戦国ちょっと悪い話47
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0001人間七七四年
2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn前スレ
戦国ちょっと悪い話46
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姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
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0303人間七七四年
2019/07/31(水) 18:03:12.30ID:HDK0hrXm0304人間七七四年
2019/08/03(土) 00:38:46.97ID:XZbNzS3vではその辺のニュアンスが異なるのかな。
そもそも、どちらが茶に造詣が深いか競う「闘茶」が起源だし、茶室での亭主と客の立場も
いわゆるホストとゲストじゃなくライバル同士の勝負、数寄振りを競う場みたいな感じだっ
たのかと思う。
0305人間七七四年
2019/08/03(土) 01:07:32.75ID:Huf6utXPここでも方々で彼を招いた茶会が有った。その時、拝殿右馬丞という春日若宮の禰宜が持つ茶入を
ご覧になりたいということで、私も相伴しての茶湯があった。
出雲殿はこの茶会を称賛され、「京より南には無い茶会であった。」と言われたので、私が
「当地においては、下手と言われます。」と答えると、「他はともかく、都にもまれな掃除の良さであった。」
と仰られた。
侘数寄は気遣いを専らとするが、侘びであっても出来るのは掃除である。
名人というものは相手によって褒めどころが有るのだと思ったものだ。
その右馬丞の茶入というのは、現在は尾張大納言様(徳川義直)の元にある小肩衝の事である。
(長闇堂記)
0307人間七七四年
2019/08/03(土) 09:48:37.36ID:1GDfPUqH0308人間七七四年
2019/08/05(月) 15:42:31.42ID:p5nsiM0X茶会の後、私が遠州殿に「あるべき式法通りの茶湯でした。」と申した所、遠州殿は
「有るべき式法の茶湯でしたが、それでは侘びの心がない。侘びは侘びの心を持たなくては
茶湯は出来ないものです。今日の仕方では引菜(食事の途中で出す料理)の重箱を取り入れず、
席中にそのまま置いておくべきでした。侘びにふさわしく菜の数が少なかったので、全部食べて
しまった後に、また取れるようにするためです。また酒は燗鍋で出し、湯は湯桶で出しましたが、
これも考え直して、燗鍋をよく洗って、湯を継いで出せばよかったでしょう。」と言われた。
侘びには万事その心がなければ出来るものではない。世の常の茶湯をして誇る人には、
こうした心持ちは腑に落ちないものであろう。
(長闇堂記)
0309人間七七四年
2019/08/05(月) 15:43:00.35ID:8z59+Ygy一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。
折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。
また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
いう。いずれが真なのであろうか。
結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。
永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。
――『以貴小伝』
0310人間七七四年
2019/08/06(火) 16:16:59.79ID:/b25XDa/細川家に於いても厚く尊崇され、供僧などを厳しく付け置き、時々に供膳、香華を備えていた。
この供僧なる出家、ある時膳を据えて亭坊(住職の居る坊)へ下ろうとしていた所、清正の像の覆いに、
鼠が損した所があるのを見つけた。かの僧が言葉に出さず、心にて
『清正は無双の剛勇にて異国までもその名が轟いた人であれば、鼠などが害をなすことはありえないだろう。』
そう思いながら下山し、暫く過ぎて膳具を取りしまわんとかの山に上った所、配膳のほとりに血が染み、
膳の上に大きな鼠が、五寸釘にて刺し貫かれていた。
これを見たかの僧は、ほとんど気絶しそうに成るほど驚き、ほうほうの体で下山したため、
その他の僧たちが上ってかの場所を清め膳を下げたのだと、これは肥後の者が語った所である。
(耳嚢)
0312人間七七四年
2019/08/07(水) 10:21:05.85ID:l4GegedD実はにゃんこがお供えしたのだけど話が膨らんで、とかではなかろうか
0313人間七七四年
2019/08/07(水) 10:26:54.75ID:7BkDKFqU0314人間七七四年
2019/08/07(水) 12:41:58.23ID:NfUoYjq1取り出し、その掛りの武具奉行らが取り扱って、御蔵より持ち運ばせたのは加番大名(大番の加勢)の
人足たちであった。
数多の鉄砲の内、群を抜いて重いものが有り、これの搬出にあたった者も甚だ持ち悩み
「多くの内、このように重いものはどんな人が持っていた鉄砲なのか。」などと不満を口ずさんだが、
よく見るとこの鉄砲には『南無妙法蓮華経』と象眼にて彫り入れてあった。これについて、詳しい者が
「これは加藤清正の持ち筒を納めたものだ。清正の武器には題目を多く書き記している。」と言った。
皆々はこれを聞いて「剛勇の清正所持の上は、そのように重いのも当然であろう。」と感称したが、
鉄砲を担いできた人夫は
「清正は異国までもその名を響かせた人であるが、人を殺すべき鉄砲に題目を書くなど不都合である!
殊にこの鉄砲を担いだおかげで大いに肩を痛めた。大馬鹿者だ!」
そう散々に清正を悪口していたが、俄に心身悩乱して倒れた。程なく起き上がると憤怒の勢いで叫んだ
「雑人の身分として我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!」
それまでの人夫の口上とは全く違い、その凄まじさは言葉にも出来ないほどであった。
周りに居た者たちは色々詫言して宥めたが、まったく承知しようとしない。仕方なく、その時の
加番が松平日向守(直紹)であったため、その小屋にこれを報告した所、日向守の家老が驚いて、
俄に裃などを着し、かの場所へ駆けつけた
「さてさて、不届き至極なる人足かな。事にもよって、故有る武器に対しての雑言、憤りの段尤もであり、
恐れ入り候へども、雑人の義であり、何分宥恕をあい願う。」旨、丁寧深切に述べた所、かの人足は
威儀を改め
「免しがたき者なれども、雑人の義、その主人の断りも丁寧なれば免しぬる。」
そう言うと倒れた。彼は2,3日は何が有ったかわけがわからず人心地も無かったと、左近将監が語った。
(耳嚢)
0315人間七七四年
2019/08/08(木) 01:18:17.75ID:Z1L+3mDBこともあったけれども、「この上で申し分は見苦しい」と申し分なく切腹した。これを時の
数寄者は感心したという。
身に誤りが真に無いのならば、申し分があっただろう。逆心がある故か、大坂城内へ内通の
罪だという。
――『烈公間話』
0316人間七七四年
2019/08/12(月) 18:41:01.21ID:noQSFKLS家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。
左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。
その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。
その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。
さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。
常々変わり者であった故という。
――『烈公間話』
「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 −何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」
0317人間七七四年
2019/08/13(火) 13:55:02.76ID:Pv9b1yua(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、
利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。
――『烈公間話』
0318人間七七四年
2019/08/13(火) 18:27:23.61ID:eJ1RsKwM最上義光の孫・家信の母は慈恩寺にいた? 寒河江市教委専門員の大宮さん、論文発表
2019年08月08日
https://www.yamagata-np.jp/news/201908/08/kj_2019080800149.php?keyword=%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
寒河江市教育委員会の歴史文化専門員大宮富善さん(65)=山形市清住町3丁目=が、初代山形藩主・最上義光(よしあき)の嫡孫で
3代目藩主家信(いえのぶ)の母親は、寒河江市の慈恩寺最上院にいた2代目家親(いえちか)の側室ではないかと推察する論文をまとめた。
家信の出自はこれまで不明で、最上家と慈恩寺の関係も新たな発見となり、大宮さんは「最上家と慈恩寺に関係があったとは」と驚いている。
今回の論文は「山形史学研究」の第47号に発表した。大宮さんは1990年に寒河江市職員となり、埋蔵文化財の調査や市史編さんを担当。
現在、県文化財保護協会の理事や県地域史研究協議会の常任理事を務め、地域史研究に深く関わっている。
3代目藩主家信は、最上家が没落する鍵となった人物。父である家親が亡くなった1617(元和3)年に10代の若さで後継ぎとなったが、
家臣の反発から、お家騒動に発展した。その結果、家信は幕府から全領没収され改易となった。
大宮さんは、家親が山形藩主となる前に寒河江領主であったことを糸口に、史料を丹念に調べ、家信は家親が寒河江領主時代の
1606(慶長11)年に生まれていることを突き止めた。さらに慈恩寺別当の系譜に、住職・37世幸光(1548〜80年)の脇書きとして
「前羽州太守最上源五郎義光娘」とあるのを見つけ、その人物の没年月日1617(元和3)年12月21日が、「最上源代々過去帳」にある
家信の実母の命日と同じであることを確認した。幸光は妻より先に亡くなっており、この妻が、夫の死後に家親の側室となり、家信が
生まれたのではないかと結論づけている。
慈恩寺は奈良時代の746(天平18)年に聖武天皇の勅命で開かれたとされ、1504(永正元)年、永正の兵乱で慈恩寺全体が焼け落ちた。
この際に再建された本堂は以前の姿には及ばず、1616(元和2)年に家親が再び建築に取り掛かり、2年後の18(同4)年、家信の時代に落成している。
また、慈恩寺三重塔再建は、家親が寒河江領主時代に始まっていることから、大宮さんは、慈恩寺最上院の側室との関係が建築を
進める上で後ろ盾となっていたと推測する。
最上家のお家騒動について大宮さんは「家信が(出自から)名門の武家でない血筋だったため、家臣の反発を招いたのかもしれない」と考え、
さらに「家信が改易にならなければ、慈恩寺は今以上に壮大な寺院になっていたかもしれない」との歴史ロマンにも思いを巡らせている。
◆最上家信 1606(慶長11)年生まれ。第3代山形藩主で、17(元和3)年に父の2代目藩主家親が急逝し、若くして藩主を継いだ。これが家臣の
反発を招く一方、家老は家親の死因は家臣による毒殺であると幕府に訴えるなど、「最上騒動」と呼ばれるお家騒動に発展。事態を重く見た幕府は、
家信を全領没収とし、近江(滋賀県)に改易とした。改易後は義俊と名乗った。通称は源五郎。没年は諸説あるが、20代半ばで亡くなったとされる。
0319人間七七四年
2019/08/14(水) 10:13:55.16ID:W0NEcpVc御所の跡は今は田畑と成り、堀の内村の傍らに法(報)本寺という寺が有り、かの堀越御所の
追福供養を、今以て毎年日時を決めて執り行っているそうだ。この法会を執り行わなければ
疫病などが流行するなどと、現地の土俗では申し習わしているという。
この堀越御所というのは足利将軍の支族である政知が初代であり、その子義通(足利義澄)は
将軍を相続したともいう。その子茶々丸は北条早雲に攻められ、堀の内村の紅花畑の内に隠れたが、
その畑の中から鶏が飛び出してきたのを北条の追手が疑い、茶々丸を探し出し遂に害された。
この事よりこの村においては鶏を飼わず、紅花も作らなく成ったのだとか。
ただし茶々丸は政知の子であるとも、義通の子であるともいう。茶々丸は代々の幼名であり、
その通りに名乗ったのか、又は次男であったのだろうか。
中古治乱記(中古日本治乱記)という書には、茶々丸は北条の勢に逐われて山の麓の寺にて
自害したとある。
(耳嚢)
0320人間七七四年
2019/08/14(水) 10:45:01.75ID:TJIU/2V8茶々丸って元服させてもらえなかったのかな?
0321人間七七四年
2019/08/14(水) 20:48:35.60ID:KO6P8Utc書状とかは幼名のままでだしてたのかな?
0322人間七七四年
2019/08/15(木) 00:16:37.96ID:ADdXVEMjこれを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。
しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て
「上方蜂起、さてさて恐悦です。」
と、殊の外喜ぶ様子で語った。
「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると
「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。
また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。
そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」
そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。
関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、
「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」
と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。
ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。
康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』
とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。
この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。
(耳嚢)
>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。
0323人間七七四年
2019/08/15(木) 16:33:34.16ID:Tdfto4zP一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。
明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。
――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』
佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
高山右近・池田勝入様(恒興)などである。
(中略。戦勝後)
秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。
瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。
一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、
「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
を出しなさるように申して参れ」
との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。
さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
よくよく御思案なされ」とまずは帰った。
夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
津国茨木に居住されたという。
――『烈公間話』
0324人間七七四年
2019/08/16(金) 16:29:02.21ID:R+/a7XHr御旗奉行となった。
ある時、牢人の某がやって来て申すには「このように御静謐の御代ならば、何も得るところ
なく病死仕ることだろう。天晴にも具足を肩に掛けて討死仕りたい」と、彦左が気に入って
「愛い奴」と言われようと思って申したのである。
彦左は曰く「まことに左様に存ずるのか」と申されて、某は「実に左様の心底」と申した。
その時に彦左は曰く、
「それが本当ならば日本一の不届き者なり!
何故かと言えば、この御静謐の御代に其の方などが具足を着るということは、まず乱国で
なければありえないことである! 代乱れるは一揆か逆心か、左様なことがあって其の方が
具足を着るような如何程の功名があろうとも、(その恩賞は)3百石か5百石である!
其の方は自分1人が5百石の立身を仕りたいがために天下の乱れを好んでいる! 公方様に
難しきことを願い申す心底、さてさて不届き千万なり! 左様に本当に存ずるならば只今腹
を切れ! 是非とも切れ!」
と白眼付けて(怒った目で睨み付けて)言われ、某はコソコソと逃尻仕ったのだという。
――『烈公間話』
0325人間七七四年
2019/08/17(土) 10:41:04.88ID:+dFIgXP4その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に
「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った
ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」
金森報員は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」
そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」
「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」
そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。
(耳嚢)
0326人間七七四年
2019/08/17(土) 16:26:55.11ID:a03B31HYさる人(原注:能勢小十郎(頼隆)である)は民部に尋ねて「真柄を討ちなさったとも申す
し、または真柄の子(隆基)であったとも申しますが、どうなのですか」と問うた。
青木は答えて「カスウ(糟斑か。馬の毛色)なる大男と競り合った後、片岸で大男が後ろへ
落ちて行くのを押し付けて取った。カスウの大兵なので、人の子とは申し難き者だった」と
申されたのだという。(原注:子か親かは分からないが、子とは言い難い者だったと申され
たのだということである)
真柄という者は隠れ無き大兵で功の者という。
――『烈公間話』
0327人間七七四年
2019/08/20(火) 15:12:23.45ID:p+fNZlzi輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。
御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。
以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。
――『烈公間話』
0328人間七七四年
2019/08/20(火) 20:47:37.86ID:1pbIn3oQ0329人間七七四年
2019/08/20(火) 22:38:50.73ID:5gUQ1Yuj0330人間七七四年
2019/08/21(水) 15:08:53.88ID:j7HsFu40の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。
秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。
これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。
ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、
「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」
と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、
「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」
と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。
――『烈公間話』
太閤能『北条』の時の話だったりして
0331人間七七四年
2019/08/21(水) 17:09:24.18ID:Xyh7xlrF>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」
まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw
0332人間七七四年
2019/08/21(水) 18:29:25.10ID:Nl8+tmX00333人間七七四年
2019/08/21(水) 18:35:44.12ID:267jfBR20334人間七七四年
2019/08/21(水) 18:36:44.27ID:267jfBR20336人間七七四年
2019/08/22(木) 00:41:05.20ID:aOfLDkKJ0338人間七七四年
2019/08/22(木) 11:06:46.39ID:vy5oxGoJ0340人間七七四年
2019/08/25(日) 19:00:51.02ID:eXuKpPk/周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。
(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事
0341人間七七四年
2019/08/26(月) 22:14:32.56ID:Dm7AYDWDまとめの5865の
「森家屋敷の怪女」と後半が被ってるけど書いとく。
森美作殿、屋敷の裏に小さき堀あり。
その堀の内より小さき児出づる事もあり。
又女のかづきを着たるが、あなたこなたと歩く事も有り。
ある時美作殿、近習の衆を集め夜ばなしをなされけるに、
座敷のまはりを、女、髪を下げ、二人連れにてあなたこなたを歩きける影、座敷の壁に映りて見えければ、
美作殿、不思議に思召し座敷の内を立て廻し、すみずみまで侍どもに探させ御覧なされ候へども、何物もなし。
ただ影ばかり、あなたこなたとするが、みな人の目に見えけるとなり。
それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。
0342人間七七四年
2019/08/27(火) 22:09:29.53ID:6GqkOQEB一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。
年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、
もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。
同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。
この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。
(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)
フロイスによる毛利についての記述
0343人間七七四年
2019/08/28(水) 14:30:41.50ID:9gs3r0Od付け、永井右近(原注:万千代直勝)が後から来たり、勝入の御首を取った。大勢が這い掛けたので、
右近は右手の人差し指を切られたという。
成瀬吉右衛門(原注:今の吉右の父である)が帯刀に尋ねて曰く、「勝入は貴方が槍を付けて永井に首
を取られたと承っていますが、左様なのですか」と。帯刀は曰く「敵の大将を討って首を人にやること
があるか。槍を付けると、後から真っ黒な者が取り掛かると覚えた。これが永井である(原注:永井は
黒母衣である)。勝入の首をすかさず永井が挙げたのだ」と、帯刀は申されたという。
その後、後から武者一騎が脇目もふらずに乗り来たり、あまりに急なのでひらき過ごして後ろから突き
落とした。これが紀伊殿(池田元助)である。その次にまた初めのように乗り来たる者がいて、これも
初めのようにやり過ごして突き落とした。これは秋田加兵衛である。
(原注:岡山にいた秋田という老女の伯父である。老女は延宝7年(1679)に90歳で死去した。
池田主水(由孝)の家来に秋田五郎四郎という加兵衛の筋の者が現在もいる。秋田加兵衛から五郎四郎
までは四代である)
私に曰く、安藤と永井は取り分けて間柄が良かったので、勝入の御首を譲ったという。また曰く、安藤
に神君(徳川家康)が仰せられるには、「井伊万千代(直政。原注:19歳)を何とぞ取り飼い申すよ
うに(何トソトリカヒ申様ニ)」と仰せであった。これによって勝入を槍付けて「万千代!万千代!」
と呼んだのだという。すると、永井万千代が隙間なく駆けて来たという。
安藤帯刀が紀伊殿と加兵衛を討ち申されたことは、加賀爪民部(忠澄)が光政様(池田光政)へ御物語
り申されたという(原注:民部は帯刀の婿である)。
――『烈公間話』
0344人間七七四年
2019/08/29(木) 16:48:58.29ID:idWAWTqsしかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。
御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。
駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。
古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。
――『烈公間話』
0345人間七七四年
2019/08/30(金) 00:17:27.23ID:+7LwoOAH0346人間七七四年
2019/08/30(金) 07:44:23.09ID:o37TWyNP0347人間七七四年
2019/08/30(金) 10:56:41.87ID:DJNW/LyU0348人間七七四年
2019/08/30(金) 11:10:23.81ID:E1FdUgeV鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた
「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)も色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」
鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。
もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。
この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」
そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った、
鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。
(耳嚢)
0349人間七七四年
2019/08/30(金) 11:12:40.31ID:J8zxYW+w新兵にはお決まりの症状だったんだろうな
0350人間七七四年
2019/08/30(金) 12:15:23.34ID:hFSa9L6j0351人間七七四年
2019/08/30(金) 15:12:04.98ID:o37TWyNP0352人間七七四年
2019/09/01(日) 15:49:58.23ID:QJScnLQhこの船の船頭は力量優れた者であり、一刀斎が木刀を携えているのを見て、
「御身は剣術を修行されているのか。剣術とは人に勝つ道理であるが、私の力には普く
剣術の達人であっても叶うとは思わない。手合わせ致さないか?」
そう言ってきた。一刀斎は彼の様子を見るに、たいへんに強剛であると見え、いかがしようかと
思ったが、「しかしながら剣術修行に出て、たとえ命が果てたとしても辞退するのは本意ではない」と、
互いに死を約束し陸に上がった。
船頭は櫂を片手に持って、拝み打ちに一刀斎を打ってきた。これを身を開いて外すと、力が余っているため
大地にこの櫂を打ち込み、引き抜こうとした所を一刀斎が木刀を以て櫂を打ち落とし両手を押さえた。
船頭は閉口して一刀斎の弟子となり、随身し諸国を巡った。彼は元来力量優れていたため、国々に於いて
立ち会いがあった時も、一刀斎は手を下さず、殆どはこの船頭が立ち会い、何れも閉口して、その中より
一刀斎の門弟と成ったものも多かったという。
しかしながら、彼は元来下賤の者であり、その上心様も真っ直ぐではなく、一刀斎に敗北したことを
無念に思っていたようで、立ち会いにては叶わないのならばと、夜陰に旅泊において一刀斎が眠るのを待ち
付け狙うこと数度に及んだが、一刀斎の身の用心に隙きがなかったため、空しく供をして江戸表へと
至った。
そのような中、将軍家より一刀斎を召されたが、彼は諸国酒盗の望みこれ有るのよしを以て御断り申し上げた。
このため門弟の内を御尋が有り、そこで一刀斎は小野次郎右衛門を推挙し、かれが将軍家に召し出されることと
決まった。
これにかの船頭は大いに恨み、「我は最初から一刀斎に随身し共に流儀を広めた功がある。にもかかわらず
この度将軍家のお召に、末弟の次郎右衛門を推挙したことは心外である!もやは生きても益なし。
次郎右衛門と真剣の試合を以て生死を定めたい。」
この望みを申すと、一刀斎は答えた
「その方は最初より随身の者であるが、これまで度々私を付け狙ったこと、覚えがあるであろう。
今まで生かして置いていたのも甚だの恩徳である。しかしながら次郎右衛門と生死を争う事、
望みに任せよう。」
そう言って次郎右衛門を呼び委細の訳を申し談じ、勝負いたすべき旨を申し渡し、その上で次郎右衛門に
伝授の太刀を免した。
そして立ち会いの上、次郎右衛門の一刀の元に、かの船頭は露と消えた。
さて、その後次郎右衛門は召し出され、なお又牢内に罪有る剣術者を選ばれ立ち会いを仰せ付けられた。
この時も次郎右衛門は妙術を顕し、よって千石にて召し抱えられた。
(耳嚢)
0353人間七七四年
2019/09/01(日) 20:56:01.50ID:J7AQ/r7P裏を割るのが古の一例である。これを“足ノウラヲカク”という。
――『志士清談』
0354人間七七四年
2019/09/01(日) 21:26:25.56ID:hPEwf+FO0355人間七七四年
2019/09/01(日) 23:31:20.36ID:Mb3OXDLx0356人間七七四年
2019/09/02(月) 01:28:04.05ID:yY+jfsub吉川英治の「剣の四君子 小野忠明」だと、弟子はこの船頭と改名前の神子上典膳の2人だけだったけど、史実だともっと多かったのか
0357人間七七四年
2019/09/02(月) 04:15:55.93ID:O3cztPnV0358人間七七四年
2019/09/02(月) 12:15:54.84ID:5fsxEytf0359人間七七四年
2019/09/02(月) 21:46:52.97ID:GItnMJTMhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25
滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明が豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。
0360人間七七四年
2019/09/02(月) 21:47:11.02ID:GItnMJTM甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html
この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。
0361人間七七四年
2019/09/02(月) 21:51:44.42ID:GItnMJTMこういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw
とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって
0362人間七七四年
2019/09/02(月) 22:16:11.79ID:Fkp1/lw10363人間七七四年
2019/09/03(火) 10:10:39.63ID:6rZ+ESk20364人間七七四年
2019/09/03(火) 11:00:09.55ID:xR9TLq28貰ってもいろいろ困るだろうに。
0365人間七七四年
2019/09/03(火) 16:07:29.71ID:gS8n8Noc雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。
秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。
その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。
(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)
――『烈公間話』
0367人間七七四年
2019/09/03(火) 17:23:42.33ID:LdMBi2cl紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple¢ury=
この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?
それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。
0368人間七七四年
2019/09/03(火) 20:11:00.78ID:OUs1SCTH0369人間七七四年
2019/09/03(火) 20:50:01.06ID:i7NzSYU+リーチ足らないなら槍というものがあるし
0370人間七七四年
2019/09/03(火) 23:11:30.61ID:612t7r840371人間七七四年
2019/09/06(金) 14:12:56.16ID:p5lmBOCz収める利益に着眼している。したがって領主たちは、たとえキリスト教徒であっても、常にその脳裏には、
司祭たちが自分の希望する場所にポルトガル船を入港させる事ができるし、その船の積み荷の中の相当量は
彼ら司祭たちの物である、という考えから離れないでいる。それ故領主たちは常に自領の港にポルトガル船を
入港させようとするし、また彼らは貧しいために、贈物や借金を求めるのだが、決してそれを返済しよう
とはしない。
そして司祭たちが彼らの希望することをしなかったり、或いは出来なかったりすると、とたんに冷淡と成り、
動揺し、憤激し、司祭に対して当然払うべき考慮を払わず、自分たちの義務を果たさず、教会にも行かない。
領主が異教徒である場合には直ちに多くの非礼を成し、キリスト教徒を迫害し、棄教させようとする。
日本人はその領主によって強力な支配を受けているので、司祭は下の教区に於いて、或いは豊後教区に
於いてすら、幾度も腹立たしい思いを経験し、常に大きな迫害を受けた。
下の諸領主は、ポルトガルの船舶の税金から得る多額の利益を目的としており、その為同船が自国領に
入港することを希望した。そして各領主は司祭やキリスト教徒たちが居れば、自領の港に最大の利益が
もたらされるであろうと考え、異教徒であっても、自国の港に司祭たちが教会の建設やキリスト教を
布教する事を承認したのだ。
(ヴァリヤーノ『日本巡察記』)
イエズス会から見た九州の領主たちへの印象。
0372人間七七四年
2019/09/06(金) 16:22:11.74ID:xfBoafGRを成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。
かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。
穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。
かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。
その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。
――『当代記』
当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。
例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。
「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。
――『烈公間話』
0373人間七七四年
2019/09/07(土) 09:41:03.44ID:1yu1Nqpy彼らが外出する時は、騎馬・徒歩の二百人あまりの同勢を以てし、修道者のようではなく、在俗の
王侯のように暮らしているからである。また一万二千ヅーロあまりの年収が有る諸港と数多の土地を有し、
その司法権を掌握して、軍隊と艦隊を有し、それを以て彼らの欲する港や土地を征服する。
(文禄2年(1593)マニラにてフィリピン総督に原田喜右衛門が語った日本事情)
キリシタン追放令以前の長崎の様子を語ったとされる原田喜右衛門の証言
0374人間七七四年
2019/09/07(土) 09:59:23.35ID:EZycz+jKこれ始めは西洋での習慣通りに粗末な格好で徒歩で通訳以外連れずにやってたんだよね
そしたら日本人は日本の習慣通りにしてないと全く話を聞いてくれないってんで、日本の坊主と同じようにやるようにしたらこうなった
0375人間七七四年
2019/09/07(土) 11:53:26.34ID:6y8uFZHF原田が話を盛ってるんじゃ
0376人間七七四年
2019/09/07(土) 11:57:04.71ID:Hew4njoB0377人間七七四年
2019/09/07(土) 12:11:45.47ID:Sq1cwAIvwikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど
0379人間七七四年
2019/09/07(土) 17:32:03.95ID:nlvOh1FH別にカトリック僧侶が数百人連れててもおかしくない
0380人間七七四年
2019/09/07(土) 18:42:47.30ID:luwCBCJwこれは信者が自主的についてきてるってことでいいのかな?
それとも、扶持をやって被官化してるとかってあったのかな?
0381人間七七四年
2019/09/08(日) 10:14:00.01ID:HTuo4zSr0382人間七七四年
2019/09/10(火) 12:59:34.92ID:a/OvRRAA学校および学者が有ると言って、その迷信を弁解するが故にその必要がある。そして大学に赴く
パードレ等は、諸宗派を駁撃し、坊主たちが俗人より金を引き出す為の手段が欺瞞であることを
説明し、世に公にしなくてはならないが故に、甚だしい迫害を受けるであろう。
坊主達は魂を地獄より救出すると称して生計を営んでいる。故にこれを成す能力が無いといえば、
少しも容赦しない。この事と、その他多くの事によって大いに迫害を受け、苦労が多い。
私はパードレ・メストレ・シマン、また彼が不在の時はコインブラのコレジョの院長宛に書簡を送り、
右の諸大学には尊師が引見して適当と認めた人の他は派遣しないよう要求した。彼等は思わぬ
迫害を受けるだろう。日中には時間を問わず、夜中に至るまでも訪問と質疑に責められ、また身分の
ある人に招かれて辞退することが出来ない事もある。祈祷、黙想、思索の余暇も、精神上休養の
時も無く、最初の間はミサを行うことすら叶わず、絶えず質問に答えるしか無く、祈祷を成し、
食事睡眠を取る時間すら欠乏することが有る。
彼等は甚だ無遠慮で、殊に外国人にはこれを軽蔑し常に嘲罵する。ただしそれは、我等が
この国の諸宗派の明白なる非行を攻撃し、地獄に行く者は救済の道無しと説くが故である。
また、我等は地獄より魂を救済する事が出来ない故に、何も知らないと言ってくる者がある。
彼等は煉獄の何たるかを知らず、彼等の質問に答えるには、学問が有り弁論に巧みであることが
必要であり、詭弁を弄する者に対しては直にその矛盾を指摘することを必要とする。坊主達は
矛盾を指摘された時、また答弁することが出来ない時は甚だしくこれを恥じる。
日本の主要大学である坂東(足利学校か)は遠く北方に有り、他の諸大学も同様である故に、
厳しい寒さに遭遇する。寒地に居住する者は才知が有り鋭敏である。ただし米の他に食うべき物は
無い。また小麦、各種の野菜、その他養分の少ないものが有る。米から酒を造るが、その他に
酒は無く、その量は少なく価格は高い。
最大の試練は不断にして明確たる死の危険である。当地は労苦が多い故に老人には適せず、また
甚だ若い者は非常に経験がないので用をなさないのみならず、却って己を滅ぼすであろう。
この国は罪悪を犯すのに適し、彼等の罪悪を責める我等に少しの過失が有ればこれを誹謗する。
この事についてはメストレ・シマン、また不在の時はコインブラの学長に宛てて詳細に通知した。
尊師が仮に、日本に派遣されるべき者は先ずローマに来るべしとコインブラに命じられれば、私は
非常に満足する。
考えるに、日本に派遣されるべき者はフランドル人、又はドイツ人で、イスパニア語あるいは
ポルトガル語に通じた者である。何故ならば彼等の肉体は労苦に耐え、また坂東の大寒を凌ぐことが
出来るからである。
イスパニア、及びイタリアのコレジョにはそのような人が多数有るはずで、彼等はイスパニアや
イタリアでは言語に熟達しないため説教を成すことが出来ないが、日本に於いては多くの収穫を得るだろう。
(1552年1月29日(天文二十一年一月四日)付、フランシスコ・ザビエル書簡)
ザビエルが山口での布教への反発とそれへの対応について記した記録である。
0383人間七七四年
2019/09/10(火) 15:47:34.68ID:0AMoFP3lhttps://japanese.joins.com/article/468/257468.html?servcode=400&sectcode=400&cloc=jp|main|top_news
>海軍が壬辰倭乱当時投入された亀甲船の原形をそのまま復元することにして設計作業に着手した。鉄甲構造、龍頭などを特徴とする
>かつて再現した亀甲船が実際と違うという指摘が相次ぎ提起されるにつれ、今回最大限実物に近い姿を実現するという趣旨だ。
かつてはオーバーテクノロジーの超兵器扱いされたものが、ようやく厳密な考証にかけられる余裕が出てきたというお話。
良い傾向ですね。
それに過剰な民族意識の象徴とはいえ、きっちり予算が出て維持されるのは正直うらやましい。
日本でも城郭研究で有名な広島大の三浦教授が設計して安宅船を復元(大河ドラマ「毛利元就」に登場)したものの、
撮影終了後に引き取った自治体が持て余して、露天でボロボロになった上に廃材処分というのがありまして・・・
0384人間七七四年
2019/09/11(水) 06:49:48.01ID:TzXx0pWO維持とはいっても、記事中で木造船の寿命は15~20年で今回が3回目の建造とある
古いのは破棄する前提なんじゃないですか
愛国予算は無尽蔵に出るお国柄にしても、うらやましがるほど青い芝生でもないような
0385人間七七四年
2019/09/11(水) 14:32:26.36ID:AOL9rq9D0386人間七七四年
2019/09/11(水) 16:54:00.18ID:wovCletZ宮城県の伊達氏遣欧船サンファンバウティスタ号だって、地域のシンボルにして観光の目玉で
震災も乗りきって修復されても
そろそろ木造故の寿命が近づいて、しかも再建造できない見込みらしいし
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7
0387人間七七四年
2019/09/11(水) 17:39:44.40ID:gQUFVVVNhttp://0845.boo.jp/times/archives/cat_cat37.shtml
せとうちタイムズ2002年09月28日号
人気漫画の映画化 少女剣士「あずみ」 決闘舞台に大阿武船ロケ
動かない銭食い船として不評をかもしていた村上水軍主力船を復元した「大阿武船(おおあたけぶね)」が、
映画「あずみ」の撮影ロケに使われることになり日の目を見ることになった。
大阿武船は外装が木造で全長25メートル、幅10メートル、100トン。1997年、日本宝くじ協会の助成金1億円をかけて
「全国に因島村上水軍をPRしよう」と内海造船田熊工場で建造した。1999年の瀬戸内しまなみ海道開通イベントには
土生港から大浜町相川ビーチまで海上パレードしてお披露目した。
もともと同船にはエンジンがなくこの時の曵き船によるえい航費用が約250万円。何かのイベントに利用するとすれば
200万円前後は必要となる。このため内海造船田熊工場内の船台に保管されたまま眠っていた。その保管料が年間300万円。
市は有効活用を模索してきたが妙案にめぐりあえず大浜町しまなみビーチの陸上展示を検討していた。
今回の映画製作会社からのロケ利用で日の目をみることになり「全国に因島村上水軍がPRできれば因島水軍まつりにも
はずみがつく」と無償貸与を決めた。
せとうちタイムズ2005年08月20日号
合併のお荷物 一億円の「大阿武船」因島市検討委初会合
中世の村上水軍のロマンを求め全国にPRしようと因島市が日本宝くじ協会から1億円の助成を受け復元した水軍旗艦船
「大阿武船(おおあたけふね)」が建造以来、
ほとんど活用されず内海造船田熊工場に保管されたまま野ざらしになって老朽化している。
このため市は17日、活用方法を探る検討委員会をたちあげて初会合を開き、委員長に宮地正助役を選び地元観光協会や
文化財協会などから6人の委員が出席、これまでの経過、説明を受けた。
現在、大阿武船は設計建造した造船所に年間保管委託金300万円を支払っているが自力で航行できない海洋建造物のため
水軍まつり協賛事業に活用するにも経費のねん出に問題がある。
大浜町のアメニティ公園に陸上展示する案は2〜300万円かかる。インターネットで引き取り先を公募したが「タダでもいらぬ」という結果が出た。
こうした経過などをもとに委員会で意見交換が行われたが、ユニバーサル造船因島事業所長、若野晃一委員から「船を他角度
からビデオ撮影。コンピューターグラフィック(CG)を加えれば歴史教材になる」と提案。同市中庄町の水軍城周辺に
陸揚げ展示案も出た。そのためには周辺整備を一体化しなければ効果がないなど、廃船よりも利活用する提案が出た。
このほか、老朽化防止や補修問題など専門的な意見が出た。同委は次回、内海造船田熊工場に保管されている船体の現地調査、
移転候補地など視察する予定。いずれにしても尾道市との合併をにらんで作業を進める。
せとうちタイムズ2006年06月17日号
大阿武船がついに解体
尾道市は12日から、因島村上水軍の主力船を復元した大阿武(おおあたけ)船の解体作業を開始した。今月中に終わる見込み。
建造費1億円のこの船も全国から4件の問い合わせがあったが、活用のめどがたたず、市も「文化財の価値はない」と判断した。
作業は内海造船田熊工場に陸揚げされて始まった。杉材は廃棄され、鉄製の骨組みは再利用される。総費用は約580万円。
0388人間七七四年
2019/09/11(水) 17:45:51.99ID:gQUFVVVN旧因島市建造の大阿武船の追想
梅雨があけ、参院選が終盤を迎えた25日夜。テレビのチャンネル転換が忙しかった。RCCの特別企画(4時間)の「ハリー・ポッター」、ホームTVの
サッカーAFC「日本×サウジアラビア」。NHK「その時歴史が動いた=アンコール・信長の巨大鉄船戦国の海を制す(戦国の軍艦)」。
戦国最強の村上水軍が織田信長の命令で建造した「鉄の船」との海戦で予期しない敗戦シーンが目に止まり、しばし釘付け。中世で最強を誇った
村上水軍も織田水軍に破れ、阿宅船が炎上する場面が、旧因島市建造の大阿武船の追想と重なった。
建造費1億円をかけたこの船の出番は2回だけだった。デビューはNHK大河ドラマ「毛利元就」の合戦のシーン。次は平成11年しまなみ海道全通記念事業として
大浜町のしまなみビーチで繰りひろげられた火まつりの水軍絵巻。以後は輸送に経費がかさむという理由から出番が無く無用の長物となり、
尾道市との合併を機に解体という運命になった。
ちなみに解体船は鉄製の船底上に木枠組みした言わば張り子だった。
0389人間七七四年
2019/09/11(水) 19:18:39.42ID:HklVf1Z/0390人間七七四年
2019/09/11(水) 21:36:06.71ID:XHdp+5sSバブル最強の時に作った帆船か
そういえばハウステンボスのリーフデ号はしぶといな
あっちはオランダの造船所に作らせて海渡って来た本格派だから頑丈なのかな
0391人間七七四年
2019/09/12(木) 14:53:32.25ID:/feMcuRkコンクリートの城と同じで世間に叩かれてたよな
0393人間七七四年
2019/09/12(木) 20:38:49.07ID:bOXWfMf+現存の大阪城は何の歴史的価値も無いけど、市民の寄付が目標を越える勢いで集まったし、叩く人もいないんだし、町おこし的な目的で作るのならエンジン積んで自航できる方がいいと思う
0394人間七七四年
2019/09/12(木) 21:07:41.77ID:IZ/mYKsE0395人間七七四年
2019/09/14(土) 15:18:57.23ID:IDvnMKBp帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた
「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」
こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。
ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。
そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った
「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」
その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、
これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。
(續撰清正記)
0396人間七七四年
2019/09/14(土) 16:42:55.97ID:V/euPfCoその名から香川県土着のイメージを持たれがちですが、実は相模国高座郡の香川荘出身の一族です。
現在の神奈川県茅ケ崎市にも香川の地名が残り、香川駅や香川小学校があります。
細川氏の家臣として讃岐国の守護代に任じられたのが始めですが、東讃の安富氏、西讃の香川氏と、西半分だけの守護代でした。
そういうわけで東讃の香川郡(現在の高松市周辺)とは関わってもいないという・・
0399人間七七四年
2019/09/14(土) 19:37:28.46ID:GFzkYziSこういうのは長井氏なんかもな
出羽国長井荘(山形県長井市)の大江姓長井氏
武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)の藤原姓長井氏
相模国長井郷(神奈川県横須賀市)の平姓長井氏
伊達氏に本拠地奪われた大江姓長井氏が武蔵国(八王子市)に移ったもんだから、武蔵国長井荘は
もともと大江姓の本拠地とか言われるようになってしまったし
江戸時代の旗本の系譜には、自分の家は平姓長井氏で武蔵国長井荘が故郷なんですよ、という家までw
0400人間七七四年
2019/09/15(日) 09:03:46.71ID:xjNELu5t馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか
0401人間七七四年
2019/09/16(月) 00:22:30.66ID:5o8unsTp一五二
必ず人を打ち果たさねばならぬ時は、一尺あまりのはみだし鍔の脇差で突くべきである。そして刃を上にして突くべきだ。鍔がない
場合は血糊で滑ることが有る。ただし柄は巻いてあるのが良い。必ず刃を下にしてはならない。動きの素早い者には押さえられる
ことが有る。斬るというのは場合による。必ず討ち果たす必要が有る時、突けば尽き損なうという事はないが、斬る時は切り損なう
ことが多い。
(大事の仕者の時は壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突くへし。刃を上にして突きかへるべし。鍔の無はのりにてすべる
事あり。但柄は巻たる可然。必刃を下へすべからず。はやき者はおさゆる事あり。必切ル事は折によるべし。大事の仕者は突につき
そこなひはなし。切には脇そこなひ多かるべし。)
一五三
刀の大小の柄は、皮より糸巻きのほうが良いという人がいる。皮は血糊がかかると滑るが、糸巻きは滑らないという。しかしどちらが
悪いとも言い難い。とにかく、柄はどちらであっても古くあかじみているものでは血がかかると滑るであろう。昔は皮の柄ばかりであったが、
それで数度の用にたった。である以上皮の柄が滑ると決まったものではない。
(大小の柄皮より糸巻よきという人あり。皮はのりかかりすへるという。糸巻はすべらずといふ。何れ悪敷といひがたし。兎角柄は
いずれにても古くあかしみたるは血かかりすべらんと思はるる也。昔は皮柄斗なれ共数度の用に立来る。然上は皮柄すべるとも
きはまるべからすとなり。)
一六八
鑓長刀で人を突く時は、そのまま突くと同時に、鑓であっても長刀であっても捨ててしまえば、突かれた者は倒れるものである。
そして倒れた時に石突を足で踏みつければ、起き上がることができなくなる。うかつに突いた鑓を持ったままで居ると、相手に
手繰り寄せられることが有る。鎌鑓や十文字鑓はまた格別である。
(鑓長刀にて人を突時は其侭突込と一度に鑓にても長刀にても捨候へは突れたる者倒るる物なり。倒れたる時石突を足にて
ふまへ候へは起き上り兼る物なり。うかと突込たる鑓長刀持て居れはたぐり寄事あり。鎌鑓、十文字は格別なり。)
一七一
もしやむを得ず家来を手打ちにする時は、一刀を打ち付けたならば、続けて二つも三つも打つべきである。一刀で様子を見ては
いけない。もし切れていない時は反撃され自分が怪我を負う事が多い。よく心得るべし。
(もし是無非無にて家来手打ちにするとも、一刀打付たらは二ツも三ツも続けて討へし。一刀にて不可見手廻る歟。不切時は
必手負数度多し。能可心得。)
一八〇
敵を組み伏せて首を落とす時は切ってはならない。刀であっても脇指であっても、切っ先を左手で押さえて、擦り落とすべきである。
早業によい。
(組伏て首落す時は切べからす。刀にても脇指にても切先を左の手に取りすり落すへし。早業に能なり。)
0403人間七七四年
2019/09/16(月) 10:31:30.75ID:sTJYIEYO■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています