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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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0737人間七七四年2020/01/09(木) 14:03:56.25ID:VmLHog0Y
宗像大宮司左衛門尉興氏は、前の大宮司氏弘の次男であり、舎兄氏郷より譲られて、文明五年仲冬(十一月)三日に
社務となった。大内介義興に属し、諱の一字を給わって一家の親しみを成された。

ある時、興氏が領内を巡見したところ、鐘ノ御崎に至って海面を見渡し、海中に沈んでいる鐘を見つけた。
「この鐘を陸に引き揚げて、世の珍宝と成すべし。」
と、石松和泉守氏真、吉田飛騨守氏明に命じ、領内の土民を駆り集めてこの鐘を引き揚げるべしと議された。

石松、吉田は先ず海人(あま)を用いて鐘の長短を測らせた所、長さ二丈八尺(約8メートル50センチ)、
周縁の尺も同寸で、龍頭(りゅうず:最上部の環状をなしている部分)の長さは三尺あまり(約1メートル)との
事であった。そのため「加賀苧麻(からむし)の大縄を以て鐘をくくり、龍頭の元に引き付けよ」と命じ、
海人三人が海に入った所、すぐに戻ってきて
「鐘の辺りの浪高く、鰐ウツボといった悪魚が出てきて、私達を喰い殺そうとしたため遁れ帰ってきました。
どうにも方法がありません。」と報告した。これに石松和泉守は

「このように、民の労もかえりみず大勢呼び集めたというのに、空しく帰らせては近国までの嘲弄となるだろう。
海人ども、銘々に剣を腰に挿し、胸には鏡一面をかけて海へ入るのだ。そうすれば悪魚の害はない。
急ぎ海に入るべし。さもなくば、船中にて討ち殺す!」(イソキ海ニ入ヘシ、サナクハ船中ニテ討殺ス)

と騒ぎ立てたため、海人たちは「ここで殺されるのも、悪魚の餌になるのも同じ事だ。こうなったら海中に入って
鐘に縄をつけよう。」と、胸に鏡をかけ刀を腰に挿して入った所、辺りに近づく悪魚も居なくなり、思いのままに
縄を掛け、轆轤にて巻き上げ、数十艘の船に土民を乗せて、えいやえいやと引き揚げた。

ところが、不思議なるかな、今まで青天白日であったのが、俄に沖の方より黒雲しきりに起こり、黒風振動雷電
して、雨は車軸を流しければ(車軸のような太い雨脚の雨が降る事、大雨)、目前にあった船三艘は、
もやひの縄(船を他の船とつなぎ合わせた綱)が張り切れて、どこに行ったのか見えなくなった。

この有様を見た宗像興氏は
「この鐘を引き揚げて世の珍宝と成そうと思ったが、それを龍神が惜しみ給っている事間違いない。であれば
縄ともども切り捨てよ!」と命ぜられ、海人たちが縄を押し切った所、たちまちに風雨静まり、元のような
晴天と成った。

しばらく有って、海面に怪しげなものが浮かんだ。「また如何なる事があるのか」と、人々肝を冷やす所に
桂潟の海人が海中に飛び入ってこれを取って上がった。吉田飛騨守が受け取り見てみると、それは老翁の仮面で
あった。そこで興氏に差し上げた、興氏が能々この仮面を見ると、海底にあって幾千歳か経たものなのだろう、
裏表に牡蠣の付いた痕があった。
興氏はこの仮面を、宗像第一宮に納め神宝と成した。不思議な事どもであった。

聞いたところによるとこの鐘は、何れの代であるか、唐土より渡ってきた時、この浦にて唐船がくつがえり、
そして鐘も海底に沈んだ。故にこの場所を鐘ノ御崎と名付けたのである。
正三位義重(斯波義重)の歌に
『聞明かす 鐘の御崎のうきまくら 夢路も浪に幾よへたてん』
と詠んだのもこの浦の事である。

(宗像軍記)

鐘を引き揚げようとしただけでかなり大事に成っているお話
0738人間七七四年2020/01/09(木) 20:16:55.66ID:DyO2kjce
>>737
みんな粋で良い話じゃないかw落ちも素晴らしい
0739人間七七四年2020/01/09(木) 21:57:08.39ID:IbpAwd2n
その鐘は今でもそこら辺にあるんじゃないか
0740人間七七四年2020/01/09(木) 23:48:14.10ID:vpX7xr8P
宗像三女神のような海神は
航海している人の持っているものに目をつけて嵐を起こして
その人がその貴重品を海に沈めない限り嵐を止めないというから
龍神よりも前に宗像三女神の罰だと思いそうだけど
0741人間七七四年2020/01/10(金) 02:57:24.25ID:WBNtECPA
天文二十年八月六日、宗像大宮司氏男、香月次郎左衛門隆光は宗像を出発し、同九日、山口に参着した。
相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を申し入れた所、同十一日、両人ともに
築山の御所に召され、義隆より「遠国よりの参勤、神妙である。」との言葉を頂き、また大友、島津などの
軍某もお聞きになられ、九国(九州)の太平を祝し、ご機嫌、殊の外麗しく、「両人ともに路次の労をも
休められよ。」と仰せになって、氏男、隆光は己の旅館に帰った。

そのような所に、同月二十六日、大内義隆の家老、陶尾張守興房の子息、五郎隆房は義隆公に怨みを奉る
事があり、逆心を企て山口を攻めんと若山の城より出撃したという話が聞こえたため、義隆は宗像氏男、香月隆光
に五百余騎を差し添え千把ヵ嶽に差し向けられ、陶方の宮川甲斐守、江良丹後守の二千余騎と戦っていた所、
搦手の方面での合戦が敗れ、早くも築山の御所に火が掛かり、義隆公は行方も知れず落ちられたと、黒川刑部が
使いに来て伝えた、これを聞いて「今はこれまでである」と、宗像氏男、香月隆光は打ち連なって長門国へと
落ちて行った、相従う軍勢は皆散り散りに落ちて行った。

深川の大寧寺に義隆が居られると聞いて尋ねて行ったが、はや昨日御自害されたと言われた。
両人ともに力を失い、「大内殿の家の滅亡、この時に究り、本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、
或いは自害された。我等は武門に生まれ、生きて帰って誰に面と迎えるというのか。」
そう言うと、両人ともに腹を切って死んだ。あわれなる事共である。

(宗像軍記)

大寧寺の変と、大内義隆の跡を追った宗像大宮司・宗像氏男(黒川隆尚)の最期
0742人間七七四年2020/01/10(金) 20:02:13.30ID:/JcGRl1J
>本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、或いは自害された。我等は武門に生まれ

後世からみたら宗像氏は武士化した社家で
軍事貴族たる武門ではないように思えるんだけど
当人たちの「武門」意識は面白い

 宗像の家摂津守氏国(13世紀前頃)よりこのかたは、もっぱら武門となり……
 この氏俊(14世紀初頃)の時にいたりては、猶更武士をこととして、
 神職の事はなばかりにて、四季の祭祀を勤むる事をいといければ
0743人間七七四年2020/01/11(土) 11:02:53.43ID:Ihnuve94
厳島の神主家然りで武門とのつながり強いとそう言う風になってくんじゃないかな?
0744人間七七四年2020/01/15(水) 12:21:03.23ID:5IJy5yrq
その頃、大谷刑部少輔(吉継)は(関ヶ原へ)出陣の最中であったが、彼が跡に残した屋敷において、
不思議の怪があったという。

九月十三日の未だ宵に、刑部少輔の女房たち数多集まって、「今宵は名にし負う月の名残である。閨中ただ一人
見るらん」と云いし古言も、今身の上にしら露の、起き伏しに付けても殿の御事覚束なく、四方山の物語をし、
また古歌などを吟じ、或いは謡わせ舞わせなどして、月を詠み、酔を勧めて遊ばれていた折節、庭前の木陰に
大勢の声が響き、それらは大変哀れな泣き声であった。

大谷刑部の内室を初めその座にあった女房たちは「これは如何なる事ぞ」と怖ろしく思いながら物陰から
庭の面を見渡すと、男女、その数一、二百、たいへん気高い柩を担ぎ、幡、天蓋、挑灯等、堂々たる規式にて
葬送を行っている有様であった。

その場の人々はこれを一目見て、気も魂も身から出ていくようで、侍共を召し寄せて、「穿鑿せよ」と言っている
内に、消えたように居なく成っていた。

これを見聞きした人々は、折柄の凶しき事であり、忌を思わぬ者は無かった。
奥方の女性たちは恐れおののいて、内室の御手を引き「御休み候へ」と帳内に誘い入れ、大勢の女房衆が
前後左右にかこみ、御伽いたし、勤めた。

そうして留守居の家老達、出頭の面々は次の間に伺候して、槍、長刀の鞘を外し、鉄砲には火薬を込め、
弓は弦をくい締め、内室を守護する体で寄り挙り、色々の雑談をしつつ
「先程の葬送は、狐、狸の技であったのだろう。しかり妖は徳に勝たず。」
などと祝言して居た所、また最前の庭中に、大勢の声で、どっと笑う音がした。

これに女房たちは申すに及ばず、警護の武士に至るまで「是は是は」と肝を消し、皆々あきれていた時、
いと怪しげなる声音にて、

「少しも驚き申さるるな。おっつけ御不審晴れ申さん。」

と高らかに叫んで、かき消す如く失せた。
それより内議評定して、
「これはそのまま捨てておくことは出来ない。軍の様子を聞くため、またこの次第をお知らせするため。」
と、委細の事を書きしたため、早々に飛脚を遣わした。

そしてその遣いが未だ到着しない間に、関ヶ原敗軍して、刑部少輔はたちまちに自害したと聞くと、皆
腰抜け、力を失いてあきれたという。

(石田軍記)

大谷刑部屋敷の怪
0745人間七七四年2020/01/15(水) 15:14:21.83ID:Sy0WILvA
>>743
摂関家なんていう貴族中の貴族の土佐一条も、立派に武家扱いだしなぁ。

時代が南北朝まで遡ると、北畠顕家は、親の北畠親房が建武の新政以前でも権中納言、自身も参議で公卿なのに、ほぼ武家扱い。

もっとも、南北朝期は懐良親王とか護良親王みたいに
皇子ですら前線で戦っていたわけのわからない時代だけと。
0746人間七七四年2020/01/15(水) 17:53:50.97ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』
0747人間七七四年2020/01/15(水) 22:20:49.29ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな
0748人間七七四年2020/01/15(水) 23:12:59.43ID:vFBKfcLy
>>744
妖怪の知らせ…?
0749人間七七四年2020/01/15(水) 23:29:46.81ID:kXcRoRmC
>>744
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
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      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
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0750人間七七四年2020/01/21(火) 11:34:34.43ID:BnZENNFy
肥前国の馬場頼周は、少弐の一族であり肥前国内に領地広く、その威勢はびこり、嫡子六郎政は
龍造寺家純公の聟として、龍造寺家と結ばれていた。であるのに、頼周には偏執の心有って、龍造寺の
威が強くなるのを嫉み、少弐冬尚へこのように申し上げた

「公は龍造寺を至忠の者と思召しているのか、龍造寺家門をも後見とされました。あの龍造寺剛忠は、
公の御ためを存ずるようにしながら、内々には大内家に内通し、自立を謀っていると聞き及んでいます。
これが誠であればまさに腹心の病であり、災が起こった後では悔いてもその甲斐はありません。
速やかに、先ず龍造寺剛忠を滅ぼし領地を召され、その後ともかくも御計策あるべきです。」

そのように言葉巧みに讒言したため、少弐冬尚もこれを信じ、馬場とともにその事を謀ったのは
実に愚かであった。これこそ少弐家を断絶させるための天魔の進めだったのではないかと、浅ましく
覚えるのである。

ともかくも時日を移すべからずと、謀をめぐらせて先ず龍造寺の御一家に命じ、西肥前の有馬に従う
者たちを退治するようにと言い、一方で西肥前の侍たちに密かに遣いを送り、有馬氏と通じて密かに
龍造寺を討とうとしたのである。

当家(龍造寺家)はそのようなこと夢にも思わず、軍士を率いて先ず多久宗時の梶峰城を攻め落とし、
六郎次郎周家を遣わしてその城を守らせた。十一月には上松浦を攻めて鶴田因幡守の大川野城を囲み、
日を経て弱らせた。同二十三日、龍造寺伯耆入道剛雲、同讃岐守、同日向守が先登して討ち死にされた。
城主の鶴田は和平を請い、波多三河守も和睦した。

天文十四年正月、千葉種連と龍造寺は連携して有馬を襲うため藤津郡に出張した。正月十六日、平井治部大輔、
前田伊予守、昌永左近等の諸侍が急襲してきたためこれと戦い、龍造寺右京允が討ち死にした。

同十八日、軍を返したが敵が食いつき難儀であった所を、於保備前守、龍造寺新五郎が志久峠にとって返し、
彼らが討ち死にしている間に味方はようやく佐賀へと帰った。

ところがこの時、西肥前の諸将悉くが押し寄せ佐賀を囲んだ。牛津川より東の諸侍、八戸、高木、神代、
姉川、本吉、小田、江上、犬塚、馬場、横岳、以下の人々一人も残らず少弐の命を受けて龍造寺を囲んだのだ。
佐賀城中はさながら籠の中の鳥のごとくとなり、これに馬場頼周は悦び、「この上は謀を以て容易く滅ぼすべし」
と、城中に入り剛忠公にこう申した

「今度の西肥前退治の事、全く有馬追討のためではなく、貴老が大内に内通していると讒言する者があり、
冬尚公もお疑いに成り、西肥前の人々に通じて貴家を絶やさんとするものである。とにかく、先ずは
ここから下城して貴老は筑後に赴かれるのが良い。そして御子孫を私が請け取り、御屋形に対し貴老に
罪のないよりを申し開きます。」

このように懇ろに言って帰った。しかし城中は評議まちまちとなりまとまらなかった。ここに馬場頼周はまた
遣いを立てて『それがし貴殿と縁を結び、別心更に無し。しきりに御屋形へ訴え三息を許されたのだ。
家純公、家門公、純家公は早く筑前へ赴かれよ。周家公、家泰、頼純は屋形に参り拝謁されるべし。
御一家免宥の儀も、この頼周がこのように有りますから、時日のかかることはありません。かえすがえす、
老心を悩ませることこそ推し量り存じ候へ。』と、誠に余儀なき内容であった。

老臣の面々「馬場頼周は誠に御縁者であると言っても、烏喙(欲深い)の相有る人であり、御下城されて
所々で憂き目を見られるより、ともかくこの城にて安否を極められるべきです。」と口々に申すのを
老公つくづくと思し召され、

「面々の諫言一理ありと雖も、つらつら事の心を思うに、野心の名を得て死ぬのは弓取りの本意ではない。
私に野心のないことは天が知っている。もし邪を以て正を謀るのであれば、私ではなく頼周が無道なのであり、
天がもし誠を照らすというのであれば、虚名がいつまでも語られることはない。ただ一旦の心地よきを
差し置いて、末代まで二心の名を得ない事こそ本意である。」

そう言って、正月二十三日、御嫡男である豊後守家純公、次男和泉守家門、並びに孫三郎純家を筑前へと落とされた
のである。

(肥陽軍記)

馬場頼周の謀略による龍造寺家の危機についてのお話
0751人間七七四年2020/01/22(水) 14:11:40.49ID:9a4ADqU9
かくして、美濃土岐家において斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、左京大夫を改め
山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。普段は葦出城に詰めて土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も
「それほど思うのならば召し連れて参れ」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。この人は既に懐妊しており、出産の後
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と
名乗らせた。

太守には七人の子があった。長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、彼を自分のニ男、当時三歳であった
林七郎右衛門通兼の後見として、自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。

この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、父頼芸の老後を介抱して、
後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。

ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を
送ったため、太郎法師は大いに怒り「主従の礼を失うこと奇怪なり。」と、ある時太郎法師丸をはじめ
氏族の面々、旗下の小童数名が、葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、これに
太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、的矢をつがい、城内殿中まで
追い込んだ。(筆者注:的場の前を乗馬で通る事が無礼であると思われる)

太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の
末子市之丞という若輩者と語らい、殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。

こうして山城守はつくづくと考えた。「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ」そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を
頼芸に讒言した。ある時、登城して太守に申し上げたのは
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。御曹司はまだ御幼少ですから
何の御心も有りませんが、伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。しかしながら流石に父子兄弟の
事であるので、そのままにして時が過ぎた。

それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が
諸鐙を打って追いかけましたが、山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、これも偏に御寵愛にほこり
自分が凡下であることを忘れ、御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと
致します。」

そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく
思っていたため何も答えず、「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も
失うべき。」と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、五郎殿は甚だ面目無く三輪へと
帰った。

(土岐累代記)

大河も始まったということで、斎藤道三が土岐頼芸に取り入った様子について
0752人間七七四年2020/01/23(木) 00:03:59.06ID:wsaLouGR
何と言うか、これでもかと言うくらいの蝮っぷり
0753人間七七四年2020/01/23(木) 12:01:44.81ID:AGp9/dHI
土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に
成っていた。

秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。太守頼芸も、防ぎ戦うことにも
及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成った
のである。

頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、村山と
一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを
知って後悔され、すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ
落ちるための殿をした。

かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。信秀は彼らを熱田の一向寺に
入れ置き、それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。この事を山城守聞いて、叶わずと
思ったのか、和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、暫く
国穏やかであった。されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。後に宮内少輔頼栄と改めた。その後、信秀の計らいで、頼芸父子を
大桑城を修復して移らせ給った。

(土岐累代記)

斎藤道三下剋上のこと
0754人間七七四年2020/01/24(金) 02:22:41.06ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。

大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。

山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。

山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。

これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。

天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。

天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。

それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。

(土岐累代記)

土岐頼芸の後半生について。
0755人間七七四年2020/01/25(土) 12:51:57.67ID:id9IS+DC
かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、太守土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として
置いた。頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので
容易く討てないと考え、毒害にて殺した。また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。また日蓮宗常在寺は、
前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を
寺領として寄付し、子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。すなわち常在寺五世日饒上人、六世
日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、天文十五年、織田備前守(信秀)は
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、城下の四方、民家を
悉く放火した。瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、稲葉山城下にて大いに戦った。
織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。城には尾州勢の織田播磨守が
入れ置かれていた。そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

(土岐累代記)

土岐頼芸追放後の斎藤道三
0756人間七七四年2020/01/26(日) 11:54:36.87ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

(土岐累代記)

斎藤道三の滅亡について。
0757人間七七四年2020/01/26(日) 16:44:08.08ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?
0758人間七七四年2020/01/26(日) 17:01:05.07ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓
0759人間七七四年2020/01/27(月) 14:05:59.36ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。
0760人間七七四年2020/01/28(火) 13:40:48.67ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在時に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
0761人間七七四年2020/01/30(木) 01:28:48.66ID:Ii3m2zTb
天正五年五月、森蘭丸、坊丸、力丸の三人共、織田信長卿が召し出され、御近習に召し使われると
仰せ付けになられた。中でも蘭丸は、器量人に勝れ発明であったんどえ、御寵愛限りなく思し召された
故に、御側を離される事がなかった。

信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
武蔵守(森長可)も手勢を率いてお供し、信州伊奈郡、小笠原掃部の城に武蔵守は取り掛かり、攻めた所、
早速に城を明け渡して降参し、城内の者達は旗下に加わった。次に飯田城へ押し寄せ散々に戦い勝利を得られ、
城を乗っ取り、首三百余を信忠公へ進上した。
そして高遠城へ取り掛かり、息も継がせず、各務兵庫、渡辺越中、豊前縫九郎、同市之丞、細野左近、林新右衛門、
同長兵衛、井戸宇右衛門、その他家中一命を軽んじて攻め戦い、この城も長くかからず落とした。

信忠公は御感限りなく、「今に始まらぬ武蔵守が働きよ」と御喜悦斜めならず、御感状を下され、信州四郡、
更科、高井、水内、埴科を下され、海津城を拵え住居すべしと仰せ付けられた。そして海津城の普請のための
軍営が成就した所で、近辺の野伏一万が海津城へと押し寄せ、鬨の声を上げた。この時海津城は未だ堀も
出来ておらず逆茂木すら無かったため、森勢は各々外へ打ち出て追い捲いて、火の出るほど戦った。
野伏たちは堪らず散々に打ち負け引き退いたが、森勢はそれを追い詰め追い討ちをかけて、首三千余を討ち取り、
信忠公へ実検に入れ奉った。信忠公は再び御喜悦斜めならぬ様子であった。そして降伏した小幡備中、春日周防
からの人質を預けられた。

舎弟蘭丸は京都に在ったので、海津城は各務兵庫を城代と為し暫く居住した。そして信忠公は関東平均を
打ち納め、京都へ上洛された。これらの事は悉く信長記に書かれている。

(枠外註:高遠の城攻めで、織田の兵は武田の鋭武に当たること能わず、森の兵は城の屋根に上り、
屋根の上より鉄砲を撃ち入れたとか。『高遠の屋根ふき衆』と言って、その頃物笑いにしたという。)

(兼山記)
0762人間七七四年2020/01/31(金) 03:24:15.61ID:97HhbuUN
永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は。近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて
北越を御進発され、北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。その足で直ぐに木澤城に
押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、北国、南海、
京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。これにより軍勢は平井の陣所から
あふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。そのような中、
所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、初対面となる東国武士の心も知らず、
諸手へ乗り入れ兜も被らず、白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、その人を虫とも思わぬ
振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、自分たちの首の斬られる事疑いない。」
(假令如何なる良将にてもおわせ此人を主と頼なハ首の切れん事無疑)

そう思って困り果てない者は居なかった。『将至って剛きは則ち士必ず応じず』という兵法の言葉は
この事なのであろう。

(松隣夜話)

上杉謙信が怖すぎて、関東武士のみなさん、却って謙信の下に付きたく無くなってしまったというお話。
0763人間七七四年2020/01/31(金) 07:50:57.04ID:2p182VAP
成田長泰が下馬しなかったから烏帽子打ち落とした話までは書いてないか
0764人間七七四年2020/01/31(金) 22:38:35.43ID:LRiK7arZ
そもそも不識庵が義の武将なんて嘘のイメージを作ったの誰なんだろうな
0765人間七七四年2020/01/31(金) 23:48:48.17ID:Q1L6WlMm
>>764
比較対象が信玄なら、謙信ですら義将になるってことかも…
0766人間七七四年2020/02/01(土) 00:29:57.50ID:xb5ZsLQv
森蘭丸の蘭の字が他の兄弟の名前見る限り乱のがあってそうな気がせんでもないんだけど
やっぱり蘭の字なんだろうか
0767人間七七四年2020/02/01(土) 01:07:34.67ID:n/NFstfN
>>766
同時代史料だと、森乱、或いは乱法師。
蘭丸表記は江戸期になってからだね。
0768人間七七四年2020/02/01(土) 01:13:51.72ID:7C4kLm0Z
(最初の越山の小田原包囲の後)近衛(前久)殿は小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴岡に御社参され、
謙信公はこれを守護された。これに対し宇佐美駿河守(定満)は、「事終われば速やかに去るべきだと
申し伝えられています。この度の御社参は参るべきではありません。」と申し上げた。然しながら謙信公は
「何程の事が有るものか。」とこの意見を用いられなかった。

鎌倉に於いて半日人馬を休め、瀧山という閑道にかかり、その世は関山の広野に御宿陣された。諸軍は
小田原より平井へ帰され、御供には加治内匠、柴田大学、宇佐美駿河、直江山城、本庄清七、河田豊前、
長尾小四郎、中條五郎右衛門、大田三楽、かれこれ八千に過ぎなかった。これに対し三月末の二日間に
夜半ころより敵が幾重ともなく取り巻き、その松明は峰の形に光り、晴れた夜の星よりも繁く鉄砲を
放ち掛け、襲おうとした。

さて、この鎌倉八幡宮にて東国の諸将は近衛公方へ御礼を遂げる時、忍の成田長康(泰)という者が
酒に酔い、言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。この遺恨によって、成田長泰は一門家族を催し、武州の千葉・清党(清原氏)を語らい、
謙信公が幸いにも小勢の折節であるのを覗い、足軽をけしかけ夜軍にして討って恨みを報ぜんと企てた。

しかし謙信公はこれを察知した。「成田めが野伏を仕掛けるとは。しかし暗夜でもあり切所でもあり、
これより彼らを追い詰め討ち果たすのは叶いがたし。太田殿と直江は公方(近衛前久)を警護されよ、
中條は戦場を見計らって宇佐美と策をめぐらせ敵を近づけ一戦を遂げ、少しであっても打ち取るように。
本庄清七、加治内匠は後陣に下がり、小四郎と協力して小荷駄を守護仕れ。」と下知を成し、自身は
柴田大学と河田豊前を前後として、平塚という小さき尾に陣を張り、夜を明かされた。

敵は次第に近づき、矢石を雨のごとく飛ばしてきた。中條五郎右衛門、宇佐美駿河は足並みを見せ
敵を広野へおびき出し、伏兵を起こして鑓を入れて追い崩し、敵四十余人を討ち取った。

しかし後陣に付けておいた小荷駄両陣の内、長尾小四郎はこれを守ることが出来ず、同名伝左衛門は
敗軍に及んだ。これによって小荷駄は残らず奪われた。

これに対して謙信は大いに怒り、翌日早朝に長尾伝左衛門の首を切り関山に掛けさせ、そうして家来たち
二十四人、歴々の者達と一所にて残る敵を一人も残さず討ち捨てにした。その敵の中でも特に働きの有った
兵士を、自ら鑓を以て突き伏せられた。

夜既に暁天に及び、敵は残らず引き退いたため、日が出て後軍を発し、古路にかかり、大田三楽が先陣を打ち、
直江山城が後陣へ下り、九里の山中も難なく押し通り、その夜には葛見に宿した。そこで酒飯を備え危軍を
労り、三楽を客位に請し物語暁天に及んだ。ここで謙信は諸士に語った

「関東諸州の面々、皆弱兵であると思い侮って、伝左衛門に昨日小荷駄を預けたのは、某一代の不覚であった。
そうでなければ、どうして成田長泰ごときの敵にこれを奪われるだろうか。私は常々、甲州の武田信玄には
私が及ばない長所があると思っているが、それはこの事なのだ。あの法師は、弱敵と見ても猶弓矢を大事に
取り、このような卒爾の無い人物である。大事の場であると思えば誰であっても迂闊なことはしないものだ。
しかしそう考えない場所では、動くときも慎みが無く敵に対して疎略な対応をしてしまう。
信州更科の村上義清などは、軍の場にいどみ相対する時は、武き事も賢き事も、信玄に勝りこそすれ
劣るものではない。しかし愚に正直なる男であるので、常々細かい配慮がなく、そのため度々遅れを取るのだ。」
と申された。

(松隣夜話)

例の鶴岡八幡宮での謙信と成田長泰のお話ですが、こちらは退去どころか即座に謙信に夜討をしかけるという
アグレッシブな話になってますね。
0769人間七七四年2020/02/01(土) 03:00:00.37ID:xb5ZsLQv
>>767
おお、やっぱり蘭の字は後付けでしたか
ありがとうございます

信長が後世に暴君的な扱いになっていくにあたって乱丸が傾国の美女的な扱いになっていくようになった感じなんですかね
その途上で麗しそうな当て字が当てはめられた的な
0770人間七七四年2020/02/01(土) 03:12:15.38ID:PeSnTRaX
>>766
館山市立博物館で見た蘭丸が団平八に宛てた自筆書状は「森乱」で花押部分の署名は「成利」だったよ
0771人間七七四年2020/02/01(土) 03:22:34.69ID:971EeQfn
芝居では名前を変えなきゃならないから
小田春長、森蘭丸、真柴久吉、武智光秀
というように変えていたら蘭丸だけややマイナーだからそのまま広まったのかと思った
0772人間七七四年2020/02/01(土) 04:36:30.64ID:72hdcskU
もし蘭丸がもっと表立って活躍してたらあの兄や弟みたいな性格で蘭じゃなく乱の方が有名になっていたのだろうか
どうにも蘭丸は大人しくてしっかり物のイメージしかないから本当は乱と言われても違和感がある
0773人間七七四年2020/02/01(土) 11:52:50.07ID:6FJYrFcW
傅兵衛 勝蔵 坊丸 力丸 千丸
ここに蘭を入れるのは違和感あるな
0774人間七七四年2020/02/01(土) 21:03:01.30ID:2CcDwnar
>>768
>言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。

成田「おこなの?(´・ω・`)」
謙信「o(`ω´*)o」
小四郎&伝左衛門「小荷駄を任されたぞ!」
0775人間七七四年2020/02/02(日) 00:30:47.35ID:ZMW/EJLp
謙信、結構短気な逸話多い気が
いやまぁ実際書状でとにかく馬鹿って言葉使いまくる人だから切れやすいかもしれないけども
短気で悪口のボキャ貧な謙信公が腹筋に候なんてパワーワード生んだのが面白い
0776人間七七四年2020/02/02(日) 04:00:17.37ID:3/dAnLfC
永禄五年正月、北条氏康は武田信玄へ使者を以て依頼をした。

『武州松山の城は以前より氏康持分の所であるが、それを去年、太田三楽(資正)が越後の柿崎と合わさって、
量らずもこれを乗っ取られてしまった。松山は東国の固めであるため、それ以降奥筋近国の手使が心のままに
叶わなくなった。であるので、この氏康は近日人数を出してかの城を取り返しいたいと考えている。
そういう事なので、三楽は必ず越後に後詰めを頼り、上杉謙信を引き出す事疑いない。今回は必ずかの城を
奪回するつもりなので、信玄公には氏康の警護をしていただきたい。松山城を取り返し、武州を押さえ
治めることが出来れば、以前の如く節々の御不祥の義を申し入れるような事は無くなるであろう。』

武田信玄はこれを了承し、甲州並びに信州に陣触れされ、二月下旬に信玄、嫡子義信一万八千余騎にて
武州に発向された。北条は氏康、嫡子氏政、その弟源蔵(氏照)の二万八千余騎、両家合わせてその勢
四万六千余騎が松山城を取り囲み、昼夜をいとわず攻めた。武田勢の内、甘利左衛門の与力・米倉丹後が、
竹束と言うものを用意して城に寄せた。諸手攻め近づいたため、城内からの火砲による抵抗もさほど威力を
発揮せず、籠城の兵士たちも気力を失った。城代の上杉友貞(上杉憲勝)も軍卒も、粉骨を尽くし難く、
武田北条は五万に及ぶ大軍で間断なく攻めたため、防戦の術も尽きて二月十日、上杉憲勝は降伏し、
城を明け渡した。

太田三楽はこれ以前に、越後に使いを出して、上杉謙信が出陣する旨の返答を得ていた。これによって
後三日も城が持ちこたえれば難なく寄せ手を追い払うこと疑いなしと思っていた所に、存外の急な落城であり、
臍を噛んで前橋まで出向き、謙信の到着を待った。

北条氏康、武田信玄は、謙信が出陣してくることを上杉憲勝が白状したため、これを聞いて両軍山を
後ろにし、利根川を前に立てて鳥雲の陣を成した。

謙信はそれから二日して、八千騎にて前橋に到着し、太田三楽に対面すると激怒した
「これほどの不覚人に要害を預け、この謙信を引き出し手間を取らせ恥をかかせたこと、甚だ奇怪である!
こんな事ならば三楽を討ち果たす!」
と、刀に手をかけ、その場で三楽を手打ちにしようとする様子であった。これに三楽は騒がず、静かに
申し上げた

「仰せ、誠に尤もであります。しかしながら上杉(憲政)殿御浪人以来、それがし程の小身にて氏康の
大身の持分に挟まれ、今まで滅びること無く居られたのは、全く他でもなく、偏に謙信公の弓箭のお陰です。
ですので今回に限らず、何時であっても氏康信玄の大軍に仕掛けられてしまっては、それがしの二千三千の
兵では、たとえ呉氏孫氏の術を得ていたとしても手に及ばぬ事であり、何度でもお助けを待ち奉るしか方法は
ありません。
である以上、この三楽がたとえ禽獣であったとしても、どうして川の流れを酌んで、その水源を枯らすような
事をするでしょうか?

上杉憲勝は多年私の手について、武蔵上野所々の働きを任せてきましたが、終に不覚を取ったことは
ありませんでした。また三楽の重恩を以て全う仕る者でありました。ですのでこのような事が有り得るとは
考えなかったのです。それはそれがしの愚昧の成す所なのでしょう。是非に及びません。

籠城にあたって弓箭、鉄砲、弾薬、兵粮等は、ともかくも半年は不足の無いよう覚悟を仕っていました。
また今回のあまりの事態に、人質に取っていた、上杉憲勝の弟と実子をここに召し連れてきています。
これらをどうぞご覧になってください。」
そう言って兵粮弾薬の注文表と、上杉憲勝の子弟を御目にかけた。

謙信は立ち上がると、二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、一つ召すと、これを三楽に指し与えた。
三楽は『少しでも躊躇しては良くない』と思い、差し寄って一つ傾け、その上で側より引き取り、虎口に
死を免れた心地にて息をついだという。

(松隣夜話)
0777人間七七四年2020/02/02(日) 12:07:25.19ID:aJsksDuw
野蛮にも程がある
0778人間七七四年2020/02/02(日) 12:18:51.87ID:JORXOmS3
>>776
>二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
>一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、
漫画のラスボスかよw
0779人間七七四年2020/02/02(日) 14:19:38.57ID:v9fR+9K+
ヴィンランド・サガの初期にありそうな展開
0780人間七七四年2020/02/02(日) 17:10:21.74ID:TaRyTcHC
岩明均の「雪の峠」にそのまま出てくる話だな
0781人間七七四年2020/02/02(日) 17:29:37.77ID:aroExui4
歴史漫画に便乗して
センゴクのプーチン謙信なら普通にやりそう、だと思った
0782人間七七四年2020/02/02(日) 22:49:38.55ID:bEQuBdMs
イスラム国の処刑人でも真似できないだろ?
07831/22020/02/03(月) 01:03:13.60ID:JYHGVG8w
>>776の続き
上杉謙信は再び太田三楽を呼び出すとこのように言った
「私がここまで遥々出てきた以上、敵と手を合わせずに帰ることは出来ない。しかし利根川の北条・武田の
陣に掛かれば、信玄は工夫の深い人物でもあり、また手を詰めたような合戦に成り難しい。
そこでこの近辺に、氏康の要害は無いか?」

そう尋ねられたのを三楽承り
「山根城と申す所が、奥へ下道を四里の場所にあります。これは氏康秘蔵の要害であり、ここには忍の
成田の弟である小田助三郎、長野対馬守を置かれています。

ただし悪いことに、そこに行くには武田北条の両陣の前を遥々と奥へ通らねばなりません。
またそこを突破し要害を攻めることが出来たとしても、この城主は氏康奥筋の先手を任された
老功の者であり、千五百の人数が堅くこれを守っています。
前には城堅くして雌雄が決せられない内に、武田北条両旗にて押し懸られては甚だ危うい御軍となって
しまいます。
さらに、仮にこの城が手に入ったとしても、遠国の事でありますから保持は諦め乗り捨てにするより他に
道はなく、このような無益の場所の攻略に、腹心に等しい配下の大功の武士達を損ずるというのは、
御手違いであると存じ奉ります。これについて直江殿、宇佐美殿は如何お計らいに成るでしょうか?」

そう申した所、謙信はまた気色を損じられ、諸老の異見も窺われず
「謙信が守る所はそれではない!」
と、直ぐに須田という者を野根川の北条武田の両陣に使いに立て、このように伝えた

『輝虎は松山後詰めのため、ここまで罷り出てきたのであるが、早速に落城していた上は是非に及ばず、
あなた方も定めて、たぎらぬ振る舞いであると思し召しになっているだろう。恥じ入るばかりであり、
このままで罷り帰るというのは、両御旗に対し弓箭の無礼であると存じる。
そこで、氏康公秘蔵の要害と承る山根を明日押し破るつもりである。
その事無用と思し召すならば、両旗にて如何様にもこれを妨げられるように。』

そして利根川の品木の渡しに船橋を掛けさせ、押し渡って後に綱を切って船橋を流し、越後勢に太田三楽勢が
加わりその勢一万余騎にて武田北条陣の前、九町ばかりの傍を押し通り、山根城へと攻め寄せた。
この時太田三楽は内々に、『今度の戦いは他に譲ることは出来ない。』と考え、謙信に対したって先陣を乞い、
自身の軍勢二千に対し「我らの内一人でも生きている間は、越後衆に太刀を抜かせてはならない!」と
手の者達を励まし下知した。

この時の謙信の備にて定められた城攻め先鋒の面々は、西の手に大田三楽二千、南は柿崎和泉守、北條丹後
二千六百、東は直江山城守、河田豊前あわせて二千、御旗本は甘粕近江、長尾小四郎、中條五郎右衛門、
竹股勘解由、赤輪新介等であった。

謙信は諸将に会し「今度は無理に各々の一命をこの輝虎が所望申す。城攻めの方法は、私が下知を加えるに
及ばない。ただ荒攻めに仕るように。私はこれよりそれを見物する。もし武田北条による後詰めの有った時は、
本陣の合図に従ってこのように備を立てるように。」
そう言うと絵図を出した。

一方の山根城中はそのような事を全く知らず、矢倉にいた侍が小田助三郎の役所に来て「利根川の方より
馬煙夥しく見え、それが次第に近づいています。氏康公が奥筋に御手使されるのでしょうか?」と報告した。
これを聞いて小田助三郎も覚束なく、長野対馬守を伴って矢倉に上がりこれを見た。しかし両将としては、

「利根川に陣している軍門の前を押し通り、敵が通るはずもない。近国には上杉輝虎と太田三楽以外に
敵は無い。そして輝虎と三楽は松山城の後詰めのため昨日より前橋に到着したと聞いたが、松山城が
落ちた以上今日には定めて帰陣するはずである。
もし又、謙信が誤って奥筋に手勢を使わしたとしても、両将があのように居られるのだから、どうして
一戦もなく通るだろうか。

ではあるが又、味方であるとも見えない。大物見をかけよう。」

そして小田小四郎及び与力同心五十騎を引き連れ、自ら物見に出て七、八町西にあたる円山峠に乗り上げた所で、
太田三楽の先手である渋谷の一手が三百ばかりにて、険しい山の峰をつらぬいて攻め寄せてきた所に行き逢った。
双方は衝突し鑓を合わせ、一足も退かず各々の敵に当たり、そして物見の兵士は一人も残らずこの丸山にて
討ち死にし果てた。小田は太田の家来、深川修理という者に討たれ首を与えた。
07842/22020/02/03(月) 01:03:50.11ID:JYHGVG8w
長野対馬守は小田の便りを今か今かと待っていた所に、丸山の辺りに鉄砲の音が聞こえ、誰かは解らぬが
その勢二千ばかりが攻め懸けて小田の配下の者達を追い来たる、急いで対処せねばと判断した所に、
また南の山手より、銀の吹き流し矢筈の指物数多指した一備、馬煙を挙げて近づいてきた。長野は大いに
驚き手分けをして各持ち口に馳せ合わせようとしたが。混乱し騒動したため下知も届かず、長野対馬守は
歯噛みをして「口惜しや!利根川の腰抜けたる味方を頼りとし不覚の死を遂げるものかな!」と言い捨て、
西の門を破って敵勢に乱入し、太田勢に馳せ向かうと、与力同心一四、五人共々暫く戦い、東を顧みると
北條・柿崎両手の馬印が早くも本丸に迫っていた。河田組、直江組もそれに続いて攻め入り、その中でも
太田勢は西の川の手より険しい山を一息に攻め上り外郭を破り、二の曲輪の門際まで切り行ったが、
長野対馬守が隙無く防戦したことで本丸への侵入を許さなかった。しかしながら城兵たちは敵より
あまりに強く攻められたために足を立てることも出来ず、明いていた北の方向に推しなだれた。

これを見て長野対馬守は同心の由良五六を近づけ、「御辺は早々に本丸へ入り、小田と我が妻子たちを
下知してよきに計らってほしい。郎従たちも残っているはずなので、きっと未だ事を果たすこと出来ると
推量している。どうか、頼み入り候。」

そう伝えると五六も委細相心得、「御心安く御戦死遊ばし候へ、それがしは御子息たちの御供を仕り、
直ぐに追いつき参るでしょう。」と申して立ち別れ、主従四人にて本丸役所へ入り、長野と小田の
妻子に自害をさせると、五六自身もその場で自害した。
長野対馬守は「この城を辛労してどうにか守っているが、一体いつまで保てるものか。この上は
心ゆくまで打ち合おう。」と、三楽の旗本に斬って掛かり、比類なき働きをして。父子主従、
十七人が一所にて討ち死にした。

こうして、直江山城、河田豊前、柿崎和泉、北條丹後、太田三楽ら三方より同時に乗り入れ、謙信公の
下知に任せ、老若男女、僧俗を分けず当たるを幸いに突き伏せ斬り倒した。
こうして謙信公の諸勢は過半が城に乗り入れた。この時御旗本より、竹股勘解由、本庄清七の組、合わせて
六百ばかりを別けて北の方に廻し鉄砲を以て逃げ出す者を撃った。このため助かる者は、百人のうち
一、二も有ること稀であった。

城中に籠もった者達は北条家に於いて度々武辺仕る、戦いに馴れたる勇士たちであったのだが、鉄砲を二打と
快く放つ者も無いほど、三方の寄手が急に攻めて刹那の間に乗り入れたのである。

謙信公は丸山よりこの様子を終始見られ、「侍は勿論の事、雑人下部まで一様に身命を塵とも思わぬ
働き、見事である。」と、度々称賛された。

辰の刻(午前8時ころ)に取り合い始まり、午の刻(午後12時ころ)に乗っ取った。今回、山根城において
死んだ者は、上下、男女、僧俗、童、おおよそ二千六百であった。
寄手で死んだ者は三百七十五人、手負い五百人であった。

事終わって直ぐに諸手を丸山に引き入れ、腰兵糧を使わせて人馬を休ませ、城は乗り捨てにして
また元の道を帰り、利根川下の瀬の渡り前橋へ入った。
永禄五年二月十三日、山根城合戦とは、これのことである。

(松隣夜話)
0785人間七七四年2020/02/03(月) 01:10:21.16ID:77IM5cvd
このキャラ付けが何がどうなって義のひとに味付けされたんだろ
0786人間七七四年2020/02/03(月) 02:36:28.59ID:/IgTbzXx
撫で斬りから3文字脱落したんだろう
0787人間七七四年2020/02/03(月) 08:30:00.80ID:S5bz4vh3
>>784
ここまでやったのに
>城は乗り捨てにしてまた元の道を帰り
災害かな?
0788人間七七四年2020/02/03(月) 14:19:52.48ID:4Cy1SCXO
松隣夜話だからといえばそれまでだけど
直江景綱の官途名混同してるな

>>787
松山城後詰に失敗した意趣晴らし100%の城攻めだから
武威を示すために残虐になるし
災害以外の何者でも無いわな
0789人間七七四年2020/02/03(月) 19:17:18.00ID:HwF5Po/z
城攻めなのに寄せ手の被害のほうが圧倒的に少ないのは、流石というかなんというか。
0790人間七七四年2020/02/03(月) 22:05:21.49ID:TG2SWWxN
信長「謙信って残虐だよな」
0791人間七七四年2020/02/03(月) 22:17:06.28ID:/IgTbzXx
史実かはともかく、上杉謙信なるものがこういう人だと考えられてたわけだよな
0792人間七七四年2020/02/04(火) 12:03:52.95ID:T1G3qkQP
人質の童子を寝所に連れてって夜伽をさせるのかと思ったら処刑かよ
きっと兄弟ともにブサイクだったんだな
0793人間七七四年2020/02/05(水) 02:36:08.02ID:NZ2w9/rT
永禄八年七月、上杉謙信配下の柿崎和泉、北條丹後は上州下分にて働き毛作を刈り取り、そこから和田へ
取り詰め巡見をした所、武田衆が堅く守っていたため早々に引き取った。この時、青沼新九郎という
上杉謙信寵愛の小姓が遠筒(鉄砲の流れ弾か)に当たって疵を蒙り、翌日前橋に於いて死去した。
この青沼新九郎は、北條丹後の与力・青沼勘兵衛の三男で、久しく越後へ相詰め、休暇として六月より
父の在所に在った。

謙信公は佐渡より御帰城なされ、この新九郎の死を知らされると、彼が御暇を申さず忍んで父の在所へ
罷り帰り、剰え多日逗留した事は是非にも及ばぬと激怒された。そして既に掘り埋めてあった彼の屍を
引き出させ、これの首を斬り獄門にかけ、父子兄弟悉く追放された。

また、いかなる密事をお聞きに成ったのか、北條丹後の甥である伊豆守の末の弟・水右衛門という者、
その年二十二、三歳の、若く清気なる侍であったが、彼を飛脚を以て召し出した。
そして普段過ごされる部屋に彼を呼んで御言葉をかけ、例の國吉二尺九寸の刀にて袈裟斬りに斬り捨てられた。

(松隣夜話)

残虐な逸話の残っている武将というのは多く在るけれども、自身で人を手にかけるという描写がこんなに
多いのは謙信くらいでしょうね。
0794人間七七四年2020/02/05(水) 03:53:57.45ID:IgwN6hfh
わけのわからないところで激怒するのが本当に怖いな…
0795人間七七四年2020/02/05(水) 07:47:21.68ID:CBM3uDpN
酒を飲んだら人が変わる
0796人間七七四年2020/02/05(水) 07:51:23.83ID:IcG/PCM6
>>793
なんで斬ったのかだれか解説してくれ
0797人間七七四年2020/02/05(水) 08:06:05.81ID:LXVG1nRp
青沼新九郎
 越後に詰めていなければならないのに、無断で実家に帰って、
 戦死するまで3ヶ月も自分の役目に戻らなかった
 一族も新九郎を役目に戻るように計らわなかったので追放

北条高広の甥・水右衛門
 何かしらの密謀に関わってた(と謙信が判断した)ためお手討ち
0798人間七七四年2020/02/05(水) 09:08:46.43ID:JdBizlSl
さすが謙信台風
落馬しかけたときに助けようとした家臣を怒鳴りつけて殺した逸話があるらしいけど、松隣夜話が出典かな?
0799人間七七四年2020/02/05(水) 10:24:14.44ID:InAPMqiN
謙信公の名を貶めるようなことばかり書くとはまるで中韓アレルギーのネトウヨが如き作者ですね
0800人間七七四年2020/02/05(水) 11:17:49.48ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな
0801人間七七四年2020/02/05(水) 11:49:01.96ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね
0802人間七七四年2020/02/05(水) 12:02:25.48ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし
0803人間七七四年2020/02/05(水) 12:08:21.59ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?
0804人間七七四年2020/02/05(水) 12:32:39.88ID:LXVG1nRp
>>797
6月に家に帰って7月に戦死だから
3ヶ月→1ヶ月(しかも最長で)
だった、赤っ恥
0805人間七七四年2020/02/05(水) 12:41:09.38ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)
0806人間七七四年2020/02/05(水) 13:27:34.45ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う
0807人間七七四年2020/02/05(水) 13:28:04.42ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた
0808人間七七四年2020/02/05(水) 16:57:49.65ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな
0809人間七七四年2020/02/05(水) 17:18:38.98ID:ClW7PRNL
ちなみに信長は着工してすぐ安土に来た
信長がせっかちなのを知ってる丹羽は屋敷を用意しておいたのでますます重用されるように
0810人間七七四年2020/02/05(水) 17:36:18.21ID:n3zjBlsZ
信長は自分の意にそぐわないとすぐ激怒するイメージだけどな、馬廻り衆でさえ指示を聞き流しているのか
0811人間七七四年2020/02/05(水) 17:46:59.50ID:1+5PdDNQ
だからこそ激怒しないといけないんじゃないの
いう事聞いてくれるならわざわざ激怒する必要もないし

急激に勢力でかくなったせいで集権化急がなきゃいけない状況になって
綱紀粛正するために厳しめで行かないといけないパターン
0812人間七七四年2020/02/05(水) 17:48:55.11ID:KELwHSj/
秀吉が古参に対して恐怖政治をやった理由の一端なんだろうなぁ。
0813人間七七四年2020/02/05(水) 17:52:01.98ID:dT08o3j2
秀吉は「信長の時代みたいに甘くない」って書状残してるくらいだしね。
0814人間七七四年2020/02/05(水) 19:21:03.19ID:BVx81U5Z
激怒っていうか家臣はすぐに誅殺しないとダメなんだよ
そうじゃないと逆に自分が殺される
とオルガンティーノも書いている
0815人間七七四年2020/02/05(水) 19:38:25.63ID:5aGsRTSp
>>761
>信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
せっかく関東に差向けられたんだから、
そのまま武田領の上野に全軍で攻めこんでなに食わぬ顔で武蔵へ南下すれば良かったのにな。
>そして信忠公は関東平均を打ち納め、京都へ上洛された。
ここ、ここがアレだよね?高々甲斐を落として関東平均などと大抑にならずに、
愚直に武蔵まで押さえて本当に関東平均しておけば本能寺の変も起きなかったんじゃないか?
0816人間七七四年2020/02/05(水) 20:44:40.28ID:yandyTqS
>>815
どうも甲州征伐の織田軍は兵糧不足に陥っていたらしいので無理だな。
なので昨今では、勝頼も粘ってたら織田軍は撤退したんじゃないか、なんて言われたりもしてる。
0817人間七七四年2020/02/05(水) 21:19:40.60ID:ClW7PRNL
>>816
おもてなししてくれた徳川に米を置いていってるよ
0818人間七七四年2020/02/05(水) 21:41:04.61ID:yandyTqS
>>817
平山優『武田氏滅亡』より、天正10年3月23日付山口秀景書状によると、この時の織田軍は
「一、信州雪深く一段と凍っていて人馬が足も立てることができない。寒さは想像以上である
一、不足しているのは兵糧で、諸陣は大変困っている。多くで脱走が起こっている」
と報告してる。また織田軍に対し家康、北条氏政から兵糧が提供されている。
0819人間七七四年2020/02/05(水) 22:29:26.79ID:n3zjBlsZ
氏政から兵糧を貰っておいて関東制圧するぞとはならんよな

信長は律義で有名だから
0820人間七七四年2020/02/05(水) 23:38:00.41ID:IgwN6hfh
>>819
北条が駿河に攻め込んだのに取り上げ、それどころか上野・北武蔵などの国人衆が
滝川一益の指揮下に収まることになり事実上領地取り上げになりましたけど、なにか?

そりゃ、信長死んだのがわかったら、即、滝川一益を攻めるわな。
0821人間七七四年2020/02/06(木) 00:37:29.52ID:a/URv4ty
攻め込んだの滅茶苦茶遅いけどな
0822人間七七四年2020/02/06(木) 01:36:38.86ID:wiW6qKyX
永禄九年、越府において、七組衆を初め諸侍は上杉謙信より正月の配膳を給わった。
御儀式は慣例通りに執り行われ、これが終わった後、御座間に於いて賞禄を給わった。
各々、名字を詳らかにせず加恩、与力を与えられ、御機嫌に預かる侍は、百二十余人に上った。

深淵金太夫という尾州浪人は、十年以来御家中にあった。この者が謙信の御座所の次の間において、
仙可という若年の童坊と些細な事で口論となり、金太夫は仙可を捕えて上に乗りかかり床に押さえつけた。

この事に気がついた謙信は、御腰から放さない貞宗の脇差にて、片手討ちに二人を重ねて一刀で、
四つに斬り放した。

仙可の親、内記という者は側でこれを見て憤激した
「金太夫はここでの儀を怖れぬ狼藉者でしたから、こうされるのも仕方ありません。ですが仙可は未だ
童の身であり、金太夫から遁れることが出来なかっただけで、科はありませんでした。それを同罪に
なされるとは、是非に及ばぬ!」

怒りの余り脇差を抜き、謙信公へ斬り掛かった。これに謙信公はあやまたず踏み掛かって、二刀で斬り
伏せられた。謙信公の最初の太刀は、内記もよく合わせこれを避けて身に当たらなかったが、後の太刀にて
右の腕を、手首から二寸ばかり残して斬り落とされた。それでも内記は左手に脇差を持って、猶も斬り合おうと
したが、これに謙信公の御小々姓である上村伊勢松が走り寄り、内記の高股を斬って討ち伏せ仕留めた。

謙信公は伊勢松に「今日は汝と相討ち(二人で相手を討つ事)した。」と、大いに笑われた。

(松隣夜話)
0823人間七七四年2020/02/06(木) 08:45:51.62ID:zg2W6YPH
>>822
笑う要素どこ…w?
0824人間七七四年2020/02/06(木) 08:58:16.92ID:nO95//2p
片手で二人を重ねて一刀とは原哲夫の世界だな。
0825人間七七四年2020/02/06(木) 10:00:16.23ID:NeGRkwvU
笑止の沙汰だ
0826人間七七四年2020/02/06(木) 12:54:53.45ID:+wvKkEem
親なら斬りかからないとどっちにしろ詰みだな
こんな場で喧嘩するって酒入ってたんだろうな
0827人間七七四年2020/02/06(木) 21:26:57.16ID:+MBBoFkl
この性格の人間が家臣言う事聞いてくんないもういい出家する!
ってやるのかー
0828人間七七四年2020/02/06(木) 21:56:12.30ID:E9GYgRkG
>>822
内記もぐずぐず喋っていないで無言で刺せば仇をとれたのにな
0829人間七七四年2020/02/06(木) 23:00:28.75ID:nTcMQh8p
>>827
おまえらが引き留めたんだから好きなようにやらせて貰う!になったんじゃない?
0830人間七七四年2020/02/06(木) 23:29:58.29ID:PE7MHHeN
どうせ死ぬし言いたい事言ってから派手に散るべし
武士の口上は戦闘力と同等に大事
0831人間七七四年2020/02/07(金) 00:58:18.23ID:ho3rY9kO
派手な口上かました挙句爺さんの額に切り傷つけただけの浅野内匠頭は
仕留めるために充分に準備してた稲葉正休って例があんのにだっさいわー
みたいなこと言われてたはずなんで、やっぱ口上よか本懐遂げるのが重要かも?
0832人間七七四年2020/02/07(金) 06:33:08.17ID:uaynckgV
4つにするの好きね
0833人間七七四年2020/02/07(金) 07:09:16.88ID:RkOdVTm7
>>824
花の慶次を読んだ時は盛りすぎだろwと思ったもんだが
謙信は漫画より奇なりだったでござる
0834人間七七四年2020/02/07(金) 09:49:33.76ID:knDHv29+
突発事態な上に斬りかかる相手が家臣でなく大名というか謙信
0835人間七七四年2020/02/07(金) 10:06:27.59ID:rWSfBsWj
バーサーカー謙信
0836人間七七四年2020/02/07(金) 13:14:39.06ID:xFe63+7P
称号:謙信
0837人間七七四年2020/02/07(金) 14:31:37.94ID:zDEfqtYs
上州佐保と申す侍の娘、若年の女性であったのを、上杉謙信公が近年召され、常に寝殿より離さなかった。

その彼女がある時、故郷の見廻りのためとして御暇を申し上げ罷り帰った。この時謙信公は取次の
女房に、「三月二十日の前後、日限を違わず故郷より戻り出仕すること。」と、堅く申し聞かせた。
彼女はいつも故郷を懐かしみ、また謙信の申し付けを聞かない事があったという。取次の女房はこれを承ると、
くどくどしいほど申し付けた上で帰郷させた。
しかし、三月二十日が過ぎてもこの娘は出仕せず、四月上旬になっても故郷に逗留していた。取次の女房は
気遣いの余り飛脚を仕立て指し寄こし、彼女を呼び出した。

四、五日経て後、謙信公は彼女が戻ったことをお聞きに成ると、御不斷所に召し出し「人や候」と
仰せに成ると、御小々姓の荒尾助九郎という者が罷り出た。謙信公は彼にこう仰せになった

「この女、去る仔細あり。只今ここで成敗仕れ。女なる故に私が直にはせぬ。」

荒尾はこれを承ると『少しでも遅々仕るにおいては、我が身が全う出来ない。』と思い、御声が下されたと
同時に脇差を抜き、彼女が小首を傾ける前に討ち落とした。

総じて謙信公御家中にては、死罪の者は他を十とすると二、三のみであった。
ただし死罪に及んだ者は、事によって侍であれば、半分は御前に召し出され、御坪の内などにて
三十五人衆(謙信に仕えた主な武将の総称)に仰せ付けて処刑させ、稀には自身で遊ばされた。

太田三楽はこの事を後日承ると、北條丹後にこのように語った
「貴方の主人である謙信公は、御武勇の義はさて置き、それ以外の御気質を総じて見奉る所、
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人であろう。つまり生まれつき、怒りやすくその感情のまま
致す事が多いという癖がある。それ以外は、或いは猛く勇み、無欲清浄にて器量大きく、廉直にして
隠すことはなく、明敏にして下を察し士を憐憫して慈しみ、忠諫を好んで容れられる。
このように、末世の現代に於いて有難き名将であり、故に八つは賢人と訓し申したのだ。」
そう談笑して去った。

(松隣夜話)

女色を絶ったと言われる上杉謙信にも、こんな側女(?)についての逸話があるのですね。
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