戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
0388人間七七四年
2019/09/11(水) 17:45:51.99ID:gQUFVVVN旧因島市建造の大阿武船の追想
梅雨があけ、参院選が終盤を迎えた25日夜。テレビのチャンネル転換が忙しかった。RCCの特別企画(4時間)の「ハリー・ポッター」、ホームTVの
サッカーAFC「日本×サウジアラビア」。NHK「その時歴史が動いた=アンコール・信長の巨大鉄船戦国の海を制す(戦国の軍艦)」。
戦国最強の村上水軍が織田信長の命令で建造した「鉄の船」との海戦で予期しない敗戦シーンが目に止まり、しばし釘付け。中世で最強を誇った
村上水軍も織田水軍に破れ、阿宅船が炎上する場面が、旧因島市建造の大阿武船の追想と重なった。
建造費1億円をかけたこの船の出番は2回だけだった。デビューはNHK大河ドラマ「毛利元就」の合戦のシーン。次は平成11年しまなみ海道全通記念事業として
大浜町のしまなみビーチで繰りひろげられた火まつりの水軍絵巻。以後は輸送に経費がかさむという理由から出番が無く無用の長物となり、
尾道市との合併を機に解体という運命になった。
ちなみに解体船は鉄製の船底上に木枠組みした言わば張り子だった。
0389人間七七四年
2019/09/11(水) 19:18:39.42ID:HklVf1Z/0390人間七七四年
2019/09/11(水) 21:36:06.71ID:XHdp+5sSバブル最強の時に作った帆船か
そういえばハウステンボスのリーフデ号はしぶといな
あっちはオランダの造船所に作らせて海渡って来た本格派だから頑丈なのかな
0391人間七七四年
2019/09/12(木) 14:53:32.25ID:/feMcuRkコンクリートの城と同じで世間に叩かれてたよな
0393人間七七四年
2019/09/12(木) 20:38:49.07ID:bOXWfMf+現存の大阪城は何の歴史的価値も無いけど、市民の寄付が目標を越える勢いで集まったし、叩く人もいないんだし、町おこし的な目的で作るのならエンジン積んで自航できる方がいいと思う
0394人間七七四年
2019/09/12(木) 21:07:41.77ID:IZ/mYKsE0395人間七七四年
2019/09/14(土) 15:18:57.23ID:IDvnMKBp帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた
「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」
こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。
ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。
そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った
「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」
その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、
これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。
(續撰清正記)
0396人間七七四年
2019/09/14(土) 16:42:55.97ID:V/euPfCoその名から香川県土着のイメージを持たれがちですが、実は相模国高座郡の香川荘出身の一族です。
現在の神奈川県茅ケ崎市にも香川の地名が残り、香川駅や香川小学校があります。
細川氏の家臣として讃岐国の守護代に任じられたのが始めですが、東讃の安富氏、西讃の香川氏と、西半分だけの守護代でした。
そういうわけで東讃の香川郡(現在の高松市周辺)とは関わってもいないという・・
0399人間七七四年
2019/09/14(土) 19:37:28.46ID:GFzkYziSこういうのは長井氏なんかもな
出羽国長井荘(山形県長井市)の大江姓長井氏
武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)の藤原姓長井氏
相模国長井郷(神奈川県横須賀市)の平姓長井氏
伊達氏に本拠地奪われた大江姓長井氏が武蔵国(八王子市)に移ったもんだから、武蔵国長井荘は
もともと大江姓の本拠地とか言われるようになってしまったし
江戸時代の旗本の系譜には、自分の家は平姓長井氏で武蔵国長井荘が故郷なんですよ、という家までw
0400人間七七四年
2019/09/15(日) 09:03:46.71ID:xjNELu5t馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか
0401人間七七四年
2019/09/16(月) 00:22:30.66ID:5o8unsTp一五二
必ず人を打ち果たさねばならぬ時は、一尺あまりのはみだし鍔の脇差で突くべきである。そして刃を上にして突くべきだ。鍔がない
場合は血糊で滑ることが有る。ただし柄は巻いてあるのが良い。必ず刃を下にしてはならない。動きの素早い者には押さえられる
ことが有る。斬るというのは場合による。必ず討ち果たす必要が有る時、突けば尽き損なうという事はないが、斬る時は切り損なう
ことが多い。
(大事の仕者の時は壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突くへし。刃を上にして突きかへるべし。鍔の無はのりにてすべる
事あり。但柄は巻たる可然。必刃を下へすべからず。はやき者はおさゆる事あり。必切ル事は折によるべし。大事の仕者は突につき
そこなひはなし。切には脇そこなひ多かるべし。)
一五三
刀の大小の柄は、皮より糸巻きのほうが良いという人がいる。皮は血糊がかかると滑るが、糸巻きは滑らないという。しかしどちらが
悪いとも言い難い。とにかく、柄はどちらであっても古くあかじみているものでは血がかかると滑るであろう。昔は皮の柄ばかりであったが、
それで数度の用にたった。である以上皮の柄が滑ると決まったものではない。
(大小の柄皮より糸巻よきという人あり。皮はのりかかりすへるという。糸巻はすべらずといふ。何れ悪敷といひがたし。兎角柄は
いずれにても古くあかしみたるは血かかりすべらんと思はるる也。昔は皮柄斗なれ共数度の用に立来る。然上は皮柄すべるとも
きはまるべからすとなり。)
一六八
鑓長刀で人を突く時は、そのまま突くと同時に、鑓であっても長刀であっても捨ててしまえば、突かれた者は倒れるものである。
そして倒れた時に石突を足で踏みつければ、起き上がることができなくなる。うかつに突いた鑓を持ったままで居ると、相手に
手繰り寄せられることが有る。鎌鑓や十文字鑓はまた格別である。
(鑓長刀にて人を突時は其侭突込と一度に鑓にても長刀にても捨候へは突れたる者倒るる物なり。倒れたる時石突を足にて
ふまへ候へは起き上り兼る物なり。うかと突込たる鑓長刀持て居れはたぐり寄事あり。鎌鑓、十文字は格別なり。)
一七一
もしやむを得ず家来を手打ちにする時は、一刀を打ち付けたならば、続けて二つも三つも打つべきである。一刀で様子を見ては
いけない。もし切れていない時は反撃され自分が怪我を負う事が多い。よく心得るべし。
(もし是無非無にて家来手打ちにするとも、一刀打付たらは二ツも三ツも続けて討へし。一刀にて不可見手廻る歟。不切時は
必手負数度多し。能可心得。)
一八〇
敵を組み伏せて首を落とす時は切ってはならない。刀であっても脇指であっても、切っ先を左手で押さえて、擦り落とすべきである。
早業によい。
(組伏て首落す時は切べからす。刀にても脇指にても切先を左の手に取りすり落すへし。早業に能なり。)
0403人間七七四年
2019/09/16(月) 10:31:30.75ID:sTJYIEYO0405人間七七四年
2019/09/16(月) 14:03:13.19ID:zAldsUz/0406人間七七四年
2019/09/16(月) 16:04:14.18ID:YGXmz8gp無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。
その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。
――『烈公間話』
戦国期の人ではないかもしれませんが
0407人間七七四年
2019/09/17(火) 12:07:27.33ID:rA55nKy+加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。
彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて
「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。
ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。
(續撰清正記)
0408人間七七四年
2019/09/17(火) 15:16:00.10ID:++DeFL0F0409人間七七四年
2019/09/17(火) 21:49:56.45ID:c4UNbjk50412人間七七四年
2019/09/19(木) 14:23:55.28ID:KfDzYQf0雪もあるという。国民の知識は開け、道理を解す。
その食物は大根の葉の上に少しの大麦の粉をかけたものである。
この地には橄欖(オリーブ)油、牛酪(バター)、乾酪(チーズ)、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、また酢も無く、
サフラン、肉桂、胡椒も無いという。
また塩もなく、塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。
最後に、病人に薬として与える物もない。
このようであるにも拘らず、我が(イエズス)会員13,4人は主の御恵により喜んで同地に赴くのだ。
彼等の困難は更に大きいが、狼の口より彼の国の霊魂を救うため、喜んで尽力するだろう。
愛する兄弟たちよ、汝等の希望を実行すべき時は既に来た。我等の主キリストはこれらの霊魂のために
多くの事を成し給える。故に彼等を助けることを恐怖のために中止すること無く、来たりて創造主を
知らざるこの人達のために尽力せよ。
この国はキリストの騎士のために準備されたるが故に、来たりて十字架を抱け。この国より永遠の
天国に召されるべきが故に、来たりて諸星および諸国を見よ。
1554年4月24日 コーチンより
(1554年4月24日(天文二十三年三月二三日)付、パードレ・ガスパル・ピレラ書簡)
塩はさすがにあるだろ。
0413人間七七四年
2019/09/19(木) 15:30:44.58ID:nRy2KSWH0414人間七七四年
2019/09/19(木) 18:53:22.06ID:g9685+pm0415人間七七四年
2019/09/19(木) 19:25:43.04ID:vERIOLSj0416人間七七四年
2019/09/19(木) 19:26:47.54ID:aUt9NW6c0417人間七七四年
2019/09/19(木) 20:22:41.03ID:Nz58l5e90418人間七七四年
2019/09/19(木) 20:29:36.94ID:/u1TXQSZ0419人間七七四年
2019/09/19(木) 20:58:08.75ID:vRWDmWnV0420人間七七四年
2019/09/19(木) 21:07:18.05ID:Nz58l5e9インド南部の都市・コーチじゃね?
wikipediaでみたらポルトガルが占領してたみたいだし
0421人間七七四年
2019/09/19(木) 21:25:25.65ID:huLnoxn/????「クソガァああああああああああ!!!」
0422人間七七四年
2019/09/19(木) 21:48:41.93ID:mLsM5rPb0423人間七七四年
2019/09/20(金) 08:13:03.27ID:CBJNSAf3>>412の
塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。
コレが味噌のことかな?なお焼き味噌ではない
0424人間七七四年
2019/09/20(金) 15:28:20.75ID:qpWchHR60425人間七七四年
2019/09/20(金) 16:11:05.87ID:Qy3rYT1n0426人間七七四年
2019/09/21(土) 11:00:09.19ID:MY/3Tvpu一船に乗りてシナ国へと赴いた。同船にはゴア総督がシナ国王のもとに派遣した大使(ジョゴ・ペレイラ)も
乗り込み、総督はパードレの事を王に依頼させようとしていたのだが、当市より600レグワのマラッカに
到着すると、パードレの旅行は障碍を生じた。すなわち船主にして船長である大使(パードレが使節の
庇陰にて希望の国に入ることを期待し、デウスの次に最も信頼する人である)が、マラッカに滞在することが
必要となったのだ。
パードレは同船において、水夫の他に彼とともに在るのはキリストの愛とキリストのために多くの労苦を
学ばんとする熱心な信者のみであり、パードレ、イルマン、その他現世の必要について彼を助けられる者は
一人も同伴しなかった。
船は広東の市に近いシナの一港(上川)に着いたが、その入国には様々に故障があった。シナにおいては
外国人の入国しようとする者、並びにこれを入国させようとする者に対して重罰が有った。何人もあえて
外国人を入国させようとはしないため、数日間ここに滞在した。パードレはその希望を実現する時をここで
待つことに決し、同港において、異教徒である一商人と交渉し、「自分を広東の市に連れていけば、同国に
おいて甚だ高価である胡椒を大量に与える。」との契約を成し、商人は数日後、再び来て彼を同伴する
予定にて去ったが、我等の主には別に定められた所があり、パードレは熱病に罹り数日中に死したり。
(1554年12月23日(天文二十三年11月29日)付、パードレ・アイレス・ブランダン書簡)
フランシスコ・ザビエルの最期についての報告。
0427人間七七四年
2019/09/22(日) 12:07:09.05ID:kiPUL+9X牛を殺せば死刑に処する地方も有る。
悪魔が崇拝を受ける方法は、人間に憑き、「誰なるか」と尋ねる者があれば「牛の長なり(牛頭天王か)」
と言い、もし去らんことを願う時は、これを祀るべき堂を建てる約束を成すまで去らずと答え、その約束を
成せば去る。よって堂を造り獣類の像を安置してこれを拝む。もし約束を守らなかった時は、種々の方法で
彼等を苦しめる。
また鹿の形にて崇拝を受ける事がある。鹿の島(鹿島か)と称する島があり、同所にてこれを拝む。
そしてこれを信仰させるため、鹿を殺す者が有れば病みて様態甚だ悪しきに至らしめる。
よってこれを信じ、鹿の形にて崇拝する。
また兎の形において崇拝を受けることも有る。このためその所有する島においては、”ウサギ”すなわち
兎の名を唱えれば”os que nomeao Vcangui”皆咽喉腫脹する。
悪魔がこのような事を成すのは、人間を我等が主デウスの真の信仰より引離し、無限にして汚すべからざる
デウスの栄光を、人間、鳥獣および蛇の朽つるべき像に変じ、創造主よりも作られたる物を拝ましめる
ためである。
(1557年10月28日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラ書簡)
0428人間七七四年
2019/09/22(日) 13:20:26.40ID:kweAEpuk0429人間七七四年
2019/09/22(日) 19:52:27.38ID:ZXFp1JlY神功皇后が鹿の角を奉納した志賀海神社がある。
0430人間七七四年
2019/09/22(日) 21:04:02.67ID:+ZdypB0P奉納されたのも神功皇后が対馬で鹿狩りした角と言うし、書簡に書かれた話とは相反する希ガス
0431人間七七四年
2019/09/22(日) 21:39:24.75ID:OhO35Ahj0432人間七七四年
2019/09/23(月) 01:21:51.77ID:bWIuDE8Zやっぱ大泉すげーわ
0433人間七七四年
2019/09/23(月) 05:38:44.89ID:2hnkMw8k牛頭天王
https://i.imgur.com/CUCW4OB.jpg
鹿
https://i.imgur.com/oIOJ3Jk.jpg
https://i.imgur.com/sxTfvId.jpg
兎
https://i.imgur.com/7DI2OK8.jpg
https://i.imgur.com/Fl2v2x1.jpg
https://i.imgur.com/JtK6PJg.jpg
https://i.imgur.com/qB5xIOG.jpg
宣教師「日本人さぁ…」
0434人間七七四年
2019/09/23(月) 07:41:44.61ID:tas5s4rW0435人間七七四年
2019/09/23(月) 08:02:48.00ID:2hnkMw8k茨城県鹿嶋市
https://i.imgur.com/uFPJA30.png
名前は、市の花である「ハマナス」の「ナス」と、鹿嶋の「カ」から名付けられました。
鹿の妖精であり、鹿嶋市の緑豊かな自然と海や湖の恩恵をイメージして、緑と水色の衣装を着用しています。
鹿島神宮で神鹿として大切にしている鹿の子をモチーフとし、頭には市の花「ハマナス」をつけています。
0436人間七七四年
2019/09/23(月) 19:30:46.75ID:cwZ3+KTm肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。
太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。
さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。
この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1583)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。
さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。
しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。
(後略)
――『古今武家盛衰記』
0441人間七七四年
2019/09/24(火) 10:36:01.80ID:/PMrZ76R0442人間七七四年
2019/09/24(火) 12:31:24.12ID:/fKcB4+w地元の男子高校生の下ネタみたいなもんなんだよなぁ
もみじ饅頭略してもみまん
0443人間七七四年
2019/09/25(水) 18:18:47.04ID:8prqcSXc去る程に慶長5年(1600)9月12日、石田らは濃州大垣城に籠って岐阜城へ加勢を遣わし、島左近を
株瀬川(杭瀬川)へ出して戦の手始めをさせたところ岐阜はたちまち落城し、左近は利を得たけれども味方
は大勢討たれたので三成は驚いて諸将を集め、「この上は関ヶ原まで引き退き、味方の多勢と成り合って広
野において戦せん。如何だろうか」と言う。島津・宇喜多・安国寺らも心臆したのか皆もっともとこれに同
意した。行長(小西行長)1人は知らぬ顔でいたがこれを聞き、怒声をして高らかに言ったことには、
「こは臆したる評議かな! およそ戦の勝ち負けは5度も10度も戦い負けて、1度の勝ちに大利を定める
ものぞ! ましてや日本が2つに分かれて戦うというのに、10度20度の合戦に変わりがあろうか!それ
に味方の負けは岐阜ばかり、株瀬川の戦は大勢が討たれたが軍利を得て大敵を追い払った! さて敵方の負
けは大津城、丹後の田辺、伊勢の津城、伏見城である! これは我らの勝ちではないのか!
東国勢は多しといえど7万5千3百余兵、味方は13万8千6百余人! 敵に若干倍するのではないのか!
それを岐阜落城に物を懲らして逃げ支度する謂れはない! 今ここに有り合う勢をもって敵と戦うのに不足
はあるまい!
それで覚束ないのならば関ヶ原の兵をここへ招き寄せて快く一戦し、万一利が無ければ大坂城に籠り、また
勢を分けて所々の城に籠め置けば、敵は手配りしてこれを攻めることだろう! 多からぬ関東勢を分散させ、
その虚を窺って家康の旗本へ突き入れば、どうして勝利を得ないことか!
また岐阜中納言秀信は生得愚魯の闇将、臆あって勇なし! 弱将の下に強兵無き故、家臣らはまた浄き戦も
せずにたちまち首を伸ばして降参した! これは戦の咎にして天利とするべきではない! それを味方の兵は
臆して敵兵は気に乗ったとこの陣を退くことは後世の謗り、そして今においては戦の損、一方ならぬ誤りで
ある!
私が思うに家康は今日赤坂へ着陣して備は未だ定まっていまい。今夜こちらから逆寄せし、一戦すべきでは
ないか。つらつら思うに家康は広野の合戦に妙を得て、人数を見切り進退し、軍兵を指揮することは誰が雌
雄を争えよう。各々も見給う如く、姉川・長篠・長久手・楽田・羽黒などの戦場で僅かの手勢をもって大敵
を切り崩したその形勢は、神変無双の驍将である。尋常の如くこれと戦してはまったく利はあるまい。
まず今夜、夜討して敵の変化を窺い見て、重ねて術を巡らすべし。ただ運を天に任せて味方の勢を三分し、
一手は家康の本陣へ夜討させ、一手は旗本近き陣を攻め、一手は援兵の通路を断じ、所々の陣々、赤坂の町
屋在家を一同に放火してその変動に従って戦わん!」
と言うが、諸将は聞き入れず。石田は言う。「小西殿の計りは図に当たるといえども、味方の中に二心の者
は大勢いると聞く。しからばこの謀も敵に洩れるのではないか。なまじ夜討して味方の若干が滅びるよりは
速やかにここを退いて味方の大勢と心を合わせ、一戦の功を立てるに如かず」と用いず。行長はまた言う。
「夜討の術が各々の心に入らないのならば、ともかくもここを退いて関ヶ原まで引かれんことは甚だすべき
ではない! 戦の習いで一足でも進むとなれば鼠も虎の威に同じ、一足でも引く時は虎も鼠の如しと言われ
ている。岐阜が落城して味方の兵は気を失い、勇の挫けるところでまたここを退けば敗軍に等しく、ますま
す味方は力を失い、敵は未だ戦わずして勝軍の猛威を振わん! これは敵に勇を付け味方の気を弱めること
なれば、自然と心を変ずる者もあろう。重ねて戦っても利は無い!」
とするが諸将は肯定しない。小西は大いに怒り、座を立って大声で罵ったことには「それほど味方を疑って
は、いずれも戦はできない! 臆病神が付いた以上は百万の勢があろうとも負け戦になろうぞ! 思うに味方
の中に勇士はいなかったのだ!」と、悪口して陣所へ帰った。
石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。
(後略)
――『古今武家盛衰記』
0444人間七七四年
2019/09/25(水) 18:20:33.61ID:Dlm/oppg0445人間七七四年
2019/09/25(水) 18:21:51.54ID:U38ZVahv0446人間七七四年
2019/09/25(水) 18:54:19.25ID:UhsvF/OKモタモタするより速攻で1回戦って団結した方が良さそう
0447人間七七四年
2019/09/25(水) 20:20:18.64ID:Rn6zhfmtかと言って総大将としての戦略も…
結局、毛利と小早川が調略されてる時点で詰みよねぇ…
0448人間七七四年
2019/09/25(水) 22:49:49.78ID:e8AHqd1y三成は頭に寄りすぎ
融通利かなすぎ
0449人間七七四年
2019/09/26(木) 15:47:14.39ID:QTP1VGvV天下の名城だし諸将への動揺が大きかったと思う
態勢を整える為にも一旦下がるのは誰もがやる手法だろうね
伊賀者甲賀者が暗躍してる時点で夜討は効果ないでしょ
看破されて撃退されるのがオチ
0450人間七七四年
2019/09/26(木) 18:39:51.77ID:z0ck5pTdので、危険だろうが何だろうが押していくしかなかった。
0451人間七七四年
2019/09/27(金) 06:39:27.78ID:DDzLkT4T0452人間七七四年
2019/09/27(金) 10:37:41.29ID:sYpyrMZP0454人間七七四年
2019/09/27(金) 14:56:12.80ID:B2xH82PH整えた後、パードレのもとに人を遣わし、彼とその家臣のためデウスに祈り、またその妻が妊娠して
いる故に、我等の主が安産を与え給うよう祈ることを求めた。
ドン・ベルトラメウ(大村純忠)が出陣した時、途中にて一つの注目すべきことが起きた。
日本人は戦争の神にして、摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像を有し、大身の人も
賤しき者も、その前を通る時は地面まで頭を下げ、及ぶ限り自ら卑しくする習慣が有った。
偶像の背後、頭の上にこれを覆うガロGallo(鶏)があった。異教徒たちは疑問ある時に、そのもとに至りて
これに伺うのを常とした。
ドン・ベルトラメウは軍隊を率いてここに到着したとき、部下を停止させて、進んで偶像を取り出して焼き、
次いでその寺院にも火をかけた。またガロをその面前にもってこさせ、剣によってこれに一撃を与え、
「今まで幾度、私を欺いたのか!」と言った。
悉く焼き盡くした後、その場所に甚だ美麗なる十字架を建てさせ、部下一同とともに深甚の敬意を表して
戦地に赴いた。
彼が(前に述べたる如く)我等の主なるデウスのため約束したより多くの事を成した一例は、
その兄の救援のため戦争に臨んだ時、人を領内に遣わし悉く偶像を焼き、また港より1、2レグワの
所にある森より、ポルトガル船に必要な材木を、ポルトガル人の望むまま伐採させるべしと命じて、
これを実行した。また武士等と語り、デウスのことについて疑いが有れば彼に尋ねよ、彼はそれについて
説明する、と言った。
(1563年11月14日(永禄六年十月二十九日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
0455人間七七四年
2019/09/27(金) 15:17:22.03ID:zJaqhU3P石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。
これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。
この時、小西(行長)が付け置いた忍どもが走り来たりてこれを告げた。行長はまったく驚かず「どうして
そんな事があろうか。引き退くならば、我が方へもどうして一往告げないことがあろう」と事実とも思わず
にいたが、追々に告げて来るので不思議ながらも物具を堅めて馬に乗り、諸将の陣々を回り見るによくよく
慌てふためいたと思われ、兵糧・器財・弓・鉄砲・槍長刀・太刀・甲冑が捨ててあって、足の踏み所もない。
小西も興覚めながら自陣へ人を馳せて人夫5百余を召し寄せ、心静かにこれを拾い集めさせて夫駄に負わせ、
自分の陣所をも引き払って関ヶ原へ急いだ。
さて、諸将の方へ使を立て「各々の陣所に捨て置かれた兵具などを敵に拾われて、善し悪しの批判をされる
のも口惜しく、行長が広い集めて持たせて来た。御用次第に取り寄せなさるべし」と申し送り、関ヶ原から
八幡の西北、小池村の間に兵具などを並べ置いて所望に従って渡すと、皆面目なく見えた。行長は家子郎等
に向かって、
「このような臆病者とは知らず三成に頼まれ、犬死する口惜しさよ。しかしながら今これを捨てれば、節に
臨み義を忘れるようなものだ。ただ私が人を知らざる故なれば、今更恨むような様もない。汝らの数年の軍
功を無きに等しくしてしまうことは、返す返すも残念でならない。さりながら宿世の誓約と思い切り、今度
の最後の戦で悪びれて(気後れして)世人に笑われるなよ。速やかに討死して名を万代に留めよ!」
と情を含み勇を励まして語ると、従臣どもは「仰せまでもなし!」と誓いを立てて申したので大いに喜び、
「実に頼もしき心底よ! 最後の酒宴をせん!」と互いに打ち解け終夜舞い謡い、その後に手配りを定めて
明けるのを遅しと待っていた。
(後略)
――『古今武家盛衰記』
0456人間七七四年
2019/09/27(金) 15:32:51.16ID:GToyzteL9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。
どうしようもねーな
こんなん聞いてると水鳥の羽音で平家が逃げたとか信じそうになるぞ
0457人間七七四年
2019/09/27(金) 20:59:55.87ID:d0XnWwP+0458人間七七四年
2019/09/27(金) 23:03:11.80ID:xvfY22wf大村家って平安期からその地に居てキリスト教関係でめちゃくちゃやったのに
秀吉家康時代も転封なしって運がいいというか身の処し方が上手いんだよな
キリシタンの厄介な場所とはいえ、島津家や宗家ほど地域の特殊性もないのに治世任せられてる
戦後まで当主が辻政信を匿ったり大村市長になったりしてるし
0460人間七七四年
2019/09/28(土) 12:49:42.34ID:h/ZK5U/hやむを得ない場合でなければ大いなる者にも従わず、機会があれば領主に叛起する。故に悪魔は
彼等を導いて絶えず戦い、市および町を焼いて互いに亡ぼさせる。家は皆木造であるのでこれを焼くことは
容易である。
この事はデウスの教えを説くについて大いなる妨害であり、戦争の際には我が住院は焼かれ、我等の
所持品が奪われること度々であり、パードレ一人、およびイルマン数人が衣服を剥がれてわずかに
命を免れた事もあり、この地方においては、大いなる艱苦と生命の危険を冒す事なくして布教する
事は出来ない。
然れども主は我等に御慈悲を垂れ給い、デウスの教えは当国に広まり、敵の中にも熱心なキリシタンが
あり、彼等はパードレおよびイルマン等がかくのごとき状態にあるのを見て少なからず悲しみ、これを
保護し安全を保証すること、あたかも彼等の主人に対する如くである。
今はデウスの御慈悲によって双方に多数のキリシタンが有る。破壊を行う前に我等のその事を知らしめ、
最も甚だしい時は住院を失うが、そうでない場合には早くにその安全を図る。
この事を尊師に通信するのは、日本に於いて我々は未だ真の住院を有せず、我等が建築する会堂は
日本人の忠誠なる心であり、この会堂は永久に存続するものだからである。
我等が主、ゼズス・キリスト、彼等に恩恵と光明を与え、引き続き良き道に進ましめ給わん事を。
(1564年10月11日(永禄七年九月七日)付、パードレ・ジョアン・バウチスタ書簡)
永禄の頃の日本(豊後あたり)の状況について。
0461人間七七四年
2019/09/28(土) 18:40:27.66ID:U4mz+hGR0462人間七七四年
2019/09/28(土) 21:12:30.93ID:bhDpweX00463人間七七四年
2019/09/28(土) 22:13:59.96ID:g1EomfXJ別に何も変わらん気がするから
0464人間七七四年
2019/09/29(日) 00:04:08.38ID:jYID+T120465人間七七四年
2019/09/29(日) 00:56:01.33ID:YZJcRlBMしかし、彼が記録した「ユカタン事物記」は非常に詳細な記述であり
マヤ人の生活から文字の手がかりまで書かれている重要な資料であるのを前提として。
もしマヤと同じように、16世紀の日本にスペインからカトリック僧(ランダ)が来て宣教を始め、
キリスト教から旧来の宗教に再転向する日本人6000余名を笞刑にし、
4000名余名を拷問にかけ、その結果年間150名余名の死者を出し、
異教の本だからと当時の日本にあった書籍の90%を焼きすて、
そのかわり日本の文学、宗教、歴訪、社会、習慣などについて、ただ1冊の本を書き残したとする。
われわれが、この人物の行為は単に当時の考え方を反映してるに過ぎないと容認し、
「万葉集」や「源氏物語」は焼き捨てられたけれども、一冊の「日本事物記」を
残してくれたことに感謝すべきなのか、という質問である。
青木晴夫「マヤ文明の謎」講談社
0466人間七七四年
2019/09/29(日) 08:50:07.59ID:jYID+T120467人間七七四年
2019/09/29(日) 12:17:46.71ID:3pp4eH/n0468人間七七四年
2019/09/29(日) 12:52:44.29ID:c91QPm4X大いに喜ぶべき報知が豊後に達した。すなわちドン・ベルトラメウ(大村純忠)は死し、その兄弟である
有馬の王(有馬義貞)は逃げ、ポルトガルの帆船およびジャンク船は横瀬浦港を去り、会堂及び
同地全体は他の多数の村々とともに焼かれ、キリシタンは皆死し、または迫害を加えられているという
報知である。(大村純忠の義兄である後藤貴明の反乱の事と考えられる。純正の死は誤報)
而してこれは、ドン・ベルトラメウが領内の仏像を焼いたためであり、その部下の者も、彼の親戚である
他の君主と供に暴起して悉く領地を奪い、有馬の王もその弟の奉じたキリストの教えを好遇し、
弟がキリシタンと成り、仏像を焼き、坊主に迫害を加えたにも関わらず、仏より何等の罰を受けることが
無かったため、「仏に何の力もないことは明らかである」と言い、その兄弟のごとくデウスの教えを
奉ぜんとし、またその領内にデウスの教えを弘める許可を与える事が良いと思い、また既に領内2ヶ所に
おいて千二百あまりのキリシタンが存在していた。
このような状況で家臣たちがこれに叛起し、デウスの教えに大いに反対するその従弟(後藤貴明)が
叛徒の首領と成った。
我等はこの報知を得て大いに驚きまた悲しみ、この事についてのみ語り、キリシタンは恐怖し、異教徒たちは
「デウスに力有れば仏の力よりドン・ベルトラメウを救出すべし。ドン・ベルトラメウの如くデウスの教えを
愛し、仏に迫害を加える者は無かった。宣教師たちが説いていたようにデウスに力があるのなら、その
僕を助けるべきである。」と言って大いに罵言し、また
「キリシタンの教えは偽物であり、滅ぼすべきものである。何故ならその教えの入った所には必ず
戦争及び紛争が起こる。」と言い、その議論を確証するため、日本に於いて最も古く、また立派であった
二つの都市、すなわち博多及び山口がキリシタンの教を受け入れた後滅亡したこと、その他多くの事を
挙げ、人民をして我等に大なる嫌悪を懐くに至らしめ、また我等は人を喰う者にして魔法使いであると
彼等の頭に入れ、また我等は日月も仏像も拝することを禁ずるが、そんな事を為し、また説く者は全く
信ずるべきではないと言った。
このような話は我等の行く各地において坊主に共通した所である。
(1563年11月17日(永禄六年十一月二日)付、イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)
後藤貴明の反乱の報についての記録である。キリスト教が入った所では平和よりもむしろ戦乱が起こる、
という印象がこの時代から既に有ったのですね。
0469人間七七四年
2019/09/29(日) 13:33:51.38ID:bMxm3j9dなにもキリスト教だからではない、跡目を継げなかったことが争いの元凶なのである
なお龍造寺が隆盛を極めると後藤貴明は隆信の子家信を養子とし実子清明を隆信の養子に、大村純忠は娘を隆信の子家種の室に送った
0470人間七七四年
2019/09/30(月) 14:19:26.60ID:8QeXwAHHデウスは常にその名誉に関することに注目し、裁断を下し給うことを明らかにした。
平戸にヤシマンダケ Iasimandaque と称し、坊主一同の首領たる者があった。これは我が司教、
または大司教に相当する者であった。同人は常にキリシタンおよび信仰の事に対しての主たる
敵であり、十字架が切り倒され、パードレ・ガスパル・ビレラその他パードレが平戸より追放
されたのも彼の力によってであった(永禄元年の、松浦隆信による宣教師の平戸追放)。
ドン・アントニオ(籠手田安経:平戸松浦家重臣)も右の坊主がこの地の身分ある異教徒たちと
親戚関係にあるため、その罪悪に相当する復讐を成すことが出来ないのを非常に遺憾としていたが、
ドン・アントニオが平戸の王(松浦隆信)とともに戦場に在った時、坊主は使者を以て、その寺院二ヶ所と
併合するためにドン・アントニオの所領の地所の一部を彼に与えるよう求めた。ドン・アントニオは
これを与えることを欲さずと答えたが、坊主は甚だ傲慢であり、右の返答を以てその名誉を毀損せし
ものとし、先ず領内に火を放ち、その後数日を経てドン・アントニオの臣下であるキリシタンの家
5,6軒を焼かせた。
ドン・アントニオは陣中に於いてこれを聞き、王に対し、「この上坊主の悪行を容認することは出来ない、
殿下がもし直ぐにこれを罰しないのであれば、戦を中止し自ら行ってこれを罰する。」と述べた。
ドン・アントニオは平戸の王に次ぐ有力者であり、陣中の総大将でもあったことから、これを欠くことは
出来ず、王自身はこの報復を欲せず心中悲しんでいたものの、「彼に対しいかなる罰を加えるべきか」
と尋ねた。ドン・アントニオは右の坊主のためにパードレたちが当国を追われたことを想起し、王に
対して「永久に平戸の各地より追放し、領地および所有品は他に分かち与え、彼をして再び帰還する
望みを断つべし。」と説き、直ぐにそれを実行した。
最も愛するイルマンたちよ、坊主たちがその首領が右のごとく急速に名誉を失墜したのを見て、恥じ、
悲しみ、かつ驚いたこと、キリシタンたちがこのように敵が除かれたことを喜んだことは、これを述べる
詞を知らない。
ただし平戸の王はこれにより我等に友情を示したのではない。ドン・アントニオの存在が必要であったために
動いたに過ぎない。彼は私利のため言辞と動作に於いてポルトガル人を許容しているが、心悪しき人で
ある故に、信仰のことについては敵であり、ポルトガル人に期待する利益が大きくなければ、領内に
パードレおよび会堂を置くことを許容しないであろう。
(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
フロイスによる、平戸についての報告と松浦隆信についての印象。
0471人間七七四年
2019/09/30(月) 14:46:28.69ID:IXM4wh0p0472人間七七四年
2019/09/30(月) 15:39:33.63ID:lnE85m9J0474人間七七四年
2019/10/01(火) 22:44:28.29ID:XbzXgAoPこれにキレたポルトガルが平戸での貿易を中止して
>>468
のように大村氏に取り入って別拠点で布教を進めてる
0476人間七七四年
2019/10/02(水) 19:52:26.84ID:eX+Eyt2p平戸怖すぎだ
0477人間七七四年
2019/10/02(水) 21:15:19.14ID:aHv4gnVl0478人間七七四年
2019/10/03(木) 12:44:13.91ID:jV/+ZZRxキリスト教と組んだ領主が大儲けしつつ既存宗教弾圧するパターン
江戸幕府になって弾圧は攻守逆転するが貿易の利益は独占により更にアップ
0480人間七七四年
2019/10/04(金) 18:27:22.11ID:YX5u5dct0481人間七七四年
2019/10/04(金) 18:27:43.80ID:YX5u5dct0482人間七七四年
2019/10/04(金) 20:01:16.15ID:ow+gqZJT0483人間七七四年
2019/10/05(土) 11:46:50.21ID:McdmRo5l0484人間七七四年
2019/10/06(日) 06:46:55.39ID:aRK4TBMs各市域の郷土誌
0485人間七七四年
2019/10/06(日) 07:27:05.55ID:qFzQwGVX0487人間七七四年
2019/10/06(日) 12:51:03.20ID:XoVewkF3上杉輝虎に仕えていたが、ある時彼より、兄・兵衛太夫が甲府の武田信玄に内応して、深谷、倉加野、
高山などと語らって不意に箕輪を乗っ取ろうと企てていると、密使を以て輝虎の近習で、朋輩でも
あった小野伝助に知らせた。そして
「このような状況であるので、人数を少々向けて頂きたい。あとは自分が手引して、謀反人は
追い出します。」と伝えた。
上杉輝虎は小勢で箕輪に向かっていたが、この事を知るとその足で高崎城へと向かった。
ところがその途中で、これを知らせ、高崎城に居るはずの和田喜兵衛に出会った。
彼は輝虎に謝罪した
「謀反のことは自分の聞き違いであり、それで使いを出してしまったが、そのことが露見して
城にも居られず逃亡してきました。」
そうしてこの鳥川で輝虎に出会ったのだという。この旨を伝えられると、輝虎は以ての外の
怒り様で
「このような未熟な内通で出馬を促すとな何事だ!」
と、同行した小野伝助もろとも、和田喜兵衛を切り捨てた。
しかし輝虎は
「この上は、聞き間違いであったと言って厩橋に戻るのも後日の笑い草と成る。まんざら
火のない所に煙が立つわけでもあるまい。小勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を
一攻めに攻めてそれから考えることとしよう。」
と考え、まっしぐらに高崎城へ向かった。
到着すると輝虎は自身鑓を取って大手門へ突っ込み、続く直江実継、大関親益、永井尚光と
いった家来たちも負けじと駆け込んだ。
高崎城の人々は訳が解らずも迎え撃ったが、一つ二つと城門を破られた。
城主和田兵衛太夫も剛の者であったから、自ら鑓を取って暴れまわった。
そのうちに輝虎は、「今日のところは無勢でもあり、兵も将も疲れ果てているから」と
引き上げを命じた。
かくして輝虎は行きがけの駄賃であると、郭外に放火し、早々と厩橋へ帰っていった。
(関八州古戦録)
さすが軍神である。
0488人間七七四年
2019/10/06(日) 14:33:53.95ID:BXDj4gj9■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています