戦国ちょっと悪い話47
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0567人間七七四年
2019/11/13(水) 16:44:04.13ID:zp2lld1A三月十八日には松井田城を降伏させると、そこでしばらく休息し、兵糧の調達を終えると、松井田城代
であった大道寺父子(政繁・直繁)を手引として、倉賀野、箕輪、厩橋といった城へ押し寄せ次々と
降伏させた、
四月十二日には武州比企郡松山城の攻略にかかる。松山城主である上田自芸斎(憲定)と息子上総介憲定は
小田原に立て籠もっており、留守居役は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、
同一兵衛、比企藤九郎ら二百余人、雑兵二千三百余がこれを守っていた。
前田利家・利長父子は大手、上杉景勝は搦手と決め、これに毛利、真田、小笠原、そして案内の大道寺の
兵が加わり、先ず遠攻めにして近辺の里や村、山林を伐り攻めやすくして準備を整えた。
城中の者たちはこの様子を見て、その大軍に既に戦意を失うと、城下の寺僧を仲介として降伏を申し出た。
その条件は、本丸、二の丸を渡し、三の丸に諸士の妻子を入れ置くというものであった。
寄せ手の大将たちはこれを受け入れ和睦し、その降人を案内として、北条安房守氏邦の家人たち四百人
ばかりで籠もっていた本田郷西山城に取り掛かると、城兵は一戦にも及ばず鉢形城へ逃げ出し、戦うこと無く
落ちた。次いで河越城へ向かったが、これも降伏をして戦いにならず、かくして北国勢は刃に血を塗ること
無く数城を落とした。
この上は小田原城攻めに合流するとのことで、同二十一日箱根の笠懸山に至って秀吉に謁見し、一部始終を
報告すると、秀吉は事細かに尋ね感心はしたものの、これを褒める言葉はなく。前田利家も上杉景勝も
腑に落ちぬ顔で引き下がり、
「我等の今回の武功は、それほど空しかったというのか。」
「左様である、激しく戦うことこそ無かったが、数城を抜いたこと確かである。」
「無血であろうとも。将兵を多く傷つけ諸城を落とすより功大かるべし。」
そのように不満を述べた。
その夜、秀吉は近習にこう語った
「北国、信州の諸大将、諸士の働きは見事でありその功も大きい。しかし皆降参させてしまった。
戦というものは、一城は帰順させても、一城は攻め殺してこそ、一張一弛の法にかなうものである。
でなければ他の関東の諸士への見せしめとならない。だからこそ強いて褒めなかったのだ。」
両将は後でこれを聞くと尤もだと思い
「さては八王子の城を襲って皆殺しにしてくれん。」
と、利家、景勝は早速小田原の陣営を引き上げ、同月二十三日、急に兵を発して八王子へと向かったのである。
(関八州古戦録)
八王子城攻めに至る経緯
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています