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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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戦国ちょっと悪い話46
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戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
0663人間七七四年2019/12/13(金) 23:30:59.34ID:7tRh0pW4
当人に責任があるのは正則だけのような
それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ
0664人間七七四年2019/12/14(土) 00:43:50.77ID:B9HMV06b
戦って散れということか
0665人間七七四年2019/12/14(土) 11:24:20.94ID:gZ81JtYR
藤松次右衛門と、津田野小源太と申す者があり、藤松次右衛門は舅、津田野小源太はその婿で
あったのだが、両人がそれぞれを相手取って公事(訴訟)を起こした。しかし非常にたわけた公事で
あったため、この訴訟を裁こうという者は誰も居なかった。

この事を太夫殿(福島正則)がお聞きに成り、
「さてさて、憎き奴らにて何とも申し付けようがない。である以上、神前にて鉄火を取らせるように。」
と申し付けられた。これにより、神前に竹棚を拵え器を重ね、それから黒鉄を長さ8寸、幅2寸に
仕り(1寸は約3センチ)、フイゴを立てて真っ赤に熱した。

両人は裃を着し、舅の次右衛門が先ず、熊野の牛王神符を三つ折りにして、両手に牛王の端を大結に
包むと、その上で鉄火を金鋏にて挟んで両手の上に乗せた、次右衛門は三歩あゆみ、いかにも静かに、
素早く器の上に鉄火を置いた。牛王神符は塵となり、器も焼けた。

婿の小源太も同じように手にとった牛王神符に鉄火を乗せ、いかにも足早に、少し手前から器に向かって
鉄火を投げた。

それから両人の手を布の袋に入れて3日過ぎて見てみると、次右衛門の手は火傷で腫れ上がり、
小源太の手は火傷していなかった。これによって次右衛門は切腹し、そして小源太は、訴訟が鉄火にまで
及んだため御奉公致し難く、御暇を下されるよう申し上げた。

太夫殿はこれを聞くと
「小源太は若年の頃より側で使っていたため、多少ひいきがましく思っていたが、にくき奴で、
殊に馬鹿な事をした。そこで腹を切らせろ」
(小源太若年よりそばにつかい被申候故、少ひいきかましく被存候得共、にくきやつ
殊にばか成仕形、其にて小源太腹切らせ候へ)

と言って、切腹させた。

(福島太夫殿御事)

鉄火をした意味が良く解らない。
0666人間七七四年2019/12/14(土) 14:31:35.78ID:weGXiG/K
ノブが鉄火禁止にしたんじゃなかったのか。
0667人間七七四年2019/12/14(土) 15:32:12.05ID:LyzXRgMA
>>665
たわけた揉め事なので鉄火でいいってのは論理的だなw
0668人間七七四年2019/12/14(土) 16:23:38.59ID:q3vyqnhr
結局、両者切腹かw
0669人間七七四年2019/12/14(土) 18:04:06.30ID:6Qt5nNWK
>>662
中途半端にすり寄るからじゃないのかな、藤堂高虎ぐらい尻尾を振れば生き残れるのに
0670人間七七四年2019/12/14(土) 19:13:00.61ID:gZ7AuHZc
こんだけ手間かけといて鉄火まで行ったのを理由に辞めるとか舐めた事言い出したのか
0671人間七七四年2019/12/14(土) 23:07:30.81ID:ZwYPSKTU
>>669
藤堂は外様で唯一駿府に屋敷を持って本多親子と親しくする一方で
次代を見据えて江戸の土井、酒井の娘を一族に嫁がせるとかやってるからな
こういうところでの心配りの方が重要だったと思う
0672人間七七四年2019/12/15(日) 00:18:04.15ID:Tb2jvQB0
自分は大丈夫みたいな思い込みもあったんかな
0673人間七七四年2019/12/15(日) 09:20:11.35ID:m85Y+NJZ
生駒「藤堂と縁組してれば潰されないよね」
06741/22019/12/15(日) 11:41:47.53ID:ejsf4hb3
太夫殿(福島正則)の家来に来島左門と申す者があり、知行千石取りであったが、たいへんな
かぶき者であった。また杉村四郎兵衛と申す侍の小舅である、林傳兵衛と申すかぶき者が居たが、
彼は牢人であり杉村四郎兵衛に頼って彼のもとに居住していた。

ある時、この林傳兵衛がいかにも長い刀を研ぎ屋にあつらえさせていた所、この研ぎ屋に来島左門が
参り、長々しい刀が坪に立て掛けてあるのに気が付き、「その刀を少し見せよ。」と手に取り、
「さてさて、この刀は一体何者が指しているのか。これは役に立たない。」と言った。
ところが丁度この時、刀主の傳兵衛がそこに在った
「その刀は私の刀である。役に立つと思ってこうして拵えさせている。それを役に立たないとは
不審に存ずる。」
そう申した所、左門は
「誰が刀主とは知らず申したのだが、言った通りであり是非に及ばぬ。この刀は其方の刀か、
このような刀は役に立たぬ。」
これに傳兵衛は
「いかにも役に立てて見せよう!」と申し、長々しい口論となった。

さて、竹中斎宮と申す五百石取りは太夫殿の側小姓であったが、彼もまた大変なかぶき者であり、
羽織などに『生過ぎたりや廿五』と大紋などに散らして、それを太夫殿の前でも着していた。
彼が先の牢人・林傳兵衛と日頃より親しくしており、故にあの来島左門と傳兵衛の口論の事を
聞かされた。ところがこの竹中斎宮はわるものであり(斎宮わるものにて)、来島左門の知り合いの者に
「研ぎ屋で牢人である林傳兵衛の刀を左門が見た事で、散々にやりつけられ非常に見苦しい様子で
あったそうだ。」と悪口を言った。知り合いの者はこれを左門に語ったが、左門は
「それは牢人の嘘だ。彼は私に返す言葉もなかったのだ。」と申し、これを聞いた斎宮は傳兵衛に
またこれを語り

「このままでは男として成がましい故、来島左門と果し合いをすべきである。私は助太刀を致す。」
と申した。そしてその後斎宮は左門に
「其方に林傳兵衛が果し合いをするそうだが、殊の外身の用心をして人を数多連れておくべきである。」
と申した。左門はこれを聞くと
「さてさて、その牢人が私と果し合いをすると申しているのか。やさしき申し分であるが、かの者に、
何時であっても私は一人で歩く。そう心得られよと伝えて頂きたい。」と申し、それより左門は毎日、
広島の街中を草履取りも連れずただ一人でで、20日ほども歩いたが、特に変わったことも無かった。

ある時、2月の彼岸に海善寺という浄土宗の寺で談義の有る時、来島左門は小姓一人を連れて
この寺に参ったが、林傳兵衛はその彼の跡を付け、左門のいる場所に密かに人の中を分け入り、
左門の後ろに忍び寄った。この時竹中斎宮は彼の助太刀を約束し、傳兵衛の後ろに忍んでいた。

傳兵衛は左門を討ち取ろうと「おぼえたるや!」と言葉をかけ刀を抜いた、左門は「心得たり!」と
申すや太刀速に傳兵衛を一刀で討った。そこに斎宮が、左門が立ち上がろうとした所を長刀にて
突き殺した。左門の小姓は刀で斎宮としばし戦い、斎宮はそのまま引き帰った。そこから直に城へ
参ると太夫殿へ
「来島左門が牢人と喧嘩をし、海善寺にて果てました。」と報告した。
06752/22019/12/15(日) 11:43:28.73ID:ejsf4hb3
一方、左門の小姓は寺から直ぐに、左門の叔父で四千石取りの村上彦右衛門の所に参り、今までの仔細を
伝えると、彦右衛門は驚き、先ずは御城に参り、太夫殿へ申し上げた
「左門が喧嘩をした所、竹中斎宮が助太刀し、左門を突き殺しました。斎宮に処罰を仰せ付けられます
ように。」
太夫殿はこれを聞くと「斎宮はたった今、左門は喧嘩で果てたとだけ言っていた、不審なことである」
と申された。これに彦右衛門は
「左門の小姓がその場に居合わせ、斎宮の長刀とせり合い、長刀の柄に切れ込みを入れたと申して
おります。斎宮の長刀をご覧になって下さい。」
そう申し上げたため、斎宮の長刀を取り寄せご覧になった所、柄に切れ込みが在った。

このため竹中斎宮は自身の屋敷で蟄居していた所、村上彦右衛門らがにわかに押し込み、塀を破って
切り入らんとした所、内より理り申して来たことにより、扱いと成って斎宮に腹を切らせた。

その後に太夫殿はこのように申された
「杉村四郎兵衛もにくき奴であるので、内々法度にて申し付けよう。牢人を抱え置いて喧嘩をさせたのは
曲事である。」と、彼の組頭である蜂屋将監を呼び出し「杉村四郎兵衛も切腹させるように」と
申し付けた。この時四郎兵衛の屋敷は闕所となったため、四郎兵衛の馬をどうするべきかと、この
馬を持ち去った。太夫殿はこれをお聞きになると

「さてさて、四郎兵衛はにくき奴で心がけが専一で無かったが、蜂屋将監に預け置いたのに、
将監の申し渡しは覚悟が無い。大事の侍を預け置いた所に馬を持たせないのは大いなる間違いである!
今後のためにも将監は罰金として銀20枚を出すように。」
との事で、銀20枚をお取りになった。

(福島太夫殿御事)

いろんなとばっちりだらけの話
0676人間七七四年2019/12/15(日) 22:41:22.10ID:GGURV1yb
こんだけ血気盛んな奴らばかりなのに、なんで幕府相手に一戦かまさなかったのかね
0677人間七七四年2019/12/16(月) 00:54:01.68ID:YZiNpUgO
>>669
福島・加藤の改易は
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&;item_id=933&file_id=18&file_no=1
読むと、正直どっちも自業自得としか…

徳川に頭を下げる云々以前の問題。
0678人間七七四年2019/12/16(月) 14:57:54.04ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
「豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に
0679人間七七四年2019/12/16(月) 18:27:38.91ID:RnBCNb55
>>676
格下には強く、格上には弱い。
お家存続とプライドの両立にはこれしかない。
0680人間七七四年2019/12/16(月) 21:41:13.66ID:2dd4nNln
>>679
最低じゃないですか〜
0681人間七七四年2019/12/18(水) 15:08:24.44ID:fk6UWCwO
備中国の沖郡半国は、石川左衛門佐殿が旗頭であり、その下に一郡半郡の大将である、長谷川、清水、
林、鳥越、尾石、上原、中島、などといった歴々の侍が持ち固め、隣国からの侵入を防いでいた。
また同国奥郡の内を、須々木、秋山その他にて持ち固めていた。

ところが、石川左衛門佐殿に実子がなかったため、奥郡の内、須々木、秋山の一家より養子を取り、これに
高松城を渡して後に相果てた。この養子は筑前守と申したが、これも若い頃に相果て、男子が無かったため
高松城は城主の居ない事態となった。そこで旗下の者達が内談し、筋目の儀である事から、須々木か秋山と
談合して城主を定めようと申していた。

このような中、清水長左衛門(宗治)は高山という城に在ったが、彼は「侘所の者を我々の旗頭と認めるのは
心外な事である。願わくば私が下知をしたい。」と考えていた。この時長谷川と申す者も、高松城主と
成ることを望んでおり、どうなるのか心許ない状況であった。

そのうちに、長谷川方の内談として、「清水長左衛門も高松城主を望んでいると伝え聞く、とにかく先手を
越されては厄介なので、折を見て長左衛門を滅ぼそう。」という話が伝え聞こえた。

永禄八年八朔の出仕の日、諸侍が残らず登城した時、清水長左衛門はこの長谷川を手討ちにし、旗下の衆に
「今日より高松城主は私に定まった!野心の衆が有ったため只今存分にした!」
と申し渡した所、これに否を唱える者は一人もなく、「そういう事ならば人質を申し受ける。」と、
残りの者達より四、五人の人質を城中に取り込み、それより様々に下知を加え、以降国中が固まったという。

その後、毛利家が各地で強盛となり、備中沖郡についても小早川隆景公の御旗下となった。
ところがこれに関して、須々木、秋山らが手切れを成した。この時は因幡国鳥取籠城の時期で、
清水長左衛門はこれに出陣していたため留守をしており、息子の才太郎は当時八歳であったが、高松城下の
小川で五、八人の体にて遊びに出ていた所に、須々木、秋山より、忍びの者数人が密かに高松城近辺に
派遣されており、この時才太郎を拐い人質に取って帰った。

長左衛門が留守でもあり、取り返す手段もなく、城の留守居より因幡国へ注進がなされた。これを
隆景公に申し上げ、清水長左衛門は帰国して須々木、秋山と和平の手を遣わしこれを調え、才太郎の兄弟を
須々木の娘へ遣わすという事で、才太郎を取り返した。そして又すぐに因幡へと出陣した。

その後、因幡は毛利家の御利運となり、帰陣の際に備中奥郡も支配下に置きたいとの、隆景公より御談合があり、
須々木、秋山を「舅入の祝いである」として饗し、高松へ呼び寄せた所を討ち果たし、これにて異議なく
奥郡も隆景公が手に入れられたのである。

(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水宗治も非常に戦国の国衆らしい動きをしていたのですね。
0682人間七七四年2019/12/19(木) 09:02:13.80ID:uE+yDcay
>>681
清廉潔白なイメージが…w
0683人間七七四年2019/12/20(金) 21:51:58.76ID:R4W40bDn
好い人では生きていけないのか
0684人間七七四年2019/12/24(火) 17:25:07.07ID:5KvSs45W
筑前中納言秀秋が小早川隆景公の御養子となられ、その節に私(清水景治)も中納言殿に仕えた。
当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。

その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。

(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)

石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん
0685人間七七四年2019/12/24(火) 18:56:03.58ID:/YRjfqII
>>684
ただの忠義者ではなく見る目もあったなw
0686人間七七四年2019/12/24(火) 20:16:09.32ID:ZCiNnBz+
>>685
無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。

丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。

たったの数年で何回転封してるんだよ…
0687人間七七四年2019/12/25(水) 10:20:38.11ID:wAqUySn3
七光だけで出世したって言ったら金吾殿に失礼かも知れないが、若くしてあまり苦労や現場経験少なくして大名となった人だから、隆景さんの譜代からしたら不満は多かったろうとは思う。
秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…
0688人間七七四年2019/12/25(水) 13:21:37.21ID:PEKeR4Zy
養子ともなれば派遣元からぞろぞろ上層部に入ってきて元々いたのが締め出されるからね
早目に退去するのが正解なんじゃない?それに毛利に帰属すれば地元に戻れるわけだし
0689人間七七四年2019/12/25(水) 13:53:53.99ID:fTTdlNyz
>>686
現代で言うところの社長のバカ息子(三男)って感じだな…
0690人間七七四年2019/12/25(水) 16:04:18.98ID:bta+ixQJ
ミラー見ろよ池沼
0691人間七七四年2019/12/26(木) 08:10:22.77ID:qAsgelBv
小糸坂の由来

飛騨高山市にある小糸坂は小糸焼の名で知られる陶器で知られる場所であるが、この地名の由来について。
かつて飛騨を支配した姉小路頼綱が新たな居城として松倉城を建てた際、領内には母親と親娘2人で暮らす小糸と言う名の10歳ほどの少女が居た。
ある時小糸は籠を持ち、野草を摘みに出かけて行ったのだが、小糸はそれっきり母の元へ戻ってくる事はなかった。
母親は半狂乱になって、「こいと〜、こいと〜」と、娘の名前を呼び続けながら来る日も来る日もその行方を探し続けた。
近所の者が小糸の母親に語った所によると、小糸は松倉城の人柱として攫われたと言う者も居たと言う。
そして、小糸を探し続けた母親は松倉城に近い坂で遂には死んでしまったと言い、その場所は後に小糸坂と呼ばれる様になった。
それからと言う物の、松倉城の近くでは夜になるとどこからともなく「こいと〜こいと〜」と言う女の物悲しい声が聞こえる様になり、
姉小路頼綱の命でこの声の元を退治しようと言う猛者も現れたが失敗に終わり、それは松倉城が金森長近と可重の軍によって落城し、廃城になるまで続いたと言われる。


ただし、この伝説は昭和に入ってから作られた話であるとの言い伝えも有り事実であるかはハッキリしていない。
0692人間七七四年2019/12/26(木) 11:32:31.81ID:W5ZsIB+D
姉小路頼綱の飛騨制覇は調べてみるとなかなかに面白い
斎藤家との結び付きが運良く織田家にも受け継がれ同盟国の立場を維持している
長男信綱が謀反の嫌疑により誅されてるのも徳川家と似ていて信長の意向かと勘ぐってしまう
長年の対上杉政策として佐々らと連携していたことが仇となったね
僅か10年にも満たない飛騨一国統治
飛騨関ヶ原と称される八日町合戦は必見です
0693人間七七四年2019/12/26(木) 11:38:00.53ID:1inS1d2K
こいとを線香で供養したら現れるかもしれない
0694人間七七四年2019/12/26(木) 15:57:24.35ID:OPVe8whz
>>690
なんでまだ自殺してないの?
0695人間七七四年2019/12/27(金) 04:33:11.72ID:BvVWsNBD
早く成仏しろよ池沼
0696人間七七四年2019/12/28(土) 12:32:23.90ID:MegngOMD
ここに源家の末葉、備中守護、松山の住人である三村修理進元親が、先父・家親の亡魂を休めんがために
よしなき謀反を企てた。その発端は、将軍・足利義昭が既に西国に御下向あって、中国は悉くその武名に
傾き、御帰洛の謀がしきりと聞こえてきたため、京の平(織田)信長は驚き、謀を廻らして、当国の
元親に密使を立て、自身に味方すれば備後備中両国を宛行うと伝えた。

これに三村元親の一族が馳せ集まり「これぞ願う所の幸いである。何故なら父・三村備中守家親は累年
宇喜多(直家)に遺恨を含み、数回に渡って戦ったが、宇喜多の一族である河内守(遠藤秀清)が備前の
徳良城に在って、家親を暗殺し、剰え当国佐井田庄に攻め入り嫡子・少輔元祐も討ち果たした。
その二代の怨敵を追討する時を待っていた所に、信長より一味を求める使いを得た。急ぎ微運の大樹(足利義昭)
を攻め討ち、忠を尽くし功を立て、信長の助力を以て宇喜多一族を攻め滅ぼし、一家鬱憤の眸を開くべきである。」
そう躍り上がって一議した。

ところがこの中で、同国成羽城主・三村孫兵衛尉親成、同男子孫太郎親宣はこれに同意しなかった
「父の怨敵を討つのにどうして他の力を借りるのか。凡そ武士は忠に止みて仁義を宗とする。たとえ君が
無道であったとしても臣は臣たるべきを道とする。信長の虎狼の謀に従って一家不義の逆臣と成ることも
口惜しい。今信長は不義に誇っているが、これでどうして世が治められるのか。剰え逆心に翻る志は、
人の為す行跡ではない。このような不仁の大将に頼みを掛けて一体どんな益があるというのか。」

このように、義を専らに誠を尽くして諫言したが、良薬口に苦く忠言耳に逆らう習いであれば、一族は
この諫言を憎み、既に彼らを誅殺しようとした。これに親成父子は驚き、天正二年十一月七日の夜、急ぎ
将軍義昭の在る鞆の津へと馳せた。

この事態に元親の家臣が集まり、親成を引き返らせ一族和睦すべきだと議したが、元親の舎弟である宮内少輔元範、
上田孫次郎実親を初めとして「その儀は叶わない事だ。既に神詞を固めており、和睦の余地はない。」と言った。

こうして三村親成父子は鞆の津に到着し、一族謀反の事を訴えた。これに将軍義昭は驚き給い
「私は遠く(織田信長)を慮っていたが、近く足元に敵が在るとは思わなかった。この事いかがすべきか。」
と、早速三原に御使いを立てた。三原の小早川左衛門佐隆景はこれを聞いて「当家の大事これに過ぎず、
誅伐のために時をうつすべきではない。」と、即座に山陰山陽四国西海道に早馬を立て、将軍の御内書に隆景の
廻文を添状として、『時を延べず備中鞆に馳せ上がるべし』と触れた。

霜月八日、小早川左衛門佐隆景、江羽、福原、宍戸、熊谷といった歴々馳せ集まり、毛利輝元も出陣して、程なく
笠岡の浦に至った。その他追々に諸卒馳せ加わり、その勢は八万余騎と記録されている。

(備中兵亂記)

『備中兵乱』の始まりとされる三村元親の毛利氏からの離反について。
0697人間七七四年2019/12/28(土) 17:34:46.59ID:25b58Vzd
義昭さんやっぱり殺しとくべくだったのかしら
0698人間七七四年2019/12/28(土) 17:50:26.27ID:02KSTMFC
信長が西にも兵を向けるのは遅かれ早かれ変わらなかった気がするし、生きて居ようが死んで居ようがそんな大差は無かったんじゃなかろうか?
0699人間七七四年2019/12/29(日) 16:30:42.38ID:xFGavMfM
ここに遠都という座頭が在った。彼は元々都の者で、平家物語を語る事、当時無双の名を得ており、また
敷島の道(和歌)にも通じていた。ところがある年、京都に騒動が有り、十八歳の時にこの備中へと下向し、
偏に三村元親を頼った。元親は仁愛厚い人であったので、憐れを加え、官位を勾当に進め、天正二年の秋頃には
検校にまで進め、甫一検校と号した。

この甫一も元親に深恩を感じ、備中兵乱が起こり、三村元親が備中松山城籠城した事を聞くと、遠路波濤を凌ぎ
天正三年中春の頃、当国に下向した。しかしこの時は国中戦場の様相であり、甫一は夜となく昼となく、
山川険路を憚らず、ようやくに松山城へと忍び入った。

元親は彼と対面すると
「盲人のここ迄の志、誠に山雲海月の馴染みであっても愁眉を開き積情を傾けるであろう。しかしこのように
急なる時節であるから、何の口であっても通行できる所より帰洛あるべし。」と進めた。
しかし流石に名残惜しく、一日二日と相延し、落城まで留まった。

そして落城の前日、五月二十一日の暮れ方、馬酔木より送り出した。ところが悪党どもがこれを見つけ、
「いざ、彼を謀って衣装を剥ぎ取ろう。」と相語らい、跡をつけた。甫一検校は渓路に下る麓にて、
悪党たちが呼び止める声を聞いた。甫一は状況を察知し、「すわ、時刻の到来したか。」と心得、
「暫し待て。」と左手を上げ、辞世の句として「都にも…」と最初の五文字を唱えたその時、只一討ちに
首を刎ねられたのである。

また、中村右衛門尉家好という、三村元親に随身していた乱舞の藝者も、甫一と一緒に馬酔木より下ったので
あるが、甫一検校の有様を見て、「もはや遁れられない」と思ったか、悪党たちに走り懸かり、日名の源九郎
という者の細首を丁と打ち落とした。しかし「痴れ者が居るわ。」と、悪党たち数十人が彼に向かい、即座に
切り伏せられた。

彼らは誠に一藝に名のある者達であったので、これを惜しまぬ人は居なかった。

(備中兵亂記)
0700人間七七四年2019/12/30(月) 04:46:08.44ID:W5RrwIWi
三村元親が滅びた後、その子息である勝法師丸と。元親の重臣であった石川久式の子息は、
備前国の住人、伊賀左衛門尉久隆が生け捕り、毛利の本陣へと渡した。
久式の子息は当国井山に送られた。

勝法師丸はこの時八歳であったが、容貌甚だ優れ、手跡は他を超え、これまでは風光雪月、詩歌の会などで
心を慰め、誠に栄華に生を送っていたが、今は敵の陣屋に身をやつしている。
古の後醍醐の王子・八歳宮( 恒良親王)の愛別離苦とそれは変わらないであろう。

 つくづくと 思ひ暮して入相の 鐘を聞にも君そ恋しき

と詠まれた言葉の意味も今こそ思い知れるのである。

伊賀久隆が彼を本陣に送った時、総金の扇に古歌を書いて勝法師丸に渡した。勝法師丸がこれを開くと

 夢の世に 幻の身に生れ来て 露に宿かる宵の電

と詠まれていた。これを見て「さては本陣に行けば殺されること必定である。脇差を今まで持っていたなら
自害したものを。」と後悔し、その姿は人々に感涙を促した。そして「彼を助けて出家にでも成すべきではないか」
とそれぞれに議していた時、彼は自分の番をする衆にこのように語った

「私は伊賀久隆よりこちらに送られた時、道にて元々の三村家の家人にも行き遭った。しかし彼らは
騎馬のまま乗打をし、君臣の礼儀も失っていた。
私は背かれるような主人であるのだから、このように申すのも恥辱である。しかし前後に歴々の人々が有れば、
これを乗打するのは無礼と成る。各々、いかが思われる。」

これを聞いた者達はみな感嘆し、これを小早川隆景に報告した。隆景は「八歳の子がそれほどの口を実際に
きいたのだろうか」と疑い、また別人に私的に尋ねたが、その通りに語った。

これに隆景は「彼は扶け置けば争いの種子となる事疑いない。」と、誅殺することに決した。
一家滅亡の時節到来なれば、実に哀れに聞こえた。人生が識る事が憂患の始まりと言うが、これは勝法師丸の
事であろう。
石川久式、三村大庭、吉良常陸、同七郎、布施、以下まで死期の働きは目を驚かせるものであった。
或いは組み討ち、或いは刺し違え、二十六日、一同に朝の露と消え失せた。
三村右京進政親父子三人は、作州路より因州へ忍び行ったと聞こえた。

(備中兵亂記)
0701人間七七四年2019/12/30(月) 08:16:22.94ID:NZQUCl55
優秀な若者は手懐けて配下に加える秀吉には勝てないよな
0702人間七七四年2019/12/30(月) 11:29:48.75ID:8SrBYOVW
状況が違うのでは?
0703人間七七四年2019/12/30(月) 15:13:56.55ID:kTlrfzQC
>>699
>辞世の句として「都にも…」と最初の五文字を唱えた

正純「して、中の句と下の句はなんと?」
0704人間七七四年2019/12/30(月) 15:55:37.15ID:h24BMLXx
正信「…と最初の五文字を唱えたその時、只一討ちに 首を刎ねられたっつってるだろうがー!」(バチコーン!)
  _, ,_ ∩))
(*`皿´)彡  パンパンパンパン
  ((⊂彡☆∩)) _, ,_  _, ,_
  ((⊂((⌒⌒ ((Д´≡`Д)) うああぁぁぁ ――――― !!!
      `ヽ_つ ⊂ノ >>703正純
0705人間七七四年2019/12/30(月) 22:11:43.63ID:GYSQozTm
三村は好きな大名
07061/22019/12/31(火) 04:11:37.52ID:v8mFCew0
天正三年六月四日、備中成羽城(鶴首城)には毛利の諸軍勢が集まり、常山表へ攻撃のため陣を移した。
この時、常山城主である三村上野介高徳(上野隆徳)は城内の者達に
「私は多年に渡り芸州に対して鬱憤があった故、三村元親に謀反をさせた張本人の第一は私である。
そうした所に元親が無下に生害に及んだ以上、私は生きて何の面目が有るだろうか。一日も早く死地に
赴く事を思っている。」と語り、少しも騒ぐ気色もなかった。

家の子郎党からは次々と、「一先ず阿波讃岐へ渡海されるべきです!」と諌めの言葉が上ったが、
「阿讃の沙汰は無益である。私は累年細川真之を頼り、既に今度は人質として実子を差し渡し加勢を請うたが、
その甲斐も無く、弓矢の頼りも尽き果てた。」

郎党たちはこれを聞いて、思い思いに欠落する者もあり、或いは弓の弦を弛め降参する者もあり、或いは
小舟に取り乗って逃げようと、櫓よ舵よと言っている間に、これを追いかけ討ち果たす者もあり、このように
家中は散々なる有様であった。

六月六日の晩景、小早川重臣である浦ノ兵部丞宗勝(乃美宗勝)が岸根に旗を上げ、先陣の兵数千人が二ノ丸へ
攻め入り、太刀を閃かせ靭鼓鋏を叩き、鬨の声をどっと上げた。しかし高徳は少しも騒がず、
「命を助かろうとする武者ならば鬨の声にも驚くだろう。明日、辰の刻(御前八時頃)に大櫓に出て一類腹を切り、
名を後代に留まらしむべし。」と、静まり返っていた。

敵陣では猶も悪口し「小舟に乗って島へ逃げるか、泳いで逃げるか!」と、攻め口の油断に成るだろうと、
逆茂木をかなぐり捨ててわめき叫んだ。これに三村高徳は「耐え難い奴原め、いざ高徳の最期の働きを
見せてやろう。」と言うままに、鉄砲を取り広縁に躍り出て隙間なく放ち懸った。嫡子源五郎高秀は、普段は
強弓を好んでいたが、彼も兵とともに鉄砲を放った。高徳の舎弟である小七郎は弓を打ち捨て敵に切り掛り、
互いに声を合わせて戦った。死傷者十四、五騎片時の間に見えたため、すぐにその日の陣を引き上げた。

明けて七日の暁、城内には酒宴の声聞こえ、その多くは女性の声であった。
互いに分れの盃を指し、同日辰の刻、敵陣に向けて「一類自害」の旨を告げた所で、城内の人々は、我こそ
先に自害すると言い合った。

高徳の継母はこの時五十七歳、彼女が先ず一番に自害した。
「我が世に留まって、このような憂き目を見る事も、前世の因業浅からぬ故なのだろう。高徳が芸州に遺恨を含み、
入道したことも世に物憂く思ったのに、それが腹を切る所を見てしまっては、目もくらみ心も悶えすだろう。
少しでも高徳の跡に残るより、先立って自害すべし。」
そう言うと、縁の柱に刀の柄を巻きつけて、そのままそこに向かって貫かれた所を、高徳が走り懸って
「五逆の罪は恐ろしく思いますが」と、その御頸を打ち落とした。

高徳の嫡子高秀は十五歳。父高徳の介錯をしたいとも思ったが、跡に残れば少年故に未練を仕ってしまえば
心残りに成ると、「逆ではありますが、先に腹を切ります。」と言うと、これを高徳聞いて「愚息ながらも
神妙である。」と、扇を開いて彼を仰ぎながら、その紅顔をつくづくと見て、
「水の泡草守る露と成さんこと、後世の障りともなるべし」と、暫く袖を涙に濡らした。
高秀も溢れ出る涙を押し留め、そのまま雪の肌を押し脱ぎ腹十文字に掻き切って伏した所を、高徳がその頸を
打ち落とした。
その舎弟、八歳になる者は、傍に引き寄せ、肝のたばね(内臓の急所、心臓)を二つ刺し貫いて退いた。

高徳の妹に、十六になる姫があった。芸州鼻高山の大将は高徳の弟であったので、この姫には「鼻高山へ
退くように」と進めたが、「それは思いもよらぬことです。」と、老母の体を貫いた刀を手に取って
乳のあたりを突き貫き、これも同時に自害した。

次に高徳の女房(鶴姫)は、修理進(三村)元親の妹で、普段から男子を越えた勇力があり、
「我、女性の身であっても武士の妻であり、子です。最期に敵の一騎も討たずして、悶々と自害するのは
返す返すも口惜しい!況や三好修理太夫(義継カ)従弟として反逆の一族であり(況ヤ三好修理太夫反逆ノ一族トイヒ)
女人の身であっても、一軍をしなくては叶いません。」
07072/22019/12/31(火) 04:13:05.45ID:v8mFCew0
そう言うと鎧を着て上帯を締め太刀を帯き、長い黒髪を解いて颯と乱し、三枚兜の緒を締め、紅の薄衣を着て
裾を引き上げ腰にて結い、白柄の長刀を小脇に挟んで広庭に躍り出た所、春の局秋の局、その他青女房端下に
至るまで三十余人が
「これは如何なる御所存ですか?ただでさえ女人は嫉妬妄執の罪深く、成仏を得ないと言われています。
であるのに、さらに修羅道の罪業まで成すべきではありません。どうか思いとどまって、心静かに自害をなさって下さい。」
そう鎧の袖を掴んで訴えた。しかしこの女房は打ち笑い

「あなたたちは女性の身であるのだから、敵も強いて害しようとはしないでしょう。どこの国へでも先ずは
忍んで行きなさい。もし自害するのであっても、念仏を能く申すので、後世を助かることでしょう。
私は邪正一如と願を立て、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦患をも極楽と成していますから、どうして悔やむ
事があるでしょうか。」

そういって袖を引き放ち城から出ようとすると
「さては私達を捨てられるおつもりでしょうか!?どうせ散る花であれば、同じ嵐にて散り、死出三途の御供を
仕ります。」と、髪をかき乱し額に鉢巻を巻き、ここかしこに立て置かれている長柄の鑓を取り、この三十余人の
女性たちが集まり出ると、累年芳恩の家僕たちもこれを見て我もと集まり、八十三騎が死を一挙として集まり出た。

寄せ手はこの集団を見て、敵はたった今、妻子を先に立てて降人に出したのだと思っていた所、小早川の
重臣である浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)の七百余騎の軍勢の真ん中に喚き懸ってきた。宗勝はこれを見て、
「敵が女人の装束で寄せて来るのは奇っ怪である。これは処女の如くして脱兎の功を作る(はじめは弱々しく
見せかけ敵を油断させ、後で一気に素早く攻撃する事)の謀である。孫氏が秘する所の『虚はこれ実』と言うのも
このような謀を言うのであろう。欺かれて不覚を取るな者共よ!」と、陣を固めて防御したため、これを
破ることは出来なかったが、彼女に従った勇士たちは死を軽んじて突き立てたため、寄せ手の面々は
足を乱し傷を蒙り死を致す者百余騎も有り、この周章狼狽の様子に乗じて、高徳女房は腰より銀の采配を
抜き出して、「突撃せよ者共!」と大勢の中に割って入った。

そして宗勝の兵たちは流石に武勇を嗜んでおり、女人に向かおうという者は無く、勇士が互いに鑓を合わせて
いる所に、女性が傍から潜んでこれを突いたため、これによって負傷したものも若干多かった。
暫く戦っている間に、寄せ手の毛利勢が大勢馳せ寄り彼女らを攻め討った。高徳女房は宗勝の馬前に
出て大音にて罵った

「いかに宗勝!御辺は西国にて勇士の名を得られていると聞く。我女人の身と雖も一勝負仕らん。
そこを引き給うな浦殿よ!」
そう叫び長刀を水車に廻して馳せ寄せた。しかし宗勝は四、五間ばかり後ずさりに退いた。
「いやいや、御辺は鬼であったとしても女である。武士の相手には成りがたし!」と自身は引き、
傍にあった兵五十余騎ばかりにて懸らせた。彼女は長刀で七騎ばかりを薙ぎ伏せたが薄手を負った。
そこでまた大音で叫んだ
「女の頸を取り逃すな人々よ!」
そして腰より三尺七寸の太刀を抜き

「これは我家重代の國平が作の太刀である。一度は先父家親に参らせ、家親の秘蔵として他に異なる宝としたが、
我家の重代の太刀であることを聞き及ばれ返還された物だ。そのような太刀であれば、父家親に副え奉ると思い、
身から離さずに持って来た。この太刀、我が死後は宗勝に進ずる。後世これを以て弔い給え!」

そう言い捨てると城中に駆け入った。その姿はただただ、刀八毘沙門が喜見城を守られた時、吉祥天女諸共
修羅を攻め討たれた事に違わぬと、見る人舌を巻かぬという言うこと無かった。

こうして彼女は西に向かって手を合わせ、「我は西方十万億土の弥陀に頼るのではない。既に身の弥陀、
唯心の浄土は、今ここに現れている。仏も露の如く、また雷の如しと言われる。誠に夢の世に、幻の身の
影を留めて露に宿を借り、雷のように早く立ち帰る元の道である。南無阿弥陀仏。」
そう念仏し、太刀を口に含んで貫き臥したのは、例少き事である。

そして高徳も西に向かい、「南無西方教主の如来、今日三途の苦しみを離れる。先に行った元親、久式、元範、
実親よ、同じ蓮台に迎え給え!」と念仏を唱える声の中に腹掻っ切ると、舎弟の小七郎が介錯し、その身も
自害して高徳の死骸に寄り懸かり、同じ枕に伏せた。見る人聞く人、皆涙を促した。

そして数多の頸が備後鞆に送られ、こうして備中国は平均し、各々に賞功が行われた。

(備中兵亂記)
0708人間七七四年2019/12/31(火) 10:09:15.60ID:euneZmXJ
高徳が逃亡すれば范蠡のような家臣と協力して
会稽の恥を雪ぐことができたのだろうか
0709人間七七四年2019/12/31(火) 11:09:21.12ID:OOCajN32
>>707
激しくて悲しい…
0710人間七七四年2019/12/31(火) 11:42:14.52ID:z7AJ6j9T
           |
            |  彡⌒ミ
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               し \:::
                  \
0711人間七七四年2019/12/31(火) 19:15:41.34ID:X3Fx3h7v
「これは我家重代の國平が作の太刀である。一度は先父家親に参らせ、家親の秘蔵として他に異なる宝としたが、
我家の重代の太刀であることを聞き及ばれ返還された物だ。そのような太刀であれば、父家親に副え奉ると思い、
身から離さずに持って来た。この太刀、我が死後は宗勝に進ずる。後世これを以て弔い給え!」

これ実際に声を出して言ってみたが結構時間かかったわ

随分とのんびりした戦場だな
0712人間七七四年2020/01/01(水) 02:11:30.84ID:ERYVtzyf
>>711
言い終わるまで待つのも武士の心得かも
0713人間七七四年2020/01/01(水) 05:18:10.53ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長は明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね
0714人間七七四年2020/01/01(水) 08:37:42.40ID:f5F7Zkfa
>>707
>宗勝の兵たちは流石に武勇を嗜んでおり、女人に向かおうという者は無く
ある程度の身分があると女性に手をかけるのは憚られたのかな。
寄せ手の毛利勢が大勢で女を討ったってのは雑兵だから?
0715人間七七四年2020/01/01(水) 08:52:27.09ID:7Aktj8/K
弱い者いじめや卑怯な振る舞いは好まれなかった
0716人間七七四年2020/01/01(水) 14:32:13.84ID:yQmgkNIm
>>712
ビー○たけしだったらうるせぇ馬鹿野郎っつって途中でぶった斬ってそうだな
0717人間七七四年2020/01/01(水) 15:16:47.87ID:KFA/VQwB
>>71
>>72
あと根本的な問題として、「女首は手柄として認められない」ってのがある
0718人間七七四年2020/01/01(水) 15:18:50.92ID:KFA/VQwB
間違えた。
>>714 >>715 への返信ね
0719人間七七四年2020/01/01(水) 22:50:41.15ID:f5F7Zkfa
>>717
紳士的な理由かと思ったらそうでもなかったw!
いや多少は女を殺すのはさすがにってのもあるんだろうけど
0720人間七七四年2020/01/01(水) 23:13:40.07ID:trJynkUa
>>719
刀だって刃こぼれ起こしたりしたら後で高いからねぇ…
そら、金にならん女子どもの首取ってもってなりそう
0721人間七七四年2020/01/02(木) 00:24:37.47ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの
0722人間七七四年2020/01/02(木) 03:02:16.34ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。
0723人間七七四年2020/01/02(木) 06:26:47.36ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?
0724人間七七四年2020/01/02(木) 08:04:35.65ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。
0725人間七七四年2020/01/02(木) 08:08:11.91ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。
0726人間七七四年2020/01/02(木) 08:38:24.09ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない
0727人間七七四年2020/01/02(木) 08:52:34.82ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。
0728人間七七四年2020/01/02(木) 09:50:29.58ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ
0729人間七七四年2020/01/02(木) 17:07:09.01ID:sejJu8wT
ネットの掲示板みてりゃ知りうることだけど、ジャップの劣等感がなせる業な。神武以来全ての事件がこれに当てはまる。
0730人間七七四年2020/01/03(金) 20:37:34.33ID:rCkwoRrs
やっぱ怖いッスね、ネット依存症は
0731人間七七四年2020/01/04(土) 10:41:30.12ID:R0GffIiD
こどおじ自殺したんか
0732人間七七四年2020/01/07(火) 10:53:15.60ID:WD7Y1p58
新規参入者募集
皆で競いあってこの乱世の覇者にならないか?
皆で楽しもうぞ
IDに出た数字の分だけ知行を貯めて百万石85
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1570237955/
0733人間七七四年2020/01/07(火) 11:17:33.65ID:TMu6ehAY
大阪冬の陣で、大阪城を取り囲んでいる最中、城中よりのそくたく(属託:報酬を払って依頼すること)にて、
秀頼公より和泉様(藤堂高虎)の元へ御書状を、吉河瀬兵衛と申す者が持ち参った。
和泉様はこれを直ぐに権現様(徳川家康)の元に持ち参った。その書状には

『最前より約束の如く、東の人数を引き出した事、秀頼公は御感に思召して居られる。うしろぎり(寝返り)の
手立が肝要である。御褒美の儀は望み次第である。』

このように書かれていた。権現様はこれを見ると
「良き臣下を討ち果たさせるための、こういった調略は昔から大唐にも日本にもあったものだ。
和泉については、昔からその心を知っている。別心などはありえない。彼は一筋に私の為を考えている。
だからこそ、彼を討ち果たさせるため調略を仕掛けたのであろう。」

そうお考えに成り、この書状を持ち来た瀬兵衛についへ和泉様へ
「彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて城中に追い返すように。」
との御意を仰せになった。和泉様はその御錠の通りに仰せ付け、大野主馬持口であるせんばの門前まで
送り遣わせた。

(藤堂家覺書)

藤堂高虎に対する大阪方の調略について。
0734人間七七四年2020/01/08(水) 09:15:27.34ID:wuaUlWLR
秀頼焼印は夏の陣まで活躍してそう
0735人間七七四年2020/01/08(水) 13:20:37.67ID:9coiYBvL
>>733
あの時代に指10本切るって酷いな、その後どうなったんだろう…。
0736人間七七四年2020/01/08(水) 19:44:05.67ID:pyu+0rYf
ドラえもんの起源
0737人間七七四年2020/01/09(木) 14:03:56.25ID:VmLHog0Y
宗像大宮司左衛門尉興氏は、前の大宮司氏弘の次男であり、舎兄氏郷より譲られて、文明五年仲冬(十一月)三日に
社務となった。大内介義興に属し、諱の一字を給わって一家の親しみを成された。

ある時、興氏が領内を巡見したところ、鐘ノ御崎に至って海面を見渡し、海中に沈んでいる鐘を見つけた。
「この鐘を陸に引き揚げて、世の珍宝と成すべし。」
と、石松和泉守氏真、吉田飛騨守氏明に命じ、領内の土民を駆り集めてこの鐘を引き揚げるべしと議された。

石松、吉田は先ず海人(あま)を用いて鐘の長短を測らせた所、長さ二丈八尺(約8メートル50センチ)、
周縁の尺も同寸で、龍頭(りゅうず:最上部の環状をなしている部分)の長さは三尺あまり(約1メートル)との
事であった。そのため「加賀苧麻(からむし)の大縄を以て鐘をくくり、龍頭の元に引き付けよ」と命じ、
海人三人が海に入った所、すぐに戻ってきて
「鐘の辺りの浪高く、鰐ウツボといった悪魚が出てきて、私達を喰い殺そうとしたため遁れ帰ってきました。
どうにも方法がありません。」と報告した。これに石松和泉守は

「このように、民の労もかえりみず大勢呼び集めたというのに、空しく帰らせては近国までの嘲弄となるだろう。
海人ども、銘々に剣を腰に挿し、胸には鏡一面をかけて海へ入るのだ。そうすれば悪魚の害はない。
急ぎ海に入るべし。さもなくば、船中にて討ち殺す!」(イソキ海ニ入ヘシ、サナクハ船中ニテ討殺ス)

と騒ぎ立てたため、海人たちは「ここで殺されるのも、悪魚の餌になるのも同じ事だ。こうなったら海中に入って
鐘に縄をつけよう。」と、胸に鏡をかけ刀を腰に挿して入った所、辺りに近づく悪魚も居なくなり、思いのままに
縄を掛け、轆轤にて巻き上げ、数十艘の船に土民を乗せて、えいやえいやと引き揚げた。

ところが、不思議なるかな、今まで青天白日であったのが、俄に沖の方より黒雲しきりに起こり、黒風振動雷電
して、雨は車軸を流しければ(車軸のような太い雨脚の雨が降る事、大雨)、目前にあった船三艘は、
もやひの縄(船を他の船とつなぎ合わせた綱)が張り切れて、どこに行ったのか見えなくなった。

この有様を見た宗像興氏は
「この鐘を引き揚げて世の珍宝と成そうと思ったが、それを龍神が惜しみ給っている事間違いない。であれば
縄ともども切り捨てよ!」と命ぜられ、海人たちが縄を押し切った所、たちまちに風雨静まり、元のような
晴天と成った。

しばらく有って、海面に怪しげなものが浮かんだ。「また如何なる事があるのか」と、人々肝を冷やす所に
桂潟の海人が海中に飛び入ってこれを取って上がった。吉田飛騨守が受け取り見てみると、それは老翁の仮面で
あった。そこで興氏に差し上げた、興氏が能々この仮面を見ると、海底にあって幾千歳か経たものなのだろう、
裏表に牡蠣の付いた痕があった。
興氏はこの仮面を、宗像第一宮に納め神宝と成した。不思議な事どもであった。

聞いたところによるとこの鐘は、何れの代であるか、唐土より渡ってきた時、この浦にて唐船がくつがえり、
そして鐘も海底に沈んだ。故にこの場所を鐘ノ御崎と名付けたのである。
正三位義重(斯波義重)の歌に
『聞明かす 鐘の御崎のうきまくら 夢路も浪に幾よへたてん』
と詠んだのもこの浦の事である。

(宗像軍記)

鐘を引き揚げようとしただけでかなり大事に成っているお話
0738人間七七四年2020/01/09(木) 20:16:55.66ID:DyO2kjce
>>737
みんな粋で良い話じゃないかw落ちも素晴らしい
0739人間七七四年2020/01/09(木) 21:57:08.39ID:IbpAwd2n
その鐘は今でもそこら辺にあるんじゃないか
0740人間七七四年2020/01/09(木) 23:48:14.10ID:vpX7xr8P
宗像三女神のような海神は
航海している人の持っているものに目をつけて嵐を起こして
その人がその貴重品を海に沈めない限り嵐を止めないというから
龍神よりも前に宗像三女神の罰だと思いそうだけど
0741人間七七四年2020/01/10(金) 02:57:24.25ID:WBNtECPA
天文二十年八月六日、宗像大宮司氏男、香月次郎左衛門隆光は宗像を出発し、同九日、山口に参着した。
相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を申し入れた所、同十一日、両人ともに
築山の御所に召され、義隆より「遠国よりの参勤、神妙である。」との言葉を頂き、また大友、島津などの
軍某もお聞きになられ、九国(九州)の太平を祝し、ご機嫌、殊の外麗しく、「両人ともに路次の労をも
休められよ。」と仰せになって、氏男、隆光は己の旅館に帰った。

そのような所に、同月二十六日、大内義隆の家老、陶尾張守興房の子息、五郎隆房は義隆公に怨みを奉る
事があり、逆心を企て山口を攻めんと若山の城より出撃したという話が聞こえたため、義隆は宗像氏男、香月隆光
に五百余騎を差し添え千把ヵ嶽に差し向けられ、陶方の宮川甲斐守、江良丹後守の二千余騎と戦っていた所、
搦手の方面での合戦が敗れ、早くも築山の御所に火が掛かり、義隆公は行方も知れず落ちられたと、黒川刑部が
使いに来て伝えた、これを聞いて「今はこれまでである」と、宗像氏男、香月隆光は打ち連なって長門国へと
落ちて行った、相従う軍勢は皆散り散りに落ちて行った。

深川の大寧寺に義隆が居られると聞いて尋ねて行ったが、はや昨日御自害されたと言われた。
両人ともに力を失い、「大内殿の家の滅亡、この時に究り、本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、
或いは自害された。我等は武門に生まれ、生きて帰って誰に面と迎えるというのか。」
そう言うと、両人ともに腹を切って死んだ。あわれなる事共である。

(宗像軍記)

大寧寺の変と、大内義隆の跡を追った宗像大宮司・宗像氏男(黒川隆尚)の最期
0742人間七七四年2020/01/10(金) 20:02:13.30ID:/JcGRl1J
>本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、或いは自害された。我等は武門に生まれ

後世からみたら宗像氏は武士化した社家で
軍事貴族たる武門ではないように思えるんだけど
当人たちの「武門」意識は面白い

 宗像の家摂津守氏国(13世紀前頃)よりこのかたは、もっぱら武門となり……
 この氏俊(14世紀初頃)の時にいたりては、猶更武士をこととして、
 神職の事はなばかりにて、四季の祭祀を勤むる事をいといければ
0743人間七七四年2020/01/11(土) 11:02:53.43ID:Ihnuve94
厳島の神主家然りで武門とのつながり強いとそう言う風になってくんじゃないかな?
0744人間七七四年2020/01/15(水) 12:21:03.23ID:5IJy5yrq
その頃、大谷刑部少輔(吉継)は(関ヶ原へ)出陣の最中であったが、彼が跡に残した屋敷において、
不思議の怪があったという。

九月十三日の未だ宵に、刑部少輔の女房たち数多集まって、「今宵は名にし負う月の名残である。閨中ただ一人
見るらん」と云いし古言も、今身の上にしら露の、起き伏しに付けても殿の御事覚束なく、四方山の物語をし、
また古歌などを吟じ、或いは謡わせ舞わせなどして、月を詠み、酔を勧めて遊ばれていた折節、庭前の木陰に
大勢の声が響き、それらは大変哀れな泣き声であった。

大谷刑部の内室を初めその座にあった女房たちは「これは如何なる事ぞ」と怖ろしく思いながら物陰から
庭の面を見渡すと、男女、その数一、二百、たいへん気高い柩を担ぎ、幡、天蓋、挑灯等、堂々たる規式にて
葬送を行っている有様であった。

その場の人々はこれを一目見て、気も魂も身から出ていくようで、侍共を召し寄せて、「穿鑿せよ」と言っている
内に、消えたように居なく成っていた。

これを見聞きした人々は、折柄の凶しき事であり、忌を思わぬ者は無かった。
奥方の女性たちは恐れおののいて、内室の御手を引き「御休み候へ」と帳内に誘い入れ、大勢の女房衆が
前後左右にかこみ、御伽いたし、勤めた。

そうして留守居の家老達、出頭の面々は次の間に伺候して、槍、長刀の鞘を外し、鉄砲には火薬を込め、
弓は弦をくい締め、内室を守護する体で寄り挙り、色々の雑談をしつつ
「先程の葬送は、狐、狸の技であったのだろう。しかり妖は徳に勝たず。」
などと祝言して居た所、また最前の庭中に、大勢の声で、どっと笑う音がした。

これに女房たちは申すに及ばず、警護の武士に至るまで「是は是は」と肝を消し、皆々あきれていた時、
いと怪しげなる声音にて、

「少しも驚き申さるるな。おっつけ御不審晴れ申さん。」

と高らかに叫んで、かき消す如く失せた。
それより内議評定して、
「これはそのまま捨てておくことは出来ない。軍の様子を聞くため、またこの次第をお知らせするため。」
と、委細の事を書きしたため、早々に飛脚を遣わした。

そしてその遣いが未だ到着しない間に、関ヶ原敗軍して、刑部少輔はたちまちに自害したと聞くと、皆
腰抜け、力を失いてあきれたという。

(石田軍記)

大谷刑部屋敷の怪
0745人間七七四年2020/01/15(水) 15:14:21.83ID:Sy0WILvA
>>743
摂関家なんていう貴族中の貴族の土佐一条も、立派に武家扱いだしなぁ。

時代が南北朝まで遡ると、北畠顕家は、親の北畠親房が建武の新政以前でも権中納言、自身も参議で公卿なのに、ほぼ武家扱い。

もっとも、南北朝期は懐良親王とか護良親王みたいに
皇子ですら前線で戦っていたわけのわからない時代だけと。
0746人間七七四年2020/01/15(水) 17:53:50.97ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』
0747人間七七四年2020/01/15(水) 22:20:49.29ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな
0748人間七七四年2020/01/15(水) 23:12:59.43ID:vFBKfcLy
>>744
妖怪の知らせ…?
0749人間七七四年2020/01/15(水) 23:29:46.81ID:kXcRoRmC
>>744
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ
0750人間七七四年2020/01/21(火) 11:34:34.43ID:BnZENNFy
肥前国の馬場頼周は、少弐の一族であり肥前国内に領地広く、その威勢はびこり、嫡子六郎政は
龍造寺家純公の聟として、龍造寺家と結ばれていた。であるのに、頼周には偏執の心有って、龍造寺の
威が強くなるのを嫉み、少弐冬尚へこのように申し上げた

「公は龍造寺を至忠の者と思召しているのか、龍造寺家門をも後見とされました。あの龍造寺剛忠は、
公の御ためを存ずるようにしながら、内々には大内家に内通し、自立を謀っていると聞き及んでいます。
これが誠であればまさに腹心の病であり、災が起こった後では悔いてもその甲斐はありません。
速やかに、先ず龍造寺剛忠を滅ぼし領地を召され、その後ともかくも御計策あるべきです。」

そのように言葉巧みに讒言したため、少弐冬尚もこれを信じ、馬場とともにその事を謀ったのは
実に愚かであった。これこそ少弐家を断絶させるための天魔の進めだったのではないかと、浅ましく
覚えるのである。

ともかくも時日を移すべからずと、謀をめぐらせて先ず龍造寺の御一家に命じ、西肥前の有馬に従う
者たちを退治するようにと言い、一方で西肥前の侍たちに密かに遣いを送り、有馬氏と通じて密かに
龍造寺を討とうとしたのである。

当家(龍造寺家)はそのようなこと夢にも思わず、軍士を率いて先ず多久宗時の梶峰城を攻め落とし、
六郎次郎周家を遣わしてその城を守らせた。十一月には上松浦を攻めて鶴田因幡守の大川野城を囲み、
日を経て弱らせた。同二十三日、龍造寺伯耆入道剛雲、同讃岐守、同日向守が先登して討ち死にされた。
城主の鶴田は和平を請い、波多三河守も和睦した。

天文十四年正月、千葉種連と龍造寺は連携して有馬を襲うため藤津郡に出張した。正月十六日、平井治部大輔、
前田伊予守、昌永左近等の諸侍が急襲してきたためこれと戦い、龍造寺右京允が討ち死にした。

同十八日、軍を返したが敵が食いつき難儀であった所を、於保備前守、龍造寺新五郎が志久峠にとって返し、
彼らが討ち死にしている間に味方はようやく佐賀へと帰った。

ところがこの時、西肥前の諸将悉くが押し寄せ佐賀を囲んだ。牛津川より東の諸侍、八戸、高木、神代、
姉川、本吉、小田、江上、犬塚、馬場、横岳、以下の人々一人も残らず少弐の命を受けて龍造寺を囲んだのだ。
佐賀城中はさながら籠の中の鳥のごとくとなり、これに馬場頼周は悦び、「この上は謀を以て容易く滅ぼすべし」
と、城中に入り剛忠公にこう申した

「今度の西肥前退治の事、全く有馬追討のためではなく、貴老が大内に内通していると讒言する者があり、
冬尚公もお疑いに成り、西肥前の人々に通じて貴家を絶やさんとするものである。とにかく、先ずは
ここから下城して貴老は筑後に赴かれるのが良い。そして御子孫を私が請け取り、御屋形に対し貴老に
罪のないよりを申し開きます。」

このように懇ろに言って帰った。しかし城中は評議まちまちとなりまとまらなかった。ここに馬場頼周はまた
遣いを立てて『それがし貴殿と縁を結び、別心更に無し。しきりに御屋形へ訴え三息を許されたのだ。
家純公、家門公、純家公は早く筑前へ赴かれよ。周家公、家泰、頼純は屋形に参り拝謁されるべし。
御一家免宥の儀も、この頼周がこのように有りますから、時日のかかることはありません。かえすがえす、
老心を悩ませることこそ推し量り存じ候へ。』と、誠に余儀なき内容であった。

老臣の面々「馬場頼周は誠に御縁者であると言っても、烏喙(欲深い)の相有る人であり、御下城されて
所々で憂き目を見られるより、ともかくこの城にて安否を極められるべきです。」と口々に申すのを
老公つくづくと思し召され、

「面々の諫言一理ありと雖も、つらつら事の心を思うに、野心の名を得て死ぬのは弓取りの本意ではない。
私に野心のないことは天が知っている。もし邪を以て正を謀るのであれば、私ではなく頼周が無道なのであり、
天がもし誠を照らすというのであれば、虚名がいつまでも語られることはない。ただ一旦の心地よきを
差し置いて、末代まで二心の名を得ない事こそ本意である。」

そう言って、正月二十三日、御嫡男である豊後守家純公、次男和泉守家門、並びに孫三郎純家を筑前へと落とされた
のである。

(肥陽軍記)

馬場頼周の謀略による龍造寺家の危機についてのお話
0751人間七七四年2020/01/22(水) 14:11:40.49ID:9a4ADqU9
かくして、美濃土岐家において斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、左京大夫を改め
山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。普段は葦出城に詰めて土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も
「それほど思うのならば召し連れて参れ」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。この人は既に懐妊しており、出産の後
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と
名乗らせた。

太守には七人の子があった。長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、彼を自分のニ男、当時三歳であった
林七郎右衛門通兼の後見として、自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。

この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、父頼芸の老後を介抱して、
後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。

ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を
送ったため、太郎法師は大いに怒り「主従の礼を失うこと奇怪なり。」と、ある時太郎法師丸をはじめ
氏族の面々、旗下の小童数名が、葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、これに
太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、的矢をつがい、城内殿中まで
追い込んだ。(筆者注:的場の前を乗馬で通る事が無礼であると思われる)

太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の
末子市之丞という若輩者と語らい、殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。

こうして山城守はつくづくと考えた。「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ」そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を
頼芸に讒言した。ある時、登城して太守に申し上げたのは
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。御曹司はまだ御幼少ですから
何の御心も有りませんが、伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。しかしながら流石に父子兄弟の
事であるので、そのままにして時が過ぎた。

それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が
諸鐙を打って追いかけましたが、山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、これも偏に御寵愛にほこり
自分が凡下であることを忘れ、御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと
致します。」

そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく
思っていたため何も答えず、「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も
失うべき。」と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、五郎殿は甚だ面目無く三輪へと
帰った。

(土岐累代記)

大河も始まったということで、斎藤道三が土岐頼芸に取り入った様子について
0752人間七七四年2020/01/23(木) 00:03:59.06ID:wsaLouGR
何と言うか、これでもかと言うくらいの蝮っぷり
0753人間七七四年2020/01/23(木) 12:01:44.81ID:AGp9/dHI
土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に
成っていた。

秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。太守頼芸も、防ぎ戦うことにも
及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成った
のである。

頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、村山と
一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを
知って後悔され、すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ
落ちるための殿をした。

かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。信秀は彼らを熱田の一向寺に
入れ置き、それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。この事を山城守聞いて、叶わずと
思ったのか、和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、暫く
国穏やかであった。されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。後に宮内少輔頼栄と改めた。その後、信秀の計らいで、頼芸父子を
大桑城を修復して移らせ給った。

(土岐累代記)

斎藤道三下剋上のこと
0754人間七七四年2020/01/24(金) 02:22:41.06ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。

大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。

山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。

山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。

これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。

天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。

天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。

それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。

(土岐累代記)

土岐頼芸の後半生について。
0755人間七七四年2020/01/25(土) 12:51:57.67ID:id9IS+DC
かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、太守土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として
置いた。頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので
容易く討てないと考え、毒害にて殺した。また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。また日蓮宗常在寺は、
前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を
寺領として寄付し、子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。すなわち常在寺五世日饒上人、六世
日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、天文十五年、織田備前守(信秀)は
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、城下の四方、民家を
悉く放火した。瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、稲葉山城下にて大いに戦った。
織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。城には尾州勢の織田播磨守が
入れ置かれていた。そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

(土岐累代記)

土岐頼芸追放後の斎藤道三
0756人間七七四年2020/01/26(日) 11:54:36.87ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

(土岐累代記)

斎藤道三の滅亡について。
0757人間七七四年2020/01/26(日) 16:44:08.08ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?
0758人間七七四年2020/01/26(日) 17:01:05.07ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓
0759人間七七四年2020/01/27(月) 14:05:59.36ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。
0760人間七七四年2020/01/28(火) 13:40:48.67ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在時に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
0761人間七七四年2020/01/30(木) 01:28:48.66ID:Ii3m2zTb
天正五年五月、森蘭丸、坊丸、力丸の三人共、織田信長卿が召し出され、御近習に召し使われると
仰せ付けになられた。中でも蘭丸は、器量人に勝れ発明であったんどえ、御寵愛限りなく思し召された
故に、御側を離される事がなかった。

信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
武蔵守(森長可)も手勢を率いてお供し、信州伊奈郡、小笠原掃部の城に武蔵守は取り掛かり、攻めた所、
早速に城を明け渡して降参し、城内の者達は旗下に加わった。次に飯田城へ押し寄せ散々に戦い勝利を得られ、
城を乗っ取り、首三百余を信忠公へ進上した。
そして高遠城へ取り掛かり、息も継がせず、各務兵庫、渡辺越中、豊前縫九郎、同市之丞、細野左近、林新右衛門、
同長兵衛、井戸宇右衛門、その他家中一命を軽んじて攻め戦い、この城も長くかからず落とした。

信忠公は御感限りなく、「今に始まらぬ武蔵守が働きよ」と御喜悦斜めならず、御感状を下され、信州四郡、
更科、高井、水内、埴科を下され、海津城を拵え住居すべしと仰せ付けられた。そして海津城の普請のための
軍営が成就した所で、近辺の野伏一万が海津城へと押し寄せ、鬨の声を上げた。この時海津城は未だ堀も
出来ておらず逆茂木すら無かったため、森勢は各々外へ打ち出て追い捲いて、火の出るほど戦った。
野伏たちは堪らず散々に打ち負け引き退いたが、森勢はそれを追い詰め追い討ちをかけて、首三千余を討ち取り、
信忠公へ実検に入れ奉った。信忠公は再び御喜悦斜めならぬ様子であった。そして降伏した小幡備中、春日周防
からの人質を預けられた。

舎弟蘭丸は京都に在ったので、海津城は各務兵庫を城代と為し暫く居住した。そして信忠公は関東平均を
打ち納め、京都へ上洛された。これらの事は悉く信長記に書かれている。

(枠外註:高遠の城攻めで、織田の兵は武田の鋭武に当たること能わず、森の兵は城の屋根に上り、
屋根の上より鉄砲を撃ち入れたとか。『高遠の屋根ふき衆』と言って、その頃物笑いにしたという。)

(兼山記)
0762人間七七四年2020/01/31(金) 03:24:15.61ID:97HhbuUN
永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は。近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて
北越を御進発され、北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。その足で直ぐに木澤城に
押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、北国、南海、
京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。これにより軍勢は平井の陣所から
あふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。そのような中、
所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、初対面となる東国武士の心も知らず、
諸手へ乗り入れ兜も被らず、白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、その人を虫とも思わぬ
振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、自分たちの首の斬られる事疑いない。」
(假令如何なる良将にてもおわせ此人を主と頼なハ首の切れん事無疑)

そう思って困り果てない者は居なかった。『将至って剛きは則ち士必ず応じず』という兵法の言葉は
この事なのであろう。

(松隣夜話)

上杉謙信が怖すぎて、関東武士のみなさん、却って謙信の下に付きたく無くなってしまったというお話。
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