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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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戦国ちょっといい話46
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0370人間七七四年2019/09/03(火) 23:11:30.61ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ
0371人間七七四年2019/09/06(金) 14:12:56.16ID:p5lmBOCz
下(西九州)および豊後教区の諸領主は、自領の港に入るポルトガル船に関連して、常にイエズス会から
収める利益に着眼している。したがって領主たちは、たとえキリスト教徒であっても、常にその脳裏には、
司祭たちが自分の希望する場所にポルトガル船を入港させる事ができるし、その船の積み荷の中の相当量は
彼ら司祭たちの物である、という考えから離れないでいる。それ故領主たちは常に自領の港にポルトガル船を
入港させようとするし、また彼らは貧しいために、贈物や借金を求めるのだが、決してそれを返済しよう
とはしない。

そして司祭たちが彼らの希望することをしなかったり、或いは出来なかったりすると、とたんに冷淡と成り、
動揺し、憤激し、司祭に対して当然払うべき考慮を払わず、自分たちの義務を果たさず、教会にも行かない。
領主が異教徒である場合には直ちに多くの非礼を成し、キリスト教徒を迫害し、棄教させようとする。

日本人はその領主によって強力な支配を受けているので、司祭は下の教区に於いて、或いは豊後教区に
於いてすら、幾度も腹立たしい思いを経験し、常に大きな迫害を受けた。

下の諸領主は、ポルトガルの船舶の税金から得る多額の利益を目的としており、その為同船が自国領に
入港することを希望した。そして各領主は司祭やキリスト教徒たちが居れば、自領の港に最大の利益が
もたらされるであろうと考え、異教徒であっても、自国の港に司祭たちが教会の建設やキリスト教を
布教する事を承認したのだ。

(ヴァリヤーノ『日本巡察記』)

イエズス会から見た九州の領主たちへの印象。
0372人間七七四年2019/09/06(金) 16:22:11.74ID:xfBoafGR
(前略。大鳥逸平事件の記事)さて京都に下知あり。大坂・堺その他の国々でかの一類(かぶき者)
を成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。

かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。

穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。

かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。

その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。

――『当代記』


当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。

例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。

「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。

――『烈公間話』
0373人間七七四年2019/09/07(土) 09:41:03.44ID:1yu1Nqpy
耶蘇会(イエズス会)宣教師たちは、その豪奢な生活のため他より憎悪されている。何故なら、
彼らが外出する時は、騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし、修道者のようではなく、在俗の
王侯のように暮らしているからである。また一万二千ヅーロあまりの年収が有る諸港と数多の土地を有し、
その司法権を掌握して、軍隊と艦隊を有し、それを以て彼らの欲する港や土地を征服する。

(文禄2年(1593)マニラにてフィリピン総督に原田喜右衛門が語った日本事情)

キリシタン追放令以前の長崎の様子を語ったとされる原田喜右衛門の証言
0374人間七七四年2019/09/07(土) 09:59:23.35ID:EZycz+jK
>>373
これ始めは西洋での習慣通りに粗末な格好で徒歩で通訳以外連れずにやってたんだよね
そしたら日本人は日本の習慣通りにしてないと全く話を聞いてくれないってんで、日本の坊主と同じようにやるようにしたらこうなった
0375人間七七四年2019/09/07(土) 11:53:26.34ID:6y8uFZHF
それにしても度が過ぎてる感じ
原田が話を盛ってるんじゃ
0376人間七七四年2019/09/07(土) 11:57:04.71ID:Hew4njoB
フランシスコ会「跣足(はだし)で布教しろよ」
0377人間七七四年2019/09/07(土) 12:11:45.47ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど
0378人間七七四年2019/09/07(土) 12:49:53.54ID:EzNjBb6u
>>374
日本の僧侶と言うより、ヨーロッパのカトリック司教領主のノリだな。
0379人間七七四年2019/09/07(土) 17:32:03.95ID:nlvOh1FH
比叡山の僧兵が数千人単位だろ?
別にカトリック僧侶が数百人連れててもおかしくない
0380人間七七四年2019/09/07(土) 18:42:47.30ID:luwCBCJw
>騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし

これは信者が自主的についてきてるってことでいいのかな?
それとも、扶持をやって被官化してるとかってあったのかな?
0381人間七七四年2019/09/08(日) 10:14:00.01ID:HTuo4zSr
僧兵寺侍なんじゃ
0382人間七七四年2019/09/10(火) 12:59:34.92ID:a/OvRRAA
コンパニヤのパードレ等を日本の諸大学に派遣することは、この国(日本)の俗人たちが、当国にも
学校および学者が有ると言って、その迷信を弁解するが故にその必要がある。そして大学に赴く
パードレ等は、諸宗派を駁撃し、坊主たちが俗人より金を引き出す為の手段が欺瞞であることを
説明し、世に公にしなくてはならないが故に、甚だしい迫害を受けるであろう。
坊主達は魂を地獄より救出すると称して生計を営んでいる。故にこれを成す能力が無いといえば、
少しも容赦しない。この事と、その他多くの事によって大いに迫害を受け、苦労が多い。

私はパードレ・メストレ・シマン、また彼が不在の時はコインブラのコレジョの院長宛に書簡を送り、
右の諸大学には尊師が引見して適当と認めた人の他は派遣しないよう要求した。彼等は思わぬ
迫害を受けるだろう。日中には時間を問わず、夜中に至るまでも訪問と質疑に責められ、また身分の
ある人に招かれて辞退することが出来ない事もある。祈祷、黙想、思索の余暇も、精神上休養の
時も無く、最初の間はミサを行うことすら叶わず、絶えず質問に答えるしか無く、祈祷を成し、
食事睡眠を取る時間すら欠乏することが有る。

彼等は甚だ無遠慮で、殊に外国人にはこれを軽蔑し常に嘲罵する。ただしそれは、我等が
この国の諸宗派の明白なる非行を攻撃し、地獄に行く者は救済の道無しと説くが故である。

また、我等は地獄より魂を救済する事が出来ない故に、何も知らないと言ってくる者がある。
彼等は煉獄の何たるかを知らず、彼等の質問に答えるには、学問が有り弁論に巧みであることが
必要であり、詭弁を弄する者に対しては直にその矛盾を指摘することを必要とする。坊主達は
矛盾を指摘された時、また答弁することが出来ない時は甚だしくこれを恥じる。

日本の主要大学である坂東(足利学校か)は遠く北方に有り、他の諸大学も同様である故に、
厳しい寒さに遭遇する。寒地に居住する者は才知が有り鋭敏である。ただし米の他に食うべき物は
無い。また小麦、各種の野菜、その他養分の少ないものが有る。米から酒を造るが、その他に
酒は無く、その量は少なく価格は高い。

最大の試練は不断にして明確たる死の危険である。当地は労苦が多い故に老人には適せず、また
甚だ若い者は非常に経験がないので用をなさないのみならず、却って己を滅ぼすであろう。

この国は罪悪を犯すのに適し、彼等の罪悪を責める我等に少しの過失が有ればこれを誹謗する。
この事についてはメストレ・シマン、また不在の時はコインブラの学長に宛てて詳細に通知した。
尊師が仮に、日本に派遣されるべき者は先ずローマに来るべしとコインブラに命じられれば、私は
非常に満足する。

考えるに、日本に派遣されるべき者はフランドル人、又はドイツ人で、イスパニア語あるいは
ポルトガル語に通じた者である。何故ならば彼等の肉体は労苦に耐え、また坂東の大寒を凌ぐことが
出来るからである。
イスパニア、及びイタリアのコレジョにはそのような人が多数有るはずで、彼等はイスパニアや
イタリアでは言語に熟達しないため説教を成すことが出来ないが、日本に於いては多くの収穫を得るだろう。

(1552年1月29日(天文二十一年一月四日)付、フランシスコ・ザビエル書簡)

ザビエルが山口での布教への反発とそれへの対応について記した記録である。
0383人間七七四年2019/09/10(火) 15:47:34.68ID:0AMoFP3l
中央日報日本語版 400年ぶりに復元される亀甲船、龍頭・鉄甲のようなものはない=韓国
https://japanese.joins.com/article/468/257468.html?servcode=400&;sectcode=400&cloc=jp|main|top_news

>海軍が壬辰倭乱当時投入された亀甲船の原形をそのまま復元することにして設計作業に着手した。鉄甲構造、龍頭などを特徴とする
>かつて再現した亀甲船が実際と違うという指摘が相次ぎ提起されるにつれ、今回最大限実物に近い姿を実現するという趣旨だ。

かつてはオーバーテクノロジーの超兵器扱いされたものが、ようやく厳密な考証にかけられる余裕が出てきたというお話。
良い傾向ですね。
それに過剰な民族意識の象徴とはいえ、きっちり予算が出て維持されるのは正直うらやましい。


日本でも城郭研究で有名な広島大の三浦教授が設計して安宅船を復元(大河ドラマ「毛利元就」に登場)したものの、
撮影終了後に引き取った自治体が持て余して、露天でボロボロになった上に廃材処分というのがありまして・・・
0384人間七七四年2019/09/11(水) 06:49:48.01ID:TzXx0pWO
>>383
維持とはいっても、記事中で木造船の寿命は15~20年で今回が3回目の建造とある
古いのは破棄する前提なんじゃないですか
愛国予算は無尽蔵に出るお国柄にしても、うらやましがるほど青い芝生でもないような
0385人間七七四年2019/09/11(水) 14:32:26.36ID:AOL9rq9D
そもそも安宅船ってそんな人気あるわけでもないだろうしね…信長の鉄甲船(真贋はさておき)でも危うい
0386人間七七四年2019/09/11(水) 16:54:00.18ID:wovCletZ
まあ、どうしても復元船舶はでかすぎて屋内展示できないのと、露天での木造の寿命がね

宮城県の伊達氏遣欧船サンファンバウティスタ号だって、地域のシンボルにして観光の目玉で
震災も乗りきって修復されても
そろそろ木造故の寿命が近づいて、しかも再建造できない見込みらしいし

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7
0387人間七七四年2019/09/11(水) 17:39:44.40ID:gQUFVVVN
長いですが大阿武船解体までの顛末です。

http://0845.boo.jp/times/archives/cat_cat37.shtml
せとうちタイムズ2002年09月28日号
人気漫画の映画化 少女剣士「あずみ」 決闘舞台に大阿武船ロケ

動かない銭食い船として不評をかもしていた村上水軍主力船を復元した「大阿武船(おおあたけぶね)」が、
映画「あずみ」の撮影ロケに使われることになり日の目を見ることになった。
大阿武船は外装が木造で全長25メートル、幅10メートル、100トン。1997年、日本宝くじ協会の助成金1億円をかけて
「全国に因島村上水軍をPRしよう」と内海造船田熊工場で建造した。1999年の瀬戸内しまなみ海道開通イベントには
土生港から大浜町相川ビーチまで海上パレードしてお披露目した。
もともと同船にはエンジンがなくこの時の曵き船によるえい航費用が約250万円。何かのイベントに利用するとすれば
200万円前後は必要となる。このため内海造船田熊工場内の船台に保管されたまま眠っていた。その保管料が年間300万円。
市は有効活用を模索してきたが妙案にめぐりあえず大浜町しまなみビーチの陸上展示を検討していた。
今回の映画製作会社からのロケ利用で日の目をみることになり「全国に因島村上水軍がPRできれば因島水軍まつりにも
はずみがつく」と無償貸与を決めた。

せとうちタイムズ2005年08月20日号
合併のお荷物 一億円の「大阿武船」因島市検討委初会合

中世の村上水軍のロマンを求め全国にPRしようと因島市が日本宝くじ協会から1億円の助成を受け復元した水軍旗艦船
「大阿武船(おおあたけふね)」が建造以来、
ほとんど活用されず内海造船田熊工場に保管されたまま野ざらしになって老朽化している。
このため市は17日、活用方法を探る検討委員会をたちあげて初会合を開き、委員長に宮地正助役を選び地元観光協会や
文化財協会などから6人の委員が出席、これまでの経過、説明を受けた。
現在、大阿武船は設計建造した造船所に年間保管委託金300万円を支払っているが自力で航行できない海洋建造物のため
水軍まつり協賛事業に活用するにも経費のねん出に問題がある。
大浜町のアメニティ公園に陸上展示する案は2〜300万円かかる。インターネットで引き取り先を公募したが「タダでもいらぬ」という結果が出た。
こうした経過などをもとに委員会で意見交換が行われたが、ユニバーサル造船因島事業所長、若野晃一委員から「船を他角度
からビデオ撮影。コンピューターグラフィック(CG)を加えれば歴史教材になる」と提案。同市中庄町の水軍城周辺に
陸揚げ展示案も出た。そのためには周辺整備を一体化しなければ効果がないなど、廃船よりも利活用する提案が出た。
このほか、老朽化防止や補修問題など専門的な意見が出た。同委は次回、内海造船田熊工場に保管されている船体の現地調査、
移転候補地など視察する予定。いずれにしても尾道市との合併をにらんで作業を進める。

せとうちタイムズ2006年06月17日号
大阿武船がついに解体

尾道市は12日から、因島村上水軍の主力船を復元した大阿武(おおあたけ)船の解体作業を開始した。今月中に終わる見込み。
建造費1億円のこの船も全国から4件の問い合わせがあったが、活用のめどがたたず、市も「文化財の価値はない」と判断した。
作業は内海造船田熊工場に陸揚げされて始まった。杉材は廃棄され、鉄製の骨組みは再利用される。総費用は約580万円。
0388人間七七四年2019/09/11(水) 17:45:51.99ID:gQUFVVVN
せとうちタイムズ2007年07月28日号
旧因島市建造の大阿武船の追想

梅雨があけ、参院選が終盤を迎えた25日夜。テレビのチャンネル転換が忙しかった。RCCの特別企画(4時間)の「ハリー・ポッター」、ホームTVの
サッカーAFC「日本×サウジアラビア」。NHK「その時歴史が動いた=アンコール・信長の巨大鉄船戦国の海を制す(戦国の軍艦)」。
戦国最強の村上水軍が織田信長の命令で建造した「鉄の船」との海戦で予期しない敗戦シーンが目に止まり、しばし釘付け。中世で最強を誇った
村上水軍も織田水軍に破れ、阿宅船が炎上する場面が、旧因島市建造の大阿武船の追想と重なった。
建造費1億円をかけたこの船の出番は2回だけだった。デビューはNHK大河ドラマ「毛利元就」の合戦のシーン。次は平成11年しまなみ海道全通記念事業として
大浜町のしまなみビーチで繰りひろげられた火まつりの水軍絵巻。以後は輸送に経費がかさむという理由から出番が無く無用の長物となり、
尾道市との合併を機に解体という運命になった。
ちなみに解体船は鉄製の船底上に木枠組みした言わば張り子だった。
0389人間七七四年2019/09/11(水) 19:18:39.42ID:HklVf1Z/
外観復元なだけじゃ「文化財の価値はない」だわな
0390人間七七四年2019/09/11(水) 21:36:06.71ID:XHdp+5sS
>>386
バブル最強の時に作った帆船か
そういえばハウステンボスのリーフデ号はしぶといな
あっちはオランダの造船所に作らせて海渡って来た本格派だから頑丈なのかな
0391人間七七四年2019/09/12(木) 14:53:32.25ID:/feMcuRk
もし船にエンジン付けて自分で動けたら
コンクリートの城と同じで世間に叩かれてたよな
0392人間七七四年2019/09/12(木) 18:42:26.73ID:ZFOj21EW
>>391
ハリボテの時点で文化財的価値は皆無なんだから、いっそエンジン載せて自走できる方がマシでは?
0393人間七七四年2019/09/12(木) 20:38:49.07ID:bOXWfMf+
>>391
現存の大阪城は何の歴史的価値も無いけど、市民の寄付が目標を越える勢いで集まったし、叩く人もいないんだし、町おこし的な目的で作るのならエンジン積んで自航できる方がいいと思う
0394人間七七四年2019/09/12(木) 21:07:41.77ID:IZ/mYKsE
大阪城はもう一週回って現在では「歴史的近代建築」という価値がついている。
0395人間七七四年2019/09/14(土) 15:18:57.23ID:IDvnMKBp
上州館林の榊原遠江守(康勝)は、加藤清正の婿であるゆえ、清正はある時見舞いに行き、そこから江戸へ
帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた

「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」

こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。

ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。

そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った

「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」

その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、

これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。

(續撰清正記)
0396人間七七四年2019/09/14(土) 16:42:55.97ID:V/euPfCo
香川氏といえば香川県の戦国大名で、信長の野望や太閤立志伝で三好氏や長宗我部氏のおまけとして知られていますね。
その名から香川県土着のイメージを持たれがちですが、実は相模国高座郡の香川荘出身の一族です。
現在の神奈川県茅ケ崎市にも香川の地名が残り、香川駅や香川小学校があります。

細川氏の家臣として讃岐国の守護代に任じられたのが始めですが、東讃の安富氏、西讃の香川氏と、西半分だけの守護代でした。
そういうわけで東讃の香川郡(現在の高松市周辺)とは関わってもいないという・・
0397人間七七四年2019/09/14(土) 18:40:05.10ID:BRDw7U9g
>>395
おうさまさん(´・ω・)カワイソス
0398人間七七四年2019/09/14(土) 19:17:07.08ID:cJHKzPeB
>>395
馬強すぎワロタw
0399人間七七四年2019/09/14(土) 19:37:28.46ID:GFzkYziS
>>396
こういうのは長井氏なんかもな

出羽国長井荘(山形県長井市)の大江姓長井氏

武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)の藤原姓長井氏

相模国長井郷(神奈川県横須賀市)の平姓長井氏

伊達氏に本拠地奪われた大江姓長井氏が武蔵国(八王子市)に移ったもんだから、武蔵国長井荘は
もともと大江姓の本拠地とか言われるようになってしまったし

江戸時代の旗本の系譜には、自分の家は平姓長井氏で武蔵国長井荘が故郷なんですよ、という家までw
0400人間七七四年2019/09/15(日) 09:03:46.71ID:xjNELu5t
>>395
馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか
0401人間七七四年2019/09/16(月) 00:22:30.66ID:5o8unsTp
藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編

一五二
必ず人を打ち果たさねばならぬ時は、一尺あまりのはみだし鍔の脇差で突くべきである。そして刃を上にして突くべきだ。鍔がない
場合は血糊で滑ることが有る。ただし柄は巻いてあるのが良い。必ず刃を下にしてはならない。動きの素早い者には押さえられる
ことが有る。斬るというのは場合による。必ず討ち果たす必要が有る時、突けば尽き損なうという事はないが、斬る時は切り損なう
ことが多い。
(大事の仕者の時は壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突くへし。刃を上にして突きかへるべし。鍔の無はのりにてすべる
事あり。但柄は巻たる可然。必刃を下へすべからず。はやき者はおさゆる事あり。必切ル事は折によるべし。大事の仕者は突につき
そこなひはなし。切には脇そこなひ多かるべし。)

一五三
刀の大小の柄は、皮より糸巻きのほうが良いという人がいる。皮は血糊がかかると滑るが、糸巻きは滑らないという。しかしどちらが
悪いとも言い難い。とにかく、柄はどちらであっても古くあかじみているものでは血がかかると滑るであろう。昔は皮の柄ばかりであったが、
それで数度の用にたった。である以上皮の柄が滑ると決まったものではない。
(大小の柄皮より糸巻よきという人あり。皮はのりかかりすへるという。糸巻はすべらずといふ。何れ悪敷といひがたし。兎角柄は
いずれにても古くあかしみたるは血かかりすべらんと思はるる也。昔は皮柄斗なれ共数度の用に立来る。然上は皮柄すべるとも
きはまるべからすとなり。)

一六八
鑓長刀で人を突く時は、そのまま突くと同時に、鑓であっても長刀であっても捨ててしまえば、突かれた者は倒れるものである。
そして倒れた時に石突を足で踏みつければ、起き上がることができなくなる。うかつに突いた鑓を持ったままで居ると、相手に
手繰り寄せられることが有る。鎌鑓や十文字鑓はまた格別である。
(鑓長刀にて人を突時は其侭突込と一度に鑓にても長刀にても捨候へは突れたる者倒るる物なり。倒れたる時石突を足にて
ふまへ候へは起き上り兼る物なり。うかと突込たる鑓長刀持て居れはたぐり寄事あり。鎌鑓、十文字は格別なり。)

一七一
もしやむを得ず家来を手打ちにする時は、一刀を打ち付けたならば、続けて二つも三つも打つべきである。一刀で様子を見ては
いけない。もし切れていない時は反撃され自分が怪我を負う事が多い。よく心得るべし。
(もし是無非無にて家来手打ちにするとも、一刀打付たらは二ツも三ツも続けて討へし。一刀にて不可見手廻る歟。不切時は
必手負数度多し。能可心得。)

一八〇
敵を組み伏せて首を落とす時は切ってはならない。刀であっても脇指であっても、切っ先を左手で押さえて、擦り落とすべきである。
早業によい。
(組伏て首落す時は切べからす。刀にても脇指にても切先を左の手に取りすり落すへし。早業に能なり。)
0402人間七七四年2019/09/16(月) 09:13:38.88ID:GLcy2izj
>>401
生々しくてすげーリアルだ、当事者だから当たり前だけど…
0403人間七七四年2019/09/16(月) 10:31:30.75ID:sTJYIEYO
剣道やってる人も竹刀の持つところが垢まみれだと滑るとかあるの?
0404人間七七四年2019/09/16(月) 11:52:17.33ID:C4HOaIOB
>>401
怖い
こんなのが200もあるのか
0405人間七七四年2019/09/16(月) 14:03:13.19ID:zAldsUz/
三尺手ぬぐいの便利な使い方も10以上あった気がする
0406人間七七四年2019/09/16(月) 16:04:14.18ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが
0407人間七七四年2019/09/17(火) 12:07:27.33ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長と加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)
0408人間七七四年2019/09/17(火) 15:16:00.10ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか?
0409人間七七四年2019/09/17(火) 21:49:56.45ID:c4UNbjk5
強姦せずに斬り捨てた加藤軍は畜生にも劣る
0410人間七七四年2019/09/17(火) 22:48:38.12ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ
0411人間七七四年2019/09/18(水) 12:32:10.52ID:MqXkTdA+
>>403
そうなる前に変えます
0412人間七七四年2019/09/19(木) 14:23:55.28ID:KfDzYQf0
我等の有する報告によれば、日本の国は土地が貧弱でありポルトガルよりも寒く、山多くして
雪もあるという。国民の知識は開け、道理を解す。
その食物は大根の葉の上に少しの大麦の粉をかけたものである。

この地には橄欖(オリーブ)油、牛酪(バター)、乾酪(チーズ)、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、また酢も無く、
サフラン、肉桂、胡椒も無いという。
また塩もなく、塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。
最後に、病人に薬として与える物もない。

このようであるにも拘らず、我が(イエズス)会員13,4人は主の御恵により喜んで同地に赴くのだ。
彼等の困難は更に大きいが、狼の口より彼の国の霊魂を救うため、喜んで尽力するだろう。
愛する兄弟たちよ、汝等の希望を実行すべき時は既に来た。我等の主キリストはこれらの霊魂のために
多くの事を成し給える。故に彼等を助けることを恐怖のために中止すること無く、来たりて創造主を
知らざるこの人達のために尽力せよ。

この国はキリストの騎士のために準備されたるが故に、来たりて十字架を抱け。この国より永遠の
天国に召されるべきが故に、来たりて諸星および諸国を見よ。

 1554年4月24日 コーチンより

(1554年4月24日(天文二十三年三月二三日)付、パードレ・ガスパル・ピレラ書簡)

塩はさすがにあるだろ。
0413人間七七四年2019/09/19(木) 15:30:44.58ID:nRy2KSWH
伴天連に食わせる塩はねえ
0414人間七七四年2019/09/19(木) 18:53:22.06ID:g9685+pm
とりあえず大げさに報告する営業日報
0415人間七七四年2019/09/19(木) 19:25:43.04ID:vERIOLSj
塩は岩塩のことじゃないかな?
0416人間七七四年2019/09/19(木) 19:26:47.54ID:aUt9NW6c
塩は無いが死は満ち満ちていたさ
0417人間七七四年2019/09/19(木) 20:22:41.03ID:Nz58l5e9
しょ、醤油はあったし・・・。
0418人間七七四年2019/09/19(木) 20:29:36.94ID:/u1TXQSZ
味噌はあったろ!
0419人間七七四年2019/09/19(木) 20:58:08.75ID:vRWDmWnV
コーチンて何
0420人間七七四年2019/09/19(木) 21:07:18.05ID:Nz58l5e9
>>419
インド南部の都市・コーチじゃね?
wikipediaでみたらポルトガルが占領してたみたいだし
0421人間七七四年2019/09/19(木) 21:25:25.65ID:huLnoxn/
>>418
????「クソガァああああああああああ!!!」
0422人間七七四年2019/09/19(木) 21:48:41.93ID:mLsM5rPb
結局言いたいのは「オレってすごい」だし
0423人間七七四年2019/09/20(金) 08:13:03.27ID:CBJNSAf3
>>418
>>412
塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。

コレが味噌のことかな?なお焼き味噌ではない
0424人間七七四年2019/09/20(金) 15:28:20.75ID:qpWchHR6
糠味噌じゃね糠味噌やぬか漬けを何か誤解してたとか
0425人間七七四年2019/09/20(金) 16:11:05.87ID:Qy3rYT1n
九州山口は麦味噌多いからそのせいかも?
0426人間七七四年2019/09/21(土) 11:00:09.19ID:MY/3Tvpu
我がパードレ・メストレ・フランシスコ(ザビエル)は日本より当ゴアに来たりしが、1552年4月17日、
一船に乗りてシナ国へと赴いた。同船にはゴア総督がシナ国王のもとに派遣した大使(ジョゴ・ペレイラ)も
乗り込み、総督はパードレの事を王に依頼させようとしていたのだが、当市より600レグワのマラッカに
到着すると、パードレの旅行は障碍を生じた。すなわち船主にして船長である大使(パードレが使節の
庇陰にて希望の国に入ることを期待し、デウスの次に最も信頼する人である)が、マラッカに滞在することが
必要となったのだ。

パードレは同船において、水夫の他に彼とともに在るのはキリストの愛とキリストのために多くの労苦を
学ばんとする熱心な信者のみであり、パードレ、イルマン、その他現世の必要について彼を助けられる者は
一人も同伴しなかった。

船は広東の市に近いシナの一港(上川)に着いたが、その入国には様々に故障があった。シナにおいては
外国人の入国しようとする者、並びにこれを入国させようとする者に対して重罰が有った。何人もあえて
外国人を入国させようとはしないため、数日間ここに滞在した。パードレはその希望を実現する時をここで
待つことに決し、同港において、異教徒である一商人と交渉し、「自分を広東の市に連れていけば、同国に
おいて甚だ高価である胡椒を大量に与える。」との契約を成し、商人は数日後、再び来て彼を同伴する
予定にて去ったが、我等の主には別に定められた所があり、パードレは熱病に罹り数日中に死したり。

(1554年12月23日(天文二十三年11月29日)付、パードレ・アイレス・ブランダン書簡)

フランシスコ・ザビエルの最期についての報告。
0427人間七七四年2019/09/22(日) 12:07:09.05ID:kiPUL+9X
当地方(日本)にて悪魔は多くの形で崇拝される。特に牛、兎、鹿などの獣類として拝まれ、
牛を殺せば死刑に処する地方も有る。

悪魔が崇拝を受ける方法は、人間に憑き、「誰なるか」と尋ねる者があれば「牛の長なり(牛頭天王か)」
と言い、もし去らんことを願う時は、これを祀るべき堂を建てる約束を成すまで去らずと答え、その約束を
成せば去る。よって堂を造り獣類の像を安置してこれを拝む。もし約束を守らなかった時は、種々の方法で
彼等を苦しめる。

また鹿の形にて崇拝を受ける事がある。鹿の島(鹿島か)と称する島があり、同所にてこれを拝む。
そしてこれを信仰させるため、鹿を殺す者が有れば病みて様態甚だ悪しきに至らしめる。
よってこれを信じ、鹿の形にて崇拝する。

また兎の形において崇拝を受けることも有る。このためその所有する島においては、”ウサギ”すなわち
兎の名を唱えれば”os que nomeao Vcangui”皆咽喉腫脹する。

悪魔がこのような事を成すのは、人間を我等が主デウスの真の信仰より引離し、無限にして汚すべからざる
デウスの栄光を、人間、鳥獣および蛇の朽つるべき像に変じ、創造主よりも作られたる物を拝ましめる
ためである。

(1557年10月28日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラ書簡)
0428人間七七四年2019/09/22(日) 13:20:26.40ID:kweAEpuk
安芸の厳島とは違うのかね?鹿が崇拝と言うか、神の使い扱いされる島って。
0429人間七七四年2019/09/22(日) 19:52:27.38ID:ZXFp1JlY
志賀島でしょ。
神功皇后が鹿の角を奉納した志賀海神社がある。
0430人間七七四年2019/09/22(日) 21:04:02.67ID:+ZdypB0P
志賀島に鹿は居ないらしいし、鹿が由来で志賀島と言うわけでは無いらしい(近の島が訛ったとか)けどな

奉納されたのも神功皇后が対馬で鹿狩りした角と言うし、書簡に書かれた話とは相反する希ガス
0431人間七七四年2019/09/22(日) 21:39:24.75ID:OhO35Ahj
loserの将棋ブログ読んでると、豊臣秀吉ってやっぱすごかったんだなって思った
0432人間七七四年2019/09/23(月) 01:21:51.77ID:bWIuDE8Z
一昨日の清洲会議は面白かったな
やっぱ大泉すげーわ
0433人間七七四年2019/09/23(月) 05:38:44.89ID:2hnkMw8k
>>427
牛頭天王
https://i.imgur.com/CUCW4OB.jpg

鹿
https://i.imgur.com/oIOJ3Jk.jpg
https://i.imgur.com/sxTfvId.jpg


https://i.imgur.com/7DI2OK8.jpg
https://i.imgur.com/Fl2v2x1.jpg
https://i.imgur.com/JtK6PJg.jpg
https://i.imgur.com/qB5xIOG.jpg

宣教師「日本人さぁ…」
0434人間七七四年2019/09/23(月) 07:41:44.61ID:tas5s4rW
ええーい宮島はいい、鹿島を出せ鹿島を!
0435人間七七四年2019/09/23(月) 08:02:48.00ID:2hnkMw8k
>>434
茨城県鹿嶋市
https://i.imgur.com/uFPJA30.png
 名前は、市の花である「ハマナス」の「ナス」と、鹿嶋の「カ」から名付けられました。
鹿の妖精であり、鹿嶋市の緑豊かな自然と海や湖の恩恵をイメージして、緑と水色の衣装を着用しています。
鹿島神宮で神鹿として大切にしている鹿の子をモチーフとし、頭には市の花「ハマナス」をつけています。
0436人間七七四年2019/09/23(月) 19:30:46.75ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1583)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』
0437人間七七四年2019/09/23(月) 19:33:28.75ID:cwZ3+KTm
>>436
すいません天正13年は1585年の間違いです
0438人間七七四年2019/09/23(月) 23:49:15.22ID:Pi/XGgC+
>>433
もみもみしたくなるな
0439人間七七四年2019/09/24(火) 09:54:25.03ID:0yXdIu4K
>>433
頼光「来たれい四天王。…いいえ、牛頭天王の神使達!」
0440人間七七四年2019/09/24(火) 10:25:43.22ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w
0441人間七七四年2019/09/24(火) 10:36:01.80ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん
0442人間七七四年2019/09/24(火) 12:31:24.12ID:/fKcB4+w
>>438
地元の男子高校生の下ネタみたいなもんなんだよなぁ
もみじ饅頭略してもみまん
0443人間七七四年2019/09/25(水) 18:18:47.04ID:8prqcSXc
(前略 >>436

去る程に慶長5年(1600)9月12日、石田らは濃州大垣城に籠って岐阜城へ加勢を遣わし、島左近を
株瀬川(杭瀬川)へ出して戦の手始めをさせたところ岐阜はたちまち落城し、左近は利を得たけれども味方
は大勢討たれたので三成は驚いて諸将を集め、「この上は関ヶ原まで引き退き、味方の多勢と成り合って広
野において戦せん。如何だろうか」と言う。島津・宇喜多・安国寺らも心臆したのか皆もっともとこれに同
意した。行長(小西行長)1人は知らぬ顔でいたがこれを聞き、怒声をして高らかに言ったことには、

「こは臆したる評議かな! およそ戦の勝ち負けは5度も10度も戦い負けて、1度の勝ちに大利を定める
ものぞ! ましてや日本が2つに分かれて戦うというのに、10度20度の合戦に変わりがあろうか!それ
に味方の負けは岐阜ばかり、株瀬川の戦は大勢が討たれたが軍利を得て大敵を追い払った! さて敵方の負
けは大津城、丹後の田辺、伊勢の津城、伏見城である! これは我らの勝ちではないのか!

東国勢は多しといえど7万5千3百余兵、味方は13万8千6百余人! 敵に若干倍するのではないのか!
それを岐阜落城に物を懲らして逃げ支度する謂れはない! 今ここに有り合う勢をもって敵と戦うのに不足
はあるまい!

それで覚束ないのならば関ヶ原の兵をここへ招き寄せて快く一戦し、万一利が無ければ大坂城に籠り、また
勢を分けて所々の城に籠め置けば、敵は手配りしてこれを攻めることだろう! 多からぬ関東勢を分散させ、
その虚を窺って家康の旗本へ突き入れば、どうして勝利を得ないことか!

また岐阜中納言秀信は生得愚魯の闇将、臆あって勇なし! 弱将の下に強兵無き故、家臣らはまた浄き戦も
せずにたちまち首を伸ばして降参した! これは戦の咎にして天利とするべきではない! それを味方の兵は
臆して敵兵は気に乗ったとこの陣を退くことは後世の謗り、そして今においては戦の損、一方ならぬ誤りで
ある!

私が思うに家康は今日赤坂へ着陣して備は未だ定まっていまい。今夜こちらから逆寄せし、一戦すべきでは
ないか。つらつら思うに家康は広野の合戦に妙を得て、人数を見切り進退し、軍兵を指揮することは誰が雌
雄を争えよう。各々も見給う如く、姉川・長篠・長久手・楽田・羽黒などの戦場で僅かの手勢をもって大敵
を切り崩したその形勢は、神変無双の驍将である。尋常の如くこれと戦してはまったく利はあるまい。

まず今夜、夜討して敵の変化を窺い見て、重ねて術を巡らすべし。ただ運を天に任せて味方の勢を三分し、
一手は家康の本陣へ夜討させ、一手は旗本近き陣を攻め、一手は援兵の通路を断じ、所々の陣々、赤坂の町
屋在家を一同に放火してその変動に従って戦わん!」

と言うが、諸将は聞き入れず。石田は言う。「小西殿の計りは図に当たるといえども、味方の中に二心の者
は大勢いると聞く。しからばこの謀も敵に洩れるのではないか。なまじ夜討して味方の若干が滅びるよりは
速やかにここを退いて味方の大勢と心を合わせ、一戦の功を立てるに如かず」と用いず。行長はまた言う。

「夜討の術が各々の心に入らないのならば、ともかくもここを退いて関ヶ原まで引かれんことは甚だすべき
ではない! 戦の習いで一足でも進むとなれば鼠も虎の威に同じ、一足でも引く時は虎も鼠の如しと言われ
ている。岐阜が落城して味方の兵は気を失い、勇の挫けるところでまたここを退けば敗軍に等しく、ますま
す味方は力を失い、敵は未だ戦わずして勝軍の猛威を振わん! これは敵に勇を付け味方の気を弱めること
なれば、自然と心を変ずる者もあろう。重ねて戦っても利は無い!」

とするが諸将は肯定しない。小西は大いに怒り、座を立って大声で罵ったことには「それほど味方を疑って
は、いずれも戦はできない! 臆病神が付いた以上は百万の勢があろうとも負け戦になろうぞ! 思うに味方
の中に勇士はいなかったのだ!」と、悪口して陣所へ帰った。

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

(後略)

――『古今武家盛衰記』
0444人間七七四年2019/09/25(水) 18:20:33.61ID:Dlm/oppg
戦犯小西
0445人間七七四年2019/09/25(水) 18:21:51.54ID:U38ZVahv
三成って安定択しかとれないイメージ
0446人間七七四年2019/09/25(水) 18:54:19.25ID:UhsvF/OK
前線の武将は熱いな
モタモタするより速攻で1回戦って団結した方が良さそう
0447人間七七四年2019/09/25(水) 20:20:18.64ID:Rn6zhfmt
三成は家康はもとより、同世代のNGMSや市松他東軍諸将連中と比べても前線や陣頭指揮の経験が豊富かって言うとそうでは無いしなぁ…
かと言って総大将としての戦略も…

結局、毛利と小早川が調略されてる時点で詰みよねぇ…
0448人間七七四年2019/09/25(水) 22:49:49.78ID:e8AHqd1y
猪武者でも頭良い人けっこういるんだよね
三成は頭に寄りすぎ
融通利かなすぎ
0449人間七七四年2019/09/26(木) 15:47:14.39ID:QTP1VGvV
簡単に岐阜を抜かれたのが痛いね
天下の名城だし諸将への動揺が大きかったと思う
態勢を整える為にも一旦下がるのは誰もがやる手法だろうね
伊賀者甲賀者が暗躍してる時点で夜討は効果ないでしょ
看破されて撃退されるのがオチ
0450人間七七四年2019/09/26(木) 18:39:51.77ID:z0ck5pTd
西軍は団結力皆無なんだから、勝馬に乗らせる形にしないと崩壊する。
ので、危険だろうが何だろうが押していくしかなかった。
0451人間七七四年2019/09/27(金) 06:39:27.78ID:DDzLkT4T
喜んで死地に赴けるのは一向宗か切支丹だけ
0452人間七七四年2019/09/27(金) 10:37:41.29ID:sYpyrMZP
薩摩隼人も追加してー
0453人間七七四年2019/09/27(金) 13:13:11.61ID:IIFlZzjV
>>452
心臆したんじゃなかったの?
0454人間七七四年2019/09/27(金) 14:56:12.80ID:B2xH82PH
彼(大村純忠)はその兄(有馬義貞)より出陣の通知を受け取ったことにより、翌朝出陣の準備を
整えた後、パードレのもとに人を遣わし、彼とその家臣のためデウスに祈り、またその妻が妊娠して
いる故に、我等の主が安産を与え給うよう祈ることを求めた。

ドン・ベルトラメウ(大村純忠)が出陣した時、途中にて一つの注目すべきことが起きた。
日本人は戦争の神にして、摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像を有し、大身の人も
賤しき者も、その前を通る時は地面まで頭を下げ、及ぶ限り自ら卑しくする習慣が有った。
偶像の背後、頭の上にこれを覆うガロGallo(鶏)があった。異教徒たちは疑問ある時に、そのもとに至りて
これに伺うのを常とした。

ドン・ベルトラメウは軍隊を率いてここに到着したとき、部下を停止させて、進んで偶像を取り出して焼き、
次いでその寺院にも火をかけた。またガロをその面前にもってこさせ、剣によってこれに一撃を与え、
「今まで幾度、私を欺いたのか!」と言った。

悉く焼き盡くした後、その場所に甚だ美麗なる十字架を建てさせ、部下一同とともに深甚の敬意を表して
戦地に赴いた。

彼が(前に述べたる如く)我等の主なるデウスのため約束したより多くの事を成した一例は、
その兄の救援のため戦争に臨んだ時、人を領内に遣わし悉く偶像を焼き、また港より1、2レグワの
所にある森より、ポルトガル船に必要な材木を、ポルトガル人の望むまま伐採させるべしと命じて、
これを実行した。また武士等と語り、デウスのことについて疑いが有れば彼に尋ねよ、彼はそれについて
説明する、と言った。

(1563年11月14日(永禄六年十月二十九日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
0455人間七七四年2019/09/27(金) 15:17:22.03ID:zJaqhU3P
(前略 >>443

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

この時、小西(行長)が付け置いた忍どもが走り来たりてこれを告げた。行長はまったく驚かず「どうして
そんな事があろうか。引き退くならば、我が方へもどうして一往告げないことがあろう」と事実とも思わず
にいたが、追々に告げて来るので不思議ながらも物具を堅めて馬に乗り、諸将の陣々を回り見るによくよく
慌てふためいたと思われ、兵糧・器財・弓・鉄砲・槍長刀・太刀・甲冑が捨ててあって、足の踏み所もない。

小西も興覚めながら自陣へ人を馳せて人夫5百余を召し寄せ、心静かにこれを拾い集めさせて夫駄に負わせ、
自分の陣所をも引き払って関ヶ原へ急いだ。

さて、諸将の方へ使を立て「各々の陣所に捨て置かれた兵具などを敵に拾われて、善し悪しの批判をされる
のも口惜しく、行長が広い集めて持たせて来た。御用次第に取り寄せなさるべし」と申し送り、関ヶ原から
八幡の西北、小池村の間に兵具などを並べ置いて所望に従って渡すと、皆面目なく見えた。行長は家子郎等
に向かって、

「このような臆病者とは知らず三成に頼まれ、犬死する口惜しさよ。しかしながら今これを捨てれば、節に
臨み義を忘れるようなものだ。ただ私が人を知らざる故なれば、今更恨むような様もない。汝らの数年の軍
功を無きに等しくしてしまうことは、返す返すも残念でならない。さりながら宿世の誓約と思い切り、今度
の最後の戦で悪びれて(気後れして)世人に笑われるなよ。速やかに討死して名を万代に留めよ!」

と情を含み勇を励まして語ると、従臣どもは「仰せまでもなし!」と誓いを立てて申したので大いに喜び、
「実に頼もしき心底よ! 最後の酒宴をせん!」と互いに打ち解け終夜舞い謡い、その後に手配りを定めて
明けるのを遅しと待っていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』
0456人間七七四年2019/09/27(金) 15:32:51.16ID:GToyzteL
>これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

どうしようもねーな
こんなん聞いてると水鳥の羽音で平家が逃げたとか信じそうになるぞ
0457人間七七四年2019/09/27(金) 20:59:55.87ID:d0XnWwP+
大垣城から関ケ原に引いた時点で、もう負け確定だったんだなぁ…。
0458人間七七四年2019/09/27(金) 23:03:11.80ID:xvfY22wf
>>454
大村家って平安期からその地に居てキリスト教関係でめちゃくちゃやったのに
秀吉家康時代も転封なしって運がいいというか身の処し方が上手いんだよな
キリシタンの厄介な場所とはいえ、島津家や宗家ほど地域の特殊性もないのに治世任せられてる
戦後まで当主が辻政信を匿ったり大村市長になったりしてるし
0459人間七七四年2019/09/28(土) 10:43:51.63ID:bhDpweX0
>>455
誇張もあるんじゃないかな
石田三成だけならまだしも他の将まで揃ってとは
0460人間七七四年2019/09/28(土) 12:49:42.34ID:h/ZK5U/h
当地(日本)には大身等の間に戦争が絶えず、彼等はデウスを畏れず、各自首領とならんことを欲し、
やむを得ない場合でなければ大いなる者にも従わず、機会があれば領主に叛起する。故に悪魔は
彼等を導いて絶えず戦い、市および町を焼いて互いに亡ぼさせる。家は皆木造であるのでこれを焼くことは
容易である。

この事はデウスの教えを説くについて大いなる妨害であり、戦争の際には我が住院は焼かれ、我等の
所持品が奪われること度々であり、パードレ一人、およびイルマン数人が衣服を剥がれてわずかに
命を免れた事もあり、この地方においては、大いなる艱苦と生命の危険を冒す事なくして布教する
事は出来ない。

然れども主は我等に御慈悲を垂れ給い、デウスの教えは当国に広まり、敵の中にも熱心なキリシタンが
あり、彼等はパードレおよびイルマン等がかくのごとき状態にあるのを見て少なからず悲しみ、これを
保護し安全を保証すること、あたかも彼等の主人に対する如くである。

今はデウスの御慈悲によって双方に多数のキリシタンが有る。破壊を行う前に我等のその事を知らしめ、
最も甚だしい時は住院を失うが、そうでない場合には早くにその安全を図る。

この事を尊師に通信するのは、日本に於いて我々は未だ真の住院を有せず、我等が建築する会堂は
日本人の忠誠なる心であり、この会堂は永久に存続するものだからである。

我等が主、ゼズス・キリスト、彼等に恩恵と光明を与え、引き続き良き道に進ましめ給わん事を。

(1564年10月11日(永禄七年九月七日)付、パードレ・ジョアン・バウチスタ書簡)

永禄の頃の日本(豊後あたり)の状況について。
0461人間七七四年2019/09/28(土) 18:40:27.66ID:U4mz+hGR
仮にキリスト教国だったとして変わらんだろこれw
0462人間七七四年2019/09/28(土) 21:12:30.93ID:bhDpweX0
この頃のヨーロッパも結構なもんだよね
0463人間七七四年2019/09/28(土) 22:13:59.96ID:g1EomfXJ
いや、日本がキリスト教になったとしての話
別に何も変わらん気がするから
0464人間七七四年2019/09/29(日) 00:04:08.38ID:jYID+T12
確かに
0465人間七七四年2019/09/29(日) 00:56:01.33ID:YZJcRlBM
宣教師ランダはあまりに容赦ない宣教活動が本国で問題になり異端審問にかけられている人物である。
しかし、彼が記録した「ユカタン事物記」は非常に詳細な記述であり
マヤ人の生活から文字の手がかりまで書かれている重要な資料であるのを前提として。

もしマヤと同じように、16世紀の日本にスペインからカトリック僧(ランダ)が来て宣教を始め、
キリスト教から旧来の宗教に再転向する日本人6000余名を笞刑にし、
4000名余名を拷問にかけ、その結果年間150名余名の死者を出し、
異教の本だからと当時の日本にあった書籍の90%を焼きすて、
そのかわり日本の文学、宗教、歴訪、社会、習慣などについて、ただ1冊の本を書き残したとする。
われわれが、この人物の行為は単に当時の考え方を反映してるに過ぎないと容認し、
「万葉集」や「源氏物語」は焼き捨てられたけれども、一冊の「日本事物記」を
残してくれたことに感謝すべきなのか、という質問である。

青木晴夫「マヤ文明の謎」講談社 
0466人間七七四年2019/09/29(日) 08:50:07.59ID:jYID+T12
戦国時代で助かったわ
0467人間七七四年2019/09/29(日) 12:17:46.71ID:3pp4eH/n
日本書紀編纂の時期に多分似たような事は起こったとおもっとる
0468人間七七四年2019/09/29(日) 12:52:44.29ID:c91QPm4X
8月25日頃、我等並びにこの国のキリシタン全体にとって甚だ悲しむべき、また我等の敵にとって
大いに喜ぶべき報知が豊後に達した。すなわちドン・ベルトラメウ(大村純忠)は死し、その兄弟である
有馬の王(有馬義貞)は逃げ、ポルトガルの帆船およびジャンク船は横瀬浦港を去り、会堂及び
同地全体は他の多数の村々とともに焼かれ、キリシタンは皆死し、または迫害を加えられているという
報知である。(大村純忠の義兄である後藤貴明の反乱の事と考えられる。純正の死は誤報)

而してこれは、ドン・ベルトラメウが領内の仏像を焼いたためであり、その部下の者も、彼の親戚である
他の君主と供に暴起して悉く領地を奪い、有馬の王もその弟の奉じたキリストの教えを好遇し、
弟がキリシタンと成り、仏像を焼き、坊主に迫害を加えたにも関わらず、仏より何等の罰を受けることが
無かったため、「仏に何の力もないことは明らかである」と言い、その兄弟のごとくデウスの教えを
奉ぜんとし、またその領内にデウスの教えを弘める許可を与える事が良いと思い、また既に領内2ヶ所に
おいて千二百あまりのキリシタンが存在していた。

このような状況で家臣たちがこれに叛起し、デウスの教えに大いに反対するその従弟(後藤貴明)が
叛徒の首領と成った。

我等はこの報知を得て大いに驚きまた悲しみ、この事についてのみ語り、キリシタンは恐怖し、異教徒たちは

「デウスに力有れば仏の力よりドン・ベルトラメウを救出すべし。ドン・ベルトラメウの如くデウスの教えを
愛し、仏に迫害を加える者は無かった。宣教師たちが説いていたようにデウスに力があるのなら、その
僕を助けるべきである。」と言って大いに罵言し、また

「キリシタンの教えは偽物であり、滅ぼすべきものである。何故ならその教えの入った所には必ず
戦争及び紛争が起こる。」と言い、その議論を確証するため、日本に於いて最も古く、また立派であった
二つの都市、すなわち博多及び山口がキリシタンの教を受け入れた後滅亡したこと、その他多くの事を
挙げ、人民をして我等に大なる嫌悪を懐くに至らしめ、また我等は人を喰う者にして魔法使いであると
彼等の頭に入れ、また我等は日月も仏像も拝することを禁ずるが、そんな事を為し、また説く者は全く
信ずるべきではないと言った。

このような話は我等の行く各地において坊主に共通した所である。

(1563年11月17日(永禄六年十一月二日)付、イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

後藤貴明の反乱の報についての記録である。キリスト教が入った所では平和よりもむしろ戦乱が起こる、
という印象がこの時代から既に有ったのですね。
0469人間七七四年2019/09/29(日) 13:33:51.38ID:bMxm3j9d
隆盛の有馬に屈する形で大村は有馬から婿を迎え隠居、実子は後藤へ婿にやって反乱の目を潰すが、純忠が領内の寺や菩提寺を廃するとこれに怒り、これより大村を仇敵とみなした
なにもキリスト教だからではない、跡目を継げなかったことが争いの元凶なのである
なお龍造寺が隆盛を極めると後藤貴明は隆信の子家信を養子とし実子清明を隆信の養子に、大村純忠は娘を隆信の子家種の室に送った
0470人間七七四年2019/09/30(月) 14:19:26.60ID:8QeXwAHH
聖週中、平戸において我等を大いに喜ばせる一事件が起こり、人間には遠方にあると見えても、
デウスは常にその名誉に関することに注目し、裁断を下し給うことを明らかにした。

平戸にヤシマンダケ Iasimandaque と称し、坊主一同の首領たる者があった。これは我が司教、
または大司教に相当する者であった。同人は常にキリシタンおよび信仰の事に対しての主たる
敵であり、十字架が切り倒され、パードレ・ガスパル・ビレラその他パードレが平戸より追放
されたのも彼の力によってであった(永禄元年の、松浦隆信による宣教師の平戸追放)。

ドン・アントニオ(籠手田安経:平戸松浦家重臣)も右の坊主がこの地の身分ある異教徒たちと
親戚関係にあるため、その罪悪に相当する復讐を成すことが出来ないのを非常に遺憾としていたが、
ドン・アントニオが平戸の王(松浦隆信)とともに戦場に在った時、坊主は使者を以て、その寺院二ヶ所と
併合するためにドン・アントニオの所領の地所の一部を彼に与えるよう求めた。ドン・アントニオは
これを与えることを欲さずと答えたが、坊主は甚だ傲慢であり、右の返答を以てその名誉を毀損せし
ものとし、先ず領内に火を放ち、その後数日を経てドン・アントニオの臣下であるキリシタンの家
5,6軒を焼かせた。

ドン・アントニオは陣中に於いてこれを聞き、王に対し、「この上坊主の悪行を容認することは出来ない、
殿下がもし直ぐにこれを罰しないのであれば、戦を中止し自ら行ってこれを罰する。」と述べた。
ドン・アントニオは平戸の王に次ぐ有力者であり、陣中の総大将でもあったことから、これを欠くことは
出来ず、王自身はこの報復を欲せず心中悲しんでいたものの、「彼に対しいかなる罰を加えるべきか」
と尋ねた。ドン・アントニオは右の坊主のためにパードレたちが当国を追われたことを想起し、王に
対して「永久に平戸の各地より追放し、領地および所有品は他に分かち与え、彼をして再び帰還する
望みを断つべし。」と説き、直ぐにそれを実行した。

最も愛するイルマンたちよ、坊主たちがその首領が右のごとく急速に名誉を失墜したのを見て、恥じ、
悲しみ、かつ驚いたこと、キリシタンたちがこのように敵が除かれたことを喜んだことは、これを述べる
詞を知らない。

ただし平戸の王はこれにより我等に友情を示したのではない。ドン・アントニオの存在が必要であったために
動いたに過ぎない。彼は私利のため言辞と動作に於いてポルトガル人を許容しているが、心悪しき人で
ある故に、信仰のことについては敵であり、ポルトガル人に期待する利益が大きくなければ、領内に
パードレおよび会堂を置くことを許容しないであろう。

(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる、平戸についての報告と松浦隆信についての印象。
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