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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/

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戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
0553人間七七四年2019/10/29(火) 16:26:05.31ID:xu00R6AT
>>550
それ、東国が進んでいたのではなく、北条が進んでいたというお話では?
0554人間七七四年2019/10/29(火) 23:40:14.08ID:AuUWSkf2
今川が初めて北条武田がパクッて最晩年の織田がパクってでもすぐ本能寺で後を継いだ豊臣が全国に広げたパターン
0555人間七七四年2019/10/30(水) 00:50:12.19ID:6uSaD8pm
>>546
実際に向こうの国を見て、国力が違いすぎて戦争になりません、
という人を臆病者扱いして開戦に突っ走った国がありましたな
0556人間七七四年2019/10/30(水) 07:36:05.15ID:e5kOjoJp
猿並の知性と品性しかない東の果てにある土人のジャップランドのことですね
0557人間七七四年2019/10/30(水) 08:07:25.97ID:/PVLas5q
ローテーションで見学にいってれば変わったかもしれん
0558人間七七四年2019/10/30(水) 08:45:28.89ID:ziwIggb6
家久のように日記を書く人がいれば
0559人間七七四年2019/11/05(火) 07:08:55.43ID:nFt8FQ3f
小田原の役の事

小田原の頼りにしていた山中城が一日で落ちたことを知ると、小田原城中の者たちはあっけにとられ、
城の各口を守っていた将兵もただごとではないと動揺した。関東武者ともあろうものがと深く不安に
かられている所に、上方勢の総大将である秀吉が、四月一日未明に三島を出馬し、足柄、箱根を越えて
小田原の城まで後半里という湯元真覚寺に着いたとの報が届いた。

上方勢の先鋒は。すぐに分かれて湯元口、竹ヶ鼻、畑、湯坂、塔ノ峰、松尾岳といった各所より攻めてきた
ため、そこを持ち口とする諸隊は臆病風に吹かれ、未だ敵の姿を見るか見ないかのうちに、片端から
道を開けて小田原本城へ逃げ込んでしまった。

北条氏政父子は改めて急ぎ評定を開き、畑、湯坂、米神辺りまでは出向いて戦うべきかを尋ねた。
これに対し松田尾張守入道憲秀が進み出てこう答えた

「勢いに乗って一気に進んでくる大敵に、気後れのした味方を防戦に出しても所詮負け戦と成るでしょう。
それでは大事な最期の一戦にも負けてしまいます。それより一刻も早く籠城の策をとって守りを固める
ことこそ肝要に思います。後は敵の疲れを待つことです。」

この尾張守の主張に、諸将も奉行頭も誰も異を唱えず、ただ手をこまねいてその意見を聞いている
だけであった。後で人々は「何と情けないことであるか。これでは北条家が滅びるはずである。」と
思いあわせた。

かつて早雲から氏康の時代は、明け暮れに軍事に励み、肝胆を砕き、寝食を忘れ謀を帷幄の中に巡らせた
ものであった。あるいは出て戦って勝利を得、あるいは籠城して兵を休めつつ戦い、この戦国の世に大敵を
四方に受けて、これを凌ぎつつ領民を安寧に置いて養ってきたのである。

それに比べれば氏政父子は器が小さく、ただ先祖の余光の中に生きて、いざという時の虚実の策とて無く、
衆を頼んで己を失い、ただ呆然と事態を見守っているだけであり、これでは国を失っても仕方のないことだ。
「鵜の真似する烏の、水を飲んで死ぬ」という言葉があるが、それに似ている。
だから今に至っても、はかばかしくない評議が「小田原評定」と呼ばれ、笑い話と成っているのである。

(関八州古戦録)

これを見るに関八州古銭録が成立した頃は、「長引いて結論の出ない会議」ではなく、「消極的で内容に乏しい
会議」を小田原評定と呼んだようですね。
0560人間七七四年2019/11/08(金) 06:28:46.53ID:kr+sccjl
小田原北条家の宿老である松田尾張守入道(憲秀)は、かねて嫡子である笠原新六郎政尭(政晴)の勧めで
豊臣秀吉に内通していた。先に入道は、秀吉より依頼されていた、小田原城を見下ろせる土地として
笠懸山を選び、この事を堀左衛門督秀政を通じて真覚寺の秀吉本陣へ伝えた。そこは小田原の西南に有る
天然の要害で、風祭村の左に当たる松山であった。

秀吉は箱根より、木樵の通るような険阻な道を通って山上へと上がった。そこは正しく城内を真下に見下ろす
位置であり、ここから攻められれば防ぐこと能わずという高台であった。
秀吉は普請の衆にも物見をさせて、早速ここを切り開き本陣を据えた。すなわち塀を架け、櫓を上げ、
壁には杉原紙の白紙を張って白土の壁に見せかけ、一夜にして城を築いたのである。これが石垣山の
一夜城と呼ばれるものであった。

小田原城内よりこれを見た北条勢は驚き呆れ、一夜のうちに石垣を築き、白壁を塗り、櫓を上げるとは
秀吉はただ人ではない、天満の化身であろうと、舌を巻き身震いをしたという。以後、この山を
石垣山とも、白壁山とも呼ぶようになった。

 啼きたつよ 北条山の 郭公

これはこの時、秀吉の作った発句である、

秀吉は徳川家康を呼んで共に高台へと上がり、小田原城を見下ろしながらこんな話をした。

「見られよ徳川殿、北条家が滅びるのももう間もあるまい。何と小気味の良いことか。」
「左様にございますな。」
「この上は、関八州は貴殿に進ずる事としよう。」

そう約束をすると、秀吉は着物の前をまくり、小田原城の方向に向かって小便をはじめ、家康に対し
「貴殿も共に。」
「然らば」
と、二人並んで小便をした。これより以後、並んで立ち小便をすることを、「関東の連れ小便」と
呼ぶように成ったのだという。

(関八州古戦録)
0561人間七七四年2019/11/10(日) 09:01:59.88ID:oWdch8EX
ある時武田信玄公が御噺衆に尋ねられた
「奉公人の中の大身、小身は言うに及ばず、下々の者まで相手にすると恐ろしい者がある。
それはどういう者だと思うか。」

御噺衆は誰も答えられなかった。そこで信玄公はこう言われた

「それは無分別な者だ。何故ならこの無分別な人物は、後先を考えず、口に任せ手に任せ、
考えもしないようなことを仕出かす。そういった人物は合戦の鍔迫り合いに成れば遅れ逃げるものだ。
ところが良き分別のある人物は、普段から詮索をよく致すために、逃げる無分別者を発見すれば
逃さず、勝負をつけようとする。こうして良き分別者が悪しき分別者と相手をし、徒に身を果たす
ような事になるとしたら、これをよく思案してみよ、分別なき者は恐ろしい人ではないか。」

そう仰られたのである。

(甲陽軍鑑)

有能な人物がバカに殺されてはかなわん、という話でしょうかね。
0562人間七七四年2019/11/11(月) 03:40:53.26ID:mGN8Rjs4
無能な味方は敵より厄介
0563人間七七四年2019/11/11(月) 20:54:31.95ID:3AMDOqwh
平凡でも良いから実直であって欲しい
ということも言いたいのかも

無能は不要とかだったら部下のストレスはんぱない
0564人間七七四年2019/11/11(月) 21:53:10.65ID:l/raO2w7
臆病者でも使い方次第という岩間大蔵左衛門の話も甲陽軍鑑だったっけ。
0565人間七七四年2019/11/11(月) 23:53:28.42ID:ypIcKaTN
無能というかアスペや嫌なクズって感じ
これに真面目な人材が殺されたらたまらん
0566人間七七四年2019/11/12(火) 12:41:18.32ID:l9uYArUl
窮鼠猫を噛む

侮って死んだ分別者w
0567人間七七四年2019/11/13(水) 16:44:04.13ID:zp2lld1A
天正十八年小田原の役に於いて、北国の両大将である前田利家、上杉景勝、および信州の真田昌幸らは、
三月十八日には松井田城を降伏させると、そこでしばらく休息し、兵糧の調達を終えると、松井田城代
であった大道寺父子(政繁・直繁)を手引として、倉賀野、箕輪、厩橋といった城へ押し寄せ次々と
降伏させた、

四月十二日には武州比企郡松山城の攻略にかかる。松山城主である上田自芸斎(憲定)と息子上総介憲定は
小田原に立て籠もっており、留守居役は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、
同一兵衛、比企藤九郎ら二百余人、雑兵二千三百余がこれを守っていた。

前田利家・利長父子は大手、上杉景勝は搦手と決め、これに毛利、真田、小笠原、そして案内の大道寺の
兵が加わり、先ず遠攻めにして近辺の里や村、山林を伐り攻めやすくして準備を整えた。
城中の者たちはこの様子を見て、その大軍に既に戦意を失うと、城下の寺僧を仲介として降伏を申し出た。
その条件は、本丸、二の丸を渡し、三の丸に諸士の妻子を入れ置くというものであった。

寄せ手の大将たちはこれを受け入れ和睦し、その降人を案内として、北条安房守氏邦の家人たち四百人
ばかりで籠もっていた本田郷西山城に取り掛かると、城兵は一戦にも及ばず鉢形城へ逃げ出し、戦うこと無く
落ちた。次いで河越城へ向かったが、これも降伏をして戦いにならず、かくして北国勢は刃に血を塗ること
無く数城を落とした。

この上は小田原城攻めに合流するとのことで、同二十一日箱根の笠懸山に至って秀吉に謁見し、一部始終を
報告すると、秀吉は事細かに尋ね感心はしたものの、これを褒める言葉はなく。前田利家も上杉景勝も
腑に落ちぬ顔で引き下がり、

「我等の今回の武功は、それほど空しかったというのか。」
「左様である、激しく戦うことこそ無かったが、数城を抜いたこと確かである。」
「無血であろうとも。将兵を多く傷つけ諸城を落とすより功大かるべし。」

そのように不満を述べた。

その夜、秀吉は近習にこう語った
「北国、信州の諸大将、諸士の働きは見事でありその功も大きい。しかし皆降参させてしまった。
戦というものは、一城は帰順させても、一城は攻め殺してこそ、一張一弛の法にかなうものである。
でなければ他の関東の諸士への見せしめとならない。だからこそ強いて褒めなかったのだ。」

両将は後でこれを聞くと尤もだと思い
「さては八王子の城を襲って皆殺しにしてくれん。」
と、利家、景勝は早速小田原の陣営を引き上げ、同月二十三日、急に兵を発して八王子へと向かったのである。

(関八州古戦録)

八王子城攻めに至る経緯
0568人間七七四年2019/11/13(水) 17:59:21.35ID:MuGqZJnG
とばっちりもいいところだわ
0569人間七七四年2019/11/13(水) 23:00:59.45ID:ZnQE/54F
「もう逃げた方がいいよね」

「囲まれても降伏すれば助けてくれるみたいだから大丈夫だよ」

「場合によっては次の城攻めの豊臣軍の先鋒になるかもな」

「関白は元農民だって言うし俺も手柄をたてれば武将かもな(^^)」
0570人間七七四年2019/11/14(木) 04:40:49.06ID:biVTa3Lm
八王子城の運が悪かったのは、城兵3000人いたとはいえ、女子供含めてだったので、
15000人で力攻めできてしまう程度の戦力だったことだろうなぁ…。
城主の氏照は小田原行っちゃっているし。

大規模な山城なんだし、周囲には出城、付け城も多数健在だしで、
本来なら5倍程度の兵力差なら1日で落ちるなんてことはない。
05711/22019/11/14(木) 13:09:38.79ID:LtK+6vTc
武蔵国多摩郡八王子城の城主である北条陸奥守氏照は、秀吉の小田原征伐に当たり小田原城に籠もり、
八王子城はその留守居として本丸には横地監物吉信、中の丸に中山勘解由家範、、狩野主膳一庵、
山中曲輪には近藤出羽守綱秀らが置かれこれを守っていた。

秀吉は北国の両大将(前田利家、上杉景勝)が八王子城へ向かったことを知ると、木村常陸介重茲を呼び、
過日のこと >>567 もあり、利家、景勝が無理な働きをしないよう、すぐに八王子表へ目付として行くことを
命じた。もしそのような事が有れば諌めるように、との事であった。
木村常陸介には太田小源吾一吉が差し添えられた。

四月二十四日、北国勢は朝駆けで八王子の町へ入るや一気に押し破り、道々あさぎりの中に見張っている
足軽たちを撫で斬りにし城壁へ詰め寄った。そしえ本丸を上杉景勝、中の丸を前田利家が攻めると決め、
また松山城で降伏した木呂子、難波田、金子らを先陣として山中曲輪を攻めさせた。この松山衆はその夜、
夜討ちをかけ、山中曲輪を守る近藤出羽守は奮戦するも討死した。寄せ手も若干討たれたが、敵の首級
三百五十余を得た。これを見た本丸、中の丸の雑兵たちは肝を冷やし、大半が逃げ出した。
城に残ったのは中山勘解由配下の七百余騎と、その手の者僅かに百余人、他に軽卒二百ばかりであった。

中山は城に残った者たちにこう言った
「もしこの中に臆病者が居るなら、それは足手まといに成るだけだ。今のうちに落ちるが良い。
我等は久しく陸奥守(氏照)殿の恩沢に浴する身であり、斬死してもここを去るわけには行かない。
今一度言う。生命惜しき輩は落ちよ。私は少しも恨みには思わない。」

しかし誰も逃げ出そうという者は居らず「生死を共に仕らん。」と、喜び勇んで矢弾を飛ばして
寄せ手に挑み戦った。この攻撃に寄せ手では見る間に死傷者が増えた。この時前田利家は配下の
者たちにこう言った

「先に上州の諸城を落とすといえども、関白殿下になんら功を認めて頂けなかった。されば、今度こそ
降伏を許さず粉骨して攻め殺さねば、何の面目が有って秀吉公に再びまみえようか。
もし首尾ならずんば、我等親子(利家・利長)はこの場において自刃する覚悟である。汝らもよくこの意を
体して忠墳すべし。」

この利家の言葉に、山崎長門守、前田又次郎、青山佐渡守らが先陣を承って金子丸を攻め破った。
ここを守る金子三郎右衛門は山崎長門守の郎党・堀角左衛門が討ち取った。
これと競うように、他の加州勢が中の丸を攻めた。城中からは中山勘解由、狩野主膳らが士卒を下知して
打って出て戦った。この時、前田利長の近習である大音藤蔵は、未だ十六歳であったが真っ先に鑓を入れ
組み討ちして敵の首を取った。続いて雨森彦太郎が高名をした。大音は先に前田利長の勘気を蒙り
蟄居の身であったため、首実検には漏れたが。その日の一番首との事で、勘当が許された。

城方の中山勘解由、狩野主膳らは自身で鑓を合わせ、太刀を抜いて戦ったが、もとより多勢に無勢であり、
衆寡敵せず城中へ引き上げた。加州勢が尚もそれを追って攻め立てたが、秀吉より目付として遣わされた
太田小源吾が誰よりも先に塀へよじ登り城中へ押し入った。小源吾もこの功により、後に秀吉より
豊後国国崎郡杵築城三万五千石を拝領した。
05722/22019/11/14(木) 13:09:57.95ID:LtK+6vTc
中の丸に立て籠もっていた三百余人は多くが討ち取られ、今や十余人となり、そのうえ皆深手を負っていた。
そこで「今はこれまで」と詰の城へ引き籠もり、そこに避難していた足弱(女子供、老人)達を先に刺殺し、
自分たちも心静かに腹を切った。

前田利家は高地に馬を立てて城方の働きを見ていたが、松井田、松山で降った金子、小岩井達を呼んで
尋ねた「城方の者たちは、やがて斬死するか自害して果てるであろうが、あの中に見知った者は有るか。」
「はい、居ります。一人は中山勘解由と言って、武蔵七党の丹党の末裔で、古来より名のある者です。
もう一人は狩野一庵といって豆州の侍で、元は北条氏照の右筆でしたが、才覚あり数度の戦いで戦功を
成し、出世して一廉の武将となり、今は倅の主膳正に家督を譲り、自身は出家しています。」

利家はこれを聞くと「直ぐに馳せ向かい、その者たちが我等の陣に加わるよう説得するのだ。」と命じた。
金子紀伊守の小岩井雅楽介はすぐに八王子城に駆けつけ城門を叩いたが、何の答えもなかった。
彼らは脇門を押し破って中に入ったが、中山も狩野も、既に自害して果てた後であった。二人は致し方なく、
戻ってこれを利家に伝えた。「惜しむべき武士たちである。」利家はそう、彼らの最後を哀れんだ。

後に、徳川家康はこの八王子城での戦いの様子を聞くと、中山、狩野の忠節に深く感じ入り、関東入国後、
武州辺りを放浪していた中山勘解由の嫡子・助六郎照守、次男の佐介信吉を探し出し、召し出して
旗本として取り立てた。そして兄に勘解由、弟に備前守の名を与えた。今もその子孫は続いているという。
また狩野一庵の息子・主膳正も家康によって取り立てられ、慶長五年の庚子の役(関ヶ原の戦い)では
濃州岐阜表で二番鑓の誉れを立てたという。

(関八州古戦録)

八王子城の戦いについて
0573人間七七四年2019/11/17(日) 03:44:36.13ID:2B3d31sM
長浜城と「おかね」さん

 長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
 天正二年(一五七四)ごろ、長浜城が築かれることになりました。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地帯一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
 「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。

                                       平成十六年三月吉日


長浜城跡の豊公園の石碑より
https://i.imgur.com/FraRCww.jpg
0574人間七七四年2019/11/17(日) 11:33:59.79ID:YffsnREo
無理矢理埋めたあげく美談化するとか、ホント怖い
0575人間七七四年2019/11/17(日) 13:36:19.67ID:dw0VDGnO
人柱という風習を止めようと言う奴は居なかったのかのう
0576人間七七四年2019/11/17(日) 15:47:25.38ID:zzZA82E+
武内宿禰みたいな?時代が違いすぎるけど
0577人間七七四年2019/11/17(日) 15:51:10.16ID:IDbsoAY7
旅の坊さんが志願して人柱になった美談思い出す
坊さんが念仏唱えながら逃げ回る八つ墓村の世界観みたいな地獄なんだろうなと
0578人間七七四年2019/11/17(日) 17:51:09.94ID:ENrq08LC
>>575
孔明「まったくだわ」
0579人間七七四年2019/11/17(日) 20:54:46.30ID:kQNP8TQ8
そんなに美女だったのに藤吉郎の手がつかなかったのか
0580人間七七四年2019/11/18(月) 00:33:28.04ID:c00EZM2U
>>579
良い家の姫かつ美女じゃないと
0581人間七七四年2019/11/18(月) 07:47:44.54ID:BHTWs9MT
>>577
白川小峰城なんて、人柱に選ばれた藩士の娘が逃げ回って、捕まった場所に追廻なんて不名誉な地名が付いてんだぜ。しかも城の北側のかなり広範囲に…
0582人間七七四年2019/11/18(月) 11:14:45.57ID:0N5VEnOO
平戸藩松浦だと奉行クラスがわざと自分で言い出したクジに当たって埋められてるな
被害を出さないように配慮したんだろうが、一緒に生きた犬は埋められるし、娘は精神病むし悲惨
0583人間七七四年2019/11/18(月) 11:50:03.15ID:cC/oPjqy
工事が捗らなくてストレスでやばかったんだろ
失敗したら切腹なわけだし、どうせ死ぬならってことで
くじを理由に引責自死ってやつだ
0584人間七七四年2019/11/18(月) 20:54:34.23ID:R9xUvLnM
寛永の話ではあるが、まだ出ていない話の様なので白河小峰城の人柱の話をば….

白河小峰城のおとめ桜

初代白河藩主、丹羽長重は白河藩主として赴任した後、幕命で白河小峰城の改修を始めたものの、ある一角の石垣だけが何度工事しても崩れてしまう。
工事が進まず困った作事奉行の和知平左衛門は合議の末に人柱を立てる事に決め、身分の上下老若男女問わず、次に城門の前に現れた者を人柱とする事に定め、城門に訪れる者を皆で待つ事にした。
すると、1人の娘が城門に近づいて来るのが見えた。何とそれは当の作事奉行・和知平左衛門の娘「おとめ」であった。
仰天した和知平左衛門は
「おとめー!来るな!!来るな!!!」

と必死に身振り手振りで娘がこちらに来ない様に合図を送ったが、父親に会う為に城へと向かっていたおとめは父の合図を早く来いと言う合図と勘違いし、逆に城門へと向かってしまい、
こうして人柱にはおとめがなる事が決まり、それを告げられたおとめは驚き逃げ出したが、遂には捕まってしまい人柱とされてしまう。
この後、工事は無事成功したものの、>>581に書いた様におとめが藩士に追われ捕まった場所は「追廻」と言う地名として今も名を残し、
人柱にされたおとめを哀れんだ人々はおとめが人柱として埋められた場所に桜を植え、おとめ桜と呼んでその死を悼み供養したと言う。
なお現在のおとめ桜はこの際植えられたものが戊辰戦争で焼失した為2代目であると言う。

http://shirakawa315.com/sightseeing/post_43.html

白河観光協会のホームページ他参考にまとめました。
0585人間七七四年2019/11/18(月) 21:04:39.46ID:R9xUvLnM
追記 おとめ桜の話は竹中直人がこの作事奉行・和知平左衛門役で数年前に短編映画化されたそうな。

https://eiga.com/news/20160828/6/
https://youtu.be/bDxtGQMmJd0
0586人間七七四年2019/11/18(月) 21:05:18.21ID:EOdgOTzr
事なかれ主義は昔からか
0587人間七七四年2019/11/18(月) 21:08:03.99ID:5ZsNtt8D
(あっ、また構ったらあかん奴やなこいつ…)
0588人間七七四年2019/11/18(月) 21:31:24.22ID:Z4HZ3/VQ
旧約聖書の士師記のエフタの話でも
戦争に勝って凱旋帰国する時にユダヤ人の指導者のエフタが
「神よ、帰った時に私を一番最初に出迎えた者をあなたに捧げましょう」
と誓ったところ、出迎えに出たのが自分の一人娘だったために泣く泣く犠牲に差し出した
って話があったっけ。
0589人間七七四年2019/11/18(月) 21:36:04.12ID:Z4HZ3/VQ
まとめの5102
世禰(よね)姫
だと太田道真の娘(道灌の姉妹)が生贄になった話があるな
0590人間七七四年2019/11/18(月) 22:07:32.12ID:J67dMudt
工事がうまく行かないなら神主読んで地鎮祭でもすればよかろうもん
やってもだめで最後の手段が人柱なのか
0591人間七七四年2019/11/19(火) 05:28:15.75ID:F/WKH0BG
現在は天下御一統の御代となり、私戦によって他国を謀り入れる事は無くなった。

当時、戦乱の世の中だった頃は、国々で私に取り合いをして、その領地を得るのは手柄次第という
世の中であり、他国に調略のため遣わされた衆などは、相手も警戒しているため事々に咎められ、
戒められた。なんとか縄抜けなどをして帰国することが出来た者も、その帰路様々に考え

「世を渡る業の中でも、御奉公ほど難儀なものはない。今度まかり戻ったあかつきには、
やがて許可をとって実子養子などに所帯を譲り、私は奉公から抜けよう。」

などと思って帰国し、出仕するのであるが、主君と対面し御盃を下され、働きの様子など尋ねられ、
それを聞かれ少々の御落涙までなされ、様々に忝ない御意を与えられた時は、ある歌に

 いく度か 思ひさためてかハるらん 頼むましきは心なりけり
 (何度思い定めてもいつもその決心は変わってしまう。 頼みにならないのは心というものである。)

と申す如く、人の心というものは移ろいやすいものであり、この時にはまた
「明日にも御用を仰せ付けられれば、どこであっても参ろう!」
などと存ずるようになってしまうのだ。これは古き衆の申したものである。

(老翁物語)
0592人間七七四年2019/11/19(火) 06:12:13.64ID:c7+9ePhx
現代社畜の1人ですが、今も昔も変わらないんやなぁって思いました。
0593人間七七四年2019/11/19(火) 12:53:09.00ID:w7JFmwuW
>>584
現代のおとめ
https://i.imgur.com/5ZrEmmS.jpg
0594人間七七四年2019/11/19(火) 21:59:39.09ID:TPf5fdbm
グロ
0595人間七七四年2019/11/20(水) 10:18:36.31ID:E3OwGiOx
追廻って城前の馬場のことでしょ
そこに人柱の話が混ざっちゃったのかな
0596人間七七四年2019/11/21(木) 05:31:48.34ID:nixR1LJw
(文明十八年)三月十三日 晴
畠山右衛門佐義就に赦免が有った。東山殿(足利義政)並びに将軍御所(足利義尚)よりの御内書が
河内に下された。また(義就と対立している)畠山政長にも同日御内書が下され、右衛門佐と
和睦し、開陣するようにと仰せになられた。東山殿は色々と相談され、世上の無事のためにこれを
仰せ出になったのだという。ただし管領(畠山政長)はこれに同意せず、上意に応じなかったそうである。
これについて後日様々な噂が立った。畠山義就と政長の和睦については、左衛門督(政長)が上意に
従わなかったため、東山殿は様々にぞの所存を述べたが、細川九郎(政元)も同心せず
「今回のことは三条大納言公治卿および伊勢貞陸の申し沙汰であり、義就にとって有利な内容である、」
と、左金吾(政長)、細川九郎は触れ申しているとか。これも雑説であろうか。

二十日 晴
今日聞いたところによると、畠山右衛門佐(義就)が御免された事につて、世間の雑説では細川京兆家の
領国である丹波、摂津、四国より軍勢が上洛するという。また今回の和睦を主導した三条亞相(公治)、
伊勢兵庫頭(貞陸)の身上について様々に沙汰されている。この二人は細川方にて彼らの疑念するような
事は知らないと弁明しているという。

四月三日 晴
今夜半、三条大納言公治卿の屋敷が焼亡した。夜中に数百人が乱入し放火を行い、亭主の亞相(公治)は
逃げ出し、翌日近江坂本まで下向したという。一体誰がこのような事をしたのかは解らない。
畠山右衛門佐(義就)御免の事が沙汰された事で、義就の敵方がこのような所業に及んだのであろうか。
先月、右衛門佐は東山殿並びに将軍御所に、和睦の御礼として銭三万疋、腹巻一両をそれぞれ進上したと
沙汰されている。

(長興宿禰記)

応仁の乱後も争いを続けていた畠山義就と畠山政長の和睦を画策したところ、これを主導した一人である
正親町三条公治の屋敷が焼き討ちにあったというお話。
0597人間七七四年2019/11/21(木) 09:28:57.17ID:Av9/D6vT
>>595
火のない所に煙は〜って言うけど、或いは福山藩みたいに前の藩主家の遺徳を消すための意図的なマッチポンプとか風説の呂布とかかもね。
とは言え記録として当事者の名前も残ってるし、やはりこじ付けの線もなきにしもあらずか。
0598人間七七四年2019/11/22(金) 02:55:36.03ID:jkB1AxvD
風説の呂布だと噂が1日に千里駆けめぐりそう
0599人間七七四年2019/11/22(金) 14:27:26.92ID:Qpp5OHLL
呂布の武勇はは風説に過ぎなかったと…
まあたしかにそんな感じだけど
0600人間七七四年2019/11/23(土) 00:21:19.20ID:r+ggbXlg
なーんか一人三国志と関係ねえ奴が居るなー

「布射遼丸 ?琴阮嘯」 
呂布は弓術の、宜遼(ぎりょう)は丸(剣玉?)を遊ぶ技の名人で
?康(けいこう)は琴をひくのが、阮籍(げんせき)は口笛を吹くのがうまかった。

千字文
0601人間七七四年2019/11/23(土) 00:32:51.10ID:ki8idwmy
丸はお手玉らしいで
九個中八個は常に空中にあったとか
0602人間七七四年2019/11/24(日) 23:00:38.51ID:LxKVTKWI
伝説の呂布はタイーホ案件ですね
0603人間七七四年2019/11/25(月) 17:11:20.43ID:PFiqaOws
ノゾキは倭人の国技だからなあ
0604人間七七四年2019/11/25(月) 18:36:10.23ID:MTy7lteY
なんかまた、気違い荒らしが常駐し始めたな。
0605人間七七四年2019/11/25(月) 20:49:51.24ID:z2ln6eW8
またノゾキかよ
さすがクズジャップだな
親の顔が見てみたいわ
毎日泣いてるぞw
0606人間七七四年2019/11/25(月) 20:59:32.67ID:qUbIlY43
漢字も読めない上に完全に頭おかしいのが居ますわね。
専ブラ切り替えてこっと。
0607人間七七四年2019/11/25(月) 21:56:35.38ID:3dkkU37Y
きめえwwwクズジャップwww
語尾が「わね」ってオカマかよwwwww
2丁目行ってこい
0608人間七七四年2019/11/25(月) 22:12:51.25ID:vr5GJaw2
普通の日本語やん
0609人間七七四年2019/11/25(月) 22:36:10.73ID:3dkkU37Y
大阪民国のクズチョンが恥ずかしい方言でスレデビューかよ
おめでてーな
祖国に凱旋してそのまま帰ってくるな
0610人間七七四年2019/11/26(火) 04:42:36.14ID:EAOaT5Z9
天正十年六月十三日、明智光秀は山崎にて秀吉公の軍勢が上ってくるのを防ごうと
人数を少々打ち出していた。そのような所に、秀吉公の手勢である羽柴左衛門督(堀秀政)、
中川瀬兵衛(清秀)が山崎の宝寺(宝積寺ヵ)の上に打ち上った。明智の軍勢が山崎の
山八分目程に在った時、早くも秀吉軍の先手は嶺に到着しており、夜が明けるのを待ち受け
嶺よりおろし懸かり、鬨の声を上げて打ち立てた。

明智の者共はたまらず崩れ、勝竜寺城に向けて落ちていった。明智光秀も川を越えて逃げ、
江州坂本城へ向けて落ちて行ったが、山科にて穢多たちが多く出て鑓合いとなり、馬より突き落とされ
相果てた。こうして異議なく秀吉公は本意を遂げ、諸大名衆との関係も大形相調って御在洛になった。

その後、越前の柴田勝家と後取合となり、賤ヶ岳の一戦に勝家は打ち負け、越前は尽く秀吉公の
御手に入った。秀吉公方で鑓の働きで、加藤主計(清正)、同左馬介(嘉明)、糟屋内膳(武則)、
平野遠江(長泰)、片桐市正(且元)、脇坂甚内(安治)、石川兵助(一光)の七人が手柄をなし、
これを七本槍と称した。

上方のことは前後ともに不案内であり、間違っている所も有ると思いますが、お尋ねに背く事も
出来ず、承り及んでいるのはこの様なものです。
(上方之儀前後無案内之儀候條、相違儀も可有候、御尋之旨難背候て、承及所如斯に候。)

この後秀吉公は、徳川家康公との御取合に罷り成り、尾張の小牧にて大合戦があった。秀吉公方の
池田勝入が鑓下に討死、永井右近(直勝)が討ち取った。秀吉公は犬山より撤退し、同国竹ヶ鼻と
申す城を攻めた。ここには織田源吾殿(長益)が家康公方に味方して籠もっていたが、秀吉公の
攻撃がはじまると、源吾殿の懇望によって城を請け取り、源吾殿は京都へと同道された。

(老翁物語)

老翁物語に記される山崎、賤ヶ岳、小牧長久手合戦の模様。「上方のことはよく理解してないので
間違いも有ると思う」と、書いた本人(毛利輝元の右筆であった小田木工丞)が告白しているのが
面白いですね。また賤ヶ岳七本槍から福島正則が外され石川一光が入っているのも興味深いと思います。
0611人間七七四年2019/11/26(火) 06:59:44.30ID:cw2k9F3T
>>610
あれっ!?山崎が超地味な話だな
0612人間七七四年2019/11/26(火) 07:09:16.46ID:Nfd0XG0w
朴秀吉の倭国支配の始まりか
0613人間七七四年2019/11/26(火) 07:25:00.89ID:UrXF0AP/
ハウス!
0614人間七七四年2019/11/26(火) 11:23:23.50ID:LFC1RICg
チョッパリ!
0615人間七七四年2019/11/26(火) 19:13:27.56ID:njxBcZBd
福島正則が安芸に入部したころのこと。
防芸の国境を流れる木野川(小瀬川)はたびたび氾濫を起こす川で、正則の統治時代に流域の数カ所で大規模な河川改修が行われた。
大掛かりな工事だったが作業自体は恙無く成功裏に終わり、落成した堤防を検分に訪れる。 誰もがお褒めの言葉もあろうかと思っただろうが、到着した正則は現地を一目するや血相を変えて棟梁を呼びつけた。
「これはいかなることか。不届き千万、切腹を申し渡す!」
正則が怒ったのも無理はなく、湾曲した川の流れの中、新造された堤防は大きく川幅半ばほどにまで張り出していた。
先述の通り木野川は防芸の国境を流れる川、すなわち福島領と毛利領の中間点。
まして芸州はもとより毛利の本貫の地、関ヶ原の結果とはいえ正則が入部していることに含みがあろうことは明らかだった。正則は自家に明らかに非がある形で公事に発展することを恐れたのだ。
結果、みごと堤防は落成したにもかかわらず棟梁は切腹。その甲斐あってか、はたまた正則もまた程なく川中島へ減封となったためか、木野川の堤防は問題とされることなく残った。
この堤防群は福島堤と呼ばれ、今も当時の威容を残しているという。
0616人間七七四年2019/11/26(火) 20:02:43.66ID:tMteSYMN
棟梁は結果的に死に損だったな
0617人間七七四年2019/11/26(火) 20:52:16.90ID:qbnfwHsR
広島県大竹市と山口県美和町から岩国市に掛けての辺か…あの辺りは市松自身の差配で対毛利用に堅牢な出城の亀居城も作ったけど、
一国一城令が出る前に築城から僅か3年で廃城にしてたり、徳川家相手に相当気を遣ったのかねぇ?
しかしあの辺りは元々の川の流れのせいかこの工事のせいかは知らんが、車で走ると道がくねってる上に狭めで難儀な場所だわ。
0618人間七七四年2019/11/26(火) 20:52:26.68ID:RiijQ3KX
正則のクセに公儀に気を使ってんじゃねーよ
0619人間七七四年2019/11/26(火) 21:49:50.99ID:3ZFS8SM2
高田榊原藩「もっと川が渡りやすくなるように、改修しといてくれれば良かったのに…」
0620人間七七四年2019/11/27(水) 04:29:24.61ID:KeSnhB3n
>>618
かなり気を使っているぞ、市松。

駿府派の本多正純とのつながりが強かったせいで、
江戸派の土井利勝、酒井忠勝らとの対立に巻き込まれる形になって、
結果改易食らったいうのが今の定説だし。
0621人間七七四年2019/11/27(水) 11:53:05.20ID:man8xGao
授業の教育テレビで見せられたせいで、福島正則は改易の時に大権現様が生きていればって暗い城内で泣いてるイメージ
その前のシーンで当の家康が生前から潰す気満々で悪巧みしてて、どっちにしろ潰されるんですけどねって解説が入る
0622人間七七四年2019/11/27(水) 12:55:52.94ID:OpahBc85
メチャクチャな治世といえば、市松よりもよほど虎之助のほうが…。
熊本ではいまだに「せいしょこ」「せいしょこ」と慕われているけどさ…
0623人間七七四年2019/11/27(水) 15:55:00.42ID:k1+nLxDB
朴の一族は根絶やしにするのが日の本のため
06241/22019/11/28(木) 14:18:17.20ID:oSsDNnzT
小田原の役の折

武州忍城の城主である成田下総守氏永は、舎弟左衛門佐泰喬(泰親)、及び田山豊後守、奈良、玉井、
以下五百余騎にて小田原城に籠もり、忍城には留守を置いていた。(中略)

忍城では豊臣軍が迫ると、近隣のすべての地下の農民、商人、社家、山伏、さらに15歳以上の
小冠者(元服して間もない若者)までもかき集めて、彼らを堀裏に置いて旗を差させ、敵方に
多勢が城に籠っているように見せかけ、また鉦や太鼓を用意しておき、敵が不意に攻めてきた場合は
これを打ち鳴らして他の手より救援させるようにと重々に仕組みを手配して、忍城には都合
二千六百二十七人が立て籠もった。

城将の成田氏長の正室は太田美濃守入道三楽斎の娘で、息女が一人有あったが、この娘とともに
この城に籠城した。彼女らは母娘共に容貌麗しく、優れて甲斐甲斐しく操ある女性であった。
「私達は女の身であると雖も、父祖も夫も、数代の弓矢の家に生まれ、たとえ氏長が留守であろうとも
このような時に至って武名を貶めること有るべからず。」
そう言うと、城代の成田肥前守をはじめ、一族家臣等に下知し、士卒の心を一つにして、城を枕に
すべき旨を、心から申し渡した。すると城兵たちは恥の有る者も無い者も、女性にてさえかくの如き
なのだと、感じ入らぬ者は居なかった。

寄せ手は、石田三成、大谷吉継、長束正家を大将として二万余騎にて館林城を落とすと、一両日
人馬の息を休めて、六月四日に忍城へ押し寄せた。生田口と下忍口は石田治部少輔、早見甲斐守、
北条左衛門太夫、並びに佐竹・宇都宮の衆七千余人、人丸墓山を本陣として大宮口までを打ち囲んだ。

佐間口は長束大蔵少輔、伊東丹後守、結城左衛門督晴朝、水谷伊勢守勝隆、岩上但馬守らが加わり
四千六百余人、

長野口は大谷形部少輔、松浦安太夫、鈴木孫三郎以下六千五百余人、これは北谷口までを受け持ち
陣を張った。

これらの攻め口は全て水田の池地であったため近づくことが出来ず、遠巻きに構えていた。皿尾口は
中江式部少輔、野々村伊予守、および江戸川越の五千余人、ここもまた僅かに細道が有る程度で、
左右は深い沼であり、足を踏み入れれば進むことも退くことも自由にならない有様であった。
それでも寄せ手は砦をひとつ乗っ取りそこに陣を付けた。そして持田口の一方をわざと開けておいたが、
これは城兵を放心させて城を攻め落とそうという術であった。

そもそもこの忍城のあるこの地は全体が大沼であったのを、成田氏長の祖父である中務少輔親泰が
多年多くの人力を用いて築かせた城塁であり、さりながら今なお四面深田であり人馬の駆け引きも出来ず、
故に今度の豊臣軍も、寄せ手は攻めあぐね暫くは攻めるのを見合わせたものの、だからといって
攻めねば城の落ちることはないと諸隊は相談し、鬨の声を挙げて矢鉄砲を打ち込み戦うものの、
足場が悪いため死傷者は数しれぬ有様であった。

そのような中、城方では下忍口にて別府小太郎、野澤金十郎の二人、共にこの時二十歳であったが、
先駆けして奮戦し、小太郎は深手を負って倒れ、これに寄せ手の武者が駆け寄り首を取ろうとした所に、
小金井善忠の郎党・橋爪孫兵衛という者が馳せ合わせ、かの武者を討ち取り別府を城内に引き入れた。

また皿尾口にては寄せ手は馬より下りて徒士となって攻めかかったが、城兵の松橋内匠助という
鉄砲の手練が、大筒で試しに撃ち出した所。進軍してきた寄せ手の兵七、八人がたちまち命を落とし、
これによってこの方面の軍勢は裏崩れを起こして引き上げた。中江、野々村はこの体たらくを怒り、
「この口は足場が悪いので力攻めは無理だ、策を以て攻めるべきである、」と、井楼を二ヵ所に作り
そこに大筒を仕掛けて城に向かって撃ち込んだ所、暫くは城方からの攻撃が止まったという。
06252/22019/11/28(木) 14:19:06.84ID:oSsDNnzT
ここで石田治部少輔が提案した
「この城は要害の地であり、また兵糧、矢弾も多く籠め置いてあると聞く。であれば、早期に陥落させる
事は難しいだろう。そこで城郭の四方に堤を築き、そこに利根川荒川より水を引いて水攻めにすべきだ。」
そういう訳で、近隣にこの工事のことを触れ、過分の米銭を与えて人足をかき集め、昼夜を問わず
土石を山のように運ばせ四面に堤を築かせた。

ところが、この時忍城内に籠もっていた農夫、商人らも、夜中に密かに抜け出て土石を運び賃銭を取り
それにて米穀を買い求めまた城中に入った。工事を担当する奉行の者達はこの事を聞きつけて

「この城に糧を入れるのは木の根に水を与えるようなもので、こんな事ではいつまで経っても
城が落ちることは有りません。城内より出てくる人夫は搦め捕って首を刎ねるべきです!」
と訴えたが、石田治部少輔はこれを聞くと頭を振って

「いやいや、そのような事をすべきではない。堤さえ出来れば城兵は片端から溺れ死ぬのだから、
たとえ米穀が城内に充満していても何の意味もない。また、もし彼らを誅殺した事で、これに関係のない
外の人夫たちが恐れて逃げ去ってしまっては、堤はますます完成しなくなる。何も知らぬ体にて
堤の完成を急ぐのだ。」

そう言って、日夜下知を励ますと、幾程もなく堤は完成した。
「それでは」と、利根川を防ぎ留めて江原堤に水を流したが、この時、五月雨の時期が終わると
炎天が続いていたため水の流れも乏しかった。そこで荒川を防いで水を流した所、水は滔々と流れ
溢れた。これに城兵たちは高地へ集まったが、それほど困った様子もなかった。

そのような中、同月十六日の申の刻(午後四時頃)より空曇り雷鳴轟き、夜間には豪雨と成った。
ところがこれによって、寄せ手の築いた堤が、川西という所より五、六間も切れたかと思うと、
新しく築いた堤だったためあちらこちらが押し破られ、逆水となって寄せ手の陣所に押し寄せ、浸水に
よって若干ながら人馬が溺死に及んだ。その後水は引いたが、道は深泥の如くと成り、馬の蹄も
立たない有様で、寄せ手も遠巻きにして徒に時を過ごすしか無かった。

(関八州古戦録)

「忍城の戦い」について
0626人間七七四年2019/11/29(金) 13:28:38.61ID:hQb+dwiO
やっぱり三成は無能だなあ。
城方の手抜き工事で堤が破れたというのに秀吉のせいにしちゃってさ。
0627人間七七四年2019/11/29(金) 13:40:10.38ID:yRCWEj3c
無能っていうか官僚系だろ。
06281/22019/11/29(金) 14:29:18.61ID:tnZCnaZ3
豊臣秀吉の小田原征伐に於いて、先に武州の石築、筑井の両城の攻め手として向かっていた
浅野左京大夫幸長、木村常陸介重茲、同伊勢守定重父子、赤座久兵衛直保、以下この方面が落ち着いた
ため人馬を暫く休めていた所、忍城が未だ落ちていないという事が笠懸山の本陣に聞こえ、秀吉より
急ぎ忍城攻めの加勢に向かうようにとの下知が有り、そこで直ぐに忍城へと向かった。

ここに、同国大里郡の久下城主、市田太郎という者があった。彼は武蔵七党の一員であり、また
重代の国侍であったが、僅かの分限であったので成田家の旗下に属し、当時は成田氏長の妹婿であった。
である以上、事ある砌は氏長より、忍城の留守居である成田近江守の助勢に駆けつけるよう定められ、
普段は久下を守っていた。この度は成田氏長、泰親兄弟が小田原に籠もったため、久下は小領であり、
また非常に僻地でも有ったので、そこは放置して忍城に籠もることを申し合わせ、本丸に入って
共に籠城した。

その頃、忍城では『小田原城内にて成田氏長が二心を起こし、上方勢に内通した。」との話が
聞こえてきた。そのため留守居の者達も両端を持す態度を取るように成り、市田太郎の姉は、北条方の
福島伊賀入道(賢成ヵ)の妻であったので心定まっているとして、市田並びに成田近江守を共に
持田口へ出して外郭の警護に当たらせた。

ところがこの処置に成田近江守は憤り、密かに浅野幸長の陣へ使いを立てて内応する旨を伝えた。
この事について、幸長の家老たちは石田三成に相談した所、三成は
「わが陣へも敵方より返忠の約を成す者があり、既に条件などを議定している。なので明日にでも
総攻めをすれば、簡単に城を乗っ取る事が出来ること疑いない。」
との返事であった。故に浅野家中はこれを事実と心得、軍勢の準備をした。

ところが、実は石田治部少輔は以前より忍城攻めのため在陣しているというのに未だ功を顕すことが
出来ておらず、加勢の手によって城を攻略されてしまえば面目が立たないと思い、浅野家を欺き、
彼らが功を立てることが無いように彼らを謀ったのである。
06292/22019/11/29(金) 14:29:48.02ID:tnZCnaZ3
こうして翌日、木村常陸介兄弟が下忍口に押し寄せ、持盾械盾を並べてその陰より大筒小筒を
激しく打ち掛け攻め懸った。これを見て城方は、坂巻靱負尉が合図の鐘を鳴らした所、近辺の持口より
援兵が出た。寄せ手は頻りに競い進んで深泥を踏み越え塀へ乗ろうとした所を、城兵が矢弾を
夥しく放ったために多くが討たれた。

浅野幸長は長野口に陣していたが、西南の方から鬨の声や鉄砲の音が聞こえてくると
「すわ、搦手にては戦いが始まったようだ、者共進め!」と長野口へ押し寄せ、堀を越え柵を破って
城門の際まで攻め懸ったため、城兵たちも「これは持ち堪える事はできない。」と思い、ここを捨てて
大手の行田口へ引き取りはじめると、幸長の家人である浅野平右衛門、沖小平太が真っ先に進み、
この撤退に付け入ろうと追いかけた。

城兵の柴崎和泉守、三田加賀守、同次郎兵衛、吉田和泉守、同新四郎、鎌田次郎左衛門、秋山宗右衛門、
成澤庄五郎らがこれを支え防ぎ戦っている間に、雑兵たちは尽く行田口に逃げ入った。
浅野、大谷、松浦、鈴木の軍勢が既に大手の橋前まで詰め寄せたが、この八騎が橋詰にて踏み堪え、
槍衾を作って防いだため、寄せ手も更には進みかねた。

この時城中より、今村佐渡守、福島勘解由、坂本将監、島田出羽守以下三十余人が城門を開いて
突いて出、先の八騎の武者と一体となり、ここで敵も味方も勇戦し、寄せ手の浅野平右衛門が
討死し、沖小平太も福島勘解由に討たれ、大谷家の家人である飯沼主水正は今村佐渡守に組討され、
同じく家人の高田喜太郎も島田出羽守に付き伏せられた。これによって寄せ手が怯んだ様子に、
城方は「良き頃合いである。」と城に引き上げたが、城方も成澤庄五郎、秋山宗右衛門が討死し、
鎌田次郎左衛門は食い止められ橋の上で鑓を合わせていたが、彼は覚えの者であったので、鑓で
戦いながら「城門を早く閉ざせ!」と叫んだ。そこで城兵が木戸を閉めている間に、鎌田はそこで
討死した。彼の死を惜しまぬものは居なかった。

寄せ手は城門を破ろうと、寄り集まって押し掛けたが、最初の合図の鐘を聞いて佐間口を固めていた
正木丹波守以下五十余人が町家を廻って寄せ手の弓手に向けて鉄砲を撃ちかけ「裏切りが出たぞ!」
と叫んで真っ直ぐに打って掛かった。寄せ手は敵の規模を知らず多勢であると思いこみ、とうと崩れて
引き退いた。これを見て城兵はまた木戸を開いて切って出て、正木の人数と一つになり散々に戦い、
寄せ手はたまりかねて長野口方面へと引き上げた。

この時、長束正家および結城勢は佐間口を受け持っていたのだが、行田口、下忍口にて合戦が始まったと
聞いたため、「我々も攻め口を乗っ取ろう。」と押し寄せたが、この口を守る正木丹波守は行田に
救援に行っており無勢であったものの、福島主水正、櫻井又右衛門、内田孫六郎らが鉄砲を使って
ここをよく支えた。長束の家人である家所帯刀が先導して、有坂宮内丞、一宮善兵衛などという勇士
たちが続々と城門に取り付き後よりも大勢が続いた。すわこの口は破られると見えた時、正木丹波守が
行田口の敵を追い払って自分の持ち口に取って返る所を寄せ手が見て、「敵には後詰めが有るぞ!」と
心得、色めいて撤退した。この時城兵はまた打って出て追い打ちをかけたため、寄せ手は多く討たれたが、
城兵の被害は微小であった。総じてこの一日の戦いで、寄せ手の死傷者は数百人、城兵の討ち死には
五十五人、手負いは四十余人であったという。

石田治部少輔、並びに佐竹宇都宮勢は終始軍勢を出さず、徒に黙殺していただけであった。

このようであったので、市田成田の内応のことについても失敗し、寄せ手の面々はまた、城を遠巻きに
するのみであった。

(関八州古戦録)

忍城攻めで三成が浅野幸長を陥れたお話。
0630人間七七四年2019/11/29(金) 17:14:26.33ID:hQb+dwiO
大谷や長束まで巻き込むユニークスキル
0631人間七七四年2019/11/29(金) 19:38:34.49ID:6I18+3aO
>>629
フレンドリーファィアで有名な某政○家が頭に浮かんだ。
しかし政敵ならいざ知らず、主人の一門格になんちゅう事すんねん。
結局それが後に自分に返ってくる訳だけどさぁ…
0632人間七七四年2019/12/01(日) 13:00:24.75ID:6Y7LonhJ
三成「亡き太閤殿下から御恩を受けた連中が揃って東軍にいるのか全く理解できん」
0633人間七七四年2019/12/01(日) 19:01:57.00ID:7pu/GFyd
市松「太閤殿下の御恩に報いるため、君側の奸を取り除くのだ」
0634人間七七四年2019/12/01(日) 20:15:11.15ID:RQmFJeyR
>>632
石田三成被害者の会一同「お前が言うな」
06351/22019/12/02(月) 14:12:43.45ID:HJq7LjB6
小田原北条氏の重臣である松田尾張入道(憲秀)、およびその次男である左馬助(直秀)は、
秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。

天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」

これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した

「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」

尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた

左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。

それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した

これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。

そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。
06362/22019/12/02(月) 14:13:21.71ID:HJq7LjB6
氏政父子は大いに驚き、二ノ丸の片廓は定例の奉行頭人の集会の為の内評定の場所であったので、
翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって

「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」

と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし

「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。

松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。

左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。

(関八州古戦録)
0637人間七七四年2019/12/03(火) 06:19:31.82ID:RCYAL5ym
小田原の役の折

この頃豊臣秀吉公の右筆に、山中山城守長俊という人物が居た。彼は元々、近江源氏
佐々木承禎(六角義賢)に仕えていたが、牢人と成った後久しく殿下に仕え。その文筆によって
優遇を受けた。また彼は連歌を好くし、彼の時々の秀歌は人口に膾炙していた。

忍城の成田氏長兄弟もまた以前より連歌を嗜み、臨江斎(里村)紹巴の元に時々、百韻の批評を
求めてはるばる京まで送るなどしていたため、山中山城守とは面識はないが、風雅の友として
長く文通しており、また了意という連歌の道の達人を上方より招いて扶持を与えていたが、
先年故郷に帰った折に、里村紹巴に誘われて殿下に謁見した時、秀吉公は成田の噂を聞かれて
「関東筋に必要なことがあれば、その時は手引を頼むと、内々に伝えるように。」
と伝えた。

このような事があったので、秀吉公は山中山城守を呼び出して言った
「忍城が未だ落ちていない。汝は成田と旧知であるから、彼に書簡を送って我が方に
帰降するよう勧めてみよ。」
と宣われたため、山城守は直ぐに一書を認め六月二十日、夜に紛れて成田氏長の陣所に遣わした所、
氏長より「一段同心」の返事が送られた。これに殿下は大いに喜ばれ、
「これにて事は成った。敵城の没落ほど、敵を討つための策の基はあるだろうか!」
そう言って徳川家康公へ成田よりの返書をご披見に入れられ、これを北条氏直に見せ、

「関八州の諸将はこのように我が方に服従している。籠城に全く利はない。早く講和すべきである。」

そう調義を入れるようにとし、家康公より小田原城中に向けてこの調略を入れると、城内は色めき立ち
雑説紛々たる状況になった。
北条氏直は成田氏長に「議したいことが有るので急ぎ片曲輪に出席するように」と使いを三度まで
出したが、すべて病気と称して出ようとしなかった。そこで医師である田村安栖を彼の持ち口に
遣わし、「そなたに二心の風説が有る。その実否を糺したい。」と言い送った。
これを聞いた氏長は

「敵は大軍を以て忍城を侵し攻め、士卒足軽等に至るまで皆殺しになるかと思うと情けなく、
思うに堪えず、山中山城守を通して降伏を乞いました。虚報ではありません。」
と答えた。これに氏直は怒り、成田の陣所の四面に柵を設置させ、山上郷右衛門の組の侍八十余人に
よってこれを警護させた。

その後、秀吉公より石田治部少輔の元に墨付が送られ、成田氏長が帰降する事を城中へも
知らせるようにと有り、石田より諸将に通達し、龍淵寺の僧を使いとしてこれを城中に伝達
すると、城兵たちもどうすることも出来ず、同月二十七日、浅野左京大夫幸長に対し城を
明け渡した。

(関八州古戦録)

忍城開城の顛末。
06381/22019/12/05(木) 18:09:28.65ID:0N8R+1fU
小田原征伐は和睦と成り、小田原籠城の者達は、七月七日より九日にかけて、夜昼ともなく
引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。

この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。

これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」

そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。

これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。

秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」

家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。
06392/22019/12/05(木) 18:09:45.97ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。
0640人間七七四年2019/12/05(木) 20:01:24.24ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)
0641人間七七四年2019/12/05(木) 21:24:34.25ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない
0642人間七七四年2019/12/05(木) 22:44:29.39ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな
0643人間七七四年2019/12/06(金) 09:25:49.12ID:brHVrkeT
天正十八年七月十二日、豊臣秀吉公の命により、北条氏直は紀州高野山へ蟄居することと成った。
彼の北の方(督姫)は徳川家康公の姫君にて、過ぎし天正十一年七月、小田原にお輿入れ成されたが、
いまや別離の御暇乞いにおよび、紅涙に沈まれていた。その心痛わしい中、氏直は肌につけていた
お守りを取り出し北の方に見せた

「これは高祖(伊勢宗瑞)よりの守護であるとして、当家相伝の重宝である。初代早雲庵が
伊豆国より起こって、明応四年九月十三日、湯坂の城に大森不二庵(藤頼ヵ)を追い落とされた時、
夕方に出陣の身固めをされ食事を取り、勝栗を半分食し、半分を鎧の引合に押し入れて出御されたが、
その夜、難なく本望を遂げられた事により、吉例の物であるとして、この勝栗の方辺を綿襴の袋に入れ、
以後氏綱、氏康、氏政、そして私まで、五代の間持ち伝え秘蔵してきた。

私は今、浪客となった。よってこれはあなたに渡して置く。もしまた、この後一門の中から
世に出て家を継ぐ者が有ったなら、その者に渡してほしい。」

そう言ってこれを渡した。北の方は涙に咽びながらこれを受け取り、以降肌身より離さず所持して
いたが、氏直死去の後、彼女が家康公の仰せによって池田三郎左衛門輝政と再婚する事に成った時、
彼女より北条美濃守氏親へ譲られたという。

またこの時、北条左衛門太夫氏勝も高野山に氏直の供をすると、その準備を調えていたのだが、
家康公より殿下に申し入れがあった
「氏勝は最前に麾下に入り、関東諸城への案内をなし、軍功を励みました。これを無下に高野山へ
遣わされるのは理屈が通りません。そのような事をすれば、今後一体何者が我々に帰降して返忠を
成すでしょうか。枉げて本領を宛行われるべきでしょう。」
秀吉公はこれを聞かれると
「忙しさのあまり気が付かなかった。私の誤りである。」
として、氏勝を留め置き相州玉縄の旧領を与えた。

斯くして同月二十日、氏直は小田原を発った。随行する人々は、太田十郎氏房、北条安房守氏邦、
美濃守氏規、左衛門佐氏忠、右衛門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、堀和佐兵衛尉、
依田大膳亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊地七兵衛、以下三十人、
そして雑兵は三百人であった。家康公よりお見送りとして、榊原康政が差し添えられた。
秀吉公は温情を施され、旅中の差し障りが無いようにと、警護の士、駅路の伝馬、道中の賄いを
充分に宛行われ、高野山に至ると二万人(二百人ヵ)の扶持料を賜り、その他雑用、調度についても
要望どおりに準備させた。そして高野山の山上は寒冷が殊に甚だしいと殿下は聞き及ばれ、
これを労り、翌年十一月十日にこの面々を天野の地に移し、衣服、酒茶の類までも豊かに贈られた。

天正十九年の春、氏直は泉南の興応寺に来て半年ばかり滞在し、その間に秀吉公は
彼を大阪城に招き対面して、北畠(織田)信雄の旧宅に入れ白米三千俵を与え、その後来春には
西国中国の内に一国を宛行う事を約束したのだが、氏直は俄に痘瘡を病んで回復すること無く、
十一月四日、三十歳にて逝去された。あれほどの豪家であり、また家康公の聟君であり、
殿下にも慈悲を加えられていたというのに、誠に是非無き次第である。
舎弟の太田十郎氏房も翌年四月二十日、肥前国唐津の陣中に於いてこれもまた痘瘡を患い、
不孝短命にして二十八歳にて卒去した。ここにおいて、北条家の正統は断絶したのである。

(関八州古戦録)

小田原開城後の北条氏直について
0644人間七七四年2019/12/06(金) 10:08:01.62ID:yzluYGCw
氏康「もっと子作りしとけや」
0645人間七七四年2019/12/06(金) 10:39:05.02ID:LVehz+Z0
>>643
都合良くどんどん死んだな
玉縄って北条綱成の築いた巨城でしょう?そんなとこの旧領を北条氏勝に与えて良かったのかしら?
0646人間七七四年2019/12/07(土) 04:32:43.45ID:mZxo5fAk
後詰めもないのに勝てるわきゃねえじゃんヴァーカ
0647人間七七四年2019/12/07(土) 10:55:03.01ID:AzvJW3Lj
なお、この24年後
0648人間七七四年2019/12/11(水) 11:01:10.95ID:+Xsq24cf
最上義光と向去(ムカサリ)道

戦国時代のある日、山形の最上家と谷地の白鳥家の間で縁談の話が持ち上がりました。
最上義光は家臣の蔵増親景に命じて長男の最上義康と白鳥長久の娘の日吉姫(伏姫とも)の婚儀のために、姫を谷地から山形へと迎える新道を(山形から漆山、高擶、蔵増、谷地を通る最短距離の新街道)を切り開きました。

日吉姫はこの道を通って山形に嫁ぎ、沿道の領民たちは、この道を「向去(ムカサリ)道」と呼びました。
それから間もなく血染めの桜で知られる白鳥長久謀殺事件が起き、婚姻が事実上のおしゃかとなると、最上の軍勢がこの新道を谷地まで攻め入り、姫の里の谷地は落城。
「ムカサリ道」は「いくさ道」でもあったのです。

天童にあるこの道も、今ではわずかに名残を留めるだけとなりました。
また、長崎と山辺間の「立道」(たちみち)にも中山氏と山野辺氏の縁組の不幸な逸話があり、以後嫁入りの際は「ムカサリ」はこの道を避けて通らなくなったと言います。
他にもムカサリと冠される橋があり、白鷹町荒砥の「ムカサリ橋」も何故か理由はわかりませんが、昔から「ムカサリ」は渡れない橋だと言われています。伝承は理屈ではないということでしょう。

山形の昔話
天童の昔話
てんどうのむかしばなし第二集
白鳥十郎公ものがたり/槙清哉/著
山辺夜話/武田泰三/著
あらと百物語/荒人・乱舞実行委員会/編
0649人間七七四年2019/12/11(水) 19:54:52.99ID:wpvlNuOq
まとめの
4101「残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され…」
11031「伝説の姫君嶋子」
という逸話では小弓公方の末裔・足利頼純の娘であり
塩谷氏に嫁いでいた嶋子という絶世の美女が、
北条滅亡後、古河だか宇都宮にいた秀吉のもとに参じ
自身が側室となる代わりに小弓公方の血を引く弟と、古河公方の娘を結婚させることで
足利の家(のちの喜連川氏)を残そうとした、てなってたけど

https://www.iza.ne.jp/smp/kiji/life/news/191211/lif19121112270008-s1.html
家康監視に足利氏を利用? 小田原落城後に出した秀吉の書状見つかる

小田原落城直後の時点でまだ神奈川にいた秀吉から足利頼純に厚遇を約束するような書状が発見されたようで
嶋子側室の件は大して影響なかったのだろうか
少なくとも逸話では嶋子は神奈川には行ってないようだし
0650人間七七四年2019/12/11(水) 20:42:19.27ID:qSXNh1zJ
家康を監視牽制にしては小弓足利を全然活用してないね
かなり気配りした手紙みたいだけど学芸員の妄想じゃないのかな
小弓足利のために動いた里見も削減しちゃってるし
0651人間七七四年2019/12/11(水) 21:23:42.59ID:eRGzA007
豊臣秀吉文書集に収録されてたものだったから読んだけど
秀吉が刀一腰貰った事に対する礼と
北条が滅亡して年来の北条に対する鬱憤が晴れてさぞや満足でしょうってことしか書いてない
この書状の内容だけじゃ到底家康監視のためとは読み取れない
あくまで学芸員の推察だな
06521/22019/12/12(木) 11:31:17.84ID:g+fbVvyj
(慶長五年)九月上旬に、徳川家康公は濃州勝山にお着きに成り、九月十五日に関ヶ原で敗れた
石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。

石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。

その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。

嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て

「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」

このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。
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