戦国ちょっと悪い話47
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0470人間七七四年
2019/09/30(月) 14:19:26.60ID:8QeXwAHHデウスは常にその名誉に関することに注目し、裁断を下し給うことを明らかにした。
平戸にヤシマンダケ Iasimandaque と称し、坊主一同の首領たる者があった。これは我が司教、
または大司教に相当する者であった。同人は常にキリシタンおよび信仰の事に対しての主たる
敵であり、十字架が切り倒され、パードレ・ガスパル・ビレラその他パードレが平戸より追放
されたのも彼の力によってであった(永禄元年の、松浦隆信による宣教師の平戸追放)。
ドン・アントニオ(籠手田安経:平戸松浦家重臣)も右の坊主がこの地の身分ある異教徒たちと
親戚関係にあるため、その罪悪に相当する復讐を成すことが出来ないのを非常に遺憾としていたが、
ドン・アントニオが平戸の王(松浦隆信)とともに戦場に在った時、坊主は使者を以て、その寺院二ヶ所と
併合するためにドン・アントニオの所領の地所の一部を彼に与えるよう求めた。ドン・アントニオは
これを与えることを欲さずと答えたが、坊主は甚だ傲慢であり、右の返答を以てその名誉を毀損せし
ものとし、先ず領内に火を放ち、その後数日を経てドン・アントニオの臣下であるキリシタンの家
5,6軒を焼かせた。
ドン・アントニオは陣中に於いてこれを聞き、王に対し、「この上坊主の悪行を容認することは出来ない、
殿下がもし直ぐにこれを罰しないのであれば、戦を中止し自ら行ってこれを罰する。」と述べた。
ドン・アントニオは平戸の王に次ぐ有力者であり、陣中の総大将でもあったことから、これを欠くことは
出来ず、王自身はこの報復を欲せず心中悲しんでいたものの、「彼に対しいかなる罰を加えるべきか」
と尋ねた。ドン・アントニオは右の坊主のためにパードレたちが当国を追われたことを想起し、王に
対して「永久に平戸の各地より追放し、領地および所有品は他に分かち与え、彼をして再び帰還する
望みを断つべし。」と説き、直ぐにそれを実行した。
最も愛するイルマンたちよ、坊主たちがその首領が右のごとく急速に名誉を失墜したのを見て、恥じ、
悲しみ、かつ驚いたこと、キリシタンたちがこのように敵が除かれたことを喜んだことは、これを述べる
詞を知らない。
ただし平戸の王はこれにより我等に友情を示したのではない。ドン・アントニオの存在が必要であったために
動いたに過ぎない。彼は私利のため言辞と動作に於いてポルトガル人を許容しているが、心悪しき人で
ある故に、信仰のことについては敵であり、ポルトガル人に期待する利益が大きくなければ、領内に
パードレおよび会堂を置くことを許容しないであろう。
(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
フロイスによる、平戸についての報告と松浦隆信についての印象。
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