ここに遠都という座頭が在った。彼は元々都の者で、平家物語を語る事、当時無双の名を得ており、また
敷島の道(和歌)にも通じていた。ところがある年、京都に騒動が有り、十八歳の時にこの備中へと下向し、
偏に三村元親を頼った。元親は仁愛厚い人であったので、憐れを加え、官位を勾当に進め、天正二年の秋頃には
検校にまで進め、甫一検校と号した。

この甫一も元親に深恩を感じ、備中兵乱が起こり、三村元親が備中松山城籠城した事を聞くと、遠路波濤を凌ぎ
天正三年中春の頃、当国に下向した。しかしこの時は国中戦場の様相であり、甫一は夜となく昼となく、
山川険路を憚らず、ようやくに松山城へと忍び入った。

元親は彼と対面すると
「盲人のここ迄の志、誠に山雲海月の馴染みであっても愁眉を開き積情を傾けるであろう。しかしこのように
急なる時節であるから、何の口であっても通行できる所より帰洛あるべし。」と進めた。
しかし流石に名残惜しく、一日二日と相延し、落城まで留まった。

そして落城の前日、五月二十一日の暮れ方、馬酔木より送り出した。ところが悪党どもがこれを見つけ、
「いざ、彼を謀って衣装を剥ぎ取ろう。」と相語らい、跡をつけた。甫一検校は渓路に下る麓にて、
悪党たちが呼び止める声を聞いた。甫一は状況を察知し、「すわ、時刻の到来したか。」と心得、
「暫し待て。」と左手を上げ、辞世の句として「都にも…」と最初の五文字を唱えたその時、只一討ちに
首を刎ねられたのである。

また、中村右衛門尉家好という、三村元親に随身していた乱舞の藝者も、甫一と一緒に馬酔木より下ったので
あるが、甫一検校の有様を見て、「もはや遁れられない」と思ったか、悪党たちに走り懸かり、日名の源九郎
という者の細首を丁と打ち落とした。しかし「痴れ者が居るわ。」と、悪党たち数十人が彼に向かい、即座に
切り伏せられた。

彼らは誠に一藝に名のある者達であったので、これを惜しまぬ人は居なかった。

(備中兵亂記)