トップページsengoku
1002コメント863KB

戦国ちょっと悪い話47

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
06392/22019/12/05(木) 18:09:45.97ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。
0640人間七七四年2019/12/05(木) 20:01:24.24ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)
0641人間七七四年2019/12/05(木) 21:24:34.25ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない
0642人間七七四年2019/12/05(木) 22:44:29.39ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな
0643人間七七四年2019/12/06(金) 09:25:49.12ID:brHVrkeT
天正十八年七月十二日、豊臣秀吉公の命により、北条氏直は紀州高野山へ蟄居することと成った。
彼の北の方(督姫)は徳川家康公の姫君にて、過ぎし天正十一年七月、小田原にお輿入れ成されたが、
いまや別離の御暇乞いにおよび、紅涙に沈まれていた。その心痛わしい中、氏直は肌につけていた
お守りを取り出し北の方に見せた

「これは高祖(伊勢宗瑞)よりの守護であるとして、当家相伝の重宝である。初代早雲庵が
伊豆国より起こって、明応四年九月十三日、湯坂の城に大森不二庵(藤頼ヵ)を追い落とされた時、
夕方に出陣の身固めをされ食事を取り、勝栗を半分食し、半分を鎧の引合に押し入れて出御されたが、
その夜、難なく本望を遂げられた事により、吉例の物であるとして、この勝栗の方辺を綿襴の袋に入れ、
以後氏綱、氏康、氏政、そして私まで、五代の間持ち伝え秘蔵してきた。

私は今、浪客となった。よってこれはあなたに渡して置く。もしまた、この後一門の中から
世に出て家を継ぐ者が有ったなら、その者に渡してほしい。」

そう言ってこれを渡した。北の方は涙に咽びながらこれを受け取り、以降肌身より離さず所持して
いたが、氏直死去の後、彼女が家康公の仰せによって池田三郎左衛門輝政と再婚する事に成った時、
彼女より北条美濃守氏親へ譲られたという。

またこの時、北条左衛門太夫氏勝も高野山に氏直の供をすると、その準備を調えていたのだが、
家康公より殿下に申し入れがあった
「氏勝は最前に麾下に入り、関東諸城への案内をなし、軍功を励みました。これを無下に高野山へ
遣わされるのは理屈が通りません。そのような事をすれば、今後一体何者が我々に帰降して返忠を
成すでしょうか。枉げて本領を宛行われるべきでしょう。」
秀吉公はこれを聞かれると
「忙しさのあまり気が付かなかった。私の誤りである。」
として、氏勝を留め置き相州玉縄の旧領を与えた。

斯くして同月二十日、氏直は小田原を発った。随行する人々は、太田十郎氏房、北条安房守氏邦、
美濃守氏規、左衛門佐氏忠、右衛門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、堀和佐兵衛尉、
依田大膳亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊地七兵衛、以下三十人、
そして雑兵は三百人であった。家康公よりお見送りとして、榊原康政が差し添えられた。
秀吉公は温情を施され、旅中の差し障りが無いようにと、警護の士、駅路の伝馬、道中の賄いを
充分に宛行われ、高野山に至ると二万人(二百人ヵ)の扶持料を賜り、その他雑用、調度についても
要望どおりに準備させた。そして高野山の山上は寒冷が殊に甚だしいと殿下は聞き及ばれ、
これを労り、翌年十一月十日にこの面々を天野の地に移し、衣服、酒茶の類までも豊かに贈られた。

天正十九年の春、氏直は泉南の興応寺に来て半年ばかり滞在し、その間に秀吉公は
彼を大阪城に招き対面して、北畠(織田)信雄の旧宅に入れ白米三千俵を与え、その後来春には
西国中国の内に一国を宛行う事を約束したのだが、氏直は俄に痘瘡を病んで回復すること無く、
十一月四日、三十歳にて逝去された。あれほどの豪家であり、また家康公の聟君であり、
殿下にも慈悲を加えられていたというのに、誠に是非無き次第である。
舎弟の太田十郎氏房も翌年四月二十日、肥前国唐津の陣中に於いてこれもまた痘瘡を患い、
不孝短命にして二十八歳にて卒去した。ここにおいて、北条家の正統は断絶したのである。

(関八州古戦録)

小田原開城後の北条氏直について
0644人間七七四年2019/12/06(金) 10:08:01.62ID:yzluYGCw
氏康「もっと子作りしとけや」
0645人間七七四年2019/12/06(金) 10:39:05.02ID:LVehz+Z0
>>643
都合良くどんどん死んだな
玉縄って北条綱成の築いた巨城でしょう?そんなとこの旧領を北条氏勝に与えて良かったのかしら?
0646人間七七四年2019/12/07(土) 04:32:43.45ID:mZxo5fAk
後詰めもないのに勝てるわきゃねえじゃんヴァーカ
0647人間七七四年2019/12/07(土) 10:55:03.01ID:AzvJW3Lj
なお、この24年後
0648人間七七四年2019/12/11(水) 11:01:10.95ID:+Xsq24cf
最上義光と向去(ムカサリ)道

戦国時代のある日、山形の最上家と谷地の白鳥家の間で縁談の話が持ち上がりました。
最上義光は家臣の蔵増親景に命じて長男の最上義康と白鳥長久の娘の日吉姫(伏姫とも)の婚儀のために、姫を谷地から山形へと迎える新道を(山形から漆山、高擶、蔵増、谷地を通る最短距離の新街道)を切り開きました。

日吉姫はこの道を通って山形に嫁ぎ、沿道の領民たちは、この道を「向去(ムカサリ)道」と呼びました。
それから間もなく血染めの桜で知られる白鳥長久謀殺事件が起き、婚姻が事実上のおしゃかとなると、最上の軍勢がこの新道を谷地まで攻め入り、姫の里の谷地は落城。
「ムカサリ道」は「いくさ道」でもあったのです。

天童にあるこの道も、今ではわずかに名残を留めるだけとなりました。
また、長崎と山辺間の「立道」(たちみち)にも中山氏と山野辺氏の縁組の不幸な逸話があり、以後嫁入りの際は「ムカサリ」はこの道を避けて通らなくなったと言います。
他にもムカサリと冠される橋があり、白鷹町荒砥の「ムカサリ橋」も何故か理由はわかりませんが、昔から「ムカサリ」は渡れない橋だと言われています。伝承は理屈ではないということでしょう。

山形の昔話
天童の昔話
てんどうのむかしばなし第二集
白鳥十郎公ものがたり/槙清哉/著
山辺夜話/武田泰三/著
あらと百物語/荒人・乱舞実行委員会/編
0649人間七七四年2019/12/11(水) 19:54:52.99ID:wpvlNuOq
まとめの
4101「残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され…」
11031「伝説の姫君嶋子」
という逸話では小弓公方の末裔・足利頼純の娘であり
塩谷氏に嫁いでいた嶋子という絶世の美女が、
北条滅亡後、古河だか宇都宮にいた秀吉のもとに参じ
自身が側室となる代わりに小弓公方の血を引く弟と、古河公方の娘を結婚させることで
足利の家(のちの喜連川氏)を残そうとした、てなってたけど

https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/life/news/191211/lif19121112270008-s1.html
家康監視に足利氏を利用? 小田原落城後に出した秀吉の書状見つかる

小田原落城直後の時点でまだ神奈川にいた秀吉から足利頼純に厚遇を約束するような書状が発見されたようで
嶋子側室の件は大して影響なかったのだろうか
少なくとも逸話では嶋子は神奈川には行ってないようだし
0650人間七七四年2019/12/11(水) 20:42:19.27ID:qSXNh1zJ
家康を監視牽制にしては小弓足利を全然活用してないね
かなり気配りした手紙みたいだけど学芸員の妄想じゃないのかな
小弓足利のために動いた里見も削減しちゃってるし
0651人間七七四年2019/12/11(水) 21:23:42.59ID:eRGzA007
豊臣秀吉文書集に収録されてたものだったから読んだけど
秀吉が刀一腰貰った事に対する礼と
北条が滅亡して年来の北条に対する鬱憤が晴れてさぞや満足でしょうってことしか書いてない
この書状の内容だけじゃ到底家康監視のためとは読み取れない
あくまで学芸員の推察だな
06521/22019/12/12(木) 11:31:17.84ID:g+fbVvyj
(慶長五年)九月上旬に、徳川家康公は濃州勝山にお着きに成り、九月十五日に関ヶ原で敗れた
石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。

石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。

その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。

嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て

「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」

このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。
06532/22019/12/12(木) 11:31:45.63ID:g+fbVvyj
この事を太夫殿がお聞きになると
「さてもさても不憫な事だ。」と涙を流し、この嘉右衛門の首を取り寄せ、井伊兵部少輔(直政)殿の
元ににこの首を送り、先の嘉右衛門についての事を伝え「稲図書の首を見せるべし。」と荒々しく
申し入れた。兵部殿はお聞きになると大いに驚き
「ご立腹は尤もです。しかしこれは稲図書が存じているわけではありません。この上はその場で
番をしていた三百人の者達を首にして進ずるので、それでご納得頂きたい。」と返答したが、
太夫殿はこれを聞き入れず

「嘉右衛門の相手は図書である。嘉右衛門はそう申し置きをした。どうしても図書の首を見なくては
ならない。この事を家康公に申し上げて頂きたい。その上で御同心無いのであれば、御忠節はこれまで
である。おっつけ大津へ向かい、家康公に直にお断りを申し上げるだろう。」

このように申し越してきたため、兵部殿は更に驚き、「さてさえ是非もなき義である。」と思われ、
とにかくそれぞれと相談すべきであるとして、浅野紀伊守(幸長)殿、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、黒田筑前守(長政)殿に、この件の扱いを成されるよう頼んだ所、
この四人も内々に太夫殿の性格を存じており、「家康公に申し上げるしか無いでしょう。」との
意見であったため、これを報告した所、家康公は
「それならば三百の番の者達に切腹させ、それにて堪忍するように伝えるべきだ。」と仰せになった。
兵部殿は「先だってそのように申したのですが、まったく聞き入れず『それならば直にお断り申す』と
言っております。」と申し上げた所、家康公は

「さてさて、聞き及んだよりも気違いである(扨々、聞及たるよりも気違にて候)、今は大事の前の
小事であり、是非に及ばず。図書には切腹させよ。」

との上意にて、稲図書は切腹し、その首は太夫殿の元へ遣わされた。太夫殿は大いに悦び
「このようにして頂いて過分に忝ない。」と、すぐに大津へ御礼に参った。

図書は一万石取りの、直参の衆であった。
(福島太夫殿御事)
0654人間七七四年2019/12/12(木) 12:47:09.85ID:t+lw0CPa
>>653
>聞き及んだよりも気違いである
酷いけどそのとおりで草
影武者徳川家康でみたなーこの話
0655人間七七四年2019/12/12(木) 21:53:44.99ID:ZtdUB/mz
だったら番兵三百人の首を送ればいいんじゃないか

今の感覚だと十分気違いだけどな
0656人間七七四年2019/12/13(金) 00:05:02.32ID:YZgR0DVQ
「七分の一の命事件」
ならぬ
「三百分の一の命事件」
として人権教育のネタにされそう
0657人間七七四年2019/12/13(金) 00:13:10.73ID:PYMzNtB9
まあ福島さんですし
0658人間七七四年2019/12/13(金) 08:00:56.52ID:s4xg30G0
三百石と一万石の首じゃ釣り合わんなぁ、三百人犠牲にしろというのもやむなし
0659人間七七四年2019/12/13(金) 10:17:23.42ID:mPdwyCZg
鉄砲傷受けた直後にこんなことで煩わされるんだから、そりゃ直政も死ぬわな…
0660人間七七四年2019/12/13(金) 13:36:01.77ID:8Mf1pdbu
WIKIだと

>>この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。

そりゃそうだ
0661人間七七四年2019/12/13(金) 19:44:49.92ID:ibMCuezW
稲?伊奈?
0662人間七七四年2019/12/13(金) 23:25:36.92ID:kT2im1w3
しかしさあ、加藤清正も福島正則も加藤嘉明も、
丹羽長秀の最期を知っているはずなのに、
どうしてそこから学ばずに天下取りの野望を持つ者に擦り寄って一時の大領を得る事を選ぶかねえ。
0663人間七七四年2019/12/13(金) 23:30:59.34ID:7tRh0pW4
当人に責任があるのは正則だけのような
それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ
0664人間七七四年2019/12/14(土) 00:43:50.77ID:B9HMV06b
戦って散れということか
0665人間七七四年2019/12/14(土) 11:24:20.94ID:gZ81JtYR
藤松次右衛門と、津田野小源太と申す者があり、藤松次右衛門は舅、津田野小源太はその婿で
あったのだが、両人がそれぞれを相手取って公事(訴訟)を起こした。しかし非常にたわけた公事で
あったため、この訴訟を裁こうという者は誰も居なかった。

この事を太夫殿(福島正則)がお聞きに成り、
「さてさて、憎き奴らにて何とも申し付けようがない。である以上、神前にて鉄火を取らせるように。」
と申し付けられた。これにより、神前に竹棚を拵え器を重ね、それから黒鉄を長さ8寸、幅2寸に
仕り(1寸は約3センチ)、フイゴを立てて真っ赤に熱した。

両人は裃を着し、舅の次右衛門が先ず、熊野の牛王神符を三つ折りにして、両手に牛王の端を大結に
包むと、その上で鉄火を金鋏にて挟んで両手の上に乗せた、次右衛門は三歩あゆみ、いかにも静かに、
素早く器の上に鉄火を置いた。牛王神符は塵となり、器も焼けた。

婿の小源太も同じように手にとった牛王神符に鉄火を乗せ、いかにも足早に、少し手前から器に向かって
鉄火を投げた。

それから両人の手を布の袋に入れて3日過ぎて見てみると、次右衛門の手は火傷で腫れ上がり、
小源太の手は火傷していなかった。これによって次右衛門は切腹し、そして小源太は、訴訟が鉄火にまで
及んだため御奉公致し難く、御暇を下されるよう申し上げた。

太夫殿はこれを聞くと
「小源太は若年の頃より側で使っていたため、多少ひいきがましく思っていたが、にくき奴で、
殊に馬鹿な事をした。そこで腹を切らせろ」
(小源太若年よりそばにつかい被申候故、少ひいきかましく被存候得共、にくきやつ
殊にばか成仕形、其にて小源太腹切らせ候へ)

と言って、切腹させた。

(福島太夫殿御事)

鉄火をした意味が良く解らない。
0666人間七七四年2019/12/14(土) 14:31:35.78ID:weGXiG/K
ノブが鉄火禁止にしたんじゃなかったのか。
0667人間七七四年2019/12/14(土) 15:32:12.05ID:LyzXRgMA
>>665
たわけた揉め事なので鉄火でいいってのは論理的だなw
0668人間七七四年2019/12/14(土) 16:23:38.59ID:q3vyqnhr
結局、両者切腹かw
0669人間七七四年2019/12/14(土) 18:04:06.30ID:6Qt5nNWK
>>662
中途半端にすり寄るからじゃないのかな、藤堂高虎ぐらい尻尾を振れば生き残れるのに
0670人間七七四年2019/12/14(土) 19:13:00.61ID:gZ7AuHZc
こんだけ手間かけといて鉄火まで行ったのを理由に辞めるとか舐めた事言い出したのか
0671人間七七四年2019/12/14(土) 23:07:30.81ID:ZwYPSKTU
>>669
藤堂は外様で唯一駿府に屋敷を持って本多親子と親しくする一方で
次代を見据えて江戸の土井、酒井の娘を一族に嫁がせるとかやってるからな
こういうところでの心配りの方が重要だったと思う
0672人間七七四年2019/12/15(日) 00:18:04.15ID:Tb2jvQB0
自分は大丈夫みたいな思い込みもあったんかな
0673人間七七四年2019/12/15(日) 09:20:11.35ID:m85Y+NJZ
生駒「藤堂と縁組してれば潰されないよね」
06741/22019/12/15(日) 11:41:47.53ID:ejsf4hb3
太夫殿(福島正則)の家来に来島左門と申す者があり、知行千石取りであったが、たいへんな
かぶき者であった。また杉村四郎兵衛と申す侍の小舅である、林傳兵衛と申すかぶき者が居たが、
彼は牢人であり杉村四郎兵衛に頼って彼のもとに居住していた。

ある時、この林傳兵衛がいかにも長い刀を研ぎ屋にあつらえさせていた所、この研ぎ屋に来島左門が
参り、長々しい刀が坪に立て掛けてあるのに気が付き、「その刀を少し見せよ。」と手に取り、
「さてさて、この刀は一体何者が指しているのか。これは役に立たない。」と言った。
ところが丁度この時、刀主の傳兵衛がそこに在った
「その刀は私の刀である。役に立つと思ってこうして拵えさせている。それを役に立たないとは
不審に存ずる。」
そう申した所、左門は
「誰が刀主とは知らず申したのだが、言った通りであり是非に及ばぬ。この刀は其方の刀か、
このような刀は役に立たぬ。」
これに傳兵衛は
「いかにも役に立てて見せよう!」と申し、長々しい口論となった。

さて、竹中斎宮と申す五百石取りは太夫殿の側小姓であったが、彼もまた大変なかぶき者であり、
羽織などに『生過ぎたりや廿五』と大紋などに散らして、それを太夫殿の前でも着していた。
彼が先の牢人・林傳兵衛と日頃より親しくしており、故にあの来島左門と傳兵衛の口論の事を
聞かされた。ところがこの竹中斎宮はわるものであり(斎宮わるものにて)、来島左門の知り合いの者に
「研ぎ屋で牢人である林傳兵衛の刀を左門が見た事で、散々にやりつけられ非常に見苦しい様子で
あったそうだ。」と悪口を言った。知り合いの者はこれを左門に語ったが、左門は
「それは牢人の嘘だ。彼は私に返す言葉もなかったのだ。」と申し、これを聞いた斎宮は傳兵衛に
またこれを語り

「このままでは男として成がましい故、来島左門と果し合いをすべきである。私は助太刀を致す。」
と申した。そしてその後斎宮は左門に
「其方に林傳兵衛が果し合いをするそうだが、殊の外身の用心をして人を数多連れておくべきである。」
と申した。左門はこれを聞くと
「さてさて、その牢人が私と果し合いをすると申しているのか。やさしき申し分であるが、かの者に、
何時であっても私は一人で歩く。そう心得られよと伝えて頂きたい。」と申し、それより左門は毎日、
広島の街中を草履取りも連れずただ一人でで、20日ほども歩いたが、特に変わったことも無かった。

ある時、2月の彼岸に海善寺という浄土宗の寺で談義の有る時、来島左門は小姓一人を連れて
この寺に参ったが、林傳兵衛はその彼の跡を付け、左門のいる場所に密かに人の中を分け入り、
左門の後ろに忍び寄った。この時竹中斎宮は彼の助太刀を約束し、傳兵衛の後ろに忍んでいた。

傳兵衛は左門を討ち取ろうと「おぼえたるや!」と言葉をかけ刀を抜いた、左門は「心得たり!」と
申すや太刀速に傳兵衛を一刀で討った。そこに斎宮が、左門が立ち上がろうとした所を長刀にて
突き殺した。左門の小姓は刀で斎宮としばし戦い、斎宮はそのまま引き帰った。そこから直に城へ
参ると太夫殿へ
「来島左門が牢人と喧嘩をし、海善寺にて果てました。」と報告した。
06752/22019/12/15(日) 11:43:28.73ID:ejsf4hb3
一方、左門の小姓は寺から直ぐに、左門の叔父で四千石取りの村上彦右衛門の所に参り、今までの仔細を
伝えると、彦右衛門は驚き、先ずは御城に参り、太夫殿へ申し上げた
「左門が喧嘩をした所、竹中斎宮が助太刀し、左門を突き殺しました。斎宮に処罰を仰せ付けられます
ように。」
太夫殿はこれを聞くと「斎宮はたった今、左門は喧嘩で果てたとだけ言っていた、不審なことである」
と申された。これに彦右衛門は
「左門の小姓がその場に居合わせ、斎宮の長刀とせり合い、長刀の柄に切れ込みを入れたと申して
おります。斎宮の長刀をご覧になって下さい。」
そう申し上げたため、斎宮の長刀を取り寄せご覧になった所、柄に切れ込みが在った。

このため竹中斎宮は自身の屋敷で蟄居していた所、村上彦右衛門らがにわかに押し込み、塀を破って
切り入らんとした所、内より理り申して来たことにより、扱いと成って斎宮に腹を切らせた。

その後に太夫殿はこのように申された
「杉村四郎兵衛もにくき奴であるので、内々法度にて申し付けよう。牢人を抱え置いて喧嘩をさせたのは
曲事である。」と、彼の組頭である蜂屋将監を呼び出し「杉村四郎兵衛も切腹させるように」と
申し付けた。この時四郎兵衛の屋敷は闕所となったため、四郎兵衛の馬をどうするべきかと、この
馬を持ち去った。太夫殿はこれをお聞きになると

「さてさて、四郎兵衛はにくき奴で心がけが専一で無かったが、蜂屋将監に預け置いたのに、
将監の申し渡しは覚悟が無い。大事の侍を預け置いた所に馬を持たせないのは大いなる間違いである!
今後のためにも将監は罰金として銀20枚を出すように。」
との事で、銀20枚をお取りになった。

(福島太夫殿御事)

いろんなとばっちりだらけの話
0676人間七七四年2019/12/15(日) 22:41:22.10ID:GGURV1yb
こんだけ血気盛んな奴らばかりなのに、なんで幕府相手に一戦かまさなかったのかね
0677人間七七四年2019/12/16(月) 00:54:01.68ID:YZiNpUgO
>>669
福島・加藤の改易は
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&;item_id=933&file_id=18&file_no=1
読むと、正直どっちも自業自得としか…

徳川に頭を下げる云々以前の問題。
0678人間七七四年2019/12/16(月) 14:57:54.04ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
「豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に
0679人間七七四年2019/12/16(月) 18:27:38.91ID:RnBCNb55
>>676
格下には強く、格上には弱い。
お家存続とプライドの両立にはこれしかない。
0680人間七七四年2019/12/16(月) 21:41:13.66ID:2dd4nNln
>>679
最低じゃないですか〜
0681人間七七四年2019/12/18(水) 15:08:24.44ID:fk6UWCwO
備中国の沖郡半国は、石川左衛門佐殿が旗頭であり、その下に一郡半郡の大将である、長谷川、清水、
林、鳥越、尾石、上原、中島、などといった歴々の侍が持ち固め、隣国からの侵入を防いでいた。
また同国奥郡の内を、須々木、秋山その他にて持ち固めていた。

ところが、石川左衛門佐殿に実子がなかったため、奥郡の内、須々木、秋山の一家より養子を取り、これに
高松城を渡して後に相果てた。この養子は筑前守と申したが、これも若い頃に相果て、男子が無かったため
高松城は城主の居ない事態となった。そこで旗下の者達が内談し、筋目の儀である事から、須々木か秋山と
談合して城主を定めようと申していた。

このような中、清水長左衛門(宗治)は高山という城に在ったが、彼は「侘所の者を我々の旗頭と認めるのは
心外な事である。願わくば私が下知をしたい。」と考えていた。この時長谷川と申す者も、高松城主と
成ることを望んでおり、どうなるのか心許ない状況であった。

そのうちに、長谷川方の内談として、「清水長左衛門も高松城主を望んでいると伝え聞く、とにかく先手を
越されては厄介なので、折を見て長左衛門を滅ぼそう。」という話が伝え聞こえた。

永禄八年八朔の出仕の日、諸侍が残らず登城した時、清水長左衛門はこの長谷川を手討ちにし、旗下の衆に
「今日より高松城主は私に定まった!野心の衆が有ったため只今存分にした!」
と申し渡した所、これに否を唱える者は一人もなく、「そういう事ならば人質を申し受ける。」と、
残りの者達より四、五人の人質を城中に取り込み、それより様々に下知を加え、以降国中が固まったという。

その後、毛利家が各地で強盛となり、備中沖郡についても小早川隆景公の御旗下となった。
ところがこれに関して、須々木、秋山らが手切れを成した。この時は因幡国鳥取籠城の時期で、
清水長左衛門はこれに出陣していたため留守をしており、息子の才太郎は当時八歳であったが、高松城下の
小川で五、八人の体にて遊びに出ていた所に、須々木、秋山より、忍びの者数人が密かに高松城近辺に
派遣されており、この時才太郎を拐い人質に取って帰った。

長左衛門が留守でもあり、取り返す手段もなく、城の留守居より因幡国へ注進がなされた。これを
隆景公に申し上げ、清水長左衛門は帰国して須々木、秋山と和平の手を遣わしこれを調え、才太郎の兄弟を
須々木の娘へ遣わすという事で、才太郎を取り返した。そして又すぐに因幡へと出陣した。

その後、因幡は毛利家の御利運となり、帰陣の際に備中奥郡も支配下に置きたいとの、隆景公より御談合があり、
須々木、秋山を「舅入の祝いである」として饗し、高松へ呼び寄せた所を討ち果たし、これにて異議なく
奥郡も隆景公が手に入れられたのである。

(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水宗治も非常に戦国の国衆らしい動きをしていたのですね。
0682人間七七四年2019/12/19(木) 09:02:13.80ID:uE+yDcay
>>681
清廉潔白なイメージが…w
0683人間七七四年2019/12/20(金) 21:51:58.76ID:R4W40bDn
好い人では生きていけないのか
0684人間七七四年2019/12/24(火) 17:25:07.07ID:5KvSs45W
筑前中納言秀秋が小早川隆景公の御養子となられ、その節に私(清水景治)も中納言殿に仕えた。
当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。

その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。

(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)

石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん
0685人間七七四年2019/12/24(火) 18:56:03.58ID:/YRjfqII
>>684
ただの忠義者ではなく見る目もあったなw
0686人間七七四年2019/12/24(火) 20:16:09.32ID:ZCiNnBz+
>>685
無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。

丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。

たったの数年で何回転封してるんだよ…
0687人間七七四年2019/12/25(水) 10:20:38.11ID:wAqUySn3
七光だけで出世したって言ったら金吾殿に失礼かも知れないが、若くしてあまり苦労や現場経験少なくして大名となった人だから、隆景さんの譜代からしたら不満は多かったろうとは思う。
秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…
0688人間七七四年2019/12/25(水) 13:21:37.21ID:PEKeR4Zy
養子ともなれば派遣元からぞろぞろ上層部に入ってきて元々いたのが締め出されるからね
早目に退去するのが正解なんじゃない?それに毛利に帰属すれば地元に戻れるわけだし
0689人間七七四年2019/12/25(水) 13:53:53.99ID:fTTdlNyz
>>686
現代で言うところの社長のバカ息子(三男)って感じだな…
0690人間七七四年2019/12/25(水) 16:04:18.98ID:bta+ixQJ
ミラー見ろよ池沼
0691人間七七四年2019/12/26(木) 08:10:22.77ID:qAsgelBv
小糸坂の由来

飛騨高山市にある小糸坂は小糸焼の名で知られる陶器で知られる場所であるが、この地名の由来について。
かつて飛騨を支配した姉小路頼綱が新たな居城として松倉城を建てた際、領内には母親と親娘2人で暮らす小糸と言う名の10歳ほどの少女が居た。
ある時小糸は籠を持ち、野草を摘みに出かけて行ったのだが、小糸はそれっきり母の元へ戻ってくる事はなかった。
母親は半狂乱になって、「こいと〜、こいと〜」と、娘の名前を呼び続けながら来る日も来る日もその行方を探し続けた。
近所の者が小糸の母親に語った所によると、小糸は松倉城の人柱として攫われたと言う者も居たと言う。
そして、小糸を探し続けた母親は松倉城に近い坂で遂には死んでしまったと言い、その場所は後に小糸坂と呼ばれる様になった。
それからと言う物の、松倉城の近くでは夜になるとどこからともなく「こいと〜こいと〜」と言う女の物悲しい声が聞こえる様になり、
姉小路頼綱の命でこの声の元を退治しようと言う猛者も現れたが失敗に終わり、それは松倉城が金森長近と可重の軍によって落城し、廃城になるまで続いたと言われる。


ただし、この伝説は昭和に入ってから作られた話であるとの言い伝えも有り事実であるかはハッキリしていない。
0692人間七七四年2019/12/26(木) 11:32:31.81ID:W5ZsIB+D
姉小路頼綱の飛騨制覇は調べてみるとなかなかに面白い
斎藤家との結び付きが運良く織田家にも受け継がれ同盟国の立場を維持している
長男信綱が謀反の嫌疑により誅されてるのも徳川家と似ていて信長の意向かと勘ぐってしまう
長年の対上杉政策として佐々らと連携していたことが仇となったね
僅か10年にも満たない飛騨一国統治
飛騨関ヶ原と称される八日町合戦は必見です
0693人間七七四年2019/12/26(木) 11:38:00.53ID:1inS1d2K
こいとを線香で供養したら現れるかもしれない
0694人間七七四年2019/12/26(木) 15:57:24.35ID:OPVe8whz
>>690
なんでまだ自殺してないの?
0695人間七七四年2019/12/27(金) 04:33:11.72ID:BvVWsNBD
早く成仏しろよ池沼
0696人間七七四年2019/12/28(土) 12:32:23.90ID:MegngOMD
ここに源家の末葉、備中守護、松山の住人である三村修理進元親が、先父・家親の亡魂を休めんがために
よしなき謀反を企てた。その発端は、将軍・足利義昭が既に西国に御下向あって、中国は悉くその武名に
傾き、御帰洛の謀がしきりと聞こえてきたため、京の平(織田)信長は驚き、謀を廻らして、当国の
元親に密使を立て、自身に味方すれば備後備中両国を宛行うと伝えた。

これに三村元親の一族が馳せ集まり「これぞ願う所の幸いである。何故なら父・三村備中守家親は累年
宇喜多(直家)に遺恨を含み、数回に渡って戦ったが、宇喜多の一族である河内守(遠藤秀清)が備前の
徳良城に在って、家親を暗殺し、剰え当国佐井田庄に攻め入り嫡子・少輔元祐も討ち果たした。
その二代の怨敵を追討する時を待っていた所に、信長より一味を求める使いを得た。急ぎ微運の大樹(足利義昭)
を攻め討ち、忠を尽くし功を立て、信長の助力を以て宇喜多一族を攻め滅ぼし、一家鬱憤の眸を開くべきである。」
そう躍り上がって一議した。

ところがこの中で、同国成羽城主・三村孫兵衛尉親成、同男子孫太郎親宣はこれに同意しなかった
「父の怨敵を討つのにどうして他の力を借りるのか。凡そ武士は忠に止みて仁義を宗とする。たとえ君が
無道であったとしても臣は臣たるべきを道とする。信長の虎狼の謀に従って一家不義の逆臣と成ることも
口惜しい。今信長は不義に誇っているが、これでどうして世が治められるのか。剰え逆心に翻る志は、
人の為す行跡ではない。このような不仁の大将に頼みを掛けて一体どんな益があるというのか。」

このように、義を専らに誠を尽くして諫言したが、良薬口に苦く忠言耳に逆らう習いであれば、一族は
この諫言を憎み、既に彼らを誅殺しようとした。これに親成父子は驚き、天正二年十一月七日の夜、急ぎ
将軍義昭の在る鞆の津へと馳せた。

この事態に元親の家臣が集まり、親成を引き返らせ一族和睦すべきだと議したが、元親の舎弟である宮内少輔元範、
上田孫次郎実親を初めとして「その儀は叶わない事だ。既に神詞を固めており、和睦の余地はない。」と言った。

こうして三村親成父子は鞆の津に到着し、一族謀反の事を訴えた。これに将軍義昭は驚き給い
「私は遠く(織田信長)を慮っていたが、近く足元に敵が在るとは思わなかった。この事いかがすべきか。」
と、早速三原に御使いを立てた。三原の小早川左衛門佐隆景はこれを聞いて「当家の大事これに過ぎず、
誅伐のために時をうつすべきではない。」と、即座に山陰山陽四国西海道に早馬を立て、将軍の御内書に隆景の
廻文を添状として、『時を延べず備中鞆に馳せ上がるべし』と触れた。

霜月八日、小早川左衛門佐隆景、江羽、福原、宍戸、熊谷といった歴々馳せ集まり、毛利輝元も出陣して、程なく
笠岡の浦に至った。その他追々に諸卒馳せ加わり、その勢は八万余騎と記録されている。

(備中兵亂記)

『備中兵乱』の始まりとされる三村元親の毛利氏からの離反について。
0697人間七七四年2019/12/28(土) 17:34:46.59ID:25b58Vzd
義昭さんやっぱり殺しとくべくだったのかしら
0698人間七七四年2019/12/28(土) 17:50:26.27ID:02KSTMFC
信長が西にも兵を向けるのは遅かれ早かれ変わらなかった気がするし、生きて居ようが死んで居ようがそんな大差は無かったんじゃなかろうか?
0699人間七七四年2019/12/29(日) 16:30:42.38ID:xFGavMfM
ここに遠都という座頭が在った。彼は元々都の者で、平家物語を語る事、当時無双の名を得ており、また
敷島の道(和歌)にも通じていた。ところがある年、京都に騒動が有り、十八歳の時にこの備中へと下向し、
偏に三村元親を頼った。元親は仁愛厚い人であったので、憐れを加え、官位を勾当に進め、天正二年の秋頃には
検校にまで進め、甫一検校と号した。

この甫一も元親に深恩を感じ、備中兵乱が起こり、三村元親が備中松山城籠城した事を聞くと、遠路波濤を凌ぎ
天正三年中春の頃、当国に下向した。しかしこの時は国中戦場の様相であり、甫一は夜となく昼となく、
山川険路を憚らず、ようやくに松山城へと忍び入った。

元親は彼と対面すると
「盲人のここ迄の志、誠に山雲海月の馴染みであっても愁眉を開き積情を傾けるであろう。しかしこのように
急なる時節であるから、何の口であっても通行できる所より帰洛あるべし。」と進めた。
しかし流石に名残惜しく、一日二日と相延し、落城まで留まった。

そして落城の前日、五月二十一日の暮れ方、馬酔木より送り出した。ところが悪党どもがこれを見つけ、
「いざ、彼を謀って衣装を剥ぎ取ろう。」と相語らい、跡をつけた。甫一検校は渓路に下る麓にて、
悪党たちが呼び止める声を聞いた。甫一は状況を察知し、「すわ、時刻の到来したか。」と心得、
「暫し待て。」と左手を上げ、辞世の句として「都にも…」と最初の五文字を唱えたその時、只一討ちに
首を刎ねられたのである。

また、中村右衛門尉家好という、三村元親に随身していた乱舞の藝者も、甫一と一緒に馬酔木より下ったので
あるが、甫一検校の有様を見て、「もはや遁れられない」と思ったか、悪党たちに走り懸かり、日名の源九郎
という者の細首を丁と打ち落とした。しかし「痴れ者が居るわ。」と、悪党たち数十人が彼に向かい、即座に
切り伏せられた。

彼らは誠に一藝に名のある者達であったので、これを惜しまぬ人は居なかった。

(備中兵亂記)
0700人間七七四年2019/12/30(月) 04:46:08.44ID:W5RrwIWi
三村元親が滅びた後、その子息である勝法師丸と。元親の重臣であった石川久式の子息は、
備前国の住人、伊賀左衛門尉久隆が生け捕り、毛利の本陣へと渡した。
久式の子息は当国井山に送られた。

勝法師丸はこの時八歳であったが、容貌甚だ優れ、手跡は他を超え、これまでは風光雪月、詩歌の会などで
心を慰め、誠に栄華に生を送っていたが、今は敵の陣屋に身をやつしている。
古の後醍醐の王子・八歳宮( 恒良親王)の愛別離苦とそれは変わらないであろう。

 つくづくと 思ひ暮して入相の 鐘を聞にも君そ恋しき

と詠まれた言葉の意味も今こそ思い知れるのである。

伊賀久隆が彼を本陣に送った時、総金の扇に古歌を書いて勝法師丸に渡した。勝法師丸がこれを開くと

 夢の世に 幻の身に生れ来て 露に宿かる宵の電

と詠まれていた。これを見て「さては本陣に行けば殺されること必定である。脇差を今まで持っていたなら
自害したものを。」と後悔し、その姿は人々に感涙を促した。そして「彼を助けて出家にでも成すべきではないか」
とそれぞれに議していた時、彼は自分の番をする衆にこのように語った

「私は伊賀久隆よりこちらに送られた時、道にて元々の三村家の家人にも行き遭った。しかし彼らは
騎馬のまま乗打をし、君臣の礼儀も失っていた。
私は背かれるような主人であるのだから、このように申すのも恥辱である。しかし前後に歴々の人々が有れば、
これを乗打するのは無礼と成る。各々、いかが思われる。」

これを聞いた者達はみな感嘆し、これを小早川隆景に報告した。隆景は「八歳の子がそれほどの口を実際に
きいたのだろうか」と疑い、また別人に私的に尋ねたが、その通りに語った。

これに隆景は「彼は扶け置けば争いの種子となる事疑いない。」と、誅殺することに決した。
一家滅亡の時節到来なれば、実に哀れに聞こえた。人生が識る事が憂患の始まりと言うが、これは勝法師丸の
事であろう。
石川久式、三村大庭、吉良常陸、同七郎、布施、以下まで死期の働きは目を驚かせるものであった。
或いは組み討ち、或いは刺し違え、二十六日、一同に朝の露と消え失せた。
三村右京進政親父子三人は、作州路より因州へ忍び行ったと聞こえた。

(備中兵亂記)
0701人間七七四年2019/12/30(月) 08:16:22.94ID:NZQUCl55
優秀な若者は手懐けて配下に加える秀吉には勝てないよな
0702人間七七四年2019/12/30(月) 11:29:48.75ID:8SrBYOVW
状況が違うのでは?
0703人間七七四年2019/12/30(月) 15:13:56.55ID:kTlrfzQC
>>699
>辞世の句として「都にも…」と最初の五文字を唱えた

正純「して、中の句と下の句はなんと?」
0704人間七七四年2019/12/30(月) 15:55:37.15ID:h24BMLXx
正信「…と最初の五文字を唱えたその時、只一討ちに 首を刎ねられたっつってるだろうがー!」(バチコーン!)
  _, ,_ ∩))
(*`皿´)彡  パンパンパンパン
  ((⊂彡☆∩)) _, ,_  _, ,_
  ((⊂((⌒⌒ ((Д´≡`Д)) うああぁぁぁ ――――― !!!
      `ヽ_つ ⊂ノ >>703正純
0705人間七七四年2019/12/30(月) 22:11:43.63ID:GYSQozTm
三村は好きな大名
07061/22019/12/31(火) 04:11:37.52ID:v8mFCew0
天正三年六月四日、備中成羽城(鶴首城)には毛利の諸軍勢が集まり、常山表へ攻撃のため陣を移した。
この時、常山城主である三村上野介高徳(上野隆徳)は城内の者達に
「私は多年に渡り芸州に対して鬱憤があった故、三村元親に謀反をさせた張本人の第一は私である。
そうした所に元親が無下に生害に及んだ以上、私は生きて何の面目が有るだろうか。一日も早く死地に
赴く事を思っている。」と語り、少しも騒ぐ気色もなかった。

家の子郎党からは次々と、「一先ず阿波讃岐へ渡海されるべきです!」と諌めの言葉が上ったが、
「阿讃の沙汰は無益である。私は累年細川真之を頼り、既に今度は人質として実子を差し渡し加勢を請うたが、
その甲斐も無く、弓矢の頼りも尽き果てた。」

郎党たちはこれを聞いて、思い思いに欠落する者もあり、或いは弓の弦を弛め降参する者もあり、或いは
小舟に取り乗って逃げようと、櫓よ舵よと言っている間に、これを追いかけ討ち果たす者もあり、このように
家中は散々なる有様であった。

六月六日の晩景、小早川重臣である浦ノ兵部丞宗勝(乃美宗勝)が岸根に旗を上げ、先陣の兵数千人が二ノ丸へ
攻め入り、太刀を閃かせ靭鼓鋏を叩き、鬨の声をどっと上げた。しかし高徳は少しも騒がず、
「命を助かろうとする武者ならば鬨の声にも驚くだろう。明日、辰の刻(御前八時頃)に大櫓に出て一類腹を切り、
名を後代に留まらしむべし。」と、静まり返っていた。

敵陣では猶も悪口し「小舟に乗って島へ逃げるか、泳いで逃げるか!」と、攻め口の油断に成るだろうと、
逆茂木をかなぐり捨ててわめき叫んだ。これに三村高徳は「耐え難い奴原め、いざ高徳の最期の働きを
見せてやろう。」と言うままに、鉄砲を取り広縁に躍り出て隙間なく放ち懸った。嫡子源五郎高秀は、普段は
強弓を好んでいたが、彼も兵とともに鉄砲を放った。高徳の舎弟である小七郎は弓を打ち捨て敵に切り掛り、
互いに声を合わせて戦った。死傷者十四、五騎片時の間に見えたため、すぐにその日の陣を引き上げた。

明けて七日の暁、城内には酒宴の声聞こえ、その多くは女性の声であった。
互いに分れの盃を指し、同日辰の刻、敵陣に向けて「一類自害」の旨を告げた所で、城内の人々は、我こそ
先に自害すると言い合った。

高徳の継母はこの時五十七歳、彼女が先ず一番に自害した。
「我が世に留まって、このような憂き目を見る事も、前世の因業浅からぬ故なのだろう。高徳が芸州に遺恨を含み、
入道したことも世に物憂く思ったのに、それが腹を切る所を見てしまっては、目もくらみ心も悶えすだろう。
少しでも高徳の跡に残るより、先立って自害すべし。」
そう言うと、縁の柱に刀の柄を巻きつけて、そのままそこに向かって貫かれた所を、高徳が走り懸って
「五逆の罪は恐ろしく思いますが」と、その御頸を打ち落とした。

高徳の嫡子高秀は十五歳。父高徳の介錯をしたいとも思ったが、跡に残れば少年故に未練を仕ってしまえば
心残りに成ると、「逆ではありますが、先に腹を切ります。」と言うと、これを高徳聞いて「愚息ながらも
神妙である。」と、扇を開いて彼を仰ぎながら、その紅顔をつくづくと見て、
「水の泡草守る露と成さんこと、後世の障りともなるべし」と、暫く袖を涙に濡らした。
高秀も溢れ出る涙を押し留め、そのまま雪の肌を押し脱ぎ腹十文字に掻き切って伏した所を、高徳がその頸を
打ち落とした。
その舎弟、八歳になる者は、傍に引き寄せ、肝のたばね(内臓の急所、心臓)を二つ刺し貫いて退いた。

高徳の妹に、十六になる姫があった。芸州鼻高山の大将は高徳の弟であったので、この姫には「鼻高山へ
退くように」と進めたが、「それは思いもよらぬことです。」と、老母の体を貫いた刀を手に取って
乳のあたりを突き貫き、これも同時に自害した。

次に高徳の女房(鶴姫)は、修理進(三村)元親の妹で、普段から男子を越えた勇力があり、
「我、女性の身であっても武士の妻であり、子です。最期に敵の一騎も討たずして、悶々と自害するのは
返す返すも口惜しい!況や三好修理太夫(義継カ)従弟として反逆の一族であり(況ヤ三好修理太夫反逆ノ一族トイヒ)
女人の身であっても、一軍をしなくては叶いません。」
07072/22019/12/31(火) 04:13:05.45ID:v8mFCew0
そう言うと鎧を着て上帯を締め太刀を帯き、長い黒髪を解いて颯と乱し、三枚兜の緒を締め、紅の薄衣を着て
裾を引き上げ腰にて結い、白柄の長刀を小脇に挟んで広庭に躍り出た所、春の局秋の局、その他青女房端下に
至るまで三十余人が
「これは如何なる御所存ですか?ただでさえ女人は嫉妬妄執の罪深く、成仏を得ないと言われています。
であるのに、さらに修羅道の罪業まで成すべきではありません。どうか思いとどまって、心静かに自害をなさって下さい。」
そう鎧の袖を掴んで訴えた。しかしこの女房は打ち笑い

「あなたたちは女性の身であるのだから、敵も強いて害しようとはしないでしょう。どこの国へでも先ずは
忍んで行きなさい。もし自害するのであっても、念仏を能く申すので、後世を助かることでしょう。
私は邪正一如と願を立て、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦患をも極楽と成していますから、どうして悔やむ
事があるでしょうか。」

そういって袖を引き放ち城から出ようとすると
「さては私達を捨てられるおつもりでしょうか!?どうせ散る花であれば、同じ嵐にて散り、死出三途の御供を
仕ります。」と、髪をかき乱し額に鉢巻を巻き、ここかしこに立て置かれている長柄の鑓を取り、この三十余人の
女性たちが集まり出ると、累年芳恩の家僕たちもこれを見て我もと集まり、八十三騎が死を一挙として集まり出た。

寄せ手はこの集団を見て、敵はたった今、妻子を先に立てて降人に出したのだと思っていた所、小早川の
重臣である浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)の七百余騎の軍勢の真ん中に喚き懸ってきた。宗勝はこれを見て、
「敵が女人の装束で寄せて来るのは奇っ怪である。これは処女の如くして脱兎の功を作る(はじめは弱々しく
見せかけ敵を油断させ、後で一気に素早く攻撃する事)の謀である。孫氏が秘する所の『虚はこれ実』と言うのも
このような謀を言うのであろう。欺かれて不覚を取るな者共よ!」と、陣を固めて防御したため、これを
破ることは出来なかったが、彼女に従った勇士たちは死を軽んじて突き立てたため、寄せ手の面々は
足を乱し傷を蒙り死を致す者百余騎も有り、この周章狼狽の様子に乗じて、高徳女房は腰より銀の采配を
抜き出して、「突撃せよ者共!」と大勢の中に割って入った。

そして宗勝の兵たちは流石に武勇を嗜んでおり、女人に向かおうという者は無く、勇士が互いに鑓を合わせて
いる所に、女性が傍から潜んでこれを突いたため、これによって負傷したものも若干多かった。
暫く戦っている間に、寄せ手の毛利勢が大勢馳せ寄り彼女らを攻め討った。高徳女房は宗勝の馬前に
出て大音にて罵った

「いかに宗勝!御辺は西国にて勇士の名を得られていると聞く。我女人の身と雖も一勝負仕らん。
そこを引き給うな浦殿よ!」
そう叫び長刀を水車に廻して馳せ寄せた。しかし宗勝は四、五間ばかり後ずさりに退いた。
「いやいや、御辺は鬼であったとしても女である。武士の相手には成りがたし!」と自身は引き、
傍にあった兵五十余騎ばかりにて懸らせた。彼女は長刀で七騎ばかりを薙ぎ伏せたが薄手を負った。
そこでまた大音で叫んだ
「女の頸を取り逃すな人々よ!」
そして腰より三尺七寸の太刀を抜き

「これは我家重代の國平が作の太刀である。一度は先父家親に参らせ、家親の秘蔵として他に異なる宝としたが、
我家の重代の太刀であることを聞き及ばれ返還された物だ。そのような太刀であれば、父家親に副え奉ると思い、
身から離さずに持って来た。この太刀、我が死後は宗勝に進ずる。後世これを以て弔い給え!」

そう言い捨てると城中に駆け入った。その姿はただただ、刀八毘沙門が喜見城を守られた時、吉祥天女諸共
修羅を攻め討たれた事に違わぬと、見る人舌を巻かぬという言うこと無かった。

こうして彼女は西に向かって手を合わせ、「我は西方十万億土の弥陀に頼るのではない。既に身の弥陀、
唯心の浄土は、今ここに現れている。仏も露の如く、また雷の如しと言われる。誠に夢の世に、幻の身の
影を留めて露に宿を借り、雷のように早く立ち帰る元の道である。南無阿弥陀仏。」
そう念仏し、太刀を口に含んで貫き臥したのは、例少き事である。

そして高徳も西に向かい、「南無西方教主の如来、今日三途の苦しみを離れる。先に行った元親、久式、元範、
実親よ、同じ蓮台に迎え給え!」と念仏を唱える声の中に腹掻っ切ると、舎弟の小七郎が介錯し、その身も
自害して高徳の死骸に寄り懸かり、同じ枕に伏せた。見る人聞く人、皆涙を促した。

そして数多の頸が備後鞆に送られ、こうして備中国は平均し、各々に賞功が行われた。

(備中兵亂記)
0708人間七七四年2019/12/31(火) 10:09:15.60ID:euneZmXJ
高徳が逃亡すれば范蠡のような家臣と協力して
会稽の恥を雪ぐことができたのだろうか
0709人間七七四年2019/12/31(火) 11:09:21.12ID:OOCajN32
>>707
激しくて悲しい…
0710人間七七四年2019/12/31(火) 11:42:14.52ID:z7AJ6j9T
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \
0711人間七七四年2019/12/31(火) 19:15:41.34ID:X3Fx3h7v
「これは我家重代の國平が作の太刀である。一度は先父家親に参らせ、家親の秘蔵として他に異なる宝としたが、
我家の重代の太刀であることを聞き及ばれ返還された物だ。そのような太刀であれば、父家親に副え奉ると思い、
身から離さずに持って来た。この太刀、我が死後は宗勝に進ずる。後世これを以て弔い給え!」

これ実際に声を出して言ってみたが結構時間かかったわ

随分とのんびりした戦場だな
0712人間七七四年2020/01/01(水) 02:11:30.84ID:ERYVtzyf
>>711
言い終わるまで待つのも武士の心得かも
0713人間七七四年2020/01/01(水) 05:18:10.53ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長は明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね
0714人間七七四年2020/01/01(水) 08:37:42.40ID:f5F7Zkfa
>>707
>宗勝の兵たちは流石に武勇を嗜んでおり、女人に向かおうという者は無く
ある程度の身分があると女性に手をかけるのは憚られたのかな。
寄せ手の毛利勢が大勢で女を討ったってのは雑兵だから?
0715人間七七四年2020/01/01(水) 08:52:27.09ID:7Aktj8/K
弱い者いじめや卑怯な振る舞いは好まれなかった
0716人間七七四年2020/01/01(水) 14:32:13.84ID:yQmgkNIm
>>712
ビー○たけしだったらうるせぇ馬鹿野郎っつって途中でぶった斬ってそうだな
0717人間七七四年2020/01/01(水) 15:16:47.87ID:KFA/VQwB
>>71
>>72
あと根本的な問題として、「女首は手柄として認められない」ってのがある
0718人間七七四年2020/01/01(水) 15:18:50.92ID:KFA/VQwB
間違えた。
>>714 >>715 への返信ね
0719人間七七四年2020/01/01(水) 22:50:41.15ID:f5F7Zkfa
>>717
紳士的な理由かと思ったらそうでもなかったw!
いや多少は女を殺すのはさすがにってのもあるんだろうけど
0720人間七七四年2020/01/01(水) 23:13:40.07ID:trJynkUa
>>719
刀だって刃こぼれ起こしたりしたら後で高いからねぇ…
そら、金にならん女子どもの首取ってもってなりそう
0721人間七七四年2020/01/02(木) 00:24:37.47ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの
0722人間七七四年2020/01/02(木) 03:02:16.34ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。
0723人間七七四年2020/01/02(木) 06:26:47.36ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?
0724人間七七四年2020/01/02(木) 08:04:35.65ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。
0725人間七七四年2020/01/02(木) 08:08:11.91ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。
0726人間七七四年2020/01/02(木) 08:38:24.09ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない
0727人間七七四年2020/01/02(木) 08:52:34.82ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。
0728人間七七四年2020/01/02(木) 09:50:29.58ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ
0729人間七七四年2020/01/02(木) 17:07:09.01ID:sejJu8wT
ネットの掲示板みてりゃ知りうることだけど、ジャップの劣等感がなせる業な。神武以来全ての事件がこれに当てはまる。
0730人間七七四年2020/01/03(金) 20:37:34.33ID:rCkwoRrs
やっぱ怖いッスね、ネット依存症は
0731人間七七四年2020/01/04(土) 10:41:30.12ID:R0GffIiD
こどおじ自殺したんか
0732人間七七四年2020/01/07(火) 10:53:15.60ID:WD7Y1p58
新規参入者募集
皆で競いあってこの乱世の覇者にならないか?
皆で楽しもうぞ
IDに出た数字の分だけ知行を貯めて百万石85
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1570237955/
0733人間七七四年2020/01/07(火) 11:17:33.65ID:TMu6ehAY
大阪冬の陣で、大阪城を取り囲んでいる最中、城中よりのそくたく(属託:報酬を払って依頼すること)にて、
秀頼公より和泉様(藤堂高虎)の元へ御書状を、吉河瀬兵衛と申す者が持ち参った。
和泉様はこれを直ぐに権現様(徳川家康)の元に持ち参った。その書状には

『最前より約束の如く、東の人数を引き出した事、秀頼公は御感に思召して居られる。うしろぎり(寝返り)の
手立が肝要である。御褒美の儀は望み次第である。』

このように書かれていた。権現様はこれを見ると
「良き臣下を討ち果たさせるための、こういった調略は昔から大唐にも日本にもあったものだ。
和泉については、昔からその心を知っている。別心などはありえない。彼は一筋に私の為を考えている。
だからこそ、彼を討ち果たさせるため調略を仕掛けたのであろう。」

そうお考えに成り、この書状を持ち来た瀬兵衛についへ和泉様へ
「彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて城中に追い返すように。」
との御意を仰せになった。和泉様はその御錠の通りに仰せ付け、大野主馬持口であるせんばの門前まで
送り遣わせた。

(藤堂家覺書)

藤堂高虎に対する大阪方の調略について。
0734人間七七四年2020/01/08(水) 09:15:27.34ID:wuaUlWLR
秀頼焼印は夏の陣まで活躍してそう
0735人間七七四年2020/01/08(水) 13:20:37.67ID:9coiYBvL
>>733
あの時代に指10本切るって酷いな、その後どうなったんだろう…。
0736人間七七四年2020/01/08(水) 19:44:05.67ID:pyu+0rYf
ドラえもんの起源
0737人間七七四年2020/01/09(木) 14:03:56.25ID:VmLHog0Y
宗像大宮司左衛門尉興氏は、前の大宮司氏弘の次男であり、舎兄氏郷より譲られて、文明五年仲冬(十一月)三日に
社務となった。大内介義興に属し、諱の一字を給わって一家の親しみを成された。

ある時、興氏が領内を巡見したところ、鐘ノ御崎に至って海面を見渡し、海中に沈んでいる鐘を見つけた。
「この鐘を陸に引き揚げて、世の珍宝と成すべし。」
と、石松和泉守氏真、吉田飛騨守氏明に命じ、領内の土民を駆り集めてこの鐘を引き揚げるべしと議された。

石松、吉田は先ず海人(あま)を用いて鐘の長短を測らせた所、長さ二丈八尺(約8メートル50センチ)、
周縁の尺も同寸で、龍頭(りゅうず:最上部の環状をなしている部分)の長さは三尺あまり(約1メートル)との
事であった。そのため「加賀苧麻(からむし)の大縄を以て鐘をくくり、龍頭の元に引き付けよ」と命じ、
海人三人が海に入った所、すぐに戻ってきて
「鐘の辺りの浪高く、鰐ウツボといった悪魚が出てきて、私達を喰い殺そうとしたため遁れ帰ってきました。
どうにも方法がありません。」と報告した。これに石松和泉守は

「このように、民の労もかえりみず大勢呼び集めたというのに、空しく帰らせては近国までの嘲弄となるだろう。
海人ども、銘々に剣を腰に挿し、胸には鏡一面をかけて海へ入るのだ。そうすれば悪魚の害はない。
急ぎ海に入るべし。さもなくば、船中にて討ち殺す!」(イソキ海ニ入ヘシ、サナクハ船中ニテ討殺ス)

と騒ぎ立てたため、海人たちは「ここで殺されるのも、悪魚の餌になるのも同じ事だ。こうなったら海中に入って
鐘に縄をつけよう。」と、胸に鏡をかけ刀を腰に挿して入った所、辺りに近づく悪魚も居なくなり、思いのままに
縄を掛け、轆轤にて巻き上げ、数十艘の船に土民を乗せて、えいやえいやと引き揚げた。

ところが、不思議なるかな、今まで青天白日であったのが、俄に沖の方より黒雲しきりに起こり、黒風振動雷電
して、雨は車軸を流しければ(車軸のような太い雨脚の雨が降る事、大雨)、目前にあった船三艘は、
もやひの縄(船を他の船とつなぎ合わせた綱)が張り切れて、どこに行ったのか見えなくなった。

この有様を見た宗像興氏は
「この鐘を引き揚げて世の珍宝と成そうと思ったが、それを龍神が惜しみ給っている事間違いない。であれば
縄ともども切り捨てよ!」と命ぜられ、海人たちが縄を押し切った所、たちまちに風雨静まり、元のような
晴天と成った。

しばらく有って、海面に怪しげなものが浮かんだ。「また如何なる事があるのか」と、人々肝を冷やす所に
桂潟の海人が海中に飛び入ってこれを取って上がった。吉田飛騨守が受け取り見てみると、それは老翁の仮面で
あった。そこで興氏に差し上げた、興氏が能々この仮面を見ると、海底にあって幾千歳か経たものなのだろう、
裏表に牡蠣の付いた痕があった。
興氏はこの仮面を、宗像第一宮に納め神宝と成した。不思議な事どもであった。

聞いたところによるとこの鐘は、何れの代であるか、唐土より渡ってきた時、この浦にて唐船がくつがえり、
そして鐘も海底に沈んだ。故にこの場所を鐘ノ御崎と名付けたのである。
正三位義重(斯波義重)の歌に
『聞明かす 鐘の御崎のうきまくら 夢路も浪に幾よへたてん』
と詠んだのもこの浦の事である。

(宗像軍記)

鐘を引き揚げようとしただけでかなり大事に成っているお話
0738人間七七四年2020/01/09(木) 20:16:55.66ID:DyO2kjce
>>737
みんな粋で良い話じゃないかw落ちも素晴らしい
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています