『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

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