天正六年五月四日、房総の里見左馬頭義弘が上総の国浦田城で死去した。かねて遺言があり、
嫡子である刑部大輔義頼(弟で養子とも)へ安房一国、弟に下総の領内半分を与え、房州館山に在城の事、
次男梅王丸へは上野国を譲る、しかし未だ若年なので天羽郡佐貫の城主・加藤伊賀守が後見すべし、
とあった。そして下総の残り半分は末の娘の化粧田として、都合三ヵ国の家人は、義頼・梅王丸の
領地の2つに分かれて奉公するように、とあった。

梅王丸と妹君の母は上総千本城主・東平安芸守の妹で、加藤伊賀守の孫娘にあたるため、
幼少の姫君とともに亀の城へと移った。

ところが里見義頼は、自分に譲られた領地があまりに少ないことに怒り、内々に加藤伊賀守に
相談し、梅王丸を房州の円明寺にやって春斎(淳泰)と名乗らせ剃髪させ、わずかに二十貫文の厨料を
与えて館山の城へ押し込んだ。その上母堂および妹君は、上総国高滝の琵琶が首という所に小さな居宅を
普請して移した。

この事を母堂は恨みに思い、「我が身死なば悪霊と成って義頼に取り憑くであろう。」と歯噛みして
口惜しがった。また梅王丸の所領であった上総の領民たちが、東平安芸守、同右馬允父子にけしかけられ
方々で一揆を起こした。

義頼はやむなく、東平父子を討つため正木大膳亮時義を大将に立てたが、これに加藤伊賀守が
反対し数日間内輪もめが続いた。かといって今更房州の寺にやってしまった梅王丸を引き戻すという
わけにもいかず、結局、久留米、千本を根城とする東平父子へ強く談じ込み、条件をつけて収まった。

また梅王丸についた一族も、円明寺の住持を通じて歎訴してきた事で、ある程度その意向を聞き、
上総、下総を平均して義頼の持ち分とした。

その後義頼は春斎を還俗させ、里見讃岐守義成(義重)と名乗らせ、所領一万石を分け与えた。

(関八州古戦録)

里見義弘死後の、里見の騒動の模様。