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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/

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戦国ちょっといい話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
0331人間七七四年2019/08/21(水) 17:09:24.18ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw
0332人間七七四年2019/08/21(水) 18:29:25.10ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か
0333人間七七四年2019/08/21(水) 18:35:44.12ID:267jfBR2
この優木かな容赦ない
0334人間七七四年2019/08/21(水) 18:36:44.27ID:267jfBR2
すまん誤爆
0335人間七七四年2019/08/21(水) 19:18:26.99ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw
0336人間七七四年2019/08/22(木) 00:41:05.20ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね
0337人間七七四年2019/08/22(木) 09:07:29.18ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw
0338人間七七四年2019/08/22(木) 11:06:46.39ID:vy5oxGoJ
秀吉・家康『何言ってんだこいつ頭大丈夫か!?』
0339人間七七四年2019/08/22(木) 13:23:11.06ID:XoziOVmd
>>338の頭は大丈夫なのか?
0340人間七七四年2019/08/25(日) 19:00:51.02ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事
0341人間七七四年2019/08/26(月) 22:14:32.56ID:Dm7AYDWD
「諸国百物語」「森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事」
まとめの5865の
「森家屋敷の怪女」と後半が被ってるけど書いとく。

森美作殿、屋敷の裏に小さき堀あり。
その堀の内より小さき児出づる事もあり。
又女のかづきを着たるが、あなたこなたと歩く事も有り。
ある時美作殿、近習の衆を集め夜ばなしをなされけるに、
座敷のまはりを、女、髪を下げ、二人連れにてあなたこなたを歩きける影、座敷の壁に映りて見えければ、
美作殿、不思議に思召し座敷の内を立て廻し、すみずみまで侍どもに探させ御覧なされ候へども、何物もなし。
ただ影ばかり、あなたこなたとするが、みな人の目に見えけるとなり。
それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。
0342人間七七四年2019/08/27(火) 22:09:29.53ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述
0343人間七七四年2019/08/28(水) 14:30:41.50ID:9gs3r0Od
勝入(池田恒興)を安藤帯刀(原注:直次。御旗本御鉄砲頭の現在の九郎左衛門の伯父である)が槍を
付け、永井右近(原注:万千代直勝)が後から来たり、勝入の御首を取った。大勢が這い掛けたので、
右近は右手の人差し指を切られたという。

成瀬吉右衛門(原注:今の吉右の父である)が帯刀に尋ねて曰く、「勝入は貴方が槍を付けて永井に首
を取られたと承っていますが、左様なのですか」と。帯刀は曰く「敵の大将を討って首を人にやること
があるか。槍を付けると、後から真っ黒な者が取り掛かると覚えた。これが永井である(原注:永井は
黒母衣である)。勝入の首をすかさず永井が挙げたのだ」と、帯刀は申されたという。

その後、後から武者一騎が脇目もふらずに乗り来たり、あまりに急なのでひらき過ごして後ろから突き
落とした。これが紀伊殿(池田元助)である。その次にまた初めのように乗り来たる者がいて、これも
初めのようにやり過ごして突き落とした。これは秋田加兵衛である。

(原注:岡山にいた秋田という老女の伯父である。老女は延宝7年(1679)に90歳で死去した。
池田主水(由孝)の家来に秋田五郎四郎という加兵衛の筋の者が現在もいる。秋田加兵衛から五郎四郎
までは四代である)

私に曰く、安藤と永井は取り分けて間柄が良かったので、勝入の御首を譲ったという。また曰く、安藤
に神君(徳川家康)が仰せられるには、「井伊万千代(直政。原注:19歳)を何とぞ取り飼い申すよ
うに(何トソトリカヒ申様ニ)」と仰せであった。これによって勝入を槍付けて「万千代!万千代!」
と呼んだのだという。すると、永井万千代が隙間なく駆けて来たという。

安藤帯刀が紀伊殿と加兵衛を討ち申されたことは、加賀爪民部(忠澄)が光政様(池田光政)へ御物語
り申されたという(原注:民部は帯刀の婿である)。

――『烈公間話』
0344人間七七四年2019/08/29(木) 16:48:58.29ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。

御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。

古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。

――『烈公間話』
0345人間七七四年2019/08/30(金) 00:17:27.23ID:+7LwoOAH
ゲーム雑誌ログインで古田は大大名が自分にへりくだるから勘違いしたんじゃないかってあったの思い出した
0346人間七七四年2019/08/30(金) 07:44:23.09ID:o37TWyNP
利休を目の当たりにしてそれはない
0347人間七七四年2019/08/30(金) 10:56:41.87ID:DJNW/LyU
大御所は豊臣を根絶やしにするつもりだったから、下手な周せんは非常に迷惑だったのだ
0348人間七七四年2019/08/30(金) 11:10:23.81ID:E1FdUgeV
山中鹿之助は往古、武辺場数類ない武勇の武士であった。ある日、合戦が済んでその日初陣の若武者二人が
鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた

「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)も色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」

鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。

もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。

この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」

そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った、

鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。

(耳嚢)
0349人間七七四年2019/08/30(金) 11:12:40.31ID:J8zxYW+w
清正にも似たようなのあったな
新兵にはお決まりの症状だったんだろうな
0350人間七七四年2019/08/30(金) 12:15:23.34ID:hFSa9L6j
氏郷最強か
0351人間七七四年2019/08/30(金) 15:12:04.98ID:o37TWyNP
鬼武蔵は後者のほうだろうなあ
0352人間七七四年2019/09/01(日) 15:49:58.23ID:QJScnLQh
伊藤一刀斎が剣術を広めようと諸国修行していた折、淀の夜舟にて大阪へと下った。
この船の船頭は力量優れた者であり、一刀斎が木刀を携えているのを見て、

「御身は剣術を修行されているのか。剣術とは人に勝つ道理であるが、私の力には普く
剣術の達人であっても叶うとは思わない。手合わせ致さないか?」

そう言ってきた。一刀斎は彼の様子を見るに、たいへんに強剛であると見え、いかがしようかと
思ったが、「しかしながら剣術修行に出て、たとえ命が果てたとしても辞退するのは本意ではない」と、
互いに死を約束し陸に上がった。

船頭は櫂を片手に持って、拝み打ちに一刀斎を打ってきた。これを身を開いて外すと、力が余っているため
大地にこの櫂を打ち込み、引き抜こうとした所を一刀斎が木刀を以て櫂を打ち落とし両手を押さえた。
船頭は閉口して一刀斎の弟子となり、随身し諸国を巡った。彼は元来力量優れていたため、国々に於いて
立ち会いがあった時も、一刀斎は手を下さず、殆どはこの船頭が立ち会い、何れも閉口して、その中より
一刀斎の門弟と成ったものも多かったという。

しかしながら、彼は元来下賤の者であり、その上心様も真っ直ぐではなく、一刀斎に敗北したことを
無念に思っていたようで、立ち会いにては叶わないのならばと、夜陰に旅泊において一刀斎が眠るのを待ち
付け狙うこと数度に及んだが、一刀斎の身の用心に隙きがなかったため、空しく供をして江戸表へと
至った。

そのような中、将軍家より一刀斎を召されたが、彼は諸国酒盗の望みこれ有るのよしを以て御断り申し上げた。
このため門弟の内を御尋が有り、そこで一刀斎は小野次郎右衛門を推挙し、かれが将軍家に召し出されることと
決まった。

これにかの船頭は大いに恨み、「我は最初から一刀斎に随身し共に流儀を広めた功がある。にもかかわらず
この度将軍家のお召に、末弟の次郎右衛門を推挙したことは心外である!もやは生きても益なし。
次郎右衛門と真剣の試合を以て生死を定めたい。」

この望みを申すと、一刀斎は答えた
「その方は最初より随身の者であるが、これまで度々私を付け狙ったこと、覚えがあるであろう。
今まで生かして置いていたのも甚だの恩徳である。しかしながら次郎右衛門と生死を争う事、
望みに任せよう。」

そう言って次郎右衛門を呼び委細の訳を申し談じ、勝負いたすべき旨を申し渡し、その上で次郎右衛門に
伝授の太刀を免した。

そして立ち会いの上、次郎右衛門の一刀の元に、かの船頭は露と消えた。

さて、その後次郎右衛門は召し出され、なお又牢内に罪有る剣術者を選ばれ立ち会いを仰せ付けられた。
この時も次郎右衛門は妙術を顕し、よって千石にて召し抱えられた。

(耳嚢)
0353人間七七四年2019/09/01(日) 20:56:01.50ID:J7AQ/r7P
人を殺して止めを刺す時に、あるいは喉を断ち切り、あるいは胸を突き通し、またその足の
裏を割るのが古の一例である。これを“足ノウラヲカク”という。

――『志士清談』
0354人間七七四年2019/09/01(日) 21:26:25.56ID:hPEwf+FO
足の裏って地面につく部分のことでいいの?
0355人間七七四年2019/09/01(日) 23:31:20.36ID:Mb3OXDLx
戦国時代の足の裏はめっちゃ硬そう
0356人間七七四年2019/09/02(月) 01:28:04.05ID:yY+jfsub
>>352
吉川英治の「剣の四君子 小野忠明」だと、弟子はこの船頭と改名前の神子上典膳の2人だけだったけど、史実だともっと多かったのか
0357人間七七四年2019/09/02(月) 04:15:55.93ID:O3cztPnV
バガボンドだと佐々木小次郎も弟子
0358人間七七四年2019/09/02(月) 12:15:54.84ID:5fsxEytf
地元だと一刀斎が堀久兵衛を暗殺したんだと
0359人間七七四年2019/09/02(月) 21:46:52.97ID:GItnMJTM
京都新聞「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25
滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
 国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
 十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明が豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
 共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
 ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。
0360人間七七四年2019/09/02(月) 21:47:11.02ID:GItnMJTM
東京文化財研究所
甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html
この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
 博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
 この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。
0361人間七七四年2019/09/02(月) 21:51:44.42ID:GItnMJTM
伝来と製作推定時期が違う?

こういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw

とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって
0362人間七七四年2019/09/02(月) 22:16:11.79ID:Fkp1/lw1
ジミーさんって秀吉から色々なもの貰ってるな
0363人間七七四年2019/09/03(火) 10:10:39.63ID:6rZ+ESk2
秀吉「これいらないんだよなあ・・・嘉明にやっとくか」
0364人間七七四年2019/09/03(火) 11:00:09.55ID:xR9TLq28
なんか知らんが秀吉は嘉明に歯も与えてるな。
貰ってもいろいろ困るだろうに。
0365人間七七四年2019/09/03(火) 16:07:29.71ID:gS8n8Noc
利休は大徳寺の山門を建立し、自分の形を木をもって作り、褊綴を着せて頭巾に杖をつかせ、
雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。

秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。

その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。

(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)

――『烈公間話』
0366人間七七四年2019/09/03(火) 16:08:26.41ID:Yei4roZj
>>364
大明神の歯やぞ
0367人間七七四年2019/09/03(火) 17:23:42.33ID:LdMBi2cl
>>360
紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&;d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple&century=

この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?


それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。
0368人間七七四年2019/09/03(火) 20:11:00.78ID:OUs1SCTH
鎧通しをレイピア風に作ってみましたな気がしないでもないんだが
0369人間七七四年2019/09/03(火) 20:50:01.06ID:i7NzSYU+
鎧通しは短くて分厚いものだし
リーチ足らないなら槍というものがあるし
0370人間七七四年2019/09/03(火) 23:11:30.61ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ
0371人間七七四年2019/09/06(金) 14:12:56.16ID:p5lmBOCz
下(西九州)および豊後教区の諸領主は、自領の港に入るポルトガル船に関連して、常にイエズス会から
収める利益に着眼している。したがって領主たちは、たとえキリスト教徒であっても、常にその脳裏には、
司祭たちが自分の希望する場所にポルトガル船を入港させる事ができるし、その船の積み荷の中の相当量は
彼ら司祭たちの物である、という考えから離れないでいる。それ故領主たちは常に自領の港にポルトガル船を
入港させようとするし、また彼らは貧しいために、贈物や借金を求めるのだが、決してそれを返済しよう
とはしない。

そして司祭たちが彼らの希望することをしなかったり、或いは出来なかったりすると、とたんに冷淡と成り、
動揺し、憤激し、司祭に対して当然払うべき考慮を払わず、自分たちの義務を果たさず、教会にも行かない。
領主が異教徒である場合には直ちに多くの非礼を成し、キリスト教徒を迫害し、棄教させようとする。

日本人はその領主によって強力な支配を受けているので、司祭は下の教区に於いて、或いは豊後教区に
於いてすら、幾度も腹立たしい思いを経験し、常に大きな迫害を受けた。

下の諸領主は、ポルトガルの船舶の税金から得る多額の利益を目的としており、その為同船が自国領に
入港することを希望した。そして各領主は司祭やキリスト教徒たちが居れば、自領の港に最大の利益が
もたらされるであろうと考え、異教徒であっても、自国の港に司祭たちが教会の建設やキリスト教を
布教する事を承認したのだ。

(ヴァリヤーノ『日本巡察記』)

イエズス会から見た九州の領主たちへの印象。
0372人間七七四年2019/09/06(金) 16:22:11.74ID:xfBoafGR
(前略。大鳥逸平事件の記事)さて京都に下知あり。大坂・堺その他の国々でかの一類(かぶき者)
を成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。

かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。

穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。

かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。

その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。

――『当代記』


当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。

例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。

「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。

――『烈公間話』
0373人間七七四年2019/09/07(土) 09:41:03.44ID:1yu1Nqpy
耶蘇会(イエズス会)宣教師たちは、その豪奢な生活のため他より憎悪されている。何故なら、
彼らが外出する時は、騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし、修道者のようではなく、在俗の
王侯のように暮らしているからである。また一万二千ヅーロあまりの年収が有る諸港と数多の土地を有し、
その司法権を掌握して、軍隊と艦隊を有し、それを以て彼らの欲する港や土地を征服する。

(文禄2年(1593)マニラにてフィリピン総督に原田喜右衛門が語った日本事情)

キリシタン追放令以前の長崎の様子を語ったとされる原田喜右衛門の証言
0374人間七七四年2019/09/07(土) 09:59:23.35ID:EZycz+jK
>>373
これ始めは西洋での習慣通りに粗末な格好で徒歩で通訳以外連れずにやってたんだよね
そしたら日本人は日本の習慣通りにしてないと全く話を聞いてくれないってんで、日本の坊主と同じようにやるようにしたらこうなった
0375人間七七四年2019/09/07(土) 11:53:26.34ID:6y8uFZHF
それにしても度が過ぎてる感じ
原田が話を盛ってるんじゃ
0376人間七七四年2019/09/07(土) 11:57:04.71ID:Hew4njoB
フランシスコ会「跣足(はだし)で布教しろよ」
0377人間七七四年2019/09/07(土) 12:11:45.47ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど
0378人間七七四年2019/09/07(土) 12:49:53.54ID:EzNjBb6u
>>374
日本の僧侶と言うより、ヨーロッパのカトリック司教領主のノリだな。
0379人間七七四年2019/09/07(土) 17:32:03.95ID:nlvOh1FH
比叡山の僧兵が数千人単位だろ?
別にカトリック僧侶が数百人連れててもおかしくない
0380人間七七四年2019/09/07(土) 18:42:47.30ID:luwCBCJw
>騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし

これは信者が自主的についてきてるってことでいいのかな?
それとも、扶持をやって被官化してるとかってあったのかな?
0381人間七七四年2019/09/08(日) 10:14:00.01ID:HTuo4zSr
僧兵寺侍なんじゃ
0382人間七七四年2019/09/10(火) 12:59:34.92ID:a/OvRRAA
コンパニヤのパードレ等を日本の諸大学に派遣することは、この国(日本)の俗人たちが、当国にも
学校および学者が有ると言って、その迷信を弁解するが故にその必要がある。そして大学に赴く
パードレ等は、諸宗派を駁撃し、坊主たちが俗人より金を引き出す為の手段が欺瞞であることを
説明し、世に公にしなくてはならないが故に、甚だしい迫害を受けるであろう。
坊主達は魂を地獄より救出すると称して生計を営んでいる。故にこれを成す能力が無いといえば、
少しも容赦しない。この事と、その他多くの事によって大いに迫害を受け、苦労が多い。

私はパードレ・メストレ・シマン、また彼が不在の時はコインブラのコレジョの院長宛に書簡を送り、
右の諸大学には尊師が引見して適当と認めた人の他は派遣しないよう要求した。彼等は思わぬ
迫害を受けるだろう。日中には時間を問わず、夜中に至るまでも訪問と質疑に責められ、また身分の
ある人に招かれて辞退することが出来ない事もある。祈祷、黙想、思索の余暇も、精神上休養の
時も無く、最初の間はミサを行うことすら叶わず、絶えず質問に答えるしか無く、祈祷を成し、
食事睡眠を取る時間すら欠乏することが有る。

彼等は甚だ無遠慮で、殊に外国人にはこれを軽蔑し常に嘲罵する。ただしそれは、我等が
この国の諸宗派の明白なる非行を攻撃し、地獄に行く者は救済の道無しと説くが故である。

また、我等は地獄より魂を救済する事が出来ない故に、何も知らないと言ってくる者がある。
彼等は煉獄の何たるかを知らず、彼等の質問に答えるには、学問が有り弁論に巧みであることが
必要であり、詭弁を弄する者に対しては直にその矛盾を指摘することを必要とする。坊主達は
矛盾を指摘された時、また答弁することが出来ない時は甚だしくこれを恥じる。

日本の主要大学である坂東(足利学校か)は遠く北方に有り、他の諸大学も同様である故に、
厳しい寒さに遭遇する。寒地に居住する者は才知が有り鋭敏である。ただし米の他に食うべき物は
無い。また小麦、各種の野菜、その他養分の少ないものが有る。米から酒を造るが、その他に
酒は無く、その量は少なく価格は高い。

最大の試練は不断にして明確たる死の危険である。当地は労苦が多い故に老人には適せず、また
甚だ若い者は非常に経験がないので用をなさないのみならず、却って己を滅ぼすであろう。

この国は罪悪を犯すのに適し、彼等の罪悪を責める我等に少しの過失が有ればこれを誹謗する。
この事についてはメストレ・シマン、また不在の時はコインブラの学長に宛てて詳細に通知した。
尊師が仮に、日本に派遣されるべき者は先ずローマに来るべしとコインブラに命じられれば、私は
非常に満足する。

考えるに、日本に派遣されるべき者はフランドル人、又はドイツ人で、イスパニア語あるいは
ポルトガル語に通じた者である。何故ならば彼等の肉体は労苦に耐え、また坂東の大寒を凌ぐことが
出来るからである。
イスパニア、及びイタリアのコレジョにはそのような人が多数有るはずで、彼等はイスパニアや
イタリアでは言語に熟達しないため説教を成すことが出来ないが、日本に於いては多くの収穫を得るだろう。

(1552年1月29日(天文二十一年一月四日)付、フランシスコ・ザビエル書簡)

ザビエルが山口での布教への反発とそれへの対応について記した記録である。
0383人間七七四年2019/09/10(火) 15:47:34.68ID:0AMoFP3l
中央日報日本語版 400年ぶりに復元される亀甲船、龍頭・鉄甲のようなものはない=韓国
https://japanese.joins.com/article/468/257468.html?servcode=400&;sectcode=400&cloc=jp|main|top_news

>海軍が壬辰倭乱当時投入された亀甲船の原形をそのまま復元することにして設計作業に着手した。鉄甲構造、龍頭などを特徴とする
>かつて再現した亀甲船が実際と違うという指摘が相次ぎ提起されるにつれ、今回最大限実物に近い姿を実現するという趣旨だ。

かつてはオーバーテクノロジーの超兵器扱いされたものが、ようやく厳密な考証にかけられる余裕が出てきたというお話。
良い傾向ですね。
それに過剰な民族意識の象徴とはいえ、きっちり予算が出て維持されるのは正直うらやましい。


日本でも城郭研究で有名な広島大の三浦教授が設計して安宅船を復元(大河ドラマ「毛利元就」に登場)したものの、
撮影終了後に引き取った自治体が持て余して、露天でボロボロになった上に廃材処分というのがありまして・・・
0384人間七七四年2019/09/11(水) 06:49:48.01ID:TzXx0pWO
>>383
維持とはいっても、記事中で木造船の寿命は15~20年で今回が3回目の建造とある
古いのは破棄する前提なんじゃないですか
愛国予算は無尽蔵に出るお国柄にしても、うらやましがるほど青い芝生でもないような
0385人間七七四年2019/09/11(水) 14:32:26.36ID:AOL9rq9D
そもそも安宅船ってそんな人気あるわけでもないだろうしね…信長の鉄甲船(真贋はさておき)でも危うい
0386人間七七四年2019/09/11(水) 16:54:00.18ID:wovCletZ
まあ、どうしても復元船舶はでかすぎて屋内展示できないのと、露天での木造の寿命がね

宮城県の伊達氏遣欧船サンファンバウティスタ号だって、地域のシンボルにして観光の目玉で
震災も乗りきって修復されても
そろそろ木造故の寿命が近づいて、しかも再建造できない見込みらしいし

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7
0387人間七七四年2019/09/11(水) 17:39:44.40ID:gQUFVVVN
長いですが大阿武船解体までの顛末です。

http://0845.boo.jp/times/archives/cat_cat37.shtml
せとうちタイムズ2002年09月28日号
人気漫画の映画化 少女剣士「あずみ」 決闘舞台に大阿武船ロケ

動かない銭食い船として不評をかもしていた村上水軍主力船を復元した「大阿武船(おおあたけぶね)」が、
映画「あずみ」の撮影ロケに使われることになり日の目を見ることになった。
大阿武船は外装が木造で全長25メートル、幅10メートル、100トン。1997年、日本宝くじ協会の助成金1億円をかけて
「全国に因島村上水軍をPRしよう」と内海造船田熊工場で建造した。1999年の瀬戸内しまなみ海道開通イベントには
土生港から大浜町相川ビーチまで海上パレードしてお披露目した。
もともと同船にはエンジンがなくこの時の曵き船によるえい航費用が約250万円。何かのイベントに利用するとすれば
200万円前後は必要となる。このため内海造船田熊工場内の船台に保管されたまま眠っていた。その保管料が年間300万円。
市は有効活用を模索してきたが妙案にめぐりあえず大浜町しまなみビーチの陸上展示を検討していた。
今回の映画製作会社からのロケ利用で日の目をみることになり「全国に因島村上水軍がPRできれば因島水軍まつりにも
はずみがつく」と無償貸与を決めた。

せとうちタイムズ2005年08月20日号
合併のお荷物 一億円の「大阿武船」因島市検討委初会合

中世の村上水軍のロマンを求め全国にPRしようと因島市が日本宝くじ協会から1億円の助成を受け復元した水軍旗艦船
「大阿武船(おおあたけふね)」が建造以来、
ほとんど活用されず内海造船田熊工場に保管されたまま野ざらしになって老朽化している。
このため市は17日、活用方法を探る検討委員会をたちあげて初会合を開き、委員長に宮地正助役を選び地元観光協会や
文化財協会などから6人の委員が出席、これまでの経過、説明を受けた。
現在、大阿武船は設計建造した造船所に年間保管委託金300万円を支払っているが自力で航行できない海洋建造物のため
水軍まつり協賛事業に活用するにも経費のねん出に問題がある。
大浜町のアメニティ公園に陸上展示する案は2〜300万円かかる。インターネットで引き取り先を公募したが「タダでもいらぬ」という結果が出た。
こうした経過などをもとに委員会で意見交換が行われたが、ユニバーサル造船因島事業所長、若野晃一委員から「船を他角度
からビデオ撮影。コンピューターグラフィック(CG)を加えれば歴史教材になる」と提案。同市中庄町の水軍城周辺に
陸揚げ展示案も出た。そのためには周辺整備を一体化しなければ効果がないなど、廃船よりも利活用する提案が出た。
このほか、老朽化防止や補修問題など専門的な意見が出た。同委は次回、内海造船田熊工場に保管されている船体の現地調査、
移転候補地など視察する予定。いずれにしても尾道市との合併をにらんで作業を進める。

せとうちタイムズ2006年06月17日号
大阿武船がついに解体

尾道市は12日から、因島村上水軍の主力船を復元した大阿武(おおあたけ)船の解体作業を開始した。今月中に終わる見込み。
建造費1億円のこの船も全国から4件の問い合わせがあったが、活用のめどがたたず、市も「文化財の価値はない」と判断した。
作業は内海造船田熊工場に陸揚げされて始まった。杉材は廃棄され、鉄製の骨組みは再利用される。総費用は約580万円。
0388人間七七四年2019/09/11(水) 17:45:51.99ID:gQUFVVVN
せとうちタイムズ2007年07月28日号
旧因島市建造の大阿武船の追想

梅雨があけ、参院選が終盤を迎えた25日夜。テレビのチャンネル転換が忙しかった。RCCの特別企画(4時間)の「ハリー・ポッター」、ホームTVの
サッカーAFC「日本×サウジアラビア」。NHK「その時歴史が動いた=アンコール・信長の巨大鉄船戦国の海を制す(戦国の軍艦)」。
戦国最強の村上水軍が織田信長の命令で建造した「鉄の船」との海戦で予期しない敗戦シーンが目に止まり、しばし釘付け。中世で最強を誇った
村上水軍も織田水軍に破れ、阿宅船が炎上する場面が、旧因島市建造の大阿武船の追想と重なった。
建造費1億円をかけたこの船の出番は2回だけだった。デビューはNHK大河ドラマ「毛利元就」の合戦のシーン。次は平成11年しまなみ海道全通記念事業として
大浜町のしまなみビーチで繰りひろげられた火まつりの水軍絵巻。以後は輸送に経費がかさむという理由から出番が無く無用の長物となり、
尾道市との合併を機に解体という運命になった。
ちなみに解体船は鉄製の船底上に木枠組みした言わば張り子だった。
0389人間七七四年2019/09/11(水) 19:18:39.42ID:HklVf1Z/
外観復元なだけじゃ「文化財の価値はない」だわな
0390人間七七四年2019/09/11(水) 21:36:06.71ID:XHdp+5sS
>>386
バブル最強の時に作った帆船か
そういえばハウステンボスのリーフデ号はしぶといな
あっちはオランダの造船所に作らせて海渡って来た本格派だから頑丈なのかな
0391人間七七四年2019/09/12(木) 14:53:32.25ID:/feMcuRk
もし船にエンジン付けて自分で動けたら
コンクリートの城と同じで世間に叩かれてたよな
0392人間七七四年2019/09/12(木) 18:42:26.73ID:ZFOj21EW
>>391
ハリボテの時点で文化財的価値は皆無なんだから、いっそエンジン載せて自走できる方がマシでは?
0393人間七七四年2019/09/12(木) 20:38:49.07ID:bOXWfMf+
>>391
現存の大阪城は何の歴史的価値も無いけど、市民の寄付が目標を越える勢いで集まったし、叩く人もいないんだし、町おこし的な目的で作るのならエンジン積んで自航できる方がいいと思う
0394人間七七四年2019/09/12(木) 21:07:41.77ID:IZ/mYKsE
大阪城はもう一週回って現在では「歴史的近代建築」という価値がついている。
0395人間七七四年2019/09/14(土) 15:18:57.23ID:IDvnMKBp
上州館林の榊原遠江守(康勝)は、加藤清正の婿であるゆえ、清正はある時見舞いに行き、そこから江戸へ
帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた

「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」

こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。

ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。

そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った

「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」

その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、

これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。

(續撰清正記)
0396人間七七四年2019/09/14(土) 16:42:55.97ID:V/euPfCo
香川氏といえば香川県の戦国大名で、信長の野望や太閤立志伝で三好氏や長宗我部氏のおまけとして知られていますね。
その名から香川県土着のイメージを持たれがちですが、実は相模国高座郡の香川荘出身の一族です。
現在の神奈川県茅ケ崎市にも香川の地名が残り、香川駅や香川小学校があります。

細川氏の家臣として讃岐国の守護代に任じられたのが始めですが、東讃の安富氏、西讃の香川氏と、西半分だけの守護代でした。
そういうわけで東讃の香川郡(現在の高松市周辺)とは関わってもいないという・・
0397人間七七四年2019/09/14(土) 18:40:05.10ID:BRDw7U9g
>>395
おうさまさん(´・ω・)カワイソス
0398人間七七四年2019/09/14(土) 19:17:07.08ID:cJHKzPeB
>>395
馬強すぎワロタw
0399人間七七四年2019/09/14(土) 19:37:28.46ID:GFzkYziS
>>396
こういうのは長井氏なんかもな

出羽国長井荘(山形県長井市)の大江姓長井氏

武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)の藤原姓長井氏

相模国長井郷(神奈川県横須賀市)の平姓長井氏

伊達氏に本拠地奪われた大江姓長井氏が武蔵国(八王子市)に移ったもんだから、武蔵国長井荘は
もともと大江姓の本拠地とか言われるようになってしまったし

江戸時代の旗本の系譜には、自分の家は平姓長井氏で武蔵国長井荘が故郷なんですよ、という家までw
0400人間七七四年2019/09/15(日) 09:03:46.71ID:xjNELu5t
>>395
馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか
0401人間七七四年2019/09/16(月) 00:22:30.66ID:5o8unsTp
藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編

一五二
必ず人を打ち果たさねばならぬ時は、一尺あまりのはみだし鍔の脇差で突くべきである。そして刃を上にして突くべきだ。鍔がない
場合は血糊で滑ることが有る。ただし柄は巻いてあるのが良い。必ず刃を下にしてはならない。動きの素早い者には押さえられる
ことが有る。斬るというのは場合による。必ず討ち果たす必要が有る時、突けば尽き損なうという事はないが、斬る時は切り損なう
ことが多い。
(大事の仕者の時は壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突くへし。刃を上にして突きかへるべし。鍔の無はのりにてすべる
事あり。但柄は巻たる可然。必刃を下へすべからず。はやき者はおさゆる事あり。必切ル事は折によるべし。大事の仕者は突につき
そこなひはなし。切には脇そこなひ多かるべし。)

一五三
刀の大小の柄は、皮より糸巻きのほうが良いという人がいる。皮は血糊がかかると滑るが、糸巻きは滑らないという。しかしどちらが
悪いとも言い難い。とにかく、柄はどちらであっても古くあかじみているものでは血がかかると滑るであろう。昔は皮の柄ばかりであったが、
それで数度の用にたった。である以上皮の柄が滑ると決まったものではない。
(大小の柄皮より糸巻よきという人あり。皮はのりかかりすへるという。糸巻はすべらずといふ。何れ悪敷といひがたし。兎角柄は
いずれにても古くあかしみたるは血かかりすべらんと思はるる也。昔は皮柄斗なれ共数度の用に立来る。然上は皮柄すべるとも
きはまるべからすとなり。)

一六八
鑓長刀で人を突く時は、そのまま突くと同時に、鑓であっても長刀であっても捨ててしまえば、突かれた者は倒れるものである。
そして倒れた時に石突を足で踏みつければ、起き上がることができなくなる。うかつに突いた鑓を持ったままで居ると、相手に
手繰り寄せられることが有る。鎌鑓や十文字鑓はまた格別である。
(鑓長刀にて人を突時は其侭突込と一度に鑓にても長刀にても捨候へは突れたる者倒るる物なり。倒れたる時石突を足にて
ふまへ候へは起き上り兼る物なり。うかと突込たる鑓長刀持て居れはたぐり寄事あり。鎌鑓、十文字は格別なり。)

一七一
もしやむを得ず家来を手打ちにする時は、一刀を打ち付けたならば、続けて二つも三つも打つべきである。一刀で様子を見ては
いけない。もし切れていない時は反撃され自分が怪我を負う事が多い。よく心得るべし。
(もし是無非無にて家来手打ちにするとも、一刀打付たらは二ツも三ツも続けて討へし。一刀にて不可見手廻る歟。不切時は
必手負数度多し。能可心得。)

一八〇
敵を組み伏せて首を落とす時は切ってはならない。刀であっても脇指であっても、切っ先を左手で押さえて、擦り落とすべきである。
早業によい。
(組伏て首落す時は切べからす。刀にても脇指にても切先を左の手に取りすり落すへし。早業に能なり。)
0402人間七七四年2019/09/16(月) 09:13:38.88ID:GLcy2izj
>>401
生々しくてすげーリアルだ、当事者だから当たり前だけど…
0403人間七七四年2019/09/16(月) 10:31:30.75ID:sTJYIEYO
剣道やってる人も竹刀の持つところが垢まみれだと滑るとかあるの?
0404人間七七四年2019/09/16(月) 11:52:17.33ID:C4HOaIOB
>>401
怖い
こんなのが200もあるのか
0405人間七七四年2019/09/16(月) 14:03:13.19ID:zAldsUz/
三尺手ぬぐいの便利な使い方も10以上あった気がする
0406人間七七四年2019/09/16(月) 16:04:14.18ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが
0407人間七七四年2019/09/17(火) 12:07:27.33ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長と加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)
0408人間七七四年2019/09/17(火) 15:16:00.10ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか?
0409人間七七四年2019/09/17(火) 21:49:56.45ID:c4UNbjk5
強姦せずに斬り捨てた加藤軍は畜生にも劣る
0410人間七七四年2019/09/17(火) 22:48:38.12ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ
0411人間七七四年2019/09/18(水) 12:32:10.52ID:MqXkTdA+
>>403
そうなる前に変えます
0412人間七七四年2019/09/19(木) 14:23:55.28ID:KfDzYQf0
我等の有する報告によれば、日本の国は土地が貧弱でありポルトガルよりも寒く、山多くして
雪もあるという。国民の知識は開け、道理を解す。
その食物は大根の葉の上に少しの大麦の粉をかけたものである。

この地には橄欖(オリーブ)油、牛酪(バター)、乾酪(チーズ)、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、また酢も無く、
サフラン、肉桂、胡椒も無いという。
また塩もなく、塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。
最後に、病人に薬として与える物もない。

このようであるにも拘らず、我が(イエズス)会員13,4人は主の御恵により喜んで同地に赴くのだ。
彼等の困難は更に大きいが、狼の口より彼の国の霊魂を救うため、喜んで尽力するだろう。
愛する兄弟たちよ、汝等の希望を実行すべき時は既に来た。我等の主キリストはこれらの霊魂のために
多くの事を成し給える。故に彼等を助けることを恐怖のために中止すること無く、来たりて創造主を
知らざるこの人達のために尽力せよ。

この国はキリストの騎士のために準備されたるが故に、来たりて十字架を抱け。この国より永遠の
天国に召されるべきが故に、来たりて諸星および諸国を見よ。

 1554年4月24日 コーチンより

(1554年4月24日(天文二十三年三月二三日)付、パードレ・ガスパル・ピレラ書簡)

塩はさすがにあるだろ。
0413人間七七四年2019/09/19(木) 15:30:44.58ID:nRy2KSWH
伴天連に食わせる塩はねえ
0414人間七七四年2019/09/19(木) 18:53:22.06ID:g9685+pm
とりあえず大げさに報告する営業日報
0415人間七七四年2019/09/19(木) 19:25:43.04ID:vERIOLSj
塩は岩塩のことじゃないかな?
0416人間七七四年2019/09/19(木) 19:26:47.54ID:aUt9NW6c
塩は無いが死は満ち満ちていたさ
0417人間七七四年2019/09/19(木) 20:22:41.03ID:Nz58l5e9
しょ、醤油はあったし・・・。
0418人間七七四年2019/09/19(木) 20:29:36.94ID:/u1TXQSZ
味噌はあったろ!
0419人間七七四年2019/09/19(木) 20:58:08.75ID:vRWDmWnV
コーチンて何
0420人間七七四年2019/09/19(木) 21:07:18.05ID:Nz58l5e9
>>419
インド南部の都市・コーチじゃね?
wikipediaでみたらポルトガルが占領してたみたいだし
0421人間七七四年2019/09/19(木) 21:25:25.65ID:huLnoxn/
>>418
????「クソガァああああああああああ!!!」
0422人間七七四年2019/09/19(木) 21:48:41.93ID:mLsM5rPb
結局言いたいのは「オレってすごい」だし
0423人間七七四年2019/09/20(金) 08:13:03.27ID:CBJNSAf3
>>418
>>412
塩味を作るのに大麦の糠を用いるという。

コレが味噌のことかな?なお焼き味噌ではない
0424人間七七四年2019/09/20(金) 15:28:20.75ID:qpWchHR6
糠味噌じゃね糠味噌やぬか漬けを何か誤解してたとか
0425人間七七四年2019/09/20(金) 16:11:05.87ID:Qy3rYT1n
九州山口は麦味噌多いからそのせいかも?
0426人間七七四年2019/09/21(土) 11:00:09.19ID:MY/3Tvpu
我がパードレ・メストレ・フランシスコ(ザビエル)は日本より当ゴアに来たりしが、1552年4月17日、
一船に乗りてシナ国へと赴いた。同船にはゴア総督がシナ国王のもとに派遣した大使(ジョゴ・ペレイラ)も
乗り込み、総督はパードレの事を王に依頼させようとしていたのだが、当市より600レグワのマラッカに
到着すると、パードレの旅行は障碍を生じた。すなわち船主にして船長である大使(パードレが使節の
庇陰にて希望の国に入ることを期待し、デウスの次に最も信頼する人である)が、マラッカに滞在することが
必要となったのだ。

パードレは同船において、水夫の他に彼とともに在るのはキリストの愛とキリストのために多くの労苦を
学ばんとする熱心な信者のみであり、パードレ、イルマン、その他現世の必要について彼を助けられる者は
一人も同伴しなかった。

船は広東の市に近いシナの一港(上川)に着いたが、その入国には様々に故障があった。シナにおいては
外国人の入国しようとする者、並びにこれを入国させようとする者に対して重罰が有った。何人もあえて
外国人を入国させようとはしないため、数日間ここに滞在した。パードレはその希望を実現する時をここで
待つことに決し、同港において、異教徒である一商人と交渉し、「自分を広東の市に連れていけば、同国に
おいて甚だ高価である胡椒を大量に与える。」との契約を成し、商人は数日後、再び来て彼を同伴する
予定にて去ったが、我等の主には別に定められた所があり、パードレは熱病に罹り数日中に死したり。

(1554年12月23日(天文二十三年11月29日)付、パードレ・アイレス・ブランダン書簡)

フランシスコ・ザビエルの最期についての報告。
0427人間七七四年2019/09/22(日) 12:07:09.05ID:kiPUL+9X
当地方(日本)にて悪魔は多くの形で崇拝される。特に牛、兎、鹿などの獣類として拝まれ、
牛を殺せば死刑に処する地方も有る。

悪魔が崇拝を受ける方法は、人間に憑き、「誰なるか」と尋ねる者があれば「牛の長なり(牛頭天王か)」
と言い、もし去らんことを願う時は、これを祀るべき堂を建てる約束を成すまで去らずと答え、その約束を
成せば去る。よって堂を造り獣類の像を安置してこれを拝む。もし約束を守らなかった時は、種々の方法で
彼等を苦しめる。

また鹿の形にて崇拝を受ける事がある。鹿の島(鹿島か)と称する島があり、同所にてこれを拝む。
そしてこれを信仰させるため、鹿を殺す者が有れば病みて様態甚だ悪しきに至らしめる。
よってこれを信じ、鹿の形にて崇拝する。

また兎の形において崇拝を受けることも有る。このためその所有する島においては、”ウサギ”すなわち
兎の名を唱えれば”os que nomeao Vcangui”皆咽喉腫脹する。

悪魔がこのような事を成すのは、人間を我等が主デウスの真の信仰より引離し、無限にして汚すべからざる
デウスの栄光を、人間、鳥獣および蛇の朽つるべき像に変じ、創造主よりも作られたる物を拝ましめる
ためである。

(1557年10月28日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラ書簡)
0428人間七七四年2019/09/22(日) 13:20:26.40ID:kweAEpuk
安芸の厳島とは違うのかね?鹿が崇拝と言うか、神の使い扱いされる島って。
0429人間七七四年2019/09/22(日) 19:52:27.38ID:ZXFp1JlY
志賀島でしょ。
神功皇后が鹿の角を奉納した志賀海神社がある。
0430人間七七四年2019/09/22(日) 21:04:02.67ID:+ZdypB0P
志賀島に鹿は居ないらしいし、鹿が由来で志賀島と言うわけでは無いらしい(近の島が訛ったとか)けどな

奉納されたのも神功皇后が対馬で鹿狩りした角と言うし、書簡に書かれた話とは相反する希ガス
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