戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
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0047人間七七四年
2019/05/20(月) 08:17:43.22ID:BV914y30http://www.atagiya.co.jp
松永「ありがたい、お茶を点てましょう」
0049人間七七四年
2019/05/20(月) 13:44:26.48ID:eIFVPv4q0051人間七七四年
2019/05/20(月) 16:33:26.02ID:0Xfn6F6Cばかりが出世し、少しでも質実な者を「気詰まりなり」と嫌って自分の周りへも寄せ付けず、母儀
の叔父・岡本卜世(原注:岡本美濃守弟)が諫めるけれども聞かず、上下は疎み果てたのである。
また上方よりゑつた(河原者)が下り、本来を隠して勝瑞の町人になった。されども隠れなくして
傍人は付き合いを厭い、そのゑつたを追い出そうと企てたが、かの者の子は生まれ付き優れたので
長春の小姓に使われ出世したためにそれも叶わず、諸人は誹り非難した。
――『三好別記』
0052人間七七四年
2019/05/20(月) 19:40:48.61ID:3Ffeh8GT香川家の当主が狩の途中に山中で雷雨に遭い、
崖の近くの岩屋(洞穴)に逃げ込んだ。
すると岩屋には先客の老婆がおり、
濡れた体を温めるために火を焚いていた。
当主は火を借りようと老婆の側近くまで行くと、
老婆は当主が名乗ってもいないのに、
「おやおやご領主、寒かろうからこちらへ来て火にあたりなさい」
と当主が香川氏であることを言い当て、
「ご領主、峠で矢をかすめて獲物を逃がした時は惜しかったですな」
「姫君の病は今日は良いそうですね」
などと自分しかわからないような内密な話を次々と口にした。
当主は老婆を人間ではないと見抜いて、
腰に差した太刀を引き抜き、老婆の頭に切りかかった。
ところが太刀は老婆の頭に当たった瞬間、ポキリと折れてしまい、
老婆には傷ひとつ生じなかった。それでも老婆は憮然として、
「ご領主はナマクラな刀しか持っておらぬようじゃ、ならばこの太刀を進ぜましょう」
と言い、見るからも優麗な太刀を差し出したという。
以来、当主はその太刀を香川家の宝刀として珍重した。
人々はその太刀の名を岩屋に因んで「岩屋の太刀」と呼んだという。
0054人間七七四年
2019/05/20(月) 23:31:06.99ID:/aBGP2PW0057人間七七四年
2019/05/21(火) 18:10:48.03ID:D7yWtb0Y摂津芥川に在城。20歳ばかりで病死致されたとの由を申す。
由座(遊佐か)・畠山(高政)が飯盛の城へ押し寄せて長慶は少ない人数で籠城したため、落城と極
まるところに筑前守は芥川の城でこれを聞き申され、松永(久秀)と相談して「後巻致されるべし」
と談合は極まった。
しかしながら、少ない人数のために成し難いため、安宅摂津守(冬康)に「味方に加わりなされ」と
三好下野(宗渭)を使者にして淡路へ差し遣された。安宅は同心申されて、松永・安宅が先手となり
筑前守は飯盛の後巻として出陣、大敵を一戦で追い払い申された(教興寺の戦い)。この時、筑前守
18歳という。
松永と安宅が先陣を争い申された時の筑前守の裁判は肝を潰したとの由を、三好因幡(為三。宗渭の
弟)の話で承った。
この時に下野守が淡路へ参って帰り、筑前守は「安宅は味方を致しなさると申されたか」と、尋ねな
された。これに下野守は申して「いかにも御同心です。しかしながら、安宅殿に似合い申さぬことを
仰せられました。『御合戦が御利運となったならば、どこの国を下されるのか』と御申しです」との
由を物語り致した。
これに筑前守が「返事はどのように申したのだ」と尋ねなさると、下野守は「『御国はいずこなりと
も御望み次第』と請け合い申しました」との由を申した。
すると松永はこれを聞いて「下野殿とも思えぬ返事を申される。どうして『天下を進ぜられましょう』
と申されなかったのか」と申したという。
この由を側で承ったように因幡は話申された。
――『三好別記』
0061人間七七四年
2019/05/24(金) 11:45:39.91ID:ISgK1XN7牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。
この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)
またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)
近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。
また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。
彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。
(甲子夜話)
アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事
0063人間七七四年
2019/05/24(金) 15:24:00.04ID:5bhEUb8Y0064人間七七四年
2019/05/25(土) 09:39:09.14ID:rLzlw2E3妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。
これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った
『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。
翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)
安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。
これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)
(甲子夜話)
「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事
0065人間七七四年
2019/05/25(土) 10:53:54.78ID:pkUWqy7a0067人間七七四年
2019/05/25(土) 11:19:44.25ID:8K1a1MKB0068人間七七四年
2019/05/25(土) 19:34:35.29ID:hxMmZEG8義冬(足利義維)
尊氏公十代の京都の公方・義稙公の長男(11代義澄の子。義稙は養父)。平島の元祖なり。永正
6年(1509)、京都で生まれる。母は細川讃岐守成元(成之)の娘。天文3年(1534)、
都から阿波国へ下向して那東郡平島庄に居住す。天正元年(1573)10月8日、平島で卒去。
同所西光寺に葬る。年65歳。法名・中山。
義冬が都から阿波国へ下向した趣きは将軍・義稙公の御台を清雲院と申し、阿波国の前細川讃岐守
成元の息女で義冬の母なり。
ところがこの清雲院殿は、ふと狂乱のようになられることにより、義稙公と不和になり給う。それ
故に子息の義冬を少しも寵愛なさらず、あまつさえ公家から御台を迎えなさり、清雲院殿も義冬も
嘆かわしい有様でおられた。
それにより新御台は義冬のことを様々讒言しなさる故、父子の間はいよいよ不和になり給うにつき、
義稙は世を(家督を)義高か義晴に御譲りなさるとの御内存であった。これは皆、新御台に近き一
門である故なり。
これによって清雲院殿と義冬はともに天文3年に四国へと志して下りなさったが、まず淡路志筑の
浦にしばらく居住しなさったところを細川讃岐守から迎船を遣わし、義冬を阿波へ招き受けて平島
に居住させたのである。
義親(14代義栄)
義冬の長男なり。天文7年(1538)、阿波国平島で生まれる。母は周防国の大内介(大内義興)
の娘なり。永禄9年(1566)10月20日、阿波国撫養で卒去。同平島に葬る。年29歳。法
名・国山。内室は結城氏。
義助
義冬の次男なり。天文10年(1541)、平島で生まれる。母は右に同じ。義親が早世故、義助
を惣領に立て義冬の家を継ぐ。文禄元年(1592)7月2日、平島で卒去。同所に葬る。年52
歳。法名・宝山。
義任
義冬の三男なり。天文12年(1543)、平島で生まれる。母は右に同じ。文禄年中に卒去。萩
原光勝院明岳和尚の父なり。
義種
義助の息男。天正2年(1574)9月2日、平島で生まれる。母は周防国の大内介の一族、柳沢
主膳正の娘なり。
義次
義種の息男。平島又八郎と号す。慶長元年(1596)9月23日に平島で生まれる。母は水無瀬
中納言の娘なり。
義景
義次の嫡子なり。元和2年(1616)、平島で生まれる。平島又次郎と号す。
――『阿州将裔記』
0069人間七七四年
2019/05/27(月) 15:25:22.10ID:70HqE8/oしていたのを、弾正の計らいで義親(足利義栄)に付け置いた。
しかしながら、殊の外に不行儀者で義親の命にも従わないため、義親は喜内を手討ちになさった。
松永はこれを聞いて憤りを含むといえども、義親の道理至極であるためにどうしようもなく、上目には
変わることはなかったが、心中に遺恨を差し挟んで義親と松永は不快のようになった。
そんなところで義親は不運にして病気が差し出て、普門寺から阿波へ帰るとして撫養という所で永禄9
年(1566)10月8日に相果てられた。
義親の逝去は弾正が鴆毒を与えたためという沙汰がある。しかしながら事実ではあるまじきことである。
――『阿州将裔記』
0070人間七七四年
2019/05/28(火) 00:59:29.72ID:aWEGs2Wh(康長)・同日向守(長逸)・同下野守入道釣閑斎(宗渭)・岩成主税助(友通)・松永弾
正(久秀)とかれこれ所々に居住す。
讃岐には十河一存・瀧宮豊後守、伊予には真辺・石川、淡路には安宅・野口、これは皆実休
(三好実休)に近き一門なり。
国を守護して三好家は繁栄したが、長治(三好長治)が悪心である故に一類は互いに遺恨が
出てきて、親子兄弟が立ち別れて敵となり味方となり、討ちつ討たれつ相果てた。また土佐
の元親(長宗我部元親)にも大方討たれ、信長公・秀吉公の代にもあるいは討たれ、または
他国へ落ち行き、ついに滅んだ。
――『阿州将裔記』
0071人間七七四年
2019/05/29(水) 17:57:14.41ID:38thBiDlhttps://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1494619655/
戦国板にもこういうネタスレがありますが、海外ではマジにこういう戦法が日本であったと思われているらしい。
欧州の研究家が江戸時代の軍記物のネタ話を丸写しで信用し、そのまま出典として引用しちゃったそうで・・
The Samurai Capture a King: Okinawa 1609
著者: Stephen Turnbull
https://books.google.co.jp/books?id=hF21CwAAQBAJ&pg=PA50&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=2#v=onepage&q&f=false
0073人間七七四年
2019/05/29(水) 18:42:47.13ID:AEb8hRxI同じ伝記でも水滸伝だと完全にフィクションだろってことでスルーなんだけど、
下手に歴史物な三国志だと信じる人結構多くなっちゃうねい。
0074人間七七四年
2019/05/29(水) 19:18:47.59ID:mk5fFJh4甲州流、北条流などの軍学書にな、蛇攻め、もしくは蛇責めというものがあるが中身の説明はまったくないので実態不明。
浸し攻めと並ぶ水攻めの方法の一つ、と書いたものがあるから
蛇が水没したねぐらから城に入って人々を苦しめる程度の小規模の水攻めだろう
としていた。
「蛇を撒く」だと、むしろ
フラウィウス・ヨセフス「ユダヤ古代誌」にある、
エチオピアがエジプトを攻めた際、モーセが敵陣に奇襲をかけるために
蛇がうようよする内陸の道を、蛇を食べるトキを連れて通り、見事奇襲に成功した。
という映画「十戒」でもネタにされている話の方が近いような。
0075人間七七四年
2019/05/29(水) 19:30:43.27ID:znGVlwxs薩摩の琉球攻めの軍記物だから、三国志演義の南蛮攻略とほぼ同じノリなんだよねえ
おそらく実際に参考にしてると思う
0076人間七七四年
2019/05/29(水) 20:47:43.30ID:F/n+f8Zb0078人間七七四年
2019/05/29(水) 21:11:48.92ID:UGOt4bAO0079人間七七四年
2019/05/30(木) 09:30:54.16ID:GaQuAx5H思い込みと資料の未精査と誤訳も多いけど
0081人間七七四年
2019/05/30(木) 12:13:52.40ID:Oa0G9WWv・1942年にドイツ語で薩摩の琉球侵攻の本が出ているが
軍記物を参考にしていてあてにならない
・良質な史料としては琉球サイドの喜屋武親方の「喜屋武日記」
薩摩サイドの「琉球渡海実記」「琉球軍記(軍記とはあるが史実的に正確)」
・軍記物で記述されてる人物も実在の人物と乖離しているものとしては「島津琉球軍精記」それを基にした「絵本琉球軍記」がある
・何百匹ものハブを集めて放した話は「喜屋武日記」にはないが薩摩方の記録にある
となっていた。
ぱっと読んで違和感があったのは
・島津忠久は頼朝の庶子。頼朝が嫉妬深い正妻から離すために忠久を遠国の領主とした
・琉球の初代国王舜天は追放先から逃亡した源為朝の子供と言われるが、為朝には追ってきた船を矢を放って沈没させたあと切腹したという説もある。
(外国の読者に、矢で船を沈没させるよりは逃亡した方がありえそう、と思わせるような内容)
0082人間七七四年
2019/05/30(木) 15:18:13.68ID:w6dJrsKv義冬(足利義維)の御台にした。義冬の行末のことを持隆は思って、このように調えたのだという。
一、細川讃岐守持隆がある時に家老と三好一族を呼び集めて申したことには、「義冬公を当国に長く置き
奉ることは、いたましく存ずるなり。各々の知略をもって義冬を一度天下に据え申したいと念願して
おるのだ。どのようにすれば良いか」と申せば、いずれの者も同心した。
そんなところで三好豊前守義賢(実休)1人がこの事に同心せず、あまつさえ顔色を変え持隆を散々
に罵った。持隆は言うに及ばず、座中の皆が案に相違すると思ったのである。
持隆はこの事を口惜しく思い、まず義賢を討ち果たして憤りを散じようとして近習の侍どもに密かに
内談し給うと、四宮与吉兵衛という者は義賢に返忠して、これを告げ知らせたのである。
これにより義賢は思案して近習の者をもって申したことには、「先に持隆が仰せになられたことをそ
の時に同心仕らず、私としてもその事で戸惑っています」との由を、持隆の機嫌の良きように申しな
した。さてその後に手勢、また近き所の一族を義賢は密かに呼び寄せ、勝瑞に近いあちこちの村里に
隠し置いた。
義賢はかの四宮をもって持隆へ申し、「北の河原で御逍遥(散歩)なされませ」と諸々謀り申した故、
持隆は逆心とは思いも寄らず、天文21年(1552)8月19日に見性寺の前へ出給う。義賢が隠
し置いた人数は一度に押し寄せ、持隆を取り囲んで鬨の声を揚げた。
持隆はかねて無勢の上、供の者どもは落ち散り防ぐ術もなく、どうしようもないところで星合弥三郎
と蓮池清助という者2人が踏み止まって持隆を見性寺へ退かせた。
義賢の弟・一存(十河一存)が込み入って持隆をただちに討ち取ろうとしたのを、清助が押し隔てて
防ぐ中、持隆は切腹して星合が介錯した。この2人の者は常々持隆の厚恩もない者どもであったが、
義を守り2人ともに立ったままで切腹した。
一、持隆の外戚腹に六郎という幼少の男子がいた。義賢が申すには「持隆を討ち奉ったのは身の災いを逃
れるためである。六郎殿に恨みはない。主君に崇めん」として、六郎を育て置いた。細川六郎掃部頭
真元(真之)これなり。この真元の母は阿波国西条村の岡本美濃守の息女である(小少将)。持隆の
死後に義賢は真元の母を妻とし男子2人をもうけた。一男は彦次郎長治、次男は孫六郎存保という。
一、返忠の四宮与吉兵衛は「無道の者なり」として、義賢は四宮を翌年の春に誅した。
――『阿州将裔記』
0083人間七七四年
2019/05/30(木) 17:56:57.91ID:yM5amPZr英文だからしかたないが誤字ありますね
薩摩の琉球侵攻の薩摩・琉球それぞれの一次史料とされるのが、市来孫兵衛『琉球渡海日々記』、喜安『喜安日記』
影佐『琉球軍記(琉球入ノ記)』はさほど年月が経たない時期に書かれたとされていますが、七島衆(吐?喇列島)の
船頭衆が功績を誇示するためにかなり膨らませて書いたと考察されてますんで、あんま参考にしない方がいいかと思います
一次史料を見る限りは沖縄本島での戦闘は、首里の手前で100余人の琉球軍が薩摩軍の鉄砲で散々に打ち破られたという程度
(ただし薩摩軍は行く先々で放火してますが)
以前NHKの琉球特番でもやった、那覇港要塞の火砲で島津船団を撃退したというのは琉球軍記の記述です
でもこれもどうやら・・
0084人間七七四年
2019/05/30(木) 18:01:59.35ID:Oa0G9WWv原文のローマ字表記をこんな漢字だろう、としてみたら随分違いました
ちゃんと原文通り書けばよかったですね、すいません
0085人間七七四年
2019/05/30(木) 18:13:15.89ID:yM5amPZrhttps://i.pinimg.com/236x/c2/51/2d/c2512d1808a489d1399889d3486f679d--samurai-wars-katana.jpg
資料の存在しない琉球軍の想像図が酷過ぎるが、まあ日本人も外国中世風ファンタジーではよくやってるからいいか(よくないけど)
0086人間七七四年
2019/05/30(木) 18:22:45.81ID:yM5amPZr月代を剃っていたのが確実視されているとか
0087人間七七四年
2019/05/30(木) 18:47:21.84ID:Oa0G9WWv琉球の防衛側の武装については島津に比べほとんど不明。
おそらくは原始的でないにしろ島津より劣っていただろう。
もともと日本や明から武器を輸入していたのだが、1450年代の倭寇のせいで明の福建の商人が琉球に武器を売らなくなってしまった。
また明同様、日本刀は珍重されていたが長いkatanaは実用的ではないため短いwakizashiを使っていたと思われる。
木製の盾も使っていた。
おそらく日中折衷の武装で弓、刀、槍、銃、ハルバード(中国式の広い刃か日本式のnaginata)も使っていた。
琉球の王は早くから火器を取り入れており、1450年代の朝鮮の漂流民は琉球での火器仕様について触れている。
喜安日記には「敵軍(島津)は弾を浴びせながら橋を攻略してきた。我々はそのような銃は知らなかった」と書いてあるが
それは一斉射撃を知らなかっただけで火縄銃自体はあったと思われる。
また石火矢という琉球製の大砲もあり、1貫(3.75kg)の弾を発射したとされるが、
これは首里城から発掘された直径7-9cmの弾と合致する。
また石火矢は那覇港にも設置された。
0088人間七七四年
2019/05/31(金) 13:29:29.80ID:FGlWUgeb大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。
(甲子夜話)
0089人間七七四年
2019/05/31(金) 18:36:38.03ID:lX7j0Ovy人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、
この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。
高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、
今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。
長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。
――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』
0090人間七七四年
2019/05/31(金) 19:05:13.61ID:TpoYaScUhttps://thetv.jp/i/nw/103166/570881.jpg
沖縄の琉球放送で製作した特別ドラマ「尚巴志」の画像だけど、まあ実際の15世紀初めもこんなもんだったんじゃないかってことだそうですよ。
頭だったものは日本式の武装で、あとは手に入るめぼしい武器、雑兵は平服に棍棒だとか。
中国や東南アジアの武器が出土しているにしろ、必ずしも異国風が主流ではなく、やっぱり本土日本風らしく、例えば博多や堺で
中国南蛮の出土品が見つかったからといって、当時の風俗が中国南蛮風だったかというとそうじゃないようなもので。
でもこういう厨二風の独自のやつもあるので、なんかわくわくしますね琉球時代の沖縄。
https://vps8-d.kuku.lu/files/20190531-1848_ac8b40959509e14bf60d30ebc0413f15.jpg
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/21/21195/15959_1_首里城京の内跡出土品展.pdf
0091人間七七四年
2019/06/01(土) 08:34:42.68ID:tqmeloYcさすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか
0092人間七七四年
2019/06/01(土) 16:30:35.40ID:tPHC7BVm意識高い系の黒人さん達が弥助をモデルに映画化するんだけどちょっと美化が過ぎる。
奴隷じゃなかったとか、日本では仏像が黒いから尊敬の対象として見られてたとか
現代の価値観でブラッシュアップしすぎ。
0093人間七七四年
2019/06/01(土) 21:43:40.45ID:wUAqMo660094人間七七四年
2019/06/01(土) 23:26:18.37ID:lKcUPN5J0096人間七七四年
2019/06/02(日) 17:26:04.25ID:hP+zLXOQうちは浄土系だから金ピカ
0097人間七七四年
2019/06/02(日) 18:31:31.03ID:INaZgM35大きくて黒い男が神様仏様扱いされても問題ない気が
0100人間七七四年
2019/06/02(日) 20:23:22.59ID:BkTlaOA40101人間七七四年
2019/06/02(日) 21:22:08.93ID:4fi9sHcb制作者は弥助を洗った話などの宣教師の記録は黒人を貶めるための嘘と言ってるが
同じ宣教師の記録でも信長が城持ちにさせてやると言った件は映画に組み込むらしいよ
花の慶次並みのでっち上げヒーローを作る気でいるみたい
黒人の地位向上の為のなんちゃって日本の歴史が世界にばらまかれる
0102人間七七四年
2019/06/03(月) 00:19:00.80ID:jqkjDxBD今の感覚で考えないでくれ
0103人間七七四年
2019/06/03(月) 07:42:24.93ID:oDTu8Lzk0104人間七七四年
2019/06/03(月) 11:10:13.32ID:k7P3FsGFと言い出したりして
0105人間七七四年
2019/06/03(月) 14:33:42.04ID:Zjew9uM60106人間七七四年
2019/06/03(月) 18:06:07.99ID:LHCbPT9u(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継)
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。
そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。
義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。
――『阿州将裔記』
0107人間七七四年
2019/06/03(月) 18:08:57.17ID:20dOUEtw0108人間七七四年
2019/06/03(月) 20:57:17.74ID:52elCf5X0109人間七七四年
2019/06/04(火) 08:55:14.01ID:yjPfJm9C0110人間七七四年
2019/06/04(火) 14:03:19.65ID:19lOBpdD0111人間七七四年
2019/06/04(火) 14:53:53.73ID:cSFIfsi/状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
は年来の仇敵である故なり。
高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。
岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。
一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。
義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。
――『阿州将裔記』
史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか
0112人間七七四年
2019/06/04(火) 18:41:52.30ID:yjPfJm9C将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな
0113人間七七四年
2019/06/04(火) 18:57:10.59ID:cSFIfsi/された。武田の家老各々は謀をもって江雪をしばらく留め申す様を仕り、その後の夜に入り逍遙軒(武
田信廉)を信玄公と申して御対面なされ、八百枚に据え置き給う。
御判の中でいかにも御判の不出来なものを選び、御返事を書いて江雪に渡すと、流石に賢き江雪も真と
仕って小田原へ帰り「信玄公は御在世なり」と氏政へ申し上げた故、御他界の取り沙汰しは無かったの
である。以上。
――『甲陽軍鑑』
信玄ついに逝去の時、遺言あってかの死去を隠し、ただ御病気とばかりの風説であった。これは四方皆
が敵であり、御逝去と聞けば小田原との御無事も破れることを迷惑して、このように計らったのである。
されども、その事は大方風聞したので、その実否を知るために小田原から板部岡江雪が御使者に参った。
これは信玄の病気について御心許なしとのことである。
甲州侍は殊の外迷惑し、色々の計りをなす。信玄の舎弟・逍遙軒はよく兄に似ておられたので、夜に入
ると逍遙軒を屏風の中に寝かせた。さて江雪を近い所に召し寄せ、逍遙軒は寝ながら返事をなされた。
流石の江雪も夜のことではあり、そのうえ逍遙軒はほうほうとしておられたので見違え、信玄と思って
帰り、「正しく信玄は御存生にて候。ただ御病気でいらっしゃいます。私は対面仕りました」とのこと
であった。
これにより小田原では「信玄が死に給うというのは誤りなり。存生である」とばかり存じたのである。
――『北条記』
0115人間七七四年
2019/06/05(水) 21:36:25.57ID:q6z+kKQZ三好の元祖は信濃国の小笠原成由(原注:ある説は長房)の後胤である。阿波国三好郡に居住する故、
三好という。
之長
初めは三好主膳正と号し、細川氏に仕えて後に筑前守と号す。三好に在城す。
三好が天下に名を顕したのは文明の頃。北国勢が2万余騎で都へ攻め上ったのを、細川が対陣の時に
三好は3千騎で先駆けして洛外で合戦した。
北国勢の謀には車菱という物を先手の者に1つずつ持たせ、逃げる真似をして道にまき、その菱を敵
に踏ませて、たじろぐところを討ち取ろうとの企みであった。
ところが三好勢が少ないのを見て、「味方の同勢は待てない。先手の勢だけで三好を討ち取れ!」と、
かの車菱を投げ捨てて掛かって来た。
三好は小勢であるといえども、各々が心を一つにして槍の柄を四方竹に拵え、之長の下知に任せ一同
に掛かったため北国勢は敗北したのだが、捨て置いた車菱を踏み立てて慌てふためいた。北国の後陣
も道を塞がれ、助けに来る者が叶わずに見えるところを追い詰めて1万ばかりを討ち取った。
その後また京都の合戦(等持院の戦い)に打ち負けて之長は切腹した。法名・喜雲。
――『阿州将裔記』
0116人間七七四年
2019/06/06(木) 10:59:20.07ID:d8YutnuM義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな
0117人間七七四年
2019/06/06(木) 13:38:29.79ID:ARU3QTOf0118人間七七四年
2019/06/06(木) 14:27:08.64ID:ktSs7bxg建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」
0120人間七七四年
2019/06/06(木) 14:43:41.92ID:ktSs7bxg安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ
0121人間七七四年
2019/06/06(木) 20:49:45.58ID:ePlAaJVMここは(大阪夏の陣による)5月落城と時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。
ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。
観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。
翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。
またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。
また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。
この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。
林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。
(甲子夜話)
0123人間七七四年
2019/06/06(木) 22:49:04.93ID:5yCAa8rV松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」
戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw
0124人間七七四年
2019/06/06(木) 23:33:00.37ID:hBrP2F1J0125人間七七四年
2019/06/07(金) 07:45:07.39ID:fzkd+7XFそういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ
>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね
0126人間七七四年
2019/06/07(金) 08:12:05.47ID:AktD/lec肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし
今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ
0127人間七七四年
2019/06/07(金) 12:45:53.27ID:6P9hJ6Th0128人間七七四年
2019/06/07(金) 14:29:58.48ID:8rE4HOLf0129人間七七四年
2019/06/07(金) 15:24:46.72ID:RXHWoMb5『上杉年譜』
掟
(上略)
一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
吸うことは一切止めること。
(タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
(中略)
慶長17年(1612)8月13日
(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)
『直江重光(兼続)書翰留』
このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
(爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)
7月26日
須右様 まいる
(原注:本文は略す)
追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
(追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
9月14日
千坂伊豆守殿
――『大日本史料』
0130人間七七四年
2019/06/08(土) 17:02:18.56ID:1WjVqsNFhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190605-00010003-sakuranbo-l06
山形城主・最上義光の研究を進める上で、貴重な直筆の手紙が、7月初めて、一般公開されることになった。
今年3月まで、山形大学で日本史学の教授を務め、現在は名誉教授の松尾剛次さん。松尾さんは38年間、山形大学で研究し、
最上義光に関する史料の発見と見直しを進めている。今回、松尾さんは以前から研究対象で私的に所蔵されていた史料を
自ら買い取り、初めて一般公開することを決めた。
(松尾剛次さん)
「天正14年の正月7日付、最上義光書状で、東禅寺氏永に宛てたもの」
松尾さんが買い取った義光直筆の手紙は1586年、援軍を求めた酒田城主・東禅寺氏永に宛てたもので、わずかながら軍を
派遣すると応えている。松尾さんによると、至るところに義光の字のくせや力強さがあり、義光の刻印も押されている。
(松尾剛次さん)
「字も力強く書かれているが、論理的な組み立て、非常に義光は頭のいい人。天正14年における最上義光の判断・情勢がわかって非常に興味深い」
義光の人物像を克明に浮かび上がらせる上で、こういった古文書の1つ1つが貴重になってくる。
(松尾剛次さん)
「(義光は)ずるくて残忍なイメージがあるが、多くの史料に最上義光は名君だったとある。優秀かつ素晴らしい人物だったとの史料がたくさんある」
古文書の多くは、私的に所蔵されていることが多く、一般に公開されることはほとんどない。今回松尾さんが見せてくれたのには、
公開することで貴重な史料を後世に残すという狙いがある。
0131人間七七四年
2019/06/08(土) 17:06:45.03ID:1WjVqsNF正直うざいです
特に片桐のじいさんは実際会ってみても基地外レベル
0132人間七七四年
2019/06/08(土) 18:09:05.80ID:8w9ktd2hhttps://video.twimg.com/ext_tw_video/1069569929462996992/pu/vid/848x480/7gb9FGWREfGkcqGw.mp4
0134人間七七四年
2019/06/09(日) 03:07:24.08ID:cxXeu6pY『令條』
条々
一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。
一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。
一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。
一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
馬・荷物以下は改め出した者に下される事。
付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。
一、牛を殺す事。御制禁なり。万一殺した輩には一切を売ってはならない事。
この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
件の如し。
慶長17年(1612)8月6日 青山図書助(成重)
安藤対馬守(重信)
土井大炊助(利勝)
藤田能登守殿(信吉)
(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
――『大日本史料』
その7日後>>129
0135人間七七四年
2019/06/09(日) 21:52:07.77ID:mD08Q13s煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね
0136人間七七四年
2019/06/09(日) 22:00:08.11ID:hwQ6Bi9Rドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。
ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。
パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。
事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン協教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。
しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。
これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。
その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。
蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。
(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)
龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋
0137人間七七四年
2019/06/09(日) 23:29:16.21ID:ZfkTXeho0138人間七七四年
2019/06/10(月) 02:49:05.49ID:2hX+mQxB>一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
> (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)
0139人間七七四年
2019/06/10(月) 11:40:11.60ID:QN0NvVBLほらよ
http://i.imgur.com/GFhTg.jpg
0141人間七七四年
2019/06/10(月) 13:30:40.56ID:E0Guiztx秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。
0142人間七七四年
2019/06/10(月) 13:44:22.19ID:ZI8DPZsm0143人間七七四年
2019/06/10(月) 14:56:31.46ID:YuoSwCCz0144人間七七四年
2019/06/10(月) 16:54:35.54ID:/xDs3wXj彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…
0145人間七七四年
2019/06/10(月) 17:30:23.91ID:n8keEJU70146人間七七四年
2019/06/10(月) 17:42:52.27ID:eZpNrclMhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190610-00000032-cnippou-kr
1592年4月13日。加藤清正の先鋒部将の沙也加は3000人の兵を率いて釜山(プサン)に上陸した。
日本全国を統一した豊臣秀吉は朝鮮侵略を命じた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の序盤、倭軍は連戦連勝していた。
ところが3日が過ぎても沙也可の兵士に動きがなかった。1週間が経過した日、慶尚道兵使の朴晋(パク・ジン)に
沙也可の手紙が届いた。
「この戦争は大義名分がない。朝鮮に投降する」。沙也可は敵陣の朝鮮側に立った。普段から「礼儀の国」の
朝鮮に好感を抱いていたという。沙也可は火縄銃と火薬を作り方を朝鮮軍に伝授した。その後、功績が
認められて金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。沙也可は丁卯胡乱、丙子胡乱にも参戦し、
72歳で死去するまで朝鮮人として生きた。
壬辰倭乱当時、祖国を背を向けて朝鮮側に立った倭軍の武将、沙也可。沙也可顕彰碑が日本にあるという話を
聞いて5日、和歌山県に向かった。大阪から列車に乗って南に約90キロ。沙也可の碑は和歌山市の
紀州東照宮にあった。東照宮は徳川家康を祀る神社で、紀州は和歌山地域をいう。豊臣氏を滅ぼした家康の
神社の前に沙也可の碑を建てたのは絶妙な選択だ。
紀州東照宮の管理者、西川秀大氏は「紀州地域は古くから朝鮮半島の影響を多く受け、朝鮮半島のものと
同じ遺物も出土する」とし「日光にある東照宮が金色で華麗に飾られているのとは違い、紀州東照宮は
緑と赤を主に使った朝鮮の丹青とよく似ている」と説明した。沙也可の碑が韓半島(朝鮮半島)と
関連が深い紀州東照宮の前に建てられたのは必然だという話のように聞こえた。
沙也可の碑が建てられたのは2010年。当時、「沙也可日韓国際シンポジウム」が日本で開催されるのを
記念して両国の関係者が集まった。沙也可を素材にした小説『海の伽耶琴』の作家・神坂次郎氏や
金忠善(沙也可)の子孫が集まった。
ここには自民党の有力政治家、二階俊博幹事長(当時は総務会長)もいた。碑石はアシアナ航空の
朴三求(パク・サムグ)会長に要請して韓国から運んだ。和歌山県を政治の基盤とする二階氏は沙也可が
和歌山出身という点を率先して知らせた。2月には親しい朴智元(パク・ジウォン)民主平和党議員が
和歌山を訪問した際、沙也可の碑に足を運んだ。
碑石の前には2本の木が寄り掛かるように絡んでいる。碑の建立当時をよく知る人は「意図して
この場所に決めたわけではないが、お互い寄り掛かるように絡んでいる木の姿が日韓関係を
表しているようだ」と語った。
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