戦国ちょっと悪い話47
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0034人間七七四年
2019/05/17(金) 04:23:46.41ID:w2OiBgOR勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。
勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、
「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」
との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。
長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。
その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。
ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。
そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。
その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。
そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。
信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。
その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。
――『甲陽軍鑑』
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