天正17年末になると、秀吉による小田原征伐の動きが、小田原にも伝わった。
北条家中では、北条家の浮沈この一挙に関わる、絶体絶命の時来たりと、心ある面々は眉をひそめ、
手をこまねいて大嘆息しないものは居なかった。

ところが北条氏政、氏直父子はさほど驚く様子もなく悠々として、一族家臣へ向かって
このように言った

「この小田原城は、京から遠く百余里にある。秀吉といえどもそう軽々と兵を動かすこと
かなうまい。しかも小田原の前には、東海第一の難所である足柄、箱根の険がある。
早雲以来五代の臣下が多年守ってきた要害であり、また忠誠なる関東武士があり、知勇備わる
百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。

昔、右兵衛佐(源)頼朝公に対して平家の追討軍として、小松三位中将維盛卿が十万余騎の大将として
由井、蒲原まで押し寄せてきた時、彼らは既に関東武士の武勇に恐れすくんでいたため、水鳥の
羽音に驚いて黄瀬川より逃げ帰ったという。
近くは、軍略に長けた上杉謙信、武略縦横の武田信玄らでさえ、城下まで押し寄せてきながら
攻めきれずに退敗した。

そして何たることか、秀吉は卑賤の身より高職に駆け上がり、関西を握ったとはいえ、上見ぬ鷹の
思い上がりである。俗に『凡夫勢い盛んなれば、神仏の祟有り』という。下剋上の天罰は必ず
秀吉の頭上に下るであろう。ことさら不案内な東国に長途の大軍、しかも客戦である。
天険に寄る小田原城を落とすことは不可能であり、また我が城には兵糧弾薬ともに豊富であるから、
五年でも十年でも籠城できる。防戦一方の覚悟を以て望めば、西軍(豊臣軍)を蹴落とした上に、
秀吉を捕虜にすることすら難しくないだろう。」

そう事も無げに大言した。万座の諸士の中には頷いた者もいたが、口を閉じて何も答えず
引き下がった者も少なくはなかった。

(関八州古戦録)