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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1533172633/

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戦国ちょっといい話46
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0252人間七七四年2019/07/12(金) 16:44:39.80ID:MSoPE4K2
当時の朝鮮からするとそれまで戦乱続きだった日本が統一された事の方が異常事態なんじゃね
しかもそれをやったのが下層出身者だという
そんでそいつが明を征服しようと企んでるとか
0253人間七七四年2019/07/12(金) 22:02:26.03ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛
0254人間七七四年2019/07/13(土) 00:45:39.47ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)
0255人間七七四年2019/07/13(土) 11:19:11.37ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ
0256人間七七四年2019/07/13(土) 11:25:34.48ID:YjWTGmPq
>>251
驚きです
100年はさすがに。
0257人間七七四年2019/07/13(土) 20:59:04.78ID:A8yxn3Gt
朝廷内は権力闘争の日々、朝廷外は貧困やら倭冦やらでぼろぼろだから日本にかまけてる余裕が無かったのか?
15世紀末だったか16世紀初頭の宗氏の内紛にちょっかい出したのが、秀吉前の日本に関わった最後なのかな?
博多商人とのやり取りで情報は入っていそうな気もするけどね
0258人間七七四年2019/07/13(土) 21:10:06.07ID:I9aZsBuw
15-17世紀の日朝貿易は偽使の歴史だし
朝鮮に日本が朝貢した体裁を整えればどうでもいい
0259人間七七四年2019/07/14(日) 00:52:23.62ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』
0260人間七七四年2019/07/14(日) 20:50:03.53ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』
0261人間七七四年2019/07/15(月) 09:44:55.09ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?
0262人間七七四年2019/07/16(火) 01:34:51.74ID:Y8qQMC2y
同戦記(『難波戦記』)に本多出雲殿(忠朝)戦死の事がある。

自分の手勢の者を先手に残らず掛からせ、自身も掛け出なさったという。横から撃たれた
鉄砲に当たり、馬から撃ち落とされたという。弾の跡は7つあったとかいうことである。
(玉ノ跡七ツト哉ラン有之由)

先の本多能登守殿(忠義。忠朝の兄・忠政の三男)が御物語りなされたとのことである。

――『烈公間話』
0263人間七七四年2019/07/16(火) 07:49:46.14ID:PycxYtRW
>>262
随分と鉄砲の精度が上がったんだな。
0264人間七七四年2019/07/16(火) 10:26:56.94ID:Df4sL/wN
散弾だろ
甲冑に当たると弾けるようになってる
0265人間七七四年2019/07/16(火) 14:56:32.28ID:gRFLGpaC
前日談の
家康から「お前の父親の忠勝は勇猛果敢だったのにお前ときたら」
と言われた話の方は特にコメントなしか
0266人間七七四年2019/07/16(火) 20:50:33.27ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
(阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
(若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0267人間七七四年2019/07/16(火) 22:08:15.99ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw
0268人間七七四年2019/07/16(火) 22:36:46.11ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け
0269人間七七四年2019/07/16(火) 23:52:24.77ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間
0270人間七七四年2019/07/17(水) 07:06:41.88ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに
0271人間七七四年2019/07/17(水) 08:23:52.41ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw
0272人間七七四年2019/07/17(水) 09:05:06.66ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?
0273人間七七四年2019/07/17(水) 15:27:54.93ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた
0274人間七七四年2019/07/17(水) 15:37:43.86ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね
0275人間七七四年2019/07/18(木) 00:06:20.50ID:2uZ2Ncs/
兼松又四郎正吉(信長に足半貰った人)−又八郎正成−又四郎正尾

又七郎の「七」はどこから来たのか
0276人間七七四年2019/07/18(木) 03:34:41.78ID:f+XvILOP
http://pbs.twimg.com/media/D_btkR9U8AAmi7M.jpg
0277人間七七四年2019/07/18(木) 08:37:42.59ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる
0278人間七七四年2019/07/18(木) 19:31:33.07ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0279人間七七四年2019/07/19(金) 00:03:31.80ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)
0280人間七七四年2019/07/19(金) 02:24:54.45ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw
0281人間七七四年2019/07/19(金) 11:41:02.99ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな
0282人間七七四年2019/07/19(金) 12:19:20.92ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ
0283人間七七四年2019/07/19(金) 12:42:58.45ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。
0284人間七七四年2019/07/19(金) 16:11:47.64ID:HeQN+1lg
>>279
前田玄以って二条城に信忠を置いて逃げた人だよね
晩年はしょうもない取り巻きばっかりになってたのかな
秀長が生きてればなー
0285人間七七四年2019/07/19(金) 16:31:48.85ID:NTdE1FW0
置いて逃げたんじゃなくて信忠の命令で退去したんだよ。
0286人間七七四年2019/07/19(金) 19:24:59.07ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0287人間七七四年2019/07/19(金) 19:26:05.05ID:tYeeSVef
前田玄以は相当デキる人だと思うが
0288人間七七四年2019/07/20(土) 09:20:47.85ID:nIqqXnjt
284がアホなだけ
0289人間七七四年2019/07/20(土) 10:00:46.41ID:xNepVVg0
貴重な長宗我部氏が・・・


仙台・泉区で乗用車電柱に衝突 女性2人死亡

http://www.tbc-sendai.co.jp/01news/fr.html?id=00005969

19日夜、仙台市内の県道で乗用車が道路脇の電柱に衝突し後部座席に乗っていた10代の女性2人が死亡しました。

現場は見通しの良い片側2車線の直線道路で、警察は乗用車を運転していた多賀城市町前2丁目の無職・長曽我部力容疑者(23)を
過失運転傷害の疑いで現行犯逮捕しました。
取調べに対し長曽我部容疑者は「わき見をしていた」と話しているということで警察が死亡した女性2人の身元と事故の詳しい原因を調べています。
0290人間七七四年2019/07/20(土) 15:50:11.33ID:RSfAlZUF
長曽我部容疑者「わき見をしていた」

馬か何かで踏み殺したのかと思ってしまう
0291人間七七四年2019/07/20(土) 17:51:58.27ID:xNepVVg0
長曽我部元親の3女阿古姫は大坂の陣の際に夫や盛親に従って幼い子たちを連れて大坂城に入ったが、夏の陣で落城に見舞われた
この時夫は戦死したが阿古姫親子は伊達政宗軍に捕らえられ、戦後そのまま伊達家家臣となった
阿古姫の次男が有名な柴田外記である
土佐のあたらしい国主の山内氏は長曽我部氏やその旧家臣を低く置く措置をとっていったため、先代の阿古姫たちを頼って
長曽我部一門やその家臣の一部が集まり一種のコミュニティーを作り仙台藩に仕えたという
江戸時代、多くの長曽我部一門は幕府に遠慮して苗字を変えていたが、多くが明治維新後に長曽我部などに戻したという
0292人間七七四年2019/07/21(日) 19:06:48.78ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
  仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
  を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。

  この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
  州の縁者たるによってこの如し。

  一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
  川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
  られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
  と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。

  森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
  内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
  れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
  り御改易。

  谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
  (忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
  半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。

一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
  常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
  と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
  御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。

――『村越道伴物語留書』
0293人間七七四年2019/07/21(日) 21:51:24.68ID:qLU8C8qo
>>291
龍馬とかが物語の開幕で郷士とかいじめられるあれか
0294人間七七四年2019/07/21(日) 21:56:07.62ID:tvy6NoWG
なお幕末の土佐藩執政吉田東洋も長宗我部侍の模様。

龍馬は長宗我部とは何の関係もない模様
0295人間七七四年2019/07/21(日) 22:37:47.16ID:QYh0WFsm
東洋は備後守重俊の子孫だよね
0296人間七七四年2019/07/24(水) 01:11:16.70ID:qdiUyKEx
ある時、正宗(伊達政宗)は御夜話に登城し御酒宴は長くなったところ、正宗が御見え
申さぬので(徳川家光は)「また外したか」と仰せになった。

しかし、御次の間に脇差があったので退出仕ってはいまいとのことで、所々を探したが
見え申さず、中の御門へ聞きに遣わした。すると、とっくに退出したとの趣を言上した
ので脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹だったので御笑い遊ばされたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』
0297人間七七四年2019/07/28(日) 11:58:49.11ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)
0298人間七七四年2019/07/28(日) 15:59:23.97ID:+FGMiur9
忠秋公(阿部忠秋)は御若年の時には御大酒をなされ、御心安き御客がいらっしゃった時は、
大島の伊達な御衣類に鮫鞘の大御脇差をなされた。

あるいは御謡の後には小歌をなされ、御風呂を振る舞いの時は御上がり場で御酒盛をなさり、
小姓衆まで裸で御給仕致した(御あかり場にて御酒盛小性衆迄[身果]にて御給仕いたし候)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

そんなお洒落さんを茶化したらキレるよなっていう>>266
0299人間七七四年2019/07/30(火) 03:54:51.62ID:m2Cmpsib
藪内宗把という人は名高い侘数奇で、かつ人を何とも思わない人物であった。
彼は隠居後、子の世話になっていたが、ある時侘数寄の友人が来た折、話の興が深くなった。
その友人が「用がなければ晩まで語らないか」と言うと、宗把も「それが良い」と答えた。

そこで友人は下僕を呼んで、自宅から夕食をここに持ってくるようにと命じた。
すると宗把に母屋の方から「夕食が出来ました」と伝えて来た。彼は「ここに持ってくるように」と
言い、食事が届くとまだ夕食の届かない友人を尻目に一人で飲み食いした。

この仕方はこの時代の風俗であり、珍しくない事であったようだ。しかし世の常の者は、客の夕食が
届くのを待ってから食べるものであるが、その礼儀もないというのは、宗把の心強く大胆な仕方であった。

すなわち、侘数奇は心強く大胆でなければ、道具をはじめ全てが不如意であるのだから、世に名高い人と
交われば、心劣りして肩身が狭く、自然と茶湯が嫌になるものである。だからこそ胸の覚悟が第一なのだ。

(長闇堂記)
0300人間七七四年2019/07/30(火) 18:53:26.82ID:yQhGIf45
利休といい山上宗二といいこの男といい
0301人間七七四年2019/07/30(火) 19:01:49.07ID:BdRJQ6Cs
傲岸不遜じゃないと茶人にはなれないのか?
0302人間七七四年2019/07/30(火) 20:08:14.03ID:lKAqgCGR
誰に批判されても我が道を行けとな
文化系の人っぽいよね
0303人間七七四年2019/07/31(水) 18:03:12.30ID:HDK0hrXm
道クソ
0304人間七七四年2019/08/03(土) 00:38:46.97ID:XZbNzS3v
現代茶道だと礼儀というか、もてなしというか、要は心配りが重視されるが、茶の湯の創成期
ではその辺のニュアンスが異なるのかな。
そもそも、どちらが茶に造詣が深いか競う「闘茶」が起源だし、茶室での亭主と客の立場も
いわゆるホストとゲストじゃなくライバル同士の勝負、数寄振りを競う場みたいな感じだっ
たのかと思う。
0305人間七七四年2019/08/03(土) 01:07:32.75ID:Huf6utXP
金森出雲殿(可重)が伏見から宇治へ行かれて方々の茶会に出席され。さらに当地奈良に来られ、
ここでも方々で彼を招いた茶会が有った。その時、拝殿右馬丞という春日若宮の禰宜が持つ茶入を
ご覧になりたいということで、私も相伴しての茶湯があった。

出雲殿はこの茶会を称賛され、「京より南には無い茶会であった。」と言われたので、私が
「当地においては、下手と言われます。」と答えると、「他はともかく、都にもまれな掃除の良さであった。」
と仰られた。

侘数寄は気遣いを専らとするが、侘びであっても出来るのは掃除である。
名人というものは相手によって褒めどころが有るのだと思ったものだ。

その右馬丞の茶入というのは、現在は尾張大納言様(徳川義直)の元にある小肩衝の事である。

(長闇堂記)
0306人間七七四年2019/08/03(土) 09:47:37.53ID:1GDfPUqH
>>304
あーそれなら納得できる
0307人間七七四年2019/08/03(土) 09:48:37.36ID:1GDfPUqH
そうでないと変人と言うか嫌なやつばかりになてしまう
0308人間七七四年2019/08/05(月) 15:42:31.42ID:p5nsiM0X
ある所に侘びの茶湯者が有り、小堀遠州殿のお供で私もその人の茶会に参った事が有った。
茶会の後、私が遠州殿に「あるべき式法通りの茶湯でした。」と申した所、遠州殿は

「有るべき式法の茶湯でしたが、それでは侘びの心がない。侘びは侘びの心を持たなくては
茶湯は出来ないものです。今日の仕方では引菜(食事の途中で出す料理)の重箱を取り入れず、
席中にそのまま置いておくべきでした。侘びにふさわしく菜の数が少なかったので、全部食べて
しまった後に、また取れるようにするためです。また酒は燗鍋で出し、湯は湯桶で出しましたが、
これも考え直して、燗鍋をよく洗って、湯を継いで出せばよかったでしょう。」と言われた。

侘びには万事その心がなければ出来るものではない。世の常の茶湯をして誇る人には、
こうした心持ちは腑に落ちないものであろう。

(長闇堂記)
0309人間七七四年2019/08/05(月) 15:43:00.35ID:8z59+Ygy
小督の局、名は於万の御方。永見志摩守小野吉英の娘で、第二の御子・結城殿(秀康)の御母上である。

 一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
 殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
 ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。

 折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
 縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
 ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
 2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
 このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。

 また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
 かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
 言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
 いう。いずれが真なのであろうか。

結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。

永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。

――『以貴小伝』
0310人間七七四年2019/08/06(火) 16:16:59.79ID:/b25XDa/
肥後の熊本には加藤清正の廟(発星山本妙寺)が有り、像もあるという。現在の領主である
細川家に於いても厚く尊崇され、供僧などを厳しく付け置き、時々に供膳、香華を備えていた。

この供僧なる出家、ある時膳を据えて亭坊(住職の居る坊)へ下ろうとしていた所、清正の像の覆いに、
鼠が損した所があるのを見つけた。かの僧が言葉に出さず、心にて
『清正は無双の剛勇にて異国までもその名が轟いた人であれば、鼠などが害をなすことはありえないだろう。』
そう思いながら下山し、暫く過ぎて膳具を取りしまわんとかの山に上った所、配膳のほとりに血が染み、
膳の上に大きな鼠が、五寸釘にて刺し貫かれていた。
これを見たかの僧は、ほとんど気絶しそうに成るほど驚き、ほうほうの体で下山したため、
その他の僧たちが上ってかの場所を清め膳を下げたのだと、これは肥後の者が語った所である。

(耳嚢)
0311人間七七四年2019/08/07(水) 08:33:28.32ID:p0Q8Ur8q
>>310
像の面倒まで俺にやらせんじゃねーよ!って怒ったんだろうかw
生きてる人がやることだよなぁ。
0312人間七七四年2019/08/07(水) 10:21:05.85ID:l4GegedD
色々怖くてそんなこと実際出来ない気がする
実はにゃんこがお供えしたのだけど話が膨らんで、とかではなかろうか
0313人間七七四年2019/08/07(水) 10:26:54.75ID:7BkDKFqU
仁王の敵ボスみたいなの想像した
0314人間七七四年2019/08/07(水) 12:41:58.23ID:NfUoYjq1
石川左近将監(忠房)が大番にて大阪城に在番していた時、毎夏の虫干しが有った。数々の武具、兵具などを
取り出し、その掛りの武具奉行らが取り扱って、御蔵より持ち運ばせたのは加番大名(大番の加勢)の
人足たちであった。

数多の鉄砲の内、群を抜いて重いものが有り、これの搬出にあたった者も甚だ持ち悩み
「多くの内、このように重いものはどんな人が持っていた鉄砲なのか。」などと不満を口ずさんだが、
よく見るとこの鉄砲には『南無妙法蓮華経』と象眼にて彫り入れてあった。これについて、詳しい者が

「これは加藤清正の持ち筒を納めたものだ。清正の武器には題目を多く書き記している。」と言った。
皆々はこれを聞いて「剛勇の清正所持の上は、そのように重いのも当然であろう。」と感称したが、
鉄砲を担いできた人夫は

「清正は異国までもその名を響かせた人であるが、人を殺すべき鉄砲に題目を書くなど不都合である!
殊にこの鉄砲を担いだおかげで大いに肩を痛めた。大馬鹿者だ!」

そう散々に清正を悪口していたが、俄に心身悩乱して倒れた。程なく起き上がると憤怒の勢いで叫んだ
「雑人の身分として我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!」
それまでの人夫の口上とは全く違い、その凄まじさは言葉にも出来ないほどであった。
周りに居た者たちは色々詫言して宥めたが、まったく承知しようとしない。仕方なく、その時の
加番が松平日向守(直紹)であったため、その小屋にこれを報告した所、日向守の家老が驚いて、
俄に裃などを着し、かの場所へ駆けつけた

「さてさて、不届き至極なる人足かな。事にもよって、故有る武器に対しての雑言、憤りの段尤もであり、
恐れ入り候へども、雑人の義であり、何分宥恕をあい願う。」旨、丁寧深切に述べた所、かの人足は
威儀を改め

「免しがたき者なれども、雑人の義、その主人の断りも丁寧なれば免しぬる。」
そう言うと倒れた。彼は2,3日は何が有ったかわけがわからず人心地も無かったと、左近将監が語った。

(耳嚢)
0315人間七七四年2019/08/08(木) 01:18:17.75ID:Z1L+3mDB
古田(織部)はまた家康公より逆心の御咎めがあった時に、申し分仕ったならば助かり申す
こともあったけれども、「この上で申し分は見苦しい」と申し分なく切腹した。これを時の
数寄者は感心したという。

身に誤りが真に無いのならば、申し分があっただろう。逆心がある故か、大坂城内へ内通の
罪だという。

――『烈公間話』
0316人間七七四年2019/08/12(月) 18:41:01.21ID:noQSFKLS
織田左門(頼長。有楽斎の次男)が秀頼(豊臣秀頼)から家康公へ御使に参った時、御当家(徳川
家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。

左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。

その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。

その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。

さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。

常々変わり者であった故という。

――『烈公間話』

「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 −何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」
0317人間七七四年2019/08/13(火) 13:55:02.76ID:Pv9b1yua
千利休は同子の道菴(道安)と古田織部について、細川三斎(忠興)が「貴老が五百八十年後
(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、

利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。

――『烈公間話』
0318人間七七四年2019/08/13(火) 18:27:23.61ID:eJ1RsKwM
山形新聞
最上義光の孫・家信の母は慈恩寺にいた? 寒河江市教委専門員の大宮さん、論文発表
2019年08月08日
https://www.yamagata-np.jp/news/201908/08/kj_2019080800149.php?keyword=%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89

寒河江市教育委員会の歴史文化専門員大宮富善さん(65)=山形市清住町3丁目=が、初代山形藩主・最上義光(よしあき)の嫡孫で
3代目藩主家信(いえのぶ)の母親は、寒河江市の慈恩寺最上院にいた2代目家親(いえちか)の側室ではないかと推察する論文をまとめた。
家信の出自はこれまで不明で、最上家と慈恩寺の関係も新たな発見となり、大宮さんは「最上家と慈恩寺に関係があったとは」と驚いている。

今回の論文は「山形史学研究」の第47号に発表した。大宮さんは1990年に寒河江市職員となり、埋蔵文化財の調査や市史編さんを担当。
現在、県文化財保護協会の理事や県地域史研究協議会の常任理事を務め、地域史研究に深く関わっている。

3代目藩主家信は、最上家が没落する鍵となった人物。父である家親が亡くなった1617(元和3)年に10代の若さで後継ぎとなったが、
家臣の反発から、お家騒動に発展した。その結果、家信は幕府から全領没収され改易となった。

大宮さんは、家親が山形藩主となる前に寒河江領主であったことを糸口に、史料を丹念に調べ、家信は家親が寒河江領主時代の
1606(慶長11)年に生まれていることを突き止めた。さらに慈恩寺別当の系譜に、住職・37世幸光(1548〜80年)の脇書きとして
「前羽州太守最上源五郎義光娘」とあるのを見つけ、その人物の没年月日1617(元和3)年12月21日が、「最上源代々過去帳」にある
家信の実母の命日と同じであることを確認した。幸光は妻より先に亡くなっており、この妻が、夫の死後に家親の側室となり、家信が
生まれたのではないかと結論づけている。

慈恩寺は奈良時代の746(天平18)年に聖武天皇の勅命で開かれたとされ、1504(永正元)年、永正の兵乱で慈恩寺全体が焼け落ちた。
この際に再建された本堂は以前の姿には及ばず、1616(元和2)年に家親が再び建築に取り掛かり、2年後の18(同4)年、家信の時代に落成している。

また、慈恩寺三重塔再建は、家親が寒河江領主時代に始まっていることから、大宮さんは、慈恩寺最上院の側室との関係が建築を
進める上で後ろ盾となっていたと推測する。

最上家のお家騒動について大宮さんは「家信が(出自から)名門の武家でない血筋だったため、家臣の反発を招いたのかもしれない」と考え、
さらに「家信が改易にならなければ、慈恩寺は今以上に壮大な寺院になっていたかもしれない」との歴史ロマンにも思いを巡らせている。

◆最上家信 1606(慶長11)年生まれ。第3代山形藩主で、17(元和3)年に父の2代目藩主家親が急逝し、若くして藩主を継いだ。これが家臣の
反発を招く一方、家老は家親の死因は家臣による毒殺であると幕府に訴えるなど、「最上騒動」と呼ばれるお家騒動に発展。事態を重く見た幕府は、
家信を全領没収とし、近江(滋賀県)に改易とした。改易後は義俊と名乗った。通称は源五郎。没年は諸説あるが、20代半ばで亡くなったとされる。
0319人間七七四年2019/08/14(水) 10:13:55.16ID:W0NEcpVc
伊豆国下田から北に二里半ほど隔てて、堀の内村がある。ここが堀越御所の旧跡である。
御所の跡は今は田畑と成り、堀の内村の傍らに法(報)本寺という寺が有り、かの堀越御所の
追福供養を、今以て毎年日時を決めて執り行っているそうだ。この法会を執り行わなければ
疫病などが流行するなどと、現地の土俗では申し習わしているという。

この堀越御所というのは足利将軍の支族である政知が初代であり、その子義通(足利義澄)は
将軍を相続したともいう。その子茶々丸は北条早雲に攻められ、堀の内村の紅花畑の内に隠れたが、
その畑の中から鶏が飛び出してきたのを北条の追手が疑い、茶々丸を探し出し遂に害された。
この事よりこの村においては鶏を飼わず、紅花も作らなく成ったのだとか。

ただし茶々丸は政知の子であるとも、義通の子であるともいう。茶々丸は代々の幼名であり、
その通りに名乗ったのか、又は次男であったのだろうか。
中古治乱記(中古日本治乱記)という書には、茶々丸は北条の勢に逐われて山の麓の寺にて
自害したとある。

(耳嚢)
0320人間七七四年2019/08/14(水) 10:45:01.75ID:TJIU/2V8
この名を見るといつも思うんだが
茶々丸って元服させてもらえなかったのかな?
0321人間七七四年2019/08/14(水) 20:48:35.60ID:KO6P8Utc
烏帽子親を引き受けてくれるひとがいなさそう。

書状とかは幼名のままでだしてたのかな?
0322人間七七四年2019/08/15(木) 00:16:37.96ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。
0323人間七七四年2019/08/15(木) 16:33:34.16ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』
0324人間七七四年2019/08/16(金) 16:29:02.21ID:R+/a7XHr
大久保彦左衛門(忠教)は名誉の一徹者である。大坂御一戦の時は御槍奉行であるが、後に
御旗奉行となった。

ある時、牢人の某がやって来て申すには「このように御静謐の御代ならば、何も得るところ
なく病死仕ることだろう。天晴にも具足を肩に掛けて討死仕りたい」と、彦左が気に入って
「愛い奴」と言われようと思って申したのである。

彦左は曰く「まことに左様に存ずるのか」と申されて、某は「実に左様の心底」と申した。
その時に彦左は曰く、

「それが本当ならば日本一の不届き者なり!

何故かと言えば、この御静謐の御代に其の方などが具足を着るということは、まず乱国で
なければありえないことである! 代乱れるは一揆か逆心か、左様なことがあって其の方が
具足を着るような如何程の功名があろうとも、(その恩賞は)3百石か5百石である!

其の方は自分1人が5百石の立身を仕りたいがために天下の乱れを好んでいる! 公方様に
難しきことを願い申す心底、さてさて不届き千万なり! 左様に本当に存ずるならば只今腹
を切れ! 是非とも切れ!」

と白眼付けて(怒った目で睨み付けて)言われ、某はコソコソと逃尻仕ったのだという。

――『烈公間話』
0325人間七七四年2019/08/17(土) 10:41:04.88ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森報員は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)
0326人間七七四年2019/08/17(土) 16:26:55.11ID:a03B31HY
姉川合戦の時、家康公に従い奉った青木民部(一重)は真柄(直隆)という兵の首を取った。

さる人(原注:能勢小十郎(頼隆)である)は民部に尋ねて「真柄を討ちなさったとも申す
し、または真柄の子(隆基)であったとも申しますが、どうなのですか」と問うた。

青木は答えて「カスウ(糟斑か。馬の毛色)なる大男と競り合った後、片岸で大男が後ろへ
落ちて行くのを押し付けて取った。カスウの大兵なので、人の子とは申し難き者だった」と
申されたのだという。(原注:子か親かは分からないが、子とは言い難い者だったと申され
たのだということである)

真柄という者は隠れ無き大兵で功の者という。

――『烈公間話』
0327人間七七四年2019/08/20(火) 15:12:23.45ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』
0328人間七七四年2019/08/20(火) 20:47:37.86ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか
0329人間七七四年2019/08/20(火) 22:38:50.73ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき
0330人間七七四年2019/08/21(水) 15:08:53.88ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして
0331人間七七四年2019/08/21(水) 17:09:24.18ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw
0332人間七七四年2019/08/21(水) 18:29:25.10ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か
0333人間七七四年2019/08/21(水) 18:35:44.12ID:267jfBR2
この優木かな容赦ない
0334人間七七四年2019/08/21(水) 18:36:44.27ID:267jfBR2
すまん誤爆
0335人間七七四年2019/08/21(水) 19:18:26.99ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw
0336人間七七四年2019/08/22(木) 00:41:05.20ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね
0337人間七七四年2019/08/22(木) 09:07:29.18ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw
0338人間七七四年2019/08/22(木) 11:06:46.39ID:vy5oxGoJ
秀吉・家康『何言ってんだこいつ頭大丈夫か!?』
0339人間七七四年2019/08/22(木) 13:23:11.06ID:XoziOVmd
>>338の頭は大丈夫なのか?
0340人間七七四年2019/08/25(日) 19:00:51.02ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事
0341人間七七四年2019/08/26(月) 22:14:32.56ID:Dm7AYDWD
「諸国百物語」「森の美作殿、屋敷の池に化け物すみし事」
まとめの5865の
「森家屋敷の怪女」と後半が被ってるけど書いとく。

森美作殿、屋敷の裏に小さき堀あり。
その堀の内より小さき児出づる事もあり。
又女のかづきを着たるが、あなたこなたと歩く事も有り。
ある時美作殿、近習の衆を集め夜ばなしをなされけるに、
座敷のまはりを、女、髪を下げ、二人連れにてあなたこなたを歩きける影、座敷の壁に映りて見えければ、
美作殿、不思議に思召し座敷の内を立て廻し、すみずみまで侍どもに探させ御覧なされ候へども、何物もなし。
ただ影ばかり、あなたこなたとするが、みな人の目に見えけるとなり。
それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。
0342人間七七四年2019/08/27(火) 22:09:29.53ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述
0343人間七七四年2019/08/28(水) 14:30:41.50ID:9gs3r0Od
勝入(池田恒興)を安藤帯刀(原注:直次。御旗本御鉄砲頭の現在の九郎左衛門の伯父である)が槍を
付け、永井右近(原注:万千代直勝)が後から来たり、勝入の御首を取った。大勢が這い掛けたので、
右近は右手の人差し指を切られたという。

成瀬吉右衛門(原注:今の吉右の父である)が帯刀に尋ねて曰く、「勝入は貴方が槍を付けて永井に首
を取られたと承っていますが、左様なのですか」と。帯刀は曰く「敵の大将を討って首を人にやること
があるか。槍を付けると、後から真っ黒な者が取り掛かると覚えた。これが永井である(原注:永井は
黒母衣である)。勝入の首をすかさず永井が挙げたのだ」と、帯刀は申されたという。

その後、後から武者一騎が脇目もふらずに乗り来たり、あまりに急なのでひらき過ごして後ろから突き
落とした。これが紀伊殿(池田元助)である。その次にまた初めのように乗り来たる者がいて、これも
初めのようにやり過ごして突き落とした。これは秋田加兵衛である。

(原注:岡山にいた秋田という老女の伯父である。老女は延宝7年(1679)に90歳で死去した。
池田主水(由孝)の家来に秋田五郎四郎という加兵衛の筋の者が現在もいる。秋田加兵衛から五郎四郎
までは四代である)

私に曰く、安藤と永井は取り分けて間柄が良かったので、勝入の御首を譲ったという。また曰く、安藤
に神君(徳川家康)が仰せられるには、「井伊万千代(直政。原注:19歳)を何とぞ取り飼い申すよ
うに(何トソトリカヒ申様ニ)」と仰せであった。これによって勝入を槍付けて「万千代!万千代!」
と呼んだのだという。すると、永井万千代が隙間なく駆けて来たという。

安藤帯刀が紀伊殿と加兵衛を討ち申されたことは、加賀爪民部(忠澄)が光政様(池田光政)へ御物語
り申されたという(原注:民部は帯刀の婿である)。

――『烈公間話』
0344人間七七四年2019/08/29(木) 16:48:58.29ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。

御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。

古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。

――『烈公間話』
0345人間七七四年2019/08/30(金) 00:17:27.23ID:+7LwoOAH
ゲーム雑誌ログインで古田は大大名が自分にへりくだるから勘違いしたんじゃないかってあったの思い出した
0346人間七七四年2019/08/30(金) 07:44:23.09ID:o37TWyNP
利休を目の当たりにしてそれはない
0347人間七七四年2019/08/30(金) 10:56:41.87ID:DJNW/LyU
大御所は豊臣を根絶やしにするつもりだったから、下手な周せんは非常に迷惑だったのだ
0348人間七七四年2019/08/30(金) 11:10:23.81ID:E1FdUgeV
山中鹿之助は往古、武辺場数類ない武勇の武士であった。ある日、合戦が済んでその日初陣の若武者二人が
鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた

「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)も色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」

鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。

もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。

この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」

そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った、

鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。

(耳嚢)
0349人間七七四年2019/08/30(金) 11:12:40.31ID:J8zxYW+w
清正にも似たようなのあったな
新兵にはお決まりの症状だったんだろうな
0350人間七七四年2019/08/30(金) 12:15:23.34ID:hFSa9L6j
氏郷最強か
0351人間七七四年2019/08/30(金) 15:12:04.98ID:o37TWyNP
鬼武蔵は後者のほうだろうなあ
0352人間七七四年2019/09/01(日) 15:49:58.23ID:QJScnLQh
伊藤一刀斎が剣術を広めようと諸国修行していた折、淀の夜舟にて大阪へと下った。
この船の船頭は力量優れた者であり、一刀斎が木刀を携えているのを見て、

「御身は剣術を修行されているのか。剣術とは人に勝つ道理であるが、私の力には普く
剣術の達人であっても叶うとは思わない。手合わせ致さないか?」

そう言ってきた。一刀斎は彼の様子を見るに、たいへんに強剛であると見え、いかがしようかと
思ったが、「しかしながら剣術修行に出て、たとえ命が果てたとしても辞退するのは本意ではない」と、
互いに死を約束し陸に上がった。

船頭は櫂を片手に持って、拝み打ちに一刀斎を打ってきた。これを身を開いて外すと、力が余っているため
大地にこの櫂を打ち込み、引き抜こうとした所を一刀斎が木刀を以て櫂を打ち落とし両手を押さえた。
船頭は閉口して一刀斎の弟子となり、随身し諸国を巡った。彼は元来力量優れていたため、国々に於いて
立ち会いがあった時も、一刀斎は手を下さず、殆どはこの船頭が立ち会い、何れも閉口して、その中より
一刀斎の門弟と成ったものも多かったという。

しかしながら、彼は元来下賤の者であり、その上心様も真っ直ぐではなく、一刀斎に敗北したことを
無念に思っていたようで、立ち会いにては叶わないのならばと、夜陰に旅泊において一刀斎が眠るのを待ち
付け狙うこと数度に及んだが、一刀斎の身の用心に隙きがなかったため、空しく供をして江戸表へと
至った。

そのような中、将軍家より一刀斎を召されたが、彼は諸国酒盗の望みこれ有るのよしを以て御断り申し上げた。
このため門弟の内を御尋が有り、そこで一刀斎は小野次郎右衛門を推挙し、かれが将軍家に召し出されることと
決まった。

これにかの船頭は大いに恨み、「我は最初から一刀斎に随身し共に流儀を広めた功がある。にもかかわらず
この度将軍家のお召に、末弟の次郎右衛門を推挙したことは心外である!もやは生きても益なし。
次郎右衛門と真剣の試合を以て生死を定めたい。」

この望みを申すと、一刀斎は答えた
「その方は最初より随身の者であるが、これまで度々私を付け狙ったこと、覚えがあるであろう。
今まで生かして置いていたのも甚だの恩徳である。しかしながら次郎右衛門と生死を争う事、
望みに任せよう。」

そう言って次郎右衛門を呼び委細の訳を申し談じ、勝負いたすべき旨を申し渡し、その上で次郎右衛門に
伝授の太刀を免した。

そして立ち会いの上、次郎右衛門の一刀の元に、かの船頭は露と消えた。

さて、その後次郎右衛門は召し出され、なお又牢内に罪有る剣術者を選ばれ立ち会いを仰せ付けられた。
この時も次郎右衛門は妙術を顕し、よって千石にて召し抱えられた。

(耳嚢)
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