2020/02/29(土) 09:12:56.97ID:DnRDXe5n夫婦地蔵の伝説
三浦市の新井城近くにある夫婦地蔵の謂れ。
三浦道寸義同と北條早雲の合戦の折、引橋の近くに茶屋を営む老夫婦が居た。
そこへ1人の百姓が訪れ、老夫婦と世間話に及び、話が弾むうちに人の良い老夫婦は百姓に三浦氏の事から新井城の様子までを喋ってしまった。
これから暫く後、三浦方は1人の男を捕らえ、北条方の間者であるとして処刑した。老夫婦の茶屋を訪れた例の百姓であった。
後に新井城が落ち三浦氏が滅亡した際、茶屋の老夫婦は自分達が間者に城の事を話したせいで三浦一族が滅亡したのではないかと自責の念にかられ、心中してしまったという。
近隣の者らはこの事を知ると、茶屋の跡に地蔵を建て夫婦の霊を慰めた。
「三浦半島の史跡と伝説」 松浦豊著
0869人間七七四年
2020/02/29(土) 21:12:04.74ID:da+cNF5Z三浦市の新井城近隣にある義士塚について。北条早雲との戦いを繰り広げていた三浦道寸義同には荒次郎義意と言う息子がいた。
彼は身の丈・七尺五寸(2m25c)、五尺八寸(1m85cm)の大太刀を奮って戦うリアルホンダムか西に真柄直隆あれば東にこの人ありとでも言うべき荒武者であった。
その逸話については既出であるが、ある日の戦場でも荒次郎義意は陣頭に立って大暴れしていたが、彼の前に敵うもの無く北条方は攻めあぐねていた。
戦線が硬直する中、北条方4名の剛勇の若武者が荒次郎義意に戦いを挑む。だが、この4名をもってしても義意は討たれること無く、4名の若武者は敗れ逆に命を奪われそうになった。
しかしここで義意の父、三浦道寸が待ったをかけ若武者4人の勇気を褒め称え、世に役立つ勇士となるだろうからと、彼らを解き放ち返してしまった。
若武者らはこれに感じ入り、いつか恩返しをしようと誓い戻っていった。
それから新井城が落ち、三浦氏は滅亡。道寸もその息子義意も自害して世を去る事となった。
これを知った先の4名の若武者らは今こそかつての恩返しせんと、連れ立って新井城または新井城を望む場所にて腹を切り、三浦親子に殉じた。
新井城近隣の者達は彼ら4人を4つ(彼ら4人と別に新井城の戦いの戦死者や刀剣を供養した塚もあったと言う)または2つの塚に葬りねんごろに弔ったと言う。
だが、今ではこの義士塚も宅地開発などによって1つとなってしまい、その由来を知る者も少なくなっていると言う。
0870人間七七四年
2020/02/29(土) 21:14:03.53ID:kvEn4uQ7幕府方である真田信吉の陣では、合戦前に諸侍座陣し、鑓を膝に載せ、兜の錣(しころ)を傾け備えていたが、
この時城方より撃ち懸かる鉄砲の音は、百千の雷の如くであった。
そのような中、湯本三左衛門は頭を振り上げて、大阪城を睨みつけ、左右を見廻して声高に言った
「朋輩衆は、何れも定めて我も我もと思っているだろうが、この三左衛門に於いては、秀頼の首を!と存じているが、
ともかく大方は、この中で一番の高名を仕るであろう!」
傍に居並んでいた、三左衛門の端方の伯父である横矢惣右衛門はこれを聞いてたしなめた
「やい三左衛門、ここに歴々が御座有る中で、未だクチバシも青い体にて、推参慮外の言を云うものかな!」
三左衛門はそれに言い返した
「何を惣左衛門殿は言いなさるのか。合戦がいま始まれば…」
と、この申しばなを言った所で合戦が始まり、この口論は止まり、面々は我劣らんと働いた。
(三左衛門答テ曰ク何ヲ惣左衛門トノハ謂ナサルナ軍ハ今初リ申ハナ聴テ軍初リケレバ面々吾ヲトラシト働ク)
そして湯本三左衛門は、言葉通り一番に高名した。
一方の横矢惣右衛門は、敵陣へまっしぐらに乗り込んで鑓を合せ太刀打ちをして、数ヶ所の鑓傷、太刀傷を
手負いて働き難くなり、このため自陣へと引き返した。
既に半途まで帰った時、味方に会い併せ、彼らは惣右衛門を「高名をはせた朋輩たちの中でも殊の外見事である。」
と讃えた。惣右衛門は彼らに尋ねた
「湯本三左衛門はいかが致したか?」
「彼は一番の手柄にて、しかも折付きの首(兜首の事か)を提げ、只今旗本へ参っております。」
惣右衛門はこれを聞くとハラハラと涙を流し
「朋輩衆よ、親の左近と、せがれの新五郎とに目をかけて下されよ。」
と言い捨てると、馬を進め敵陣へ再び駆け入り、討ち死にをした。
(眞田氏大坂陣略記)
0871人間七七四年
2020/02/29(土) 21:33:23.59ID:5YMD1mBS0872人間七七四年
2020/03/01(日) 02:58:06.82ID:vZ/swqht自分達の存在意義が否定される時代がすぐそこまで来てて、この先はもう死に場所すら無いんだよ
関ケ原から大坂冬の陣の間に、皆がそれを実感したんだろうと思う
0873人間七七四年
2020/03/02(月) 02:37:29.84ID:YMbOnqIi幕府方、真田信吉勢の矢澤但馬、原郷左衛門、禰津主水は下人を数多引き連れ敵に向かって進み、矢澤但馬は
暫く馬を止めると暫く控え、敵の色を見て左の方へ乗り下ろし、この時
「郷左衛門も主水も、己の馬に乗ってこちらに来るように。」と言った
原郷左衛門はこれに答えて曰く
「やあ、但馬殿はおかしな事を仰せに成るものかな!座敷に有っては御家老と申し伯父とも申し、大身にて
ありますから、我等も跡に属して回ります。しかし、以下ここにては聞きたくもない!」
(ヤア但馬殿ハ可咲言ヲ仰セラルル者哉、座敷抔ニテコソ御家老ト申伯父ト申大身ニテ御座有故ニ跡ニ属テ回レ
今爰ニテカ聞度モ無)
そう言って真っ直ぐに突撃し、討ち死にした。
彼は討ち死にと兼ねて思い定めており、死生に拘らずと言っていたという。
また禰津主水のオトナ(家老)である小林金太夫は、主水が但馬殿が向かった方に定めて行くだろうと考え、
主の馬の口を取ってその方に向けた所、主水は怒りだし「知らぬことだ!」と言って原郷左衛門の向かった方へ
真っ直ぐに進んだ。
そして、少し面上りの場所にて歩兵の敵と鑓を合わせ、「鑓を付けて参った!(敵を突きしとめた)」と声を上げ、
その鑓を引き抜こうとした所に、また別の歩兵の敵一人が、主水と戦っていた歩兵を助けに来て、その鑓を以て
主水の弓手(左)の乳の上より馬手(右)の脇まで突いてそのまま引き返した。
その働きの脇で、小林金太夫は敵が鑓を以て内兜を突いてきた所を、顔を振ってそれを避けたが、左の頬を
横に突かれた。しかし少しも怯まず、とっさに飛びついて斬り倒し、そのまま乗り掛かって体を押さえ、
主人の方を見て
「檀那!これを高名になされよ!」
と声を上げた。しかし主水は「俺は手負うた。水をひとつくれよ。」と言いながら馬上より落ち、死んだ。
金太夫は押さえつけていた敵を捨てて走り寄り、「檀那、甲斐無し!」と叫んだが、既に息絶えていた。
そのため金太夫は、朋輩の須加伝助、杉原仁兵衛、同心の剣持ち・喜左衛門、大畠小兵衛、青木九右衛門、
馬取の作右衛門を招き、如何せんと嘆いた。
その時、関東の軍勢は崩れかかり追い立てられていた。青木九右衛門は当時十八歳であったが大力であり、
主人の屍を、長刀を守木にして軽々と背負い、三町余りを一息に走り退いた。
主水には百人ばかりの下人が付いていたが、この時九人の他は連れて行いなかった。
矢澤但馬は、敵が崩れて引いていく方向を見定めて、先立って待ち受けて功名した。
またこの勢とは別に、禰津伊予、湯本源左衛門などが懸った所は、大きな沼が有り、その沼を廻って
進んでいる間に敵軍は敗走して、逆方向の左へ引き退いた。このため上田衆も沼田侍も、一騎も
戦うことはなかった。備中衆には討ち死にが多く有ったという。
(眞田氏大坂陣略記)
0874人間七七四年
2020/03/02(月) 05:21:02.73ID:Rs2dDG2O流石は頼康さんカッコいい、頼綱の小松明は戦国最後のこの戦いでも活躍したのだろうか?
0875人間七七四年
2020/03/03(火) 00:42:44.47ID:Zrb3PBKC信州国中を従えんと企み、先ず室賀兵部太夫(正武)を討つべしと、一門が一手になって室賀の館へ押し寄せた。
兵部太夫は自ら討って出て、篠山において火の出るほどに戦い、互いに郎党が討たれ相引きに撤退した。
しかし翌日に安房守勢はとって返し攻めかけたことで、室賀方は内より和を乞い、これを安房守も許して
帰城した。
室賀は真田に屈することを無念に思い、翌天正十二年六月、家臣の高井彦右衛門尉を以て遠州の家康公にに申し上げた所、
家康公より「何としても謀を以て真田を討つべし」と仰せ寄越された。室賀は斜め成らず悦び、真田を油断させるため、
いよいよ以て上田を訪問し彼らに懇切にした。
ある時、上方より囲碁の上手が上田を訪れたため、室賀も彼と囲碁を囲む事に招待された。室賀は「良き時節」と心得、
日限を定めて、同苗孫右衛門を以て、『来月七日に真田が居城へ碁の会に参り候。その時昌幸を討とうと考えており、
御加勢を下さりますように。』と。家康の重臣である鳥居氏の方へ申し使わした。
ところが、この孫右衛門が内々に安房守へ心を通じており、そこから直に上田へ行き、この旨を申した。
昌幸は悦び、孫右衛門を馳走して返した。
室賀は準備が整ったと思い、家の子の桑名八之助、相澤五左衛門尉、堀田久兵衛などを従えて上田に参った。
昌幸は兼ねて用意のことであり、彼を書院へと招いて囲碁を始めた。
この時、昌幸方で、室賀の討ち手は長野舎人、木村戸右衛門と決められており、この座にあった
禰津宮内大輔、麻里古藤八郎、長命寺、安楽寺、などの合図があると、長野、木村は次の間より太刀を抜いて
乱入し、室賀兵部太夫を無情にも殺したのである。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田たちは聞くより早く殿中に斬り入って散々に戦い、三人共に項羽の勇を
顕したが、多勢の敵に取り囲まれ、遂に生け捕りとなった。
この三人は後に心を変じて真田に仕え、無二の忠を尽くした。この時、桑名八之助は深手を負った。
室賀に於いては、この事を聞くと、妻、子供たちは取るものもとりあえず甲州へと落ちていった。
(加澤平次左衛門覺書)
『真田丸』でも描かれた、室賀正武謀殺のお話ですね。
0876人間七七四年
2020/03/03(火) 06:27:25.79ID:pgqA0lOw0877人間七七四年
2020/03/03(火) 08:57:02.26ID:xH2zkPKl0878人間七七四年
2020/03/03(火) 15:04:15.57ID:YETpin/L0879人間七七四年
2020/03/04(水) 15:10:08.64ID:ip48Zz9x二本松へ御出馬されるべく、その周囲の要害を詰め落とした。
この伊達の急激な動きに、二本松義継は、重臣である二本松四天王の面々に向かって宣うた
「私が小勢を以て大敵と戦った場合、勝負は運に依るだろうか。」
「大勢に一人向かうのは益がありません。小を以て大に敵するといいますが、今当家の力を以て、伊達・田村の
大敵と対峙するのは、頗る以て難しい事です。」
こう言われ、義継はまた宣った
「それならば、私は兜を脱いで降人となり、輝宗の元に出仕して兄弟の交わりを成し、婚姻の義を約して、
先ずは事を無為にするように謀ろう。すると私が帰る時には、輝宗は悦び必ず見送るため座を立つであろう。
その時の輝宗の胸ぐらを無手と取り、縁より引き落として九寸五分の脇差を輝宗に指し当てて舘より引き出せば、
伊達家の者達もどうしてこれを阻もうとするだろうか。」
そう言って、天正十三年十月八日に、二本松義継は降人となって伊達輝宗の元に出仕した。
この態度に輝宗は斜め成らず悦び、義継を饗応する事、限りないほどであった。しばらくして事終わり、
義継は暇乞いをして帰ろうとした所、案の如く輝宗は、御門送りの御礼に立った。
ここで義継は輝宗の体を無手と取って縁の下に引き落とし、輝宗の口先に脇差を脇差を突きかけ、舘より引き出した。
そして鹿子田和泉守を始めとした一人当千の兵二、三人が輝宗を取り囲んで進んだ。
伊達側は数千の軍勢が充満してその後に袖を連ねたが、輝宗を救おうにも方法が無くただその後を追い、輝宗公に対して
逆心が犯せられた事を嘆き悲しんだ。輝宗からは他に言葉もなく、義継に脇差を突きつけられ「申すな申すな!」と
言われており、もし奪い取ろうとすれば輝宗公の御命は無いであろう。
伊達勢は驚周章騒してどうして良いのか進退を失った。その時、嫡子である政宗は御鷹野に他行していたのだが、
御鷹野場に人二人を走らせ急ぎこの事を知らせ奉ると、政宗は御物具をも帯びず、取るものもとりあえず御鷹野より
直に追いかけ、早くも平石の内、アハノスはで十里という所で政宗は一行に追いついた。
政宗はこの時とっさに考えた
『二本松義継が川を渡り二本松に戻ってしまえば、政宗がどれほど心猛くとも、輝宗公が擒となり、二本松の城にて
戒めを蒙り、捕らえて盾の面に当てられれば、伊達と二本松が戦っても、伊達が戦に勝つことは出来ない。
だからといって政宗が降参し、父親の命を請うたとしても、二本松に留め置かれ伊達に帰ることは万に一つも無いだろう。
そして二本松の旗下に成ってしまえば、伊達家の滅亡もその時である。
不孝には三つ有るという。その中でも跡継ぎの無い事が最も大きな不孝であるとされている。
そういう事であるなら、父一人を捨て、子々孫々まで伊達の御家一族繁盛させるのは、却って一家への忠孝である!』
そう思し召したのであろう、正宗公は馬に乗り掛かられると
「親共に討ち取れや者共!」
と下知した。
伊達衆はこの下知に一斉に競り掛かり、義継主従を真ん中に取り囲み、逃さぬ構えをとった。
この時、二本松義継の運命は既に尽きていたのだろう。実は義継は予め迎えの合図を定めており、二本松の兵たちは
この合図によって大勢が出てきていたのであるが、どういう間違いが有ったのか、沼によって道が隔てられた
別の場所に出てしまい、この場に一人も間に合わなかったのである。運の末とはこういう事なのであろう。
こうして二本松義継は滅亡し、そのまま政宗は二本松へ馳せ向かいこれを攻めたが、留守居の新城弾正、同名新庵が
堅固に持ち堪え降参しなかった。十一月十五日に政宗は再び攻めたが落城しなかった。このため塩松に陣を引き、
翌年三月十一日、二本松方の簑輪玄蕃、遊佐源左衛門、本宮の遊佐丹波、伐江新兵衛の四人、この他四、五人が
二本松に対し逆心し、箕輪舘まで片倉小十郎を引き込んで、本町、杉田町に火を掛けて焼き払い攻め上るのを、
城中より出向い、簑輪舘の片桐小十郎勢を散々に切り立て十人ばかりを打ち取った。
二本松は七月十五日まで籠城したが、結局開城し、そこには政宗の伯父にあたる成実が入った。
(藤葉榮衰記)
伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡について。
0880人間七七四年
2020/03/04(水) 18:33:57.72ID:KljVSlqrそういや父系だと成実は一世代上だっけか
0881人間七七四年
2020/03/04(水) 19:58:27.30ID:sqTtV4Sgややこしいな
0882人間七七四年
2020/03/05(木) 00:53:28.09ID:8eN+y0vz成実の父は晴宗の弟(つまり輝宗の叔父)、母は輝宗の妹
0883人間七七四年
2020/03/05(木) 01:39:47.06ID:1pXv6WeJ政宗は年長の父方のいとこ甥かつ母方のいとこ
母親は父方のいとこ
正室は父方のいとこ姪
継室は父方のいとこ姪かつ母方のいとこ
伊達家の家系図は複雑怪奇
0884人間七七四年
2020/03/05(木) 07:49:01.57ID:0wCMUA6t0886人間七七四年
2020/03/05(木) 15:18:45.62ID:9PH4zRefある年、盛隆公が八丁目に出馬され陣を貼り、伊達政宗公と決戦されて、伊達の軍悉く破れて引き退いた。
蘆名勢はこれを急追し、伊達の兵を数多打ち取って勝鬨を作り、そこから戻って御帰陣の時、二本松の宿を
通った。
この宿では貴賤群衆して蘆名勢の凱旋を見物したが、この時、ある町家の内に十四、五歳の容儀勝れた童が、
片手に色有る花を一枝持ち、前に書物を広げていたのを、盛隆公が見つけた。
盛隆公は少しの間、この町家の前に馬を留めると、その主人に、使いを以てその子を御所望された。
彼の父母には否やという言葉はなく、御所望にお任せすると応えると、盛隆公は御悦び斜め成らず、両親に
物の具を給わり、少年を自らの引き替えの御馬に乗せて会津へと共に帰城した。この少年が大庭三左衛門であった。
盛隆公が大庭三左衛門を寵愛し給う事限りなかった。
しかし愛楽の互いに替わることは、紅の栄えから?して落ちる樹に例えられる。まもなく君の寵愛も廃れ、
御志も枯々となった。
これに大庭三左衛門は恨みを含んでいたが、家中の譜代相伝の子たちは、三左衛門に権を取られると
安からぬ事に思い、妬ましいと思っていた所に、これを見て悦び、三左衛門に聞こえぬ所で、彼を
『鴨汁』と渾名を付けて笑っていた。これは「醒めては喰われぬ」という意味であった。
後になって三左衛門はこの事を密かに聞いて、胸塞がり心迷い、跳ね上がったように大息をついて、
昼夜これを思うに骨髄に徹し、忍びがたきこと限りなかった。
このような所に、ある人が三左衛門に向かって「今朝の(盛隆の御前での)御鴨汁の御料理に御参りになるように」
と言ってにっこりと笑った。
三左衛門はこれを聞くと、毒矢を胸に受けたよりも甚だしく堪忍に及ばず、彼を一刀に斬って憤りを休んじ、返す刀で
切腹しようと思いきったが、大汗を流してそこは堪忍した。
「これは他の誰が言ったわけではない、屋形(盛隆)の仰せである。咎なき奴を殺し徒に命を捨てるより、屋形を
一太刀討ち申し恨みを泉下に報ぜん」
と思い定めた。
「明日、盛隆公を討ち奉らん」と考えていたその晩、三左衛門は知音朋輩達を呼び集めて丁寧に振舞った。
彼は交わりを深くして酒を進め、にっこりと笑いながら客に向かってこのように言った
「昨夜の夢に、私の望みが叶う事を見ました。その内容は三日過ぎて各々に語りたいと思いますが、確かな吉夢で
ありましたので、これを喜ぶために、今朝にもと考えましたが、昼間は互いに公用重ければ、座席を急いで
立ててしまうと心残りも多いと思い、大した饗しも出来ませんが、一盃奉る饗応のために、このような夜中に
申し入れました。緩々と過ごして頂ければ辱き次第です。」
そう言って、色々と様々な肴を調え、盃を指しつ指されつ、舞い、謡い、いかにも亭主ぶり、結構華奢に興を催し、
快く酒宴を終え、夜に及んでも明朝死ぬと思う気色は少しも見えなかった。
客人が座席を立って帰る時、彼が「名残惜しい」言った言葉の意味を、客たちは後になって思い知った。
夜も明け十月十日の早朝に、三左衛門は沐浴焚香し、出仕の衣装を美麗に着、袴をつけて御広間へ出た。
丁度その時、盛隆公は御鷹を据えられ椽の柱にもられられていた。御前に近習の者達も居らず、ただ一人御座していた。
三左衛門は椽を一礼して通ったが、普段は刀を抜いて、差さずに通るのだが、この時は刀を指したまま通り、
そして振り返りざまに声を出して、一刀斬りつけ奉った。盛隆公は深手であったが「心得たり!」と御腰の刀を
過半抜かれた所を、三左衛門が二の太刀を継ぎ、斬り伏せ奉った。
そして大手の方へ走り出たが、これを追いかけ討ち留めようとする者も無く、諸人驚き騒ぎ、慌てて屋形の死骸の御傍に
群がり集まった。そのうちに侍一人が三左衛門を追って行くと、跡から人数多続き、三左衛門は二町余り逃げ延びたが
追い詰められ、打ち殺された。
彼の体を見ると、下には白き絹の衣装を着け、六文銭と数珠を首に掛けており、逃げて生き延びようとは思わなかった
ようである。
いかなる因果の報いもて主君を討ち給わったのか。さても余りある次第である。
そしてその後、盛隆公には御子が無く、会津の御家を継ぐ御方が無かったために(実際には嫡子亀王丸が有ったが夭折)、
佐竹屋形の御子に、義宣の御弟義広(蘆名義広)と申す人を御名代に立て申し、御入部ありて義広公の御代となった。
(藤葉榮衰記)
大庭三左衛門による蘆名盛隆殺害事件について
0887人間七七四年
2020/03/05(木) 16:43:30.49ID:vZLgY6tphttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200304-00000627-san-cul
0888人間七七四年
2020/03/05(木) 17:16:21.04ID:Ws5BJgAnすごいな、これ。平蜘蛛かつくもなすまで描いてあるとは…。本当に好きだったんだね。中身、爆薬じゃないよね。
0890人間七七四年
2020/03/06(金) 00:00:05.23ID:gUAe5Rwe0891人間七七四年
2020/03/06(金) 00:18:40.15ID:fRaitGr90893人間七七四年
2020/03/06(金) 10:48:00.99ID:0RBe7trE0894人間七七四年
2020/03/06(金) 22:17:40.32ID:RxaGC4uW痴情のもつれか
武家の子じゃないから家臣としてはうまく使えなかったのかな
美少年だからって適当に手を出したらいかんな
0895人間七七四年
2020/03/07(土) 03:17:50.57ID:AWISg/aYこどおじの阿呆はマスかいて寝とけ
0896人間七七四年
2020/03/07(土) 11:03:05.01ID:4mIamn/1同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。
この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。
信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。
こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。
卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。
こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)
(氏ク記)
0897人間七七四年
2020/03/07(土) 11:24:49.62ID:D3fNQvLLまるでドラマでのノブさんの最後のようだ
0900人間七七四年
2020/03/07(土) 13:08:04.80ID:3FlUNxOP「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする
0903人間七七四年
2020/03/07(土) 23:35:06.84ID:jDbW28ko0905人間七七四年
2020/03/08(日) 11:04:03.83ID:T94EJuRk瀧川左近将監一益に関東八州切り取りにし、それより出羽奥州まで打ち平らげよと遣わした。
その頃、次男北畠中将信雄朝臣は伊勢国ホクスミという所へ、大河内の城を移され松ヶ島と改められた。
また、土佐国守護の長宗我部より、四国の大将を申し乞いければ、三男神戸三七殿に四国を給わって大将に
遣わされた。この時、関安芸守盛信は江州日野に預け置かれていたが、勘当を許され、流石文武を得たる者なればとて、
本領伊勢亀山を給わり三七信孝へ付けられ四国の御供に遣わされた。彼は蒲生賢秀の娘婿であったので、日野よりも
結解十郎兵衛を盛信へ付けられた。
こうして、信孝は一万五千余騎の人数を揃えここに神戸を立って摂津国住吉に下着された。
この時、羽柴筑前守秀吉は近年播磨国に在って中国毛利右馬頭輝元と合戦し数ヵ国を切り取ったが、将軍(信長)が
今度西国に出馬あって、九国二島(九州全域)まで太平に帰せんと宣いて、諸勢に触れさせられ、、京都にて
御勢を待たれるために、先手、手廻ばかりを召し具され、信長公、信忠卿御上洛されて仮に京都に御在されたのだが、
同六月二日、丹波守護明智日向守光秀が謀反を企て、二万余騎にて攻め上がり、先ず信長公を本能寺に取り囲み、
攻め奉った。この時戦うべき士卒も無かったため、将軍も叶わせ給いはて、遂に御年四十九歳にて御腹を召し果てられた。
次に信忠卿を二条の御所に取り囲み、御腹召させ奉る。御年二十六歳にお成りであった。
数度の大事を逃れられてきた将軍(信長)であったが、光秀という御自身が御取り立ての侍によって命を失われたこと、
御果報の程を申すも中々口惜しい事共である。
(氏ク記)
「氏郷記」より天正十年の本能寺の変までの様子。長宗我部が信長に敵対したのではなく、むしろ信長に四国の総大将を
求めて来た、という描写はちょっと面白いと思いました。
0906人間七七四年
2020/03/08(日) 19:08:14.52ID:sPex4AbI信長が将軍というのは大将くらいの意味なのか、はたまた征夷大将軍なのか。いろいろ特殊な史料ですね
0907人間七七四年
2020/03/08(日) 20:15:30.80ID:U+SZeuSt0908人間七七四年
2020/03/08(日) 20:38:14.12ID:gAuGI6S00909人間七七四年
2020/03/08(日) 23:33:22.46ID:sPex4AbI0910人間七七四年
2020/03/09(月) 19:55:32.70ID:9Wi1g3Dz0911人間七七四年
2020/03/10(火) 16:37:09.05ID:B1PPJbD0官位としては右大臣と明記(やめてるはずだけど)しているし、一般名詞として使っているみたい。
0912人間七七四年
2020/03/13(金) 00:50:33.54ID:Iz+5LKKk陸奥南部の一族一戸兵部大輔政連という人は、彦太郎行朝の嫡流にして代々一戸の城主として三千石を領地していた。
天正9年7月18日夜、政連の弟一戸信州(平館の家を継ぎ千石を領地していた)は不意に政連の寝所に乱れ入り、兄政連を斬り殺した。
女房どもは大いに騒ぎ、騒ぎを聞きつけた男たちが信州に斬りかかる。
その中に政連の子出羽もおり、彼も斬り殺されてしまった。これによって代々続く名家・一戸家は断絶してしまった。
事が収まった後、南部家当主の南部信直は凶行に及んだ理由を尋ねると、
一戸信州は「兄兵部は平生暴悪にして百姓たちが困窮のあまり一揆を起こそうかと考える有様で、兄に諫言をしても聞き入れてもらえなかった。
そのため兵部を捨て子の出羽を立てて領内安泰を図ったが、誤って出羽をも斬り殺してしまい、後悔している」と言った。
信直は「兄を殺すこと汝が逆罪は八つ裂きにするとも飽きたらない。だが思うところあり一命は助けよう」
と知行を取り上げ領内から追い払った。
年月を経て、信州は領内に忍び居たが乞食同然の体で病死したという。
伝曰く この話は皆が不審に思ったが、数年後、事の次第があらわになった。
九戸政実が逆心を催し領内の大身の領主たちを誘った際に、政連にもその誘いを密かに入れたが、
政連は忠義を重んじて同意しなかったため、一戸信州をたばかり兵部を討たせたのだという。
奥南旧指録
0913人間七七四年
2020/03/13(金) 21:16:35.42ID:jPTP3wxG0914人間七七四年
2020/03/15(日) 00:54:43.96ID:BEc4Klcpその軍勢は四万余騎となって、既に雲州の月山富田城を囲んだ。
米原平内左衛門尉広綱は、今度、毛利の立花の戦線より馳せ帰って尼子方に帰伏し、その勢三千余騎にて高瀬の城に
立て籠もった。
しかし、毛利方で月山富田城の守将、天野中務大輔隆重は頑強に防衛し、またこの時、殊更に大雪が降り、
数丈の高さに降り積もって陣屋を埋めたため、空しく月を移り日を暮らした。
年が明けて永禄十三年、東風は潤い谷の氷を解かし、春雨は満峯の雪を潰した。
「今は時を得たり、急ぎ城を攻めよ!」
尼子の軍営ではそのような声が高くなった。
ところが、正月七日暮天、備後国より早馬が来て告げた
『大友左衛門入道宗麟、立花の軍で利を失い、継いで耳川にて島津義久に討ち負けた。(筆者注:ここでは永禄十二年(1569)
の多々良浜の戦いと、天正六年(1578)の耳川の戦いを混同している)
また防州においては、舎弟の太郎左衛門尉輝弘が討ち負け(大内輝弘の乱)、その死後は九州も悉く翻えって
大江羽林(毛利元就)に与力し、備後国の一揆も、軍に利無く終に討ち負け、一人も残らず滅し、見方は一騎も
無くなった。敵の軍勢は馳せ集まり、程なく八万余騎となり、近日、雲州に向けて発向すると聞こえる。
内々御用意有るべし。』
尼子勢はこれを聞くと、「なんと事々しい注進であろうか、敵が立花城を落としたその足で、防陽の軍勢が如何
蘇長したとしても、そのように俄に大軍を催せるものだろうか。」と疑義していた。
そんな中、同月十二日、毛利方の吉川、小早川は八万九千騎を率いて雲州津賀庄に侵攻し、多久和の城へ押し寄せ、
四方八方から騒動した。
多久和の守将は秋宅庵介、尤道理介であったが、僅かな小勢で城に立て籠もっても、大軍に囲まれては、ただ
追われた鼠が穴に入って蹲っているのと異ならず、そのような状況下で、どうして城を出て合戦をすることが
出来るだろうかと議して、同日の深夜、城に火を掛けて落ち去った。
この時、何者かが書いた落書が立った
『秋やけて 落は尤道理介 如何に庵を春やけにする』
多久和城の者たちは、富田の陣営をへと落ちていった。この自体に尼子勢は
「当家三軍中より選び出した庵介、道理介の両介が一支えも出来ず敗北した上は、大敵が襲来し、その鋭鋒を防ぐのは
難しい」と群士は固唾をのみ、衆議喧々となった。
この状況に山中鹿介幸盛は「萬衆一和ならぬ合戦をして、古今勝利を得たる例無し。」と、富部の城に引き退き、
月山富田城の囲みを解いた。
(雲州軍話首)
尼子再興軍による月山富田城攻略失敗についてのお話。秋宅庵介、尤道理介は、いわゆる尼子十勇士の一員ともされる
人ですね。
0915人間七七四年
2020/03/15(日) 09:59:35.09ID:yh2KYrWm「雲陽軍実記」より、尼子十勇士っていったい
にはほかに2パターンの狂歌が
「城を明落ち葉の頃は道理なりいかに伊織を春焼にする」
「城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする」
0916人間七七四年
2020/03/15(日) 10:18:10.96ID:rOhCHn6o0917人間七七四年
2020/03/16(月) 15:14:16.06ID:Wk0EwnES滝沢馬琴「燕石雑志」の「苗字」の項に
「正親町院の永禄のころより諸国の武士にて奇異なる名おほかり。
山中鹿ノ介幸盛、秋宅庵ノ介、寺本生死ノ介、尤道理ノ介、藪中荊ノ介、小倉鼠ノ介、山上狼右衛門(以上尼子の家臣)
この餘、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士
枚挙にいとまあらず。
こはみな軍陣に臨みて名告るとき敵にわが名をおぼえさせんため為るとぞ。
戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推しはからる。」
名前だけでもおぼえてもらうためにそういう名前にした、と書かれていた。
しかし尼子九牛士というのも十勇士の他にいたということになるが、
馬琴先生、「雲州尼子九牛伝」ではかっこ悪いと思って「南総里見八犬伝」を書いたのだろうか
0918人間七七四年
2020/03/16(月) 17:32:14.14ID:vH5vpMMxどうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。
山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した
「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。
この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」
そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った
「山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」
そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み
「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。
しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。
鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。
私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」
そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。
鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。
鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。
「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。
(雲州軍話首)
第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話
0919人間七七四年
2020/03/17(火) 11:52:39.52ID:nKpdqadR今でもこの地域には埋蔵金伝説がある
0920人間七七四年
2020/03/17(火) 12:10:13.79ID:DxVeY+n/吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは
「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」
として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。
こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで
「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」
そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。
(雲州軍話首)
尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。
0921人間七七四年
2020/03/17(火) 14:00:05.78ID:uq7TRT/o佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ
0923人間七七四年
2020/03/18(水) 00:45:07.98ID:PnBDOPs80924人間七七四年
2020/03/18(水) 00:51:26.24ID:F8JL/9mO天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。
河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。
猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。
一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。
中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。
かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。
翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。
( 丹州三家物語)
丹後国と一色義定、明智光秀、細川父子について
0926人間七七四年
2020/03/19(木) 02:20:30.21ID:5aU48FEL現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。
であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。
また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。
ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った
「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」
これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。
( 丹州三家物語)
細川父子の丹後入部の際の、地元の人々のあれこれ
0927人間七七四年
2020/03/19(木) 20:45:52.59ID:Zi+2cZjsレス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。